城郭探訪

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信長好んだ竹相撲を再現 7日、神社氏子ら奉納

2015年06月06日 | 城郭・イベント情報

信長好んだ竹相撲を再現 7日、神社氏子ら奉納 滋賀・近江八幡

        京都新聞

竹相撲の様子を描いたイラストを手にする東さん(近江八幡市安土町下豊浦)東家に伝わる竹相撲の竹で作ったとされる花入れ

滋賀県近江八幡市安土町一帯で7日に行われる「あづち信長まつり」で、信長が好んだとされる当時の相撲を地元の神社の氏子が再現し、初めて奉納する。「安土とゆかりの深い相撲でまつりを盛り上げたい」と意気込んでいる。

 まつりでは、よろい姿で織田信長や徳川家康を演じる武者行列が安土城跡一帯を練る。途中に一行が参拝に立ち寄る新宮神社(同市安土町下豊浦)の氏子が企画した。

 地元に残る古文書には、信長が城下の力自慢を集めて行った相撲の伝承が記されている。1本の竹の両端を抱えて押し引きして勝敗を決める「竹相撲」という形式で、互いに引かない好勝負をした2人に、信長は「東」と「西」の姓を授けたという。

 その東家の子孫とされる氏子総代の東康彦さん(67)宅には当時の竹相撲で使った竹から作った花入れが伝えられている。

 東さんら氏子は、まつりを盛り上げ、地域おこしにつなげようと、新宮神社に集まった武者行列一行の前で竹相撲を演じ、信長から「東」「西」の姓を授かる様子を再現する。東さんは「まつりは地域の歴史を紹介する絶好の機会。多くの人に知ってほしい」と話している。

 武者行列は午前11時半ごろ新宮神社に到着する予定で、参拝後に竹相撲が演じられる。まつりは雨天中止。


愛荘町町内の埋蔵文化財 会

2014年08月11日 | 城郭・イベント情報

埋蔵文化財の取扱いについては、愛荘町教育委員会町立歴史文化博物館にお問合せください。

No遺跡名所在地種類時代立地現状
1 上三字遺跡 畑田・平居・苅間 条里跡 白鳳~昭和 平地 水田
2 愛知井遺跡 畑田・平居 水路跡 白鳳~昭和 平地 水田
3 畑田廃寺遺跡 畑田 寺院跡 白鳳~平安 平地 水田
4 畑田稲荷古墳群 畑田 古墳 中世 平地 水田
5 畑田城遺跡 畑田 城跡 中世 平地 水田・宅地
6 畑田北遺跡 畑田 散布地 平安 平地 水田
7 平居城遺跡 平居 城跡 中世 平地 水田・宅地
8 平居北遺跡 平居 集落跡 平安 平地 水田・宅地
9 苅間城遺跡 苅間 城跡 中世 平地 水田・宅地
10 東円堂城遺跡 東円堂 城跡 中世 平地 宅地
11 東円堂遺跡 東円堂 散布地 弥生~平安 平地 水田・宅地
12 東円堂北遺跡 東円堂 散布地 弥生~平安 平地 水田・宅地
13 塚原古墳群 東円堂・豊満 古墳 古墳 平地 水田
14 ミグルシ遺跡 豊満 散布地 弥生~平安 平地 水田・宅地
15 野々目廃寺遺跡 豊満 寺院跡 白鳳 平地 水田・宅地
16 泉町遺跡 愛知川 散布地 平安 平地 校地
17 愛知川館遺跡 愛知川 館跡 中世 平地 寺地
18 御墓遺跡 愛知川・中宿 墓跡 中世 平地 宅地
19 久遠寺遺跡 中宿 伝承地 中世 平地 水田
20 沓掛遺跡 石橋・市・長野・沓掛 集落跡 弥生~平安 平地 水田・宅地
21 市遺跡 豊満・市 集落跡 弥生~平安 平地 水田・宅地
22 市村城遺跡 城跡 中世 平地 水田・宅地
23 市西遺跡 沓掛 散布地 平安 平地 水田
24 磯部遺跡 石橋 散布地 平安 平地 水田・宅地
25 磯部館遺跡 沓掛・石橋 館跡 中世 平地 水田
26 戸ケ坪遺跡 川久保 集落跡 奈良~平安 平地 水田・宅地
27 山塚古墳 石橋 古墳 古墳 平地 水田
28 出路市遺跡 長野 伝承地 中世 平地 竹林
29 長野東遺跡 長野 散布地 平安 平地 水田・宅地
30 大門城遺跡 長野 城跡 中世 平地 宅地
31 なまず遺跡 長野 集落跡 縄文~奈良 平地 水田・宅地
32 堀城遺跡 長野 城跡 中世 平地 社地
33 長野遺跡 長野・川原 集落跡 縄文~中世 平地 水田・宅地
34 中村城遺跡 長野 城跡 中世~江戸 平地 宅地
35 福泉寺遺跡 長野 寺院跡 中世 平地 宅地
36 鋳物師屋遺跡 長野 製鉄跡 平安 平地 水田
37 八坂遺跡 長野 集落跡 平安 平地 水田
38 上夏目遺跡 長野 集落跡 平安~中世 平地 水田・宅地
39 川原遺跡 長野・川原 集落跡 平安~中世 平地 水田・宅地
40 狐塚古墳群 山川原・川原 古墳 古墳 平地 水田
41 興禅寺遺跡 山川原・川原 伝承地 中世 平地 畑地・寺地
42 柳遺跡 川原 集落跡 平安~中世 平地 水田・宅地
43 矢守遺跡 矢守 集落跡 弥生~平安 平地 水田
44 栗田西古墳群 栗田 古墳 古墳 平地 水田
45 栗田古墳群 栗田 古墳群 古墳 平地 水田
46 栗田狐塚遺跡 栗田 伝承地   平地 水田
47 元持遺跡 元持 集落跡 古墳~鎌倉 平地 水田
48 栗田城跡 栗田 城跡 中世 平地 水田
49 長塚古墳 長塚 古墳 古墳 平地 社地
50 大間寺遺跡 島川 集落跡・寺院跡 古墳~平安 平地 宅地・田畑地
51 島川城跡 島川 城跡 室町~江戸    
52 島川城跡 島川 城跡 室町~江戸 平地 校舎・宅地
53 塚越古墳 古墳 古墳 平地 水田
54 二ノ川取遺跡 島川 集落跡 縄文~中世 平地 水田・宅地
55 狐塚古墳 香之庄 古墳 古墳 平地 水田
56 高塚遺跡 香之庄 伝承地   平地 水田
57 妙園寺遺跡 香之庄 寺院跡   平地 山林・水田
58 大藪塚古墳 香之庄 古墳 古墳 平地 水田
59 小八木廃寺遺跡 香之庄 寺院跡 奈良 平地 宅地・水田
60 軽野正境遺跡 軽野 集落跡・製鉄跡 古墳・室町 平地 宅地・畑地
61 鷺俣遺跡 安孫子 散布地 古墳~中世 平地 宅地・水田
62 狩野城跡 蚊野 城跡   平地 水田・宅地
63 塔ノ塚遺跡 蚊野 寺院跡      
64 狩野遺跡 蚊野 城跡   平地 水田
65 毛入堂遺跡 蚊野 集落跡 古墳~中世 平地  
66 東出南遺跡 東出・安孫子 散布地 古墳~平安 平地 水田
67 安孫子北遺跡 安孫子・東出 散布地 古墳 平地 宅地・水田
68 安孫子城跡 安孫子 城跡 中世 平地 宅地・水田
69 目加田廃寺遺跡 目加田 寺院跡 白鳳 平地 水田
70 竹ノ尻遺跡 目加田 集落跡 縄文~白鳳 平地 水田
71 目加田城跡 目加田 城跡 中世 平地 水田
72 古戸遺跡 目加田 散布地   立地 宅地・水田
73 円城寺南遺跡 円城寺・常安寺 散布地   平地 畑地
74 深田遺跡 東出 散布地   平地 宅地・水田
75 常安寺西遺跡 常安寺 散布地 平安 平地 水田
76 雨降野遺跡 円城寺 散布地   平地 水田
77 円城寺北遺跡 円城寺・常安寺 散布地   平地 畑地
78 二子塚古墳 常安寺 古墳群 古墳 山麓 畑地
79 常安寺遺跡 常安寺 寺院跡   山麓 寺地
80 高坪山遺跡 常安寺 窯跡 古墳 山麓 山林
81 金台寺遺跡 岩倉 寺院跡   山麓 寺院
82 金剛寺野古墳群 上蚊野・蚊野外 古墳群 古墳 平地 畑地
83 竹原谷古墳群 竹原 古墳群 古墳 山腹 山林
84 光林寺遺跡 竹原 寺院跡 近世 山麓 畑地
85 金剛輪寺遺跡 松尾寺 寺院跡 中世・近世 山腹 山林
86 慶乗寺遺跡 松尾寺 伝承地   山麓 水田

http://www.town.aisho.shiga.jp/main/03_kyouiku/03_bunkazai/01_06_bunkazai.html


お城めぐりと絵てがみ展

2014年05月20日 | 城郭・イベント情報

日本各地の城を水彩画で表現 お城めぐりと絵てがみ展

■平成26年5月20日(火) 第16888号

=村川穂澄さん 八日市図書館=

日本の各城が描かれた作品と村川穂澄さん

◇東近江
 東近江市立八日市図書館は、東近江市宮川町在住の画家村川穂澄さん(六十一歳)による「お城めぐりと絵てがみ展」を二十二日まで二階ギャラリーで開催している。
 同展では、熊本城や伏見城など日本各地の城が描かれた水彩画(十点)を中心に、雑誌などに掲載された絵手紙(十一点)が展示されている。
 本格的に絵を描きはじめて今年で十二年目になり、今回初めての展示会となる村川さんは「今まで描き留めた作品をいろんな方に披露する機会ができて嬉しい」と話した。
 実際に現地へ行き、水彩絵の具と一緒に墨で描かれた各城の作品は、筆で描くことで日本の城のレトロ感が自然に表現されており「昔ながらの素朴さがこの絵で伝われば」と村川さんは話す。
 また、桜など季節が感じられるものも城とともに描かれていて、多くの色鮮やかな作品が同展では紹介されている。
 開館時間は午前十時から午後六時まで。休館は月曜日と第四金曜日。
 問い合わせは、同図書館(0748―24―1515)まで。http://shigahochi.co.jp/info.php?type=article&id=A0015649

図書館入口に

  二階の展示場にコメント!

