城郭探訪

yamaziro

朝宮城 近江国(信楽・下朝宮)

2017年12月29日 | 丘陵城

写真の説明はありません。

お城のデータ

所在地:甲賀市信楽町下朝宮芝 map: https://yahoo.jp/PJ97wv

区 分:丘陵城(平山城)

現 状:森林(元茶畑)

築城期:南北朝期

築城者:鶴見俊純(朝宮城を築き)

城 主:多羅尾和泉守・多羅尾平内」の名を『江州佐々木南北諸氏帳』に記す。

遺 構:曲輪・土塁・竪堀・虎口・城跡碑

標 高:230m 比高差40m

目標地:下朝宮の八坂神社

駐車場:下朝宮の八坂神社横の空地

訪城日:2017.12.23

写真の説明はありません。

お城の概要 

 八坂神社の社務所の背後の丘陵城。

社務所の背後の丘陵へ登ると城跡碑建つ、更に登ると近年茶畑として使用してようで茶木が残る曲輪跡へ。

曲輪の南側には、土塁・腰廓・竪堀を確認出来る。

西側の尾根を遮断するように堀切と土塁が残存するが防衛には、効果は乏しい。

街道を守備する役割分担をしていたのであろう。

お城の歴史

南北朝時代を迎えると鶴見氏は南朝の味方して活躍、暦応三年(1340)、鶴見俊純は朝宮城を築き、山城国和束の米山一族との戦いを展開した。この戦いに多羅尾播磨入道は鶴見氏を後援、合戦は鶴見方の勝利となった。このことから、南北朝の争乱に際して多羅尾氏は南朝方として行動していたことがうかがわれる。以後、多羅尾氏と鶴見氏は拮抗するかたちで並立、小川の地の統治は交互に行われるということがつづいた。http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tarao_k.html

『江州佐々木南北諸氏帳』には、「甲賀郡 朝宮城主 佐々木隋兵 多羅尾和泉守 朝宮城主 箕作隋兵 多羅尾平内」の名を記す。

甲賀(こうか)市信楽(しがらき)町朝宮は、南北朝時代に郷名としてみえ、南北両軍の合戦があったという。

近世以来、茶の生産地として知られ、現在も宇治茶と同じ高級茶が栽培され朝宮茶として有名で、国道307号が通じ、裏山にはゴルフ場がある。

写真集:https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/966721256823783

    https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/966720003490575

画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然西側の堀切・土塁・竪堀画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然主郭部の虎口

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然八坂神社 

画像に含まれている可能性があるもの:屋外八坂神社の由緒

 当社は寛永十一年(1633年)当時の和束の地頭であった山口佐平太(多羅尾の出身)がその領地の一部である下朝宮の住民の安寧のため社殿を創始し、その後、元禄十三年(1700)に至り同じく地頭山口藤左衛門が社殿を再建次第に住民の崇敬を受けるようになった。

 従来より本殿・拝殿・社務所・鳥居等一応の礼拝施設は整備されていたので、昭和五十一年十月の神社の設立、神社の規則の制定、承認等一連の手続きを了し、神社本庁統理の承認を受け、滋賀県知事の認証を得て登記を完了し、名実ともに宗教法人八坂神社(やさかじんじゃ)として住民福祉のため諸種の祭祀を執行している。』

参考資料:遺跡ウォーカー・武家家伝「多羅尾氏」・八坂神社の由緒

本日の訪問ありがとうございす!!


仮称)江龍奥4城 近江国(米原・下丹生)

2017年12月25日 | 山城

画像に含まれている可能性があるもの:スケッチ画像に含まれている可能性があるもの:木、屋外画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:空、木、植物、屋外、自然

新発見の城の城 仮称)江龍奥1~4の城郭群

お城のデータ

所在地:米原市下丹生 江龍奥 map:ttps://yahoo.jp/neEv3Y

現 状:山林(山頂)

区 分:山城

築城期:南北朝期?

築城者:土肥氏?・江龍氏?

