城郭探訪

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玄蕃尾城(内中尾山城)  近江国(余呉) 

2018年06月24日 | 陣城

写真の説明はありません。 

お城のデータ

所在地:長浜市余呉町柳ケ瀬小字北尾624
別 名 :内中尾城

築城期:室町期

築城者:豪族 柳ヶ瀬秀行
改城期:織豊期 賤ヶ岳戦い天正11年(1583)
改城者:柴田勝家の家臣である佐久間玄蕃允盛政

現 状:山林(柳ケ瀬山頂)
区 分:陣城
遺 構:土塁、堀、土橋、馬出虎口、八曲郭、竪堀、空堀、櫓台
城 域:
標 高:459m     比 高:220m 

目標地:玄蕃尾城下の駐車場・刀根坂峠

 国道365号(北国街道)線を柳ケ瀬から敦賀方へ走り、トンネルを抜けたところをスグに右折して林道を約2km。

駐車場:刀根地区の林道に7~8台駐車可

訪城日:2018.6.24

お城の概要

築城時期

以下のように諸説ある。朝倉氏の山城を勝家軍が整備、または賤ヶ岳の戦いの時期に初めて築城という、主に2つの見方がある。

15世紀の豪族 柳ヶ瀬秀行が築城。

朝倉氏の家臣の 疋壇対馬守久保が築城。

朝倉氏の家臣の 朝倉玄蕃助景連が築城。

天正6年頃 柴田勝家が北国街道を整備した際に、越前衆を使い築城。

天正10~11年頃 羽柴秀吉との戦いに備え、勝家の家臣である佐久間玄蕃允盛政が築城。

 

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、木、屋外、自然

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、植物、屋外、自然

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 国指定史跡「玄蕃尾城(内中尾山城)」

 柳ケ瀬山(中尾山)の尾根上に位置し、織田軍と朝倉軍が戦った刀根坂の戦いの舞台の刀根越(倉坂、久々坂ともいう)がすぐ南にある、また北國街道(現在の国道365号)を見下ろせる軍事上の要所に位置している。

 玄蕃尾城(げんばおじょう)跡は賤ヶ岳合戦の際に柴田勝家の本陣となった城です。 賤ヶ岳合戦といえば七本槍(しちほんやり)が著名ですが、実は合戦史上最大の築城戦(※)であったことはあまり知られていません。

  織田信長亡き後に羽柴秀吉と柴田勝家は後継者争いをはじめます。

 天正11年(1583)2月には柴田軍の先鋒として前田利家、利長父子が江北に出陣します。柴田軍の布陣に対して羽柴軍も東野山~堂木山間を最前線として布陣します。この両軍の布陣にともない築かれたのが「陣城」と呼ばれる臨時築城の城です。以後4月28日の合戦までの約2ヶ月にわたり両軍はこの陣城に籠って睨みあいます。

  こうした陣城が余呉、木之本に約20ヶ所も構えられました。ところで長浜城歴史博物館や大阪城天守閣に所蔵される「賤ヶ岳合戦図屏風」には秀吉軍の本陣となった田上山砦や、東野山砦、賤ヶ岳砦、大岩山砦などが城郭として描かれており、江戸時代の人々は賤ヶ岳合戦で城が構えられていたことはよく知られていたようです。玄蕃尾城出枡形土塁

 この陣城群中、最も大規模で発達した城郭構造を示すのが玄蕃尾城です(図)。土塁(どるい)を巡らせた方形の主郭(写真上)には天守台に相当する櫓台(ろだい)が北東隅に構えられています。そこには礎石が認められることより実際に櫓(やぐら)が建てられていたことはまちがいありません。この主郭の南、東、北の3方向には虎口(こぐち)と呼ばれる城門が構えられており、特に南と北の虎口の前面には直進を妨げる出桝形(でますがた)と呼ばれる方形の小曲輪(こくるわ)が突出して配置されています(写真下)。また主郭や出桝形の周囲には深くて幅の広い横堀が巡らされています。

 こうした構造は16世紀後半の発達した城郭構造を示す貴重な陣城遺構として平成11年に国史跡に指定されました。次回はこの陣城を築いた賤ヶ岳合戦の経過を紹介しましょう。(滋賀県立大学准教授 中井均)

※築城戦=城を築いて向かい合いながら戦うこと

参考資料:Wikipedia、現地見学会レジュメ、現地説明板・・・

本日の訪問ありがとうございす。


虎御前山城   近江国(高月)

2018年06月19日 | 陣城

 写真の説明はありません。

お城のデータ
所在地:長浜市(旧東浅井郡)湖北町別所~虎姫町中野 map:http://yahoo.jp/jbSb8l
目標地:虎御前山公園
区 分:山城  
現 状:山林
遺 構:郭・土塁・堀・堀切・碑・説明板
築城期:織豊期 

築城者:織田氏

標 高:230m 比高差:150m 
駐車場:中腹キャンプ施設駐車場

訪城日:2018.6.17

画像に含まれている可能性があるもの:木、空、草、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:スケッチ画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、草、屋外、自然

お城の概要 

虎姫町の北端にある標高約230mの山。古くは長尾(ながお)山と呼ばれていました。全山に樹林が茂り、周囲は急傾斜で自然の要砦(ようさい)を形作っています。
 戦国時代、織田信長が小谷城の浅井長政を攻めた折、最前線として虎御前城を築き、柴田勝家の陣が置かれました。信長は、3回にわたって砦を築かせていますが、砦は小谷城落城の後、すぐに壊されています。
 昔、井筒という泉のほとりに住んでいた娘が、旅の途中に知り合った、世々聞(せせらぎ)という名の若者と愛し合うようになり結婚しました。ところが、顔は人間だが体は蛇という子を一度に15人も産んでしまい、嘆き悲しんだ末に、淵に身を投げて死んでしまったといいます。娘の名を虎姫(とらひめ)といい、この山が虎御前山あるいは虎姫山と呼ばれるようになった由来と伝えられています。頂上からは、東に伊吹山、西に琵琶胡が一望できます。

 虎御前山は、長浜市中野町と長浜市湖北町河毛、湖北町別所にまたがる標高約230mの山である。戦国時代、織田信長が浅井氏の居城である小谷城を攻略するため築いた付城(陣城)として知られる。

元亀元年(1570)6月、姉川の合戦で信長軍に破れた浅井長政は、小谷城に籠城する。 信長は、横山城(長浜市石田町・堀部町、米原市朝日)に前線基地を置き、浅井氏攻略を図るが、元亀3年(1572)7月以降は小谷城包囲のため、小谷山の眼前にある虎御前山に砦を構え持久戦に備えた。 虎御前山では大規模な築城工事が行われ、木下秀吉(のちの豊臣秀吉)が城番(定番)に任命されている。
虎御前山は、四方の見通しがきく独立丘陵で、小谷城からわずか500m余りの距離に位置することから、前線基地を築くのに適していた。また、山の尾根上には古墳が点在しており、信長はこれらを巧みに生かしながら砦を構築、山全体に家臣を配置させたと考えられる。 現在の虎御前山には、麓から北へ伝多賀貞能、伝蜂屋頼隆、伝丹羽長秀、伝滝川一益、伝堀秀政、伝織田信長、伝木下秀吉、伝佐久間信盛、伝柴田勝家)の陣地跡が残る。
特に「伝堀秀政」・「伝織田信長」・「伝羽柴秀吉」は土塁や堀などの遺構が良好に残っている。

写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然

 お城の歴史

 信長公記 巻五 元亀三年 3、戦野  奇妙様御具足初に虎後

  7月19日、信長公は嫡男奇妙殿の具足初めにともない、父子そろって江北表へ出兵した。初日は赤坂に宿陣して翌日横山に至り、21日浅井氏居城小谷まで押し寄せてひばり山・虎御前山へ軍勢を上げた。そして佐久間信盛・柴田勝家・木下藤吉郎・丹羽長秀・蜂屋頼隆に命じて町口を破らせ、一支えも許さず敵を城の水場まで追い上げ、数十人を討ち取った。あとには柴田勝家・稲葉一鉄・氏家直通・安藤守就らが先手として陣を敷いた。

