城郭探訪

yamaziro

「お浜御殿」と呼ばれる「旧彦根藩松原下屋敷」 2012.11.29

2012年11月30日 | 館跡

彦根城の北方、別名「お浜御殿」と呼ばれる「旧彦根藩松原下屋敷」は、彦根藩11代当主井伊直中[なおなか]によって1810年(文化7)頃に琵琶湖畔に造営された下屋敷。

旧彦根藩主井伊家の第16代当主、彦根市長。井伊家第36代当主井伊直忠の長男。幕末の大老、井伊直弼の曾孫にあたる。

彦根市長を務めた。胃癌のため彦根市松原町の自宅で逝去した。83歳没

本庭園は、彦根藩11代藩主井伊直中(直弼の父が、城下松原村に文化年間(1810年頃)に造営した下屋敷の庭園である。                                                            周囲を巡る堀は彦根城・琵琶湖と繋がっており、さらに庭園の池とも繋がっていて、いわゆる汐入の形式となっている。
 庭園は主屋の前面に展開し、広々とした前庭部の先に池が南北に展開するように横たわり、橋が架けられていた。                                                                        橋を渡った東側は緩やかな起伏をなし、北に高く南に低い造成がなされ、松原越しに西方琵琶湖を望む展開となっている。石組はほとんど施されず、汀は州浜や芝付で伸びやかな景を呈している。                      植栽はほとんどが後世のものであるが、昭和の終わり頃までは橋の北側に蘇鉄の植栽があって江戸期からの庭園植栽であったと想定されるが、これも今はなくなっている。
 本庭園は上記のように江戸期を代表する大名庭園として、また汐入形式の庭園として貴重であり、名勝に指定して保護を図ろうとするものである。

本庭園は,彦根藩11代藩主井伊直中が,城下松原村に文化年間(1810年頃)に造営した下屋敷の庭園である。周囲を巡る堀は彦根城・琵琶湖と繋がっており,さらに庭園の池とも繋がっていて,いわゆる汐入の形式となっている。
 庭園は主屋の北面に展開し,広々とした前庭部の先に池が東西に展開するように横たわり,橋が架けられていた。橋を渡った北側は緩やかな起伏をなし,東に高く西に低い造成がなされ,松原越しに西方琵琶湖を望む展開となっている。石組はほとんど施されず,汀は州浜や芝付で伸びやかな景を呈している。植栽はほとんどが後世のものであるが、昭和の終わり頃までは橋の北側に蘇鉄の植栽がある。

 

本日の歩数  3,241歩   35分    2.2km

消費カロリー  28.8kcal    脂肪消費量 4.1g

 

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。

 


壺笠山城 近江国(坂本)

2012年11月27日 | 戦国山城

【壺笠城】へ攻め上がります!

登城口

お城のデータ

所在地::大津市坂本本町・滋賀里町乙 map:http://yahoo.jp/qPEVor
区 分:山城  

現 状:山林

築城期:織豊期

築城者:浅井氏
遺 構:郭・石垣・竪堀
標高:419m 比高差:300m

目標地:穴太駅

駐車場:穴太古墳
訪城日:2012..11.26

お城の概要

尾根から城跡までは比高で40m程度かな。急な坂道を登り出すと、主郭手前の右手奥の斜面に石垣が残っています。主郭から三段程度下の段郭の斜面です。さらに登ると主郭虎口手前にも二段の石垣がわずかに残っていて、石段が確認できます。主郭はほぼ円形で、5mほどの切岸で帯郭が周囲を巡ります。至る所に大石が散乱しており、主郭切岸も石垣があったと思われます。主郭、帯郭ともに土塁はありません。主郭は藪状態で見通しが利かないのが残念です。主郭北側にも虎口があり、石段、石垣の痕跡があります。北側の帯郭からの眺望は抜群です。西側に段郭が5段程度連なりますが、大量の人数が駐屯できる余地はないように見えます。浅井・朝倉軍は、ここをはじめ、周囲の山に分散して陣を張った。

お城の歴史

元亀元年(1570年)、織田氏と対峙した浅井・朝倉氏の連合軍が立て籠もった城とされます。また、元亀二年(1571年)に明智光秀が坂本城を築城後に支城として明智秀満(三宅弥平次)が入ったともされますが、こちらは定かではないようです。元亀二年九月、壷笠山などに陣した浅井・朝倉軍は宇佐山城を攻め、守将の森可成を討ち取りました。

いよいよ大手虎口へ西虎口壺笠山頂(421m)主郭跡・・・昼食(征服の記念にmy poleと)

方位計が         主郭でのレクチャー・・・・此処は講師の長谷川氏は、気合が入って詳しく説明!