遺 構:土塁・段築曲輪

標 高:3817m 比高差:230m

目標地:下丹生古墳

駐車場:林道脇空地

訪城日:2017.12.2

写真集:https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/965496030279639

           https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/965497063612869

画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然

お城の概要

江龍奥1城は:標高321.4mの城「横たわる長大な土塁、多数の段築、一部石積みあり、多数の郭を配した巨大ななしろ城」

江龍奥2城は:標高約320mの「巨岩を利用した南北朝期の城郭を思わせる険しい山城」

江龍奥3城は:標高:375.6mの城「坂田郡の屈指の優れた縄張技巧、二重堀切を誇る驚くべき構造の城」

龍奥4城は:最高峰、標高:381.3mの城「陣城と推定される構造。仮称)枝折本城から続く林道から300mの切岸や横堀を構成する。」

この林道は上丹生や京極氏の隠れ城梓河内へ続き重要な間道と言える。

この江龍奥城:四城は長谷川博美氏・田畑喜久雄氏・末永清司氏・門川夫妻の城郭現地調査で確認された、新発見の城である。

お城の歴史

土肥六郎左衛門実勝とされ、源頼朝の家臣土肥次郎実遠の末葉で、足利尊氏の世に近江・美濃の野武士を平定して功があり。 箕浦庄の地頭として下向した御家人とされ、番場・多和田・醒井に分住し、箕浦庄の三土肥と称した。 『土肥八人衆・土肥八軒衆』は、醒井(醒飼)氏・野瀬氏・江籐氏・野勢氏・池田氏・ニ国氏・籾居氏・堀氏の八軒を云う。 

根本地頭職土肥氏とその被官(家臣)江龍氏等が割拠した城郭群の可能性。

米原町下丹生小字江龍・江龍前・江龍奥の名がある。土肥氏の被官で土豪江龍の根幹地と推測される。

地頭土肥氏の敵対勢力の、京極政経の山岳城郭河内梓城・男鬼城・桃原城を意識した城郭群?

・『滋賀県中世城郭分布調査6 旧坂田郡の城 P115・P300』に、旧米原町下丹生 江竜に 城郭関係地名57-元城

江龍奥4城 

12月2日も見学会は、6城でしたが、・・・実に、仮称)小町谷城・仮称)江龍奥1城も隣の頂部で違いは、長谷川博美氏の資料、解説があっても解かり難い?此の丹生谷の山上曲輪は驚き!画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、植物、空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人、立ってる、木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:スケッチ画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然

参考資料:城歩会現地見学会説明資料『滋賀県中世城郭分布調査 旧坂田郡の城』

本日の訪問ありがとうございす!!


仮称)江龍奥3城 近江国(米原・下丹生)

2017年12月25日 | 山城

写真の説明はありません。

新発見の城の城 仮称)江龍奥1~4の城郭群

お城のデータ

所在地:米原市下丹生 江龍奥 map:https://yahoo.jp/GaBsym

現 状:山林(山頂)

区 分:山城

築城期:南北朝期?

築城者:土肥氏?・江龍氏?

遺 構:石垣・竪堀・土塁・段築曲輪

標 高:375.6m 比高差:150m

城 域:南北182m

目標地:下丹生古墳

駐車場:林道脇空地

訪城日:2017.12.2

写真集:https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/965413680287874

画像に含まれている可能性があるもの:木、屋外、自然

お城の概要

江龍奥1城は:標高321.4mの城「横たわる長大な土塁、多数の段築、一部石積みあり、多数の郭を配した巨大ななしろ城」

龍奥3城は:標高約320mの「巨岩を利用した南北朝期の城郭を思わせる険しい山城」

江龍奥3城は:標高:375.6mの城「坂田郡の屈指の優れた縄張技巧、二重堀切を誇る驚くべき構造の城」

江龍奥4城は:最高峰、標高:381.3mの城「陣城と推定される構造。仮称)枝折本城から続く林道から300mの切岸や横堀を構成する。」

この林道は上丹生や京極氏の隠れ城梓河内へ続き重要な間道と言える。

この江龍奥城:四城は長谷川博美氏・田畑喜久雄氏・末永清司氏・門川夫妻の城郭現地調査で確認された、新発見の城である。

お城の歴史

土肥六郎左衛門実勝とされ、源頼朝の家臣土肥次郎実遠の末葉で、足利尊氏の世に近江・美濃の野武士を平定して功があり。 箕浦庄の地頭として下向した御家人とされ、番場・多和田・醒井に分住し、箕浦庄の三土肥と称した。 『土肥八人衆・土肥八軒衆』は、醒井(醒飼)氏・野瀬氏・江籐氏・野勢氏・池田氏・ニ国氏・籾居氏・堀氏の八軒を云う。 

根本地頭職土肥氏とその被官(家臣)江龍氏等が割拠した城郭群の可能性

米原町下丹生小字江龍・江龍前・江龍奥の名がある。土肥氏の被官で土豪江龍の根幹地と推測される。

地頭土肥氏の敵対勢力の、京極政経の山岳城郭河内梓城・男鬼城・桃原城を意識した城郭群?

