城郭探訪

yamaziro

千草街道を往く 日時:平成24年4月28日(土)

2012年04月30日 | ウォーキング

●わがまち探訪フィールドワーク  千草街道を往く
   日時:平成24年4月28日(土)
   募集定員:70人(山歩きの経験があり体力に自信のある人)
   コース概要:甲津畑町~杉峠~根ノ平峠~三重県菰野町千草
        (全長約15km、高低差約650m )

信長は浅井討伐の準備をするため、美濃・岐阜城へ帰国するルートとして選んだのが、千種越え(現在の永源寺町甲津畑から杉峠を越えて、三重県菰野町にでるルート)であったが、

  元亀元年(1570)越前の朝倉攻めを敢行した織田信長は、4月25日敦賀の手筒山城を落とし、翌26日には金ケ崎城、,疋田城をも落とし、まさに木ノ芽峠を越えて越前に攻め入らんとした時、近江江北・小谷城を本城とする娘婿の浅井長政の離反にあい、若狭から朽木街道を経て京に逃げ戻る。この時信長に従う者は僅か10名ほどだったと云われている。


 信長は浅井討伐の準備をするため、美濃・岐阜城へ帰国するルートとして選んだのが、千種越え(現在の永源寺町甲津畑から杉峠を越えて、三重県菰野町にでるルート)であったが、馬つなぎ松その時に信長が甲津畑で馬を繋いだと云たれる松が甲津畑の速水氏宅にある。

『杉谷善住坊のかくれ岩』の標示があったので谷に下りてみると説明板があった。

遠藤周作氏の『男の一生』では、千草越えで織田信長を狙撃した甲賀の杉谷善住坊を、金ケ崎の戦いの際に遠藤喜右衛門が雇った傭兵であったとする。

 

賤ヶ岳の戦いにおける柴田軍と羽柴軍の布陣

2012年04月27日 | 戦国山城

 賤ヶ岳の戦いにおける柴田軍と羽柴軍の布陣

 天正11年(1583)、越前北庄城の柴田勝家は、3月3日に佐久間盛政を雪の融けやらぬ北国街道を近江に向けて出発させた。翌3月4日には勝家自らが主力を率いて北ノ庄を出陣し、江越国境付近の玄蕃尾城に布陣した。

 「勝家出陣す」との知らせを受けた秀吉も長浜城から、湖北木之元に軍を進め、柴田軍と羽柴軍は余呉湖周辺に陣地を構築して対峙した。


賤ヶ岳の山頂からみた両軍の布陣位置

賤ヶ岳の山頂からみた両軍の布陣位置

 

 

 

 

http://www.oumi-castle.net/second_page/sizugatake/fujin.html

 


高野館(お鍋館・姫屋敷) 近江国(永源寺)

2012年04月24日 | 丘陵城

・・・信長の側室お鍋方(元小倉右京亮の正室)

お城のデータ

別 称:お鍋館・姫屋敷

所在地:東近江市永源寺高野町(旧:神崎郡永源寺町高野) map:http://yahoo.jp/IZ83KAこの地図のURL

区 分:平城(河川段丘)

現 状:田畑地

遺 構:石垣、虎口

築城期:織豊期

築城者:豊臣秀吉 

城 主:お鍋の方・羽柴武蔵守信吉は(信長とお鍋の子・織田信吉)

城 域:約80m×50m

標 高:205m  段丘下より比高差15m

目標地:紅葉橋・高野神社の鳥居

駐車場:路上駐車

訪城日:2012.4.24

お城の概要 

高野館は、高野地区の西端部、愛知川を見下ろす位置に築かれていた。 発掘調査の結果、石垣や虎口などが出土したが現在は埋め戻されている。
高野館、西辺には川原石を用いた野面積みの石垣が約50m程の長さに渡って残されていた。

現在も『姫屋敷』『お鍋館』には、本丸には本丸櫓跡や空堀が残り、穴太積(あのうづみ)の石垣が東西約七十mの長さで比較的良く保存されている。城跡は、全面水田に耕作されていて、前の細い田が堀の名残りといわれている。」とあります。

 「姫屋敷」「お鍋館が位置している、愛知川右岸を下流へ行くと高野神社があり高野の集落で、旧八風街道の紅葉橋近く。

高野館の石垣虎口

  発掘された石垣が50mほど3段から7段程度の規模で残っています。中央にスロープ状の虎口の坂道があり、これも石垣でできています。石は頭ふたつほどの大石で、野面積みです。なかなか見応えのある石列で得した気分になれます。 土地改良工事の土砂が遺跡のそばまで来ていて、建設機械が二台置いて有りました。最終的には埋め戻されるのかもしれません。なお。近くの高野城とは関係の無い館とのことで、主は誰かわからないようですが、信長の側室だったお鍋の方の可能性もあるようです。