 次日には阿閉淡路守の籠る山本山城へ木下藤吉郎が遣わされ、山麓へ放火をはたらいた。すると城内から百余りの足軽が討って出、放火を阻止しようとしてきた。藤吉郎はあわてず、頃合を見計らって敵勢へ一斉に切りかかり、打ち崩して五十余の首を挙げた。これにより藤吉郎は信長公から多大な褒賞を受けた。
翌23日は与呉・木本にも兵を遣わし、地蔵坊(現滋賀県木之本町の浄信寺)をはじめ堂塔伽藍・名所旧跡にいたるまで一切を余さず焼き払った。
 また翌24日には草野の谷(現浅井町草野川渓谷)へ放火した。この草野近くの高山の上には大吉寺という五十余りの坊をもつ大寺があり、ここに近郷の一揆百姓が立てこもっていた。信長公はこれを攻略しようとし、日中にまず険峻な正面口を避けて山麓付近を襲わせた。そして夜になってから木下藤吉郎勢・丹羽長秀勢を後方に迂回させ、背後の山づたいに寺へ攻め上らせた。山頂に上がった織田勢は、一揆・僧俗数多を切り捨てた。

 この間琵琶湖上には打下(現高島町打下)の土豪林与次左衛門・明智光秀・猪飼野甚介・山岡景猶・馬場孫次郎・居初又二郎らが兵船を浮かべ、海津浦・塩津浦・与呉の入海に出没して敵岸を焼き払っていた。また竹生島にも船を寄せ、火矢と大筒・鉄砲をもって攻めたてた。

 これら一連の行動により、一揆というそれまで江北にはあまり例のなかった企てを起こして蜂起していた輩は、風に木の葉の散るごとくに一掃された。そして一揆勢が散り、また猛勢の織田勢が自領の田畑を薙いでゆくのをみすみす見逃してしまった浅井氏の勢力は、次第に手薄なものとなっていった。

 27日からは小谷攻囲のため虎御前山に要害が築かれはじめた。すると焦慮した浅井氏は、越前朝倉氏へ向かい「このたび河内長島の一揆が蜂起して尾濃の通路を閉ざし、信長を大いに難儀させている。この機会に朝倉殿が江北表へ出馬すれば、尾濃の人数を悉く討ち果たすことは容易である」と偽りの情報を送り、出兵を促した。

 朝倉氏ではこの偽情報を信じ、当主朝倉義景みずからが一万五千の兵を引き連れて出馬してきた。そして29日には小谷に参着したが、そこでようやく江北の戦況が聞き及んでいた情報とはまったく異なることに気付いた。一気に消沈した朝倉勢は、大嶽(原文では「大づく」)の高地へのぼって滞陣してしまった。
 このさまを目にした信長公は、足軽を使って朝倉勢を小当てに攻めさせることを命じた。すると陣中の若武者たちはそれを聞いて勇躍し、旗指物を外して山に分け入り、日ごとに二つ三つと首を取ってきた。信長公は彼らに対し、その功名の軽重に応じて十分な褒賞を与えてやったため、彼らはますます発奮して首取りに励んだ。

 そのようにして対陣が続いていたところ、8月8日になって越前勢から前波九郎兵衛吉継父子が内通してきた。信長公はこれを聞いて大いに喜び、父子へ小袖・馬および馬具一式を与えた。翌日にはさらに富田弥六長繁・戸田与次・毛屋猪介らも投降し、各々信長公より褒賞が下された。

 虎御前山の要害はほどなくして無事完成した。城郭は巧妙かつ堅牢に設計され、山上からは四方をはるか遠くまで見渡すことができ、その風光は素晴らしいものであった。ひとびとは、「かように見事な要害は見たことがない」と耳目を驚かせた。
 この要害の座敷から北を望めば浅井・朝倉勢が大嶽の山上にあって苦慮しているさまが見え、西を見ればおだやかな湖面の向こうに比叡の山並みを見渡すことができた。その比叡山はかつては尊い霊場であったが、先年山門の宗徒が逆心を企て、その自業自得により山上山下ともが灰燼に帰した。信長公が積年の憤りを散じ、存分のままに罰を下した場所であった。
 また南には志賀・唐崎・石山寺の社寺が見えた。この石山寺の本尊は遠く唐にまでその霊験を知られた観世音菩薩であり、その昔紫式部もこの寺に参詣して所願をかなえ、その礼として源氏物語の巻を納めたと伝えられる仏である。このほか東には伊吹の高山や荒れ果てて残る不破の関も見え、砦のさえぎるもの一つとてない景観と頑丈なる構えは筆舌に尽くしがたいものであった。

 この虎御前山から後方の横山までは三里の距離があり、やや遠かった。このため途中の八相山と宮部郷(現虎姫町宮部)にも連絡用の砦が築かれた。宮部郷には宮部善祥坊継潤が入り、八相山は城番の人数が守った。また虎御前山から宮部郷までは悪路が続いて通行が不便だったため、信長公は道路の改修を命じて道幅を三間半にまで広げさせ、敵地側の道路脇には五十町の距離にわたり高さ一丈の築地を築かせ、川水を堰入れさせた。

 写真の説明はありません。これほどに雄大な陣地構築は前代未聞であり、この陣地群の前にはもはや前方に展開する朝倉勢もさしたる脅威ではなかった。そのため信長公は横山へ軍勢を納めようと考え、その前に朝倉勢へ使者を向かわせた。使者は堀久太郎秀政であった。堀は朝倉の陣に着くと、「朝倉殿には折角の御出馬である。ついては日時を定め、一戦を致さん」という信長公の言葉を伝えたが、朝倉勢からの返答はなかった。9月16日、信長公は虎御前山の砦に羽柴秀吉(秀吉について、原文ではここから羽柴姓で称される)を残し、嫡男奇妙殿とともに横山へ馬を納めた。

 

 すると霜月3日浅井・朝倉勢が軍勢を繰り出し、虎御前山から宮部に到る道に築かれた築地を破壊しようとしてきた。先鋒は浅井七郎であった。この動きに対し、秀吉はすぐさま応戦の人数を出して一戦に及んだ。戦は梶原勝兵衛・毛屋猪介・富田弥六・中野又兵衛・滝川彦右衛門らの先懸け衆が奮闘して敵を追い崩し、各々功名を挙げた。このうち滝川彦右衛門は元々信長公の近習をつとめていた者であったが、今回の江北出兵で背に大指物を差して出陣しながら大した武功も挙げられず、信長公の勘気をこうむって虎御前山に居残っていた。そのためこの戦では発奮して目のさめるような働きをし、その功によりふたたび御前に召し出された。滝川は大いに面目を施した。

画像に含まれている可能性があるもの:空、木、屋外、自然 画像に含まれている可能性があるもの:木虎御前山から宮部郷までは悪路が続いて通行が不便だったため、信長公は道路の改修を命じて道幅を三間半にまで広げさせ、敵地側の道路脇には五十町の距離にわたり高さ一丈の築地を築かせ、川水を堰入れさせた。

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参考資料:信長公記、城歩会レジュメ、

 本日の訪問ありがとうございす。


東野山砦と堀秀政の生涯『講座と現地見学』 近江国(余呉)

2018年05月25日 | 陣城

画像に含まれている可能性があるもの:1人画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、座ってる(複数の人)、室内写真の説明はありません。写真の説明はありません。写真の説明はありません。写真の説明はありません。

信長の側近

天文22年(1553)、堀秀重の長男として美濃国で生まれる。幼い頃は一向宗の僧となっていた伯父・堀掃部太夫の元で従兄の奥田直政(後の堀直政)と共に育てられたという。

