今は、全く整備・手入れもされていない。
伊庭御殿跡は、江戸時代初期に、徳川将軍が江戸から京都を往復する際に利用するために建てられた、御殿(ごてん)(御茶屋(おちゃや))跡です。現在は、地元神社の御旅所となっていますが、古指図(こさしず)とほぼ一致する場所に、高さ約1~1.5mの石垣が残っています。
記録には寛永11(1634)年に建設されたとあり、また、永原御殿(ながはらごてん)(野洲市永原に所在する御殿)が貞享(じょうきょう)2年(1685)年に廃止されていることから、伊庭御殿もその頃には廃止されたと考えられます。大工頭中井大和守(だいくがしらなかいやまとのかみ)の子孫である東京中井家に、伊庭御殿に関する古文書(「寛永十一年甲戌年 一、伊庭御茶屋御作事之時、小堀遠州守」)と古指図(「寛永十一戌年伊庭御茶屋御指図二枚」と表記)が残っており、指図と現状の地形がほぼ一致することを確認することができました。
伊庭御殿跡の周囲は、今は集落や水田が広がっていますが、当時は琵琶湖(内湖)に近い風光明媚な地であったと考えられます。
発掘調査では、古指図と一致する建物の列石・井戸が確認されました。また、石垣の高さを確認する調査では、古指図にある高さ(六尺五寸=約1.95m)とほぼ同じ約2mであったことが確認されました。
水口城跡(甲賀市)・永原御殿跡(野洲市)の県内にある御殿跡が、何れも方形の区画により構成されているのに対して、伊庭御殿は繖山(きぬがさやま)の裾に沿うような不正形区画となっており、全国的に見ても珍しく、特異な存在です。
伊庭御殿跡は、江戸時代の御殿の性格を考える上で、県内の他の御殿跡とともに重要な遺跡です。
繖山の麓、能登川の集落の北東部(JR東海道線の踏切を越えた所)に安楽寺がある。 この東側に地元では「御殿地」と呼ばれている一角がある。 ここが伊庭御殿があったところだ。
かつて、3代将軍徳川家光も宿泊したのであろう伊庭御殿だが、今では、愛宕神社のお旅所となっていて「御旅所」の石碑があるが、どこにも伊庭御殿がここにあったと云う石碑や案内板すらない。
御殿地を散策すると、御殿の庭園(手入れもされておらず、かつての庭木が・・・)跡と御殿地入口左側の竹藪の中に、伊庭御殿の石垣が僅かに残っている。
関ヶ原の合戦によって幕府を開いた徳川氏であったが、開幕当初豊臣方の勢力が残存していたため、将軍護衛のため堀・土塁・石垣をめぐらした城郭(御殿)風の御殿が必要であった。
伊庭御殿は、近江にこのような理由によって築かれた4つの御殿の一つである。(四御殿とは、伊庭御殿、柏原御殿、永原御殿、水口御殿)
寛永11年、幕府は3代将軍徳川家光の上洛に際して、近江湖北出身の茶人としても著名な小堀遠州(遠江守政一)に命じて伊庭御殿を築かせた。
今は御殿跡は、愛宕神社のお旅所として・・・
御殿地広場の看板といくつかのベンチ置かれていた
鉄格子の井戸?石碑に「お茶水」と・・・・反対側には、小さなお地蔵さん・・・!
市営「ちょこっとバス」のバス停すぐ。
今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました!