城郭探訪

yamaziro

広重が描いた近江

2015年07月26日 | 番外編

広重が描いた近江、構図に飽くなき探究心 滋賀で企画展

近江八景 比良暮雪【魚栄板】=大津市歴史博物館蔵

近江八景之内 比良暮雪【栄久堂板】=個人蔵

「東海道五十三次」などの版画作品で有名な浮世絵師歌川広重(1797~1858)が描いた近江を展観する企画展「広重の旅 浮世絵・近江・街道」が25日から、大津市御陵町の市歴史博物館で始まる。広重が繰り返し題材にした「近江八景」には常識を覆すような構図もあり、風景版画への飽くなき探求心がうかがえる。

 江戸生まれの広重だが、1830年代から50年代にかけて、少なくとも4度は、スケッチ旅行で近江を訪れているそうだ。同博物館の横谷賢一郎学芸員によると、広重が携わった「近江八景」シリーズは27種類、大津宿や草津宿が登場する「東海道」シリーズは約40種が確認されており、「近江の名所を全国的にメジャーにした人物」と評価する。

 何度も作品化するにあたっては、目新しさが必要だったのだろう。近江八景のひとつ「比良暮雪」は、「栄久堂板」のように、雪の比良山系を遠望するのが定番。しかし、広重最晩年の「魚栄板」では、比良山中の雪景色を描き、眼下に琵琶湖や伊吹山を望む構図をとった。横谷さんは「近代絵画でもこのような構図は見当たらない。900メートル近い登山に挑み、新たな発見を追い求めた広重は名所風景ハンターだ」と話す。

企画展ではほかに、木曽海道(中山道)の宿場を描いた「木曽海道六拾九次」や、野路(現草津市)の玉川が登場する「諸国六玉川」、大津の岩間寺や石山寺が描かれた「観音霊験記」など、同博物館や草津市所蔵の約240点が展示され、江戸時代の近江へいざなう。


信長の鷹狩(信長公記)

2015年07月22日 | 武将

信長公記

巻十二

天正七年

 この年信長公は近江国安土山で越年して新年を迎えたが、歴々の将領たちは摂津伊丹表に散らばる付城群に在番していたため、新年の出仕はなかった。
 そのような中の正月5日、九鬼嘉隆が堺湊より安土へ上り来て、信長公へ年頭の御礼をおこなった。すると信長公は「今のうちに在所へ帰り、妻子の顔でも見たのちに上国するが良い」とかたじけなくも九鬼へ暇を下された。九鬼は信長公のはからいに感謝しつつ伊勢へ下っていった。

 正月8日、信長公は小姓衆・馬廻・弓衆に命じ、馬淵①から切石三百五十余を運び上げさせた。

そして翌日、信長公はかれらに鷹野で得た雁や鶴といった獲物を分け与えた。いずれの者も、これらをかたじけなく頂戴したものであった。

 2月18日になり、信長公は上洛して二条御新造へ座を移した。

京での信長公は、21日に東山で鷹を放ったのち28日にも同じく東山で鷹野を行い、さらに3月2日にも賀茂山で鷹を使うといった様子であった。
 そのような日々を過ごすうち、3月4日になって中将信忠殿・織田信雄・織田信包・織田信孝が上洛してきた。

 ①現滋賀県近江八幡市内

 

・近江八幡市島町 奥島山国有林(宮ヶ浜)

 

 奥島山国有林は琵琶湖に接した丘陵地で、かつては琵琶湖最大の島(奥津島)でした。

稜線からは沖島を眼下に治め、比叡・比良・伊吹の山並みが一望でき、森の緑と湖水の織り成す美しい景観が訪れる人々を魅了します。

 

 また、林内には樹齢100年を超えるヒノキや200年以上といわれる大杉があり、

万葉の時代には天智天皇が遊猟の際に行幸し、

戦国の世では織田信長が鷹狩りに訪れたと伝えられる、豊かな自然と歴史のある山域です。

 


唐国城 近江国(虎姫)