最初、大津長昌、次いで木下秀吉に仕え、永禄8年(1565年)に13歳の若さで織田信長の小姓・側近として取り立てられた(顔が美形だったためとも言われる)。16歳で、室町幕府15代将軍足利義昭の仮住まいの本圀寺普請奉行を担うなど、各種の奉行職を務め、側近としての地位を確立する。信長の側近には秀政のほかに、菅屋長頼福富秀勝・大津長昌・矢部家定長谷川秀一万見重元らがいる。

秀政は次第に奉行職だけでなく戦場でも活躍するようになる。織田軍の主要な合戦である天正3年(1575年)の越前一向一揆討伐に参加。天正5年(1577年)の紀伊雑賀討伐戦では信長本陣から離れ、佐久間信盛・羽柴秀吉らとともに一隊を率いる。翌年の有岡城の戦いでは、万見・菅屋らと鉄砲隊を率いる。天正7年(1579年)の安土宗論のとき菅屋・長谷川らと奉行を務める。翌・天正8年(1580年)、バテレン屋敷の造営奉行を菅屋・長谷川らと務める。同年、信長の蜂須賀正勝宛の書状に副状を出す、などがある。

また、叔父である蓮照寺住職に育てられた関係で、本願寺との交渉にあたり、石山本願寺との和睦と紀州鷺森への退城を促し、交渉に奮闘していたことも想像される。後に秀政は、本願寺顕如から釋道哲の法名をいただいている。(蓮照寺文書)

天正9年(1581年)の第二次天正伊賀の乱において信楽口からの部隊を率い、比自山城の戦いなどを戦い抜いている。この功績ならびに荒木村重討伐、越前一向宗制圧の功績により、この年、織田信長から長浜城主2万5,000石を与えられた。

天正10年(1582年)の甲州征伐では信長に従って甲信に入るが、既に織田信忠武田氏を滅ぼした後だったため戦闘には参加しなかった。本能寺の変の直前には、明智光秀徳川家康の接待役を外されたあと、丹羽長秀と共にこれを務めており、この接待を終えた後、備中の秀吉の下へ向かっている。

織田信長の弔い合戦でもあった山崎の合戦で、明智軍と戦い勝利を得た。それによって秀吉から羽柴姓を与えられた。天正11年の戦いでも武功をあげ、近江佐和山城を拝領し、9万国の城主となる。天正13年(1585年)には、越前北ノ庄城の城主となり、18万石の大名へとのしあがった。それほど秀吉の信任を得ていたことがうかがえる。

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東野山砦見学会

 お城のデータ

所在地:伊香郡余呉町東野  map:http://yahoo.jp/2sIxM6

別 名:実山砦,左禰山砦

築城者:東野備前守一族 

改築者:堀久太郎秀政

初城主:東野備前守一族

陣 将:堀久太郎秀政

区 分:陣城・砦

遺 構 :土塁,横堀,虎口,竪堀

城  域:250m×150m

標 高:407m    比高差260m

市指定史跡

訪城日:2018.5.24

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お城の概要

 

東野山砦は天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いに際して、羽柴秀吉軍の堀秀政が布陣した砦である。

 

 この東野山砦は羽柴秀吉軍の最前線に位置し、谷を挟んで北には今市上砦、北国街道を挟んで西側には佐久間盛政の行市山砦と対峙する。

 

 天正11年(1583)4月20日、行市山砦の佐久間盛政は中川清秀の大岩山砦を急襲し、“中入り”を成功させた。翌21日早朝、大垣からとって返した羽柴秀吉が大岩山砦を攻撃した時、玄蕃尾城から出陣して北国街道を南下してきた柴田勝家を北国街道の狐塚に釘付けにしたのが、この東野山砦に布陣した堀秀政軍である。

 東野山砦へは余呉小学校の南側から林道・東野中之郷線を車で約10分ほど登ると砦横に着く。訪れた時は砦一帯の下草が刈られており、下草の多い時期にも関わらず、状態良く残された遺構を見ることができた。地元の方々に感謝!

 東野山砦の縄張りは複雑で、賤ヶ岳の戦いで築城された陣城の中にあっては玄蕃尾城とこの東野山砦は双璧である。虎口は東西南北の四方に設けられており、いずれの虎口も折れを入れか、横矢掛けが考慮されており、土塁を石垣に替えれば、まさに近世城郭の縄張りである。

 中央部に主曲輪を置き、主曲輪の東西と南側に曲輪を配置し、北側は斜面を利用する形で築城されている。主曲輪を除いた3つの曲輪に虎口が設けられているが、主曲輪の東(背後)の曲輪には南北2つの虎口がある。つまり南側の秀吉陣側と北側の勝家陣側に虎口を設けており、この曲輪が守備と迎撃の中心的な役割を担っていたことが想定される。
 また、主曲輪の北側には物見台と考えられる高台があり、ここからは佐久間盛政や前田利家が陣取った行市山、別所山を真正面に望むことができる。

 滋賀県中世城郭分布調査資料によると、更に北側には尾根を断ち切る形で堀切・土橋が設けられていたようだが、現在では林道建設に伴い破壊されてしまっている。

 

 南側には竪堀が麓まで続いているのだが・・・・。

 余呉町には賤ヶ岳の戦いに伴い、20を越える陣城が作られているが、ここ東野山砦や玄蕃尾城は、天正年間における築城技術(縄張り)の粋が凝らされており、織豊系城郭の築城技術の発達を観る上で非常に貴重な遺構である。

 

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参考資料:Wikipedia、講演会資料、現地説明板

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総山城 近江国(長浜 垣籠/米原山東 村井田)

2018年05月15日 | 陣城

画像に含まれている可能性があるもの:屋外

お城のデータ

所在地:長浜市垣籠/米原市山東町村居田   map:https://yahoo.jp/iSGREu

現 状:山林・山頂(古道)

区 分:山城砦

築城期:織豊期

築城者:織田軍(氏家直元か)

遺 構:土塁・堀切・堀割・曲輪

標 高:229m 比高差:100m

城 域:100m✖250m

目標地:長浜垣籠 天満神社

駐車場:天満神社鳥居横駐車場

訪城日:2018.5.11

お城の概要

 長浜市垣篭町と山東町村井田の境界の臥竜の尾根に、横山城から見れば尾根伝いに北の地点、龍ヶ崎砦の中間に、横山連峰の北の端も最高所。

 総山城は標高229mに郭があり、尾根伝いに北に115mの間に6箇所の郭を段城に配し、南に130mの間にも1条の堀切と5箇所の郭を設けており、姉川の古戦場を見渡せる。

最南端は峠道が掘割(高約10m×幅約10m)。これは尾根道を遮断する為に、本来の峠道を”姉川の合戦”の時にさらに掘り下げたか?

 最高頂は曲輪跡、南端の掘割の北側ピークは「犬飼古墳」であり、本来の古墳地形に防禦を加えたか?。垣篭町一帯には多くの古墳が散在する。

お城の歴史

 姉川の合戦における浅井家の被害は甚大で、長政が信頼していたと言われている重臣遠藤直経や長政の実弟浅井政之をはじめ、浅井正澄、弓削家澄、今井氏直ら浅井家で中心的役割を果たしていた武将が戦死した。

朝倉氏では真柄直隆、真柄直澄、真柄隆基らが討死した。両軍は戦場からの撤退戦で多くの戦死者を出した。一方、初期戦闘で苦戦した織田方では坂井政尚の嫡子である尚経らが戦死している。横山城は降伏、信長は木下秀吉を城主にした。

 城郭資料は不明で、姉川戦いで織田軍の陣城として急造されたか?。規模と築城技術から推測される。画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外犬飼坂を登る。

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然堀切として、掘下げられた峠道

画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外、自然長陵への参道

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然山城へのハイキング道を北へ

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然南端の犬飼古墳の石碑

画像に含まれている可能性があるもの:植物、草、屋外、自然古代文字刻印石碑

他の写真

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 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査・現地古墳説明板・ウィキペディア

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宇佐山城 近江国(大津)

2018年03月12日 | 陣城

画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:スケッチ

お城のデータ

所在地:大津市錦織町(宇佐山)~南滋賀町~神宮町 map:https://yahoo.jp/fOwgre
区 分:陣城(山城)

