近代弓道の礎となった優れた技術、そして高い精神性 |
日置吉田流弓術(へきよしだりゅうきゅうじゅつ) |
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お問合せ・担当課 竜王町観光協会 0748-58-3715
近代弓道の礎となった優れた技術、そして高い精神性 |
日置吉田流弓術(へきよしだりゅうきゅうじゅつ) |
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鏡の宿 義経元服ものがたり | 滋賀県竜王町観光協会 |
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西大路陣屋は中野城の城域にあり、案内板と共に石碑が建つだけで、陣屋の藩庁跡はゲートボール場となっている。
唯一京都の相国寺の塔頭である林光寺の本堂に陣屋の御殿が移築されている。
城郭の歴史 西大路陣屋は西大路藩市橋家1万7千石の陣屋で、元々仁正寺(にしょうじ)と記していたものを文久2年(1865)に改称したものである。
西大路藩は元和6年(1620)市橋長政が野洲郡,蒲生郡などに2万石を封され、この地に入部し、築城したことに始まる。
市橋家は元々織田信長、豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の戦いや大阪両陣での活躍により、元和2年に越後三条に4万石をを封された。同6年3月藩主長勝が死去し、養子の長政は減封され近江国に移り、戦国期の蒲生氏の居城・中野城に注目し仁正寺陣屋を構えた。
元和8年幕命により所領2千石を同族の市橋長吉に分与し、2代目政信は弟・政直に1千石を分与し、1万7千石となる。その後11代続き幕末を迎えた。明治4年の廃藩置県により西大路藩は廃された。
陣屋は明治7年に朝陽小学校となり、建物はそのまま使用されたが、大正5年に小学校が移転・新築され陣屋の建物は京都相国寺の塔頭である林光院に移築された。
林光寺の本堂
中野城の城址碑
所在地:旧甲賀郡日野町西大路 ) map:http://yahoo.jp/4WtQBr
現 状:林・ダム
区 分:平山城
築城期:南北期 大永年間(1521~
築城者:蒲生秀貞
城 主:蒲生秀貞・蒲生氏郷
遺 構:曲輪・土塁・堀・(石碑・説明板)
目標地:日野ダム
駐車場:日野ダム駐車場
訪城日:2013.6.28
お城の概要
中野城は蒲生氏郷の生まれた城として知られている。
城址は昭和40年日野川ダムの建設時に多くの土塁が壊され、本丸の北側半分を除いて大半が水没し、現在では稲荷山と石垣及び空堀の一部が残されている。
中野城の北には、隣接して西大路藩市橋家1万7千石の西大路陣屋(仁正寺陣屋)がある。
近江 中野城(日野城)
歴 史
伊庭出羽守貞隆は援軍細川政元の家臣赤沢朝経と共に音羽城を包囲したが、落とすことができず敗走した。
この籠城戦での糧水が乏しいのを体験した蒲生貞秀は、翌年中野に城を築き、ここ中野城を居城とし、音羽城を属城とした。
貞秀は老後家督を長子秀行に譲ったが、秀行は父に先立ち死去した。
その子秀紀はまだ幼かったために秀行の弟、高郷は秀紀に代わって宗家を継ごうとしたが貞秀はこれを許さなかった。
貞秀の死後、高郷は所領配分の少ないのを不服として大永2年(1522)六角定頼の援けを得て秀紀の音羽城を攻めた。籠城8ヶ月に及んだ後、秀紀は降伏し、定頼の調停で両家分立とした。
この時に音羽城は破却され、秀紀は鎌掛城を高郷は中野城を居城とした。
秀紀も母、妻も城内の井戸に身を投じ、蒲生家嫡流は滅ぶ。この後、高郷の子、定秀が蒲生家の家督を継いだ。
定秀の子賢秀は信長に仕え、本能寺の変の際には安土城二の丸で留守を預かっていた賢秀は、秀郷と図って信長の妻女を急ぎ中野城に移し、戦備を整えて光秀の招聘には応じなかった。
その後、秀郷(後の氏郷)は秀吉に従い多くの戦功をたてたことから、天正12年(1584)には伊勢松坂12万石の領主となり松ヶ島城へ移り、その後松坂城から会津黒川城42万石(後の若松城)に移封された。
日野城には、蒲生氏あとに田中吉政や長束正家が城代として入ったが、慶長8年(1603)には廃城となった。
蒲生氏の居城跡。中野城ともいいます。築城以前の蒲生氏の城は、音羽丘陵上にありましたが、蒲生定秀(がもうさだひで)により戦国時代に日野城が築かれました。築城にあたっては、既存の日野市街を城下町とし、城のある西大路付近を武家屋敷地帯、日野市街を町屋敷地帯としたといいます。
明智光秀の謀反によって殺された織田信長の妻子が、身を寄せたのは日野城です。蒲生氏郷はこの城で生まれ、若くして戦国武将の器量を備えていたので、豊臣秀吉に抜擢されて伊勢12万石の領主となって日野城を去りました。江戸時代に廃城となり、付近の農民が開墾して城内はすっかり姿を変えました。城の遺構は、日野川ダムの建設により、現在ではほとんど見ることができませんが、ダム北畔に本丸跡石垣が少し残っています。
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、日本城郭大系 、 佐々木南北諸士帳
本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!