 

         

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


古城山の頂上によみがえった水口岡山城(甲賀市水口町)

2014年04月18日 | 城郭・イベント情報

戦国の山城、3日間の復活 滋賀・甲賀、巨大バルーンで

古城山の頂上によみがえった巨大バルーンの水口岡山城(甲賀市水口町)

 滋賀県甲賀市水口町の古城山(283メートル)に17日、戦国時代末期に築かれ、15年で廃城となった水口岡山城が、高さ11メートルの巨大バルーンとして再現された。日没後はライトアップされ、山頂を訪れた市民らが幻の天守の姿に思いをはせていた。

 2012年には水口青年会議所が段ボールを使って同城を再現している。今回は、城のあるまちづくりを目指し、住民有志らでつくる社団法人「水口岡山城の会」が遊具の巨大バルーンを使い、この日から始まったイベント「よみがえれ水口岡山城2014」で披露した。

 巨大バルーンの城は20日まで山頂に置かれ、麓から見上げることもできる。友人と散歩で山頂を訪れた近くの女性(60)は「短期間で片付けるのはもったいない。城の存在に興味を持ってもらい、観光名所になってほしい」と話していた。

http://search.jword.jp/cns.dll?type=lk&fm=109&agent=9&partner=BIGLOBE&name=%B5%FE%C5%D4%BF%B7%CA%B9&lang=euc&prop=495&bypass=3&dispconfig=


黒田官兵衛に指示!賤ヶ岳の合戦で、秀吉の文書

2013年05月11日 | 城郭・イベント情報

官兵衛に指示秀吉の文書 長浜城歴博が発見

秀吉が賤ケ岳合戦の戦い方を指示した文書

 豊臣秀吉の天下統一の足掛かりとなった賤ケ岳合戦(1583年)で、秀吉が部下の黒田官兵衛らに戦い方を具体的に指示した文書が初めて見つかったと長浜城歴史博物館(滋賀県長浜市)が10日、発表した。同博物館は「秀吉の戦略が垣間見られ、貴重」としている。

賤ケ岳合戦「砦小屋壊し援軍待て」 参戦の事実裏付け

 長浜城にいた秀吉が総攻撃の20日ほど前に前線の弟、秀長へ出した。署名にあたる自身の花押(かおう)もある。

 自陣の砦(とりで)周囲にある小屋の撤去を秀長や官兵衛が手伝うよう指示した上で、壊してできた空き地へ翌日に軍勢を送ると伝え、「味方が着くまで撤退してはならない」と命じている。同博物館が京都市内の古美術商から購入した。

 賤ケ岳合戦は長浜市北部の余呉湖周辺で展開され、秀吉が同じ織田信長家臣の柴田勝家を破って天下人へ踏み出した戦い。秀吉の7人の部下「七本槍(やり)」の活躍で知られる。

 これまで合戦の内容を直接示す文書はなかった。同博物館は「小屋撤去の意図が攻撃のためか挑発かは不明だが、秀吉の具体的な考えが見られる」と評価する。また、合戦に官兵衛が参加したことが分かる点も貴重という。

 戦国史に詳しい小和田哲男静岡大名誉教授は「江戸時代の軍記物でしか知られていなかった砦の存在が史料で裏付けされ、官兵衛の参戦が確実となった点に価値がある」と話している。

 11日から同博物館で公開する。

 

(京都新聞 2013.5.11)

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


諸浦の親郷 堅田 2013.3.24

2013年03月23日 | 城郭・イベント情報
  中世、びわ湖を支配した湖族の郷は、苦行の末、悟りの境地を得た 一休や再興の炎を燃やした蓮如など、巨人たちの夢の跡も...。 栄光の歴史とロマンに彩られたまち。
 堅田は平安時代末期から江戸初期にかけ、琵琶湖最大の自治都市が築かれた所で「堅田千軒」や「諸浦の親郷」と呼ばれた。その端緒は寛治4年(1090)下鴨神社の御厨が置かれたことで、湖魚を献上する代わりにびわ湖の漁業権や通行権などを一手に握り莫大な利益を得た。その時活躍したのが堅田衆(湖族)と呼ばれる人々。豊かな堅田には、美しい風光に魅せられ、また堅田衆を頼り、各時代のヒーロー・ヒロインが往来した。源信、一休、蓮如、勾当内侍、新田義貞、芭蕉等々。今も町のそこかしには激動の時代に夢を馳せた人々の名残をとどめる史跡が息づいている。

南北朝時代(1334-1392)の開山。応永元年(1467)三代目住持法王の時、法難を逃れた蓮如が身を寄せ、同寺に本願寺を置き再興の拠点とした。蓮如ゆかりの遺品が数多く所蔵されている。十一代住持明式は芭蕉の高弟で千那と号したところから、同寺は千那寺とも呼ばれる。芭蕉も再三訪れ句を残している。

大津市本堅田1丁目22-30

長徳年間(995年頃)比叡山横川の僧源信が湖上の安全と衆生済度を祈願し建立。「堅田落雁」として近江八景の一に数えられる名勝。聖観音座像は平安時代の作で重要文化財。芭蕉の句碑がある。

大津市本堅田1丁目16-18

蓮如上人とのゆかりが深く、真筆の名号・消息等の遺品や伝説が残されている。中でも宗祖の御真影を三井寺から取り戻すために自らの首を差し出したという「堅田源平衛親子」の物語は有名で、源平衛の頭蓋骨が今も安置されている。