2015年07月17日 | 武将

山内一豊の初領地

山内一豊が、朝倉氏との戦い”刀禰坂の戦い”での功により、近江唐国四百石に封じられる。

初領地のデータ

所在地:長浜市(旧東浅井郡)虎姫町唐国   map:http://yahoo.jp/h3_Hll

目標地:唐国集落 南側

区 分:平城  

比 高:0m

現 状:水田

遺 構:顕彰石碑

初領期:織豊期

受領者:山内一豊

訪問日:2015.6.27

山内一豊公 顕彰碑(虎姫商工会) 

お城の概要

国道8号線の唐国の琵琶湖側・高時川の堤防のすぐ南の、唐国集落の南の田んぼの中に碑があります。

真新しい顕彰碑が立っています。

 

歴 史

山内一豊織田信長の家臣で、木下秀吉の部隊に所属していた。

1573年近江浅井氏の援軍として北近江に進軍してきた朝倉義景は、織田信長の攻撃を受け越前へ退却を始めた。

近江と越前の国境の刀禰坂で朝倉軍に追いついた織田軍は、そこで朝倉軍を散々に破った。その織田軍のなかに若き日の一豊がいた。
刀禰坂の戦いでのエピソードが残っている。
刀禰坂での戦いで一豊は、朝倉軍の弓の名手三段崎(みたざき)勘右衛門との死闘を繰り広げた。一豊は三段崎の矢を左のまなじりに受け、その矢は右の奥歯まで達した。しかし一豊は傷にひるむことなく三段崎を討ち取った。

顔の矢を抜こうと家臣の五藤吉兵衛為浄が口で矢をくわえたところ一豊は、「そんなことでは間に合わない。顔を踏みつけて抜け」と命じたという。さらに草履を脱ごうとした為浄に「そのままで良い」と命じ、為浄は草履のまま一豊の顔の矢を抜いたという。この三段崎を討ち取った功により近江唐国四百石を与えられた。

功名が辻-15【刀根坂古戦場】1573年、浅井氏救援のため木之本まで来ていた朝倉義景は敗色が濃厚にあると越前に引き上げる。それを信長軍が追撃して勝利した。この時、信長軍にいた山内一豊が顔面に鏃を受けた話は有名。

(参考. 掲示板)

 
 

天正元年(1573年)に浅井氏、小谷城落城後、織田信長から羽柴(豊臣)秀吉がこの地を与えられ、一豊も唐国に400石を与えられました。

山内一豊(官歴と所領推移)

  • 天正元年(1573年)、近江国唐国(滋賀県長浜市唐国町)に400石を領す。
  • 天正3年(1577年)、播磨国有年(兵庫県赤穂市有年)に700石を加増。時に、合計2,700石を領す(石高総計については異説あり)。
  • 天正10年9月25日(1582年10月21日)、播磨国印南郡(兵庫県南部地域)に500石を加増。
  • 天正11年8月1日(1583年9月16日)、河内国禁野(大阪府枚方市禁野本町あたり)に361石を加増。
  • 天正12年(1584年)9月、近江国長浜城主となって、5,000石を領す。
  • 天正13年6月2日(1585年6月29日)、若狭国高浜城主となって1万9,870石を領す。8月、豊臣秀次の宿老となる。閏8月21日(10月21日)、近江国長浜城主となって2万石を領す。
  • 天正13年(1585年)9月~天正14年(1586年)4月 正五位下対馬守に叙任(『一豊公記』)。なお豊臣家臣で一豊と同格の人物の多くは当時従五位下に叙せられているため、正五位下ではなく従五位下の誤記ではないかとの説もある。
  • 天正18年9月20日(1590年10月21日)、遠江国掛川城主として5万石を領す。さらに10月25日(11月22日)、遠江国周智郡一宮(静岡県周智郡森町一宮)1万9980石の代官にもなる。
  • 文禄3年9月21日(1594年11月2日)、伊勢国鈴鹿郡(三重県鈴鹿市)で1,000石加増。
  • 文禄4年7月15日(1595年8月26日)、遠江国内の豊臣秀次所有の蔵入地より8,000石を加増。
  • 慶長5年(1600年)11月、土佐国内9万8,000石(後の検地で20万2,600石)を領有する大名となる。
  • 慶長8年3月25日(1603年5月6日)、従四位下に昇叙し、土佐守に転任する(『徳川実紀』)。
  • 慶長10年9月20日(1605年11月1日)、卒去。
  • 1919年(大正8年)11月15日、贈従三位。

