城郭探訪

yamaziro

”新発見!山城(仮称)見学会+佐生城見学会 2013.2.26

2013年02月26日 | 戦国山城

東近江 伊庭山城(仮称)、北須田山城(仮称)見学会+佐生城見学会
日 時 2013226日(火)10時~16時頃
場 所 東近江市猪子町北向岩屋十一面観音駐車場集合にて受付
『時空散歩の会』会長の村田眞次郎氏

内 容 伊庭山城(仮称)、北須田山城(仮称)を縦走する現地見学会

講 師 長谷川博美氏(城郭研究家、元滋賀県中世城郭分布 現地調査員)

主 催 東近江能登川『時空散歩の会』村田眞次郎氏

参加費 500円 硬貨 JR琵琶湖腺能登川駅から岩屋観音まで徒歩40分。

参加対象者 弁当持参、低登山が可能な体力のある方なら男女を問わず。

要予約 予約先 長谷川080-5307-3651 wwmy29831@maia.eonet.ne.jp 

 

地元のk氏・・・

繖山系で、現地見学会での説明を受け改めてこの地域の歴史の深さ!
 
探訪は《伊庭山城(仮称)→北須田山城(仮称)→佐生城》見学
 集合は、北向観音・駐車場・・・残雪の猪子山道路。氷って上り道ツルツルでした。
 
 
琵琶湖側は、谷になっています。・・・車幅の山道です。
 
《点呼》・・・参加費・参加者登録・資料配布。
 
繖山・・・観音寺城址(くぼみは、地獄越え 石馬寺~須田へ)
 北須田山城址(仮称)・伊庭山城址(仮称)・北向観音・佐生城址
 
 
 
 
 
先ずは、北向観音へ 

急な雪山道、足元注意を!       「坂上田村麻呂」の名前が

  扉を開けて、見学会の無事をお願いしました。
サルが来る為必ず扉を閉めておくように書かれていました。

東近江市(能登川)の猪子山、北向十一面岩屋観音をご案内します。
北向十一面岩屋観音は能登川駅から徒歩約8分の猪子山の頂上付近にあり、能登川病院の南側、能登川高校の東側、電車に乗っていると、大津方面から来ますと能登川駅到着前に、左側に見える山です。

 能登川西部、びわ湖が一望できます。

事前、概要説明。講師:長谷川博美氏

そして講議。

新発見のお城ですから、予定時間一杯解説が聞けると思っていたんですが、雪のためか30分くらいで切り上げ、「後で配布資料を読んでおいてください」となり、現地見学に行く事になりました。

資料もたくさんいただいていますので、熟読させて頂きます。

・わかり易く専門的なことを、説明・勉強。
 
本日の探訪予定は、《伊庭山城(仮称)→北須田山城(仮称)→佐生城》
 

伊庭山の山城へ

繖山系、現地見学会での説明を受けこの地域の歴史の深さに感涙。
北向観音から、さぁー出発しますよ。

    古墳です尾根歩道に古墳有り、石積みの研究されている、誰だったかな。

ここから、新発見(仮称)伊庭山城へ。

   

「伊庭氏320年の支配のうちに、伊庭本郷の居館だけでなく伊庭山に山城があってしかるべきではないか?」との仮説に基づき伊庭山一帯を調べてこられたそうです。その結果石垣後や土塁など発見したというのです。城郭研究家:長谷川氏を講師に。
 
           縦走路の両側は低土塁・・・の説明。

     縦走路も、2つもの山城があったとは!石積の様なこちらは、縦走路の土止め石積ヵ。

                  先生の方からの説明がみなさん熱心に聞きいてておられました。                       

ここから、新発見(仮称)北須田山城

            ハイキング尾根路も伊庭山城(仮称)を縦走

          主郭・石積み

 しゃがんで見れば「低土塁」もはっきりと解ります            切岸の下から        

北向観音寺に戻り

 能登川西部、びわ湖が一望。

南側・・・中山道・箕作城(清水山)・小脇城(箕作山)を一望!

  

 

佐生城へ

石段を下りる中程の琵琶湖側に平削地・切岸ヵ

現地説明会を通じて、改めて「土塁」&「堀切」「犬走」「主郭」等理解が深められました。
ただ 写真を何枚も写しましたが説明しにくいものばかりで、雪が溶けたらおさらいします。
このような素晴らし条件に「山城」が、なぜないか不思議に・・・
  まさかハイキングコースが2つもの主郭を・・・山城に興味の無い人には!満悦感。
 
《資料より学ぶ》
天正11年当時・長浜城主柴田勝豊の主要な近江系家臣は
  • 徳永石見守寿昌)=東近江市・能登川伊庭伊庭庄領主。
  • (山路将監正国)=東近江市・能登川山路山路城出身。
  • (小川土佐守祐忠)=東近江市・能登川小川小川城出身。
  •   いずれも東近江市能登川出身と初めて知りました。
 
 
・長浜城主柴田勝豊=?−1583 織豊時代の武将。柴田勝家の姉の子、養子。越前(えちぜん)(福井県)丸岡城主。天正10年本能寺の変後の清洲(きよす)会議で、近江(おうみ)(滋賀県)長浜城主となる。
 
・徳永 寿昌=戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。美濃高須藩初代藩主。生涯 はじめ柴田勝豊に仕え、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは羽柴秀吉に協力した。
 
・山路将監正国=天文15年(1546年) - 天正11年4月21日(1583年6月11日)戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。柴田勝家の家臣
 
・小川土佐守祐忠=近江出身ではじめ織田信長に仕え、1582 年、明智光秀の反乱に加わり山崎の合戦に出陣。                                         光秀敗滅後は柴田勝家に属して 勝家の養子勝豊の家老を務めた。
 

佐生城へ

六角氏重臣後藤氏の城

佐生城(さそうじょう)

別 名:佐野山城・佐生日吉城
所在地:東近江市五個荘日吉町~佐野町
   旧:神崎郡五個荘町下日吉
      ~神崎郡能登川町佐生

目 標:北向十一面観音(岩屋観音)

区 分:山城

標 高:160m   比高差:60m 

現 状:山林・公園・宅地

遺 構:郭・土塁・石垣・碑

築城期:室町期

築城者:後藤氏

放上日:2013.12.23

 北向十一面岩屋観音参道口
 北向十一面観音への直下の駐車場より尾根沿いに歩ける細い道があります。<佐生日吉城370mの標識あり>

 

   西の大石

   西の虎口ヵ大石の内側に

縦堀        南西隅は算木積みもしっかりとした石垣。

  城は基本的には単郭の城です。但し、石垣の城で、主郭の南側に高さ3m程度で30mほどと、及び、主郭には後藤氏の御子孫が建てられた城址碑があります。城址碑は南側山麓の日吉神社の横(旧五箇荘町側)にもあり、「佐野山城址碑」と刻まれています。何と言っても、突然現れる石垣は嬉しいです。

南西側石垣東側石垣 ・・・・東へは佐生集落へ(大同川沿いの墓地に手前の佐生橋へ)

 東側に虎口の大石の石垣が残ります。

東の虎口 城主は、佐々木六角氏の重臣で、東近江市中羽田に居館を構えていた後藤氏であった。石碑は子孫が、南方向(中羽田に居館)に立っている

六角氏の重臣後藤氏が城主の城ですが築城時期は定かではありません。 永禄六年(1563年)に後藤堅豊親子が六角義弼に謀殺された事に端を発した観音寺騒動が起こっています。

   北西側石垣

           

  西側に2カ所に10mほどの大石。

   最後に、探訪記念撮影・・・・お疲れ様!

本日の歩数  11,376歩   2時間23分    7.9km

消費カロリー 727.7kcal    脂肪消費量 104.7g

 

 

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。

 


佐生日吉城 近江国(能登川・五個荘)

2013年02月26日 | 戦国山城

佐生城へ

六角氏重臣後藤氏の城と伝わるが【実際は後藤氏は佐々木観音寺城の在番(守備隊長)・・・居城は雪野山城・後藤屋敷】

観音寺城の北方防衛を担う築城(出城)、石垣によって築かれた城。繖山の尾根続き、堀切はない。

佐生城(さそうじょう)

別 名:佐野山城・佐生日吉城

所在地:東近江市五個荘日吉町~佐野町   map:http://yahoo.jp/ipIgOS
   旧:神崎郡五個荘町下日吉
      ~神崎郡能登川町佐生

目 標:北向十一面観音(岩屋観音)

区 分:山城 

標高:190m  比高差:60m

現 状:山林・公園・宅地

遺 構:郭・土塁・石垣・碑

築城期:室町期

築城者:後藤氏

訪城日;2013.2.23

 北向十一面岩屋観音参道口

北向十一面観音への直下の駐車場より尾根沿いに歩ける細い道があります。<佐生日吉城370mの標識あり>

   西の大石   西の虎口ヵ大石の内側に竪堀        南西隅は算木積みもしっかりとした石垣。

  城は基本的には単郭の城です。但し、石垣の城で、主郭の南側に高さ3m程度で30mほどと、及び、主郭には後藤氏の御子孫が建てられた城址碑があります。城址碑は南側山麓の日吉神社の横(旧五箇荘町側)にもあり、「佐野山城址碑」と刻まれています。何と言っても、突然現れる石垣は嬉しいです。

南西側石垣東側石垣 ・・・・東へは佐生集落へ(大同川沿いの墓地に手前の佐生橋へ) 

 東側に虎口の大石の石垣が残ります。

東の虎口 城主(在番)は、佐々木六角氏の重臣で、東近江市中羽田に居館を構えていた後藤氏であった。

石碑は子孫が、南方向き(中羽田に居館)に立っている

歴 史

六角氏の重臣後藤氏が城主の城ですが築城期は室町期で織田信長の近江侵略の東の防衛出城。 

永禄六年(1563年)に後藤堅豊親子が六角義弼に謀殺された事に端を発した観音寺騒動が起こっています。

   北西側石垣

            