大津市本堅田1丁目22-20

応永年間(1394~1428)一休の師華叟宗曇が開いた。一休が22歳から十余年ぶわたる修行に励んだ。当時は祥瑞庵といい、一休も宗純と称していた。一休という道号を与えられたのは25歳、岸辺の小舟で開悟に至ったのは27歳の時。開山堂には師と一休の木造が安置されている。後年、芭蕉も訪れ、句を詠んだ。

大津市本堅田1丁目27-20

中世・堅田の指導的立場にあった殿原衆党首の屋敷。邸内の湖東を借景とした庭園「天然図画亭」は千宗旦の高弟で茶人の藤村粛軒と堅田の豪土北村幽安によって築かれた。

大津市本堅田2丁目12-5

南北朝時代、戦に敗れた新田義貞は愛する内侍を堅田に匿い、再会を誓って北陸へ落ちて行くが、3年後世を去る。それを聞いた内侍は絶望のあまり湖に身を投じ後を追う。後日、その事を知った今堅田の人々は内侍の霊をねんごろに弔ったという。その石塚が野上神社に残されている。

大津市今堅田2丁目32

かつての湖上関跡に建つ木造の灯台。明治8年(1875)に建てられた。

大津市今堅田1丁目


「真説 浅井長政嫡子 越後・浅井帯刀秀政」

2013年01月12日 | 城郭・イベント情報

=宮帯出版社=

浅井長政の末裔が越後で存続した、とする新説を打ち立てた「真説 浅井長政嫡子 越後・浅井帯刀秀政」

 宮帯出版社(京都市)は、「真説 浅井長政嫡子 越後・浅井帯刀秀政」(定価千五百七十円)を出版した。
 戦国大名・浅井長政は天正元年(一五七三)九月一日、小谷落城とともに自刃し、長男とされる万福丸も捕えられて処刑され、ここに浅井氏は滅亡したというのが通説だ。
 ところが本書では、長政は落城を前に乳飲み子である男子を秘かに忍び落とし、これが越後へ落ち延びて今日まで浅井嫡流の血脈が伝えた、とする説を打ち出している。
 著者の浅井俊典氏は昭和二十五年新潟県魚沼市生まれ、同県長岡市在住の会社員。越後浅井家に伝わる古文書をもとに、浅井秀政と越後浅井家の詳細を独自に調査した。

 

http://shigahochi.co.jp/info.php?type=article&id=A0012047

 


誰も見たことのない!安土城の立体景観、リアルに描写

2013年01月06日 | 城郭・イベント情報

=山裾から眺める城と周辺風景の想像図=

iPadに映し出されたCG画像(画面には右の宣教師が映し出されている)

 近江八幡市が、花園大学と大阪大学との共同で研究を進めている「VR安土城プロジェクト」が完成しつつある。
 アプリケーションソフト「タイムスコープ」が使えるiPhoneとiPadで、安土城とその周辺の風景がコンピュータグラフィックス(CG)画像で見られるというもの。四月から一般公開される。
 現在、CG画像が作られているビューポイントは、「安土山大手門広場」、安土城外堀の「安土川」、「セミナリヨ跡」、「安土文芸セミナリヨ」、「安土城郭資料館」の五か所で、一般公開時には十二か所に増える。
 画像は、これまでの歴史資料や研究文献をもとに描かれた想像図で、端末機と連動し、安土山や安土城郭の光景が360度のパノラマで映し出され、戦国時代へのタイムスリップが楽しめる。


西方向から見た安土城天主 宣教師を描いたセミナリヨ跡付近の風景 夕焼けに映える安土城 安土城の中にあったとされる宝塔 安土城の特徴のひとつ、天主上部の建築様式 南西方向から望んだ安土城天主 iPadを手に持って回ると画像も回転する(公開実験で)

http://shigahochi.co.jp/info.php?type=article&id=A0012008

 

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました


佐和山城跡など県内8遺跡 発掘調査報告書を刊行

2012年12月30日 | 城郭・イベント情報

=文化財保護協 購入受付け中=

家臣らの屋敷跡が出土した佐和山城跡(彦根市)


 県文化財保護協会と県教育委員会は、平成二十四年度発行の発掘調査書の購入予約を受け付けている。
 報告書が刊行される遺跡は、(1)六反田遺跡・(彦根市)縄文時代後・晩期、(2)六反田遺跡・(同)飛鳥~奈良時代、(3)佐和山城跡(同)安土桃山時代、(4)湖東南部草津川地域における琵琶湖開発事業関連遺跡(草津市)縄文時代~近世、(5)粟津湖底遺跡・における琵琶湖開発事業関連遺跡(大津市)縄文時代、(6)天神畑遺跡・上御殿遺跡(高島市)縄文時代~室町時代、(7)宇佐山古墳群(大津市)弥生時代~平安時代、(8)浄土屋敷遺跡(東近江市)鎌倉時代――の八遺跡。
 注文と問い合わせは、所定の用紙に希望の遺跡の報告書の冊数、氏名、住所、電話番号を記入し、来年一月末までに同協会(TEL077―548―9780、ファックス077―543―1525)へ。販売価格は年明けに同協会ホームページで公表する。
 なお、各遺跡の内容は次の通り。

