城郭探訪

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大坂冬の陣、和睦交渉内情伝える 武将・片桐且元の書状発見

2016年10月02日 | 郷土の偉人

大坂冬の陣、和睦交渉内情伝える 武将・片桐且元の書状発見

大坂冬の陣の徳川方の内情を西本願寺宗主に報告する片桐且元の書状。表面のけば立ちもあり、且元筆の書状と考えられるという(30日午後4時12分、京都市下京区・龍谷大大宮図書館)

 賤ケ岳(しずがたけ)七本槍(やり)の一人として豊臣家に仕えた近江出身の戦国武将片桐且元(かつもと)(1556~1615年)が、徳川方についた直後に起こった大坂冬の陣(14年)の和睦交渉の内情などを西本願寺宗主に伝えた書状が見つかり、龍谷大大宮図書館が30日、発表した。発見した本願寺史料研究所の大喜直彦・上級研究員(日本史)は「冬の陣終盤の徳川方の詳しい様子を記す貴重な史料」とする。

 軸装された書状は縦30・5センチ横49センチ。今年6月に東京都の古書店の目録の記述から発見した。古書店が所有していた経緯は不明という。

 書状の日付は、1カ月続いた戦いが佳境を迎えた12月18日。大坂城への砲撃を指揮した且元が西本願寺12代宗主の准如(じゅんにょ)に宛てており、大坂城に近い「備前島」に布陣する且元のそばで、戦況に満悦する江戸幕府2代将軍秀忠の姿が記される。「大坂より色々御詫言候」と、豊臣側から非を認めてきたという記述がある。

 書状にある日付の翌日、和睦は成立した。大喜上級研究員は「大坂の陣の具体的な方法がより明らかになった。和議開始当日の戦場の様子も分かる」としている。且元の書状は10月13~21日、京都市下京区の龍谷大大宮学舎本館で特別展示される。午前10時~午後4時、入場無料。

京都新聞【 2016年09月30日 22時40分 】


寺村氏    近江国(蒲生)

2016年06月08日 | 郷土の偉人

寺村氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
 
寺村氏
家紋
丸に隅立て四つ目結
本姓 宇多源氏佐々木氏流
種別 武家
出身地 近江国蒲生郡寺村
主な根拠地

近江国

土佐国

著名な人物

寺村小八郎

寺村半左衛門

寺村重友

寺村道成

 

寺村(てらむら)氏は、日本の氏族。

概要

宇多源氏佐々木氏の庶流。家紋は佐々木氏の代表家紋である「平四つ目結」から派生した「丸に角立四ツ目結」などを使用。

近江国蒲生寺村の領主であったことから寺村の姓を名乗るようになり、室町時代には近江国の守護大名となった六角氏に仕えた。六角氏の家臣の多くは国人領主]であり、被官化されていたとはいえ独立性が高かった。

1563年(永禄6年)に六角氏の御家騒動(観音寺騒動)が起こると、六角氏本家だけではなく、南近江の国人連合の結束と勢力の衰退につながり、さらに六角氏が観音寺城の戦いで織田信長の上洛軍に敗れると、寺村氏一族は、浅井長政に仕える者、羽柴秀吉に仕える者、山内一豊に仕える者、蒲生氏郷に仕える者、蒲生郡小野村に居住する者などに分かれた。

近江寺村氏

寺村小八郎は、浅井長政に仕え、1570年に姉川の戦いに従軍し、以後1573年まで4年にわたり小谷城に詰めた。最後まで浅井家への忠誠を変えない者達に長政は感状を与えたが、有名なのが寺村小八郎に与えたもので、「ここ4、5年骨身惜しまぬお働き忠節これに勝るもの無く、ことに今度の籠城は誠に神妙に存じ候。愈々この上ともご奔走が大切、心底より望むところ確かりと申し付け候」がある。

寺村盛久(寺村半左衛門)は、蒲生氏郷に仕え、天正年間には近江寺村城に居城した。 蒲生氏郷の伊勢、会津への移封に従い、葛西大崎一揆の平定にあたっては、氏郷本隊の三段目を任された。

寺村家の枝連衆であった寺村重友は、当初は羽柴秀吉に仕え、その後、秀吉よりお預けの形で寄騎衆として山内一豊に仕えた。

天正年間に近江長浜城主となった山内一豊に召し抱えられて臣となり、山内一豊の移封に従い、遠江国(静岡県)掛川を経て、土佐国(高知県)に移り、初代土佐寺村氏となった。

本陣寺村氏(近江)

六角氏の滅亡後に、寺村行隆と、その子寺村規行は病身であることから武士を捨てて小野村に移り、本陣役を務めるようになった。寺村規行には2人の兄弟があり、共に長浜城主であった山内一豊に仕え、のちに土佐へ入った。 佐和山城の落城後は小野宿は廃止され、1603年(慶長8年)、中山道の整備に伴って小野村から鳥居本に宿場が移った時、小野宿で本陣役を務めていた寺村荘兵衛は鳥居本に移り、引き続き鳥居本宿でも本陣役を務めた。寺村規行から数えて10代目の寺村義貴の時に、本陣は廃止となった。