「内助の功」に関する逸話

馬と黄金の話

一豊夫妻の有名な逸話として、見性院は、『常山紀談』による嫁入りの持参金またはへそくりで夫・一豊の欲しがった名馬(鏡栗毛)を木之本の馬市で購入し、主君織田信長の馬揃えの際に信長の目に留まり、それが元で一豊は加増されたといわれる。この逸話は、『藩翰譜』、『鳩巣小説』、『常山紀談』の3つに記載があり、藩翰譜には(見性院が)「鏡の筥の底より、黄金十両取り出しまゐらす」とあり、父からもらった金とされている。馬に関しては「東国第一の馬」と記載されている。一方鳩巣小説では「金子一枚」(十両大判一枚のこと、つまり十両)とあり、母からもらったとされていて、馬売りを「仙台より馬売りに参り候」と表現している。常山紀談では、父からもらった金を差し出したとある。また、どこで馬を手に入れたかについては3つとも安土城下とあり、馬揃えの時期に関しては、天正9年(1581年)2月28日とある。

一豊の妻である見性院(千代、まつ)は夫を「内助の功」で助けた賢妻とされており、嫁入りの持参金(貧しいながらも貯めたへそくりとの説もある)で名馬(鏡栗毛)を買った。この逸話は特に第二次世界大戦以前の日本において教科書に採り上げられ、女性のあるべき姿として学校教育に用いられた。真偽の程は定かではないが、千代紙の由来になった人物としても知られている。

参考資料:現地説明板・ウィキペディア

       本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


発掘調査で明らかに 古代塩津港は小都市だった

2015年07月17日 | 探訪「近江水の宝」

=埋め立ては湖側へ27メートル以上=

平安時代末期(12世紀)の塩津港のイメージ図

◇長浜・・・滋賀報知新聞

 古代から中世にかけ日本海・敦賀から京への中継港として栄えた、琵琶湖最北端の塩津港(長浜市)が、小都市として活況を呈していたと、県文化財保護協会などの発掘調査で明らかになった。

 この発掘調査は、国道8号バイパス工事に伴い、平成二十四年から実施されているもの。今回の調査では、十二世紀ごろに造ったとみられる、船が着岸するための高さ一メートルほどの垂直護岸、幅一・二メートルの桟橋(さんばし)、石を張り込んだ傾斜護岸などがみつかった。

 これらの埋め立て工事は、十二世紀前半から約六十年間だけでも、七回以上繰り返され、港の施設は琵琶湖に向かって二十七メートル以上も拡張されていた。

 また、出土した遺物は、京をしのぐほどの濃密さで、塩津港がいかに繁栄していたかうかがえる。琵琶湖の水位が上昇して水没したため遺跡の保存状態はよく、土器類だけでなく、木製品や骨角器、金属製品などが豊富にみつかった。

 県文化財保護協会は「これまで不明だった同港の姿を伝えるとともに、当時の物流、信仰、土木技術、造船技術など歴史資料が残され、海洋国日本の歴史を知る上で重要な遺跡といえる」としている。

塩津海道あぢかまの里  http://www.kkr.mlit.go.jp/road/michi_no_eki/contents/eki/s15_adikama/

【交流の場】 「水の駅交流館」

 

「ランチパック」で昼食!


月出坂砦・月出浜砦 近江国(西浅井)

2015年07月10日 | 

新発見!月出坂砦・月出浜砦

賤ヶ岳合戦・・・・丹羽長秀は?