 (1)「六反田遺跡」(彦根市)=縄文時代後期後葉の堅果類貯蔵穴群と土偶。晩期中葉の土器棺墓群などの調査。

 (2)「六反田遺跡」(彦根市)=飛鳥時代~奈良時代の船着き場遺構を備えた流路から、人形・斎串などの祭祀関連遺物や、木簡や墨書土器などの公的機関を裏付ける出土。

 (3)「佐和山城跡」(彦根市)=安土桃山時代。「境目の城」佐和山城の初の調査。佐和山東麓で武家屋敷や城下町を発見。石田三成在城時のものと思われる。

 (4)「琵琶湖開発事業関連遺跡」 (草津市)=縄文時代~近世にかけての北山田湖底遺跡・矢橋湖底遺跡など所収。縄文時代~古代の土器、石器、木製品のほか、銭貨類や近世陶磁器が出土。

 (5)「琵琶湖開発事業関連遺跡(粟津湖底遺跡・)」 (大津市)=縄文時代とされる粟津湖底遺跡の全量分析結果をはじめ、未報告の押形文土器の資料や石器類・炭化材に関する分析を掲載。

 (6)「天神畑遺跡・上御殿遺跡」(高島市)=縄文時代~室町時代。弥生時代~古墳時代の方形周溝墓や平安時代の甕棺墓・建物跡のほか、遺跡内を縦断する河川跡からは縄文時代~室町時代の土器・木製品。

 (7)「宇佐山古墳群」(大津市)=弥生時代~平安時代。弥生中期後半の集落、弥生後期~古墳初頭の周溝墓群、古墳中期の箱式石棺を備えた方墳、都城型土馬を用いた奈良時代の祭祀場など出土。

 (8)「浄土屋敷遺跡」(東近江市)=鎌倉時代~室町時代―『浄土屋敷遺跡・』(平成二十二年)で報告した堀や溝で囲まれた中世集落の様相と変遷を補則。

http://shigahochi.co.jp/info.php?type=article&id=A0011945


シリーズ「淡海の城」(32)-敏満寺城(びんまんじじょう)(滋賀県多賀町敏満寺)

2012年12月27日 | 城郭・イベント情報

シリーズ「淡海の城」(32)-敏満寺城(びんまんじじょう)(滋賀県多賀町敏満寺)
 今回は、名神高速道路の多賀サービスエリアにある城郭遺構を紹介します。
 多賀サービスエリアがある場所には、実は平安時代に伊吹山寺の僧三修(さんしゅう)が開基したとされる敏満
寺という南北2500m、東西2000mの範囲におよぶ広大な寺域をもつ寺院がありました。東大寺再建で活躍した俊乗
房重源も建久9年(1198)に金剛五輪塔1基を寄進しており、この寺を非常に重視していたようです。室町期には寺
域を有する青龍山西麓に本堂・南谷・西谷・北谷と別れる50余の堂舎が建ち並び、守護の不入権をもち、戦国期に
は2万石を越える寺領を持っていたといいます。西明寺・金剛輪寺・百済寺といった湖東三山の天台寺院と並ぶ勢
力を維持していたことが分かります。
 永禄5年(1652)9月4日、久徳城(現多賀町久徳)城主久徳左近大輔実時が観音寺城の六角義実の味方をしたた
め浅井長政が80余騎の軍勢を率いて久徳城を攻めます。この時、敏満寺衆徒と敏満寺公文所・神官職を務める新谷
(しんがい)伊豆守勝経(妻は久徳実時の娘)は、久徳実時の味方をします。浅井勢は敏満寺に押し寄せ、敏満寺
衆徒は大門前で防御しましたが敗れてしまいます。勝ちに乗じた浅井勢が敏満寺の坊舎に火を付けたため120の坊
舎は悉く炎上し、新谷勝経ら800余人は戦死し、敏満寺は滅亡したということです。胡宮神社の参道入り口となっ
ている高速道路高架下に敏満寺大門跡がありますが、礎石は火を受けて赤色に変色しており、焼き討ちにあったこ
とを静かに物語っています。
 敏満寺が再び明らかにされるきっかけとなったのは、昭和34年の高速道路建設に伴う発掘調査、昭和57年・61年、
平成6年・9~12年にかけてのサービスエリア施設改良工事に伴う発掘調査が滋賀県教育委員会や多賀町教育委員
会で行われたことによります。なかでも昭和61年の名神高速道路多賀サービスエリア上り線施設等改良工事に伴う
発掘調査で寺院遺構とは思えない遺構が検出され、これが敏満寺を防衛する城郭部ではないかと言われてきていま
す。
 その場所は現在の多賀サービスエリア上り線(名古屋方面)の最北端に位置します。高さ1~5m、基底部幅6
~10mを測る土塁に囲まれた郭、虎口、櫓台が見つかりました。郭内からは礎石建ち建物2棟、掘立柱建物1棟以
上、深さ9m以上もある石積み井筒の井戸、幅60㎝・深さ30㎝程度の区画溝、3m×1.8mの隅丸方形で焼けた石
や炭が堆積した火葬墓と考えられる土抗が検出されました。
 城郭部は少なくとも二つの郭から構成され、最北端の主郭には北端に堀切と張り出した櫓台を備えており、主郭
への出入り口は南西端に開き、正面を櫓台で守り、90度ターンして空堀との間の虎口受け(出入り口前のテラス)
に出るという複雑な構造を持たせています。出入り口部分の構造から永禄・元亀頃のものという評価が専門家の中
でされています。また、発掘調査で明らかになった城郭部はこの上り線最北端部だけですが、寺域を画した要地に
いくつか城郭部があったのではないかと指摘されています。敏満寺は、東山道の要衝に位置し、江南、江北の境目
に位置することから佐々木六角氏と佐々木京極氏あるいは浅井氏の領土拡大の拠点に利用されてきたことは十分考
えられます。
 近江の天台系山岳寺院は比叡山延暦寺を始め、先述の湖東三山等が織田信長の焼き討ちにあっています。延暦寺
山徒や湖東三山衆徒が武装して、浅井長政と結託し城塞化していったことが起因となっています。また、山岳寺院
の参道を中心に枝葉のように展開する坊舎群を城郭に取り込み、山城が発展していくという見解が近年研究者の間
で出されており、敏満寺の城郭部の遺構は、まさに寺院を山城化させていく過程を如実に顕す物と報告されていま
す。しかし、敏満寺の場合は、あくまで武装化した寺院と捉えるべきで、後の山科本願寺や石山本願寺と同じ形態
と捉えるべきではないでしょうか。
 遺構は埋め戻されて、土塁と虎口のみ見ることができます。現在はドッグランの施設がありますので、そこを目
安にしてください。下り線からは陸橋を渡って見に行くことができますし、サービスエリアには外からも入れます
ので、名神高速道路を使わなくても見学は可能です。徒歩で見学の方は、近江鉄道多賀線の多賀大社前駅から絵馬
通りに出て右に(左は多賀大社)取り、高速道路高架下まで行き、高架を潜らずに左折し高速道路沿いの道を歩く
と下り線サービスエリア内に外部から入る入り口があります。(仲川)