現 状:山林・TV中継局

築城期:織豊期

築城者:森可成・明智光秀

遺 構:曲郭・石垣・塹壕堀・堀切・竪堀・土塁

標 高:333m  比高差:200m 

目標地:近江神宮・宇佐八幡宮

駐車場:近江神宮参拝者駐車場
訪問日:2018.2.24

お城の概要

 宇佐八幡宮の東尾根を宇佐八幡宮から道案内と登城道(城道)を登る。途中の二ノ丸の竪堀から右手方向へに登ります。出郭のような小さな平削地があります。道が尾根下の平坦道になると左上を見上げると本丸(主郭)櫓台の石垣が見えます。本丸跡にはTV中継塔が建っていますが、本丸(主郭)はこの南斜面の規模の大きな石垣が残り、そこから東斜面にかけて石垣が残存している。

二ノ丸斜面、南斜面にも石垣が残存し、二ノ丸の南斜面下の帯郭をさらに下りた規模の大きな石垣が残存しています。

本丸(主郭)と堀切で隔てた三ノ丸の東郭の南斜面にも僅かですが石垣遺構が残存します。また、二の郭の西側段郭に下り、さらに西尾根を進むと竪堀、堀切が残ります。城は小さい城ですが、歴史に残る城であり、石垣も初期の石垣が見られる。それから、本丸(主郭)にあるNHKの中継局の建物の西側が少し浮かせて建てられています。その下を覗くと石列の水路跡や大石が残存します。主郭の北側と東側に塹壕堀が残り、二ノ丸の西側から登り土塁、主郭は高石垣・桝形虎口・塹壕堀で守備は堅固な陣城です。

また、三ノ丸の北の山頂に出丸・端城が残存し砦(未訪)、map:https://yahoo.jp/RbnR5q3

中山超えの街道とは谷川が深く切込み地形です。画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、屋外、自然写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、サイクリング(複数の人)、木、屋外、自然

お城の歴史

この城の文献上の初見は永禄13年(元亀元年、1570)3月20日の多門院日記で、

内々三井寺、大津、松本可有見物之通ナルニ、今度今道北、ワラ坂南、此二道ヲトメテ、信長ノ内、森ノ山左衛門城用害、此フモト二新路ヲコシラヘ、是ヘ上下ヲトヲス、余ノ道ハ堅トヾムル故、三井寺へ通ル物ハ道ニテ剥取ト申間、乍思不参見、渡了、残多者也、新路ノ大ナル坂ヲ超ヘテ、山中ト云所ヲ通リ、白川ヘ出、東山ノ辺ヲ通ル」 —多聞院日記ー

とあり、この時多聞院英俊は、三井寺などを見学しようとしていたが、京から大津に通じる二本の道が閉鎖されていた。森可成が新城を築き、その麓に進路を通しこの道に通行させようとした。しかし、まだこの道は工事中だったのか可成の家来によって阻止され、三井寺の参拝を中止し白川方面に出たとしている。この時代、築城の様子が記録されている史料は少ないが、多聞院日記はその時の重要な様子を示している。(Wikipedia)

元亀元年(1570)6月28日の姉川の合戦では、浅井久政・長政父子、朝倉義景(義景は出陣していません)を滅ぼすことはできませんでした。双方かなりの兵力が失われたと思われるのですが、なんと信長は足利義昭の要請で8月20日に南方表即ち大坂の野田・福島に出陣します。

三好三人衆が反逆し、裏で石山本願寺も動いているということです。この時、信長は浅井・朝倉連合軍の動きを監視するため横山城には木下藤吉郎を城番で据え置き、小谷城と北国脇往還の監視にあて、佐和山城には丹羽長秀を始め市橋利尚・水野信之・河尻秀隆が張り付いて磯野員昌の動きを牽制し東山道の確保をさせています。近江の西の入り口にあたる逢坂関近くには、すでに越前朝倉攻めで失敗し退却後に森可成を置いた宇佐山拵(こしらえ)があり、元亀元年5月9日以来、森可成が守備しています。この頃徳川家康は三河に戻り野田・福島合戦には出陣していません。織田軍の半分が野田・福島に遠征し、徳川軍もいないこのチャンスを浅井・朝倉連合軍が逃すはずがありません。琵琶湖の西岸を北から南下し都を奪取する作戦に出ます。同時に一向宗門徒に決起を促し、各地で一向一揆を起こさせています。

 信長が最も窮地に立たされた元亀争乱の始まりです。宇佐山城攻めにかかるにあたり、浅井・朝倉連合軍は現在の堅田から雄琴温泉(千野・苗鹿)のあたりに陣を敷きます。対する森可成は、信長の弟である尾張野夫(のぶ)城主織田信治と草津部田(へた)城主青地茂綱に援軍を請います。森可成等は、宇佐山城から撃って出て交通の要衝である坂本を占領し街道封鎖をして連合軍の進軍を阻もうとしました。

9月16日の小競り合いの後、20日に森可成等は浅井・朝倉連合軍に加担した延暦寺の僧兵や浅井対馬・玄蕃の軍に側面攻撃を受け、朝倉中務・山崎吉家・阿波賀三郎隊・浅井長政本隊に挟まれ奮戦むなしく3人とも討ち死にしてしまいます。

 宇佐山城を連合軍は続いて攻撃しますが、可成の家臣、武藤五郎右衛門・肥田彦左衛門の抵抗に遭い落城させることはできませんでした。

宇佐山城危うしの知らせを聞いた信長は急遽、野田・福島から引き返し、浅井・朝倉連合軍は宇佐山城奪取をあきらめ、はちが峯・壺坂山・青山といった延暦寺領の峯に陣を敷きます。信長は延暦寺に対し、近江の寺領を安堵するから信長側に味方するよう、反抗するのなら根本中堂・山王廿一社焼き払うと朱印状をもって稲葉良通を使わしますが、延暦寺は無視しました。

 山岳寺院延暦寺はまさに山城と同じで、不用意に攻撃できず、信長は比叡山包囲戦に入り、坂本の香取屋敷・穴太・田中・唐崎・宇佐山・叡山西古城の将軍山・八瀬・大原口に陣を置きます。包囲戦は11月28日天皇の講和勧告の綸旨を持った足利義昭の仲介を受け、12月10日の交渉成立、13日の両軍退却に致るまで膠着状態が続くという信長が最も苦戦した戦となりました。講座では、明治26年の地図を見ながら主な陣地・間道を確認し、信長苦戦の原因を探ってみようと思います。(仲川=滋賀県文化財保護課)画像に含まれている可能性があるもの:スケッチ画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1014430168719558

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1014431605386081

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1014438038718771

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1014439328718642

写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、屋外、自然二ノ丸から本丸への「登り土塁」

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然本丸の東側の塹壕堀

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、木、屋外、自然丸の虎口南側土塁

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、靴、子供、屋外、自然三ノ丸北西部の腰廓へ

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然三ノ丸の東側石垣

『宇佐山城出城/宇佐山城端城』へ。この日は、体調不良で断念しました😢!

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、城歩会資料(作図:長谷川博美氏)、Wikipedia、滋賀県文化財保護課

本日の訪問ありがとうございす!!