  西側に2カ所に10mほどの大石。

  

 

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


滋賀女性が中世城郭を発見、多賀発『女性の山城見学愛好会』

2013年02月25日 | 平城

滋賀女性が中世城郭を発見、多賀発『女性の山城見学愛好会』
日 時 2013224日(日)10時~11(式典と講義)
場 所 滋賀県犬上郡多賀町四手976-2 多賀町博物館 研修室
内 容 元小谷城、賎ヶ岳語り部ガイド、宮本優子氏、開催挨拶

講 師 愛知中世城郭研究会、滋賀民俗学会理事、長谷川博美氏

見 学 伊庭山城(仮称)、北須田山城(仮称)16時頃に現地解散
参加費 500円 硬貨 御注意 見学現場での受付は一切お断りします。

参加対象者 弁当持参、低登山が可能な体力のある方なら男女を問わず。

要予約 予約先 長谷川080-5307-3651 wwmy29831@maia.eonet.ne.jp

 

伊庭山の山城現地説明会は、2/24に一回目の見学会がありました。
 
2/27:朝日新聞・滋賀版に「山城発見 感動の歴女」
 
 
タイトル《山城発見 感動の歴女》・・・朝日新聞切り抜きより
 
 
2014.10.9up
 
 
今回は、最高の現地見学会となりました。・・・この場所あたりは、ちょくちょく散策するところなんですよ。
この機会を通じて見る角度を変えて、「城」勉強しますわ。
 
《改めて「伊庭氏」について まず振り返り勉強します》
伊庭城(陣屋)の築城年代は定かではないが建久年間(1190年~1199年)に伊庭高実によって築かれたと云われる。 伊庭氏は観音寺城・佐々木行実の四男高実が伊庭の領地を治めて伊庭氏を名乗った事に始まるという。

週間の閲覧数・訪問者数とランキング(日別)

2013年02月24日 | 番外編

過去1週間の閲覧数・訪問者数とランキング(日別)

日付閲覧数訪問者数ランキング
2013.02.23(土) 400 PV 153 IP 7216 位 / 1829979ブログ
2013.02.22(金) 449 PV 138 IP 8167 位 / 1829346ブログ
2013.02.21(木) 385 PV 153 IP 6722 位 / 1828860ブログ
2013.02.20(水) 464 PV 193 IP 4620 位 / 1828327ブログ
2013.02.19(火) 588 PV 232 IP 3908 位 / 1827710ブログ
2013.02.18(月) 579 PV 201 IP 4729 位 / 1827126ブログ
2013.02.17(日) 561 PV 179 IP 5266 位 / 1826628ブログ

過去3週間の閲覧数・訪問者数とランキング(週別)

日付閲覧数訪問者数ランキング
2013.02.17 ~ 2013.02.23 3426 PV 1249 IP 5519 位 / 1829979ブログ
2013.02.10 ~ 2013.02.16 4485 PV 1483 IP 4316 位 / 1826142ブログ
2013.02.03 ~ 2013.02.09 3144 PV 1174 IP 6586 位 / 1822891ブログ

トータルアクセス数

※日別の閲覧数・訪問者数とトータルアクセス数の加算タイミングにタイムラグが生じる場合があります。

トータル閲覧数(PV)   403,602 PV   

トータル訪問者数(I P) 119,228 I P

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


【探訪と講座】近江一向一揆の拠点~金森城・三宅城・中仙道守山宿  2013.2.23

2013年02月24日 | 平山城

金森城(かねがもりじょう)(滋賀県守山市金森町)

 金森は、寛正6年(1465)山門が東山大谷御堂を破壊した「寛正の破却」により、京都を逐われた本願寺第八世宗主蓮如が拠ったところです。それ以前から当地には金森惣道場があり、江南地域における真宗の拠点として知られていました。金森は東山道と琵琶湖とを結ぶ志那街道沿いの要地であり、戦国期にはこの道場を中心として寺内町が形成されていました。

 元亀元年(1570)に始まる石山合戦では、大坂本願寺の宗主顕如の檄文に呼応するように、金森・三宅(守山市)を中心として一向一揆勢が蜂起します。本願寺からは坊官の川那辺秀政が送り込まれ、各地の門徒・武士たちが金森・三宅の両城に集まりました。元亀2年、織田信長軍の攻撃が開始されると一揆勢は籠城して戦いますが、同年9月遂に人質を出して降伏します。しかし翌元亀3年正月再び一向一揆勢が蜂起します。これに対し、信長は湖南周辺の村々から一揆に参加しない旨の起請文を取り、懐柔を図ります。元亀の起請文と呼ばれるこの起請文の徴集によって一向一揆は解体し、同年9月には金森宛の楽市楽座の織田信長朱印状が出されます。金森は織田政権下の都市として再生することになるのです。

 金森寺内町については資料が少なく、また現地も大きく改変されているため、その構造は不明です。しかしながら、天保7年(1836)の村絵図が残されており、この絵図をもとに寺内町の構造を推測することは可能です。それによると、「善立寺」「因宗寺」「御坊」の三つの寺院を中心とし、町の中央を街道が通り、周囲が堀と土塁に囲まれていたことがうかがえます。善立寺・因宗寺は現在も当地に残り、御坊は現在金森懸所として知られています。

 
金森村絵図(『滋賀県中世城郭分布調査報告書3(旧野洲郡・栗太郡の城)』滋賀県教育委員会 1985)

 金森城は、寺院を中心とした集落を囲う堀の南側に「城ノ下」という小字名があり、そこが城の伝承地ではないかと考えられています。現在は住宅地になっており、城の痕跡はまったく残っていません。しかしながら、集落の中を水路が何本か通っており、堀の痕跡ではないかと考えられます。

 金森の集落内を通る水路

 金森城については、構造だけでなくその歴史についても明らかではありません。寺内町に隣接することから見て、おそらく善立寺の開基と伝えられる川那辺道西の一族が居住していたものと思われます。

 金森城へはJR守山駅から近江鉄道バス下物線または杉江循環線に乗り、金ヶ森のバス停下車です。そこから西の路地に入っていくと善立寺・因宗寺・金森懸所に至ります。その西に広がる住宅地、「城ノ下団地」と呼ばれるところが金森城の伝承地です。(松下)

 金森寺内町の中核 善立寺

 

現地探訪

 善立寺の前が金森御坊で金ヶ森が寺内町として要塞化した時の中心となっていたところである。
 金ヶ森御坊は通常施錠されていて入ることは出来ないが、善立寺にお願いすれば見せて頂くことが出来る。

 境内奥には2.5mはあろうかという見事な懸所宝塔(重要文化財)が残っている。元々は石ノ戸にあったものを移したとのことであるが、兎に角立派な宝塔である。

 鐘撞堂の石垣は後年に積み直しされたものであるが、宝篋印塔の台座や矢穴のある石など、当時の石垣の石材が使用されており、こんなところにも歴史が感じられて面白い。
 城としての遺構は堀跡と見られる用水路が金ヶ森御坊のある台地の西側に残り、金森御坊から南約500mに大門という地名が残っており、寺内町の広さをおおよそ窺い知ることができる。

 近くには蓮如が棒で地面を突いたら泉が湧いたという伝説のある蓮如池があり、善立寺には、元亀3年(1572)に織田信長が金森に与えた楽市楽座の朱印状が残されている。
 なお、善立寺のご住職は、川那辺弥七入道道西から数えて20代目の川那辺さんが継いでおられる。

 寛正6年(1465)本願寺は“一向専修念仏を唱え、念仏以外の三宝である仏,法,僧を誹る邪法を流布している”として、延暦寺西塔院の僧達によって東山・大谷本願寺が打ち壊しされた。
 この打ち壊しを機に本願寺第8世法主蓮如は、堅田衆の援助を得て布教の拠点を近江・金ヶ森に移し道場を開いた。
 この時に道場を主宰し野洲郡,栗太郡地域で門徒集団の中心になっていたのが川那辺弥七入道道西である。

 元亀元年(1570)6月の姉川の戦い後、9月になると本願寺11世法主顕如は三好三人衆、および、浅井・朝倉氏と手を結ぶと共に各地の一向宗門徒に檄を飛ばし信長に宣戦布告(石山合戦)した。
 寺内町として発展していた金ヶ森道場は、顕如の檄に従い、要塞化し信長に対抗するが、翌元亀2年(1571)に志村城と共に攻められ、籐左衛門秀秋の時に落城する。

 なお、蓮如は寛正6年3月から文明3年4月までの6年間、東海、北陸、紀州、大和などを旅行していた時を除いては湖東、湖西に住んでいたとされ、「本福寺由来記」ではこの金ヶ森道場には70日滞在したとし、「金森日記秡」には3年間滞在したとしている。

 金ヶ森の一向一揆については、信長公記の元亀元年(1570)に、守山で織田軍が一向一揆衆と戦ったとの記述がある。これは顕如の檄によって近江の一向宗が蜂起していたことを示すものである。

------------------------信長公記~元亀元年の条
 「江州路地通りの御警護として稲葉伊豫守父子三人、斉藤内蔵之佐(斉藤利三)を江州守山の町に置かれ候ところ、既に一揆蜂起せしめ、へそ村に煙があがり、守山の町南の口より焼き入りしこと、稲葉諸口を支え、追い崩し、数多切り捨て、手前の働き比類無し。」
------------------------ココマデ

 元亀2年(1571)になると、信長の一向一揆に対する攻撃は本格化し、伊勢長島の一向一揆に対し第1次長島攻めが行われる一方で、近江の一向一揆の本拠である金ヶ森は攻め落とされている。

------------------------信長公記~元亀2年の条
 九月三日、常楽寺へ御出であり、御滞在ありて、一揆楯籠もる金ヶ森取り詰め、四方の作毛悉く苅田に仰せつけらる。しゝがき結ひまわし、諸口相支へ、取籠めをかせられ候ところ、御詫言申し、人質進上の間、宥免なされ、直ちに南方表に御働きと仰せ触れらる。
------------------------ココマデ