清洲会議で長秀は池田恒興と共に秀吉が信長の後継者に推す信長の嫡孫三法師を支持。結果として、諸将が秀吉の織田家の事業継続を認める形となった。秀吉と勝家とが天下を争った一戦である天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでも秀吉を援護し

 

太閤記巻第六

〇丹羽五郎左衛門尉長秀志津嶽之城へ籠入事

長秀其比は若州幷江州之内志賀高嶋両郡を領し、坂本を居城とし有しにより、北国勢を押へん為、勢を分敦賀表に3千、塩津海津の7千賦り置、江北を静めける処に、卯月十七日、秀吉濃州表出張之由に付て、柴田に対し在取出之城々無心元存、小姓馬廻千余人、組頭二三輩召連、船五六艘に取乗、同廿日出船有。漸汀近く成に随て、鉄砲の音夥く鳴出したり。渚を見れば、旗さし物多く立さはぎぬ。

長秀察しけるは、敵志津嵩を攻落し、其勢溢出かくや有。船を急汀へ着けよとぞ怒りける。坂井与右衛門尉江口三朗右衛門尉も、げに左もあるべしと覚え奉る。然 即引返し、坂本之城を堅固に守 給ひ宜しく候はんと諌ければ、いやとよ、弓矢取身の図をはづし義を汚せば、必 終りが無物と云いつゝ、はし舟をおろし海津は遣し勢を分、三分二、急志津嵩へ可相越旨、書状を調へもどしけり。望月曰五里漕もどって勢を催し、五里来たらん。其勢何として、此急難の用に申候はんや。長秀曰、それは狭き存分なり。物は期の延る事おほく有物ぞかし。志津嵩之城加勢とし・・・云々

海津城に3000・・・疋壇の城(敦賀表)の3000、西岡城に4000・・・  

秀吉は、広範囲に警備を行い丹羽長秀を愛発方面(敦賀疋田方面)よりの敵に備えると共に、付近の舟を懲発して海津から長浜にかけての湖岸を監視し、丹羽秀長の子丹羽鍋丸(長重)えお3千騎を敦賀表まで出しこの方面を監視に当てた。

細川忠興を丹後国に帰し、丹後の水軍を越前沿岸に廻し港湾に火を放ち北軍(柴田軍)の後方を撹乱した。

 

月出集落前の汀

西浅井町月出集落

称福寺の兵糧運搬伝承

秀吉は、賤ヶ岳合戦の長期戦に備え西浅井から遠くは敦賀方面まで米、麦、豆等食糧を買い入れ、各々の砦に蓄えた。食糧運搬にも、黙々と協力した一向宗徒。

西浅井町月出に称福寺という寺院がある。十世香栄和尚は、父長崎和尚とともに、里人を引き連れ、ご糧米運送に協力。敦賀方面から運ばれてくる糧食や塩など、舟運を使い海津から飯ノ浦や山梨、塩津等に陸揚げ、賤ヶ岳城や明神山城に運ばせた。と伝承される。秀吉から大いに感謝された。

称福寺には「まめ20石、ささげ20石成、合40石両人にくだされ候」と書かれた秀吉の感状やその他賤ヶ岳合戦に使用され秀吉から与えられた品が所蔵されている。

東側:浅井郡真宗 称名寺 僧侶 性慶 天正10年 称名寺城に帰還 天正11年 柳瀬方面の偵察をしていた

西側:浅井郡真宗 称福寺 僧侶 香栄 天正11年 月出砦カ?秀吉に協力して敦賀の兵糧を運搬。

月出山砦・月出浜砦へ

 

水ひねり:船を城塁につなぐために凹形に堀を屈入させ船溜としたもの。

 膳所城の水ひねり                       月出砦の蛇曲がり

 

月出坂砦 新発見 山城 

   

駐車可

月出浜砦 新発見 水城

月出浜砦から、湖岸曲郭へ

近世の石積鬼クルミ月出砦の崩落石垣月出砦の崩落石垣

海津城に3000・・・疋壇の城(敦賀表)の3000、西岡城に4000・・・  

丹羽長秀は、戦後に若狭に加え越前(敦賀郡・南条郡の一部・大野郡の一部を除く)及び加賀二郡(うち一郡は溝口秀勝が領する)を与えられ、約123万石の有数の大々名となった。