・『滋賀県中世城郭分布調査6 旧坂田郡の城 P115・P300』に、旧米原町下丹生 江竜に 城郭関係地名57-元城 

江龍奥2城 画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然

12月2日も見学会は、6城でしたが、・・・実に、仮称)小町谷城・仮称)江龍奥1城も隣の頂部で違いは、長谷川博美氏の資料、解説があっても解かり難い?此の丹生谷の山上曲輪は驚き!画像に含まれている可能性があるもの:立ってる(複数の人)、木、植物、屋外、自然写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然

参考資料:城歩会現地見学会説明資料『滋賀県中世城郭分布調査 旧坂田郡の城』

本日の訪問ありがとうございす!!

 



仮称)江龍奥2城 近江国(米原・下丹生)

2017年12月25日 | 山城

写真の説明はありません。

新発見の城の城 仮称)江龍奥1~4の城郭群

お城のデータ

所在地:米原市下丹生 江龍奥 map:ttps://yahoo.jp/neEv3Y

現 状:山林(山頂)

区 分:山城

築城期:南北朝期?

築城者:土肥氏?・江龍氏?

遺 構:土塁・段築曲輪

標 高:320m 比高差:150m

目標地:下丹生古墳

駐車場:林道脇空地

訪城日:2017.12.2

写真集:https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/964940987001810画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然

お城の概要

江龍奥1城は:標高321.4mの城「横たわる長大な土塁、多数の段築、一部石積みあり、多数の郭を配した巨大ななしろ城」

龍奥2城は:標高約320mの「巨岩を利用した南北朝期の城郭を思わせる険しい山城」

江龍奥3城は:標高:375.6mの城「坂田郡の屈指の優れた縄張技巧、二重堀切を誇る驚くべき構造の城」

江龍奥4城は:最高峰、標高:381.3mの城「陣城と推定される構造。仮称)枝折本城から続く林道から300mの切岸や横堀を構成する。」

この林道は上丹生や京極氏の隠れ城梓河内へ続き重要な間道と言える。

この江龍奥城:四城は長谷川博美氏・田畑喜久雄氏・末永清司氏・門川夫妻の城郭現地調査で確認された、新発見の城である。

お城の歴史

土肥六郎左衛門実勝とされ、源頼朝の家臣土肥次郎実遠の末葉で、足利尊氏の世に近江・美濃の野武士を平定して功があり。 箕浦庄の地頭として下向した御家人とされ、番場・多和田・醒井に分住し、箕浦庄の三土肥と称した。 『土肥八人衆・土肥八軒衆』は、醒井(醒飼)氏・野瀬氏・江籐氏・野勢氏・池田氏・ニ国氏・籾居氏・堀氏の八軒を云う。 

根本地頭職土肥氏とその被官(家臣)江龍氏等が割拠した城郭群の可能性

米原町下丹生小字江龍・江龍前・江龍奥の名がある。土肥氏の被官で土豪江龍の根幹地と推測される。

地頭土肥氏の敵対勢力の、京極政経の山岳城郭河内梓城・男鬼城・桃原城を意識した城郭群?

・『滋賀県中世城郭分布調査6 旧坂田郡の城 P115・P300』旧米原町下丹生 江竜に 城郭関係地名57-元城

 江龍奥2城 

12月2日も見学会は、6城でしたが、・・・実に、仮称)小町谷城・仮称)江龍奥1城も隣の頂部で違いは、長谷川博美氏の資料、解説があっても解かり難い?此の丹生谷の山上曲輪は驚き!画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然

参考資料:城歩会現地見学会説明資料『滋賀県中世城郭分布調査 旧坂田郡の城』

本日の訪問ありがとうございす!!


江龍奥1城 近江国(米原・下丹生)

2017年12月25日 | 山城

写真の説明はありません。

新発見の城の城 仮称)江龍奥1~4の城郭群

お城のデータ

所在地:米原市下丹生 江龍奥 map:https://yahoo.jp/qUuhuR

現 状:山林(山頂)

区 分:山城

築城期:南北朝期?

築城者:土肥氏?・江龍氏?

遺 構:土塁・段築曲輪

標 高:321.4m 比高差:150m

目標地:下丹生古墳

駐車場:林道脇空地

訪城日:2017.12.2

写真集:https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/964368637059045

画像に含まれている可能性があるもの:木、屋外、自然

お城の概要

江龍奥1城は:標高321.4mの城「横たわる長大な土塁、多数の段築、一部石積みあり、多数の郭を配した巨大ななしろ城」

江龍奥2城は:標高約320mの「巨岩を利用した南北朝期の城郭を思わせる険しい山城」

江龍奥3城は:標高:375.6mの城「坂田郡の屈指の優れた縄張技巧、二重堀切を誇る驚くべき構造の城」

江龍奥4城は:最高峰、標高:381.3mの城「陣城と推定される構造。仮称)枝折本城から続く林道から300mの切岸や横堀を構成する。」

この林道は上丹生や京極氏の隠れ城梓河内へ続き重要な間道と言える。

この江龍奥城:四城は長谷川博美氏・田畑喜久雄氏・末永清司氏・門川夫妻の城郭現地調査で確認された、新発見の城である。

お城の歴史

土肥六郎左衛門実勝とされ、源頼朝の家臣土肥次郎実遠の末葉で、足利尊氏の世に近江・美濃の野武士を平定して功があり。 箕浦庄の地頭として下向した御家人とされ、番場・多和田・醒井に分住し、箕浦庄の三土肥と称した。 『土肥八人衆・土肥八軒衆』は、醒井(醒飼)氏・野瀬氏・江籐氏・野勢氏・池田氏・ニ国氏・籾居氏・堀氏の八軒を云う。 

根本地頭職土肥氏とその被官(家臣)江龍氏等が割拠した城郭群の可能性

米原町下丹生小字江龍・江龍前・江龍奥の名がある。土肥氏の被官で土豪江龍の根幹地と推測される。

地頭土肥氏の敵対勢力の、京極政経の山岳城郭河内梓城・男鬼城・桃原城を意識した城郭群?

『滋賀県中世城郭分布調査6 旧坂田郡の城 P115・P300』に、旧米原町下丹生 江竜に 城郭関係地名57-元城

画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然

写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然

江龍奥1城 

12月2日も見学会は、6城でしたが、・・・実に、仮称)小町谷城・仮称)江龍奥1城も隣の頂部で違いは、長谷川博美氏の資料、解説があっても解かり難い?此の丹生谷の山上曲輪は驚き!

参考資料:城歩会現地見学会説明資料『滋賀県中世城郭分布調査 旧坂田郡の城』

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香楽宮跡 東山遺跡 現地説明会

2017年12月23日 | 発掘調査

香楽宮跡 東山遺跡 現地説明会

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、屋外、自然写真の説明はありません。

  滋賀県甲賀市教育委員会は20日、周囲に多くの紫香楽宮関連遺跡がある同市信楽町黄瀬の東山遺跡で、南北約27メートル、東西約15メートルの範囲で掘っ立て柱を埋め込んだとされる34カ所の柱穴跡の列が見つかったと発表した。近くの宮町遺跡(同町宮町)で見つかった宮殿跡など中枢施設に匹敵する最大規模の建物跡で、紫香楽宮が離宮だった頃の宮殿か大仏造立の関連施設の可能性があるとしている。

 見つかったのは、南北は2・9メートル間隔で10列、東西は4・5メートル~5・9メートル間隔で4列の柱穴跡。柱を据えるために掘った柱掘方が、中央2列は平均で1辺1・2メートルほど、外側2列はそれより小さく、南北に細長い屋根で東西に廂(ひさし)が伸びる構造の建物と想定できるという。床を支える束(つか)柱の跡もあり、全面床張りだったとみている。土器などの遺物の出土がなく、建物の性格は不明。
 紫香楽宮は742~45年に聖武天皇が築いた。東山遺跡は新名神高速道路信楽インターチェンジに近い丘陵地にあり、7~9月の試掘で大型柱穴跡が見...つかり、10月から追加調査を進めていた。北約1・5キロに宮町遺跡、南約300メートルに大仏造立が伝わる甲賀寺跡がある。東側には大規模な鋳造設備遺構がある鍛冶屋敷遺跡、北側に道路遺構などが発見されている。
 栄原永遠男大阪市立大名誉教授(日本古代史)は「紫香楽宮は短期間だったが多くの施設が作られ、周辺にいろいろな遺跡が眠っている可能性が高まった。聖武天皇が片手間でなく懸命に都を作ろうとしていたことが分かる」と話す。【京都新聞】写真の説明はありません。写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:テキスト

画像に含まれている可能性があるもの:空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:屋外画像に含まれている可能性があるもの:屋外画像に含まれている可能性があるもの:屋外画像に含まれている可能性があるもの:空、木、草、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:屋外

近くの鍛治屋敷地区遺跡画像に含まれている可能性があるもの:屋外写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:テキスト画像に含まれている可能性があるもの:テキスト、屋外、食べ物

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/973294652833110

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枝折本城  近江国(米原・枝折)

2017年12月19日 | 山城

仮称)枝折本城・・新発見の城

写真の説明はありません。

お城のデータ

所座地:米原市枝折地区 小字長尾 孫字 本城 map:https://yahoo.jp/8_E1qe

区 分:山城

現 状:森林

築城期:織豊期末期

築城者:土肥吉左衛門か?