碓氷峠に「お城」跡 豊臣側の小田原合戦拠点か

2017年06月16日 | 陣城

碓氷峠に「お城」跡 豊臣側の小田原合戦拠点か

京都新聞 更新日時:2017年6月16日(土) AM 06:00
 群馬県側に侵攻することを想定した構造などから、合戦で中山道から関東に侵攻した豊臣側の前田利家、上杉景勝、真田昌幸の北国勢が、約10キロ南東の同市の松井田城を攻めた際、食料の供給や野営に使った可能性が高いとみられる。

 城跡は長野県軽井沢町教委の職員が2015年に見つけ、中世の城館を専門とする飯森さんが調査を進めて、未発見の城跡と確認した。

 小田原合戦は、北条氏が真田氏ゆかりの名胡桃(なぐるみ)城(みなかみ町)を攻めたことを契機に始まった。県内では松井田城が最初の戦場となり、同城が1カ月の攻防の末に落ちると、北条氏の手にあった箕輪、厩橋(まやはし)、沼田などの城も次々に陥落した。

 飯森さんは「小田原合戦で使われた陣城の発見は県内で初めてだろう。当時は北条氏にも力があり、豊臣側が松井田城攻めの準備を慎重にしていた様子がうかがえる」と分析。調査に同行した東京都江戸東京博物館学芸員の斎藤慎一さん(55)は「戦乱の時代に大名がどのようにして守り、攻めようとしたのかを具体的に物語る重要な遺跡だ」と指摘している。
「1590年の豊臣秀が北条氏を責め立て「小田原合戦」で真田昌幸、前田利家、上杉景勝らが築いた可能性が高いという」
飯森さんよると当時、北条氏の家臣が群馬県安中市松井田城に籠城。豊臣側の真田昌幸ら北國勢が1カ月以上かけて攻略したされる。城址は現在登山道となっている旧中山道添いで、松井田城まで直線で10km余り。中山道を進んだ北国勢が、食料の補給や野営に使ったとみられる。
城址は東西200m、南北100mで、土塁や堀切がり城内への入り口を狭くして敵の侵入を防ぐ「桝形虎口」など、当時としては高度な技術が用いられている。
 碓氷峠周辺の地域振興に取り組む碓氷関所保存会の佐藤健一会長(81)は「本当であれば極めて貴重な発見。地元としては観光や整備に期待したい」と話した。
安中市の碓氷峠で見つかった城跡の一部とみられる土塁
 
 

 


長等山陣城 近江国(大津)

2017年03月24日 | 陣城

お城のデータ

別 称:長等山陣城

所在地:滋賀県大津市小関町・神出開町 map:http://yahoo.jp/uAezDV

立 地:長等山 山腹。

現 況:山林

築城期:織豊期後期(1600年)

築城者:西軍(豊臣方 立花宗茂と毛利軍) 

遺 構:平削地

標 高:230m 比高差100m(大津城から140m)

目標地:長等不動明

駐車場:長等不動明前

訪城日:2017.3.23

お城の概要

長等山陣城。 今は、長等公園に、整備されています!
此処から、大砲で砲撃されたか!

お城の歴史

関ヶ原の戦い前哨戦...
参考資料:近江の城郭探訪より

【大津城の戦い】

大津籠城は慶長五年(1600)9月4日から始まり、家臣の妻子をよんで兵糧米の確保や、塩や味噌、醤油も城内の蔵に入れ、防御を堅固にするため城のまわりを14時間もかけて焼き払いました。

この籠城に対して、西軍の立花宗茂と毛利軍の率いる一万五千の大軍は大津城を包囲し、大津城が非常に見やすい、城の南西にある長等山(ながらさん)の山腹に陣をはりました。西軍の総攻撃は9月6日からはじまり、城外の前線陣地は全滅となりましたが、城内の守りは堅く、一進一退の攻防が続きました。そ こで西軍は、

長等山に大砲を据えて、城内に向かって砲撃を開始いたしました。

この攻撃ぶりを京の町衆も手弁当をもって見物にきていたといわれています。
城内はこの攻撃にも開門の様子なく、6日目を迎えましたが、西軍 の外堀を埋める戦略により、より激しい攻撃が行われ、9月14日、秀吉と親しかった 高野山の僧、木喰応其(もくじきおうご)と新庄直忠が本 丸に入り、和睦開城した。

大津城坂本方面
長等山陣城

長等山陣城・・・兜山大明神のは尾後に平削地

 
 
兜大明神の南平削地

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査9、さきろぐ、近江の城郭探訪

本日の訪問ありがとうございす!!


中野城   近江国(虎姫)

2016年09月15日 | 陣城

お城のデータ 

所在地:長浜市(旧東浅井郡虎姫町)中野 map: http://yahoo.jp/Z1u6Cu
区 分:陣城
現 状:平地+山地・山林・山麓
築城期
築城者:
遺 構:
目標地:時游館
駐車場:時游館
訪城日:2016.1.10・2016.3.20,

お城の概要

比定地は、虎御前山魂の南山麓に、中野集落に位置する。

お城の歴史

詳細不明だが、『江北記』に「長享元年四月三日に大成濃州より入国候。陣所は中野・・・中野より人数と於国友河原被及御合戦数多被討補候。即刻中野へ御馬を被向」と記す。 

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』1、遺跡ウォーカー、『江北記』
本日の訪問ありがとうございす!!
 

中ノ谷(馬かけ場)の遺構   近江国(マキノ)

2016年05月30日 | 陣城

中ノ谷(馬かけ場)遺構の縄張図=『近江の山城 ベスト50を歩く』(2015.1.18のレジュメより)

田屋城縄張り図=『近江の山城 ベスト50を歩く』・・・中ノ谷城(馬かけの縄張図)(2015.1.18のレジュメより)

お城のデータ

所在地:高島市(旧:高島郡)マキノ町辻  map:http://yahoo.jp/7lm22w

現 状:山林(山頂)

区 分:陣城砦

築城期:織豊期

修築者:丹羽長秀

遺 構:山麓屋形・曲郭・土塁・堀切・虎口 

標 高:240m  下城口~比高差:100m

目標地:極楽寺・大虎神社

駐車場:極楽寺・大虎神社付近に駐車

訪城日:2016.5.28

 滋賀県中世城郭分布調査8(高島の城)より

お城の概要

 浅井亮政の娘婿田屋氏の「馬かけ場」と伝えられる遺構は、森西集落より北西の山尾根上にあるが、田屋城より集落に近い場所に位置し、『滋賀県中世城郭分布調査1(1983.3)の地図番号50マキノ町』には、位置も森西集落の隣の辻集落の山中の「馬かけ場」で、名称も田屋城を田尾城と誤記。

 「馬かけ場」の北端にあたるが、そこから北側が急斜面で、馬かけ場と呼称する尾根そのものが独立丘・独立山地である。周壕で形成された変形の円状の小台地が二ヶ所、ほぼ方形の小台地が一ヶ所との周辺に平削が認められる。・・・既存の古墳を利用した城郭砦と考えられる。

「馬かけ場と伝えられる平坦地」の部分は、呼称のように山上での平凡な平坦地である。・・・が、堀切・そして土塁には見事な横矢折れも見られ、虎口・長方形を意図した土塁囲みの郭での東側面の出来ばえ等からは、既に築城に際して石垣・石積みを体験していたか?・・・偲ばせるものがある。

お城の歴史

天正11年賤ヶ岳の合戦時の陣城砦の構築を想起させ、又彷彿させられる。賤ヶ岳の合戦時に羽柴秀吉方の丹羽長秀が田屋城を修復して入城の口伝が残るが、それが此処か・・・を思わせる。

しかし、その構築の意図も周壕を持つ円形台地(古墳)に、大いに制約された。或いは大いに利用したか・・・?

田屋氏の馬かけ場は、田屋城の別廓でなく、「馬かけ場を利用した城郭砦]であろう。


田屋城 近江国(マキノ)より続き・・・

 

「馬かけ場」へ林道を東へ下り・・・堀底道を馬かけ城へ       林道から「馬かけ場遺構」へ 

すぐ堀切(不明瞭だが) 

東側土塁  

                                              

辻集落へ下城したが、

下山・・・山麓屋形遺構か?

      

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1・8(高島の城)、『近江の山城ベスト50を歩く』、

 本日の訪問ありがとうございす!!