本陣寺村の家紋は「五段梯子(はしご)」であるが、『綱要日本紋章学』(昭和52年)によれば、「土佐山内氏家臣寺村氏が、梯子を用ひて天正十八年山中城に乗り込んだ武功を紀念するために用ひた」のが梯子紋の歴史上の登場とされている。

土佐寺村氏

当初は羽柴秀吉に仕え、秀吉よりお預けの形で山内一豊に仕えた寺村重友は、天正年間に近江長浜城主となった山内一豊に召し抱えられて臣となった。山内氏の遠江国掛川入封時は家老職400石、土佐国入封時は中老格4400石を給され、初代土佐寺村氏となった

二代目の寺村淡路重次は3200石、三代目の寺村守善重昌は山内可氏の三女を妻に迎えた。

また、四代目の寺村淡路重信は、山内可氏の子である山内定氏の長女を妻に迎えた。

幕末には、寺村成相(中老格700石)の三男寺村道茂(左膳)は参政として藩政の中枢にあった。薩長に近づきたい土佐藩は、ついに1867年(慶応3年)の6月に京都の三本木の料亭吉田屋において土佐藩と薩摩藩の首脳会談をもった。土佐からは後藤象二郎・寺村道茂、薩摩からは小松清錬・西郷吉之助(西郷隆盛)・大久保利通、仲介人として坂本龍馬・中岡慎太郎が参加し、薩土盟約を締結した。盟約破綻後も大政奉還路線を進め、主君山内容道ほか4名(後藤象二郎・寺村道茂・福岡考弟・神山左多衛)の連名で大政奉還建白書を提出した。幕末の政治活動を記した『寺村左膳手記』『寺村左膳道成日記』は、幕末の土佐藩の中心にいた人物の記録として貴重な史料である。

維新後、土佐寺村氏の多くは「日野」と改名し、家紋は「鶴に丸」を使用した。姓や家紋を改めた理由は不詳であるが、公家の日野家との古くからの関係から「日野」と「鶴に丸」を使用したようである。高知県立図書館の山内家宝物資料館所蔵『侍中先祖書系図牒』の系図には、「寺村」という箇所に「日野」と改めた紙が貼ってあり、家紋は「鶴二蝶梯子」とある。寺村道成は日野春草(春章)と改名したが、祐天寺(東京都目黒区)の日野春草の墓には「五段梯子」の家紋が刻まれている。

寺村道成の次の当主である日野茂義(軍馬)は板垣退助の姉である勝子を妻に迎え、勝子は日野成文(次郎三)や山田兵左衛門の妻となった信(のぶ)を生んだ。

寺村氏と「日野」の接点

  • 鶴紋を使う蒲生氏と関係があるとする説。近江国蒲生郡には日野町という場所があり、蒲生貞秀(氏郷の祖父)が1533年(天文2年)から3年程かけて日野城を築城した。
  • 「鶴に丸」紋を使う公家の日野家と関係があるとする説。本願寺第三世である本願寺殻に覚如の父覚恵は、日野広綱と親鸞の末娘覚信尼との間の実子である。浄土真宗の宗祖である親鸞は日野有範の息子であるため本願寺]は日野家である。
  • 本願寺第十一世で本願寺顕如は、1557年(弘治3年)4月17日、宇多源氏佐々木氏嫡流である六角定頼の猶子の徐春尼と結婚した。
  • 土佐寺村氏の初代寺村重友が日野家の流れを汲んでいたとの説があるが不詳である。
  • 近江寺村城に居城した寺村盛久の草堂から始まった得照寺は、親鸞を宗祖とする浄土真宗本願寺派である。
  • 日野唯心は、徳川家康側近の僧侶として仕え、以心崇伝、天海に次ぐ地位にあり、近江国蒲生郡に1,030石余の所領をもった。唯心の次代で、日野家は朝廷に仕える堂上家と、幕府に仕える高家に分かれた。

歴史に埋もれた、近江の偉人『曲直瀬(まなせ)道三』

2016年01月14日 | 郷土の偉人

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曲直瀬道三像(杏雨書屋蔵)

曲直瀬 道三(まなせ どうさん)

 永正4年9月18日(1507年10月23日) - 文禄3年1月4日(1594年2月23日))は、戦国時代から安土桃山時代の日本の医師。道三は号。諱は正盛(しょうせい)。字は一渓。他に雖知苦斎(すいちくさい)、翠竹庵(すいちくあん)、啓迪庵(けいてきあん)など。本姓は元は源氏、のち橘氏。今大路家の祖。日本医学中興の祖として田代三喜・永田徳本などと並んで「医聖」と称される。養子に曲直瀬玄朔。

略 歴

父は近江源氏佐々木家庶流の堀部左兵衛親真、母は多賀氏。幼少の頃、両親を失う。なお、『近江栗太郡志』によれば、道三は近江国栗太群勝部村(現・滋賀県守山市)の佐々木氏一族勝部氏の一門の出とされ、母は目賀田攝津守綱清の娘、諱を正慶とし、父母死別後伯母に育てられたと記されている。幼少時、守山の大光寺内吉祥院にて学んだ(道三は勝部村に五反の農地を持ち、大成した後一反を大光寺に寄進したと伝えられ、天正5年12月翠竹庵道三著名の寄進状がある)。