城 主:土肥六郎衛の三男 吉左衛門

遺 構:曲輪・登り土塁・箱掘・堀切・竪堀

標 高:212m  比高差20m(林道より)

目標地:枝折地区の流星火薬庫

駐車場:林道脇の流星火薬庫の空地

訪城日:2107.12.10

写真集:https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/960356477460261

    https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/960358140793428

お城の概要

米原市枝折集落の「天神社の湧水」を抜け、南西に進む林道がある。林道脇の流星火薬庫の空地に駐車して林道進むと明るくなった所が、両側の城跡である。

 林道で分断された、谷側は比高差5m位の曲輪5であるが日当たり良くて雑草で遺構は解かりずらい。反対側から曲輪4に入ると人口林で、遺構は確認出来きた。箱掘・曲輪・登り土塁・畝状竪堀・等素晴らしい城郭遺構が残る。

『滋賀県中世城郭分布調査6 旧坂田郡の城』のにも、掲載されていない新発見の城郭遺構です

『近江坂田郡志』『滋賀県中世城郭分布調査』に「米原町枝折地区 小字長尾 孫字 本城」を記す。枝折地区の小字城戸口から孫字本城へ。2010年6月16日、長谷川博美氏・田畑喜久雄氏で【新発見した】。その後長谷川博美氏・田畑喜久雄氏が現地を踏査・作図:長谷川博美氏がした。

・旧米原町枝折地区 城郭関係地名『滋賀県中世城郭分布調査6 旧坂田郡の城 P115・P300』

51ー屋敷 52ー元城 53ー城戸口 54ー殿ノ上 55ー本城

旧米原町下丹生地区 城郭関係地名 57-元城画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、木、屋外、自然

写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人、立ってる、植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然

石田三成の恭兵屯勢伝説のある、米原市下丹生坂口の「石田の森」の上にある森林に2009年『戦乱の空間8号』で、慶長期と推測される「狼煙穴数か所」確認されている。

お城の歴史

城主や築城者・築城期を確定する文献資料は残念ながら存在しがない。『村の由来と村の発展』米原町史編纂委員会の資料に「戦いに敗れた名のある武将が枝折に陰棲しようした、平内の四方助けなるものが、更に東の山深い谷間その落人を案内したとある」。当地は小字平内のはるか山影にある城である。『改訂近江坂田郡志』は、「関ケ原に石田方として参陣した枝折城主・土肥六郎衛の長男 市太郎・次男 市次郎は戦死し、土肥六郎衛の三男 吉左衛門は陰棲し慶長18(1613)年に当地で他界した」とあり、当城は土肥六郎衛の三男 吉左衛門は陰棲した隠れ城の可能性推測される。

土肥六郎左衛門実勝とされ、源頼朝の家臣土肥次郎実遠の末葉で、足利尊氏の世に近江・美濃の野武士を平定して功があり。

 箕浦庄の地頭として下向した御家人とされ、番場・多和田・醒井に分住し、箕浦庄の三土肥と称した。

 『土肥八人衆・土肥八軒衆』は、醒井(醒飼)氏・野瀬氏・江籐氏・野勢氏・池田氏・ニ国氏・籾居氏・堀氏の八軒を云う。 

駐車場・・・ここから林道登ります。

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、屋外、自然登り土塁画像に含まれている可能性があるもの:立ってる(複数の人)、木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、空、屋外、自然枝折城(山城)方面

写真の説明はありません。枝折本城・・著作権🄫踏査・作図:長谷川博美氏

参考資料:城歩会 枝折城見学会資料(2006年 長谷川博美氏・田畑喜久雄の新発見の枝折本城)。『村の由来と村の発展』米原町史編纂委員会

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籾居屋敷 近江国(米原市(旧近江町)戸)

2017年12月17日 | 居城

写真の説明はありません。

遺跡ウォーカーの比定地

お城のデータ

所在地:米原市顔戸町(旧坂田群近江町顔戸) 

   :遺跡ウォーカーの比定地は、向山map:http://yahoo.jp/5wJZCG

区 分:居館

現 状:宅地・向山(向山砦)、山麓(森林)

遺 構:屋敷跡・土塁痕・平削地

築築期:室町期

築築者:籾居氏

目標地:神郷集会所

訪城日:2017.12.9

お城の概要

 鎌刃城主土肥氏の被官が大字顔戸に住したと伝え、今も末裔が顔戸に住んでおられる。この現屋敷面積は約一反であり、北に日撫山をひかえ南は巾1.5m程の河川が流れる。東にはかつて巾2m、高さ1m程の大土塁が築かれていたと云う(今は駐車場となっている)。また、この土塁のとり付いた日撫山麓にはその痕跡認められると共に山の斜面三ヶ所に郭状の平坦面が存在する。更に東方100m余りの通称向山北側斜面、及び川と平地をへだて50m程向う側の日撫山の小舌状突出部(忠魂碑が建つ)にも郭状削平地が認められる。この削平地が点々と西方へと続き、籾居氏背後の郭状地につながる。また、現籾居家の南100m程の所には小溝(幅60cm)が複雑に曲がりながら廻る一画が存在する。

