城郭探訪

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小谷城清水谷 発掘調査概報

2018年04月24日 | 発掘調査

小谷城総図 長浜城歴史博物館蔵

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 浅井三代の暮らし跡を初確認 長浜・小谷城

長浜市は18日、国史跡「小谷城跡」(同市)のうち、戦国大名の浅井三代が暮らしたとされる「御屋敷跡」で、初めて遺構が見つかったと発表した。御屋敷跡の存在自体は絵図などから推定されていたものの、実際に人が暮らした痕跡は確認されていなかった。 

 発掘調査で見つかったのは、生活の跡を示す石組みの溝と、敵の侵入を防ぐ土塁。

 溝は長さ二・五メートル、幅二十八センチ、深さ三十センチで、自然石を二段に重ねて並べてある。形状などから、生活排水を流すための水路と推定できるという。

 土塁はもともと、地表にわずかな盛り上がりがあり、存在は推定されていた。今回の発掘調査で埋まっていた部分が新たに分かり、高さ二・五メートルの土塁と特定した。

 周辺からは銅銭や皿、水がめの破片など約百二十点が出土。十六世紀後半の戦国時代の遺物とみられ、当時、人が住んでいたことを裏付けると。

 御屋敷跡は、江戸時代後期に描かれた「小谷城跡絵図」など複数の絵図で以前から位置などが推定される一方、発掘調査は手つかずだった。市は将来の史跡公園化に向けて基礎史料を得るため、二〇一六年七月から調査を続けている。

 市歴史遺産課主幹の牛谷好伸さんは「今回の結果は絵図を裏付ける内容。今後は、見つかった溝の用途を特定し、周辺に建築物があったことを示す礎石がないか調べる」と話す。

 二十一日に一般向けの現地説明会があった。参加希望者は、午前十時半に小谷城戦国歴史資料館前に集合。予約不要で無料。雨天時は、同市湖北町の雲雀山交流会館で開く。

 (問)同課=0749(65)6510(渡辺大地)

 <小谷城> 浅井亮政(すけまさ)、久政、長政の3代が居城とした山城で、小谷山(495メートル)に築かれた。浅井三姉妹の出生地。織田信長によって1573年に落城したが、攻略に3年を要したほど堅固な城として知られる。

 城跡面積は147万平方メートル。本丸などの「城郭跡」(93万平方メートル)と家臣団屋敷などの「清水谷」(54万平方メートル)で構成される。「御屋敷跡」は清水谷のごく一部。(中日新聞社)

その他の写真  https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1042100902619151

[PDF]35. 小谷城清水谷 発掘調査概報

www.shiga-bunkazai.jp/download/dayori/017.pdf

35. 小谷城清水谷 発掘調査概報 滋災保軒先刻哨湖北町議:五に位鐙する小谷山詰茶答 lこ、農業用水の水路が敷設されるよとになり、路線部 分にあたる帽3m、長さ 150mについて、 ßl3病]53~7 月末より8月にかけて絢主主を実施した。http://www.shiga-bunkazai.jp/download/dayori/017.pdf 

参考資料:発掘調査報告書・中日新聞社・長浜市HP・長浜市歴史博物館

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香楽宮跡 東山遺跡 現地説明会

2017年12月23日 | 発掘調査

香楽宮跡 東山遺跡 現地説明会

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  滋賀県甲賀市教育委員会は20日、周囲に多くの紫香楽宮関連遺跡がある同市信楽町黄瀬の東山遺跡で、南北約27メートル、東西約15メートルの範囲で掘っ立て柱を埋め込んだとされる34カ所の柱穴跡の列が見つかったと発表した。近くの宮町遺跡(同町宮町)で見つかった宮殿跡など中枢施設に匹敵する最大規模の建物跡で、紫香楽宮が離宮だった頃の宮殿か大仏造立の関連施設の可能性があるとしている。

 見つかったのは、南北は2・9メートル間隔で10列、東西は4・5メートル~5・9メートル間隔で4列の柱穴跡。柱を据えるために掘った柱掘方が、中央2列は平均で1辺1・2メートルほど、外側2列はそれより小さく、南北に細長い屋根で東西に廂(ひさし)が伸びる構造の建物と想定できるという。床を支える束(つか)柱の跡もあり、全面床張りだったとみている。土器などの遺物の出土がなく、建物の性格は不明。
 紫香楽宮は742~45年に聖武天皇が築いた。東山遺跡は新名神高速道路信楽インターチェンジに近い丘陵地にあり、7~9月の試掘で大型柱穴跡が見...つかり、10月から追加調査を進めていた。北約1・5キロに宮町遺跡、南約300メートルに大仏造立が伝わる甲賀寺跡がある。東側には大規模な鋳造設備遺構がある鍛冶屋敷遺跡、北側に道路遺構などが発見されている。
 栄原永遠男大阪市立大名誉教授(日本古代史)は「紫香楽宮は短期間だったが多くの施設が作られ、周辺にいろいろな遺跡が眠っている可能性が高まった。聖武天皇が片手間でなく懸命に都を作ろうとしていたことが分かる」と話す。【京都新聞】写真の説明はありません。写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:テキスト

画像に含まれている可能性があるもの:空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:屋外画像に含まれている可能性があるもの:屋外画像に含まれている可能性があるもの:屋外画像に含まれている可能性があるもの:空、木、草、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:屋外

近くの鍛治屋敷地区遺跡画像に含まれている可能性があるもの:屋外写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:テキスト画像に含まれている可能性があるもの:テキスト、屋外、食べ物

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関ケ原前後の石垣跡が出土 京都・伏見城、激戦と復興示す

2017年12月17日 | 発掘調査

高熱で赤く変色した石が残る豊臣期のものとみられる石垣画像に含まれている可能性があるもの:屋外

画像に含まれている可能性があるもの:屋外

 豊臣秀吉が造営した伏見城に隣接する武家屋敷跡(京都市伏見区桃山町)の発掘調査で、関ケ原の戦いの前哨戦で焼けた石垣跡と、後に徳川家康が再建したとみられる石垣跡が見つかり、民間調査会社が14日発表した。豊臣期と徳川期の遺構が同時に見つかることは珍しく、研究者は「激戦の様子や、家康による復興過程を示す貴重な発見」としている。

 伏見城は、1596年の慶長伏見地震で宇治川近くにあった秀吉の指月伏見城が倒壊した後、その北東の木幡山に建てられた。1600年、関ケ原の戦いの前哨戦で、籠城する徳川方を石田三成方の西軍が攻撃し落城。関ケ原の戦いに勝利した家康が再建し、西日本支配の拠点とした。城下町も並行して再建された。

 画像に含まれている可能性があるもの:屋外調査地は城の内堀の外側で、徳川期は家康の四男松平忠吉の邸宅があったとされる。西側斜面で石垣跡を確認。石は抜かれていたが、石垣と土の間に詰める裏込め石が見つかった。さらに東に2メートル掘り進むと、別の石垣跡があり、石は赤く変色し、一部は表面が割れていた。周囲にも焼け土があり、落城時の激しい炎にさらされた痕跡とみられる。

 調査した四門京都支店(下京区)の辻広志主任調査員は「最初に見つかった石垣跡は、豊臣期のものを覆い隠すように造られ、徳川期の再建と考えられる。豊臣期と徳川期がはっきり分かる事例は少なく、石の種類や石垣の構造など比較研究につながる」と期待する。

 山田邦和同志社女子大教授(都市史学)は「2メートルも石垣をずらしており、徳川期の再建が、豊臣期の単なる再利用でなかったことを示している。不明な点が多い城下町の変遷を知る上で貴重な遺構だ」と注目する。

 発掘調査は終了しており、現地説明会はない。

京都新聞 2017.12.15

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