 なお、一向一揆の詳細については、本願寺と一向一揆を参照下さい。

市三宅城

 永原氏の支城で永原出雲守孝房が在城していたが、永禄11年(1568)足利義昭を奉じて上洛する織田信長を阻止せんとする六角承禎に従っていたため、織田軍に攻められ、観音寺城と共に落城した

 市三宅城は東西約40m、南北約30mの単郭方形の城郭で、周囲には高さ1~3mの土塁が巡らされ、南側には空堀が残っている。
しかし、西~北~東は住宅が隣接して建てられており、堀の確認は出来ない。
虎口は南北に2ヶ所あるが、大手は安楽寺側か。

 地主さんのお宅には、菩提寺から移築された400年前の門が残っている。見学する際は、地主さんに一言お断りするようにしたい。

 

街道道標・・・中仙道

 焔魔堂を南北に貫く中山道は、古く奈良時代以前には開通していたと言われています。奈良時代に奈良が交通の中心だったことで急激に整備されました。また江戸時代には幕府が江戸~京都間の交通要所として東海道と共に特に整備された道路であり五街道の一つで、往時は、主要幹線として栄え往来する大名や公家並びに幕吏とか朝鮮・琉球の使節の旅人等で賑わったようです。

 五街道は、江戸(日本橋)を起点として全国を結ぶ5本の街道で、東海道(江戸~京都の53宿)・中山道(江戸~京都の69宿)・甲州街道(江戸~下諏訪の44宿)・奥州街道(江戸~白河の27宿)・日光街道(江戸~日光の21宿)で起点から終点までの約6Kmから14Kmの間に宿駅が設置された街道のことです。東海道と中山道は同じ江戸から京都間の道中ですが、参勤交代の諸大名が往来する路が決められており他の街道を通ることは許されなかった為や西国大名の幕府転覆の談合等を未然に防ぐ為に諸大名が同じ宿に泊まる事を禁じたりしました。そのために、脇街道を含めての道路整備を行うとともに道路監視のために親藩譜代の大名を配置して外様大名に対しての牽制を行っていました。また東海道には、大井川や浜名・桑名の渡しなど河留や水の困難が多く降雨時期には何日も足止めをされることがあったので、山中を越える険しい道中ではありますが予定日程で旅ができる中山道を利用すると言った二者択一が出来ました。東海道を表通り中山道を裏通りという関係であったと思われます。 通常中仙道の文字が使われますが、正徳6年(1716年)に中山道と改められました。

 この様な重要幹線道路であったため焔魔堂も助郷の賦役を余儀なくされ高価な人馬賃銭を代納していました。また、朝鮮等の使節行列には献納品に珍獣や珍鳥の類を運んでいた様で物珍しく見物人が多く出ていたとの文献も見られます。また、京都から江戸へ下る一泊目は守山宿で江戸から京都へ上る最終泊は草津宿と言った利用が一般的であったようです。
 

諏訪神社

 「宮さん」と呼ばれる《諏訪神社》があります。何時頃創建されたかは不明ですが、大宝神社の神主さんに伺ったところ『室町時代の古文書に出て来ますのでおそらく鎌倉後期若しくは室町初期に建てられたと思われます。』との事でしたので凡そ700年前の創建となります。祭神は大国主命の子で【南方刀美命】〔みなみかたとみのみこと〕とお后の【八咲刀命】〔やさかとめのみこと〕です。祭礼は、6月と7月の湯立祭と11月の新嘗祭が行われています。54日の大宝神社の例大祭には明治時代より北旅所となり市川原の八幡神社の南旅所と交互に御神輿が渡される様になったようです。御神輿は男性神輿3基・女性神輿3基・雷太鼓・宮座稚児巡行が行われます。男性神輿の3基は《追来神社》の「若宮」・《大宝天王宮》の「大宮」・《稲田姫神社》の「十禅師宮」です。現在は「若宮」を焔魔堂・二町・大鳥・阿村・伊勢村が担当(以前は今宿も参加)し「大宮」は綣・綣東・西浦・円田・苅原・笠川・市川原・小平井一区・三区・霊仙寺・北中小路の担当で「十禅師宮」を{安養寺東区・西区・南区・北区・一区}{小柿一区・二区・三区・四区・旭町・日出町・新屋敷}{下鈎甲・下鈎乙・糠田井}の3地区が順番に担当しておられます。私の子供の頃は55日と記憶していましたが、確認したところ昭和37年~昭和63年まで55日に実施されたそうです。

 氏神(産土神)である大宝神社についても少しふれてみたいと思います。《大宝神社》は、大宝年間より前は追来神社[オフキ](意布伎または伊不伎)であり【多々美彦命】を祭神に水神・風神の神様で雨乞いや目に御利益があるとされています。若宮権現とも呼ばれたので通称「若宮」と呼ばれ41日に<若祭>の例祭が執り行われています。大宝年間に疫病が流行り出した時に素盞鳴尊と稲田姫命が小平井信濃堂(シナンド)へ降臨されて追来神社境内に鎮座された。是を機に天武天皇の勅定により《大宝天王宮》と称され江戸時代末期の神仏分離令により《大宝神社》と改名されました。氏子も先に記しました守山地域・大宝地域・治田地域と広く大きな地域を占めています。

 

『是南淀領』〈これより南淀領〉と高さ約1メートルの石柱に、三面同様の文字が彫ってあるのを見られたことがあると思います。現在は、お宮さんの北西角に建てられています。

 
 
 これは、山城国淀藩(102千石)の飛び地領であった事を示す境界石の標柱で江戸時代に建てたものです。太閤検地により田畑の等級が決定されそれぞれの石高が決定された。

守山市史によると、《天正十九年(1591年)長束村の出自を伝える長束正家らによって、近江国内の広範囲な検地が行われた。その年四月二十三日、秀吉から家康に下甲賀郡一万七百余石・上甲賀郡二千石・蒲生郡一万二千九百余石・野洲郡六万四千余石「惣都合九万石」を与えたが、慶長三年(1598年)八月、秀吉が没すると、家康はその地を再検した。

{中略}

 この秀吉が家康に与えた九万石は、おそらく上杉景勝と同様家康の在京賄料として与えたものであろう。しかし徳川氏は秀吉なき後、これを大坂対策の軍事的目的のためとし、また豊臣氏滅亡後は上方対策のため、旗本・譜代大名の在京用途料として分与した。》とあるように、淀藩は譜代大名であり慶安4年(1651年)の藩領図によると焔魔堂・二町古高の一部・三宅・十二里・赤の井・播磨田・川田の一部・水保の一部・富田の一部を領有しておりその当時の焔魔堂の村高は田240.74石・畠11.16石の合わせて251.9石であった。改易・転封が多々ある時代であったが焔魔堂・二町は明治まで藩主は何度か変わって行ったが淀藩領のままであった。(因みに、今宿・勝部は膳所藩領であった。)

十王寺

 「えんまさん」の呼名で親しまれている『五道山十王寺』は、前述の通り平安時代に小野篁が開基されました。山号の五道とは仏教で<天・人間・畜生・餓鬼・地獄>の五の世界であり、生を受ける者は、その五の世界に生まれ死に変わる事を続ける所謂【輪廻転生】によって生き続ける世界観で、その世界に善行を積むか悪行を行うかで夫々生れ変わる場所が変わって行く事になるのです。また、十王とは秦廣王・初江王・宋帝王・五官王・閻魔王・変成王・泰山王(太山王)・平等王・都市王・五道転輪王であり、死者の初七日には秦廣王の裁きを受け二七日には初江王・三七日は宋帝王・四七日は五官王・五七日は閻魔王・六七日は変成王・七七日は、泰山王・百ヶ日は平等王・一周忌は都市王・三年忌は五道転輪王と続き生れ変わる世界を決められるのであります。この十王の補佐役として司命・司録・倶生神・鬼・人頭杖・脱衣婆と云う従者がいます。十王寺畧縁起によりますと、「十王倶生神を刻て、今の焔魔堂村に留めて十王寺とせられけるに、篁滅後にいたりて、いつとなく堂内に十王なくなり、唯倶生神一体となりしを驚き冥途に帰りたまひたるならん、・・・・・」とあります。大和国満米上人をむかえて、十王並びに倶生神の像をお造りになり十王寺と名づけられましたが篁が亡くなってから以後にいつごろか堂内には十王は消え失せ唯倶生神一体が残りました。村人は、せめて倶生神だけでも残り留まって頂きたいとお祈りをされました。それを聞き入れて、倶生神が残られ、いまの焔魔堂の本尊となったそうです。倶生神とは、生物が生れながらに右肩と左肩に存在して良い事の記録は右肩の倶生神、悪行は左肩の倶生神が記録を行い閻魔王に報告して罪の軽重を計る判断材料を記録する役割を担っておられます。これにより、五道の何れかへ生れ変わることになりますが、罪の軽重は我等凡人には計り知れないものがあるようです。善行と思っていても悪行と看做される場合もありますのでどのような事かは修行を積んで頂ければ自ずと導かれるのでは無いでしょうか。
 
《仏像事典》より
閻魔とは、梵語のYamaの音訳で閻羅、夜摩、閻摩とも書き。冥界で死者の罪業を裁く十王のなかの中心的存在を閻魔王という。古代インド神話では最初の死者として冥界の王となり転じて地獄界の王ともなった。密教では焔摩天といい十二天の一人。
 

小野篁

 焔魔堂地域に人が居住した一番古い証として古墳時代後期(西暦500年頃)の焔魔堂西古墳や、弥生時代~奈良時代紀元前400年~西暦793年)の焔魔堂遺跡等が有るが、ここでは平安時代の嘉祥2年(西暦849年)参議小野篁に依って十王寺(焔魔堂)が開基された頃からの歴史と主な出来事や言い伝えにスポットを当てて行く事とする。
 