<2008年10月>
  発掘調査で現れた石垣は埋め戻されたようで綺麗に整地され、先端の石垣はすのままになってますが、これは城石垣とその後の畑用の土止め石垣が混じってる感じ。

高野館の石垣  

 高野城は、築城年代は定かでないが小倉氏によって築かれた。 小倉氏は、小倉城を居城にしていたが、伊勢に抜ける八風街道を押さえるこの地域に応仁の乱の頃より進出。 山上城を拠点とし、出城の山田城や八尾城を築いた。 戦国時代には高野城も本拠としていた。 

 この高野城は平成14年(2002)に団体営圃場整備に伴う耕地整理の際、滋賀県安土城郭調査研究所が調査をおこない、遺物や石垣の構築手法から織豊期に築かれた高野城の遺構の一画であると判断されたものである。

 石垣は高さ約3m、長さ約60mに及ぶもので、後世の補修箇所がかなり見られますが、60㎝から1m大の大石を使った野面積みです。石垣の前面には幅2mほどの武者走り状の通路が有り、虎口や土塁の一部も残っています。周囲は茶畑になっており、かなり深い所まで開墾されているようで、耕作土や武者走り状の通路に16世紀末から17世紀にかけての信楽焼擂り鉢の破片や輸入陶磁器の破片が散在しています。

遺物や石垣の構築手法から織豊期に築かれたもので、高野館の遺構の一画であると判断しました。

 さて、高野館の沿革ですが、近江の古刹の一つである臨済宗の永源寺が近くに有るにも関わらず、その膨大な数に上る永源寺所蔵の中世文書にすら構築された年代や累代の城主名等を明らかにするような資料は残っていません。

 したがって縄張り等を示す絵図面もなく、「城屋敷」という小字名が残っているに過ぎません。応仁の乱以降に愛知川沿いに展開する土豪の城砦や館のうちの一つですが、近くにある和南城とともに最も愛知川の上流に位置しています。

ここは、伊勢の国に通じる間道が集中しているところで、佐々木氏の部将小倉氏が君が畑越え、八風峠越え、千草越えといった交通の要衝に目付役を置き監視に当たらせた所です。

 高野館は愛知川の河岸段丘上に有り、この八風峠越えを滋賀県側に下った通称八風街道と対峙する位置にあり、愛知川が天然の要害となっている。

歴 史

近江愛知郡志に「高野城阯」の項、「高野城阯は高野村の西に在り今畑となる。

 此城は始め小倉氏によりて築かれ天正以後には羽柴武蔵守信吉が在館の地となれり、元和以後廃城となる城跡の名猶在す。」

 織田信長の側室(信長の亡き後秀吉の側室)であるお鍋の方の子・織田信吉が、天正13年(1583)に羽柴秀吉から神崎郡高野村や犬上郡宇尾村に2000石の所領を賜り、羽柴武蔵守と名乗って高野に館を構えたとされ、これが高野城と考えられている。

城屋敷

高野城から北東に約500mほどの所に城屋敷という字名が残っている。地元の方の話では昭和初期頃は微高地で石垣が積まれていたというが、今では削平され畑地となっている。

城屋敷の字名の残る一帯城屋敷の字名の残る一帯

九里家の伝承・・・高野の殿屋敷・・・「広田与三左衛門重元、累世江州小幡ニ家ス、織田信長公城ヲ安土ニ構フ、時ニ小幡ノ住民ヲシテ城下ニ移サ使ム、後城傾類ニ及ビ信長公ノ八男、武蔵守信吉道ト公、館ヲ同州高野邑ニ建ツ。復タ小幡ノ巨家ヲ移シ館下ニ置ク、乃チ重元其一人。此レ自リ高野ヲ以テ居住ト為ス、慶長四巳亥九月廿四日卒ス、本源院天景宗祐居士ト号ス。・・・九里与三左衛門、故有リテ性ヲ改ム、九里者母方ノ性也・・・と。(滋賀県中世城郭分布調査4)

