城郭探訪

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訪問 【伊庭御茶屋御作事之時、小堀遠州守・・・伊庭御殿】2012.8.29

2012年08月29日 | 遺蹟

今は、全く整備・手入れもされていない。

伊庭御殿跡は、江戸時代初期に、徳川将軍が江戸から京都を往復する際に利用するために建てられた、御殿(ごてん)(御茶屋(おちゃや))跡です。現在は、地元神社の御旅所となっていますが、古指図(こさしず)とほぼ一致する場所に、高さ約1~1.5mの石垣が残っています。
記録には寛永11(1634)年に建設されたとあり、また、永原御殿(ながはらごてん)(野洲市永原に所在する御殿)が貞享(じょうきょう)2年(1685)年に廃止されていることから、伊庭御殿もその頃には廃止されたと考えられます。大工頭中井大和守(だいくがしらなかいやまとのかみ)の子孫である東京中井家に、伊庭御殿に関する古文書(「寛永十一年甲戌年 一、伊庭御茶屋御作事之時、小堀遠州守」)と古指図(「寛永十一戌年伊庭御茶屋御指図二枚」と表記)が残っており、指図と現状の地形がほぼ一致することを確認することができました。

伊庭御殿跡の周囲は、今は集落や水田が広がっていますが、当時は琵琶湖(内湖)に近い風光明媚な地であったと考えられます。
 発掘調査では、古指図と一致する建物の列石・井戸が確認されました。また、石垣の高さを確認する調査では、古指図にある高さ(六尺五寸=約1.95m)とほぼ同じ約2mであったことが確認されました。
水口城跡(甲賀市)・永原御殿跡(野洲市)の県内にある御殿跡が、何れも方形の区画により構成されているのに対して、伊庭御殿は繖山(きぬがさやま)の裾に沿うような不正形区画となっており、全国的に見ても珍しく、特異な存在です。
伊庭御殿跡は、江戸時代の御殿の性格を考える上で、県内の他の御殿跡とともに重要な遺跡です。

 

 

 

繖山の麓、能登川の集落の北東部(JR東海道線の踏切を越えた所)に安楽寺がある。 この東側に地元では「御殿地」と呼ばれている一角がある。 ここが伊庭御殿があったところだ。


 かつて、3代将軍徳川家光も宿泊したのであろう伊庭御殿だが、今では、愛宕神社のお旅所となっていて「御旅所」の石碑があるが、どこにも伊庭御殿がここにあったと云う石碑や案内板すらない。

 御殿地を散策すると、御殿の庭園(手入れもされておらず、かつての庭木が・・・)跡と御殿地入口左側の竹藪の中に、伊庭御殿の石垣が僅かに残っている

 

 関ヶ原の合戦によって幕府を開いた徳川氏であったが、開幕当初豊臣方の勢力が残存していたため、将軍護衛のため堀・土塁・石垣をめぐらした城郭(御殿)風の御殿が必要であった。

 伊庭御殿は、近江にこのような理由によって築かれた4つの御殿の一つである。(四御殿とは、伊庭御殿、柏原御殿永原御殿水口御殿

 寛永11年、幕府は3代将軍徳川家光の上洛に際して、近江湖北出身の茶人としても著名な小堀遠州(遠江守政一)に命じて伊庭御殿を築かせた。

今は御殿跡は、愛宕神社のお旅所として・・・

御殿地広場の看板といくつかのベンチ置かれていた

鉄格子の井戸?石碑に「お茶水」と・・・・反対側には、小さなお地蔵さん・・・!

市営「ちょこっとバス」のバス停すぐ。

 

 今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました!


大浜神社 東近江市能登川

2012年08月29日 | 番外編

大浜神社概要: 


大浜神社の創建不詳ですが、古くから伊庭荘八郷の産土神として信仰されてきた古社です。

鎌倉時代には、佐々木六角の支流の領主伊庭頼高が地主神として崇敬したことで歴代伊庭氏が庇護し社運も隆盛しました。

戦国時代に入ると安土城から北東方向に境内が当る為、安土城の鬼門鎮護の鎮守社として崇敬され、文禄3年(1594)に現在地に遷座し

江戸時代も領主である三枝土佐守が庇護します。

境内にある仁王堂は鎌倉時代前期に建てられたと推定されるもので入母屋、茅葺、桁行5間、梁間5間、当初は正面に一間の向拝が付いていた仏堂だったとされ後世に現在地に移築されました。大浜神社仁王堂は滋賀県内に残る数少ない中世初期の仏堂建築の遺構として貴重な存在で滋賀県指定有形文化財に指定されています。

仁王堂大浜神社

東近江市伊庭町に鎮座

村社

祭神 須佐之男命 

社記によると、当村は元、古天王と呼ぶ所にあったが文禄三年(1594今の地に遷座とある。
古くは牛頭天王と称えたが、明治四年(1871)社号を現在の大浜神社に改めた。
この社の氏子は浜村座、或は、大浜座と称した事に依るという。