日野商人の故郷。 “豪商”が残した”桟敷窓”・・・・・商人屋敷は変わっても「見越しも松」と「桟敷窓」は城下町には脈々と
東近江ブロック交流研修会「日野会場」20120628
観光ボランティアガイドの【東近江ブロック交流研修会】(日野会場)20120628
『ガイドの知識と技術の向上』~ホスピタリティーを学ぶ~87名参加。5コース9班、
Eコース≪曳山と桟敷窓・町並みを歩いてみよう≫に参加
Eコースの担当ガイドさんと出発前の情報交換
小学校正門横に(日野商人像(二宮金次郎像はあるのかな?)、マンホールも「台八車にシャクナゲと綿向山と日野商人」
「日野椀」
日野商人・八幡商人の年表
見越しの松・日野まつりの山を見るための「桟敷窓」街道沿いの日野商人屋敷(城下町)
日野まつりの曳山
ankoankoanko19さんが 2012/05/03 に公開http://www.youtube.com/watch?v=VJu_8md7GFk
蒲生氏の菩提寺「信楽院」
火伏の愛宕山のお札
文武両道にたけた氏郷公は「利休七哲の一人」
「モーア」の表札が!日野が気に入って古い屋敷を買って住みつく自分で修復しながら、日野の町づくりにも一生懸命その名は「モーアさん」
伝統の花飾り「ホイノボリ」を奉納する南山王祭、滋賀県日野町大窪の日枝神社、満開のしだれ桜を思わせるホイノボリの下、氏子たちが酒で顔を真っ赤にしながら春のうたげを楽しんだ。パネル!
Eコース班」の分科会の始まり、自己紹介やガイドの評価・各自の取り組み・意見交換・課題・・・等々
曇っていて、綿向山は雲の中でしたが涼しくて、
銘ガイドさんのお蔭で今後の、観光ガイドの勉強になり、研修会・交流も充実したものでした。---散会
散会時間速く・・・・・少し、物足りず。
蒲生氏郷の生誕の中野城址(日野城址)へと・・・一人車で!
蒲生 氏郷(がもう うじさと)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。 資料:Wikipedia
初め近江日野城主、次に伊勢松阪城主、最後に陸奥黒川城主。
蒲生賢秀の三男(嫡男)。初名は賦秀(ますひで)、または教秀(のりひで)。
またキリシタン大名でもあり、洗礼名はレオン(あるいはレオ)。子に蒲生秀行。
幼少時
蒲生氏は藤原秀郷の系統に属する鎌倉時代からの名門であったという。近江蒲生郡日野に六角氏の重臣蒲生賢秀の嫡男として生まれる。幼名は鶴千代と名付けられた。
主家の佐々木六角氏が織田信長によって滅ぼされたため、父・賢秀は織田氏に臣従した。このとき、人質として岐阜の信長のもとに送られた。
織田家臣時代
信長は氏郷の才を見抜いたとされ、娘の冬姫と結婚させた。信長自ら烏帽子親となり、岐阜城で元服して忠三郎賦秀と名乗り(信長の官職である「弾正忠」から1字を与えられたとの説がある。(氏郷に統一する)、織田氏の一門として手厚く迎えられた。
武勇にも優れ、永禄11年(1568年)の北畠具教・具房との戦いにて初陣を飾ると、永禄12年(1569年)の伊勢大河内城攻めや元亀元年(1570年)の姉川の戦い、天正元年(1573年)の朝倉攻めと小谷城攻め、天正2年(1574年)の伊勢長島攻め、天正3年(1575年)の長篠の戦いなどに従軍して、武功を挙げている。天正10年(1582年)、信長が本能寺の変により横死すると、安土城にいた信長の妻子を保護し、父とともに居城・日野城(中野城)へ走って明智光秀に対して対抗姿勢を示した。光秀は明智光春、武田元明、京極高次らに近江の長浜、佐和山、安土の各城を攻略させ、次に日野攻囲に移る手筈だったが、直前に敗死した。
豊臣家臣時代
その後は羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕えた。秀吉は氏郷に伊勢松ヶ島12万石を与えた。清洲会議で優位に立ち、信長の統一事業を引き継いだ秀吉に従い、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いに従軍。同年に、秀吉から「羽柴」の苗字を与えられる。天正13年(1585年)の紀州征伐(第二次太田城の戦い)、天正15年(1587年)の九州征伐や天正18年(1590年)の小田原征伐などにも従軍する。また天正13年(1586年)には従四位下・侍従に任じられる。その間、天正16年(1588年)には飯高郡矢川庄四五百森(よいほのもり)で新城建築のための縄張りを行い、松坂城を築城。松ヶ島の武士や商人を強制的に移住させて城下町を作り上げた。同年4月15日、正四位下・左近衛少将に任じられる。豊臣姓(本姓)を与えられる。
一連の統一事業に関わった功により、天正18年(1590年)の奥州仕置において伊勢より陸奥会津に移封され42万石(のちの検地・加増により92万石)の大領を与えられた。これは奥州の伊達政宗(会津は伊達政宗の旧領)を抑えるための配置であり、当初細川忠興が候補となったものの辞退したため氏郷が封ぜられたとされる。なお、松ヶ島時代(天正13年(1585年)頃)に賦秀から氏郷と名乗りを改めているが、これは当時の実力者だった羽柴“秀”吉の名乗りの一字を下に置く「賦秀」という名が不遜であろうという気配りからであった。
会津においては、町の名を黒川から「若松」へと改め、蒲生群流の縄張りによる城作りを行った。なお、「若松」の名は、出身地の日野城(中野城)に近い馬見岡綿向神社(現在の滋賀県蒲生郡日野町村井にある神社、蒲生氏の氏神)の参道周辺にあった「若松の杜」に由来し、同じく領土であった松坂の「松」という一文字もこの松に由来すると言われている。7層の天守(現存する5層の復元天守は寛永年間に改築されたものを元にしている)を有するこの城は、氏郷の幼名にちなみ、また蒲生家の舞鶴の家紋にちなんで鶴ヶ城と名付けられた。また、築城と同時に城下町の開発も実施した。具体的には、旧領の日野・松阪の商人の招聘、定期市の開設、楽市楽座の導入、手工業の奨励等により、江戸時代の会津藩の発展の礎を築いた。
以降は、伊達政宗と度々対立しながらも、天正19年(1591年)の大崎・葛西一揆(この際秀吉に対し「政宗が一揆を扇動している」との告発を行っている)、九戸政実の乱を制圧。同年12月、従三位参議に任じられた。