城郭伝言板
  全国で実施される城郭関連の催し物についてお知らせします。
  ※ここに掲載した情報は、各機関のホームページやポスター・チラシから転載したものです。詳細についてはそ
  れぞれの機関にお問い合わせください。
  ※淡海の城友の会ではここに紹介した催し物への参加申込のあっせんや取り次ぎは一切行っておりません。
  各催し物の申込先を御確認のうえ、直接お申し込みください。

○大阪歴史博物館特別展「天下の城下町 大坂と江戸」
 会期:平成25年2月2日(土)~3月25日(月)
 会場:大阪歴史博物館 〒540-0008 大阪市中央区大手前4-1-32
     TEL06-6946-5728 FAX06-6946-2662
 プレ講演会
    ①「出土瓦にみる豊臣期大坂の大名屋敷」
   講師:豆谷浩之氏(大阪歴史博物館学芸員)
   日時:平成25年1月12日(土) 13:30~15:00
  ②「新発見の絵図が語る17世紀の大坂」
   講師:大澤研一氏(大阪歴史博物館学芸員)
   日時:平成25年1月13日(日) 13:30~15:00
  ※以下は①②共通
   会場:大阪歴史博物館四階講堂
   定員:250名(当日先着順)
      参加費:200円
  講演会「大坂と江戸」
  日時:平成25年3月10日(日) 13:30~15:00
  講師:脇田修氏(大阪歴史博物館館長)
  会場:大阪歴史博物館四階講堂
  定員:250名(当日先着順)
    参加費:300円(ただし、特別展の観覧券もしくは半券提示の方は無料)
 シンポジウム「近世の二大城下町 大坂と江戸 その姿と都市景観をさぐる」
  日時:平成25年2月24日(日) 10:15~16:45
  会場:大阪歴史博物館四階講堂
  定員:250名(当日先着順)
  参加費:無料
  参考URL http://www.eventscramble.jp/e/tenka/

○滋賀県立安土城考古博物館連続講座「シリーズ 近江の城を探る」
  日付・テーマ・講師:
   ①1月12日(土)「彦根城を探る」 谷口徹氏(彦根市教育委員会)
  ②1月26日(土)「坂本城を探る」 吉水眞彦氏(大津市歴史博物館)
  ③2月9日(土)「八幡山城を探る」 中村吉孝氏(近江八幡市総合政策部)
  ④2月23日(土)「日野の城を探る」 振角卓哉氏(日野町教育委員会)
  ⑤3月9日(土)「佐和山城を探る」 小島孝修氏(公益財団法人滋賀県文化財保護境界)
  ⑥3月23日(土)「長浜の城を探る」 牛谷好伸氏(長浜市教育委員会)
 会場:滋賀県立安土城考古博物館2階セミナールーム
 時間:13:30~
  定員:140名(事前申込不要)
 参加費:300円(資料代)
  問い合わせ 滋賀県立安土城考古博物館
             〒531-1311 滋賀県近江八幡市安土町下豊浦6678
              TEL0748-46-2424 FAX0748-46-6140 E-mail gakugei@azuchi-museum.or.jp