 


土位遺跡の石積み護岸

2015年07月04日 | 遺蹟

地域防災の原点を見る・・・・・滋賀報知新聞

■平成27年7月3日(金) 第17233号

=土位遺跡の石積み護岸=

水害に苦しんだ近世の人たちの努力の跡を知ることができる出土した石積み護岸遺構――東近江市神田町地先の発掘現場――

◇東近江
 近世の愛知川沿岸集落の人たちが力を合わせて堤防に築いた石積み護岸がこのほど、東近江市神田町地先の土位遺跡で出土した。江戸時代から多用される石積み護岸による治水技術や、水害に悩まされた人々の防災への努力の跡を知ることができる、県内初の貴重な遺物であることがわかった。

愛知川の河原石で堤防補強 4日に現地で一般説明会

 蛇砂川から愛知川につなぐ八日市新川の堤防上に整備される県道五個荘八日市線道路整備事業に伴って今年四月から行われている公益財団法人滋賀県文化財保護協会による発掘調査で、河口近くから明治六年の絵図に記された当時の愛知川左岸堤防が実際に出土した。
 目の前にある愛知川の河原石を積み上げ、前面に三―四十センチメートル台の石、裏側に一―三十センチメートル台の石(裏込め石)を充填している。また、途中から川側に突き出た石積みが存在し、増水後の水の流れを緩和する「石出し」と呼ばれる施設の可能性もある。
 石積み遺構の中からは近世陶磁器の破片と十九世紀に作られた煙管(きせる)の雁首と吸口が、堤体部からは近世陶磁器の破片と擂鉢(すりばち)の破片が、それぞれ出土した。

現地説明会の様子


出土した煙管の雁首(上左)と吸口(上右)、磁器碗の破片(下左)、擂鉢(すりばち)の破片(下右)

 市川秀之県立大教授は、「近世の堤防は不連続堤が一般的で、水流の強い場所の堤防の一部に水の流れを和らげるための石組護岸が見られた。(土位遺跡の)石組み護岸は、急流から堤防を保護し、集落や水田を守るためのものであり、増水で埋まったあと、さらに構築されていることは、繰り返し工事が行われたことを示している。堤防の施工方法がある程度復元できることも貴重」とした上で、「水害に悩まされた人々の英知と努力が込められた遺構であり、近代以前の河川景観と治水技術をうかがわせる貴重なもの」と評価している。
 一般向けの現地説明会が、あす四日午後一時から三時まで開催される。現地へは、近江鉄道八日市駅から近江バス(ちょこっとバス)永源寺市原線で、「広間」で下車し北へ徒歩約十分。小雨決行。


長沢城 近江国(近江町)

2015年07月03日 | 平城

城址碑

お城のデータ

所在地 : 米原市(旧坂田郡近江町)長沢  map:http://yahoo.jp/36uR88

築城年 : 平安期

初城主:長沢太郎冠者土佐守義盛

区 分:平城

現 状:集落

遺 構:堀・城跡碑

訪城日 : 2015.6.27

お城の概要

 長沢城は近江町長沢地区に位置し、旧国道8号線の西側集落の全て、四方は水田と1m余りの比高をもって立ち上がっており、幅1m程の水路が廻っている。

また、所によっては同様の水路が集落内に入り込み、屋敷を区画している。

北と西側水路には、横矢掛りの屈曲が認められる。

歴 史

 城域の北西部は真宗大谷派の福田寺が大きくその地を領有している。

長沢城の内堀に掛けられていた反り橋(そりばし)が長沢からおよそ2km南の宇賀野にある坂田神明宮に移設され現存している。

福田寺境内にある書院は、浅井長政の小谷城から移したものと云われ、浅井御殿と呼ばれ県の文化財に指定されている。

 長沢城は保元の乱(1156)の戦功によって長沢領を与えられた長澤太郎冠者土佐守義盛が築城した城であるとされ、周囲に二重の堀を巡らした堅城であったと伝わる。

 延元4年(1239)には、長浜の布施山から福田寺が移され、長沢城と福田寺は長く共栄したとされるが、応仁の乱(1467~77年)の頃に何が原因か定かでないが長沢城は閉城したと伝えられる。