 焔魔堂町の面積は22haで梅田(10ha)・岡(19ha)・千代(21ha)に次ぐ広さではあるが、歴史を紐解くと色々なことが探し出せるようである。前述した参議小野篁(西暦802852)は、平安時代の文人・貴族であり、小野小町のお祖父さんとも言われる。毎晩六道珍皇寺の裏の井戸から冥界に通い、閻魔の庁で裁判を手伝っていたと言う噂や、遣唐副使に任ぜられながらも、大使藤原常嗣の専横を怒って船に乗船しなかった為に隠岐に流されたが後に召還され参議となった。と言ったように博学・剛健でミステリアスな人物であった。

十王寺開基は、流罪後の事であり亡くなる3年前の48歳での事業であった。墓は京都堀川北大路の少し下がった細い路地を入ると、紫式部の墓と並んでヒッソリト建ててある。また、志賀町小野には、小野神社・小野篁神社や小野道風神社(篁の孫・書家)等小野家縁の神社がある。(ドライブがてら見学下さい。

 

 

住連房母公墓

市村長一さんの家の前に《住蓮房母公墓》の石碑があります。今から約八百年前の鎌倉時代の建永2年(1207年)2月9日に近江八幡の馬渕で打首に処刑される住蓮房に一目会いたいと後を追って焔魔堂まで来たところ、既に処刑された事を知り悲嘆に暮れて尼ヶ池に身を投げて亡くなりました。その菩提を供養の為に市村長左衛門さんが建立されました。

 何故、住蓮房は処刑されたのでしょうか?皆さんは松虫・鈴虫と云う名前をご存知ですか。松虫・鈴虫と云っても秋に鳴く虫達ではあり

ません。後鳥羽上皇の女官として寵愛された姫君達のことです。容姿端麗で教養もあり特に名前の通り美声の持ち主だったそうです。後鳥羽上皇は1198年に第一皇子である土御門天皇に在位を譲りましたが院政を布きながら多芸多才の持主で和歌は勿論蹴鞠・琵琶・箏・笛にも秀でていましたので美声の両姫も大変お気に入りで他の女官達の嫉妬されていました。

 当時、平安末期に法然上人が説かれた専修念仏が広まり出し貴族層を中心に武士・庶民等に支持を受けて行った為旧来からの南都北嶺の仏教教団から攻撃を受けるようになりました。1204年に比叡山(北嶺)の衆徒達が天台座主に「専修念仏停止」を訴えましたこれに対し法然上人は非難された事実7ヶ条を連記して一門の僧徒に違背しない様『七箇条起請文』にて門徒達に署名させて天台座主に提出しました。これでは手ぬるいと翌年には南都興福寺の衆徒が蜂起して専修念仏の全面停止と責任者の処罰を後鳥羽上皇に訴えました。この様な反発の強い状況の中、法然上人の弟子である住蓮房と安楽房は“別時念仏会”を開いて「浄土礼賛声明」と云われる仏教歌謡を行いました。それに魅了されて出家して仏門に入る人々も多く出て来ました。その中に松虫・鈴虫いました。二人は、鹿ケ谷草庵に赴き住蓮房・安楽房に出家受戒を申し出ました。しかし、出家するには上皇の許しが必要と思い止まる様に説得しますが両姫は死を決して御所を抜け出して来たので出家できないのなら死を選ぶとの覚悟に住蓮・安楽房も負けて出家受戒を行いました。その為、後鳥羽上皇は大いに憤慨して南都北嶺の教団が訴えていた事に優柔であったがこれを契機に専修念仏教団の弾圧を実施して住蓮房を近江八幡馬渕で安楽房を京都六条河原で打首の刑に処し法然上人を香川県に親鸞上人(当時は法然上人の弟子)を新潟県に流罪の刑に処されました。これを<建永の法難>といっています。

 法然上人は、流罪を許された後、住蓮・安楽両人の菩提を弔うため【住蓮山安楽寺】を東山の一画に建立しました。(現在地は江戸時代に再建されたものです)

 

 

 

 

本日の歩数  18,156歩   2時間44分    12.7km

消費カロリー 727.7kcal    脂肪消費量 104.7g

 

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


「安土城に込められた統治戦略」大沼芳幸氏(安土城考古博物館)2013.2.24

2013年02月24日 | 歴史講座・フォーラム

日 時 2013年2月24日(日)13:30~
場 所 安土城考古博物館(滋賀県近江八幡市安土町下豊浦6678)
内 容 「安土城に込められた統治戦略」大沼芳幸氏(安土城考古博物館)
定 員 140名
参加費 300円

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【講座】近江一向一揆の拠点~金森城・三宅城・中仙道守山宿  2013.2.23

2013年02月23日 | 歴史講座・フォーラム

金森城(かねがもりじょう)(滋賀県守山市金森町)

 金森は、寛正6年(1465)山門が東山大谷御堂を破壊した「寛正の破却」により、京都を逐われた本願寺第八世宗主蓮如が拠ったところです。それ以前から当地には金森惣道場があり、江南地域における真宗の拠点として知られていました。金森は東山道と琵琶湖とを結ぶ志那街道沿いの要地であり、戦国期にはこの道場を中心として寺内町が形成されていました。

 元亀元年(1570)に始まる石山合戦では、大坂本願寺の宗主顕如の檄文に呼応するように、金森・三宅(守山市)を中心として一向一揆勢が蜂起します。本願寺からは坊官の川那辺秀政が送り込まれ、各地の門徒・武士たちが金森・三宅の両城に集まりました。元亀2年、織田信長軍の攻撃が開始されると一揆勢は籠城して戦いますが、同年9月遂に人質を出して降伏します。しかし翌元亀3年正月再び一向一揆勢が蜂起します。これに対し、信長は湖南周辺の村々から一揆に参加しない旨の起請文を取り、懐柔を図ります。元亀の起請文と呼ばれるこの起請文の徴集によって一向一揆は解体し、同年9月には金森宛の楽市楽座の織田信長朱印状が出されます。金森は織田政権下の都市として再生することになるのです。

 金森寺内町については資料が少なく、また現地も大きく改変されているため、その構造は不明です。しかしながら、天保7年(1836)の村絵図が残されており、この絵図をもとに寺内町の構造を推測することは可能です。それによると、「善立寺」「因宗寺」「御坊」の三つの寺院を中心とし、町の中央を街道が通り、周囲が堀と土塁に囲まれていたことがうかがえます。善立寺・因宗寺は現在も当地に残り、御坊は現在金森懸所として知られています。

 
金森村絵図(『滋賀県中世城郭分布調査報告書3(旧野洲郡・栗太郡の城)』滋賀県教育委員会 1985)

 金森城は、寺院を中心とした集落を囲う堀の南側に「城ノ下」という小字名があり、そこが城の伝承地ではないかと考えられています。現在は住宅地になっており、城の痕跡はまったく残っていません。しかしながら、集落の中を水路が何本か通っており、堀の痕跡ではないかと考えられます。

 金森の集落内を通る水路

 金森城については、構造だけでなくその歴史についても明らかではありません。寺内町に隣接することから見て、おそらく善立寺の開基と伝えられる川那辺道西の一族が居住していたものと思われます。

 金森城へはJR守山駅から近江鉄道バス下物線または杉江循環線に乗り、金ヶ森のバス停下車です。そこから西の路地に入っていくと善立寺・因宗寺・金森懸所に至ります。その西に広がる住宅地、「城ノ下団地」と呼ばれるところが金森城の伝承地です。(松下)

 金森寺内町の中核 善立寺


来年のNHK大河「軍師官兵衛」

2013年02月19日 | 武将

=長浜市 発祥の地、全国PRで集客=

黒田氏の始祖「黒田判官」を祭る黒田廟所(長浜市木之本町黒田)

 来年二〇一四年のNHK大河は、秀吉の軍師、黒田官兵衛(注)を描いた「軍師官兵衛」。黒田氏は伊香郡黒田村(長浜市木之本町黒田)が発祥の地とされる。戦国大河の聖地を歩きながら、集客に向けた長浜市の取り組みを聞いた。

市内に廟所や古戦場など史跡点在
観光パンフ、イベント館で紹介


 黒田氏の祖は、近江国伊香郡黒田村の荘園領主で黒田判官と呼ばれた。JR木ノ本駅から徒歩十五分の邸宅跡(長浜市木之本町黒田)には、黒田判官を祭る黒田廟所や先祖の地を顕彰する石碑がある。
 ゆかりの地はこのほか、羽柴秀吉が柴田勝家との信長後継者争いで勝利し、天下人への足掛かりとなった賤ヶ岳古戦場(長浜市木之本町大音)がある。官兵衛は勝家方の勇将、佐久間盛政の猛攻に遭うも、奮闘し守り抜いた。
 長浜市から少し足を伸ばせば、天下分け目の関ヶ原古戦場(岐阜県関ヶ原町)。官兵衛の息子・長政が、東軍の主力として参戦する一方で、隠居の官兵衛も東軍として居城の豊前中津城(大分県)を拠点に次々と西軍方の城を落とした。

 

黒田官兵衛をアニメ風にデザインした観光パンフレット

 長浜市は、このように点在する史跡をPRし、大河ドラマをきっかけに観光客を呼び込もうと、のぼり旗を市内観光施設に掲げ、観光パンフレット=写真=を県内外で配布している。
 また、戦国大河ふるさと博の閉幕に伴って昨年十二月閉館予定だった「きのもと館」(同市木之本町木之本)については、官兵衛関連資料の追加展示を行い、今年三月末まで期間延長している。
 同市観光振興課は「まだイベントは具体化していないが、まずは全国へPRしていきたい」と、今後の盛り上がりを期待している。
 黒田官兵衛(一五四六年~一六〇四年)秀吉の軍師として、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、九州攻め、小田原攻めなど幾多の戦いで天下統一に貢献したが、その後は優れた軍才を疎まれた。関ヶ原の戦いでは東軍につき、九州で挙兵して四方を攻め取った。晩年は表舞台から遠ざかり、風流を愛し京に没した。

 

http://www.shigahochi.co.jp/info.php?type=article&id=A0012006

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講演:「近江の緑釉陶器と日宋貿易」 滋賀県教育委員会文化財保護課  2013.2.17

2013年02月19日 | 歴史講座・フォーラム

近江水と大地の遺産魅力発進事業【講座】平清盛とその時代

滋賀県教育委員会では、水と大地に刻まれた歴史遺産に光をあて、その価値を高めて、全国に魅力を情報発信していくため、「近江水と大地の遺産魅力発信事業」に取り組んでいます。その一環として、平成24年度は大河ドラマ「平清盛」の放映にあわせ、平清盛とその時代に光をあて、歴史探訪事業等を実施して参りました。
このたび、この事業のまとめとして、下記の講座を開催することとしました。多くのみなさまのご参加をお待ちいたしております。

講座1.