 
「お鍋館」は、高野城と一帯の小字名を「姫屋敷」、信長の側室であるお鍋の方の屋敷跡という伝承がある。

永禄11年に織田信長の側室お鍋の方が、この地に居館を構えていたとも云われているが、近くには愛智郡高野城主小倉右京亮の正室で後に信長の側室となり、信長亡き後は秀吉の正室高台院・側室淀、秀吉が没してからは京都に隠栖したお鍋の方が居住していた「お鍋屋敷」と称される伝承地が有り、こちらの方が有名になっています。

羽柴秀吉の庇護下に置かれ、化粧領(化粧料とも)として近江国愛知郡182石を与えられた。お鍋の方は天正11~19年に秀吉から高野の近郷で500石の知行を与えられたことによる説だが、確証はあまり無いようだ。墓は京都に、遺品は近江八幡市小田に(お鍋塚)現存しており、高野に居住した

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、近江神崎郡志、淡海の城

                本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!!


探訪 【井戸村屋敷 近江国】 2012.5.27

2012年04月18日 | 館跡

 

 

井戸村屋敷跡(奥屋敷)

箕浦地区には、「新庄箕浦城」「奥屋敷」「井戸村館」という隣接した3つの城館があったとされている。このうち新庄箕浦城が主要部、奥屋敷には箕浦城主今井氏の屋敷、隣接する井戸村館は今井氏の支流井戸村氏の居館であった。
箕浦城主郭部南西の「なごみ公園」から南方が箕浦市場を含め、井戸村館とされるが、なごみ公園の水路北側で厳密には奥屋敷地であろう場所に城址碑と案内板が建っている。
「箕浦なごみ公園」を流れる水路は、集落内を東方の岩長寺まで続くが、その間幾度となく折れ曲がっている。これは横矢掛りや、櫓遺構の痕跡ではないかと思われる。つまり、井戸村館は箕浦城の施設の一画にあったということになる。

南側の堀跡

 

 

 

箕浦八日市市場跡

 

箕浦庄は保元の乱の旗頭・源為義と深い関わりのある土地で、鎌倉時代には新羅三郎義光を祖とする地頭・箕浦氏の拠点であった。

箕浦氏が室町初期、江北守護京極道誉により柏原(箕浦館)に移封された後、京極氏の根本被官(初めから従っていた家臣)筆頭の今井氏が箕浦庄を賜り、城館を築いたと云われる。
今井氏は天野川流域に井戸村氏をはじめ、顔戸・安食・岩脇・若宮・林・寺倉・広田・新庄等の庶流をひろげ、国人領主に成長した

宝福寺

  

 

 

 


宇佐山城址見学会 2012.04.14

2012年04月14日 | 戦国山城

元亀元年(1570年)、織田信長が森可成に命じ比叡山・浅井朝倉軍への押さえとして築城されました。9月朝倉軍に攻められ森可成は戦死しました。元亀二年(1571年)の比叡山焼き討ち後、明智光秀が坂本城を築城し、宇佐山城は廃城になりました。

宇佐山城址見学会 2012.04.14

    石の御足形

    

        2009年に近くの志賀小学校の生徒さんが宇佐八幡宮から道案内プレートを設置されてます。

地図 本丸跡は電波塔の下の保存遺構が物置に。しかし、わずかに「石積みの保存遺構」残されていえ、屋根が着いていて「孕みで石垣」が崩れず残るかも!(爆)・・・

石仏が

 本丸跡にはテレビ塔が建っていますが、主郭と二の郭の間の南斜面及び本郭南東側にしっかりとした石垣遺構が残ります。また、二の郭西斜面や主郭と堀切で隔てた東側の郭にも僅かですが石垣遺構が認められます。城跡は規模の小さい城ですが、歴史に残る城であり、石垣も初期の石垣が見られるので登る価値はあります。

  、主郭と二の郭の間の南斜面及び本郭南東側にしっかりとした石垣遺構が残ります

 

宇佐八幡宮したで、上垣氏確認・質問中!

近江神宮へ・・・・。と戻り。・・・・・・・・・お礼を言って、自宅へ。

急登り坂で、ちょっときつかったが自宅を出るとき雨で。気温が低く重ね着で!