永正13年(1516年)、五山文学の中心である京都の相国寺に入って喝食となり、詩文や書を学ぶ。この頃、姓を曲直瀬とする

 享禄元年(1528年)、関東へ下って足利学校に学ぶ。ここで医学に興味を抱いたと言われる。名医として知られた田代三喜斎と佐野ノ赤見で出会い医学を志す。(なお柳津で面会したというのは根拠のない俗説で佐野市赤見が正しい。)入門して李朱医学(当時明からもたらされた最新の漢方医学)を修める。なお李朱医学とは便宜的造語で、当流医学が実情に則した実際の学派名である。当流は道三が創り出したとする説があるが、これは明らかな誤りで田代三喜から相伝されたものである。

 天文15年(1546年)、再び京都へ上ると、還俗して医業に専念。将軍・足利義藤(後の足利義輝)を診察し、その後の京都政界を左右した細川晴元、三好長慶などの武将にも診療を行い、松永久秀には性技指南書である『黄素妙論(こうそみょうろん)』を伝授するなどして、名声を高め京都に啓迪院(けいてきいん)と称する医学校を創建した。

それまでの観念的な治療方法を改め、道三流医道を完成させ、実証的な臨床医学の端緒を開き、四知(神・聖・功・巧)の方を生み出した。

永禄3年(1560年)、道三は初めて皇室に参仕し、以後皇室に出入りするようになる。

 永禄5年(1562年)、幕府の芸・雲和平調停に加担して毛利氏に対する諸約定の早期履行を促すために中国地方に下向し、その後も毛利元就の疾病治療のため何度か下向することになり、道三流医術を中国地方に伝える契機となる。

永禄9年(1566年)、出雲月山富田城の尼子義久を攻めていた毛利元就が在陣中に病を得た際に、これを診療し、『雲陣夜話』を記す。

『啓迪集』の天正10年(1582年)写本(東京大学附属図書館蔵)
 天正2年(1574年)には『啓迪集』を著し、同年に正親町天皇に拝謁を許され、診療を行い、同書を献上した。正親町天皇は僧・策彦周良に命じて序文を作らせている。この際に翠竹院の号を賜る。織田信長が上洛後は、信長の診察も行い、名香・蘭奢待を下賜された

著書は『啓迪集』以外にも『薬性能毒』『百腹図説』『正心集』『指南鍼灸集』『弁証配剤医灯』『黄素妙論』『雲陣夜話』など数多く、数百人の門人に医術を教え、名医として諸国にその名を知られた。

 天正12年(1584年)、豊後国府内でイエズス会宣教師オルガンティノを診察したことがきっかけでキリスト教に入信し、洗礼を受ける(洗礼名はベルショール)。天正20年(1592年)には後陽成天皇から橘姓と今大路の家号を賜る。文禄3年1月4日(1594年2月23日)に没した。死後、正二位法印を追贈された。

当代第一流の文化人でもあり、特に茶の湯のたしなみが深かった。宮本義己は道三の茶の湯執心の一因が禁裏や当世の有力者との交際を確保するための必要な手段であったと分析している。

道三は、妹の子・玄朔を養子とした。曲直瀬家は、その後も代々官医として続いた。

神麴の処方応用

日本で本格的な神麴の製剤と処方は戦国期で、他の本草とともに漢籍を参考にして道三独自の治験結果をよりどころとし、新たに実証的に精選されたもので、在来のそれとの関わりは認められない。しかも道三流医術の普及により広く実地医療に役立つ神麴の処方応用例は当代医療を代表とする特色のある新技術ととして評価される。


戦国女性の足跡 お市を巡る男たち

2015年11月06日 | 郷土の偉人

=武将に操られた生涯 安土城考古博物館でトピック展=

大変な美人としても知られたお市の肖像画

◇近江八幡
 織田信長の妹だった故に、戦国時代の悲劇のヒロインとして知られる「お市」の生涯を紹介するトピック展「お市を巡る男たち」が県立安土城考古博物館で開かれている。二十九日まで。
 天下統一の戦乱が繰り広げられた戦国の世で、お市は、武将たちの政略や政争に巻き込まれた代表的な女性。
 その男たちに操られた人生とはどんな苦難があったのか。輿(こし)入れ、夫との死別の繰り返しの中で、戦国の女性としての生きざまを歴史資料をもとに紹介している。
 お市は、本当に信長の妹であったのか、諸説ある中で、信長の政略で浅井家に嫁ぎ、長政との間に授かった「茶々、初、江」の三姉妹を育てた。信長と敵対する関係に転じた時も長政と「小谷城」の落城ぎりぎりまで籠城。長政亡き後は、柴田勝家と再婚したが、羽柴秀吉との戦いに破れ、自決して世を去った。秀吉がお市に好意を抱く場面がドラマに描かれることがあるが、真相は不明。
 今回の展示では、お市とその取り巻く武将との人間関係を中心に、乱世を生き抜いた女性の生涯を分かりやすく紹介している。

情報:滋賀新聞