城郭だより ~景清道をたずねて
  さる11月17日(土)、探訪「景清道をたずねて」を開催しました。あいにくの雨模様でしたが、24名の参
加がありました。JR安土駅をスタートし、浄厳院から観音寺城下石寺を経て五個荘金堂まで、およそ10kmにわたり、
ところどころ残存する道を歩きながら景清道のルートをたどりました。
 景清道とは、平家の家人伊藤景清が平家再興を祈願するため、尾張から京へのぼるときに通った道といわれてい
ます。また、景清が眼病平癒を祈願するために通ったともいわれており、いずれも景清にちなんでこのような名前
が付いたと伝えられています。現在では野洲市から近江八幡市・旧安土町(近江八幡市)を経て、旧五個荘町(東
近江市)にかけて道の痕跡をたどることができます。特に安土から五個荘の間は比較的道が連続して残っており、
景清道のルートや景観を実感することができます。道は平地を通る部分もありますが、山中を通る部分も少なくあ
りません。源平合戦に敗れた平家方の景清が通ったとされることから、幅の広い立派な道ではなく、山中を抜ける
間道のような道であったとしても不思議はありません。そのあたりは、安土町石寺の観音正寺参道から分かれ、教
林坊の裏へ続く道によく残っています。景清道の由来については、景清との関わり以外に京へといたる間道、「か
げのきょうみち」から転訛したという説もあり、いずれにせよ、中山道や朝鮮人街道のような整備された街道では
なかったと考えられます。                                  (松下)

事務局からのお願い
  城郭伝言板に掲載する情報について会員の皆様からの提供をお待ちしています。展覧会・講演会・現地説明会な
どご存じのことがありましたら、事務局までお知らせ願います。

編集後記
  まずは事務局の怠慢によって会報の発行が大幅に遅れたことをお詫び申し上げます。年が明けてからは、いよい
よ連続講座「近江の城郭」が再開されます。皆さまふるってご参加ください。なお、参加には事前申込が必要です。
詳細については、この会報1頁をご覧ください。

「淡海の城」友の会事務局
滋賀県教育委員会事務局文化財保護課城郭調査担当気付
〒521-1311 滋賀県近江八幡市安土町下豊浦6678 城郭調査事務所
TEL0748-46-6144 FAX0748-46-6145
E-mail:ma16@pref.shiga.lg.jp URL:http://www.geocities.jp/nobunaga9999castle/


○●◎◇◆□■△▲▽▼※○●◎◇◆□■△▲▽▼※

「淡海の城」友の会事務局

滋賀県教育委員会事務局文化財保護課
   城郭調査事務所気付

〒521-1311
滋賀県近江八幡市安土町下豊浦6678
TEL 0748-46-6144
FAX 0748-46-6145
URL http://www.geocities.jp/nobunaga9999castle/
E-mail:ma16@pref.shiga.lg.jp


淡海の城(おうみのしろ)  第31号   平成24年(2012)12月28日発行

2012年12月27日 | 城郭・イベント情報

淡海の城(おうみのしろ)  第31号   平成24年(2012)12月28日発行

速報 淡海の城  六角征伐と近江の戦国時代~連続講座第3回にむけて
  文正2年(応仁元年・1467)1月、畠山義就と畠山政長による上御霊神社の戦いに端を発した内乱は、諸国の守護
を巻き込んで拡大し、やがて全国的な大乱へと発展します。この後10年に亘って続く応仁・文明の乱の始まりです。
この大乱によって室町将軍の求心力は一気に低下し、諸国の領主勢力が自立する戦国時代へと突入します。近江に
おいても守護六角高頼が力を付け、国内の公家・寺社領を押領するなど、勢力拡大を図ります。
 こうした状況に対し、幕府はたびたび押領した領地の返還を命じますが、六角高頼はこれに従わず、ついに長享
元年(1487)、室町幕府第9代将軍足利義尚は六角高頼を征伐するため自ら近江に進軍します。いったんは居城を逐
われた六角高頼でしたが、甲賀の国人衆と組んでゲリラ戦を展開し、義尚が陣中に没したこともあってこの親征を
はねのけました(第一次六角征伐・鈎の陣)。その後延徳3年(1491)、第10代将軍足利義材が近江に進軍しますが、
この時も幕府軍は六角氏を討伐できず、明応2年(1493)の細川政元のクーデターで義材が将軍の座を逐われ、親征
は失敗に終わりました。
 この六角征伐は、六角氏が戦国期の守護権力として自立していく画期となった事件の一つです。この後、守護代
伊庭氏を排除(伊庭氏の乱)することで六角氏の権力は確立されることになります。いわば、六角征伐は近江の戦
国時代の幕開けを告げる事件ということができます。今回の講座では、六角征伐と伊庭氏の乱を経て成立した近江
の戦国時代について考えてみようと思います。                                                    (松下)

○連続講座「近江の城郭」第3回 鈎の陣~鈎陣所跡 開催のお知らせ
  応仁元年(1467)にはじまる応仁の乱により、中央権力としての室町幕府は衰退し、地方勢力が台頭する戦国時代
が幕を開けます。近江においても守護六角氏が権力を振るうようになり、幕府に対し反抗的な態度を取るようにな
ります。これに対し、将軍権力の回復をめざす室町幕府第9代将軍足利義尚は、長享元年(1487)、六角氏を討伐す
るため近江に出陣し、鈎(栗東市上鈎)に布陣しました。しかし、六角氏のゲリラ戦法に苦しめられて戦線は膠着
し、義尚が延徳元年(1489)に陣中で没したため、六角氏を討伐することはできませんでした。将軍親征をはねのけ
たことで、これ以後六角氏は戦国期の守護権力として自立していくこととなります。
  この時義尚が陣を置いた場所については、史料には「真宝館」と書かれており、現在の永正寺(栗東市上鈎)付
近に比定されています。また周囲には「寺内」の地名が残り、真宗寺内町との関連も指摘されています。
 現地には今も土塁や堀の痕跡が残されています。今回の講座では、文化財専門職員の案内で鈎陣所跡を訪ね、現
地に残る遺構をたどります。皆さまふるってご参加ください。