受付時も小雨、近江神宮を出発寺は雨は上がっていたが・・・。着過ぎムスムス・・・。

 

本日の歩数 8460歩 5.9k 消費カロリー270.9kcal

 

宇佐山城跡現地見学会のお知らせ
2011連続講座第6回現地見学チラシ.pdf;
 去る3月17日(土)、連続講座第6回を実施しましたが、
あいにくの悪天候のため、予定していた現地見学会を行うこ
とが出来ませんでした。その時、日をあらためて現地見学を
実施することをお約束しましたが、このたび日程が決まりま
したのでお知らせします。


大津城(雲浜城)  近江国(大津)

2012年04月14日 | 平城
歩道橋の下に城址碑。
国道161号と県道18号の交差点大津港口の信号のそば、京阪浜大津駅すぐ。
 
お城のデータ
所在地:大津市浜大津 map:http://yahoo.jp/mgVp2W
別 名 :雲浜城
築 城期:織豊期 天正14~15年(1586~87)
築城者:浅野長吉
初城主:浅野長吉
区 分:水城
現 状:公園・市街地
遺 構:堀跡・石垣、彦根城天守(移築)
駐車場:有料駐車場
目標値:大津港、浜大津駅
訪城日:2012.4.12
 
お城の概要と歴 史
天正十四年(1586年)に豊臣秀吉の命により浅野長政が築城しました。その後、増田長盛、新庄直頼を経て、文禄四年(1594年)に京極高次が六万石で城主となりました。慶長五年(1600年)の関が原の戦い直前、高次は東軍に属したため、西軍1万5千に攻められ落城しました。
慶長六年(1601年)に膳所城が築城され、大津城は廃城となりました

大津城の遺構は【彦根城の天守は大津城の天守を移築改築】
  浜大津駅から南に300mの商店街の中にある大津祭曳山展示館の裏側の石垣は大津城の石垣と、段差があり堀跡の斜面と。
 
 展示館の裏手にある駐車場に残る石垣。
浜大津は背後に山があります。三井寺に登ると眼下に駅が見えます。
慶長五年(1600年)の大津城攻めの際、背後の山から大砲で攻められ落城。
 
大津城は攻められやすいという理由で新たに膳所城が築城されたが、圓成寺(三井寺)から金堂からの砲撃。
 
 大津城の石垣
 
 
 
 
  1970頃は国道161号線のすぐ近くまで湖岸で、大津城の石垣が波に洗われていたが、今では埋め立てにより、湖岸が後退し大津城=水城の遺構・石垣は消失した。

 大津城は本丸を最北(琵琶湖側)に配置し、三重の堀を巡らせた水城であった、外堀と城下は京橋口、尾花川口、三井寺口、および浜町口の4ヶ所で繋がれていたが、縄張り図などが残っていないため詳細は不明である。

 その規模については、明治35年に書かれた「大津籠城」の中の大津城郭図、昭和4年に発刊された「大津城攻防戦闘要図」、および昭和14年に郷土史家田中氏の作成された「大津城考証図」などから、背後を琵琶湖として東は大津駅周辺、西は琵琶湖疎水、南は京町通りまでが外堀であったと推定されている。

 なお、昭和10年(1935)現大津市立図書館の建設工事の際、南北約50mにわたって石垣が発見されている。
大津城の縄張り大津城考証図(大津城の縄張り)
 天正12年(1584)坂本城は廃城され、坂本城4代目藩主の浅野長吉(長政)が坂本城の遺構を使って大津城を築いた。

 城主は浅野長政,増田右衛門,新庄駿河守と代わり、文禄4年(1595)には京極高次が近江八幡山城から移り、6万石で大津城城主となる。
 なお、当時の大津城天守は四層五階で二階と五階に破風屋根が設けられた豪壮なものであったという。

 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いが起こると、京極高次は妻のおはつが、浅井長政とお市の方の間に生まれた次女あったことから(姉は淀君、妹のおとくは秀忠の妻)、高次の立場はややこしくなる。

 高次は苦しい政治情勢の中で東軍方についた。高次以下3千の兵が籠城する大津城を、関ヶ原の前哨戦として毛利元康を大将とする西軍の毛利軍1万5千が攻撃するが、城方も大軍を相手に抗戦。しかし、大津城の南の長等山から城内に大砲を撃ち込まれたことで開城。
 8日間におよぶ籠城戦は終わったが、京極軍が大津城で西軍を釘付けにしたことで、西軍4万7千が関ヶ原に到着するまでに天下分け目の戦いは東軍の勝利で終わる。

 京極高次は降伏したことを恥じて高野山に入るが、大津城に西軍を引き付けた功績が認められ、家康より若狭・小浜8万5千石を領して翌6年に小浜城を築く。

 関ヶ原の戦い後、大津城は長等山から大砲を撃ち込まれたことを理由に廃城となり、その役割を担うため膳所城が築かれる。膳所城築城後も本丸跡には代官所が置かれ、明治維新まで続く。
 なお、彦根城の天守閣は、昭和32年に彦根城解体修理の時に発見された墨書銘と「井伊家年譜」によって、慶長11年(1606)に大津城天守から移築されたものだということが判明している。
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、ウィキペディア、大津の城、淡海の城