文禄元年(1592年)の文禄の役では、肥前名護屋へと出陣している。この陣中にて体調を崩した氏郷は文禄2年(1593年)11月に会津に帰国したが病状が悪化し、文禄3年(1594年)春に養生のために京都に上洛し、秋には秀吉をはじめ諸大名を招いた大きな宴会を催した。しかしこの頃には病状がかなり悪化して誰の目にも氏郷の重病は明らかで、秀吉は前田利家や徳川家康にも名のある医師を派遣するように命じ、自らも曲直瀬玄朔を派遣している。
文禄4年(1595年)2月7日、伏見の蒲生屋敷において死去。享年40才。
蒲生家の家督は家康の娘との縁組を条件に嫡子の秀行が継いだが、家内不穏の動きから宇都宮に移され12万石に減封された(会津には上杉景勝が入った)。
民間の発掘団体「古代文化調査会」(神戸市)は28日、戦国時代に織田信長が造営した「旧二条城」の堀跡が京都市上京区下立売通室町西入ルの発掘調査で見つかった、と発表した。城の内堀の西端にあたるとみられ「城内部の構造を知る手掛かり」としている。
集合住宅の建設に伴い、5月から260平方メートルを調査していた。見つかったのは、南北方向に8メートル延びる堀跡で、深さは当時の地表面から2・2~2・4メートルで、幅は4・5~6・5メートルあった。
旧二条城は、信長が1569(永禄12)年に室町幕府の15代将軍・足利義昭のために造り、不仲になった義昭を追放した後、76(天正4)年に破壊した。1970年代の地下鉄烏丸線工事に伴う発掘で、外堀と内堀の二重構造であることが判明し、それぞれ南北の境界も分かっている。
今回見つかった位置は内堀の西端付近にあたり、内堀の範囲は東西200メートル、南北160メートルになるとみられる。古代文化調査会は「内堀の東西の幅が推定できる貴重な成果だ」としている。30日午前10時~正午に現地説明会(雨天決行)を行う。
http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20120628000064
城といえば武士が戦いの陣地として、あるいは領域支配の拠点として築いたものというのが一般的なイメージでしょう。武士は戦いを生業とする職能集団であり、戦いにまつわるものには武士とのつながりが強くイメージされます。
江戸時代、刀狩りを経て兵農分離が実現し、武士身分と百姓・町人身分とがはっきりと分けられると、武士身分が武力を独占するようになります。しかし中世においてはこうした厳密な身分制度は成立しておらず、武士と百姓、武士と商人・職人を兼ねるような人々が広く存在していたのです。また農村にも多くの武器が存在し、武力は武士身分が独占するものではありませんでした。戦国末期における一向一揆の広範な展開は、こうした社会的条件がもたらしてものといえるでしょう。
普通の百姓までもが武力を有するこうした時代にあっては、当然のごとく自力救済慣行が在地に広く存在していました。何か問題が発生したときに、自分たちでそれを解決し、それが時に武力衝突にまで発展しました。もはや戦いは武士の専売特許ではなくなっていたのです。
しかしだからといって中世が、そこら中に暴力が渦巻く殺伐とした社会であったというわけではありません。ただ、自前の武力を背景とすることによって、一揆とよばれる自立した組織が生まれてくるのです。自力救済を前提とする社会にあっては、自身の身を守ることが重要になってきます。武装する百姓、武装する寺院の登場です。彼らは武力を保持するだけでなく、自身の居住する村・町や寺を守る防御施設を構築します。堀や土塁をめぐらせ、それらを折り曲げて防御性を高めるといった工夫が見られ、城塞のような様相を呈しています。
近江は、在地の自立性が高いことから、このような城塞化した村・町・寺が多く見られます。一向一揆の拠点となった寺内町や、広大な伽藍を誇る山岳寺院などが代表的な遺構です。今年度の連続講座では、寺内町や城塞化した山岳寺院など、戦国武将の城郭とはひと味違う城郭を取り上げます。例年通り、室内での関連した講義と現地見学をセットで行います。現在、参加方法等計画の詳細を詰めているところですが、決定次第様々な媒体でお知らせいたします。(松下)
赤神山(350m)とご神体の太郎坊山
赤神山(350m)とご神体の太郎坊山
一部過去の写真を使用
白洲正子(しらすまさこ)が愛した近江【記述著書】http://www.biwako-visitors.jp/shirasu/series/book3.html
美松山
石部の町をすぎると、美し松で有名な三雲へ出、ここで一号線と別れる。この辺の街道筋は松並木のきれいな所だが、天然記念物の美し松は、「平松」の山の上にあり、根元から何十株にもわかれて、傘の形に密生しているのは、目ざめるような眺めである。
『近江山河抄』より
探訪「近江水の宝」邦楽器糸の里琴糸の里を歩く
琴や三味線などの邦楽器で使う糸の原糸となる生糸を生産する「琴糸の里」(長浜市木之本町)を歩きます。あわせて賤ヶ岳砦跡の見学も行います。チラシはこちら。
日時:平成24年6月23日(土) 1班 9:30~15:00 2班 10:30~16:00
※JR木之本駅東口集合 各班とも開始時刻までに集合・受付
行程:JR木之本駅→丸三ハシモト株式会社(糸製造)→JR木之本駅→(七本鎗バス)→糸取り工房→(リフト)→賤ヶ岳砦(昼食)→大音まちあるき(伊香具神社の独古水など)→(七本鎗バス)→戦国大河きのもと館→木之本まちあるき(冨田酒造・浄信寺など)→JR木之本駅 歩行距離約3.5km
定員:各班25名(計50名 事前申込 先着順)が、74名+スタッフ8名
実費負担:①参加費100円 ※受付時に徴収します。
②長浜戦国大河ふるさと博きのもとセット券(七本鎗バス・賤ヶ岳リフト・戦国大河きのもと館料金)大人1000円、小中学生500円
※受付時に参加者が個別にお買い求めいただきます。
持ち物:弁当・水筒・健康保険証・タオル・ウォーキングできる服装など
探訪「近江水の宝」邦楽器糸の里琴糸の里を歩く20120623
探訪「近江水の宝」邦楽器糸の里琴糸の里を歩く2
丸三ハシモト株式会社(糸製造)→
この賤ヶ岳の合戦で活躍した、秀吉恩顧の武将が「賤ヶ岳七本槍」
福島左衛門大夫正則
脇坂中務少輔安治
加藤左馬助嘉明
片桐東市正且元
加藤肥後守清正
平野遠江守長泰
糟屋助右衛門武則
実際は、他にも同様の活躍で恩賞を受けた者が居たが、今川義元と織田信秀が戦った時の「小豆坂七本槍」の故事に因み、語呂も良かったので「賤ヶ岳七本槍」と呼ばれるようになった。秀吉は卑賤の身から立身出世し、先祖代々の家臣がいないため、この子飼いの武将達の活躍を宣伝することで、自分の名声を高めようとした。
糸取り工房→
琴糸の里『大音』をぶらり歩き 由緒
上古、当地が未開の湖沼地であった頃、祭神が来て開拓し、その後子孫を守護するために鎮座したといい(『近江輿地志略』)、天武天皇の白鳳10年以前に子孫である伊香宿祢豊厚が社殿を建立したという(『神社由緒記』)。
貞観元年(859年)に従五位上勲八等から従四位下に昇叙され、同8年には従四位上に昇り、延喜の制で名神大社に列した。社伝によれば、寛平7年(895年)に菅原道真が法華経や金光明経を手写して納め、同時に「正一位勳一等大社大明神金剛覚印菩薩」の勅額が下賜されたという[4]。
その後足利尊氏200石の社領を寄せて正月、5月、9月の各18日に祈祷を行うよう依頼し、浅井氏も庇護を加えたが、賤ヶ岳の戦いの兵火に罹って社殿、古記録を焼失、社領も没収された。
明治8年(1875年)郷社に列し、同32年県社に昇格、同40年には神饌幣帛料供進神社に指定された。
HPより
「旧家・大音軍治」宅があります。ここは大音唯一の武家屋敷であり、祖先は賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉軍の武将として仕え果敢な活躍をしたと伝えられています。江戸時代には柳ケ瀬の関所の奉行を務めた、とあります。
所在地:長浜市木之本町大音 (旧伊香郡木之本町) マップ:http://yahoo.jp/JTlfKv
区 分:居 館(末裔の大音氏個人宅)
築城者:大音氏
形 式 : 平山城(標高146m)
遺 構 : 竪堀、土塁、説明駒札
築 期:中世(細分不明)
訪城日 : 2012.06.23
資 料: 城郭分布調査1、地図番号3-1。『日本城郭大系』11。
主殿(とのも)屋敷
糸取り資料保存館もかねている。 糸つむぎの実演もしてもらえる。
大音集落
木之本町大音(おおと)は琵琶湖最北部から賤ケ岳を隔てた東側に位置する。賤ケ岳の登山口があり、観光リフトが頂上に通じている。
賤ケ岳は天正11年(1583)豊臣秀吉と柴田勝家との間で行われた合戦の場ともなった所で、七本槍の活躍で知られる所。
稲作主体の農業であったが、大音糸で有名。
賤ケ岳麓の大音、西山地区は古くから養蚕が盛んであった地の利を生かして、繭の糸取りが行われてきた。そのため、「琴糸の里」
「糸引きの里」と呼ばれて来た。
上質の生糸の製造には、熟練した伝統技術とともに、賤ケ岳の麓から湧き出る清浄な水によるところも
本日も訪問、ありがとうございました。
建部堺の山之神
母のために建立した「孝養の不動尊」。日本3大不動尊の一つ。母の五回忌の孝養のために!
五個荘の近江商人「中三井百貨店」に釜山・大邸・ソウルで協力して、鉄事業・石油・セメントの販路を拡大。元建部村長旧宅宇野邸
乳橋乳橋地蔵
番外「松尾神社」
観音寺城の戦い | |
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観音寺城の平井丸虎口 |
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戦争:攻城戦 | |
年月日:永禄11年(1568年)9月12日 | |
場所:観音寺城、箕作城、和田山城一帯 | |
結果:織田軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
織田軍 徳川軍 浅井軍 |
六角軍 |
指揮官 | |
織田信長 木下秀吉 浅井長政 |
六角義治 六角義賢 |
戦力 | |
50,000-60,000 | 11,000以上 |
損害 | |
不明 | 1,500前後 |
観音寺城の戦い(かんのんじじょうのたたかい)は、永禄11年(1568年)9月12日、足利義昭を奉じて上洛の途にあった織田信長と近江守護である六角義賢・義治父子との間で行なわれた戦い。
支城の箕作城(みつくりじょう)が主戦場だったため、別名「箕作城の戦い」とも云われている。
信長の天下布武が実践された最初の戦いであり、直後の京都・畿内平定に大きな影響を与え、事実上の天下人として名乗りを上げる契機となった。この上洛以降を安土桃山時代と区分するならば、観音寺城の戦いは戦国時代最後の合戦といえる。
たった一夜で箕作城が落城すると、観音寺城は無血開城し、六角氏は甲賀郡に落ち延びた。
永禄8年(1565年)5月19日、13代将軍足利義輝が自らから太刀をとり奮闘、三好三人衆や松永久秀に討ち取られるという事件(永禄の変)が起こった。義輝の弟である足利義昭は、興福寺一乗院で門跡となっていたが(一乗院覚慶と名乗っていた)、甲賀武士和田惟政らの手引きで奈良を脱出した。以後約3年間にわたる義昭の漂流生活が始まった。まず近江甲賀郡近江和田城へ赴いたが、その後より京都に近い野洲郡矢島に仮御所を構えた。一時は近江の六角義治を頼ろうとしたようだが、三好三人衆と通じていることを擦知すると、若狭の武田義統および越前の朝倉義景を頼った。
越前で名を義昭と改め、義景が動かないと分かると尾張の織田信長を頼った。この時仲介の労を取ったのは明智光秀と言われている。
そんな中、永禄10年(1567年)11月に正親町天皇から織田信長に綸旨(りんじ)が届いた。内容は尾張・美濃の不地行になっている皇室領の回復を命じるものであった。
正親町天皇からの綸旨をうけた織田信長は、いよいよ上洛と「天下布武」に向けて動き出した。越前にいる義昭を美濃の立政寺に迎え入れると、永禄11年(1568年)8月5日に岐阜城を出発、精鋭の馬廻り衆250騎を引き連れて、8月7日に佐和山城に着陣した。
上洛する途上には観音寺城があった。信長は、義昭の近臣であった和田惟政に家臣3名をつけて、観音寺城にいる六角義治に義昭の入洛を助けるように使者を送った。しかし、義治と父の六角義賢はこの申し出を拒絶した。信長が着陣する少し前に、三好三人衆と篠原長房が観音寺城に出向き、織田軍の侵攻に対する評議を行っていたのである。
拒絶された信長は、再度使者を送って低姿勢で入洛を助けるよう要請した。これには諸説あるが、観音寺城と同じように後の安土城へ家臣を住まわすことや、楽市の発展等信長は六角氏の政治手法を取り込んでおり、そのような先進的な守護との決定的な対立は避けたかったのではないかと言われている。これに対して、三好三人衆の軍事力をあてにしていたのか、病気を理由に使者に会いもせずに追い返してしまった。
7日間佐和山城にいた信長は、ここに至って開戦もやむなしと考え、一旦帰国した。
同年9月7日、軍勢を整えた信長は1万5千の兵を引き連れて岐阜城を出立し、これに三河の徳川家康勢1千、北近江の浅井長政勢3千が加わり、翌9月8日は高宮に、9月11日には愛知川北岸に進出した。この時の織田軍の総数は5-6万とも言われている。
これに対して六角側は、本陣の観音寺城に当主義治、父義賢、弟義定と精鋭の馬廻り衆1千騎を、和田山城に田中治部大輔らを大将に主力6千を、箕作城に吉田出雲守らを武者頭に3千をそれぞれ配置し、その他被官衆を観音寺城の支城18城に置いて態勢を整えた。六角氏の布陣は、織田軍はまず和田山城を攻撃すると予測し、そこを観音寺城や箕作城から出撃して挟撃することを狙っていたと思われる。
しかし信長の行動はその裏をかいた格好となった。9月12日早朝、織田軍は愛知川を渡河すると、3隊に分かれた。
稲葉良通が率いる第1隊が和田山城へ、
柴田勝家と森可成が率いる第2隊は観音寺城へ、
信長、滝川一益、丹羽長秀、木下秀吉(後の豊臣秀吉)らの第3隊が箕作城に向かった。
戦端は箕作城でひらかれた。木下隊2千3百が北の口から、丹羽隊3千が東の口から攻撃を開始した。
この箕作城というのは急坂や大木が覆う堅城で、吉田出雲守隊の守りも固く、午後五時前後には逆に追い崩されてしまった。
木下隊では評議を行い、夜襲を決行することになる。木下秀吉は策をめぐらし、3尺の松明を数百本用意させ、中腹まで50箇所に配置し一斉に火をつけ、これを合図に一挙に攻め上った。7時間以上戦ったその日のうちに夜襲を仕掛けてくるとは考えてもいなかったのか箕作城兵は驚き、必死に防戦したが支えきれず、夜明けを待たずに落城してしまった。かなりの激戦だったらしく、200以上の首級が上がった。箕作城の落城を知った和田山の城兵は、戦わずに逃亡してしまった。
長期戦を想定していた六角義治は、戦端が開かれてから1日も立たずに箕作城と和田山城が落ちたことに落胆し、観音寺城の防備が弱いことを悟ったのか、古来の例にならい夜陰に紛れて甲賀へ落ち延びていった。当主を失った18の支城は、1つを除き次々と織田軍に降り、ここに大勢が決した。この戦いの六角軍の損害は1500人以上に上ると『ヤソ会日本年報』には記載されている。
六角家老臣の蒲生賢秀は、敗北を聞いてもなお1千の兵で日野城に籠もり、抵抗する様子を見せていた。しかし、賢秀の妹を妻としていた織田家の部将神戸具盛が単身日城に乗り込んで説得した結果、賢秀は降伏し、信長に質子を差出して忠節を誓った。この質子が後の蒲生氏郷である。
六角氏は観音寺城を失ったが、それでも織田軍に対して抵抗の姿勢をみせた。しかし、本領を失った六角氏の勢力は奮わず、ゲリラ的な抵抗が精一杯であった。戦国大名としての六角氏の没落は決定的なものとなった。
京都を支配していた三好三人衆らは六角氏の敗北を聞いて浮き足立ち、織田軍と満足な戦もしないまま、京都から駆逐された。信長は立政寺の足利義昭に使者を送り、戦況を報告して出立を促した。9月27日、信長と義昭は琵琶湖の三井寺に入った。翌28日、入京した義昭は東山の清水寺に、信長は東福寺に陣し、細川藤孝は宮廷の警護に従事した。
こうして信長は畿内の覇権を掴み、義昭は念願であった征夷大将軍の座に着いた。