山麓の郭状平削地は、日撫神社の関わりかもしれない?。

お城の歴史

土肥六郎左衛門実勝とされ、源頼朝の家臣土肥次郎実遠の末葉で、足利尊氏の世に近江・美濃の野武士を平定して功があり。

 箕浦庄の地頭として下向した御家人とされ、番場・多和田・醒井に分住し、箕浦庄の三土肥と称した。

『土肥八人衆・土肥八軒衆』は、醒井(醒飼)氏・野瀬氏・江籐氏・野勢氏・池田氏・ニ国氏・籾居氏・堀氏の八軒を云う。

鎌刃城主土肥氏の被官籾居氏が箕浦庄顔戸村に屋敷を構えいた写真の説明はありません。

画像に含まれている可能性があるもの:家、木、植物、空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外


遺跡ウォーカーの比定地は通称 「向山」

織豊期には、顔戸村の通称[向山は浅井長政の本陣が置かれた]

浅井長政によって、改変、近世には公園として整備

箕浦城の戦い・・・・向山砦(浅井の本陣)画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/959465850882657

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査6旧坂田郡の城』、向山砦(浅井の本陣

本日の訪問ありがとうございす!!


田中屋敷 近江国(近江町)

2017年12月17日 | 居館

写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然

お城のデータ

所在地:米原市(旧坂田郡近江町)顔戸 map:https://yahoo.jp/-9RvbV

区分:居館

現 状:竹林

築城期:室町期

築城者:田中氏

遺 構:屋敷跡・土塁

目標地:聞法寺

駐車場:聞法寺の駐車場

訪城日:2017.12.9

お城の概要

 田中屋敷については、同字に住む泉朝美氏所有の絵図(永禄年の写し)を手掛り、西1.5mの水路、北に巾2~3mの、高さ1mの土塁の残存、東は日撫山に囲まれた一画を比定する。

又、日撫山を取巻く一帯には随所に土塁状の道が山に向かって伸びる。

お城の歴史

『淡海国小間攫』には、「坂田郡 顔戸村 日撫大明神(中略) 又八家ノ人ト云、姓氏古ヨリ有之由、日撫社ノ棟札ニアルヨシ、田中氏・須戸氏・森氏・石井氏・粕淵氏・久保田氏・糠居氏・羽渕氏等ナリ」と記す。

京極氏から分派した高島田中氏からさらに分派したと伝わる田中氏、嶋記録の佐和山合戦に記載として「田中弥庄司八ノ十一入顔戸住人八兵衛の親地」と記す。長岡住の田中氏とも関わりがあるか?また、同記録に永禄十二年七月十二日付けの浅井長政から嶋若狭入道に宛てた手紙に際し「・・・在所飯村は敵の浅妻ちかけれハ、顔戸の物も松村に嶋が妻子ハ置にけり・・・」と、嶋の妻子を松村という所にかくまった事が記されている、松村は、大字内の北はずれで、田中屋敷に差程離れていない。

日撫神社の由緒 [鎮座地:滋賀県米原市顔戸77]

 武将の尊崇も厚く、佐々木四郎高綱は、常に当社を敬い武運長久を祈願され、太刀並に生食馬(いけづきうま)の鞍を奉納される。

後小松天皇の応永13年京極高光は、社殿の造営と大伽藍を建立されたが、数度の兵火に罹り、織田信長叡山諸院を焼亡し戦火北上するにより、神官、僧侶等これを恐れて自焼したため、古記録、宝物悉く焼失した。享保6年現在の社殿を修営され、拝殿は寛政年間に建てられたものである。また正保3年北小路の田の中より古鏡が発掘される。

写真の説明はありません。田中屋敷画像に含まれている可能性があるもの:屋外

画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然この日は、田中屋敷の竹林の伐採直後で、遺構は、屋敷跡や土塁が確認出来た。

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、空、屋外、自然塁が残る画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然

画像に含まれている可能性があるもの:植物、空、屋外聞法寺画像に含まれている可能性があるもの:植物、草、屋外

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/959451994217376

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査6旧坂田郡の城』、『嶋記録』、日撫神社の由緒

本日の訪問ありがとうございす!!