     本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


目加田城    近江国(秦荘)

2012年04月13日 | 平城

安土山があった目賀田城。本貫の地に戻り館を整備したのが目賀田城

目加田城

 お城のデータ

所在地:愛知郡泰荘町(旧秦荘町)目加田 map:http://yahoo.jp/KxWb0b

区 分:平城

現 状:目加田城跡公園

築 城:天正4年(1576年)

築城者:目賀田摂津之守貞政

初城主:目賀田摂津之守貞政遺 構:本丸・土塁・堀・門・堀(集落内)

城 域:100m×100m

目標地:目加田城跡公園・目加田公民館

訪城日:2010.9.20

お城の特徴

 安土山があった目賀田城から織田信長に従い、本貫の地に戻り館を整備したのが目賀田城

城といっても、じっさいは土塁と堀を巡らせた単郭の居館でした。現在、城址は公園として整備されており、分厚い土塁を見ることができます。また、本丸跡にあたる公民館前に石碑が立っています。

 目賀田城は、中世の典型的な方形の城館ですが、琵琶湖に注ぐ岩倉川を用いた水運を意識した城郭である。湖東平野の北東部、八尾山・高取山を源流とした岩倉川に隣接し、河川等の自然地形をうまく利用して築城されています。城館の特徴としては、現在は既に整地されていますが、城館北側の内湾部の存在があります。これは堀を経て岩倉川に通じる舟入(ふないり)と考えられており、河川を利用した水運が想定されております。

 目加田城は県下でも比較的類例の多い単純な方形構造を持つ平地城館です。現在の目加田集落が目加田城をその南西部分に取り込むように成立しており、ほぼ一町四方の城館主郭(しゅかく)内部においても今日、かなり宅地化が進んでいます。しかしながら、当城跡において残存する土塁は比高3mを有し、今回城址公園として整備を図る地区の遺存状態は良好と言えます。
  発掘調査では、目賀田城のの堀、土塁(どるい)、舟入り(ふな いり)が確認され、遺物として、緑釉(りょくゆう)陶器、室町時代後期の土師質土器皿、信楽焼すり鉢、瀬戸美濃焼平碗(ひらわん)などが出土しています。城が機能していたのは、主に戦国期頃であり、15世紀後半~16世紀の土器が出土しています。

 土塁は、幅約11~12m、高さ約2.9mの規模があります。堀は、本来は幅約7m程の規模であったと考えられます。深さは、最深部で約1.7m。廃城となった後、江戸時代中期頃から埋まり始めています。舟入りは堀を兼ねており、南北方向で約47mの規模があります。同様の縄張りは、周辺の城郭にも見ることができ、陸奥(りくおく)に立地しながらも、水運を意識した造りは、近江の特徴を良く表しています。

お城の歴史

目賀田氏は、藤原氏の出で鎌倉時代より御家人格として近江守護佐々木氏に仕えた。目賀田氏には分家も多く、周防岩国の吉川氏も目加田氏の出である。

『佐々木南北諸氏帳』には、

「愛知郡 目加田城主 佐々木旗頭隋一小倉源氏 元弘建文之乱四返筆頭 山岡目加田元龍ヶ鼻合戦野洲川一番備 目加田摂津守秀・同 越後守。佐々木隋兵 目加田文六、目加田伊予入道、目加田伯耆守、目加田女正。佐々木隋兵小倉源氏 岸本佐馬亮」と記す。 

 目加田氏は、戦国時代、観音寺城の支尾根の一つ(安土山)に支城目賀田城を築いて居城していた。(目賀田城があった支尾根は安土山)。 目賀田貞政は、天正4年に織田信長が安土築城の際、目賀田氏本貫の地に戻り、館を整備したのが目賀田城である。貞政の子堅政は織田信長に従った。

目加田城(愛荘町目加田) 戦国期、佐々木六角氏の重臣として活躍した目加田氏が築城したと伝えられる城館。

目加田堅政は、天正十年(1582)の本能寺の変において、目賀田氏は、他の多数の武士とともに明智光秀側についたため、豊臣秀吉の勘気(かんき)に触れに、知行を没収され一族は離散したとされ、城主の目賀田堅政は城の明渡しを命じられました。その後、慶長2年(1597)に目賀田城は廃城となりました。山崎の合戦で光秀が敗死すると堅政は浪人となり目賀田氏は滅亡した。

当地目加田は、メカタ姓発祥の地である。目賀田城が城としての機能を果たしていたのは、数十年の短い期間であった。

  

 

・・・現存している土塁。 ・・・現存している土塁。

 

  

・・・現存している土塁。

参考資料:滋賀県中世城郭分布、近江の城、淡海の城、滋賀県観光情報、愛知郡志、 

 今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。感謝!!


万葉集と紫草

2012年04月11日 | 観光ボランティアガイド

 万葉集と紫草

 西暦603年、聖徳太子が中国の隋にならって冠位十二階を制定した時は、すでに紫草の染色技術は習得し、僅かの数量とはいえ制度を維持できる染色体制は整っていたと推測されます。

 万葉集で紫草を詠んだ歌は17首あり、当時の染色や色彩の手がかりとなっています。それ故、紫草を語る上で万葉集を除外することが出来ないのです。



    茜草さす 紫野の行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る             

                           額田王      巻 1 120
    
    紫草のにほへる妹を 憎くあらば 人妻故に我れ恋ひめやも

                           大海人皇子   巻 1 121

     額田王(ぬかたのおおきみ)

    生没不明、出身不明の謎の多き万葉歌人。
    大海人皇子(おおあまのみこ:のちの天武天皇)の前妻で、 
    現天智天皇(前中大兄皇子で兄にあたる)の妃。
    藤原の鎌足に嫁いだ鏡女王(かがみのおおきみ)の娘とも言われている。                 


                            (左図は   「飛鳥の春の額田王」 安田靫彦画 

弘文天皇<大友皇子>と天武天皇<大海人天皇>

2012年04月11日 | 文化財

弘文天皇陵

■住所:滋賀県大津市御陵町3(大津市役所西側)
■交通:京阪「別所」駅下車






大津市役所の裏側(西側)に弘文天皇陵があります。

弘文天皇とは、天智天皇の息子である大友皇子のこと。
明治時代になって、大友皇子は「弘文天皇」の名を贈られました。

天智天皇の崩御後 672年、大友皇子は、皇位継承をめぐって叔父である大海人皇子と「壬申の乱(じんしんのらん」で争い、敗れます。
大友皇子は、「山前(やまさき)」の地で自害されたといいます。


「壬申の乱」の勝者である大海人皇子は、都を「飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)」に遷し、天武天皇として即位するのでした。



 弘文天皇<大友皇子>と天武天皇<大海人天皇>

系図:弘文天皇<大友皇子>と天武天皇の関係は、甥と叔父。
それぞれの妻も複雑な立場に置かれました。



※大友皇子<弘文天皇>の正妻は、大海人皇子<天武天皇>の娘・十市皇女。
※大海人皇子<天武天皇>の正妻は、天智天皇の娘・讃良皇女(のちの持総天皇)。



*☆*―――――――――――――――――――――――――――*☆*

●柿本人麻呂(かきのもとのひろまろ)の万葉歌碑

大津市役所前にある大きな時計の真下に球体の歌碑があります。
最初、場所がわからなくて、市役所の案内所で教えていただきました。
ありがとうございました。



 “さざなみの 志賀の大わだ よどむとも
  昔の人に 亦(また)も逢はめやも”


かつてあった志賀の都<近江大津宮(大津京)>を懐かしむ歌です。




後藤館  近江国(八日市)

2012年04月10日 | 居館

後藤館跡(滋賀県東近江市中羽田町)は、近江守護・佐々木六角氏の重臣・後藤氏の在地居館跡である。
後藤氏の名は室町時代前期にあらわれ、六角氏の家老の位置にあった。

十六世紀中頃、後藤但馬守賢豊は六角義賢の信望を受けて権勢をふるったが、永禄六年(1563)義賢の子・義弼に謀殺された。
これが観音寺騒動の発端となり、六角氏は家臣団の信望を失い、やがて織田信長に滅ぼされる
『現地案内板』

賢豊の後藤氏と進藤貞治の進藤氏は「六角氏の両藤」と呼ばれる六角氏の宿老であり、賢豊は智勇に優れた武将で、六角義賢に従って浅井攻めなどに活躍した。永禄2年(1559年)、蒲生氏と共に恩賞条奉行を務める。永禄5年(1562年)、義賢の上洛に従い、大徳寺警護を務める。永禄6年(1563年)、義賢の子・六角義治の起こした観音寺騒動により観音寺城内で子の壱岐守(名は不詳)らとともに殺害された。後藤氏の家督は賢豊の次男・後藤高治が継いだ。

