城郭探訪

yamaziro

椿坂・柳ケ瀬関所   近江国(余呉 柳ケ瀬)

2018年08月20日 | 関所

陰では赤い布をつけたお地蔵さんや石仏が涼しそうに佇む。木の根の間に置かれた石仏の赤い布が少し色褪せてしまっているが、それはそれで赤一色の強さを柔げてくれているようで、また心地よいものだ。画像に含まれている可能性があるもの:植物、草、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然

 画像に含まれている可能性があるもの:屋外

 

柳ケ瀬関所

1620年頃 近江国の最北端の「中河内関所」を廃止、北国街道のと刀根越えの分かれ目に彦根藩が柳ケ「柳ケ瀬関所」を設置。明治2年の廃止まで続いた。 

所在地:滋賀県伊香郡余呉町柳ヶ瀬  map:https://yahoo.jp/aTceui

開設期:江戸期 (1620)

開設者:彦根藩

訪問日:2018.7.22

画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外道標

右   ゑちぜん
    かがのと  道
左   つるが
    三国ふ祢のりは
          明治十六年癸未一日建之

と刻まれた道標が立っている。

ここは間宿 

北国街道の北の端に位置する柳ヶ瀬は木之本宿の次にある間宿(間村)で加賀屋、越前屋などの屋号を持つ旅籠が並んでいたそうです。
間宿というのは正規の宿場間に設けられた旅人休息の宿を言います。
この道標もなかなか面白いでしょう!草書体で面いっぱいに刻まれています。
画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外、自然明治十六年癸未一日建之

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、木、帽子、屋外、自然写真の説明はありません。

 柳ケ瀬集落の北端に倉坂峠へ向かう道が分岐しており、ここに明治16年に建立された道標が残っている。この道を行くと倉坂峠を経て敦賀へ至るという。倉坂峠の北側には柴田勝家が本陣とした玄蕃尾城跡があって、現在でも堀や土塁等が残っているということだ。

 

 

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、植物、屋外画像に含まれている可能性があるもの:屋外

 柳ケ瀬集落の中の左手に鈴木家がある。ここにも「明治天皇柳ケ瀬行在所」の碑が立っている。ここは本陣の役割をしており、街道に接している立派な長屋門は元関所役人柳ケ瀬家の住宅にあったものを、明治天皇の行在所に決定したときに移設したと伝えられているそうだ。画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、家、屋外、自然 

 

 

柳ヶ瀬の関所

北国街道(栃の木越え)と若狭街道(刀根越え)の分岐点にあたる柳ヶ瀬には江戸時代初期より関所がおかれていたそうで、彦根藩が管理していました。五十石取りの武士2人と番役8人が詰めており夜間の通行は一切許されていなかったようです。老中より出されたおきてが残っています。なかなか厳しいですね!!

関所の掟
●大名が通るときは、関所の長以下床より降りて謹んでお通り願うこと●効力のない証明(手形)の場合は長から直々に調べること

●番所で曲事(賭事などの悪い遊び)をしてはいけない
●通行者から物や金をもらってはならない
●道具(鉄砲、槍、火薬、弓、提灯)はときどきほこりを落として手入れすること
右の通り申しつけるから左様心得、万事心をつくして、少しも油断なく勤めるように
●鎖を暮六つにおろし、明六つに上げ、夜中通る者はよく調べ明けてから通すこと
●番所はいつも明かりを灯し、まぎらわしい者はよく見分けること
● 六人のうち二人ずつ番をし、少しもなまけてはいけない
●いつも番所を清潔にし油断してはならない 

           江戸老中

 ここは豪雪地帯

北国街道は、近江と北陸をつなぐ主要道路で、彦根市下矢倉町で中山道と分岐し、湖北地方を南北に縦断して越前へ向かっています。「今庄朝立ち、木之本泊まり、中河内で昼弁当」と歌われているように、木之本、中河内、今庄は、北国街道の宿場町として栄えていました。

柳ヶ瀬氏 不詳(古代豪族平群氏後裔)

 神亀元年(724)九月、近江国伊香郡乃弥山に住む大蛇を退治せよとの勅命が、大和国平群郡椿井荘の住人椿井右中将懐房に下された。八幡大菩薩の神劒一振りを賜り、二羽の白鷲に導かれ、乃弥山に来て大蛇を退治した懐房は、この地を開発して五筒荘村と名づけみずからの領地としたのである。 大蛇や神劒を埋めたといわれる蛇塚は今も椿坂の中央にあり、塚の上には椿の古木が一本植えられている。椿井懐房は興福寺官務宗徒でもあり、役職のこともあってその後、大和に帰っていった。
 椿井氏は「平群氏春日神社沿革記」によれば、大和国平群を支配した古代豪族平群氏の後裔という。天武天皇(大海人皇子)に仕えた平群直隅(余呉町誌では大蔵直広隅)は、壬申の乱が起ると出陣に先立ち神前の井戸に椿の木を挿し戦勝を祈願した。戦後、軍功により鈴鹿の関を拝領し、椿井を以て称号となしたと伝えられる。神護景雲2年(768)正月、大和官領職越前懐泰は河内枚岡より三笠山へ臨幸する春日大明神に供奉して、初代の興福寺官務宗徒になつた。十六代の右中将懐房は藤原房前の養子となり、藤原の平群と称するようになったという。しかし、この右中将懐房と大蛇を退治した右中将懐房との間には二百年以上の年代差があり、いずれも伝承の域を出ないものというしかない。

椿井氏の北近江への土着

 さて、長徳三年 (997) に至り、椿井氏四十四代という椿井少将懐職の二男常陸懐康が、旧領近江国伊香郡五箇荘村に移住してきた。かくして、懐康の子孫代々がここに永住することになったのであった。
 移住した懐康は村名を郷里大和椿井の名をとり椿井村と改めると、元祖正一位椿井大明神を勧請して椿井神社 (椿神社)、郷里の椿井寺の分院として椿井寺を建立した。 このことは、奈良興福寺の官務牒疏 (かんむちょうそ) 「近江国伊香郡の条」 にも次のように記されている

一.椿井村 椿井寺
   鎮守 椿井大明神
      並 三処神

 懐康以来、椿井氏は椿坂に住して椿井(椿坂) 一帯を領し、やがて北近江守護佐々木京極家に仕えた。応仁から文明 (1467~86) のころ、懐康より十四代目の椿井丹後守秀行は柳ヶ瀬山に城郭を築き、椿井(椿坂)、柳ヶ瀬を支配した。当時、京極氏は内紛により高清と政経も二派に分かれて激しい戦いが繰り返され、秀行は延徳元年(1489) 7月22日に行われた菅山寺付近の戦いで討ち死にした。しかし、秀行がどちら方に味方し どこで戦死したかはあきらかではない。
 秀行には後継者がなかったため、椿井氏は一旦断絶してしまった。その後、山城国相楽郡上狛庄に住む椿井本家の播磨守澄政の二男椿井縫殿助行政が柳ヶ瀬に来て椿井氏を再興した。行政のあと、権太夫政寔(まさこれ) 、弥兵衛政■(まさとう) 、弥兵衛政美と続き、政寔の頃から本家弥兵衛、分家三太夫に分かれた。以後、両家共、弥兵衛、三太夫を襲名し、江戸時代においては彦根藩の藩士として三人扶持二十五石宛を与えられ、明治維新に至った。
 ところで、出家した柳ヶ瀬氏の女性妙誓院禅定尼が柳ヶ瀬家の菩提寺として建立した栄昌庵の過去帳には、秀行以後は全て椿井でなく柳ヶ瀬に姓が改められている。このことから、椿井氏が柳ヶ瀬を名乗るようになったのは、秀行の時からであったようだ。また、江戸時代後期の文化三年(1806) 、山城の椿井権之助政隆から柳ヶ瀬三太夫にきた書面に「同苗柳瀬三太夫殿」と記されていることから、柳ヶ瀬氏になった後も椿井氏と同族としての往来が続いていたことが知られる。

 柳ヶ瀬氏の終焉

 柳ヶ瀬の地は北国街道の宿場町として近世には関所が置かれ、柳ヶ瀬氏が関所の関守を世襲した。しかし、明治維新を迎えると関守職は廃され、柳ヶ瀬氏は柳ヶ瀬を離れ他に移住していった。ここに平安期に端を発し、椿井氏、柳ヶ瀬氏と名を変えながらも、代々、柳ヶ瀬に続いた柳ヶ瀬氏の歴史は幕を閉じたのである。
 かつての柳瀬三太夫家の門が今も柳ヶ瀬の鈴木家の門として残っており、往時の柳ヶ瀬氏の権威の一端をいまに伝えている。

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1325661234263115

参考資料:武家家伝、他

本日の訪問ありがとうございす。


板取関所 (越前・今庄)

2018年07月22日 | 関所

画像に含まれている可能性があるもの:屋外

画像に含まれている可能性があるもの:屋外、自然

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/grid?lst=100004577532882%3A100004577532882%3A1552796466

国道365で今庄に向かう途中に、「板取の宿」の標示。左手に駐車場があり、公共トイレも備わっています。
車を下りると、駐車場の入口に立派な案内板があり、「板取宿の由来」が記してあります。それによると、
 板取宿は、北国街道(東近江路)の玄関口。宏壮な門構えの板取番所がありました。間口三間(約5.4m)、奥行三間半(約6.4m)の平屋建ての棟。中には、刀・弓矢・火縄銃・具足が備えてあり、役人3人、足軽1人が常駐。宿場は、幕末において戸数53戸。うち3軒の問屋、7軒の旅籠、3軒の茶屋。その他は、継立(つぎたて)に従事する家々だったようです。
 石畳の両側に見えてくるのは、茅葺きの独特な屋根を持った古い民家。「甲造(かぶとつく)り型」と呼ばれるらしい。確かに正面から見ると、頭に被(かぶ)る兜(かぶと)のよう。今まで見たことがない珍しい形。玄関口に近寄ってみると、玄関の戸口脇に、「福井県認定証 ふくいの伝統的民家」という標示がなされていました。

 家並みを抜けると櫓(やぐら)みたいな施設があり、その手前が番所の跡でした。この櫓は、往時、この番所に併設されていたのでしょうか。としたら、見張り台のような役割を果たしていたのだろうか、と思いつつ、その櫓の上に登ってみました。

 そこからもと来た道を引き帰しました。かつては53戸あったという宿場跡も、現在は10戸ほどしかなく、旅籠や問屋などがあったところは広場になっていたり畑地になったりしています。宿場としての長い歴史に裏づけられた雰囲気に満ちていました。

 

江戸時代に関所を設けた
 江戸時代には家康の子、結城秀康が入国以来関所を設けて旅人を取り締まった。

後に板取番所として、藩士が駐在した。
 番所の構造は、宏荘な門構えの内に、間口三間、奥行三間半の平屋建ての棟を設け、刀、弓矢、火縄銃、具足を備え、役人三人、足軽一人が常駐し、厳重な警備に当っていた。
 板取には幕末の頃、戸数五十三戸のうち三軒の問屋をはじめ、七軒の旅籠、三軒の茶屋のほか継立従事の家が建ち並んで賑わっていたという。

本日の訪問ありがとうございす。


坂の頭関所 近江国(永源寺・相谷)

2015年10月17日 | 関所

お城のデータ

所在地:東近江市(旧神崎郡)永源寺町相谷 map:http://yahoo.jp/BhtW11

現 状:山林・山麓 

区 分:山麓館(関所)

遺 構:土塁・郭・石列

築城期:室町期

築城者:小倉?小辰氏?

標 高:250m 比高差:10m

目標地:相谷バス停(標高:248m)・寶珠禅寺(標高:238m)

駐車場:相谷バス停・ゲットボール場駐車場

訪城日:2015.10.15

相谷バス停・ゲットボール場駐車場

相谷バス停(標高:248m)の待合の裏から入城した

 山に入る直ぐに石仏(集められた石仏)

山麓館跡(相谷関屋(関所)の館か?)

お城の概要

相谷バス停(標高:248m)の待合の裏から入城するとすぐ東へ、10mも進むと国道421号との間の土塁が。

旧八風街道から、比高15mに位置し、国道421号で分断された、土塁で囲まれた曲郭が、

八風街道の警護をしていたか。小辰氏?小倉氏?

西側の土塁東側の土塁と曲郭南側石列

歴 史

相谷の「小辰家文書」鍋婦人記の項で「三河守殿末孫九居瀬村ニ城郭之支度…村年寄共ニ字卒塔波山ト申候、夫レハ名悪敷ク尖山(トガリヤマ)ト御附城郭被成候由、出城ハ相谷長谷出ノ上、鶴尾下ニ関屋ヲ立 云々」と記す。

 

<八風峠>
 国道421号が八風街道と呼べるのは、この八風谷橋を渡った所までであろうか。
 
 以前は八風峠への分岐の角に、永源寺町教育委員会による「八風峠」と題した立札が立っていた(写真)。
八風の名は古く、伊勢風土記逸文、神武天皇東征神話に早くも八風の文字がある。」と始まる説明文は、最後に「戦国時代を全盛とした峠道も、信長は安土城下に楽市を開いて山越商人を禁止、江戸幕府の関所徹底取締令などで八風越えは殆んど消滅したことは、慶安三年(1650)の黄和田文書が示しており、今も荒廃のままである。」と結んでいた。
上の画像をクリックすると拡大されます。
八風峠の看板・・・・ (撮影 1992.10.21)(画像は不鮮明です)

城山・谷筋側の谷筋に石列だ!

 砂防ダム

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』4(「旧蒲生・神崎郡の城 1986.3) 、神崎郡志、遺跡ウォーカー:滋賀県の遺跡

     本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!! 


小川(こかわ)の関 近江国(山東・柏原)

2015年10月14日 | 関所

下部分が新しく補修され継ぎ足された「小川関跡」の古い石柱が立つ
このあたりに東山道の関所があったところという

案内板

お城のデータ

所在地:米原市(旧坂田郡山東町)柏原町小川  map:http://yahoo.jp/nBdYD3

区 分 :関所

築城者:不 明

築城期:鎌倉期

関 守:稚淳毛両岐王

遺 構 :石碑・館跡、寺院跡

訪城日:2015.10.12

第4章 米原市内の鎌倉街道(中世東山道)引用

昔は、天野川の水源だったとされ,200m四方ほどの池であったというが、江戸末期には消滅してしまったらしい。

小川の関・菖蒲池

詳細不明坂田郡史」に稚淳毛両岐王(わかぬけのふたまたおう)の守りし関屋(関所の施設・現存しない)と書かれ、大字柏原小字小川の辺りに比定、小川、古川、粉川または横川の転訛せし地名としている。一面何処も植栽され、あるいは野原となっているが、戦時中は食糧増産のため開墾、畑となっていたところである。したがって、往事を偲ぶようすはないが、古道の山側には整然と区画された屋敷跡「館跡」を確認することができる。 (米原市・米原観光協)

菖蒲池跡

君がながしき例しに長沢の 池のあやめは今日ぞ引かるる 大納言俊光

  「此の池の芹、名産なり、相伝う。古昔二町(218メートル)四方の池なりと。今は多く田地となりて、漸く方二十間(36メートル)計りの池となれり。」     享保十九年(1734)『近江與地志略』

  その後、天保十四年(1843)には、「菖蒲ケ池と申し伝へ候旧地これ有り。」と 『中山道宿村大概帳』 江戸後期には消滅したようである。昔は,天野川の水源だったとされ,200m四方ほどの池であったというが,江戸末期には消滅してしまったらしい。

お城の概要

 旧中山道沿いに石碑と案内板があり、そこから民家を横切って藪中へ入ると、発掘調査により検出された館と寺院の跡があります。少し先で舗装された中山道に合流する。
 下部分が新しく補修され継ぎ足された「小川関跡」の古い石柱が立つ。
約八百年前、自然の地形を利用した中世の東山道(鎌倉街道)、このあたりに東山道の関所があったところという。
このため今まで、街道の議論がされてきたが、具体的に示されたものはなかった。その隣には、「菖蒲ヶ池跡」の石碑が建つ。江戸後期には消滅したようである。

右手の旧道(右)に入りますが、分岐する所に小川の関碑や歴史街道の道標、菖蒲池跡碑等、もろもろが置かれています。
中世に関があったこの地、今は長沢になっていますが、古くは小川(こかわ)、古川、粉川とも言われたようです。

小川の関から西に300mほど行くと、梓ノ関があります。小川の関が、関所と呼ぶには開けた場所にあるのに対して、梓は南北に山が迫る峻険な地形にあるため、実際の関は梓に設けられ、小川には横河の宿駅と役宅が置かれていたのではないかとも思われます。

小黒谷館跡の石碑

寺院跡の石碑

伝・横川の宿駅跡

 中山道伝・横川の駅家跡

梓川を渡り梓河内集落に入ると、国道・梓川に挟まれた道を進みます。
右に「推定横川の駅家(うまや)跡」説明板があります。
横川駅の位置は、醒井と梓河内の二説あり、梓河内には小字「馬屋ノ谷」「馬屋ノ谷口」や略称とされる「小川」の地名があることから、古代東山道の駅家跡と推定されると記されています。

推定横川の馬屋跡(よかわのうまやあと)

古代律令国家は畿内から全国に、東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道の七道と30里(約16km)ごとに駅屋を設けました。

近江の東山道には勢多(大津市)、篠原(野洲市)、清水(東近江市清水鼻)、鳥籠(とこ・彦根市鳥居本)と横川(米原市梓河内)に駅屋が置かれました。

米原市内にあった横川駅の位置は、醒ヶ井と梓河内の二説があり、梓河内には小字「馬屋ノ谷」「馬屋ノ谷口」や、横川の略称とされる「小川(こかわ)」などの地名があることから、古代東山道の横川の駅家跡に推定されています。

古代近江の交通路 中山道

歴 史

 『坂田郡志』に記されている「関屋」の比定地である。発掘調査により、館や寺院の跡が検出されている。 詳細は不明であるが、この小川を壬申の乱の舞台の一つ「横河」の転訛であるとする説がある。また、同じく律令時代の東山道横河駅を小川に比定する説もある。

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』6「旧坂田郡の城 1989.3) 淡海の城、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

     本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


梓ノ関(あずさ)/石田館 近江国(山東)

2015年10月13日 | 関所

 中仙道碑(左)が、右は江戸後期大和郡山領、柏原宿・左は東山道横河駅跡、梓とあります。
大和郡山の飛び領だったんですね。金魚すくい大会や桜見物に行った大和郡山市、柳沢吉保が治めたこともあるという。
向かいには、黒谷遺跡とか中仙道道標。

旧道と新道が合流するとまもなくこの地蔵堂がある。

中仙道(東山道)沿いのお堂の中にも、ぎっしりと道祖神が詰まっています。
国道21号線と名神高速と並行する旧道沿いの梓は、古くは東山道の横河駅があった集落。

お城のデータ

所在地:米原市梓河内 (旧坂田郡山東町大字梓河内) map:http://yahoo.jp/nBdYD3

区 分 :関所

築城期:江戸期

築城者:不 明

関 守:石田氏

遺 構 :土塁・石碑

訪城日:2015.10.12

中山道沿いの土塁

お城の概要

大字梓にあるためこの名が付けられたものと思われるが、壬申の乱の舞台となった”息長横河”の地は、米原町丹生川附近と伝う。文献等に明確に登場するものはない。 ただ、明らかな土塁遺構が見られることや、梓川の上流に石田館の比定地がある。

関守石田氏の館跡(http://yahoo.jp/GHU7OZ)がある。

大字梓は中山道と東山道合流地点で、中山道を挟む格好で土塁が築かれているが、その構造や規模から古代のみならず戦国時代にも使用されていた。

 中山道

推定横川の馬屋跡(よかわのうまやあと)

梓川を渡り梓河内集落に入ると、国道・梓川に挟まれた道を進みます。
右に「推定横川の駅家(うまや)跡」説明板があります。
横川駅の位置は、醒井と梓河内の二説あり、梓河内には小字「馬屋ノ谷」「馬屋ノ谷口」や略称とされる。                                        「小川」の地名があることから、古代東山道の駅家跡と推定されると記されています。

古代律令国家は畿内から全国に、東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道の七道と30里(約16km)ごとに駅屋を設けました。

近江の東山道には勢多(大津市)、篠原(野洲市)、清水(東近江市清水鼻)、鳥籠(とこ・彦根市鳥居本)と横川(米原市梓河内)に駅屋が置かれました。

米原市内にあった横川駅の位置は、醒ヶ井と梓河内の二説があり、梓河内には小字「馬屋ノ谷」「馬屋ノ谷口」や、横川の略称とされる「小川(こかわ)」などの地名があることから、古代東山道の横川の駅家跡に推定されています。

古代近江の交通路 中山道

歴 史

梓ノ関のある梓地区は、南北を峻険な山に挟まれ、北側を天野川の支流が流れる東山道の急所といえます。

現在、規模としては大きい土塁の遺構を中仙道の沿いに認めることができます。その規模や形状から、上平寺や柏原に勢力を保っていた京極氏によって、戦国時代に入っても監視目的に利用されていた。

 石田一族ゆかりの京都妙心寺寿聖院に伝わる過去帳によれば、源平合戦の時に木曽義仲を討ち取った石田為久が京極氏に被官し、河内の山上にある猪鼻城を預かり、その子孫が城の守備にあたっていたといいます。

 又、梓には京極氏が関を設けて関銭を徴収していたが、関の管理にも石田一族が関与していたと言われているのです

  その子孫で三成の父正継の曽祖父が室町時代に石田村へ転出したというのだ。 三成の先祖の地も諸説あるようですが、ここ河内が一番有望なようです。

梓ノ関から東に300mほど行くと、小川ノ関の比定地があります。こちらは発掘により、いくつかの建造物の痕跡が見つかっています。ただ、小川ノ関のほうは梓に比べて要害性に乏しいことから、こちらの方は律令時代の横河駅が置かれていたか、あるいは封鎖線が梓で官庁が小川と分けられていた。

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』6「旧坂田郡の城 1989.3) 淡海の城、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

     本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!