大永5年(1525)、天文7年(1538)の二度に亘る六角氏による浅井氏攻めでは、六角氏の本陣が長沢城に置かれ、また、天文年中には長沢村の北国街道に関所が設けられ、浅井氏や若宮氏の被官が在番していた戦略上の要地であった。

その後は、織田信長の一向宗弾圧に抗して福田寺が江北十ケ寺の中心的存在となり、僧兵や寺侍、宗徒の拠点となったが、慶長2年(1597)秀吉の古城取り壊し布告により長沢城の残部も取り除かれた。

なお、湖北十ヶ寺は福田寺を含め、箕浦誓願寺(米原市箕浦),戌亥福勝寺(長浜市大戌亥町),十里金光寺(長浜市十里町),榎本浄願寺(長浜市榎木町),上坂順慶寺(長浜市西上坂町),上坂授法寺(以上旧坂田郡),内保誓願寺(長浜市内保町),尊勝寺称名寺(長浜市尊勝寺町),益田真宗寺(長浜市益田町)をさす。

参考資料: 滋賀県中世城郭分布調査・ウィキペディア(Wikipedia)、淡海の城

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福田寺 近江国(近江町)

2015年07月03日 | 城郭寺院

お城のデータ

所在地 :米原市(旧坂田郡近江町)長沢  map:http://yahoo.jp/km-9oF

築城年 : 平安期

区 分:城郭寺院

遺 構:寺院・堀

訪城日:2015.6.27 

お城の概要

福田寺は布施山と号し、宗派は浄土真宗本願寺派。
寺蔵の由緒書によれば、約1300年前に忍海部荘布施(長浜市)で建立され、息長寺成功院と号した。約800年前に長浜市布施から長沢へ移転されたという。

 本願寺は天文元年以後、浅井氏との関係を深めるが、その仲介・連絡等を湖北十ヶ寺が動めた。天文9年に浅井亮政と六角定頼が本願寺と越前朝倉氏との和議の仲介に乗出した時にも浅井氏と本願寺の連絡に当たっており、「天文日記」に「従浅井方浄顕福田寺下也差上、越前通路事少弼と示合、於此方同心者可取扱之由、周防方へ申越候」(同九年三月八日条)とある。

 城域内にある福田寺は、『元亀・天正の法難(織田信長との戦い)には、住職覚芸は、福田寺門徒4500余人と湖国十ヶ寺の総統領として、同志2万数千人を指揮して、愛山護法の戦いを繰り広げた。』(現地福田寺案内板より) 一向衆徒の拠点でもあり、山科本願寺と同様に城郭化されていたと思われた。

 長沢城は近江町長沢地区に位置し、旧国道8号線の西側集落の全てを包み込む構えを呈し、四方は水田と1m余りの比高をもって立ち上がっており、幅1m程の水路が廻っている。また、所によっては同様の水路が集落内に入り込み、屋敷を区画している。北と西側水路には、横矢掛りの屈曲が認められる。

 城域の北西部は真宗大谷派の福田寺が大きくその地を領有している。
長沢城の内堀に掛けられていた反り橋(そりばし)が長沢からおよそ2km南の宇賀野にある坂田神明宮に移設され現存している。福田寺境内にある書院は、浅井長政の小谷城から移したものと云われ、浅井御殿と呼ばれ県の文化財に指定されている。

福田寺庭園について

 境内にある書院は、浅井長政の小谷城(現滋賀県湖北町)の遺構を移したものといわれ、福田寺御殿(通称浅井御殿)として県の文化財に指定されている。また書院の庭は国指定名勝。室町時代末期の様式を伝える枯山水庭園である。