後藤 賢豊(ごとう かたとよ)は、戦国時代の武将。六角氏の家臣。

生涯

主君である六角義賢の偏諱を受け、賢豊と名乗った。

賢豊の後藤氏と進藤貞治の進藤氏は「六角氏の両藤」と呼ばれる六角氏の宿老であり、賢豊は智勇に優れた武将で、義賢に従って浅井攻めなどに活躍した。

永禄2年(1559年)、蒲生氏と共に恩賞条奉行を務め、永禄5年(1562年)には義賢の上洛に従い、大徳寺警護を務める。

永禄6年(1563年)、義賢の子・六角義治の起こした観音寺騒動により観音寺城内で子の壱岐守(名は不詳)らとともに殺害された。後藤氏の家督は賢豊の次男・後藤高治が継いだ。

後藤館跡

後藤氏の名は室町時代前期にあらわれ、六角氏の家老の位置にあった。

後藤館跡(滋賀県東近江市中羽田町)は、近江守護・佐々木六角氏の重臣・後藤氏の在地居館跡である。

十六世紀中頃、後藤但馬守賢豊は六角義賢の信望を受けて権勢をふるったが、永禄六年(1563)義賢の子・義弼に謀殺された。
これが観音寺騒動の発端となり、六角氏は家臣団の信望を失い、やがて織田信長に滅ぼされる
(『現地案内板』)。

後藤氏館跡は、周囲に基底幅約11m、高さ約3mの土塁を築き、その外に堀を穿った単郭構造の館跡で、東西幅、東辺の長さ約100m、西辺の長さ約120mの変形四辺形プランを呈し、西辺土塁の中央部に正門が存した(『現地案内板』)。

当時の在地領主の館は、非常時に備えて土塁、板塀などの防御施設が設けられ、敷地内には主屋、納屋、蔵、厩などの建物が存した。当館跡の建物配置は定かでないが、昭和五十六年の発掘調査で井戸跡、厠跡、柵跡などが検出され、その位置から主要な建物は敷地内北部中央付近に存したと推定される(『現地案内板』)。

六角重臣の居館跡ということだが、水田にぽつんと石垣と土塁が残るのみである。しかし、大規模な遺構で、観音寺城と類似する貴重な史跡である。

門址の石垣

北辺の土塁。背景に見える山は観音寺城跡のある繖山

瓶割城址

繖山の観音寺城(佐々木の城)・清水山の清水城(箕作城=守将:建部氏)・箕作山の小脇山城(三井氏の詰め城)・さらに玉緒山の布施山城(布施三河守)、雪野山の雪野山城(後藤氏の詰め城)・野寺城(吉田氏の詰め城)・・・・佐々木六角氏の重臣の山城が!

 

石垣で組まれた虎口石垣で組まれた虎口

田んぼの真ん中に大きな石を使って組まれた石垣と土塁が残る。石積みとしては、観音寺城平井丸の大手城戸によく似た作りである。

 このような平地に残る遺構としては非常に珍しく、高く評価したいところであるが、残念ながら積み直しの跡が生々しい。

土塁土塁

 観音寺城の屋敷跡

  後藤屋敷石垣  

佐生日吉城  

 繖山魂の伊庭山の東端に佐生日吉城は位置している。

 城は基本的には単郭の城です。但し、石垣の城で、主郭の南側に高さ3m程度で30mほどと、及び、主郭には後藤氏の御子孫が建てられた城址碑「後藤但馬守城址」があります。城址碑は南側山麓の日吉神社の横(旧五箇荘町側)にもあり、「佐野山城址」碑に刻まれています。何と言っても、突然現れる石垣は素晴らしい。

南西隅は算木積みもしっかりとした石垣。                                                                     

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佐々木導誉/佐々木高氏

2012年04月08日 | 戦国山城

佐々木道誉 自署では主に「導誉」を使用している。

佐々木道誉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
 
佐々木導誉/佐々木高氏
Sasaki Dōyo.jpg
佐々木導誉像
時代 鎌倉時代 末期 - 南北朝時代
生誕 永仁4年(1296年)
死没 文中2年/応安6年8月25日(1373年9月12日)
改名 高氏、峯方、導誉(道誉)
別名 四郎、佐渡判官
戒名 勝楽寺殿徳翁導誉
墓所 滋賀県犬上郡甲良町勝楽寺
滋賀県米原市徳源院
官位 左衛門尉、検非違使、佐渡守
幕府 鎌倉幕府御相供衆
室町幕府引付頭人、評定衆、政所執事
若狭・近江・出雲・上総・飛騨・摂津守護
主君 北条高時→足利尊氏→義詮→義満
氏族 宇多源氏佐々木氏   庶流京極氏
父母 父:佐々木宗氏、母:佐々木宗綱の娘
養父:佐々木貞宗
兄弟 貞氏、高氏、貞満、秀信、時満、経氏
正室:二階堂時綱の娘、きた、みま
秀綱、秀宗、高秀、娘(赤松則祐室)
娘(斯波氏頼)、娘(六角氏頼室)

佐々木 導誉/京極 導誉(ささき どうよ/きょうごく - )または佐々木 高氏/京極 高氏( - たかうじ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の武将、守護大名。若狭・近江・出雲・上総・飛騨・摂津守護。

導誉は法名で、諱は高氏。一般的に「佐々木佐渡判官入道(佐々木判官)」や「佐々木道誉」の名で知られる。

鎌倉幕府創設の功臣で近江を本拠地とする佐々木氏一族の京極氏に生まれ、執権北条高時に御相供衆として仕える。後醍醐天皇の綸旨を受け鎌倉幕府を倒すべく兵を挙げた足利尊氏に従い、武士の支持を得られなかった後醍醐天皇の建武の新政から尊氏と共に離れ、尊氏の開いた室町幕府において政所執事や6ヶ国の守護を兼ねた。

ばさらと呼ばれる南北朝時代の美意識を持つ婆沙羅大名として知られ、『太平記』には謀を廻らし権威を嘲笑し粋に振舞う導誉の逸話を多く記している。


繖山ミニトレッキング(三角点~観音寺城址~観音正寺~瓢箪山古墳)

2012年04月01日 | 戦国山城

JR安土駅「よくぞ来られた。こちらじゃ」と教えてくれる銅像が駅前で迎えてくれる。
 もっとも、この銅像はどのような用事の人にも「よくぞ来られた。こちらじゃ」という態度を崩さない。

銅像の隣に(織田桜)大和桜が川合寺で、今年も信長の血縁の「織田瑟瑟の桜画展」(2012.4.14~15)に開催される。

 
 

繖山ミニトレッキング

安土城考古博物館駐車場から、登山口へ・・・繖山ミニハイキングの始まり。 繖山(きぬがさやま)は別名観音寺山と言い、貴人にさしかざす衣蓋(きぬがさ)のようにふんわりとした美しい山容から名付けられたという

 

登山口から、まず目指す鉄塔へ(鉄塔の真下)。小休止。三角点を目指して、パノラマルートを進みます桑実寺コースの分岐点やすらぎの郷(全天候型ゲットボール場)完備への分岐点三角点手前のビューポイント。左側に安土城の搦め手口・安土山の向うは小中湖干拓地・遠方は大中湖干拓地・須田干拓地・伊庭湖~大同川~琵琶湖・八幡山山魂(八幡山城跡・北ノ庄城址)・長命寺の津田山の山魂・西の湖・安土城の安土山山魂(右手前が搦め手口)手前の田んぼは、湿地・沼で自然の堀を利用した信長の安土城!恒例の三角点433mで「マイ・ポールとハット」を記念撮影(登頂の証)参加メンバー5名の記念撮影=隊長kenさんは岩に!(休憩中のハイカーにお願いして)ショウジョウバカマの花が咲いてました。観音寺城跡・・・佐々木六角氏の無念の鳴き声・怯え声が・・・!

本丸には、算木積みの石垣は、今なお健在です。

観音正寺の本堂(平成五年に本堂・本尊消失)、インド政府の支援もあり「総白檀千手観音菩薩」の開眼。信徒・山王の岡村氏の十数年の全国行脚で資金調達・再興・・・・。

観音正寺の参道石段シハイスミレも日溜まりで咲いてました。 

瓢箪山古墳古墳から、繖山を・・・・直下から見上げるとデッカイ・高いお山です。

 

安土城考古博物館駐車場へ・・・繖山ミニハイキングは終了。

安土城考古博物館(博物館には入館せず)でお茶(爺っ様達の情報交換会)して、駐車場から安土駅へ。

再開をお願いして、自宅へ

本日の歩行数 14,052歩 歩行距離9.8km 歩行時間2:30