長久寺陣所    近江国(彦根)

2016年03月29日 | 陣城

千鳥ヶ丘公園に立つ駒札

お城のデータ

所在地:彦根市後三条町  map:http://yahoo.jp/4a7KTb

現 状:寺院

区 分:陣所

築城期:織豊期

陣 主:徳川家康

遺 構:

目標地:長久寺

駐車場:長久寺の駐車場

訪城日:2016.2.28

お城の概要

長久寺は、彦根市後三条町の北東部、壷笠山(平田山)の舌状先端部の山麓にある。

長久寺の南の平田山の舌状先端部には、古墳跡がありその上に【見晴らし台】ある。佐和山城を北に望む好位置にある。

 

 本堂は井伊家家老の庵原主税助朝真の寄進により再建されました。その意匠は桃山時代の気風をもち、小規模ながら均整のとれた建物です。真言宗の寺院で、寺宝に、井伊家より拝領のお菊の皿があります。

 

長久寺概要: 長久寺の創建は長久2年(1041)、勅願により善応(高野山の学僧)が開いたのが始まりと伝えられています。後三条天皇の帰依や真言密教の道場として寺運が隆盛し最盛期には現在の彦根市の半分の寺領を領し湖東三山(百済寺・金剛寺・西明寺)や比叡山延暦寺とも同等の勢力を持っていたそうです。永平7年(1510)の六角・京極氏、元亀2年(1571)の織田信長の兵火により多くの堂宇が焼失し衰退します。江戸時代に入りると彦根藩主から庇護され再興、寛永6年(1629)には彦根藩家老庵原主税助朝真により本堂(観音堂:入母屋、銅板葺、元茅葺、桁行3間、梁間3間、向拝1間、滋賀県指定文化財)が造営されています。

又、寺宝として「番町皿屋敷」のお菊が所有していたと伝わる6枚の皿とお菊慰霊供養寄進帳を所蔵しています。

お城の歴史 佐和山城攻めの時の家康本陣

 

 関ヶ原で三成ら西軍を粉砕した家康は、その足で佐和山へと軍を進た。三成は戻っておらず、三成の父や兄が二千八百の兵が籠ったていた

 徳川家康は軍を三つに分け佐和山へと進撃を命じた。一番隊は小早川・田中・福島・藤堂・池田・脇坂・小川・朽木ら(これは前日に進発)、二番は細川・黒田、三番は堀尾・浅野、四番は井伊・石川らといった順で進発した面々が三方に別れて進撃する。翌十七日に佐和山北東麓の鳥居本に到着して攻撃部署を定め、篝尾(かがりお)へは小早川・脇坂・朽木・小川と美濃勢など、水之手口へは田中・宮部(長熙)らと決まった。

 家康は近くの平田山(長久寺)に本陣を置いて軍を指揮、さっそく各隊は佐和山城へと向かい、正午頃には城を包囲する。真っ先に攻め寄せたのは小早川隊の先鋒・平岡頼勝。

平田山

千鳥ヶ丘公園に立つ駒札

 

長久寺から見晴らし台へ 

見晴らし台金亀山(彦根城) 

佐和山城里根城

本陣の置かれた【長久寺】


「番町皿屋敷」のお菊が所有していたと伝わる6枚の皿

参考資料:関ケ原の戦い

本日の訪問ありがとうございす!!


八幡ノ岡 陣城 近江国(湖北)

2016年02月24日 | 陣城


滋賀県城郭分布調査より『東浅井郡志』(丁野山古砦図)

お城のデータ

住所地:長浜市(旧・東浅井郡湖北町)小谷丁野町 map:http://yahoo.jp/Vvei_V

区 分:丘陵城

現 状:墓地

築城期:織豊期

築城者:朝倉太郎左衛門

標 高:130m 比高:20m 

遺 構:

駐車場:駐車場(日本硝子独身寮の)に!

訪城日:2016.2.20

お城の概要

丁野山城の北東の丘陵(岡)に築かれた陣城で、浅井の加勢に来た朝倉軍の副将:朝倉太郎左衛門が陣取ったが、今は墓地に改変された。

丁野山城の虎口手前から、

お城の歴史

丁野山城  近江国(高月)

天正元年(1573年)の織田信長の小谷城攻略時に、ここには丁野山城に浅井氏を加勢に来た越前朝倉氏が立て籠もり朝倉太郎左衛門は、副将として「八幡の岡」に陣城に入りました。織田勢に攻められ落城しました。

 駐車場超しの遠景

----信長公記 巻六 元亀四年 12、追撃  大筒・丁野攻破らるるの事------

 信長公に通じた浅見対馬は、8月12日みずからが守る大嶽下の焼尾へ信長公の人数を引き入れた。その夜はことのほか風雨が激しかったが、信長公は虎御前山の本陣に嫡男信忠殿を残し、みずから馬廻を率いて大雨の中をずぶ濡れになりながら大嶽へ攻め上がった。大嶽には斎藤・小林・西方院らの越前衆五百ばかりが番手として籠っていたが、信長公直々の攻撃の前にたまらず降伏した。

 降伏した越前兵は、すべて討ち果たされて当然のところであった。しかし夜の闇に加えて折からの風雨が敵方の視界をさえぎり、当の朝倉義景がこの大嶽陥落を気付いていないおそれがあった。そこで信長公は降兵たちの命を助けて朝倉本陣へ向かわせ、彼らに大嶽が落去してもはや戦勢を支えがたくなった事実を知らせさせた。このとき信長公は、このまま一挙に朝倉義景の陣所を抜く考えを固めていた。

 信長公は大嶽に塚本小大膳・不破光治・同直光・丸毛長照・同兼利らを置くと、すぐさま丁野山(長浜市湖北町丁野)の攻撃にかかったここには越前平泉寺の玉泉坊が籠っていたが、これもまたたく間に降伏して退散した。

 大嶽丁野の要害が落ちた今、信長公は朝倉勢が今夜のうちにも越前へ退却を始めると読んだ。そして先手の諸将へその旨を伝え、敵勢退却のときを逃さぬよう覚悟せよと再三にわたって命じた。しかしそれでも信長公は焦りと苛立ちを抑えきれず、13日夜ついにみずから先駈けをして越前衆陣所へ攻め入った。

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、信長公記

    今日も訪問して、ありがとうございます!!感謝!!


鳥羽上城 近江国(長浜)

2016年02月13日 | 陣城

お城のデータ

所在地:米原市(旧坂田郡山東町)菅江町~長浜市鳥羽上町 map:http://yahoo.jp/mJezEZ

目標地:新横山トンネル・八幡神社

区 分:陣城

標高:270m  ⑤比高:150m 

現 状:山林

遺 構:郭?・堀切?

築城期:室町期

目標地:新横山トンネル・八幡神社

駐車城:八幡神社の向かい空地 http://yahoo.jp/2LqNmC

訪城日:2016.2.11

お城の概要

 城域、城の状態がよくわかりませんが、。長浜側・山東側を同時に監視出来る要所、陣城には最適のようだ。

登り口から尾根まで登ると「切通し」のような箇所に出ます。

右手の尾根は崩落していて危険で、一騎駆けのような細尾根を超えると切り岸えを登ると平坦地に出るここが主郭。

左手を登って行くと平坦地があるんですが郭跡かは不明。この城は一時的な陣城として、堅固な構築物は無かったが。

お城の歴史

京極高延の家臣の荒尾三郎左衛門尉が六角氏の侵攻に備えて陣をはったとされるようです

切り通し

切通から主郭

長浜側

山東側

伊吹山

登り口に戻ります

旧トンネル登り口前のスペース

鳥羽上城・・・遠景(駐車位置から)

トンネル出口・・・長浜側

八幡神社の鳥居

駐車スペース http://yahoo.jp/2LqNmC

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、

   本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!!