1.日時 平成25年1月26日(土) 13:30~16:30  ※13:00受付開始
      JR草津線手原駅集合・解散    全行程約5km(平地・舗装道)
            ※草津駅13:25発-手原駅13:29着 貴生川駅12:53発-手原駅13:12着 をご利用ください。
2.場所 栗東市商工会館3階研修室E(講義)/鈎陣所跡(現地見学)
     栗東市手原3-1-25/栗東市上鈎
3.主催 滋賀県教育委員会
4.協力 栗東市教育委員会
5.内容 講義「応仁の乱と将軍の近江親征」 講師:松下浩(滋賀県文化財保護課)
     鈎陣所跡現地見学 解説:栗東市文化体育振興課専門職員
6.定員 100名(事前申込制)
7.参加費 300円(保険料等実費分)
8.参加申込方法
(1)FAX・電話・メールに住所・氏名(ふりがな)・連絡先(携帯推奨)をお書きの上、下記までお申し込み
   ください。
(2)申込締切 平成25年1月24日(木)午後5時
9.持ち物 健康保険証、水筒、タオル、ウォーキングに適した靴・服装
10.その他
(1)講座資料(A4 8頁程度)を無料で配布します。
(2)単独回のみの参加も可能です。
(3)受講された方には修了証を発行します。
(4)悪天候等による中止の場合は25日(金)午後5時までに参加者に連絡します。
(5)集合場所付近には駐車場はありません。公共交通機関をご利用ください。

11.参加申込・問い合わせ
 滋賀県教育委員会事務局文化財保護課城郭調査担当
  〒521-1311 滋賀県近江八幡市安土町下豊浦6678 城郭調査事務所
  TEL0748-46-6144 FAX0748-46-6145 E-mail ma16@pref.shiga.lg.jp

今後の予定
【第4回】近江一向一揆の拠点~金森・三宅
    日時:平成25年2月23日(土) 11:00~16:30 JR守山駅集合・解散
  場所:守山駅前コミュニティホール(講義)/守山市金森町・三宅町(現地)
    講義:近江の真宗と寺内町金森 上垣幸徳(滋賀県文化財保護課)
    現地解説:守山市教育委員会専門職員
【第5回】湖賊の自治都市~堅田
  日時:平成25年3月23日(土) 13:00~16:30 JR堅田駅集合・解散
  場所:堅田市民センター(講義)/大津市本堅田(現地)
    講義:諸浦の親郷・堅田 仲川靖(滋賀県文化財保護課)
    現地解説:大津市歴史博物館専門職員


敏満寺城

2012年11月05日 | 城郭・イベント情報

敏満寺集落から、多賀サービスエリアへ

多賀サービスエリアの敏満寺城跡の説明銅盤

スタバの裏の石垣。

土塁の中は(公園・ドッグラン設置)

敏満寺城跡の石碑

下り線沿いに神戸方面へ

多賀サービスエリアの下り線の建物裏に、残る「敏満寺城の土塁」(白く見えるの説明標)


「北庄と橘屋―橘家文書の世界―」展

2012年10月21日 | 城郭・イベント情報

「北庄と橘屋―橘家文書の世界―」展

 
福井市で戦国時代に調合薬商を営んでいた「橘屋」にスポットを当て、
織田信長の朱印状をはじめ、橘屋に関する貴重な古文書などを紹介する企画展、
「北庄と橘屋―橘家文書の世界―」が福井県立歴史博物館にて開催されている。
10月23日(火)まで。
 
 
 

織田信長定書
 
 
現在の福井市中心部が北庄(きたのしょう)と呼ばれていた戦国時代。
その地に、調合薬商を家業とする橘屋という有力な商人がいた。
県立歴史博物館が所蔵する橘家文書は、
この橘屋の子孫の橘家に伝来したもので、
戦国時代の北庄の様子を知る上での一級史料として知られている。
 
 
そこで今回の企画展では、橘家文書の一部を特別に公開し、
これまで一般にはあまり知られていなかった橘屋を通して、
北庄の商人の活動や信仰、文化といった側面について紹介していく。
 
 
 

織田信長定書 朱印部分
 
 
 
「北庄と橘屋―橘家文書の世界―」展
 
会期  平成24年10月7日(日)~10月23日(火)
 
会場  県立歴史博物館(福井市大宮2-19-15)1階 オープン収蔵庫
 
開館時間  午前9時から午後5時まで(入館は午後4時半まで)
 
観覧料   一般 100円、 高校生以下・70歳以上 無料
       ※30名以上の団体 2割引 ※常設展もご覧になれます。
 
おもな展示資料
 
天正2年織田信長定書(天正2年(1574))
  
織田信長による「天下布武」の朱印状。
 
太鼓胴(室町後期)  
  
観世家より送られた太鼓。現在は胴のみとなっている。
 
 
 
お問い合わせ
 
福井県立歴史博物館
 
電話:0776-22-4675
公式サイト:http://www.pref.fukui.jp/muse