関ケ原前後の石垣跡が出土 京都・伏見城、激戦と復興示す

2017年12月17日 | 発掘調査

高熱で赤く変色した石が残る豊臣期のものとみられる石垣画像に含まれている可能性があるもの:屋外

画像に含まれている可能性があるもの:屋外

 豊臣秀吉が造営した伏見城に隣接する武家屋敷跡(京都市伏見区桃山町)の発掘調査で、関ケ原の戦いの前哨戦で焼けた石垣跡と、後に徳川家康が再建したとみられる石垣跡が見つかり、民間調査会社が14日発表した。豊臣期と徳川期の遺構が同時に見つかることは珍しく、研究者は「激戦の様子や、家康による復興過程を示す貴重な発見」としている。

 伏見城は、1596年の慶長伏見地震で宇治川近くにあった秀吉の指月伏見城が倒壊した後、その北東の木幡山に建てられた。1600年、関ケ原の戦いの前哨戦で、籠城する徳川方を石田三成方の西軍が攻撃し落城。関ケ原の戦いに勝利した家康が再建し、西日本支配の拠点とした。城下町も並行して再建された。

 画像に含まれている可能性があるもの:屋外調査地は城の内堀の外側で、徳川期は家康の四男松平忠吉の邸宅があったとされる。西側斜面で石垣跡を確認。石は抜かれていたが、石垣と土の間に詰める裏込め石が見つかった。さらに東に2メートル掘り進むと、別の石垣跡があり、石は赤く変色し、一部は表面が割れていた。周囲にも焼け土があり、落城時の激しい炎にさらされた痕跡とみられる。

 調査した四門京都支店(下京区)の辻広志主任調査員は「最初に見つかった石垣跡は、豊臣期のものを覆い隠すように造られ、徳川期の再建と考えられる。豊臣期と徳川期がはっきり分かる事例は少なく、石の種類や石垣の構造など比較研究につながる」と期待する。

 山田邦和同志社女子大教授(都市史学)は「2メートルも石垣をずらしており、徳川期の再建が、豊臣期の単なる再利用でなかったことを示している。不明な点が多い城下町の変遷を知る上で貴重な遺構だ」と注目する。

 発掘調査は終了しており、現地説明会はない。

京都新聞 2017.12.15

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/959194774243098


仮称)小町谷城 近江国(米原・枝折/上丹生)

2017年12月12日 | 山城

新発見の城 仮称)小町谷城

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上

仮称)小町谷城】の城位置

『滋賀県中世城郭分布調査6 旧坂田郡の城 P115・P300』画像に含まれている可能性があるもの:スケッチ

 旧米原町下丹生地区 城郭関係地名 57-元城 滋賀県中世城郭分布調査

画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然

お城のデータ

所在地:米原市下丹生町小字元城 map:https://yahoo.jp/y5csFc

現 状:山頂(森林)

区 分:山城

築城期:南北朝期

築城者:土肥氏?江籐氏?

遺 構:段築廓(帯廓)・堀切・竪堀・犬張り

標 高:318m  比高差:150m

目標地:下丹生古墳

駐車場:県道・林道添いの空地

訪城日:2017.12.2・2017.12.10

写真集:https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/962524510576791

    https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/962525340576708

お城の概要

小町谷城は、滋賀県中世城郭分布調査にも掲載されていない新発見の城。仮称)小町谷城とする。

枝折城の範疇とされていますが、枝折城とは全く異なる遺構や距離が隔絶している。泉良之氏と長谷川博美氏が平成22年に新城郭を踏査調査・確認し、実質的な平面構造解明は田畑喜久雄氏も加わり・踏査図を作成された。また、元滋賀県中世城郭分布調査事務局(元名古屋女子大教授)の丸山竜平博士も視察された。

 枝折城から直線で350mあり、別の城郭遺構であろう。1は標高:318mもあり一段高い建物基壇と思しき城内の中核を認める。檀築には横矢等の微細な縄張技巧を認め、1から南へ同心円状、あるいは階段状に帯廓を2段~5段明確に築く。頂部1曲郭と南2曲郭の段築遺構を持つ。

また、北面は頂部1曲輪~8曲輪まで階段状んぼ帯廓や9の腰廓が残存する。9郭は出撃施設「馬出し機能」の可能性を持つ。9郭の西面は緩やか、しかし岩盤や自然石を立石のように配した細尾根が存在するが、詳細に観察すると要所要所に段築を加え要害地形と造作されている。