大依山城  近江国(浅井)

2016年02月11日 | 陣城

お城のデータ

所在地:長浜市(旧東浅井郡浅井町)大依町 map:http://yahoo.jp/170v3j

別 称:大依山の陣

築城期:織豊期・・元亀元年(1570)

築城者:浅井氏

初城主:浅見実勝

区 分:陣城

陣 主:浅井氏・朝倉氏

遺 構:削平地、土塁、竪堀、犬走り

城 域 : -

標高 252~365m

訪城日:2016.2.11

お城の概要

 大依山は古墳が7つある、なだらかな斜面が東西に連なる山塊大依山という。稜線はなだらかであるが、南斜面(大依町側)あるいは北斜面(木尾町側)とも急斜面のうえ尾根幅は狭く、いわば屏風のような山である。

 滋賀県中生城郭分布調査の資料によると大依山城は、大依地区の秋葉神社背後の山と、東側舌状尾根の2カ所を指しているが、今回は秋葉神社背後の尾根一帯の遺構。

 八幡神社への参道を登る、ハイキングコース、後はひたすら急斜面を登ると約25分で尾根筋に出る。尾根筋に出たところで広い範囲に削平地を発見する。ここから標高365mの大依山山頂まで、この尾根筋に陣城の削平地を確認する。

 信長公記によれば、浅井・朝倉軍はこの大依山には4日間程しか滞陣していないためあまり削平されていないことも頷ける。

 浅井・朝倉軍は、織田軍に襲われ孤立している横山城まで2㎞の距離にあるここ大依山に陣を置き、合戦直前の4日間(元亀元年(1570年)6月24日~6月27日)をこの山中で過ごしている。そのことが、『信長公記』に明確に記載されているのだ。

 

最初にこの山に陣取ったのが朝倉の8,000人である。そこに浅井の5,000人が加わり、合計13,000人もの大軍がこの山に4日間も帯陣していたことになる。


 木尾地区及び郷野地区から出ている林道はほぼ稜線走っているため、車で上ると比較的容易に遺構を確認することが出来る。しかし遺構の全貌を見るためには歩いて廻ることをお勧!

歴 史

 

『信長公記』 巻三元 亀元年 8、姉川  あね川合戦の事

 越前より朝倉孫三郎景健率いる八千の援軍が到着し、小谷城の城東に位置する大依山①に陣を張った。待ちわびた援兵の来着を知った浅井長政は、城を出て朝倉勢との合流を果たした。
 朝倉勢八千に五千の浅井勢が加わり、都合一万三千の軍勢となった浅井・朝倉勢は、6月27日払暁大依山の陣を払って行動を開始した。陣を捨てて退却するものとも考えられたが、事実は相違した。出撃のための陣払いであった。

 28日未明、浅井・朝倉勢は姉川手前の野村・三田村の郷に移り、二手に分かれて軍勢を立て備えた。これに対し織田・徳川連合軍②は、西の三田村口に位置した朝倉勢には徳川家康が向かい、東の野村口に展開した浅井勢には信長公直率の将士と美濃三人衆が相対した。

 卯の刻(午前6時)、織田・徳川軍は敵勢ひしめく丑寅の方角へ向かって一斉に駆け出した。敵勢も姉川を越えて突撃し、ここに姉川合戦の火蓋が切られた。戦闘は双方が押しつ押されつの大乱戦となり、戦場には黒煙と土埃が巻き立ち、鍔が割れ槍が交差する音がこだました。そして後世に語り継がれるであろう数々の武功が生まれ、そのたびに名のある武者が命を落としていった。

 数刻にわたる激闘は、最後に織田・徳川軍が浅井勢を追い崩して終わった③。浅井勢は青木所右衛門に討ち取られた真柄十郎左衛門や竹中久作に討ち取られた遠藤喜右衛門をはじめ、前波新八・黒坂備中・浅井雅楽助ら他国まで名の聞こえた将の多くを失った。この戦で織田勢が討ち取った首の数は、面立ったものだけでも千百余にのぼった。

 織田勢は退却してゆく浅井勢を追撃して小谷までの五十町を駆け抜け、小谷では山麓へ火を放った。しかし小谷城そのものは切り立った高山の上に立つ難攻の城であったため、信長公は城攻めまでは無理と見て追撃をそこで打ち切り、横山城の攻囲にまわった。横山城はひとたまりもなく開城した

 信長公は横山城の城番に木下藤吉郎を入れ、みずからは7月1日磯野丹波守員昌の籠る佐和山城の攻略に向かった。佐和山では四方に鹿垣をめぐらし城東の百々屋敷に砦を構えて丹羽長秀を置き、北に市橋長利・南に水野信元・西の彦根山に河尻秀隆の各将を配置して諸口を封鎖し、四方より攻撃させた。

 7月6日④、信長公は数騎の馬廻のみを引き連れて京へ入り、公方様へ戦勝の報告をおこなった。京には数日滞在して戦勝参賀の使者の応対などをし、8日に岐阜へ帰還を果たした。

 ①現滋賀県浅井町内 ②徳川家康は24日に来援して織田軍と合流 ③合戦の内容については、織田勢が劣勢だったためか『信長公記』はあまり詳しく触れていない。 ④正しくは7月4日

「信長公記」には、元亀元年(1570)6月に姉川の戦いを前に、龍ヶ鼻に陣取った信長・家康軍に対し、小谷城を出た朝倉孫三郎(景健)が八千、浅井長政が五千の兵を率い大依山に陣取ったとある。

姉川の向こうに横山城

狼煙穴か?

目標地:浅井文化スポーツ公園

鳥居横に駐車場

参考資料:滋賀県城郭分布調査、信長公記、淡海の城

   本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!!


広徳寺砦(庚申城) 近江国(甲賀・水口)

2016年02月09日 | 陣城

お城のデータ

所在地:甲賀市(旧甲賀郡)水口町山上988 map:  http://yahoo.jp/V_xpqf

別 称:庚申城

現 状:寺院・森林

区 分:陣城

創建期:延暦2年(783)

開基者:最澄

中興期:元和2年(1616)

     寺伝によると、日本で最初に真鍮を作り出したとさせる籐左衛門が元和2年(1616)に本堂を寄進し、その後金物商の信仰を集めている。

築陣期:北朝の争乱・・・建武5年(1238)

陣 主:頓宮弥九郎

目標地:広徳寺

駐車場:山頂駐車場

訪城日:2016.2.8

お城の概要

霊峰飯道山の南東の尾根につながる庚申山は、瑞応山竜華院広徳寺がある信仰の山。町内の人からは「庚申さん」と呼ばれ親しまれています。ハイキングコースが整備され、展望台もあります。秋は山全体が紅葉で覆われ、眺望も一段と見事になります。
広徳寺は、最澄が開いたお寺です。真鍮製造の始まりとなった伝説に由来して、各地から参拝者が訪れます。

尚、2013年の山火事で本堂は全焼してしまいました。

広徳寺は庚申山の山頂に、登山口から20分もあれば登れる山で、お寺には展望台があって、遠くは美濃の山まで肉眼で見えるほど景色。鈴鹿山脈の北の端から南の端まで、一列に山を並べたように見え圧巻、望遠鏡もある。寺があるので水道、トイレも、山頂付近は散策道。
登山道は良く整備されています。小野登山口から舗装された林道が山頂まで車で(足に自信がない人でも)林道は、一部桜や楓並木に。

城郭史

『甲賀郡志』によると、南北朝の動乱の際。建武5年(1238)に頓宮弥九郎が南朝方として「金剛童子峰」に籠ったとある。

「金剛童子」とは、広徳寺の本尊である青面金剛童子に由来する。

南北朝の動乱
頓宮という地名が出てくるのは、文治6(1190)4月の伊勢内宮役夫工作料未納について書き上げた注文の中に「頓宮」の名が見えるのが地名としての初見とされている。
「頓宮文書」には,建武3(1336)正月2日の近江国頓宮知綱着到状があり、それには頓宮肥後弥三郎知綱と記されているおり、上記肥後守である盛氏と同じ国司、肥後の名乗りのため裔と考える。この着到状は足利尊氏に呼応し挙兵したことである。南朝側に味方した頓宮弥九郎とは一族の者とされている。また応永21(1414)113日の大野光保譲状により甲賀郡大野郷が譲与されているため、その際に近江へ移住したのでは考えられる。
近江の地で頓宮氏が台頭し、南北朝時代では南朝側に前記の頓宮肥後弥九郎が五辻宮守良親王に味方して兵を挙げ甲賀郡をまとめたが、足利尊氏の命を受けた甲賀の小佐治右衛門三郎・山中橘六・美濃部兵衛三郎などが佐々木秀綱に従って攻め、頓宮肥後弥九郎は岩倉城(信楽町)へ拠るが守れず、和束(京都府)へ逃れた。再び、和束・信楽の兵を集めて、頓宮氏は近江の鮎河城に拠るが、佐々木秀綱・小佐治合同軍に囲まれ、鮎河城を支えられずに庚申山(水口町)に拠るが、ここも支えきれず和束へ退いた。再々度、頓宮弥九郎は鮎河城に拠るが、佐々木秀綱・山中五郎・柏木源蔵は鮎河城を襲い、火を放って城を焼き滅亡させられた。
 
甲賀五十三家、そして改易へ
頓宮牧荘を中心にし、豪族として大きくなった頓宮氏は、鎌倉期に頓宮治三郎正盛が頓宮城を築いた。その後、長享年間(1487~89)に音羽野の地を領有することになり、頓宮四方介利盛が音羽野城を築いた時に頓宮城を廃城にした。
長享の乱の合戦で、甲賀衆は足利義尚の本陣である鈎の陣に夜襲をかけ、幕府軍を蹴散らした。戦いに活躍した五十三家を甲賀五十三家と称するようになり、特に六角高頼から感状を受けた家を甲賀二十一家と呼ばれ、その中である北山九家という地域連合惣の中に頓宮四方介がおり武功をあげた。その後、音羽野城は子孫が世襲していったとされているが、子孫の記録がはっきり分からない。「蒲生古蹟考」には時代は不明だが、音羽野城主頓宮内藏助政忠の記録がある。
戦国時代になり織田信長によって佐々木六角氏が攻められ没落し、頓宮因幡守守孝は信長に降ったが、天正13(1585)に豊臣秀吉によって領地は没収され改易となった。その後、どうなったかは分からないが、前記の「蒲生古蹟考」には頓宮善六や、近江水口藩の加藤家分限帳の中に頓宮氏がいた記録が見受けられたので、生き残ったものと推測される。
なお、甲賀五十三家の中に黒川氏・土山氏・大河原氏があげられるが、この三氏は頓宮氏から分家したといい、「黒川村誌」には頓宮四方介の弟が黒川久内土山鹿之助盛忠は頓宮四方介利盛の次男といった記録があり、密接な関係であったことが分かる。(古樹紀之房間より)

山頂駐車場

参考資料:甲賀郡志、甲賀市観光ガイド、古樹紀之房間

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井元城  近江国(愛東)

2016年01月20日 | 陣城

 

 

井元城跡縄張図 

(滋賀県文化財学習シートより)重ね馬出

お城のデータ

所在地:東近江市(旧愛知郡愛東町)妹町 map:http://yahoo.jp/DgCoA3

現 状:鎮守の森(春日神社)

遺 構:曲輪、重ね馬、土塁、空堀、 

区 分:段丘城(陣城)

築城者: 柴田勝家

築城期:織豊期 永禄11年頃

目標地:春日神社

駐車場:春日神社の駐車場

探訪日: 2016.1.17

お城の概要

 井元城は、愛知川北岸の河岸段丘上に位置する城郭。文献資料にも記載が無く、城主や築城時期などは不明ですが、滋賀県の中世城郭分布調査で初めて発見され、地元の愛東町教育委員会(現東近江市教育委員会)による発掘調査で堀や土塁などが検出。

発掘調査で16世紀の遺物が出土していることも、そうした推測を裏付けます。

 城の構造は、一辺30mの方形単郭で断崖側を除く三方を土塁で囲み、その外側に横堀を廻らせている。東側の虎口前には「コ」の字形に土塁と堀をめぐらせた角馬出が設けられ、さらに北側こもう1つ角馬出しが付けられ「重ね馬出し」と呼ばれる縄張りになっている。この虎口構造は、全国的にも極めて数少ない事例とされる。
虎口の東外方に150m×30mの土塁と空堀に囲繞された区画が設けられ、兵士の駐屯地と考えられ、また、土塁と堀の土層断面から構築方法は単純で、急造されており臨時的な陣城の可能性が強いと考えられている。
複雑な虎口構造を備える割には、施設規模は品弱で、強固さの感じられない遺構で、鯰江城攻略の為の中核砦では?。

城の構造は方形の区画を土塁と空堀で囲んだ簡単なものですが、注目すべきは虎口部分。

虎口(こぐち)の外側をコの字形に堀と土塁をめぐらせたいわゆる角馬出(かくうまだし)がありますが、さらにその外側にもう一つの角馬出が設けられた「重ね馬出」となっているの。重ね馬出の類例は全国でも珍しく、虎口の形態としてはもっとも発達したもの。

歴   史

井元城に関する文献も伝承も一切残っておらず、滋賀県の実施した中世城郭分布調査により発見された城跡である。
しかし、重ね馬出しを設けた縄張りや鯰江城との距離などから「信長公記」に記された元亀4年(1573)4月に鯰江貞景の鯰江城に六角義賢(承禎)・義治父子が旧臣らと共に立て籠もった際、織田信長が佐久間信盛・蒲生氏郷・丹羽長秀・柴田勝家に命じ、四方より取詰め付城を構えさせているが、その付城の一つがこの井元城と考えられている。なお、鯰江城は天正元年(1573)9月に落城させられている。

信長公記 巻六 元亀四年

 5、表裏の果て  百済寺伽藍御放火の事

  守山を出た信長公は百済寺(愛東)に入り、ここに2、3日滞在した。近在の鯰江城(愛東)に佐々木右衛門督六角義治が籠っており、これを攻略しようとしたのである。信長公は佐久間信盛・蒲生賢秀・丹羽長秀・柴田勝家らに攻撃を命じ、四方より囲んで付城を築かせた。このとき、近年になって百済寺が鯰江城をひそかに支援し、一揆に同調しているという諜報が信長公の耳にとどいた。それを知った信長公は激怒して4月11日寺に放火し、百済寺の堂塔伽藍は灰燼に帰してしまった。焼け跡は目も当てられない有様であった。 同日、信長公は岐阜へ馬を収めた。

 15、小谷落城  浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事

小谷城は陥ちた。落城後、浅井父子の首は京に後送されて獄門にかけられ、十歳になる長政嫡男も捕らえ出されて関ヶ原で磔にかけられた。元亀以来というもの浅井氏に苦汁を舐めさせられつづけてきた信長公は、ここに年来の鬱憤を晴らしたのであった。
 戦後、江北の浅井氏遺領は羽柴秀吉に一職進退の朱印状が下された。秀吉は年来の武功を認められ、名誉の至りであった。

 9月4日、信長公は佐和山に入り、柴田勝家に六角義治の籠る鯰江城の攻略を命じた。柴田はすぐさま兵を寄せて鯰江を囲み、義治を降伏させた。こうして各所の平定に成功した信長公は、9月6日晴れて濃州岐阜へ凱旋を果たした。・・・・・

「信長公記」に記された元亀4年(1573)4月に鯰江貞景の鯰江城に六角義賢(承禎)・義治父子が旧臣らと共に立て籠もった際、織田信長が佐久間信盛・蒲生氏郷・丹羽長秀・柴田勝家に命じ、四方より取詰め付城を構えさせている。なお、鯰江城は天正元年(1573)9月に落城させられている

城は、方形の主郭とその周囲に廻らされれた土塁と空堀があり、主郭東側には重ね馬出の遺構が良く残っている。 重ね馬出の遺構自体あまり見られないことから、貴重な遺構。

 

春日神社入口西側から左手に神社裏手に登る道がある。 この道を登り切るとそこには井元城の空堀と土塁が現れる。北西一帯の河岸段丘の檜林の中に井元城はあった。 

 

春日神社の参拝者用無料駐車場

 井元城(遠景)

参考資料:滋賀県城郭分布、滋賀県文化財学習シート、淡海の城他

    今日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!