東虎口を下り犬走り・・唯一琵琶湖ビュー木立の間から堅田・坂本(当時なかった琵琶湖大橋が)

西虎口石垣石垣

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査・大津の城・見学会レジュメ

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


青山城  近江国(坂本) 

2012年11月27日 | 陣城

いよいよ、浅井・朝倉軍陣地へ

攻め登ります。

最初は青山城(忠兵衛山)・・・

お城のデータ

所在地:所座地:大津市坂本本町 map:http://yahoo.jp/psMj2P 

現 状:山林

区 分:陣城

築城年:元亀元年(1570)

築城者:浅井・朝倉氏

標高:390m   比高差:250m

遺 構:石垣、土塁、竪堀、

目標地:京阪穴太駅・穴太古墳

駐車場:穴太古墳

訪城日 :2012.11.27

お城の概要

 壺笠山の西140mにある白鳥山に城跡がある。
山頂部に南北約30m、東西約20mの広さで、竪堀や片堀切により防備を固めた主郭を置き、東に伸びる高低差の大きい細尾根には100mの間に小規模な段郭を5、6段築いている。さらに下方の緩斜面には長土橋状の細長い郭を100mに亘り築き、要所には小さな削平地を設けている。この削平地は、裾を通る城道や白鳥越に対し横矢を利かせる構造となっている。

道案内(京阪電車穴太駅を270m程越えた地点)T字路http://yahoo.jp/iff4pKで左折して急な登りの細道に入る。西に細道を進むと平子谷墓地が広がっている。一番奥まで行き右側の駐車場に駐車する。四ツ谷川沿いの林道を、林道入口から1Kmほど歩きますと小さな橋を渡ります。そこから200m程で左に分岐して登る林道があります。この分岐した林道を進み、150mほど登ると鞍部に出て、道がY字に分かれます。(左手は青山(青山城)への道)最初は急な斜面ですが、細い山道を進みます。比高60mほどで尾根道に出ます。 

お城の歴史

元亀元年(1570)の志賀の陣で織田信長軍と対峙するために浅井・朝倉軍が叡山一帯に築いた砦跡の一つである。

元亀元年(1570年)朝倉・浅井連合軍が織田信長と対峙したときに布陣した「あほ山」、城郭遺構は明瞭である。

 「滋賀県中世城郭分布報告書」で「あほ山」の候補地として図面が描かれているのがこの青山城で、壺笠山城の北の峰にある。

山頂部こそ人の手が加えられたような感じであるが、切岸などもなくほとんど自然地形であり城郭遺構のようには見えなかった。



-------------信長公記 志賀御陣の事-------------
九月廿四日 信長公、城都本能寺を御立ちなされ、逢坂を越え、越前衆に向ひて御働き。旗がしらを見申し、下坂本に陣取りこれある越北衆、癈軍の為体(ていたらく)にて、叡山へ逃げ上り、はちヶ峰・あほ山・つぼ笠山に陣取り候。
-------------

 神輿山・白鳥山遺構は、元亀元年(1570)に織田信長と浅井・朝倉連合軍が「志賀の陣」で戦ったときに、連合軍側が立て籠もった比叡山中の山城(陣城)の一つである。

 元亀元年(1570)4月信長は、上洛の命に従わない越前の朝倉義景を攻めたが、江北の小谷城主浅井長政に背後を衝かれ、慌てて京都へ逃げ帰った。信長はいったん岐阜城へ帰陣、体勢を立て直すこととし、そこで同年5月宇佐山城に森可成、永原城に佐久間信盛、長光寺城に柴田勝家、安土城に中川清秀らを配置して江南の守りを固めた。

 元亀元年(1570)6月28日の姉川合戦で浅井・朝倉連合軍は決定的な打撃は受けておらず、大坂本願寺と手を結び、湖西路を南下し、同年9月16日坂本に布陣した。9月20日宇佐山城主森可成と近江にいた野府城主織田信治、青地城主青地茂綱らと坂本口で激突、三人を討ち取り、宇佐山城に攻め上がり、さらに21日逢坂峠を越えて醍醐、山科を放火するなど、入洛の機会をうかがった。

 摂津で三好三人衆と戦っていた信長はこの報せを聞き、21日急きょ明智光秀を帰洛させ二条城を守らせ、自身も23日に摂津の陣を引き払い京に戻り、翌24日洛東の白川から滋賀穴太口に布陣、自身は宇佐山城に入り対峙した。一方、浅井・朝倉軍は、比叡山延暦寺の後方支援を受け比叡山に登り、「はちが峯」「あほ山」「つぼ笠山」に陣取り、洛外の各所を放火し入洛する姿勢を示した。その後、2ヶ月間に亘り両軍の睨み合いが続き、戦線は膠着状態に陥った。

 しかし、三好三人衆はしだいに京都に進攻し、また近江では一向一揆の動きが活発化し、六角氏もゲリラ戦を展開しており、信長は志賀での長滞陣は不利と考え、和睦工作を行った。11月21日に六角承禎、三好三人衆の篠原長房との和議がととのった。浅井・朝倉との和議も朝廷、幕府の仲介ですすめられ、勅使や将軍義昭が志賀に下って調停を行い、12月14日に雪を心配した義景が和睦に応じ、12月23日には長政との和議もなった。
 この和議により12月14日信長は「陣払い小屋悉く放火」して永原城に退き、15日には朝倉義景も「青山以下小屋悉く陣払い放火」して越前に帰ったとされる。その後、信長は明智光秀を宇佐山城に入れ、湖西の土豪たちを懐柔させ延暦寺との間を分断、元亀2年(1571)9月12日延暦寺を焼き打にした。元亀3年(1572)光秀は坂本の地に坂本城を築き、志賀郡5万石を支配した。 

山頂の本丸櫓跡

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、信長公記、見学会資料、講師の説明 

本日も訪問、ありがとうございました。


神興山城 近江国(坂本)

2012年11月27日 | 戦国山城

続いて、神興山城へ

神興山(420m)主郭跡でレクチャー「白鳥越えで山城で、最も石垣や竪堀が残る、主郭狭く危険。全長200mもあり、壱壺山城の一部とも考えられる。

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査・大津の城・見学会レジュメ

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


攻略 浅井・朝倉軍へ【堅田歴史同好会 壺笠山城見学会】2012.11.27

2012年11月27日 | 戦国山城

今回から、縄張りや鳥瞰図は著作権に配慮して最小で!石坂線穴太駅で打合せ・参加者点呼・資料配布

ここから、白鳥越え古道へ

振り向けば、琵琶湖。車の時は、ここに10台位(墓地駐車スペース)

穴太野添古墳で最初のレクチャー(休憩兼ねて)

いよいよ、白鳥越えの林道に・・・

振り向けば、琵琶湖が・・・山の神神社石仏様。

いよいよ、浅井・朝倉軍陣地へ

攻め登ります。

最初は青山城(忠兵衛山)・・・山頂の本丸櫓跡

 

続いて【壺笠城】へ攻め上がります!

いよいよ大手虎口へ西虎口壺笠山頂(421m)主郭跡・・・昼食(征服の記念にmy poleと)

方位計が         主郭でのレクチャー・・・・此処は講師の長谷川氏は、気合が入って詳しく説明!

東虎口を下り犬走り・・唯一琵琶湖ビュー木立の間から堅田・坂本(当時なかった琵琶湖大橋が)

西虎口石垣石垣

 

続いて、神興山城へ

神興山(420m)主郭跡でレクチャー「白鳥越えで山城で、最も石垣や竪堀が残る、主郭狭く危険。全長200mもあり、壱壺山城の一部とも考えられる。

 

 

攻略後、撤収が始まりました

後で調べたが・・・。

壺笠山城は織田信長と対峙した朝倉・浅井連合軍が拠った城址で、近江から京の一乗寺に通じる白鳥越の道を押える位置にある壷笠山山上に構えられたものだ。

山上には近江最古級の前方後円墳があったといい、城址は古墳を改造して構築されたようだ。

城址へは(京の一乗寺から一本杉・東海自然歩道を経て穴太に抜ける山道)を、城址へ。

主郭を取り巻く帯曲輪に足を踏み入れると、足元には石が散乱、切岸の一部には石垣が残っている。主郭は雑木と藪に覆われ、ほとんど眺望はきかない。城域は思った以上に小ぶりで、この程度の城を山麓からかなり隔たった山上に築く必要があったのかと首をひねるところだ(3万騎の大軍で)。浅井・朝倉勢は、比叡山上に陣取ったとき比叡山の各所に城砦を構えた。

壺笠山城は山麓に陣取る織田勢の動きを察知し、各城砦に通報する任を担っていたようだ。壷笠山などに陣した浅井・朝倉軍は、宇佐山城を攻め守将の森可成を討ち取っている。その後、朝倉・浅井連合軍が滅亡したのち、壺笠山城は明智光秀の支配するところとなり、現在残る石垣は光秀によって修築されたものと伝えられている。

正面対岸に、【近江富士=三上山】を眺めながら・・・穴太駅へ、唐崎駅へ

 

本日の歩数 20,651歩   3時間55分    14.4km

消費カロリー 627.5kcal    脂肪消費量 89.6g

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査・大津の城・見学会レジュメ

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


白鳥山城(神輿山・白鳥山遺構)    近江国(坂本)

2012年11月27日 | 陣城

(笠壺城の嶺続き~北峰)

お城のデータ

所在地 : 大津市坂本本町 マップ:http://yahoo.jp/U7VyGZ

別 名 :神輿山・白鳥山遺構

現 状:山林

区 分:陣城

築城年:元亀元年(1570)

築城者:浅井・朝倉氏

標 高:444.9m 比高差:300m

遺 構:石垣、土塁、竪堀、

目標地:京阪穴太駅・穴太古墳

駐車場:穴太古墳

訪城日 :2012.11.27

お城の概要

 壺笠山の西140mにある白鳥山に城跡がある。
山頂部に南北約30m、東西約20mの広さで、竪堀や片堀切により防備を固めた主郭を置き、東に伸びる高低差の大きい細尾根には100mの間に小規模な段郭を5、6段築いている。さらに下方の緩斜面には長土橋状の細長い郭を100mに亘り築き、要所には小さな削平地を設けている。この削平地は、裾を通る城道や白鳥越に対し横矢を利かせる構造となっている。

道案内(京阪電車穴太駅を270m程越えた地点)T字路http://yahoo.jp/iff4pKで左折して急な登りの細道に入る。西に細道を進むと平子谷墓地が広がっている。一番奥まで行き右側の駐車場に駐車する。
林道が奥まで続いているが少し行くとチェーンが張ってあり、車両は通行止になっているので、駐車場から徒歩で四ツ谷川沿いの林道を1.3km程行き四ツ谷川を渡る。川を渡ってさらに250m程行くと左手に戻るように上りの林道が分岐している。この分岐した林道を110m程登ると峠で20m程先の右手山裾にある登り口の目印テープ等を探す。目印のある所から山道に入り、南西に170m程登ると尾根に出る。右手西方向に尾根筋を200m程登れば白鳥山(城跡)である。

(なお、左手東方向に尾根筋を100m程辿れば壺笠山城跡に至る 

歴 史

信長公記には「志賀御陣の事」として以下のように記されている。

-------------信長公記 志賀御陣の事-------------
九月廿四日 信長公、城都本能寺を御立ちなされ、逢坂を越え、越前衆に向ひて御働き。旗がしらを見申し、下坂本に陣取りこれある越北衆、癈軍の為体(ていたらく)にて、叡山へ逃げ上り、はちヶ峰・あほ山・つぼ笠山に陣取り候。
-------------

 神輿山・白鳥山遺構は、元亀元年(1570)に織田信長と浅井・朝倉連合軍が「志賀の陣」で戦ったときに、連合軍側が立て籠もった比叡山中の山城(陣城)の一つである。

 元亀元年(1570)4月信長は、上洛の命に従わない越前の朝倉義景を攻めたが、江北の小谷城主浅井長政に背後を衝かれ、慌てて京都へ逃げ帰った。信長はいったん岐阜城へ帰陣、体勢を立て直すこととし、そこで同年5月宇佐山城に森可成、永原城に佐久間信盛、長光寺城に柴田勝家、安土城に中川清秀らを配置して江南の守りを固めた。

 元亀元年(1570)6月28日の姉川合戦で浅井・朝倉連合軍は決定的な打撃は受けておらず、大坂本願寺と手を結び、湖西路を南下し、同年9月16日坂本に布陣した。9月20日宇佐山城主森可成と近江にいた野府城主織田信治、青地城主青地茂綱らと坂本口で激突、三人を討ち取り、宇佐山城に攻め上がり、さらに21日逢坂峠を越えて醍醐、山科を放火するなど、入洛の機会をうかがった。

 摂津で三好三人衆と戦っていた信長はこの報せを聞き、21日急きょ明智光秀を帰洛させ二条城を守らせ、自身も23日に摂津の陣を引き払い京に戻り、翌24日洛東の白川から滋賀穴太口に布陣、自身は宇佐山城に入り対峙した。一方、浅井・朝倉軍は、比叡山延暦寺の後方支援を受け比叡山に登り、「はちが峯」「あほ山」「つぼ笠山」に陣取り、洛外の各所を放火し入洛する姿勢を示した。その後、2ヶ月間に亘り両軍の睨み合いが続き、戦線は膠着状態に陥った。

 しかし、三好三人衆はしだいに京都に進攻し、また近江では一向一揆の動きが活発化し、六角氏もゲリラ戦を展開しており、信長は志賀での長滞陣は不利と考え、和睦工作を行った。11月21日に六角承禎、三好三人衆の篠原長房との和議がととのった。浅井・朝倉との和議も朝廷、幕府の仲介ですすめられ、勅使や将軍義昭が志賀に下って調停を行い、12月14日に雪を心配した義景が和睦に応じ、12月23日には長政との和議もなった。
 この和議により12月14日信長は「陣払い小屋悉く放火」して永原城に退き、15日には朝倉義景も「青山以下小屋悉く陣払い放火」して越前に帰ったとされる。その後、信長は明智光秀を宇佐山城に入れ、湖西の土豪たちを懐柔させ延暦寺との間を分断、元亀2年(1571)9月12日延暦寺を焼き打にした。元亀3年(1572)光秀は坂本の地に坂本城を築き、志賀郡5万石を支配した。 

 壺笠山の西140mにある白鳥山に城跡がある。
山頂部に南北約30m、東西約20mの広さで、竪堀や片堀切により防備を固めた主郭を置き、東に伸びる高低差の大きい細尾根には100mの間に小規模な段郭を5、6段築いている。さらに下方の緩斜面には長土橋状の細長い郭を100mに亘り築き、要所には小さな削平地を設けている。この削平地は、裾を通る城道や白鳥越に対し横矢を利かせる構造となっている。 神興山(420m)主郭跡で

講師の開設「白鳥越えで山城で、最も石垣や立堀が残る、主郭狭く危険。全長200mもあり、壱壺山城の一部とも考えられる。

元亀元年(1570)の志賀の陣で織田信長軍と対峙するために浅井・朝倉軍が叡山一帯に築いた砦跡の一つである。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、見学会資料、講師解説

本日も訪問、ありがとうございました。


大森城址・大森陣屋   近江国(八日市)

2012年11月26日 | 戦国山城

座学

大森城  所在地:東近江市(旧八日市市)上大森町   map:http://yahoo.jp/qaxVJr

大森陣屋 所在地:東近江市(旧八日市市)大森町    map:http://yahoo.jp/-gciOT

大森城址や大森陣屋 研修・見学会 2012.11.25

最上氏 大森陣屋

大森藩

大森藩は、近江国蒲生郡大森(滋賀県東近江市)に陣屋を構え、江戸時代前期に存在した外様大名の藩。

元和8年(1622年)お家騒動により改易された最上義俊が蒲生郡・愛知郡・甲賀郡、三河国内に1万石を与えられ立藩した。義俊は寛永8年11月22日(1632年1月13日)に27歳(数え年)で没した。                                                                                      翌、寛永9年(1632年)家督を継いだ嗣子・義智は僅か1歳であったため知行地を蒲生郡周辺に半減され、5千石の交代寄合となったため廃藩となった。その後、最上家はこの地で交代寄合として明治維新まで存続した。

 山形盆地周辺の地を治める程度にすぎなかった最上家を、出羽山形57万石の近世大々名にまで引き上げた戦国の驍雄・最上義光(よしあき)の孫・義俊が、1617(元和3)年、幼少で家督を継ぐに及んで“最上騒動”を起こし、元和8年に最上氏は所領没収となった。

 幕府はこの地に新たに1万石を与えて最上家の家名存続を許し、義俊は、出羽から遠く離れた近江の新領地に陣屋を構えた。それが大森陣屋である。

 1631(寛永8)年、最上義智が継承する際、幼少を理由にさらに5千石を削られ、以後、5千石の交替寄合(旗本)として、この地で命脈を保ち明治まで続いた。

 現在、陣屋が構えられた大森の地には、遺構は何も残されていない。大森町交差点の南側を旧道に入った玉緒小学校の反対側に、最上氏「大森陣屋跡」の石碑が置かれているだけです。

 しかし、大森から一山越えた車で10分程度にある石塔寺の山門に陣屋の高麗門が移築されて残っています。おおもり じんや移築 城門

石塔寺に移築されている表掲の高麗門
寺内(裏)側からみたところ

最上おどりもhttp://www.higashiomi.net/db/?action_detail=true&sid=101

 

大森城跡見学に

布施淡路守の子の布施藤十郎公保の居城と伝えられます。

布施氏は六角氏の重臣の一族であり、東近江市(八日市市)布勢町の布施館及び布施山城が本家筋で、

大森布施氏は分家と考えられます。

この大森城と布施山城及び観音寺城の淡路丸が布施氏の城郭と言えます。コイワカガミが咲いていた! 

大森城の主郭・曲輪・土塁・虎口の配置 

 

 信長公記に、布施氏が記録され著名な武将「布施藤九郎」の城ならば、永源寺八風街道から織田信長の侵功に備えて城郭の東部の増設や補強をしている事も!

大森城の東部15m下に。東部郭郡、外水堀(今は灌漑用水に)の散在を確認、面積も2倍(2万㎡)もの堅固な山城と言える。

檜の植栽林で、全く整備・手入れされていないが、

本日の歩数 10,702歩   1時間55分    7.4km

消費カロリー 363.0kcal    脂肪消費量 51.8g

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


週間の閲覧数・訪問者数とランキング

2012年11月25日 | 番外編

過去1週間の閲覧数・訪問者数とランキング(日別)

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過去3週間の閲覧数・訪問者数とランキング(週別)

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鏡山歴史ハイキング 20121124

2012年11月24日 | 遺蹟

登山口から登山道に入り歩くこと約30分で鳴谷池という一休みするにはもって来いの場所に出ます。

竜王町に位置する鏡山は古来、新羅からの渡来人「天日槍(あめのひぼこ)」の持ってきた八宝のうち、鏡をこの山中に埋めたされる山で、古くから信仰の山としてあがめられている。

そんな山頂近くには推古天皇の勅願所として聖徳太子が創建したといわれ、後「信長の焼き討ち」に遭い再建される事無く廃寺に成ってしまった「雲冠寺(うんかんじ)」跡が今も山中にあり、2~3小さな磨崖石仏も有ると言うので訪ねてみました。

整備された遊歩道を約30~40分登ると雲冠寺跡の標識がありその指示通りに登っていくとこの石仏さんがお出迎え。緩斜面に立つ大石の正面にやっぱり将棋の駒のような五角形の浅い彫り窪み。彫りくぼめの高さは1m足らず、中央上部には小さな二重蓮弁の上に立つ阿弥陀如来立像! 井戸跡が今も、はっきり残されている。

雲冠寺跡の石組みは山肌にへばりつくようにあちこちの斜面に残っていて、確かに此処に寺があったことを物語っています。  雲冠寺跡の石組みは山肌にへばりつくようにあちこちの斜面に残っていて、確かに此処に寺があったことを物語っています。ほとんど、展望できない展望広場! 観音寺城が正面に!訪問の証に、my poleを

訪問の証に、my poleを

全く、木々の成長でパノラマ・・・・見えませんのでパノラマ図を!竜神社の石段下に「ベンチコンロ」が龍王宮(りゅうおうぐう)

古今集にも数多くの歌人たちが詠った鏡山。
山頂近くには聖徳太子26歳の時(600)に自ら観音像を彫られ創建された雲冠寺(うんかんじ)跡があります。
嵯峨天皇(809~823)の時、伝教大師(最澄)(767~822)に勅旨が下り再建。堂塔僧坊五堂、精舎千坊(1000坊)が立ち並んだといわれます。
その雲冠寺(うんかんじ)跡近くに、雨の神・水の神ともいわれる八大竜王の一つ摩耶斯竜神(まなしりゅうじん)が龍王宮としてまつられ霊山、竜王山と言われています。

 

日本書紀に残る「近江国の鏡村の谷の陶人」。

鏡山古窯址群-須恵器(すえき)

 滋賀県下最大の須恵器窯跡群として著名なのが、この鏡山古窯址群です。確認されている窯跡の数は50か所以上があり、恐らくその総数は100基に達するであろうと推定します。
窯跡の分布域は、滋賀県蒲生郡竜王町薬師・小口・山中・七里・須恵・山面 ・鏡、野洲市入町・大篠原にまたがっています。この窯跡群は、6世紀前半に須恵器生産を開始し、6世紀後半から7世紀代にかけて最盛期を迎えたそうです。その後、生産は8世紀中頃まで継続することになります。
なお、この窯跡群の一部の工人集団について、「日本書紀」の中の垂仁天皇3年3月条のところに「近江国の鏡村の谷の陶人」として登場する事でも知られています。 現在の竜王町須恵地区の地名の由来は、この須恵器の窯跡の一つとして地名が生まれたと伝えられています。

 小学校で昼食、おにぎり3個とトン汁!鏡山

岩屋古墳は、墳丘の全長が約36mの横穴式石室を埋葬主体とする前方後円墳です。
石室は、江戸時代に奥壁の一枚岩に不動明王を刻み、「岩屋不動」として信仰されています。

石室の現状の大きさは、玄室の長さ5.4m、幅は奥壁部1.95m、玄門部で2.5m、高さは2.4m。
古墳自体の調査が行われてないため、明確な築造年代はわかりませんが、横穴式石室の構造から6世紀中葉と考えられます。

http://www.rmc.ne.jp/dragon-kanko/area/nature/kuzushi/kuzushi.htmlオウゴ古墳

本日の歩数 21,671歩   3時間42分    15.1km

消費カロリー 617.6kcal    脂肪消費量 88.2g

 

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。

 


探訪  「景清道を訪ねて」 五個荘編 2012.11.23

2012年11月23日 | 探訪「大地の遺産」

観音正寺参道を横切って!安土 桑実寺へ・・・ブッシュです。

ブッシュを入り、教林坊の上を通って、清水鼻・・・

 

景清道(かげきよみち)

五個荘町にははば中央を南北に走る古道は、景清道と呼ばれ、源平合戦の昔                                                            平家方の勇将 悪七兵衛平(藤原)景清が盲目となった己の目の回復を祈って                                                          京の清水寺に詣でた時に通った道と言われています。「平家物語」では屋島の                                                            戦いの際、那須与一が扇を射落としたあと、景清が陸に上り、源氏の武将の兜                                                        の錣(1)をとって、「やあやあ 遠からん者には音にも聞け近くに寄って目にも見                                                                      よ」と名乗った勇者として知られています。                                                                              また、景清道は、影京道とも書かれて、中山道(当時は東山道)の間道として利                                               用されたとも言われています。

(1)【錣】しころ 兜(かぶと)・頭巾(ずきん)の左右・後方に下げて首筋をおおう部分。

 

 

また、五個荘は、近世から近代にかけて、日本にとどまらず、世界を舞台に活躍した近江商人たちのふるさとでもあります。

Img_2704_794x596 教林坊の総門を後にして、石寺を通るメインの鋪装道路を北東、五個荘の方向に歩きました。教林坊の傍を通る景清道はブックレトに記載の地図では五個荘方向に向かう道が途中で部分的に途切れているようです。

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石寺の土塁跡の傍を通過し、石寺集落の東端・清水鼻に入ります。石寺は近江八幡市ですが、この清水鼻からは東近江市になり、清水鼻は五個荘の西南端となります。
そして、このあたりから中山道と合流します。
古代の東山道を踏襲し、中世には東海道とも呼ばれていのです。そして、近世に中山道と呼ばれるようになります。この道が繖山を抜けてきた景清道とも重なっているのです。
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この重なっている道の区間をしばらく歩きました。

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湖東三名水の一つ、「清水」の傍を通りました。

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その先で、景清道は近世中山道と分かれます。
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その分岐点に、まだ新しさが漂う道標が建っていました。

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景清道から分岐点の道標を望む。

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景清道を進んで行くと、左折すれば近江商人町並に入っていく十字路に到りました。
目前の左手には大城神社の境内が見えます。

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境内東側面に沿って、道幅がそれまでの半分以下になった景清道が、北東方向に真っ直ぐ延びています。
我々は近江商人町並への道を進みます。北東方向にしばらく歩くことになります。
まず驚いたのはここの道幅でした。

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大城神社

ブックレットに、この神社は「明治以前は大宮神社・天満宮と称し、菅原道真を祀っていました。観音寺城の鬼門にあたる北東の位置にあることから、観音寺城の守護神として信仰されていました」と、記されています。広々とした境内です。


Img_2735_794x596通りを挟んで、大城神社の南側は日若宮神社です。

これらの神社境内の北西方向に大きな商人屋敷が続いていました。成功した近江商人の後裔が住んでいる感じです。雨振りのせいもあるでしょうが、町並みには静けさが漂っていました。

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これが、今回の探訪の最終目的地、馬場の石塔(五輪塔)です。
大城神社所蔵で、鎌倉時代の優品です。
このあたりは五個荘金堂と称し、現在では重要伝統建造物群保存地区となっています。

「金堂の歴史は古く、その名はかつてこの地に存在したといわれる聖徳太子創建の寺院の金堂が由来とされています。しかし、現在の集落の基礎ができたのは江戸時代に入ってからです。金堂が大和郡山藩の飛び地領となった際に当地を治めるため陣屋が設置されますが、この陣屋を中心に集落は発展していき、明治時代に至って現在の姿が成立しました。」(ブックレット)とのこと。

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五輪塔のあるこの場所が「馬場」と呼ばれる広場のようです。
確認は出来ませんでしたが、水口でみた建物からの連想では、大きな木の左奥にある建物は、五個荘金堂・大城神社の曳山(類型・芸屋台)の山蔵だろうと推測します。水口町立歴史民俗資料館でいただいた「曳山祭と近江の曳山」によれば、昭和40年頃までは曳山巡行に使用されていて、今は巡行せず保管されていると状態と記されています。

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馬場の石塔の少し先を左折し、「ぷらざ三方よし」に向かいます。
この写真に見える道標の方向に右折していくと、地図では金堂のまちなみの中心地になっています。五個荘金堂の近江商人の屋敷(本宅)が軒を連ねているようです。
ここも、機会を改めて拝見に来たいと思います。

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寺々の前の通り沿いに水路が作られています。
浄栄寺と弘誓寺の前の水路にはその両端に柵が設けられ、その間を鯉が沢山放たれていました。
浄栄寺:伝聖徳太子開基。不動院建立(金堂という地名の由来)。
    宝治元年(1247)、浄栄法師が再興。浄土宗寺院。
弘誓寺:愚咄(寺伝では那須与一の孫)が犬上郡石畠に弘誓寺を建立。
    天正9年(1764)に金堂に移される。浄土真宗大谷派の寺院。

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もう一方の水路み設けられた柵近くから弘誓寺の方向を眺めて

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少し先に、こんな道標がありました。
「鯉通り」「てんびん通り」 ネーミングがいいですね。
この地にぴったりの名づけ方です。

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大城神社に到る景清道区間が、景清道を歩いた中で一番距離が長いところでした。

これで今回の探訪が終了です。
3回にまとめたこの探訪記事を、お読みいただきありがとうございます。


本日の歩数 7,785歩   1時間16分    5.4km

消費カロリー 328.6kcal    脂肪消費量 46.9g

 

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました


五個荘ブラ 2012.11.23

2012年11月23日 | 文化財

五箇荘

繖山東麓にあった「山前(やまさき、やまざき、やまのまえ)荘」が鳥羽院政期(12世紀)に「山前五個荘」と称されたことに由来する。「五」は、山前荘に主要な荘園が五つ所在していたことによる。該当する荘園については諸説あるが、一つに南荘(現在の金堂・川並・塚本・石馬寺付近)・北荘(現在の宮荘付近)・東荘(現在の竜田・北町屋・石川付近)・橋詰荘(現在の七里・石馬寺付近。橋爪荘とも)・新八里荘(未詳)を指すとされる。「空閑(こかん)」の転訛であるとの説もある。またのちに東五個荘・南五個荘・北五個荘の3か村を総称して「三五個」とも呼ばれた。

かつては「五箇荘」と表記され、現在も駅名などに残っているが、自治体名としては発足当初から「五個荘町」であり、「五箇荘町」は誤りである。俗に「ごかのしょう」とも読まれる。「五個荘」のアクセントについては、共通語では中高型と平板型の二通りの発音があるが、地元ではすべて高音の平板型で発音される。合併によって五個荘町は消滅したが、町名に対する住民の愛着が強かったため、合併後も宮荘を除いて住所表記を「東近江市五個荘○○町」として町名を残している

  

真宗大谷派寺院。

寺伝では、那須与一の孫「愚咄坊(ぐとつぼう)」の開基といわれる。本堂は、規模が大きく大屋根の様相は、御坊格寺院の本堂に匹敵する。主要部は、宝暦14年(1764)に完成(国指定重要文化財)。

表門の瓦には、那須与一に由来する扇の紋が入っているのが見所。元禄15年(1692)建立(市指定文化財)。

表門の瓦には、那須与一に由来する扇の紋が入っているのが見所。 真宗大谷派寺院。近江七弘誓の一員。江戸時代には中本山と云われ、付属の末寺が蒲生・神崎・愛知・坂田4郡にかつて二十五寺あった。
 寺伝によると、開基は那須与一の孫“愚咄坊”といわれている。主要部は、宝暦14年(1764)に完成。
 本堂は昭和六十二年に国指定重要文化財となった。 表門は市指定文化財。本尊は阿弥陀如来。

 

 

安福寺の境内にある五輪塔。仏教五行の空・風・火・水・地を、それぞれ五つの石で象徴的にかたどった高さ197cmの塔。
各輪に梵字が彫られ、県内最古の五輪塔と伝わる。

 

金堂という地名の由来に関わる寺院。

その昔、聖徳太子がこの地を訪れた際、不動坊という僧とともに、大きな金堂を立て、これにより村の名前を金堂としました。

不動坊が不動院を建立しますが、その建物が朽ちてしまった後、浄栄法師が再興し、浄土宗『清光山不動院浄栄寺』と号したといわれます。

 

推古天皇の代、521年に、厩戸皇子が当地に金堂寺を建立され、その護法鎮護のために大城の地に社壇を造り勧請されたのが始まり。
嘉応2年(1170)現在地に社殿を改造し、天満天神・大梵天王・八幡大神を勧請して合祀し当庄の産土神と仰いだ。
近江の守護職佐々木氏の観音寺城よりは丑寅の位置に当ることより城郭守護神として特に崇敬され、殊に佐々木高頼は祭祀米を献ぜられ又陣太鼓を奉納された。

永禄6年観音寺騒動の時兵火に罹り社殿記録等を消失したと伝わる。
江戸時代になって、此の地方は大和郡山藩の領となり、元禄6年(1193)当村に代官所を置かれてから例年正月15日藩公代参の儀があり神楽を奏し、徹下の供物を贈るを例とした。

また例祭には奉行参拝して祭儀を警衛し以って明治に至る。
例祭は4月20日とし五箇祭礼と称し郷中七ヶ村より神輿を奉じて参拝渡御を行う。
本社表鳥居より御旅所に至る約2丁余を桜馬場と称し往時は両側に桜を植えた小堤があったが、万延元年(1860)曳山車を造るに及び此れを伐る。
古くは大宮天神・天満宮等と称したが明治3年(1870)今の名称に改める。

 

大城神社の境内社であり、伊邪那岐命、出雲路幸神、天児屋根命、武内宿弥大臣を祀っている。今の社は昭和50年建立。

 

清水山・・・箕作城址全景(五個荘・・・景清道石碑より)

 

八幡神社

由緒
仁安年間に、佐々木氏観音寺城の鬼門にあたる
この地に豊前国宇佐八幡宮より勧請と伝える。

おさとさんの八年庵


現在の株式会社ツカモトコーポレーション(東証1部上場)の基礎を造ったと言われる、塚本源三郎氏の自宅で奥様が「淡海書道学校」を造った塚本
さとさんです。「さと御膳」で有名な、さとさんです。

http://kondomachinamihozonkai.shiga-saku.net/e602433.html

中仙道・・・・清水鼻

清水鼻の名水(清水鼻) - 中山道の旅人を潤した湧水。

本日の歩数  7,785歩   1時間16分    5.4km

消費カロリー 326.6kcal    脂肪消費量 46.9g

 

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


中山道 奥石神社の神事・老蘇の森・・・2012.11.23

2012年11月23日 | 探訪「大地の遺産」

〈重文〉奥石神社本殿

観音寺山(繖山(きぬがさやま)432.7m)の南、国道8号線と東海道新幹線が立体交差する地点にある老蘇(おいそ)の森の中にあります。                                                                                         祭神は、藤原氏の祖である天津児室根命(あまつこやねのみこと)です。創祀については明らかではありません。                     もともと、この神社は繖山山頂の磐座を遠拝する祭祀場として営まれたものであるといわれています。
 伝説では、日本武尊(やまとたけるのみこと)を危機から救うために、妃の弟橘姫命(たちばなひめのみこと)が身代わりになって荒海に身を投げましたが、そのとき懐妊していた妃は、波間に消える前に自分は老蘇の森に留まって女人安産を守ると言い残したといわれています。この話から奥石神社は安産の神といわれて、広く信仰されています。                             老樹の茂る参道が続き、本殿は三間社流造で重要文化財です。また、境内の一隅には「夜半ならば老蘇の森の郭公今もなかまし忍び音のころ」という本居宣長の歌碑も立っています。

 

 祈願祷::安産祈願 お宮参り 交通安全  家内安全 七・五・三 病気治癒等々

奥石神社

この森の奥深い所に「奥石(おいそ)神社」が鎮座する。 国道8号線より旧中仙道に入り石の鳥居をくぐり 両側に杉の大木が林立する参道を100mほど進むと、正面に奥石神社の社殿が立ち並ぶ。 玉砂利が敷き詰められたゆったりした境内に入ると、静寂そのものの別世界である。

 


この社、奥石神社は延喜式内社で御祭神として「天児屋根命」(あめのこやねのみこと、をお祀りしている。

 

本殿は天正9年織田信長が家臣柴田家久(勝家の一族)に命じて造営せしめたもので 国指定重要文化財である。三間社流造で、桧皮葺の豪華の中に優美な落ち着きを持った建造物である。

 

境内中央にどっしりした拝殿、本殿に向かって左には摂社諏訪明神社(市指定文化財)が鎮座する。 


探訪 唐崎神社 20121121

2012年11月21日 | 探訪「近江水の宝」

日吉大社の摂社で、近江八景のひとつ「唐崎の夜雨(からさきのやう)」で知られる景勝地。


 芭蕉の「辛崎の松は花より朧にて」という句で名高い樹齢約100年の松が境内にあります。

 金沢の兼六園にある唐崎の松はこの地から分けられたものとして有名です。

 古くは女別当社と別称し、女性の信仰が極めて篤く殊に婦人病、下の病には著しい御霊験があるとされています。

鳥居前にみたらしや!R161の鶴喜そば!

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。