輿地誌略伊庭村の条に、「牛頭天王社伊庭山麓78町に在り、祭る所素盞鳥尊、
山域国祇園牛頭天王と同体なり、即ち伊庭庄中の産土神なり」とある。
ここに言う伊庭庄とは、今の伊庭、能登川、北須田、安楽寺の4村を指す。

当地は伊庭氏の本拠であり、室町時代の連歌師・宗祇の出自地だとも言われる、
古くて由緒ある土地柄である。

鎌倉時代前期の建物。
   現在は改修されて祭礼の場や神輿庫(伊庭の坂下し祭)として使用されているが、元は正面に一間の向拝が付く
   五間仏堂という建物であった。



伊庭の坂下し祭

伊庭の坂下し祭 織峰三神社 滋賀県近江市

連休真っ只中の 五月四日 奇祭 織峰三神社降神祭(伊庭の坂下し祭)県無形文化財に 来ました。 全長五百メート
ルの 岩山を 三基の神輿を 下ろす奇祭!日吉大社の 丑の神事を 手本に始まり 約八百年間 続けられている 危険
きわりないこの 神事 毎年 怪我人も出るという 荒々しい この祭 今から わくわくします。

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観音寺城の佐々木行実の四男高実が! 伊庭城(伊庭陣屋) 20120828

2012年08月28日 | 館跡

築城年代は定かではないが建久年間(1190年~1199年)に伊庭高実によって築かれたと云われる。 伊庭氏は観音寺城の佐々木行実の四男高実が、伊庭の領地を治めて伊庭氏を名乗った事に始まるという。

観音寺城の佐々木行実の四男高実が伊庭の領地を治めて伊庭氏を名乗った。伊庭城址には、明治時代に伊庭小学校に、昭和23年小学校後に現在勤節館が建てられているが保存されています。

伊庭城石垣(現在は大中湖・須田沼も干拓され、伊庭川を半分に埋め立て生活道路に!

)

伊庭貞隆の時代になると主家佐々木六角氏に匹敵する勢力を持つようになり、文亀二年(1502年)佐々木六角高頼は伊庭貞隆を排除するべく立ちあがる。貞隆は湖西へ逃れると管領家細川氏の援助を受けて攻勢に転じ、高頼は観音寺城を捨てて音羽(日野町)の蒲生氏を頼った。その後さらに足利将軍を巡る争いがおこり、伊庭氏は岡山城が落城して没落した。

元禄11年(1697年)旗本三枝氏が領主となって陣屋が築かれ明治に至る。

現在勤節館が建てられている、明治29年の大洪水碑が120cm位も!

現在勤節館が建てられている付近が城址で、

近くの水路に架かる橋は「陣屋橋」と名付けられ、付近の水路は堀跡で石垣は当時のものだという。

 

水茎岡山城の遠景(八幡山城址より)

佐々木定綱以来、約300年にわたって近江を支配してきた近江守護職・佐々木六角氏は応仁・文明の乱以降、近江における支配を磐石にした。こうして、六角氏が守護職として確固たろ地位築けた背景には、寺社・将軍の奉公衆等の領地を押領する形で、近江における領地支配の強化あげられる。                                         この領地押領が原因で長享元年(1487)足利義尚による第一次六角征伐、および、延徳3年(1491)の足利義材による第二次六角征伐と、二度にわたって近江親征がおこなわれた。

六角氏は近江新征の難局を家臣団とともに乗り越えたが、この近江新征によって、守護代の伊庭氏の発言権がますことに。

文亀二年(1502)10月、伊庭氏の勢力拡大に危機感を覚えた六角氏高瀬は伊庭貞隆の排除に動き、高瀬は一時勝利するが、官領細川政元の支援を得た、伊庭貞隆によって、青地城・馬渕城・永原城を落とされ、高瀬は観音寺城を捨てて音羽(日野町)の蒲生氏を頼った落ち延びた。(第一次伊庭の乱)

こうして主家・六角氏との戦いに勝利した伊庭氏は六角氏を凌ぐ権力を持つようになる。

 永正四年(1507)官領細川氏の家督争いがもとで、官領細川政元が家臣に暗殺されると、政元の庇護のもとで第11代将軍足利義澄は、大内氏の援護を受け上洛した前将軍足利義材によって将軍職を追われる。

都落ちした足利義澄は伊庭貞隆によって伊庭氏の家臣・九里備前守の水茎岡山城で保護されたが、義材派であった六角高瀬との対立が再燃。永正8年(1511)足利義澄が水茎岡山城で没すると、六角高瀬は好機到来と水茎岡山城を攻め九里美髯守を討った。

 この水茎岡山城の戦いを契機に、六角氏と伊庭氏との戦い永正11年(1514)から6年の長きわたって続くが、永正17年(1520)水茎岡山が陥落して内乱は終結し、伊庭氏は没落した(第二次伊庭の乱)

水茎岡山城遠景【八幡山より】

 

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました!


連続講座「近江の城郭」第1回 湖東の城塞寺院・百済寺 20120825

2012年08月27日 | 戦国山城

連続講座「近江の城郭」第1回 湖東の城塞寺院・百済寺 20120825

 連続講座「近江の城郭 城・寺・町~中世近江の自治の世界」の第一回講座「湖東の城塞寺院~百済寺」に参加。

 東近江市百済町にある百済寺は、聖徳太子が百済人のために創建した天台宗寺院で、百済の「龍雲寺」を模して造られ、高句麗僧恵慈や百済僧道欣とも関わりが深い近江の最古級の寺院として知られる。

北緯35.1度の不思議なご縁 百済国(光州)・次郎坊(鞍馬)・比叡山:太郎坊(東近江)・百済寺・熱田神社

 

 近江守護佐々木六角氏の支援を得て発展し、比叡山延暦寺に匹敵する規模で宗教勢力を誇ったが元亀四年(一五七三)四月十一日、天下統一をめざす織田信長と対立し、全山が焼き討ちに遭い廃墟になった。

その後、江戸時代初期に徳川幕府や井伊家の支援を得て復興した。

 焼き討ちに遭うまでの百済寺は、天台別院と呼ばれる中枢部に三百カ所の防、鈴鹿の谷筋に沿っていくつも延びた参道両側には、およそ七百カ所に坊が点在したとされ、千三百人余りの僧が居住した大寺院だったといわれている。その規模の大きさから別名「東の延暦寺」とも呼ばれている。 

 中でも参道や坊に築かれた石垣は、城塞のような機能を併せ持ったような造りが伺え、城郭的要素を持った寺院としても知られている。

 今回の講座では、威容を誇った中世の百済寺の歴史をたどり、城郭的な性格を示す寺院境内の現地見学と寺宝の「石曳絵馬」の特別拝観が行われる。

 百済寺は湖東三山のひとつに数えられる天台宗の名刹です。聖徳太子開基と伝えられ、高句麗僧恵慈や百済僧道欣とも関わりが深いといわれています。その後、近江守護佐々木六角氏の支援を得て発展し、宗教勢力として隆盛を誇りますが、やがて天下統一をめざす織田信長と対立し、六角氏を援助したとして焼き払われてしまいました。全山灰燼に帰してしまった百済寺ですが、近世に入り、徳川幕府や井伊家の支援を得て復興しました。

信長に焼かれる以前の百済寺は谷筋に添って参道が延び、その両側に多数の坊が広がる威容を誇っていました。参道や坊には石垣が築かれ、あたかも城塞のような景観が見られるなど、百済寺は城郭的要素をもった寺院として知られています。

今回の講座では、威容を誇った中世百済寺の痕跡をたどり、寺院に見られる城郭的要素について現地で御覧いただきます。また、あわせて寺に伝わる寺宝の石曳絵馬を特別に拝観させていただきます。

  

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました!

本日の歩数 10,026歩   1時間47分 7.07km

 消費カロリー 125.5kcal    脂肪消費量 17.9g



探訪 【百済寺城 近江国】 2012.8.25

2012年08月25日 | 戦国山城

 百済寺城は敏満寺城と共に城砦化された寺院で、城郭寺院の典型ともいえ、百済寺の総門の左右には長大な土塁と空堀が残されている。

 総門は朱塗りであるため「赤門」とも呼ばれており、この赤門の南側には約50mにわたって残る土塁と空掘はまさに城砦の構えである。
 南に延びる土塁と空堀は途中で確認しにくくなるものの、井伊直滋墓所の裏から延々と続いている。また、赤門北側には、赤門横の道路を少し登った左手雑木林の中に土塁を確認することができ、滋賀県中世城郭分布調査委員会資料によれば、土塁は赤門南側で総延長450m、北側はは230mにおよぶとしている。
土塁の一部には空堀側斜面に石垣を積み、より堅固な作りとしている部分もある。


 本堂に至る左右の尾根の中腹には北要害,南要害と呼ばれる砦が築かれ、階段状に曲輪が認められる。
また、赤門をくぐると本堂まで両側に石垣の積まれた参道が続き、本堂は3~4mほどもある石垣の上に建てられており、これら石垣みても百済寺が尋常な寺でないことが伺い知ることができる。

 百済寺は朝鮮からの渡来系氏族といわれる秦氏によって建立された寺院で、文亀3年(1503)に六角高頼と六角氏被官の伊庭貞隆の抗争(第一次伊庭の乱)により全焼し、この復興と共に城塞化が始まったとされている。

元亀4年(1573)百済寺は六角義弼の立て籠もる鯰江城を支援したとして、織田信長に攻められ、伽藍はことごとく灰燼に帰したとされる(信長公記)

以下、信長公記の元亀4年の条 百済寺伽藍御放火の事
 七月七日 信長公、御帰陣。其の日は守山に御陣取り、是れより直ちに百済寺へ御出で、二、三日御逗留あって、鯰江の城に佐々木右衛門督楯籠るを、攻め衆人数、佐久間右衛門尉・蒲生右兵衛大輔・丹羽五郎左衛門尉・柴田修理亮に仰せつけられ、四方より取詰め、付城させられ侯。近年、鯰江の城、百済寺より持続け、一揆と同意たるの由、聞こしめし及ばる。四月十一日、百済寺堂塔・伽藍・坊舎・仏閣、悉く灰燼となる。哀れなる様、目も当てられず。其の日は岐阜に至りて御馬を納められ候ひき。


多賀・若宮・上坂・下坂の諸氏が京極家臣として活躍している。

2012年08月21日 | 武将

今井氏

三つ巴(藤原氏秀郷流)

 応仁の乱(1467)後、近江国の湖北地方は近江半国守護京極氏の内紛、六角氏との抗争、浅井氏の勃興などによって、戦火は絶える暇もなく続き、まさに戦国乱世の様相を呈していた。そのようななかで、戦陣に身を挺して活躍したのは、国人・土豪と呼ばれる武士たちであった。

守護や戦国大名の有力家臣は、国人領主である場合が多く、土豪たちはその下の家臣であった。戦国期京極氏の変遷を記した『江北記』には、京極氏の根本被官、つまり京極氏に初めから従っていた家臣たちとして、「今井・河毛・今村・赤尾・堀・安養寺・三田村・浅井・弓削・河瀬・二階堂」が挙げられている。これらの武士は、主として湖北各地に割拠する国人である、このほかに、多賀・若宮・上坂・下坂の諸氏が京極家臣として活躍している。

 今井氏は、藤原秀郷の後裔と伝えられ、承久の乱のとき院方に加わって、勢多橋で熊谷小次郎と戦った九郎進士俊綱を祖とする。美濃守高遠の代になって、応仁の乱が起きると、高遠は京極持清に属して各所に出陣した。『今井軍記』によれば、応仁元年(1467)には犬上郡の下安食に布陣じて高野瀬城を攻略した。翌応仁二年には甲賀郡の小佐治で合戦し、文明元年(1469)の七月には愛知郡の押立城を攻撃して、敵将の目賀田藤左衛門を斬った。翌文明二年の黒橋の合戦では、息郷・望月・村島・大原・服部らの諸将を討ちとり、その軍功により佐々木本郷の代官職を命じられたとある。

応仁の乱から戦国時代へ

 高遠の子備中守秀遠も持清に従って細川方に属し、京都にあって、五月には大宮の戦い、応仁元年の六月には芝薬師堂、七月にが獄門で戦い、それぞれの戦いに殊勲を立て、細川勝元より感状を与えられている。文明二年京極持清が卒去すると、重臣の多賀高忠と同清直の同族が相争った。秀遠は高忠を援け、翌三年米原の太尾山の合戦では一族の岩脇近俊ら多くの戦死者を出した。文明十八年、多賀宗直が専横をふるい、京極秀綱を追放するという反乱を起こした。このとき、秀遠は秀綱に従って、宗直に与する堀氏成を攻め、翌十九年には、国友河原で宗直と戦い、宗直側の赤尾・箱根らを討ちとった。その後、宗直は月ヶ瀬の城館で自殺した。
 明応四年(1495)、美濃守護土岐氏に内訌が生じ、六角高頼はそれに関与して湖北へ兵を進めて浅井郡宮部に布陣した。これに対し、京極秀綱改め高清は六角高頼を攻撃した。秀遠は子の清遠らと高清に従って奮戦した。
 翌年、土岐氏の家臣石丸利光が反逆したため、土岐氏の重臣斎藤利国は京極高清に援助を求め、高清はそれに応じて浅井直種・三田村らを遣わし、自らは弥高山に布陣した。六角高頼は石丸救援の兵を起こし、京極高清を討とうと、伊吹山麓に兵をすすめ、高清の軍と戦った。しかし、石丸利光が敗れて自殺したとの報に、兵を引こうとする六角軍を今井秀遠が追撃し、醒井・番場で六角軍の首四十余を得たという。
 清遠の代には、京極高清と京極材宗との合戦が繰り広げられ、多賀経忠が材宗方に付いたことから、清遠は高清方に加わり、伊庭氏の軍勢と戦い、戦功をあげたという。

時代に翻弄される

 このように、今井氏は室町時代を通じて京極氏に仕えて数々の合戦に参加し、功名をあげて所領安堵を受けた。そして、一族のほかに家子郎党として、土豪層をも組織し、京極氏の重臣としての地位を確立した。そして、箕浦城に拠って、戦国時代になると、京極氏の勢力下から自立して、ときには国人連合のなかに身を置きつつ、独自の領主制を形成する基盤づくりをも行っていった。
 ところが、秀俊の代になると、主家京極氏の家督争いの深刻化と、同じ京極氏根本被官家のひとつである浅井氏が威勢をふるうようになり、さらに、湖東の六角氏との抗争が激化。そのようななかで、湖北と湖東の境界となる天野川流域に拠点を有する今井氏は、時代の激流に翻弄されることになる。

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箕浦城址

箕浦字殿にわずかな土盛りを残すばかりの箕浦城は、往時、北は通船川あたりまで、南は天野川から水路をひき防御の堀を設けいていたという。しかし、いまその面影はまったく失われている。今井氏が本拠としていた箕浦には、箕浦市場があり、秀吉が長浜に市を開くまでは物流・交通の要衝として栄えていた。それを裏付けるかのように、市場近くに八幡神社には、上洛途上の源頼朝が休んだという腰掛石が遺されている。

http://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/160f45b15e2bac600ea6d703d3e9e89b