  1. 日時:平成25年2月17日(日曜日)
  2. 会場:野洲市歴史民俗博物館研修室(銅鐸博物館、野洲市辻町57−1)
  3. 日程:12:30~ 開場
    13時00分~ 開会挨拶
    13時05分~「平清盛とその時代」
    滋賀県教育委員会文化財保護課木戸雅寿さん
    14時00分~「近江の緑釉陶器と日宋貿易」
    滋賀県教育委員会文化財保護課畑中英二さん
    14時55分~休憩
    15時05分~「平家物語と祇王-妓王寺と祇王井-」
    野洲市歴史民俗博物館行俊勉さん
    16時25分~ 閉会挨拶
    16時30分~常設展およびテーマ展「木部天神前古墳と御明田古墳」見学解説
    野洲市教育委員会文化財保護課花田勝広さん
  4. 定員:120名(当日受付、先着順)

「近江の緑釉陶器と日宋貿易」

講師滋賀県教育委員会文化財保護課  畑中英二さん

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「平清盛とその時代」滋賀県教育委員会文化財保護課  2013.2.17

2013年02月18日 | 歴史講座・フォーラム

近江水と大地の遺産魅力発進事業【講座】平清盛とその時代

滋賀県教育委員会では、水と大地に刻まれた歴史遺産に光をあて、その価値を高めて、全国に魅力を情報発信していくため、「近江水と大地の遺産魅力発信事業」に取り組んでいます。その一環として、平成24年度は大河ドラマ「平清盛」の放映にあわせ、平清盛とその時代に光をあて、歴史探訪事業等を実施して参りました。
このたび、この事業のまとめとして、下記の講座を開催することとしました。多くのみなさまのご参加をお待ちいたしております。

  • 日時:平成25年2月17日(日曜日)
  • 会場:野洲市歴史民俗博物館研修室(銅鐸博物館、野洲市辻町57−1)
  • 日程:12:30~ 開場
    13時00分~ 開会挨拶
    13時05分~「平清盛とその時代」
    滋賀県教育委員会文化財保護課木戸雅寿さん
    14時00分~「近江の緑釉陶器と日宋貿易」
    滋賀県教育委員会文化財保護課畑中英二さん
    14時55分~休憩
    15時05分~「平家物語と祇王-妓王寺と祇王井-」
    野洲市歴史民俗博物館行俊勉さん
    16時25分~ 閉会挨拶
    16時30分~常設展およびテーマ展「木部天神前古墳と御明田古墳」見学解説
    野洲市教育委員会文化財保護課花田勝広さん
  • 定員:120名(当日受付、先着順)
  • 参加費:200円(野洲市歴史民俗博物館入館料)

昨年の大河ドラマ・・・

「平清盛とその時代」滋賀県教育委員会文化財保護課

講師滋賀県教育委員会文化財保護課  木戸雅寿さん

 

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閲覧数・訪問者数とランキング  祝 トータル閲覧数(PV)40万突破   400,178 PV 

2013年02月17日 | 番外編

過去1週間の閲覧数・訪問者数とランキング(日別)

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過去3週間の閲覧数・訪問者数とランキング(週別)

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江州音頭の魅力 2013.2.15

2013年02月16日 | 観光ボランティアガイド

真鍮家文好(しんちゅうや ぶんこう)一門による盆踊りなどで一般的に親しまれている「棚音頭」

=棚音頭と座敷音頭の共演=

  発祥の地として誇るべき郷土芸能「江州音頭」の魅力を再発見し、保存・伝承につなげようと、真鍮家文好(しんちゅうや ぶんこう)一門と桜川昇龍(さくらがわ しょうりょう)一門による「江州音頭」共演会が15日に東近江市池庄町の湖東コミュニティセンターで開かれた。江州音頭ファンら250人あまりが、江州音頭の真髄を楽しんだ。真鍮家一門は、盆踊りの時などにやぐらの上で楽器伴奏などをつけて歌い、地域の人びとが音頭に合わせて踊る、一般的によく知られ、広く普及している「棚音頭」を文好師匠と弟子が次々と披露。音頭に合わせた一般的な踊りのほか、傘を持っての傘踊りを披露すると、最後は観客も踊りの輪に加わった。桜川一門は、楽器伴奏などはなく、浪曲のような語りを中心とした聴かせる江州音頭で、滑稽話や人情話、人生訓などを織りまぜて聴く人の心を揺さぶり楽しませる「座敷音頭」を、昇龍師匠の「左甚五郎あいおい道中」と弟子の昇峰さんの「越後善吉米一粒」で聴かせた。かつてに比べると江州音頭を聴く機会が減り、演者が高齢化していることなどから、共演会の模様は映像記録され、市教育委員会がCD化して保存し、伝承・普及に活用される。

真鍮家文好一門による傘を持って踊る「傘踊り」

桜川

桜川昇龍一門による「座敷音頭」

桜川昇龍(さくらがわ しょうりょう)の「座敷音頭」

 地元で生まれた伝統郷土芸能「江州音頭」を知り、郷土の誇りとして身近に感じてもらうことで、伝承・発展につなげようと、東近江市教育委員会と市文化遺産活用活性化実行委員会は十五日午後一時半から池庄町の湖東コミュニティセンターで「歌い継ぐ・語り継ぐ郷土芸能 江州音頭共演会」。

 


 江州音頭は形態も屋外で踊りや楽器を伴うものや屋内で語りを聴かせるものなど様々に変化して今に伝わっている。

漫才や浪曲など大衆演芸にもつながるなど、芸能史の上でも重要な存在にある。

 初開催となる今回の共演会は、市内で活動している多くの音頭取りの中から、真鍮家文好(しんちゅうや ぶんこう)一門による盆踊りなどで一般的に親しまれている「棚音頭」と傘を持って踊る「傘踊り」と、桜川昇龍(さくらがわ しょうりょう)一門による「座敷音頭」が登場し、江州音頭の真髄を披露。

 

 

 

江州音頭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

江州音頭(ごうしゅうおんど)は滋賀県を中心に近畿地方各地で盆踊りに用いられる音頭。棚音頭と座敷音頭(敷座)の2種類がある。

     独立した舞台芸としても行われる(こちらは「口説き(クドキ)」と呼ばれる)。「江州」とは、近江国の別称である。

沿革と概要

 仏教の御経の節である声明を源流とし、山伏らによる民間布教手段として派生した祭文が一部で娯楽化し、次第に宗教色を薄めて遊芸としての祭文語りが独立した。浄瑠璃に近い説経節や、浪花節を生んだ浮かれ節などより下卑たものとされ、語りの合間に法螺貝を吹いて一同で「♪ デロレン、デロレン」という合いの手を入れることから、デロレン祭文と総称された。同様の成立過程を辿ったものには、願人坊主が事とした「阿呆陀羅経」や、「チョンガレ」(チョボクレ)、「春駒節」、「ほめら」などと呼ばれた諸芸(これらの一部は明らかに春歌に属する)などがあったが、テレビが普及した高度経済成長期を最後に継承者は絶えている。

江戸時代末期、武蔵国のデロレン祭文の名人万宝院桜川雛山の弟子の西沢寅吉が、歌念仏・念仏踊りを祭文に採り入れた独特の節回しを考案し、話芸を踊りと融合させた新たな音頭を作り上げた。これは祭文音頭と言われ、当初は近江国神崎郡八日市(現在の滋賀県東近江市)で踊られた。更に、寅吉と親交のあった奥村久衛左門(初代真鍮家好文)の協力で演目などを整備し、明治初年に近江国愛知郡枝村(現在の犬上郡豊郷町)の千樹寺で踊りを披露したのが、江州音頭の始まりとされる。その後次第に滋賀県内各地に広まっていった。

寅吉は祭文語りの芸名を桜川歌寅と名乗っていたが、師匠桜川雛山の許しを受けて初代桜川大龍に改名して宗家となった。明治末に大龍の門弟らは大阪千日前界隈の寄席にこぞって進出し、落語や音曲と並んで人気の演目となった。また、大阪府三島郡味舌村(現在の摂津市)の音頭取り出身の漫才師砂川捨丸や、従来の三河萬歳を修めた中河内の江州音頭取りの玉子屋圓辰の大成功を追って一部は漫才、浪曲などの舞台芸に転じ、今日の演芸の源流のひとつにもなった。古い漫才の名跡である『砂川』、『桜川』、『荒川』、『河内家』といった苗字は江州音頭取りから派生し、『松鶴家』は歌舞伎俳優から俄に転じた者が多かったところから派生した。

近江商人兼業の音頭取り達が東海道・京街道・伊賀街道など商用で訪れた土地の人々に余暇として江州音頭を伝えたことが基となり、河内音頭の成立にも多大な影響を及ぼした。また、江州音頭が河内音頭と並んで興行として演じられるようになってからは、浪曲や、江戸中期以来大坂で盛んに演じられ人気を博した即興喜劇である俄(にわか)などの諸芸と融合し、近江とは別のスタイルで大阪でも独自の発展・変革を遂げた。