近江の浄土真宗寺院の中で最古の創立で、最高の格式を誇る福田寺の庭園。戦国武将浅井長政の小谷城から移してきたと伝えられる書院の南に、角ばった山石を力強く配し、厳しい印象を与える立石などを控え目に引立てる石組の強弱のバランスが素晴らしい。海や枯滝に見たてた石組もおもしろい。

毎年4月24日、25日に行われる公家奴振りは県選択無形民俗文化財となっている。


 福田寺と浅井氏の繋がりは、寺伝では「長政とお市の間には、三人の娘のほかに、男の子が二人いた。上の子が万福丸、下の子が万菊丸といった。小谷城落城時に二人とも脱出したが万福丸は発見され磔刑、あるいは串刺しにされたが、生後3ヶ月の赤ん坊だった万菊丸は幸い誰にも気づかれることなく福田寺で養育された」と伝えられている。

 江戸期に12代覚芸の跡を継いだ正芸が、この万菊丸であるとされるが、坂田郡志は正芸を浅井長政の遺児万菊丸とするのは疑問があるとしている。

福田寺は長沢御坊の名でも知られ、蓮如が3年間滞在したこともあり、境内には蓮如上人お手植えとされる松が見事な枝振りを見せている。


延元4年(1239)には、長浜の布施山から福田寺が移され、長沢城と福田寺は長く共栄したとされるが、応仁の乱(1467~77年)の頃に何が原因か定かでないが長沢城は閉城したと伝えられる。
大永5年(1525)、天文7年(1538)の二度に亘る六角氏による浅井氏攻めでは、六角氏の本陣が長沢城に置かれ、また、天文年中には長沢村の北国街道に関所が設けられ、浅井氏や若宮氏の被官が在番していた戦略上の要地であった。

その後は、織田信長の一向宗弾圧に抗して福田寺が江北十ケ寺の中心的存在となり、僧兵や寺侍、宗徒の拠点となったが、慶長2年(1597)秀吉の古城取り壊し布告により長沢城の残部も取り除かれた。

なお、湖北十ヶ寺は福田寺を含め、箕浦誓願寺(米原市箕浦),戌亥福勝寺(長浜市大戌亥町),十里金光寺(長浜市十里町),榎本浄願寺(長浜市榎木町),上坂順慶寺(長浜市西上坂町),上坂授法寺(以上旧坂田郡),内保誓願寺(長浜市内保町),尊勝寺称名寺(長浜市尊勝寺町),益田真宗寺(長浜市益田町)をさす。

参考資料: 滋賀県中世城郭分布調査・ウィキペディア(Wikipedia)、淡海の城

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垣見氏館  近江国(長浜)

2015年07月02日 | 居館

 

お城のデータ

所在地 : 長浜市宮司町   map:http://yahoo.jp/v5ZoP0

築城年 : 室町期

区 分:平城(居舘)

遺  構 : 堀、土塁

訪城日:2015.6.27

お城の概要

垣見氏館は、南北100m、東西50mの長方形で、南東部の隣りが宮川陣屋となっている。

舘の西側と北側に土塁、南側と西側に堀が残っている。南側の川(堀に利用)に面して門があり、ここが虎口とされている。
明治初期には、舘の四囲に堀が巡り、土塁も南東部を除きほぼ一周していた。

東部の土塁は、元禄11年(1698)に宮川藩(堀田氏)の陣屋が設けられた時に、破壊されたと考えられている。

現在も子孫がお住まいで、10点あまりの中世文書を相伝され、虎口付近には門も構えられ、さすが旧家と思わせる雰囲気が漂うのが嬉しい。

歴 史

垣見氏は、京極氏被官で永享10年(1438)に本拠であった神崎郡垣見(東近江市)からこの地に分住して来た。
文明3年(1471)には、比叡山から山門領坂田荘の公文に任ぜられている。
、宮司町内の元宮川村に属する当字には垣見氏屋敷が知られている。

元宮川山王と称した楞厳院荘の総社日枝神社があり、地名を姓にもつ宮川氏の屋敷が有ったものと思われる。

永享10年には京極持高が同社の領地を安堵し、京極被官の神崎郡に本拠を持っていた垣見氏が分住してきて、文明3年垣見源次が坂田荘公文職の美作入道の押領を訴えて同職についたとする。

戦国期は、浅井氏に仕え忠実な家臣で、特に小谷城落城12日前にあたる元亀4年(1573)8月18日の浅井長政からの感状の存在は有名である。

館前で分流する十一川・中島川の両川は、下流の村々にとって重要な用水となるもので、その流れを堀として使う垣見氏は、用水管理者の役割をも担っていたと考えられ、土豪と村々の関係を知る貴重な資料とされる。

浅井氏の家臣である垣見助左衛門の屋敷があったという記録が残されている。また垣見氏は坂田荘の公文という立場でもあった。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

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奥村城(奥村但馬守古城址) 近江国(草津)

2015年07月01日 | 丘陵城

 

お城のデータ

所在地:草津市馬場町    map:http://yahoo.jp/Fyj-jD

区 分:丘陵城 

築城期:戦国期

築城者:奥村氏

現 状:山林

標 高:  比高差:30m

遺 構:郭・土塁・虎口・碑

目標地:願信寺

訪問日:2015.6.30

お城の概要

 道路脇の山裾に「奥村但馬守古城址」という石碑が建っています(城址碑は小さく草木に埋もれ分かり難いかも)。そこから10mも登ると虎口前の平坦地です。その背後の斜面が城跡である。

 手前に井戸後のような低い土塁に囲まれた窪地もありました。すぐに虎口です。土塁に挟まれたりっぱな平虎口です。なかに入ると、郭内は広く50m四方はありそうです。虎口があるのに郭内で削平されているのは虎口付近だけです。

 反対側まで行ってみますと低い土塁が巡り、一箇所後方の尾根に繋がっていますが、その先に遺構らしきものはないようです。 

遺構は、上下二段の削平地からなり、上段は西面に大土塁を設け中央に平入りの坂虎口が開いている。南北側面も土塁と空堀で固めている。

しかし、背後の上方には防御施設がなく自然地形に溶け込んでいる。また、郭内も虎口から数mが削平されるのみで、奥は傾斜地となり、築城途中で放棄されたように思える。

下段は概ね削平され平坦であるが、僅かな切岸を設けるのみで土塁は伴っておらず、防御性は不十分である。こうした遺構の中で上段虎口の立派さだけが極端に目立っている。

歴 史

 奥村但馬守古城趾と記された城址碑があり、同氏の旧居館である。

  青地氏の家臣、奥村但馬守の屋敷があったと伝えられ、居城を移したため屋敷内の守護神は八幡宮神社に移され、村の人々が代々守ってこられました。
 馬場町を見渡せる高台に願信寺があります。室町時代に創建され、江戸時代に入り願信寺と称されました。

青地氏は、佐々木氏支流の馬淵氏を祖とする。馬淵氏は、佐々木定綱の五男広定が蒲生郡馬淵庄を領して馬淵氏を称したことに始まる。この広定の四男基綱が鎌倉時代中頃に青地右馬助の養子となり青地氏を継ぎ、その子・忠綱がはじめて青地城を築き、近江源氏七頭の一人として湖南を支配したと伝えられる。しかし、青地氏の前身ははっきりしておらず、この地域が志津庄と呼ばれていたころの荘園領主とされる古代豪族小槻山君の荘園を預かる荘官を興起とするのでないかと思われている。
佐々木系になった青地氏は、金勝・田上・信楽方面と東海道・東山道、さらに琵琶湖岸の港を結ぶ交通の要衝を押さえ、また水利に恵まれた豊かな生産力を誇る領地を背景に勢力を振るい、忠綱の子・冬綱は近江守護代にもなり、佐々木六角氏一門の中でもとりわけ重きを成すようになっていった。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

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