 享禄四年(1531)、今井氏の居館のある箕浦で浅井氏と六角定頼との合戦があり、六角氏が勝利した。

この戦いは享禄元年の内保河原の戦い以後も対立し続けていた京極氏の内紛が、高清・高延を擁立する浅井氏と、高慶を推す六角氏の争いへと発展したものである。今井氏は内保河原の戦いでは六角側であったが、その後、浅井氏側に付いたため攻撃を受けたという。しかし、当初は六角氏側であり、浅井氏と戦って敗れたことで浅井氏に従ったため、進退を疑われた秀俊は神照寺へ呼び出されて切腹させられてしまった。

かつては今井氏と浅井氏とは、ともに京極氏の重臣であったが、浅井氏は着々と勢力を拡大し戦国大名としての実質を持つようになった。一方、その波に乗り遅れた今井氏は、やがて浅井氏の家臣となることに活路を見い出すことになるのである。

秀俊自刃後、残された尺夜刃丸(のちの定清)は六角定頼を頼り、定頼も尺夜刃丸を庇護した。以後、今井氏は六角氏に従ってしばしばの出陣命令を受けている。そして、浅井亮政が死去したあとを継いだ久政は京極氏に攻められて、ついに天文十八年(1549)ごろに京極高広に降伏し、浅井氏はふたたび京極氏に従うことになった。このころ、尺夜刃丸も成人して定清と名乗っていた。


佐々木六角氏の宿老の一人として知られる三雲氏は、武蔵七党の一

2012年08月21日 | 武将
三雲氏
●軍配団扇に一文字
●武蔵七党児玉氏後裔 
図柄は「寛政重修諸家譜-家紋」から作成。  



 戦国時代、江南の戦国大名であった佐々木六角氏の宿老の一人として知られる三雲氏は、武蔵七党の一、児玉党の分かれと伝えられている。

玉党は藤原内大臣伊周の子伊行が児玉を称したことに始まるといい、児玉家弘はのちに庄を称し、その子弘方は浅見(阿佐見)氏を称した。その子浅見太郎実高は源頼朝に仕えて奥州征伐に従い勲功を挙げ、建保四年(1216)十二月左兵衛尉に任じた。


 浅見氏は武蔵国児玉庄をはじめ、上野国高山庄、吾妻郡中山村、越後国荏保等の地を領した。その後、実高六代の孫家実は関東より越後国に赴いた。おりしも一揆が起こり、家実は守護に属して一揆討伐に功を挙げたと伝えられる。家実は応永四年(1397)に死去したとあることから、南北朝時代を生きた人物であった。

三雲氏の登場

 家実ののち三雲氏の動向は知れないが、寛政重修諸家譜によれば明応年中(1492~1501)、新左衛門実乃(さねのり)が甲賀郡下甲賀を領して三雲に住した。そして、地名にちなんではじめて三雲を称した。その子源内左衛門行定は下甲賀ならびに野洲・栗太両郡を領して、三雲に築城してそこに拠ったという。かくして、近江国甲賀郡に土着した三雲氏は、甲賀五十三家の一つに数えられ、その領地の高は実に九万石であったという。


 とはいえ、寛永系図に記された三雲氏の伝承はそのままには受け取れないものである。郷土誌などによれば、三城雲は長享元年(1487)、足利義尚に攻められた六角高頼が、三雲新左衛門典膳実乃に命じて築かせたとある。

府軍との直接対決を避けて甲賀に逃れた高頼は、本城観音寺城の詰めの城として三雲典膳に城を築かせたのであった。義尚の六角攻めは鈎の陣と呼ばれ、三雲氏ら甲賀五十三家の武士たちは、六角氏に属して鈎の陣を夜襲するなどして散々に幕府軍を悩ました。


 近江国甲賀郡の各地に割拠して甲賀五十三家と呼ばれた武士たちは、勢力をたくわえ地縁、血縁で結ばれ、戦国期には六角氏の麾下に属して活躍した。とくに青木・山中・隠岐・池田・和田、そして三雲の六家は大身で甲賀六家と呼ばれた。また、先述の鈎の陣に殊勲のあった二十一武士は、甲賀二十一家と称され三雲新蔵人がその一に数えられた。

このように三雲氏は、甲賀武士の一として相応の地歩を築き、典膳実乃のころには六角氏から厚い信頼を受ける存在となっていた。

しかし、九万石という所領高は破天荒に多過ぎるものといえよう。

三雲城 縄張り

典膳実乃の築いた城ははじめ吉永城と呼ばれ、実乃のあとを継いだ行定がさらに整備し三雲城と呼ばれるようになったらしい。

 ●三雲城遠望 ●三雲城への道標・虎口の石組・あちこちに土塁が確認できる・古井戸の跡、底には落ち葉が。


行定の名乗りは六角定頼(1495~1552)の一字を賜ったと推測され、六角氏家中に重きをなしていたことがうかがわれる。


近江源氏あるいは佐々木源氏と呼ばれて

2012年08月18日 | 武将

ファイル:Hōgen no ran.jpg

『保元・平治の乱合戦図屏風』「白河殿夜討」
(江戸時代)メトロポリタン美術館所蔵

 

佐々木氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
佐々木氏
家紋
四つ目結
本姓 宇多源氏
家祖 源 経方
種別 武家
出身地 近江国蒲生郡佐々木庄
主な根拠地 近江国、出雲国、隠岐国、越後国ほか
著名な人物 佐々木秀義
佐々木定綱
佐々木盛綱
佐々木高綱
佐々木義清
吉田厳秀
支流、分家 六角氏(武家)
京極氏(武家)
大原氏(武家)
高島氏(武家)
加地氏(武家)ほか
凡例 / Category:日本の氏族

佐々木氏(ささきし)は、平安時代に起こり近江国蒲生郡(現滋賀県近江八幡市安土町)佐々木荘を本貫地とした武家。

概略

佐々木氏は、近江国を発祥の地とする宇多源氏の一流である。宇多天皇の玄孫である源成頼が近江国佐々木庄に下向し、その地に土着した孫の経方が佐々木を名乗った事から始まるとされるが、これには異説もあり現在も議論されている。

宇多源氏の中でも佐々木氏は特に近江源氏あるいは佐々木源氏と呼ばれて繁栄し、各地に支族を広げた。

祖の佐々木秀義は保元元年(1156年)に崇徳上皇と後白河天皇が争った保元の乱において、天皇方の源義朝軍に属して戦った。平治元年(1159年)の平治の乱でも義朝軍に属して戦うが、義朝方の敗北により伯母の夫である藤原秀衡を頼って奥州へと落ち延びる途中、相模国の渋谷重国に引き止められ、その庇護を受ける。秀義の4人の子定綱、経高、盛綱、高綱は、乱後に伊豆国へ流罪となった義朝の嫡子源頼朝の家人として仕えた。

治承4年(1180年)に頼朝が伊豆で平家打倒の兵を挙げると、佐々木4兄弟はそれに参じて活躍し、鎌倉幕府創設の功臣として頼朝に重用され、本領であった近江を始め17ヶ国の守護へと補せられる。また、奥州合戦に従軍した一門の者は奥州に土着し広がっていったとされる。

承久3年(1221年)に後鳥羽上皇と幕府が争った承久の乱が起こると、京に近い近江に在り検非違使と山城守に任ぜられていた定綱の嫡子である佐々木広綱を始め一門の大半は上皇方へと属し、鎌倉に在り執権の北条義時の婿となっていた広綱の弟の佐々木信綱は幕府方へと属した。幕府方の勝利により乱が治まると、敗れた上皇方の広綱は信綱に斬首され信綱が総領となる。

近江本領の佐々木嫡流は、信綱の死後、近江は4人の息子に分けて継がれ、3男の佐々木泰綱が宗家となる佐々木六角氏の祖となり、4男の佐々木氏信が佐々木京極氏の祖となる。

鎌倉政権において、嫡流の六角氏は近江守護を世襲して六波羅を中心に活動し六波羅評定衆などを務める一方、庶流の京極氏は鎌倉を拠点として評定衆や東使など幕府要職を務め、北条得宗被官に近い活動をしており、嫡流に勝る有力な家となる。

京極氏の系統である佐々木道誉は、足利高氏の幕府離反に同調して北条氏打倒に加わり、足利政権における有力者となる。

また、治承4年の頼朝挙兵時に平氏方につき、後に頼朝に従った佐々木義清(佐々木秀義の5男)は、初め「源氏仇方」であったため平氏追討以後も任国を拝領しなかったが、永年の功と承久の乱の時に幕府方についたため、初めて出雲、隠岐の両国守護職を賜い、彼国に下向し近江源氏から分派して出雲に土着したため、この一族を出雲源氏という。

 

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伊庭氏、近江源氏佐々木氏の支流。

2012年08月18日 | 館跡

伊庭氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
伊庭氏
家紋
四つ目結
三つ盛洲浜
本姓 宇多源氏佐々木氏支流
家祖 伊庭実高
種別 武家
出身地 近江国神崎郡伊庭邑
著名な人物 伊庭八郎伊庭貞剛
凡例 / Category:日本の氏族

伊庭氏(いばし)は、日本氏族の1つ。

近江源氏佐々木氏の支流であり、佐々木経方の子、行実の四男実高(出羽権守重遠)が、はじめて近江国神崎郡伊庭邑に居住し、伊庭氏を称した。伊庭城建久年間(1190年 - 1199年)に実高によって築かれたといわれる。

実高の後、貞資、貞平、貞光、公貞、時高、氏貞、基貞、高貞、貞安、実貞、貞職、貞信、貞勝の14代を経て貞勝は蒲生郡桐原郷に身をよせ、後中小森で慶長12年(1607年)に没した。

貞勝の子の貞家は渡辺吉綱に仕え、伊庭氏は代官として近江における和泉伯太藩の飛び地(西宿、虫生、峰前、竹村等5ヵ村三千石)を代々支配するようになった。

実高が伊庭氏を名乗ってから25代の後裔にあたる貞剛は明治12年(1879年)、裁判官から住友本社に入社、明治33年(1900年)に第2代総理事となり住友財閥の基礎を築いた。

 

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甲賀五十三家は、「鈎の陣」にて六角氏に味方した、後の甲賀流忍術の中心となった家々。

2012年08月18日 | 武将

甲賀五十三家

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甲賀五十三家(こうがごじゅうさんけ)は、「鈎の陣」にて六角氏に味方した甲賀の地侍五十三家のことであり、後の甲賀流忍術の中心となった家々である。

関連項目

 

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後藤賢豊「六角氏の両藤」と呼ばれる六角氏の宿老

2012年08月17日 | 武将

後藤賢豊

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後藤賢豊
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 永禄6年(1563年)
別名 重左衛門尉
官位 但馬守
主君 六角氏
氏族 後藤氏
父母 不明
兄弟 賢豊、妹(蒲生賢秀室)
後藤壱岐守、後藤高治

後藤 賢豊(ごとう かたとよ)は、戦国時代の武将。六角氏の家臣。

生涯

賢豊の後藤氏と進藤貞治の進藤氏は「六角氏の両藤」と呼ばれる六角氏の宿老であり、賢豊は智勇に優れた武将で、六角義賢に従って浅井攻めなどに活躍した。

永禄2年(1559年)、蒲生氏と共に恩賞条奉行を務める。永禄5年(1562年)、義賢の上洛に従い、大徳寺警護を務める。

永禄6年(1563年)、義賢の子・六角義治の起こした観音寺騒動により観音寺城内で子の壱岐守(名は不詳)らとともに殺害された。後藤氏の家督は賢豊の次男・後藤高治が継いだ。

 

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平井定武(六角氏の執政を支える六宿老と呼ばれ)

2012年08月17日 | 武将

平井定武

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平井定武
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 不詳
別名 右兵衛尉、加賀守(通称)
墓所 滋賀県愛知郡愛荘町の生蓮寺
主君 六角定頼→義賢→織田信長
氏族 平井氏
父母 父:平井高好、母:某女
高明、娘(浅井長政正室)

平井 定武(ひらい さだたけ)は、戦国時代の戦国武将。近江国観音寺城主六角氏の重臣。子に平井高明、娘は浅井長政の正室(先妻)。加賀守。

経歴

後藤賢豊や蒲生賢秀、三雲成持らと並んで、六角氏の執政を支える六宿老と呼ばれ、近江国栗太郡平井(平居とも)に拠点を構えたとされる。

永5年(1525年)、六角氏と浅井亮政との戦での出陣や、天文22年(1553年)11月の浅井氏との和議に関する書状、さらには石山本願寺への使者として派遣されたことが本願寺側の記録に見えることから、六角氏の中で重きを置かれていたことがわかる。永禄11年(1568年)、織田信長が近江に侵攻すると、六角氏を離反して信長に降った(『言継卿記』)。以後の消息は不明である。

六角氏に臣従していた浅井久政の子、浅井賢政(のちの浅井長政)の烏帽子親であり、後に娘を長政の嫁に送り込む。六角氏の専横に怒った浅井家臣団が久政を廃して、長政を擁立すると離縁され、娘は平井家に送り返されたという。

『浅井氏家譜大成』によると、離別された娘は長政との間に浅井万福丸を産んだとされ、彼は万福丸の外祖父に当たるとされる。

 

 

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琶湖疏水と大文字観望ウォーク20120815

2012年08月16日 | ウォーキング

 

 

琶湖疏水と大文字観望ウォーク20120815

現在の琵琶湖疏水の全体図

邊朔郎像--1982(昭和57)年建立 

南禅寺水路閣に到着

 史跡
路閣京都市左京区
南禅寺福地町

南禅寺楼門

参加者514名昼食

 

吉田山・・・ここから大文字火床の観望・・・木々の葉で何も見えませんでした!

史跡
琵琶湖疏水

第一疏水
1890(明治23)年4月竣工
全長約20km
滋賀県大津市~京都府京都市山科区
第1疏水琵琶湖取水口
(滋賀県大津市浜大津・観音寺)
琵琶湖第一疏水揚水機場

史跡
大津閘門・制水門
1887(明治20)年 5月16日起工
1889(明治22)年10月30日竣工

史跡
山ノ谷橋
1904(明治37)年竣工
日本最初のコンクリート・アーチ橋
京都市山科区黒岩町

史跡
日ノ岡第11号橋
1903(明治36)年
日本最初の鉄筋コンクリート橋
(本邦最初鉄筋混凝土橋)
京都市山科区日ノ岡堤谷町

史跡
第一トンネル 全長2436m
第一隧道入口
滋賀県大津市三井寺町字筒井
第一竪坑
滋賀県大津市稲葉台字小関
第二竪坑
滋賀県大津市藤尾奥町字割石
第一隧道出口
滋賀県大津市藤尾奥町字大谷

小関越え
「小関(こぜき)越え」は、現在の大津市北国町通りから小関峠を越え、横木一丁目の旧・東海道までのおよそ4kmの道のりです。
古くから京都と北国街道を結ぶ間道として利用されてきました。
東海道の「逢坂越え」を「大関越え」と呼ぶのに対して、「小関越え」と呼ばれていました。
小関越えに沿って琵琶湖疏水の第一隧道、第一竪坑、几号水準点、第二竪坑があります。
几号水準点
琵琶湖疏水測量標石
 
安祥寺川水路橋
 
諸羽トンネル 全長520m
1970(昭和45)年竣工
 
 
 
 
本日の歩数   24,634歩     3時間56分 17.2km
消費カロリー 1,030.3kcal    脂肪消費量 147.1g  とても疲れました。
 
 

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佐々木氏の出目

2012年08月14日 | 武将

系図

  (54)仁明天皇   (55)文徳天皇   (56)清和天皇   (57)陽成天皇   元良親王
               
                      惟喬親王     貞純親王   (源)経基清和源氏へ〕
     
            (58)光孝天皇   (59)宇多天皇   (60)醍醐天皇    
           
            人康親王   操子女王
(藤原基経妻)
    真寂法親王
(斉世親王)
     
                            敦実親王   (源)雅信宇多源氏へ〕

 

宇多源氏

59代宇多天皇の子孫。
第八皇子である敦実親王の子、源雅信・源重信 兄弟はいずれも左大臣となった。源重信の子孫は十二世紀初めまで公卿を輩出した。源雅信の子孫からも多くの公卿を輩出し、鎌倉時代以降、庭田家、綾小路家等に分かれ、明治維新に至るまで堂上家としての地位を保ち、栄えた。
堂上公家:庭田家、綾小路家、五辻家、大原家、慈光寺家
氏族:佐々木氏、出雲源氏諸氏

佐々木氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
 
佐々木氏
家紋
四つ目結
本姓 宇多源氏
家祖 源経方
種別 武家
出身地 近江国蒲生郡佐々木庄
主な根拠地 近江国出雲国
隠岐国越後国ほか
著名な人物 佐々木秀義
佐々木定綱
佐々木盛綱
佐々木高綱
佐々木義清
吉田厳秀
支流、分家 六角氏武家
京極氏武家
大原氏武家
高島氏武家
加地氏武家)ほか
凡例 / Category:日本の氏族

佐々木氏(ささきし)は、平安時代に起こり近江国蒲生郡(現滋賀県近江八幡市安土町)佐々木荘を本貫地とした武家。

概略

佐々木氏は、近江国を発祥の地とする宇多源氏の一流である。

宇多天皇の玄孫である源成頼が近江国佐々木庄に下向し、その地に土着した孫の経方が佐々木を名乗った事から始まるとされるが、これには異説もあり現在も議論されている。

宇多源氏の中でも佐々木氏は特に近江源氏あるいは佐々木源氏と呼ばれて繁栄し、各地に支族を広げた。

祖の佐々木秀義は保元元年(1156年)に崇徳上皇と後白河天皇が争った保元の乱において、天皇方の源義朝軍に属して戦った。平治元年(1159年)の平治の乱でも義朝軍に属して戦うが、義朝方の敗北により伯母の夫である藤原秀衡を頼って奥州へと落ち延びる途中、相模国の渋谷重国に引き止められ、その庇護を受ける。秀義の4人の子定綱、経高、盛綱、高綱は、乱後に伊豆国へ流罪となった義朝の嫡子源頼朝の家人として仕えた

 

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「育ての親/春日局(お福)」

2012年08月11日 | 番外編

聖徳太子孝養像

百済寺再建時の寄進者の一人『春日局』の遺品が家光将軍より落慶時に寄贈されたと伝わる極彩色の太子像の逸品で歴女・仏女の方々には必見頂きたいお姿です。
  • 期 間: 9月15日(土)~12月9日(日)
  • 場 所: 本 堂
極彩色 『聖徳太子孝養像』 特別参拝

近江 百済寺は天正元年(1573年)4月11日に織田信長の焼討で一千坊が消滅しました
 この年にNHK大河ドラマで大騒ぎの「お江」が生まれています。

一方、お江の子「家光」将軍による百済寺再建許可後、ようやく慶安3年(1650年)に本堂、山門、仁王門等が復興されました。
 寺伝によると落慶記念奉納品として、将軍から極彩色の『聖徳太子孝養像』が寄贈されました。
極彩色 『聖徳太子孝養像』 

 この太子像は家光の乳母春日局(斎藤 福、1643年没)が生前に大奥で大切に拝んでいた像であると言われております。                             残念ながら、翌1651年に家光将軍も48歳の若さで病没しました。

 以上のご縁から、聖徳太子創建の百済寺では、家光の「生みの親/お江」よりも「育ての親/春日局(お福)」に重きを置いております。

 春日局は、書道、歌道、香道、茶道等の教養に加えて、大奥の組織編制、朝廷との交渉など難問解決に辣腕を振るう『スーパーウーマン』だったようです。
 このような歴史の流れを事前に知って頂き、春日の局の心中では「竹千代(家光)」が聖徳太子さまのように育って欲しいとの想いが潜んでいたものと推理しながら「太子像」とご対面下さい。

 

http://www.hyakusaiji.or.jp/index.html

 

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