流派と新風

桜川唯丸 1990年11月10日東京渋谷クアトロでのライブ

江州音頭を成立させた2人が立ち上げた次の2つの流派が源流とされる。いずれも、「♪ ヨイト ヨイヤマカ ドッコイサノセ」の合いの手の他、音頭の途中に「♪ デロレン、デロレン」の一節を唱和する形を継承しており、江州音頭がデロレン祭文の系譜にあることを主張している。

  • 川北派(桜川派) 宗家 初代桜川大龍(西沢寅吉)
  • 真鍮家派 宗家 初代真鍮家好文(奥村久左衛門)

明治中期に京街道沿いに伝播したとされる河内の江州音頭の流れを汲む、初代桜川唯丸(1995年引退)は、昭和末期から平成初頭にかけてロック・ジャズ・ファンクミュージックの要素を盛り込んだ伴奏に合わせて音頭を歌い、従来の枠に入らない江州音頭の新境地を開拓した。

発祥地

江州音頭の発祥地とされる場所は2か所あり、両地に石碑が建立されているが、どちらが真の発祥地とも言い難い。

  • 延命公園 滋賀県東近江市八日市松尾町(桜川大龍が江州音頭を考案した場所とされる)
  • 千樹寺 滋賀県犬上郡豊郷町下枝(初めて江州音頭を披露した場所とされる)

桜川大龍の出身地である犬上郡河瀬村(現在の滋賀県彦根市南川瀬町)法蔵寺にも石碑がある。また発祥地以外にも、桜川大龍の石碑は滋賀県内各地に点在している。

音頭の出だし節回し

地域差により若干相違するが、以下のものが代表的


音頭取り「♪あ、こりゃどっこいせ~」
 囃子「こら、しっかりせ~」
 
音頭取り「ええみ~い~な~さ~ま た~の~み~まあ~す」
 囃子「そら、どっこいしょ」
 
音頭取り「あ~これから~よ~いやせ~と声~掛けた~の~み~ます~」
 囃子 「あ~よいやさあ~のせの~どっこいさあ~のせい」
 
 音頭取り「え~さては~この場~の皆さんや~」
 囃子「あらどしたい」

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淡海の城(おうみのしろ)  第32号   平成25年(2013)2月14日発行

2013年02月15日 | 歴史講座・フォーラム


淡海の城(おうみのしろ)  第32号   平成25年(2013)2月14日発行

近江の真宗と寺内町金森~連続講座第4回にむけて
 近江の寺院勢力を語る上で、中世に大きく台頭した浄土真宗は無視できない存在です。浄土真宗は現在までの歴
史の中で、複数の流派に分派していきます。その流れの中で親鸞の廟堂を始原とする本願寺を本山とする流派(現
本願寺派・大谷派)が大きな勢力を持つことになります。
 近江の地に浄土真宗がいつ伝播したかははっきりとは判明していませんが、真宗系寺院の伝承等から13世紀頃に
は伝わっていたものと思われます。最初は本願寺以外の教えを受けた門徒衆が興隆し本願寺の寺勢は余り振るいま
せんでしたが、七世存如および八世蓮如が布教に努めた結果、教団を大きくすることに成功します。惣村組織を本
願寺の教団組織に取り込むことで近江各地に門徒集団の拠点となる地が出現し、「寺内町」と呼ばれる寺院を中心
に構成される集落も形成されました。
 代表的な「寺内町」として近江では金森が挙げられます。この金森では浄土真宗を巡る騒乱が二度引き起こされ
ました。最初のものは真宗を自教団の一員とする山門(天台宗のうち、延暦寺を本山とする一派)と戦った「金森
合戦」(1466)、二度目は本願寺と織田信長の抗争に連携した「一揆」(1570~2)です。
 ただし、この様な騒乱は「宗教」のみを問題にして引き起こされたわけではなさそうです。金森は野洲川の旧流
路に沿った微高地に立地した町で、港湾がある志那へ向かう街道が通過し、琵琶湖に注ぎ込む中小河川がいくつも
分流する地点に近接しており、水陸両方の交通の要衝ともいえます。山門の圧力行使は、真宗門徒が町を掌握して
しまうことにより在地領主としてこの交通の要衝が自らの思うようにならなくなることに対する不満が大きな原因
となっているものと思われます。信長との抗争の場合、対抗する政治権力に加担することがその原因になっていま
す。また、一揆との和睦の後金森に対し楽市楽座令を出していることから、信長はこの地を交通の要衝・物流の拠
点と評価していることがうかがえ、土地の支配に関わる問題も内包している可能性があります。
 このように、中世において度々引き起こされた寺社勢力が関わる抗争は、その背景にある政治や土地支配をめぐ
る様々な問題をはらんでいるものといえるでしょう。(上垣)

○連続講座「近江の城郭」第4回 近江一向一揆の拠点~金森・三宅 開催のお知らせ


  寛正6年(1465)、山門による本願寺破却(寛正の破却)によって京都大谷の地を逐われた蓮如は、近江金森に身
を寄せます。金森の地は土豪川那辺氏が支配してきた場所ですが、14世紀に本願寺に帰依して惣道場(金森御坊)
が開かれ、これを中心として寺内町が形成されていました。
 元亀元年(1570)9月、天下統一を目指す織田信長を倒すため本願寺顕如は諸国の門徒に檄文を発しました。これ
を受けて、近江湖南でも一向一揆が蜂起しましたが、その中心となったのが金森とそのとなりの寺内町三宅でした。
一揆はその後、降伏と再蜂起を経て元亀3年(1572)7月、一揆勢の楯籠もる金森・三宅が開城し、終焉を迎えます。
その後、金森には織田信長より楽市楽座の掟書が下され、織田政権のもとに組み込まれていきます。
 現在、金森の地には寺内町を囲う堀の名残を思わせる水路があり、三宅にも土塁や水路の痕跡が残ります。今回
の講座では、文化財専門職員の案内で金森・三宅の寺内町跡を訪ね、現地に残る遺構をたどります。

1.日時 平成25年2月23日(土) 10:30~16:00 ※10:00受付開始
      集合:JR守山駅西口広場   全行程約6km(平地・舗装道)
             ※守山駅到着時刻 上り 10:21(普通) 10:24(新快速)
                               下り 10:18(新快速)10:23(普通)
            解散:守山宿にぎわい広場(JR守山駅まで徒歩10分)
              ※希望者は、JR守山駅まで職員がご案内します。
2.場所 講義:守山市中心市街地活性化交流プラザ あまが池プラザ(守山市勝部1-13-1)
     現地見学:金森寺内町跡・三宅寺内町跡(守山市金森町・三宅町)
4.主催 滋賀県教育委員会
5.共催 守山市教育委員会
6.内容 講義「近江の真宗と寺内町金森」 講師:上垣幸徳(滋賀県文化財保護課)
     金森寺内町跡等現地見学 解説:守山市教育委員会文化財保護課専門職員
7.定員 90名(事前申込制)
8.参加費 50円(保険料等実費分)
9.参加申込方法
(1)FAX・電話・メールに住所・氏名(ふりがな)・連絡先(携帯推奨)をお書きの上、下記までお申し込み
   ください。
(2)申込締切 平成25年2月21日(木)午後5時
10.持ち物 健康保険証、弁当、水筒、タオル、ウォーキングに適した靴・服装
11.その他
(1)講座資料(A4 8頁程度)を無料で配布します。
(2)単独回のみの参加も可能です。
(3)受講された方には修了証を発行します。
(4)悪天候等による中止の場合は22日(金)午後5時までに参加者に連絡します。
(5)集合場所付近には駐車場はありません。公共交通機関をご利用ください。
11.参加申込・問い合わせ
 滋賀県教育委員会事務局文化財保護課城郭調査担当
  〒521-1311 滋賀県近江八幡市安土町下豊浦6678 城郭調査事務所
  TEL0748-46-6144 FAX0748-46-6145 E-mail ma16@pref.shiga.lg.jp
今後の予定
【第5回】湖賊の自治都市~堅田


  日時:平成25年3月23日(土) 13:00~16:30 JR堅田駅集合・解散
  場所:堅田市民センター(講義)/大津市本堅田(現地)
    講義:諸浦の親郷・堅田 仲川靖(滋賀県文化財保護課)
    現地解説:大津市歴史博物館専門職員

シリーズ「淡海の城」(33)

水茎岡山城(おかやまじょう)(滋賀県近江八幡市牧町)
  岡山城は琵琶湖の東岸に位置する標高187mの岡山に築かれた城です。岡山は古来和歌に「水茎の岡(みずぐき
のおか)」として詠まれた名勝の地で、城は別名水茎岡山城(すいけいおかやまじょう)とも呼ばれています。

 岡山城は、南北朝期に近江守護佐々木氏が湖上の監視所として築いたとされていますが、室町期には在地領主九
里氏の居城となっています。永正5年(1508)、将軍足利義澄が京都を逐われ、近江に逃亡しました。坂本から長命
寺をへて、最終的に岡山城に入ります。応仁の乱の後、足利将軍家も分裂し、将軍が京都を逐われる事態がしばし
ばおこります。この時は周防の大内氏のもとに身を寄せていた前将軍足利義尹が、京都で権力を握っていた細川高
国と結んで軍勢を率いて上洛しようとしており、高国と敵対する細川澄元と結んでいた義澄は六角氏を頼って近江
へと逃れたのでした。その3年後、足利義澄は岡山城中に没します。

一方、六角氏と対立を深めていた守護代伊庭氏は九里氏と結んでおり、永正15年(1518)六角氏と結んだ細川高国によって岡山城は攻撃を受けます。永正17年(1520)岡山城は陥落し、伊庭氏・九里氏は退城しましたが、その後も戦いは続き、最終的には大永5年(1525)、六角氏の江北出陣の隙を突いて挙兵した伊庭氏・九里氏の残党が、観音寺城の留守居であった後藤氏と戦った黒橋の戦いに敗れ、伊庭氏は歴史の表舞台から姿を消します。岡山城もこの段階で廃城したとされています。


 岡山は三つの小丘陵が連なってできて山です。琵琶湖に近い方から頭山(標高147m)・尾山(標高187m)・後
山(標高113m)と呼ばれていますが、このうち頭山・尾山に城の遺構が見られます。また現在は干拓によって失
われていますが、かつては城の南面に内湖が広がり、湖上の浮城のような城でした。頭山は城の本丸といわれてい
ますが、山頂部は造成工事によって城の遺構は破壊されており、わずかに山復部に帯郭状の平坦部が見られるだけ
です。一方、尾山山頂部には城の遺構が良好に残されています。山頂部に二つの郭が並んで築かれ、両者は土橋で
つながっています。また郭の周囲を帯郭が取り巻き、琵琶湖側の外周には土塁が巡っています。南斜面には山麓へ
と延びる竪堀があります。

 頭山と尾山との間の鞍部は現在湖岸道路が通っていますが、道路建設に伴う発掘調査で建物礎石と石垣が発見さ
れました。永正5年に岡山城に入った足利義澄の御殿跡ではないかといわれています。
  岡山城へは、近江八幡駅より近江鉄道バス野ヶ崎行きで牧町西口下車、湖岸道路までしばらく歩き、湖岸道路を
左に折れて老人ホーム水茎の里の前を過ぎると、左手に「名勝水茎岡」とかかれた石標と階段があります。これを
登ると、尾山山頂部へといたる山道へとつづいています。頭山へは湖岸道路の琵琶湖側を山の方に進み、山裾の道
を琵琶湖方面に進むと山に登る道があります。道は山頂部までは延びていませんが、「高御座のほらす年のよろこ
ひをしるしととめよ水くきの岡」という御歌所長入江為守の和歌を刻んだ石碑と、その下に「水茎岡山城」と墨書
された木の看板が置かれた所に行くことができます。(松下)

城郭伝言板
  全国で実施される城郭関連の催し物についてお知らせします。
  ※ここに掲載した情報は、各機関のホームページやポスター・チラシから転載したものです。詳細についてはそ
  れぞれの機関にお問い合わせください。
  ※淡海の城友の会ではここに紹介した催し物への参加申込のあっせんや取り次ぎは一切行っておりません。
  各催し物の申込先を御確認のうえ、直接お申し込みください。

○大阪歴史博物館特別展「天下の城下町 大坂と江戸」
 会期:平成25年2月2日(土)~3月25日(月)
 会場:大阪歴史博物館 〒540-0008 大阪市中央区大手前4-1-32
     TEL06-6946-5728 FAX06-6946-2662
  講演会「大坂と江戸」
  日時:平成25年3月10日(日) 13:30~15:00
  講師:脇田修氏(大阪歴史博物館館長)
  会場:大阪歴史博物館四階講堂
  定員:250名(当日先着順)
    参加費:300円(ただし、特別展の観覧券もしくは半券提示の方は無料)
 シンポジウム「近世の二大城下町 大坂と江戸 その姿と都市景観をさぐる」
  日時:平成25年2月24日(日) 10:15~16:45
  会場:大阪歴史博物館四階講堂
  定員:250名(当日先着順)
  参加費:無料
  参考URL http://www.eventscramble.jp/e/tenka/

○滋賀県立安土城考古博物館連続講座「シリーズ 近江の城を探る」
  日付・テーマ・講師:
  ④2月23日(土)「日野の城を探る」 振角卓哉氏(日野町教育委員会)
  ⑤3月9日(土)「佐和山城を探る」 小島孝修氏(公益財団法人滋賀県文化財保護境界)
  ⑥3月23日(土)「長浜の城を探る」 牛谷好伸氏(長浜市教育委員会)
 会場:滋賀県立安土城考古博物館2階セミナールーム
 時間:13:30~
  定員:140名(事前申込不要)
 参加費:300円(資料代)
  問い合わせ 滋賀県立安土城考古博物館
             〒531-1311 滋賀県近江八幡市安土町下豊浦6678
              TEL0748-46-2424 FAX0748-46-6140 E-mail gakugei@azuchi-museum.or.jp

湖賊の自治都市・堅田~連続講座第5回に向けて


 「堅田におつる雁がねの たえまに響く三井の鐘 夕くれさむき唐崎の 松には雨のかかるらん♪♪」明治33
年(1900)に大和田建樹が作詞した「汽笛一声新橋を・・・」の『鉄道唱歌』の43番です。 この頃、湖西
には鉄道は走っていないのですが、大和田は鉄道唱歌に「近江八景」をすべて歌いこみ、今で言うコマーシャルソ
ングの先駆けのようなものでしょうか、全国に近江の紹介をしています。平成24年度連続講座「近江の城郭」の
最終回では、この「堅田」を取り上げます。
 昭和39年に琵琶湖の最狭部(約1300m)を使って対岸の守山市今浜と結ぶ琵琶湖大橋が出来、今では1日
平均34100台の車の通行量がある交通の要衝です。JR湖西線堅田駅周辺、琵琶湖大橋西詰めまでの旧国道1
61号沿いは、休日ともなれば、車の渋滞が出来、通過するのに1時間ほどかかります。しかし、昭和49年に江
若鉄道に代わって湖西線が開通した後も昭和60年頃までは、琵琶湖大橋の西詰めに「びわこタワー(現在イズミ
ヤ)」、国道沿いに「平和堂堅田店」と「さくらスーパ(現在アクト)」の大型店があるぐらいで、駅のホームか
ら内湖の真珠養殖棚が見渡せるような所でした。今回お話する堅田は、江若鉄道時代に繁栄していた「本堅田」と
言われているところで、駅前の賑わいからはやや外れた場所です。「浮御堂」がある場所と言えばピンとくる方が
いるのではないでしょうか。
 堅田は、古代から漁猟集落として成り立っていましたが、平安時代に京都下鴨社の御厨となったあたりから、た
だの漁師町でなくなってきました。また、比叡山延暦寺の膝元にあるため延暦寺の荘園にも組み込まれてきました。
転機となるのは、嘉禄3年(1227)佐々木信綱が承久の乱の恩賞に「和邇・堅田」の地頭職を賜った頃からで
す。これまで下鴨社は御厨の供御人ということで堅田の住人を、延暦寺は荘園領主として堅田の土地を支配してき
たのですが、佐々木信綱という管理人が登場したことで勝手気ままに搾取できなくなったわけです。対抗措置とし
て延暦寺は新たに「湖上関」という通行する舟から「関銭」を取る、今で言う「税関」を設けます。下鴨社は「漁
業権」「航行権」の保証をし、堅田の前を通る舟に他所のものが海賊行為を働かないよう乗り込んで安全を図る
「上乗り」という権限を与え、それぞれ資金を得る画策をします。幸いにも佐々木信綱の和邇・堅田の地頭職は名
前だけで終わり、以後、幕府の守護が入ることもなく、国人領主に支配されることもなく織田信長時代まで推移し
ていきます。
 さて、京都の大徳寺瑞峯院(大友宗麟の墓がある)の檀那の間(堅田の間)には、行方不明になっていた「片田
景図」の襖絵が日本ヒューレットパッカード(日本HP)のプリンティングテクノロジーで高精細複製され公開さ
れています。屏風仕立てにしたものが見つかり、日本HPが襖に再現復元したということですが、この絵を見ると
鄙びた漁村にしか思えません。講座の前に見に行かれてはどうでしょうか(拝観料400円)。
 こんな鄙びた漁村を応仁2年(1468)延暦寺の山門衆徒が襲撃する「堅田大責」が起こります。その2年後、
堅田衆は多額の礼銭を延暦寺に払い、なおかつ坂本三津浜衆に奪われた「湖上関」「上乗り」の権限を力づくで取
り返します。鄙びた漁村がどう変貌していくのか、さらに織田信長が目を付けたものとは何か講座で迫っていきた
いと思います。(仲川)

 

 

事務局からのお願い
  城郭伝言板に掲載する情報について会員の皆様からの提供をお待ちしています。展覧会・講演会・現地説明会な
どご存じのことがありましたら、事務局までお知らせ願います。

編集後記
  連続講座「近江の城郭」もいよいよ大詰め、残すところあと2回となりました。第4回近江一向一揆の拠点~金
森・三宅の案内を1頁の載せていますので、参加ご希望の方はお申し込み願います。
 このところ発行が遅れがちな会報ですが、今年度はこれが最後になります。また来年度も様々な情報を掲載して
いきますので、これからもどうぞよろしくお願いします。

「淡海の城」友の会事務局
滋賀県教育委員会事務局文化財保護課城郭調査担当気付
〒521-1311 滋賀県近江八幡市安土町下豊浦6678 城郭調査事務所
TEL0748-46-6144 FAX0748-46-6145
E-mail:ma16@pref.shiga.lg.jp URL:http://www.geocities.jp/nobunaga9999castle/


大津城 近江国 2013.2.13

2013年02月13日 | 平城

大津城は、琵琶湖に通じる堀で囲まれた三の丸、二の丸、奥二の丸と、琵琶湖に突き出した伊予丸と本丸からなる、水城である。

京極高次が、関ヶ原の前哨戦となる籠城戦では、西軍の大軍を10日以上釘付けにし、関ヶ原での勝敗の帰趨を左右したといわれる。
大津城の天守は、五層四重であったが、三層三重に変更して彦根城に移築され、現存している

大津城の城域は、市街地として再開発されることによって、完全に消失している。

石碑が空しく建てられているのみ。

昭和55年駒札・・・資料【佐々木源氏】より

天正14年(1586)、羽柴秀吉の命により、浅野長政が坂本城を移築して築城する。
天正19年(1591)、新庄直頼が城主となる。
文禄3年(1594)、増田長盛が城主となる。
文禄4年(1595)、京極高次が近江八幡城より移封され、城主となる。
慶長6年(1600)、関ヶ原の合戦の前哨戦として、城主・京極高次は大津城に籠城して西軍と戦う。9月8日から攻撃を受け、14日に開城する。
慶長7年(1601)、戸田一西が城主となるが、膳所に築城して移り、大津城は廃城となる。本丸跡は、以後、大津代官所・幕府蔵となる。

歴 代 城 主

浅野長政、新庄直頼、増田長盛、京極高次、戸田一西

大津城跡碑 大津城跡碑 大津城跡碑 大きな地図で見る

大津城跡碑

豊臣秀吉は、近江国の情勢が安定し、比叡山を保護するようになり、また大坂城を拠点にしたので、軍事面で、また北国からの物資の流通の中継地としての「大津」の重要性が高まったことから、再建した坂本城を廃城して、大津へ城を移しました。
京都吉田社の神官、吉田兼見(かねみ)の日記「兼見日記」によると天正十四年(1586)2月に秀吉は、大津に頻繁に下向していたと記されているので、このあたりだと推測されます。

初代城主は、坂本城の第4代目の浅野長吉がそのまま就任しました。長吉は交通の要所である大津には船が少なかったので、もろもろの浦から船を集めさせ「大津百艘船」(おおつひゃくそうせん)という船持仲間ができました。この大津百艘船にはすべての課役を免除し、大津の浦から出る荷物や旅人はほかの浦の船に乗せないという特権を認める制札を発行しました。これが、大津の浦が物資の集散地として基盤を築くことになりました。浅野長吉のあとの城主、増田長盛そして新庄直頼も大津百艘船の制札を発行しています。

直頼が摂津の高槻城に移ったあと、城主となったのが近江佐々木の血を受け継ぐ京極高次でした。高次も歴代城主と同様、大津百艘船の制札の発行を出しています。

大津城籠城【1】 大津城籠城【1】

大津城籠城【1】

大津城の攻防は、戦国時代の終わりを告げる「関ヶ原の合戦」の前哨戦でした。秀吉が慶長三年(1598)、伏見城で死去すると、五大老の一人、徳川家康が台頭してきました。その翌年、秀吉の後継者秀頼を補佐していた前田利家が病死すると、勢力の均衡が一挙にくずれていきました。
そこで、家康は、前田利家の子、加賀の前田利長や丹後の細川忠興を押さえ、会津の上杉景勝の征伐を企てました。この動きに石田三成の呼びかけで、五大老の毛利輝元、宇喜多秀家をはじめとする旧豊臣方の恩顧の諸大名が大坂城に集結しました。
家康はこの動きに対し、慶長四年6月18日、大津城の京極高次と会い密談を交わしていたと言われています。家康が上杉討伐のため、会津に出発すると西軍は伏見城に総攻撃を駆けて10日目に陥落させて、大津へと兵を進めました。
京極高次は、豊臣方の恩顧の大名であり、妻の「お初」は、秀吉の側室「淀殿」の妹であり、高次の妹(姉とも言われます)「松の丸」も秀吉の側室でありました。一方、妻「お初」の妹は、徳川家康の次男、二代将軍「徳川秀忠」の妻となっていましたので、西軍につくのか、東軍につくのか苦しい立場でありました。ただ、高次は、すでに家康から、大津城の修繕費として白銀三十貫文を受けるなどすでに深い関係でした。
高次は、とりあえず西軍に応じて、加賀の前田征伐に従いましたが、兵千人を大津城に残して、二千の兵を率いて出発しましたが、一向に進まず、20日目でやっと余呉に着きました。この動きに西軍が疑問を持ち出すと、急転し、海津から船で、9月3日に大津城へ帰還しました。この時、高次は籠城を決心していたと考えられます。

大津城籠城【2】 大津城籠城【2】 大きな地図で見る

大津城籠城【2】

大津籠城は慶長五年(1600)9月4日から始まり、家臣の妻子をよんで兵糧米の確保や、塩や味噌、醤油も城内の蔵に入れ、防御を堅固にするため城のまわりを14時間もかけて焼き払いました。
この籠城に対して、西軍、立花宗茂と毛利軍の率いる一万五千の大軍は大津城を包囲し、大津城が非常に見やすい、城の南西にある長等山(ながらさん)の山腹に陣をはりました。西軍の総攻撃は9月6日からはじまり、城外の前線陣地は全滅となりましたが、城内の守りは堅く、一進一退の攻防が続きました。そこで西軍は、長等山に大砲を据えて、城内に向かって砲撃を開始いたしました。この攻撃ぶりを京の町衆も手弁当をもって見物にきていたといわれています。城内はこの攻撃にも開門の様子なく、6日目を迎えましたが、西軍の外堀を埋める戦略により、より激しい攻撃が行われ、9月14日、秀吉と親しかった高野山の僧、木喰応其(もくじきおうご)と新庄直忠が本丸に入り、和睦開城を申し入れました。
当然、高次はこれを拒否しましたが、家臣の強い諫言(かんげん)によってついに、開城することとなり、11日間の大津籠城はおわり、9月15日早朝、高次は兵士、老人、女子供およそ二、三百人を引き連れて高野山を目指しました。高次が高野山を目指した、ちょうどその日の朝から、天下分け目の合戦「関ヶ原の合戦」の幕が切っておとされましたが、大津籠城で足止めされた大軍が、この合戦に間に合っていたとしたら、歴史が塗り代わっていたかもしれません。

 

高次は、妹松の丸が秀吉の側室になっていたことから、秀吉配下の武将となりましたが、大津城攻防戦では東軍方として籠城し、西軍を大津に足止めしたことは有名です。

関ヶ原合戦のあと、徳川家康は、大津城主に徳川家譜代の戸田一西(とだかずあき)を据えましたが、9ヶ月のちに大津城を廃城し、新たに膳所(ぜぜ)が崎に、膳所城を築きました。
廃城の際、大津城は落城はしていなかったということから、天守閣は、井伊家の彦根城の天守閣として今も残っています。

 

大津城の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 

大津城の戦い(おおつじょうのたたかい)は、慶長5年9月7日(1600年10月13日))から同年9月15日(10月21日)まで、近江国大津城を巡って行なわれた戦い。関ヶ原の戦いの前哨戦と位置付けられる。

 

経緯

豊臣秀吉の死後、天下人の座を狙う徳川家康と、豊臣氏擁護の立場から家康と対立する石田三成ら反家康派の対立は、慶長5年の会津征伐を契機として表面化する。三成は家康が会津攻めに赴いたことを好機として、大谷吉継や毛利輝元ら反家康派の諸大名を糾合して挙兵した。そして、家康が畿内を留守にしている隙をついて伏見城を落とし、次いで北陸や伊勢方面の平定に乗り出していた。

北陸方面の平定には、越前敦賀の大名である大谷吉継が担当することとなった。そして、この北陸方面軍の一員として、近江大津城の城主・京極高次が加わっていた。ところが高次は、吉継が北陸から美濃へと転進する最中に突如東軍に寝返り、手勢3000名を率いて大津城に籠城し、防備を固め始めた。この出来事に大坂城の淀殿は驚き、城中にあった高次正室の初(常高院、淀殿の妹)に使者を遣わして停戦・降伏を求めるが、大津側は断固として拒否した(高次の姉妹で淀殿と同じく秀吉の側室であった松の丸殿(京極竜子)も、共に城中にあったと言われている)。

これに対して西軍側は、高次の裏切りに対する報復として、毛利元康を大将とし、それに立花宗茂、小早川秀包、筑紫広門ら九州方面の諸大名の軍勢を中心とした総勢1万5000人の軍勢をもって、慶長5年9月7日より大津城に対して包囲攻撃を開始した。しかし高次は城を死守し、容易に城攻めは捗らなかった。中でも赤尾伊豆守・山田大炊の活躍はめざましく、精兵500を率いて城外の大軍へ討って出て、存分に暴れ回ったという。攻めあぐねた寄せ手は、13日には大砲を城内に撃ち込んだ。砲弾は天守にも命中、城内は大混乱となる。高次も必死に防戦するが、ここに立花勢の先鋒大将・立花吉右衛門が一隊を率いて城壁に取り付いた。

高次をはじめとする京極勢は奮戦したが、遂に力尽き、9月15日に降伏して大津城を開城する。高次は一命を助けられ、高野山に上って出家することとなった。

なお、高次の正室である初にとって、落城の憂き目にあったのはこれが3度目である。

影響

この大津城攻防戦は西軍の勝利に終わったが、大局的には西軍の敗北につながることになった。なぜなら、大津城が開城した9月15日は、関ヶ原の戦いのまさに当日だったからである。つまり西軍は、本来なら関ヶ原にあったはずの1万5000人の兵力を欠いたまま東軍と戦う、という不利な状況を自ら招いたのである。特に、家康がその武勇を恐れていた立花宗茂が関ヶ原の本戦に参加できなかったことは、家康にとっては幸運であり、西軍にとっては不運であった。もし宗茂が1万を超える大軍と共に本戦に参加できていたなら、東西両軍の勝敗は変わっていた、という可能性さえ指摘されているのである。結果として、西軍は大津城を陥落せしめたものの、同じ日のうちにその局地的勝利は意味を失った。

立花宗茂は大津城を開城させた後、軍勢を率いて草津まで進出したが、そこで西軍の壊滅を知って大坂城への退却を余儀なくされ、戦後に改易されてしまった。

一方、敗軍の将である京極高次に対して家康は、関ヶ原戦後に高次の弟・京極高知(関ヶ原で東軍の将として功を挙げた)を使者として高野山に派遣し、大名としての復帰を許しただけではなく、若狭一国・9万2000石を与えて功に報いた。家康は、宗茂を大津城に引き付けたことを大いに賞賛したという。

関連項目

田辺城の戦い - 西軍側が城を落としたものの、関ヶ原本戦に間に合わなかった。

  

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました