城郭探訪

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夕日ヶ丘城(向山城・入日ヶ岡城) 近江国(野洲)

2013年11月30日 | 平山城

ニュ-タウンのような名の城!中仙道沿いに。

登り口 

お城のデータ

別  名 : 向山城、入日ヶ岡城

所在地 : 野洲郡野洲町大篠原成橋 Yahoo!地図http://yahoo.jp/tQqeZ7

築城年 :文明年間(1469~87)

築城者: 田中四郎右衛門・奥左門守之」とあり

改築者:馬淵氏

形  式 : 平山城

標 高:146m   比高差:40m

遺  構 : 竪堀、櫓台、土塁、竪堀、堀切

訪城日 : 2013.11.29

お城の概要

夕日ヶ丘城は、大篠原成橋集落の北西にある夕日ヶ岡と呼ばれる三つのピークを持つ独立丘陵の中央ピーク上に位置している。周辺には、星ヶ崎城、小堤城山城、上永原城などが2~3km程の距離で所在している。

中央ピークの東側鞍部から西に向け登って行くと、山頂部が北に張り出た所に取り付く。その斜面には、この城の見所である畝状竪堀が設けられており、竪堀の間を抜け不明瞭な堀切を経て、北東の郭に入る。北東側の中央には、方形土壇が築かれており、櫓が設けてあったと思われ、北東や南東の郭をはじめ四方への睨みを利かせている。北東土壇と中央土壇の間には、四方を土壇と土塁で囲繞された郭、中央土壇の南西側に削平地、その北西側一段下に腰郭、南西端が墳丘の土壇となっている。墳丘土壇の西側鞍部は堀切で遮断している。

いずれの遺構も不明瞭であり、織田信長軍の破城を受けたのではないかとされている

歴   史

「鏡山の西入日岡ニ城ヲ築キ 田中四郎右衛門・奥左門守 之」とあり、これは大篠原字向山の向山城(従来夕日ヶ丘城等と呼んだ)であり、また、古絵図には「入日岡 田所殿屋敷跡」と記されている(大篠原共有文書)が、詳細については不明である。

六角佐々木氏重臣馬淵氏の城と伝わる

馬淵氏は、佐々木定綱の五男定広にはじまるが、夕日ヶ丘城がいつごろ築かれたのかは明らかでない。

馬淵氏は、南北朝時代には野洲郡の郡奉行に任じられており、古くから篠原周辺に勢力をもっていた。夕日ヶ丘の名は、南東2㎞ほどのところにある、向山城の別称入日ヶ岡城に関連したものとも推測される。向山城は文明年間(1469~87)の築城とされているため、夕日ヶ丘城もその前後に築かれたものとも推測される。

  山麓の向山神社は、永正四年(1507)に馬淵山城守宗綱によって再建されたと伝わるため、このころまでには、城も築かれていたのではないかと考えられる。

 宗綱の娘は、蒲生定秀に嫁いだとされる。宗綱は、永禄十一年(1568)の信長上洛戦で戦死したとされているが、定秀の生年を考えると、不可能ではないが相当な高齢で戦に臨んだものとみられる。

宗綱とその子兵部少輔建綱は、永禄十年(1567)の「六角氏式目」に連署している。           

式目が制定されるきっかけとなった同六年(1563)の観音寺騒動では、元家臣の在地領主永原氏が六角氏に抵抗し、「篠原上の城」と同「下の城」に立て籠もった。六角義賢は、永原氏制圧のために星ヶ崎城へ入ったが、このときの馬淵氏の動向については詳らかでない。

一説には、馬淵父子も離反したともいわれるが、いずれの側にあっても、夕日ヶ丘城は前線の城の1つとなったものと推測される。
 

 信長上洛後の夕日ヶ丘城および馬淵氏については詳らかでない。

『日本城郭大系』には、元亀元年(1570)に馬淵甲斐守秀信が弥勒寺城や岩倉城に拠って信長に抵抗したものの、敗れて滅ぼされたとある。

このときまで夕日ヶ丘城が存続していたのか、城で戦闘があったのかなど、詳細は不明である。

左の山が星ケ崎城(遠望)左の山は、小堤山城山(頂上が切れてますが)遠望

         

 曲輪の削平状態は良いとはいえず、城域の判断は難しいが、南北に延びる北尾根に2本、南尾根に1本ある堀切が城域の北限と南限か。その他に竪堀が3本確認できる。(古墳上の築城なので、又近世ハイキングコースや里山整備の実施され改変されたカ?)

          横堀 北側虎口か、石積み北側虎口か、石積み 郭跡か、平削地が成橋地区の背後の丘の頂上付近に位置しており、中山道を見下ろすような位置に築城されている。

 曲輪の削平状態は良いとはいえず、城域の判断は難しいが、南北に延びる北尾根に2本、南尾根に1本ある堀切が城域の北限と南限か。その他に竪堀が3本確認できる。

  里山整備の休憩所主郭か 

明治期の村誌に「馬淵氏の倉庫なり。今猶紅腐の米あり。」と記されているそうです。

倉庫に使われた石室

    西の主郭      古窯跡か?

       

  南西登り口 水堀(用水路)水堀(用水路)

 南登り口は、この水堀(用水路)の畔道を入る駐車可20台

   


 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、日本城郭体系

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


菩提山城    美濃国(垂井)

2013年11月29日 | 戦国山城

県指定史跡  

お城のデータ

区 分:山城

標 高:401m    比高差:335m 

城 主:竹中重元・竹中重治  

案内  竹中陣屋のある岩手小学校南側の道を西へ進んで、踏切を越えてY字路を右へ、白山神社への参道に案内板がある。 

所在地 岐阜県不破郡垂井町岩手

訪城日:2013.11.27

 

ここまで20分

 

菩提山城は、標高401m、南北260m、東西最大幅60mの規模。ハイキングコース(全長2.7km)があり簡単に登れちゃいます。近所なんでよく登りました。竪堀や堀切があって、てっぺんに双眼鏡があるが普通なら50円のところなんと無料。垂井、大垣が一望できます。

歴史  

永禄2年(1559年)一説に天文15年の説もあるが、竹中重元によって築かれた。                                                                       重元は羽柴秀吉に仕えて播磨国三木城攻略時に病没した竹中重治(半兵衛)の父である。

この地には岩手氏が勢力を張っていたが、竹中重元が岩手氏を攻め滅ぼして菩提山城を築いた。                                                           しかし、翌年には重元は病没し子重治が16歳で家督を継いだ。重治は羽柴秀吉に仕えて播磨国三木城を攻略中に病没する。子重門は幼少であっだか成人した後、菩提山城を廃して麓の館を移し、竹中陣屋を築いた。

菩提山城・・・遠望(五明神社より)

お城の概要  

城は標高401.1mの菩提山に築かれている。 白山神社から山道を登り詰めると三の曲輪で、ここから南へ堀切を越えて行くと出曲輪へ到達する。                 出曲輪の西と南側には土塁があり、幅広く櫓台のようである。西側の土塁に沿って溝のようなものが南北に走っている。                                    出曲輪の南下には堀切が二条あって、その間に竪堀を数条並べた特異な堀があり、西側に一条の長大な竪堀がある。                                    三の曲輪を北側へ行くと台所曲輪を経て、右手に上がると二の曲輪へ至る。二の曲輪と一の曲輪の間には池のような空堀がある。                             期待以上に遺構が良く残っており、比較的良く整備されているので散策しやすい。竪堀も幅の広いものと狭いものを使い分けているようで興味深い。

 参考資料:Wikipediaほか

    本日も訪問、ありがとうございました。

菩提山城について

 菩提山城については、かつて垂井町教育委員会によって測量調査が行われている(垂井町教育委員会『菩提山城遺跡 測量調査報告書』1980年)。

 そこでは菩提山城の主要部分についての1mコンターの測量図が掲載され、所謂「台所曲輪」で採集された石臼片が三輪茂雄氏によって曲谷臼であることが確認されたと報告されている。
 菩提山城の縄張り図はいくつかが公表されているが、最も詳細なものは長谷川博美・長谷川銀蔵氏による「菩提山城図」である(長谷川銀蔵「菩提山城」『図説中世城郭事典2』所収、1987年)。その正確さと詳細な観察は他を圧倒している。
 菩提山城の創築年代は不詳ながら、天文年間の早い頃、岩手氏によると推定されている。天文13(1543)年8月9日土岐頼芸が岩手四郎に書状を送っている。それには「菩提山之儀申出之処 即時令入城之由注進候尢神妙候 江南北へ令堅約之条切々時宜彼方へ可申談候齋藤左近大夫かたへも堅申付候 要害之事無油断可申付候儀簡要候 猶稲葉右京亮可申候 恐々謹言 八月九日 頼芸花押 岩手四郎殿」とある。当時頼芸は尾張に逃れていたが、稲葉山城に斉藤道三を攻めている。この稲葉山攻めに当たって、この機に乗じた近江の浅井氏・六角氏の美濃への侵入を牽制するよう、菩提山城の守りを固める旨の要請である。この後、竹中重元が永禄元(1558)年に岩手弾正(四郎?)を滅ぼして、岩手氏の砦であった菩提山に菩提山城を築城したのが永禄2年であったとされている。この年、西之保の不破河内守が菩提山を攻めているが、竹中氏はこれを退けている。重元の子が竹中半兵衛重治である。重治が永禄7年2月6日にわずか20名足らずで稲葉山城を奪取し、斉藤竜興を迎え入れ、その後秀吉の軍師として名をはせたことは名高い。重治の子重門は重治の没後、菩提山城を下り、岩手に館を構えて陣屋としている。重門は関ヶ原合戦の時、当初西軍に属したが後に東軍に与している。関ヶ原合戦の後、重門は5000石の領地を安堵された他、領地が戦闘で荒れたとして米1000石を家康は見舞いに送っている。
 さて、菩提山城の縄張りについては他論に譲ることとするが、大規模な堀切と竪堀を駆使した戦国期末期の極めて発達した山城である。とりわけ主郭と副郭との間に設けられた堀切で囲まれた部分は馬出し状となり、二重の複雑な構造の虎口となっている。また南西尾根と城域を遮断する二重堀切と竪堀を組み合わせた独特の構造は注目に値する。

(2)菩提山城の南西尾根の「遺構」について

 菩提山城を地形図で検討してみると、二重堀切で強固に遮断した南西尾根はさらに延びて、明神山から南下する尾根と結んでいることがわかる。この部分については、かつて訪れた時に少し歩いている。そこで得られた所見は、やはり二重堀切が菩提山城の南西端を区画するものであって、南西尾根には人為的な遺構は認められないというものだった。
 昨年になって藤井尚夫氏によって『フィールドワーク関ヶ原合戦』(朝日新聞社、2000年)が公表されていることを知った。関ヶ原合戦や賤ヶ岳の戦いの戦跡を踏査して、現在の地形に歴史を読み取ろうとする労作である。その中で菩提山城から南西尾根を踏査した結果として、明神山から南下する尾根との結合点付近に大規模な空堀と竪堀を発見し、写真・図と合わせて報告されている。この報告は、菩提山城から南西尾根にかけて遺構は存在しないと考えていた私に、少なからぬ衝撃を与えた。今回の山行の直接の動機はその再確認にあった。
 観察の過程は本HPに譲るとして、結論的には尾根の結合点を超えたところで深い掘り割りを確認することができた。と同時に、その掘り割りが尾根を遮断するものではなくて、尾根上を明神山(杖立神社を経て岩手峠)へとつながる古い峠道ではないかと思われた。また結合点から尾根を下った部分の、前掲書で「竪堀」とされた部分も歩いてみた結果、やはり分岐する旧道であると思われた。現在の25000分の1地形図ではこの旧道は表記されていないが、手元にある大日本帝国陸地測量部による20000分の1地形図(明治24年測図)には、岩手峠へ南から至る道は大きく分けて①旧関原村の瑞竜付近からまっすぐ尾根を北上する道と、②旧相川村伊吹から谷筋を遡上して尾根に取り付く道、③旧相川村伊吹小高から北上する尾根道、そして④菩提から谷筋を遡上し、急斜面を登って尾根に取り付く道がある。このうち、問題となるのは①から④である。これらの旧道は④は直接、②と③は南で合流した上で、それぞれ結合点に到達している。現地で分岐して下っていると確認したのは、④と②③との分岐点のこととなる。前掲書で竪堀と表記されているのは④の道である。
 さてこれらの「遺構」が前掲書が推定する関ヶ原合戦に際して「東軍が進出した最前線」であり、「臨時的築城工事で造られた空堀」であるかどうか、という点である。先に掘り割りが尾根を切断する形で作られるのではなく、尾根上に尾根に沿って明神山方向に付けられていることを指摘した。また、「竪堀」が尾根上を侵入する敵が山腹を迂回することを阻害する形で付けられているものではないことも指摘できる。これらの掘り割りが前掲書で指摘する遺構である可能性は低い、といわざるを得ない。
 ④の旧道と②③の旧道は結合点付近で分岐する尾根をそれぞれ下っている。その尾根の分岐する中央を通っているのが掘り割りの旧道となろう。あくまでも自然地形を元にして掘り割り道がつけられた可能性が高いと、ここでは考えておきたい。
                    (20041226MIHARUの山倶楽部管理人M.S.記)

http://miharu.pro.tok2.com/20041525bodaiyama/bodaiyamajou.html


岩手城(竹中陣屋) 美濃国

2013年11月27日 | 陣城

 

別 名:岩手城、竹中陣屋、岩手陣屋

城郭構造:陣屋

築城主:竹中重門

築城年:1588年

主な城主:竹中氏

遺 構:現存櫓門・石垣・堀

訪城日:2013.11.27

菩提山の麓にある町立岩手小学校の隣に江戸時代に建てられた竹中陣屋には、堀と門、石垣が残る。その門は幼稚園の門にもなっている。  

 

竹中氏陣屋櫓門 マップ http://yahoo.jp/aBcc3S

竹中氏陣屋(たけなかしじんや)は、岐阜県不破郡垂井町(美濃国不破郡岩手)にあった江戸時代の陣屋。

安土桃山時代には岩手城と呼ばれていたが、江戸時代に竹中氏が旗本身分に留まったため城は陣屋と呼ばれるようになった。別名、竹中陣屋、岩手陣屋。

羽柴秀吉(豊臣秀吉)の軍師(参謀)であった竹中重治の子である竹中重門が築いたものであるが、敷地を囲む大規模な堀(水堀等)と石垣などがあり、世に言う陣屋というものより小型の城と言ったほうが正しい。

元々、竹中氏の居城は堅固な山城である菩提山城(岩手山城)であったが、平時には不便なことから、麓に岩手城を築いたという。

現在その跡地は岩手小学校と民有地となっているが、白壁の櫓門、水堀の一部分、石垣の一部分が残っている。また入り口付近に竹中重治の像が建てられている。 判りにくいが、櫓門から北側へも道沿いの家の裏手に土塁が続いていて、岩手小学校裏、西側へと続いている。

1956年(昭和31年)に、岐阜県指定史跡となっている。

さざれ石(君が世は、千代に八千代~~~dさざれ石の岩をと成りて)

竹中氏とは

平良文(たいらのよしふみ)を祖とする武門の名家鎌倉氏の一族である。竹中氏は、鎌倉景政の孫長江義景から始まる長江氏の支族岩手氏より始まるとされる。ただし美濃守護土岐家と猶子などの姻戚関係となったものと思われ戦国時代以降は源氏庶流を称す。

概要

重元流竹中氏

1588年(天正16年)、竹中重門が菩提山城の山麓に岩手城を築く。尚、築いた時期は、文禄から慶長年間の頃の説もある。

1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いにて、竹中重門は当初西軍につき、犬山城城主石川貞清に協力。稲葉貞通、稲葉典通、加藤貞泰、関一政らと犬山城に籠城する。しかし、井伊直政の仲立ちにより東軍に加わり、黒田長政軍として参戦する。関ヶ原の戦いは竹中氏の領土も戦場となったことなどから、徳川家康より1千石の米を下賜され、また、領土(不破郡岩手 6,000石)を安堵された。旗本として徳川将軍家に仕え、よって岩手城は以後、岩手陣屋と呼ばれることとなる。

竹中氏は旗本交代寄合として、1868年(明治元年)まで存続する。

重光流竹中氏

重光の長子である竹中重利は羽柴秀吉より美濃で3000石の所領を賜い宗家から独立した。のちに領地替えとなり豊後高田で13000石の大名となった。さらに関ヶ原の戦いにおいて徳川家康についた功により豊後の大分城を与えられ二万石の大名となる。

重光の次子である竹中重定も羽柴秀吉に仕える。また、豊臣二世関白となる羽柴秀次の側室に、娘が上がり「羽柴土丸」を産む。関ヶ原の戦い以後は徳川家に仕え、摂津吹田を領する上級旗本として続いた。鷹司家(松平家)とも姻戚関係だった。

参考資料: ウィキペディア他

本日も訪問、ありがとうございました。


五明稲荷神社【黒田長政=松寿丸】 美濃国(樽井) 

2013年11月27日 | 遺蹟

五明稲荷神社の銀杏

   長政(松寿丸)が植えた銀杏が現在も同町内五明稲荷に残っている。 

黒田長政は幼少時代、菩提山城下で暮らしたことがある。

黒田官兵衛が三木城に幽閉されてしまったとき、信長は人質の息子、松寿丸(後の黒田長政)を殺せと言いますが
竹中半兵衛がかくまっていました。

その時に松寿丸が植えたとされる銀杏があります。

 天正六年(1578年)有岡城の戦いの時、黒田松寿丸(後の黒田長政)の父黒田官兵衛が彼の親友である、荒木村重が織田信長に謀叛をおこし説得の為に有岡城へ単身で乗り込んだ。

  しかし黒田官兵衛は荒木村重に捕らえられ牢屋に幽閉された。が、黒田官兵衛から連絡が無く織田軍としては、黒田官兵衛も裏切って、荒木村重に着いたと判断した。その為、黒田官兵衛の嫡男を殺すようにと、当時、黒田官兵衛と竹中半兵衛の主君、羽柴秀吉に、織田信長から命が下った。

  羽柴秀吉は、信頼すべき軍師、竹中半兵衛に一任した、竹中半兵衛と黒田官兵衛はお互いを認め合う親友で、竹中半兵衛は、黒田官兵衛が裏切るはずが無いと信じ、が織田信長をだまし、竹中半兵衛の領地である美濃の岩手、この地に松寿丸を匿った。
それが、この五明稲荷神社です。

五明稲荷神社(黒田長政・松寿丸匿いの地)岐阜県不破郡垂井町 map:http://yahoo.jp/E5UBBA

参考資料:ウィキペディア

本日も訪問、ありがとうございました。


小脇山城 近江国 

2013年11月25日 | 戦国山城

訪城日:2013.11.23

城跡概念図

現状の城跡は、あるいは箕作山への登山ルートで移動し易い事も重なり、山上に展開される郭跡、遺構などは非常に見て回り易い状態にあるが、自然任せの藪化は進行中でもあり、登山道から一旦外れると周囲は密生する雑木藪となっているので山城見学においては当然宿命とも言えるが、細部における遺構の判別確認は中々難しい状況となっている。概念図における範囲が確認出来た遺構であり歩き回れた範囲でもあるが、雑木の密生する急峻な斜面以外はある程度見通しも利き、ほぼ見て回る事が出来る状態にあると思って頂ければよい。ただ夏季訪問においては当然見通しも利き難くいものとは思われるが、、、。個人的には山登りを楽しむ事も出来、途中岩戸山における磨崖仏などの史跡見学あるいは眺望、山城遺構も充分味わう事が出来たので、非常に有意義で満足感に浸れた価値のある山城巡りとなった。

城跡は滋賀県東近江市小脇町にあって、全国的にも有名な安土城跡からは南東側直線約6kmの位置にあり、箕作山を最高所としてみれば南西側の中間尾根上の最高所(標高373m)に位置している。当時においては六角氏の家臣、三井氏の居城が伝わっているが詳細は不明。

近江地方には石垣を用いた城跡が数多く現存しているが、この山城も高所にありながらも相当多くの石垣が使用されており、地表に露見している部分は多くはないが、山上郭群の随所に石垣跡あるいは石列を窺う事が出来る。当然見学する分には石垣跡が一番目を楽しませてくれる遺構になるとは思われるが、斜面に眼を凝らせば縦堀などの遺構も充分確認する事が可能であり、地表風化は激しいが僅かながら北郭群に土塁の高まりも見て取る事が出来る。

個人的には小規模で縄張り妙味(堀切を中央に挟んでほぼ尾根上に直線的に郭が配置)には少し欠けるが、これだけ当時の石垣跡が拝めるのであれば充分見学に値する山城とも見受けられるので、比高230mを上るきつい登山にはなるが、険峻さを誇る山城の好きな方、あるいは石垣跡に興味のある方には当然お薦めの城跡

 参考資料:Wikipediaほか」

本日も訪問、ありがとうございました。


箕作山ハイキング

2013年11月25日 | ウォーキング

集合場所:近江鉄道八日市駅9:30…スタッフミーティング

実施日:2013.11.23

清水町清水川

延命公園

江州音頭発祥地の石碑

公園内の古墳公園内の古墳

ドライブウエイへ

赤神山(ドライブウェイより)

瓦屋禅寺

赤神山太郎坊宮

  

箕作山ハイキングコースへ

台風18号で赤神山頂へ分岐点ハイキングコースの休憩所

箕作山山頂へ

山頂373.5m

小脇山城へ

小脇山城主郭373.6m

旗振り山へ

一三仏へ

本日も訪問、ありがとうございました。

 


三上館中屋敷 近江国(野洲) 

2013年11月24日 | 館跡

三上城(妙光寺山頂に)

 『日本城郭大系』によれば、三上政実によって永享年間(1429~41)に築かれたとされる。

ただし、三上氏は近江国三上郷に発する氏族であるが、政実は因幡国に所領をもつ人物である。

また、政実は長享元年(1487)の鈎の陣に参加している。六角氏征伐の親征である鈎の陣に、六角氏家臣とされる三上館三上氏が参加していたとは考えにくい。また、永享年間とは年代的にやや離れすぎていることからも、政実が三上館を本拠としていたかどうかは疑わしい。三上館が三上氏の居城、政実と三上館三上氏はどちらかが本流でどちらかが分流であると考えるのが妥当と思われる。

三上館の三上氏は、六角氏家臣としてはたらいたとされるが、その後の動向は不明である。

元和元年(1615)時点で、三上季正が三上館にあったことが確認されている。季正は、寛永十七年(1640)の人吉藩での「お下の乱」において幕府の上使として派遣されたことが、細川家史料にみられる。三上館は、旗本三上氏の屋敷として存続したものと思われる。

三上館は三上山ではなく、その北隣の妙光寺山の麓にあります。妙光寺山には三上氏の詰の城があったとみられていますが、明確な遺構は見つかっていないようです。『近畿地方の中世城館』では、三上城と三上館を峻別していますが、『大系』では三上城に統一しているようです。

 三上館周辺には、東から上屋敷・中屋敷・下屋敷の3つの小字があり、それぞれに館があったものとみられています。

所在地:滋賀県野洲市妙光寺

遺 構:三上館 土塁、堀

形 式:居館

築城者:三上政実

築城年代:永享年間

訪城日:2013.11.22

中屋敷

裏の土塁と堀切(U字溝)

現在は、このうち中と下の2つの屋敷跡に、今も三上氏のご子孫が住んでおられる。
  両屋敷とも民家の敷地であるため、外側から眺めるだけですが、より見ごたえがあるのは、土塁と水濠が巡っている下屋敷の方と思われます。

おそらく近世まで旗本屋敷として使用されていたのだと思いますが、明瞭に遺構が見られる貴重な史跡。

 

 本日も訪問、ありがとうございました。


三上館下屋敷 近江国(野洲)

2013年11月22日 | 館跡

 三上城(妙光寺山頂に)

 

  『日本城郭大系』によれば、三上政実によって享年間(1429~41)に築かれたとされる

 ただし、三上氏は近江国三上郷に発する氏族であるが、政実は因幡国に所領をもつ人物である

 また、政実は長享元年(1487)の鈎の陣に参加している六角氏征伐の親征である鈎の陣に、六角氏家臣とされる三上館三上氏が参加していたとは考えにくいまた、享年間とは年代的にやや離れすぎていることからも、政実が三上館を本拠としていたかどうかは疑わしい三上館が三上氏の居城、政実と三上館三上氏はどちらかが本流でどちらかが分流であると考えるのが妥当と思われる

 三上館の三上氏は、六角氏家臣としてはたらいたとされるが、その後の動向は不明である

元和元年(1615)時点で、三上季正が三上館にあったことが確認されている季正は、寛十七年(1640)の人吉藩での「お下の乱」において幕府の上使として派遣されたことが、細川家史料にみられる三上館は、旗本三上氏の屋敷として存続したものと思われる

 三上館は三上山ではなく、その北隣の妙光寺山の麓にあります妙光寺山には三上氏の詰の城があったとみられていますが、明確な遺構は見つかっていないようです『近畿地方の中世城館』では、三上城と三上館を峻別していますが、『大系』では三上城に統一しているようです

 

  三上館周辺には、東から上屋敷・中屋敷・下屋敷の3つの小字があり、それぞれに館があったものとみられています

所在地滋賀県野洲市妙光寺

遺 構三上館 土塁、堀

形 式居館

築城者三上政実

築城年代享年間

訪城日:2013.11.22

下屋敷

見ごたえがあるのは、土塁と水濠が巡っている下屋敷

虎口は南に、石垣・土塁と水濠には(蒲カ?)が巡っている下屋敷

 

現在は、このうち中と下の2つの屋敷跡に、今も三上氏のご子孫が住んでおられる
  両屋敷とも民家の敷地であるため、外側から眺めるだけですが、より見ごたえがあるのは、土塁と水濠が巡っている下屋敷の方と思われます

おそらく近世まで旗本屋敷として使用されていたのだと思いますが、明瞭に遺構が見られる貴重な史跡

 

下屋敷遠望

三上城出城遠望

 

 本日も訪問、ありがとうございました

 


三上館上屋敷 近江国(野洲)

2013年11月22日 | 館跡

三上城(妙光寺山頂に)

 『日本城郭大系』によれば、三上政実によって享年間(1429~41)に築かれたとされる

ただし、三上氏は近江国三上郷に発する氏族であるが、政実は因幡国に所領をもつ人物である

また、政実は長享元年(1487)の鈎の陣に参加している六角氏征伐の親征である鈎の陣に、六角氏家臣とされる三上館三上氏が参加していたとは考えにくいまた、享年間とは年代的にやや離れすぎていることからも、政実が三上館を本拠としていたかどうかは疑わしい三上館が三上氏の居城、政実と三上館三上氏はどちらかが本流でどちらかが分流であると考えるのが妥当と思われる

三上館の三上氏は、六角氏家臣としてはたらいたとされるが、その後の動向は不明である

元和元年(1615)時点で、三上季正が三上館にあったことが確認されている季正は、寛十七年(1640)の人吉藩での「お下の乱」において幕府の上使として派遣されたことが、細川家史料にみられる三上館は、旗本三上氏の屋敷として存続したものと思われる

三上館は三上山ではなく、その北隣の妙光寺山の麓にあります妙光寺山には三上氏の詰の城があったとみられていますが、明確な遺構は見つかっていないようです『近畿地方の中世城館』では、三上城と三上館を峻別していますが、『大系』では三上城に統一しているようです

 三上館周辺には、東から上屋敷・中屋敷・下屋敷の3つの小字があり、それぞれに館があったものとみられています

上屋敷

西側の土塁

虎口?カ・・右側は西土塁

上屋敷の南側

上屋敷は南側は、土塁は無く圃場に開墾れたのでしょう

所在地滋賀県野洲市妙光寺

遺 構三上館 土塁、堀

形 式居館

築城者三上政実

築城年代享年間

訪城日:2013.11.22

上屋敷 遠望

現在は、このうち中と下の2つの屋敷跡に、今も三上氏のご子孫が住んでおられる
  両屋敷とも民家の敷地であるため、外側から眺めるだけですが、より見ごたえがあるのは、土塁と水濠が巡っている下屋敷の方と思われます

おそらく近世まで旗本屋敷として使用されていたのだと思いますが、明瞭に遺構が見られる貴重な史跡

 

 本日も訪問、ありがとうございました


桜生城  近江国(野洲)

2013年11月22日 | 平城

  

    

お城のデータ

所在地 : 野洲郡野洲町小篠原字桜生 マップ:http://yahoo.jp/4X3MTy

遺  構 : 土塁、土橋、虎口、空堀、水濠、曲郭

区 分:平城

築城者:澤弾正少弼清光

築城期:永禄年間

初城主:澤弾正少弼清光

訪城日 :2013.11.22

お城の概要

 桜生(さくらばさま)城は、桜生城の出城が築かれた小高い山の麓に築かれた城だ。

 一辺が約50m程の方形の縄張りで、周囲に土塁と堀が残っている。 堀は、西側の堀は水堀、他の三方の堀は空堀となってる。

 城の廻りに廻らされた土塁は、特に東側(山側)の土塁は約5m程の高さがあり、ここには虎口が設けられている。 平城でなかなか見応えのある遺構だ。(北側は、大きく開削されている)

桜生城は、単郭方形の館城である。周囲は土塁と堀が囲繞し、西側の堀は水堀になっている。また、中程から北東側の土塁は分厚く、高さも 5~6mあり見応え十分である。

北西面の水堀に土橋が架かり門が構えられているが、土塁の折れから北東面に開く虎口が本来の虎口でないかと思われる。

現在も澤氏の子孫が住まいされている中で、見事な遺構が残されていることに感謝である。今後も守り伝えてほしいものである。

 

 

 

                 

歴   史

「桜生城に澤弾正少弼清光が在城した。と記されており、澤氏の居館とされているが、詳細については不明である。

桜生城の築城年代は定かではないが、永禄年間には澤清光が入城しており、文禄2年に廃城となった。

なお、当城の死角を補うため桜生出城は築かれたとされ、丘陵の先端にあり、東山道を見下ろす位置である。

                     

 

 

   

 

国道8号線へ(信号なし)

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


田上城(里城) 近江国(大津)

2013年11月21日 | 平城

城郭の概要

別 名 :里城

所在地:大津市田上里町 マップ:http://yahoo.jp/cOzpab

築 城 :天正年間(1573~1592)か

初城主:多羅尾光俊

区 分 :平城

遺 構 :曲輪・石垣

訪城日:2013.11.19

小学校正門前の削平地の石垣小学校正門前の削平地の石垣

田上山から、琵琶湖に向かって延びる丘陵地の先端に位置する、大津市立田上小学校の敷地一帯が田上城である。

 前面(北)は瀬田川沿って広がる平地を見下ろす高台に築城されているが、北~東にかけては宅地化がすすみ、遺構は消滅し、どこまでが城域なのか定かではない。

 一方、西から南にかけては自然地形がわずかに残されており、田上小学校の玄関前の斜面の竹藪には2段の削平地が残り、下段の削平地切岸には長さ20mにわたって石垣がある。果たして当時のものか・・・。
また、西斜面には堀状、あるいは虎口状の遺構らしきものもあるが、確信をもつに至らず

また昭和五十七年、東急不動産の宅地造成工事にともなう大津市教育委員会の発掘調査が、城跡に隣接する字池ヶ谷で実施された。この調査で、人工的な平坦面やピット(穴)の列が発見され、城に関連する施設の一部かとも考えられている。

田上城遠望

田上城跡(現田上 小学校) 小学校の敷地のことを地元では「テンシ」と呼ばれていた。

歴 史

享保十九年(1734)の「近江輿地志略」には、里村(田上里村)に「古城跡」が今も残り、これは「多羅尾道可(道賀)」の城であると記されている。多羅尾氏は、その家譜等によると、近衛家の流れをくみ、甲賀郡の多羅尾(信楽町)を本拠地としていた。多羅尾道賀は、実名を光俊といい、甲賀郡信楽の小川に住んでいた。 
当初は六角氏に属していたが、天正年間(1573~92)織田信長に仕え、同九年、信長の伊賀攻めには、堀秀政とともに従軍した。
そして天正十年、信長が京都本能寺で明智光秀に討たれるや、その翌年には、羽柴(豊臣)秀吉に仕え、秀吉の配下の武将浅野長吉(長政)の与力となっている。
田上城の位置は、同町の市立田上小学校敷地内の一帯と伝えられている。(『近江栗田郡志』)同地は、全体が小高い丘陵地になっておりその丘陵の西方は、「城の下」、南方は「堀切」という城に関係するかと考えられる小字名が残っている。地元では、この田上城を多羅尾城とも呼んでいるが、丘陵上の小学校の敷地を、かつては「テンシ」と通称していたようで、これは天城の転訛といわれている。

 田上城は甲賀郡の甲賀五十三家の一家である多羅尾氏がこの地に城を築いたのもで、このあたりは近江国から伊勢・伊賀両国、および大和国に至る信楽街道の要所にあたるためとされている。

 この地は多羅尾の居城・多羅尾屋敷(甲賀市信楽町多羅尾)から約20kmの距離にあり、多羅尾氏が相当な勢力をもっていたことが窺える。

里公民館に駐車可。 

 

 

 


大石久右衛門良信館(大石東館) 近江国(大津)

2013年11月21日 | 居城

別  名 : 大石東館

所在地 : 大津市大石東一丁目 マップ:http://yahoo.jp/sXHXjP

形  式 : 居館

遺  構 : 削平地、井戸、石積み、

目標地:大石 浄土寺

駐車場:浄土寺の参拝者駐車場

 訪城日:2013.11.19

「内蔵助祖先館並大石家菩提寺旧跡」の石碑

お城の概要

浄土寺の墓地を抜けて石段を上がると大石氏の館跡を示す「内蔵助祖先館並大石家菩提寺旧跡」の石碑が建っている。さらに石段を登り切ると大石家祖先の墓が4基並んでいる。この右手奥上方に大石久右衛門良信邸址の石碑が建つ広い削平地がある。この削平地の一段下には帯郭が設けられている。なお、右手背後の山林の中には井戸跡も確認できる。

なお、浄土寺は大石氏の菩提寺で、大石家先祖の墓や本堂には大石家持念仏と伝わる千手観音坐像や良信の室をはじめ赤穂四十七士の位牌が安置されている。

井戸画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然大石久右衛門良信邸址画像に含まれている可能性があるもの:木、屋外、自然

お城の歴史

大石氏は、平安時代前期の鎮守府将軍の藤原秀郷の末裔と云われ、もと小山氏と云ったが栗太郡大石庄の下司職となり、大石氏を称した。応仁の乱(1467~77)によって一族が討死し、家名が絶えようとしたが、遠縁の小山朝重が大石豊後守良人と改名して跡を継いだ。

天文、永禄の頃(1532~69)一族は数家の分家を出し繁栄し、大石党と称していたが、織田信長の近江侵攻で嫡流は領地を没収され絶え、かろうじて中家(中村)、西家(淀村)、新家(竜門村)の三家が存続したようである。ところで、「大石小山系譜」に大石家新祖は、在地の大石弾正衛門朝良とあるようだが、どこの家に属していたか不明とされる。

朝良には二子がいて兄の大石平左衛門良定は朝鮮出兵に従軍し功をあげたのち大石村に帰住。弟の大石久右衛門良信は八幡山城城主豊臣秀次に仕え、次男大石内蔵助良勝は慶長9年(1604)下野国浅野采女正長重に出仕し小姓役をつとめ、そして元和元年(1615)の大坂の陣で活躍したのち、家老職につき1500石の封禄を得た。良勝の兄大石茂衛門良照が本貫地の大石家本家を守ったと云われている。
なお、良勝の曾孫が赤穂浪士で有名な大石内蔵助良雄である。

お城の概要

浄土寺の墓地を抜けて石段を上がると大石氏の館跡を示す「内蔵助祖先館並大石家菩提寺旧跡」の石碑が建っている。さらに石段を登り切ると大石家祖先の墓が4基並んでいる。この右手奥上方に大石久右衛門良信邸址の石碑が建つ広い削平地がある。この削平地の一段下には帯郭が設けられている。なお、右手背後の山林の中には井戸跡も確認できる。

なお、浄土寺は大石氏の菩提寺で、大石家先祖の墓や本堂には大石家持念仏と伝わる千手観音坐像や良信の室をはじめ赤穂四十七士の位牌が安置されている。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、現地説明板

 本日の訪問ありがとうございす。

 

 


大石城(大石次邸) 近江国(大津) 

2013年11月21日 | 居城

お城のデータ

所在地 : 大津市大石中7丁目、大石龍門2丁目 マップhttp://yahoo.jp/nZKOgL

形  式 : 平山城

遺  構 : 土塁、堀、堀切、石碑

城日 : 2013.11.19

大石城は舌状尾根の先端部に築かれ、細い道を挟み両側一帯が城域で群郭式の構造であったと推測される。
主郭は、東西52m×南北35mの方形で周囲に土塁を、東背後に見張り台を兼ねた巨大な土塁と堀切を配し、西前面に一段低い副郭(東西22m×南北24m)を備えている。虎口は平虎口で西と南東隅に開いている。北側は断崖となっているが、南側が茶畑で高低差がほとんどなく土塁と空堀で画す程度で、防御が弱く思われる。

また、細い道の西側にも土塁と堀の残片が残されているが、縄張りを想定することは難しい状況である。西の郭入り口

お城の歴史

大石城は、嫡流が絶えたのち本家となった中家の居館跡。
大石氏は、平安時代前期の鎮守府将軍の藤原秀郷の末裔と云われ、もと小山氏と云ったが栗太郡大石庄の下司職となり、大石氏を称した。
応仁の乱(1467~77)によって一族が討死し、家名が絶えようとしたが、遠縁の小山朝重が大石豊後守良人と改名して跡を継いだ。

天文、永禄の頃(1532~69)一族は数家の分家を出し繁栄し、大石党と称していたが、織田信長の近江侵攻で嫡流は領地を没収され絶え、かろうじて中家(中村)、西家(淀村)、新家(竜門村)の三家が存続し、中家が本家となったようである。ところで、「大石小山系譜」に大石家新祖は、在地の大石弾正衛門朝良とあるようだが、どこの家に属していたか不明とされる。朝良には二子がいて兄の大石平左衛門良定は朝鮮出兵に従軍し功をあげたのち大石村に帰住。

 弟の大石久右衛門良信は

八幡山城主豊臣秀次に仕え、次男大石内蔵助良勝は慶長9年(1604)下野国浅野采女正長重に出仕し小姓役をつとめ、そして元和元年(1615)の大坂の陣で活躍したのち、家老職につき1500石の封禄を得た。

良勝の兄大石茂衛門良照が本貫地の大石家本家を守ったと云われている。
なお、良勝の曾孫が赤穂浪士で有名な大石内蔵助良雄である
西土塁上の城址碑

 東郭入り口

東郭「主郭」の遠望・・・茶畑より

西の郭遠景

駐車スペース2台

道案内

瀬田川を渡り直ぐの大石東六丁目交差点を右折する。県道783号線に入り、南に道なりに770m程行った大石中町南交差点で「大津クリーンセンター方面」左折する。東に60mで右折し団地内に入り、道なりに100m進み道路が狭くなる所で駐車し、細い道を30m入り左手奥50m程の所が城跡である。茶畑の北隣りに位置する。

本日の訪問ありがとうございす。


関津城(宇野城) 近江国(大津)

2013年11月20日 | 平城

 発掘調査で全容が明らかとなった中世館城、関津城。

承久の乱の際、戦功のあった宇野源太郎守治が恩賞として鎌倉幕府から与えられたと伝わっており、城郭の遺構としては曽根池に入る谷の南北の尾根上に約10ヶ所の曲輪と空堀・土塁を残し、特に最大の曲輪は30×26メートルの規模を持っています。

虎口付近は複雑な構造も見受けられ戦国末期の縄張りの改修もなされていたようです。(現地説明会資料より)

関津1関津城遺跡を上空から見る

城郭の概要 

所在地 : 大津市関津三丁目 マップhttp://yahoo.jp/ZoflXW

形  式 : 山城(標高110m)

遺  構 : 土塁、堀、竪堀、堀切、虎口、

訪城日 : 2013.11.19

真ん中を国道422号大石東バイパス道路改築工事中!

北側郭跡

残された西側の郭・土塁・堀

 

 

(北裾の郭) 関津1発掘調査中、関津城遺跡を上空から見る

歴   史

承久の乱の際、戦功のあった宇野源太郎守治が恩賞として鎌倉幕府から与えられたと伝わっており、城郭の遺構としては曽根池に入る谷の南北の尾根上に約10ヶ所の曲輪と空堀・土塁を残し、特に最大の曲輪は30×26メートルの規模を持っています。虎口付近は複雑な構造も見受けられ戦国末期の縄張りの改修もなされていたようです。(現地説明会資料より)

関津城城主とされる宇野氏は、佐々木六角氏の旗頭青地氏の家臣であり、承久3年(1221)の承久の乱の際に清和源氏の流れをくむと云う宇野源太郎守治が戦功をたて、恩賞として鎌倉幕府から関津城を賜り、子孫が代々関津城城主を務めている。しかし、いつ築城され、いつ頃まで存続したのかなど、詳細は不明である。
なお、大石龍門の八幡神社には、天文9年(1540)の棟札に「田上関津宇野美濃入道」の名が伝わっている。また、関津の称名寺には、宇野氏の墓と伝えられる五輪塔が残されている。 

 (西裾郭の土塁) →

関津城は、穏やかな流れの瀬田川が急流となって山城国に流れ降る境目の丘陵端に位置する山城で、近江の南の玄関口である瀬田川や関津峠を眼下に見下ろしている。

縄張りは、太神(田上)山山系から北に派生する、地元で「源太郎山」と呼ばれる低丘陵の先端頂部に築かれた方形の土塁と堀に囲繞された主郭を中心に、その北裾と西裾に土塁で囲まれた屋敷地が配され、複雑な構造の虎口を伴っている。さらに西側切岸の中段には土蔵建物が建っていた。

しかし、裾部の防備に比べ背後の尾根続きは主郭に土塁と空堀を設けただけで、尾根の断ち切りが行われておらず、領地・領民に領主権力を誇示する性格の強い城郭でないかと推測されている。

西側の一部

関津自治会館から工事中道路を通り城跡まで行った、道路完成後も北裾の郭が1/3、西裾の郭が2/3程は残る。

南の郭・土塁・堀の遠景

なお、関津城は、滋賀県が施工する国道422号大石東バイパス道路改築工事により城域の大半が消失する運命にある。平成21年8月から平成23年3月までの間に消失範囲約4,700 ㎡の発掘調査が行われ、城郭の空間利用として「戦闘の空間(櫓台・切岸・虎口)」、「褻[ケ]=日常の空間(今回見つかった礎石建物群、井戸)」、「晴[ハレ]の空間(威信、饗応財を用いた空間で未調査部分に想定)」の使い分けがなされていたことが明らかになったとしており、また、城郭内の空間利用や建物の用途を遺構(礎石建物や井戸)と出土遺物の両面から復元できる事例はほとんどなく、この点においても貴重な調査であったと解説される。消失の運命は、いかにも残念でならない。

発掘後風景 (現地説明会の掲示写真)


発掘後風景 (現地説明会の掲示写真より)

 (右下写真は西裾の郭、水路奥の穴は排水口)  →

上の写真は北裾の郭虎口、門の礎石

砕石・ノミ跡(石工の仕事) 

2013年11月20日 | 番外編

(石工の仕事http://www.ishikumi.com/about.html)

 

 

八幡山城へのハイキングコースにノミの跡が

 

三井寺(園城寺) 滋賀県大津市

ノミ跡削岩の跡

 

 

観音寺城祉の伝池田丸の大石垣の【石工の仕事】

伝池田丸下の大石垣の【ノミ】の跡が、石工の砕石の石積みが・・・!

砕石ノミ跡が、はっきりと

希望ヶ丘の古城山に

ノミの跡が上4つ、下に1つははっきりと
 
愛奏町蚊野 軽野神社の敷き石に
ノミの跡
 中山越えの林道脇の削岩ドリル跡
 滋賀里 中山越えの林道脇の削岩ドリル跡
 
 今日の訪問、ありがとうございました。