南4の帯廓には堀切・竪堀へとなって遮断、空堀の残存している。

お城の歴史

詳細不明ながら、土肥六郎左衛門実勝とされ、源頼朝の家臣土肥次郎実遠の末葉で、足利尊氏の世に近江・美濃の野武士を平定して功があり。

 箕浦庄の地頭として下向した御家人とされ、番場・多和田・醒井に分住し、箕浦庄の三土肥と称した。

土肥八人衆・土肥八軒衆』は、醒井(醒飼)氏・野瀬氏・江籐氏・野勢氏・池田氏・ニ国氏・籾居氏・堀氏の八軒を云う。

・江戸期彦根藩の御鷹餌割奉行 塩野義棟の編纂した地志『淡海国小間攫』寛政4年(1792)甥田中信精が序を有している。同署には「枝折村往古土肥譜代の臣、池田氏、江籐氏、野瀬氏の姓名コレアリト聞」とある。

・『江州佐々木南北諸氏帳』には番場、醒井、多和田にそれぞれ土肥氏が割拠したとある。

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上【仮称)小町谷城】の城域

写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然下丹生地区から谷筋を北の尾根まで急斜を登ると、既に小町谷城の西端の岩場が続く。

小町谷城の西尾根遺構

画像に含まれている可能性があるもの:木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然

画像に含まれている可能性があるもの:木、屋外、自然南3廓の巨岩

画像に含まれている可能性があるもの:空、屋外、自然米原市下丹生に県道17号沿いから、枝折城、小町谷城尾根遺構を遠望

参考資料:城歩会見学会資料、『淡海国小間攫』『江州佐々木南北諸氏帳』

本日の訪問ありがとうございす!!


枝折(しおり)砦(土肥城)と林蔵坊  近江国(米原 枝折)

2017年12月12日 | 

 

お城のデータ

所在地:米原市(旧坂田郡米原町)枝折町 map:http://yahoo.jp/dpAd_x

別 名:土肥城

現 状:山林

区 分:砦

築城期:室町期

築城者:土肥氏

遺 構:堀切・土塁・曲郭

標 高:190m   比高差:50m

目標地:正福寺・林蔵坊

駐車場:集落の手前のグランドに

訪城日:2015.4.12・2017.12.10

お城の概要 

鉄塔で壊された砦

正福寺林蔵坊は南側の山裾に位置する。正福寺東側から城道に入り、尾根に出て左手へ尾根筋を10分程登ると城(砦)跡に至る。城(砦)跡の立地が集落の背後であることから、在地領主の詰城(砦)か?。

林蔵坊は、綺麗に手入れされた庭を通り、城道を下りてきた。

正福寺横から城道を登る

中腹の削平地(西へ正福寺・林蔵坊の上まで)

歴 史

 枝折城は、小字造座の一小山にあり、城主が土肥六郎左衛門実勝とされ、源頼朝の家臣土肥次郎実遠の末葉で、足利尊氏の世に近江・美濃の野武士を平定して功があり。

土肥六郎左衛門実勝とされ、源頼朝の家臣土肥次郎実遠の末葉で、足利尊氏の世に近江・美濃の野武士を平定して功があり。

  箕浦庄の地頭として下向した御家人とされ、番場・多和田・醒井に分住し、箕浦庄の三土肥と称した。

 『土肥八人衆・土肥八軒衆』は、醒井(醒飼)氏・野瀬氏・江籐氏・野勢氏・池田氏・ニ国氏・籾居氏・堀氏の八軒を云う。

  このうち「醒井殿と称する系統が枝折に住しており、とある」であったとされる。

『淡海国木間攫』には、「坂田郡 枝折村 往古土肥次郎居城セシ事有ト云、其譜代ノ臣池田氏・江龍氏・能勢氏ノ姓名ノコレリト聞、」と記す。

鉄塔に向け頂部、土肥城へ

林蔵坊へ←下りる

林蔵坊正福寺の背後に。

カーブミラーを右へ八幡神社から遠望・・・正福寺・鉄塔八幡神社地蔵堂駐車位置(グランド)

2017.12.10再訪

枝折城より、枝折砦・林蔵坊へ

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/962526550576587

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:空、雲、屋外画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然写真の説明はありません。

画像に含まれている可能性があるもの:1人、植物、屋外画像に含まれている可能性があるもの:立ってる(複数の人)、木、屋外、自然

画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然山麓館か跡か?

林蔵坊:https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/962704073892168

    https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/962526920576550

画像に含まれている可能性があるもの:草、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、屋外画像に含まれている可能性があるもの:家、木、屋外、自然

画像に含まれている可能性があるもの:1人、植物、屋外画像に含まれている可能性があるもの:屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然

画像に含まれている可能性があるもの:3人、立ってる(複数の人)、屋外

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』、『淡海国木間攫』

         本日も訪問、ありがとうございました!!


野村城 近江国(草津)

2017年12月08日 | 陣所

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、空、屋外、自然

お城のデータ

所在地:草津市野村町6 map: https://yahoo.jp/TwFuCm
現 状:公園・宅地
区 分:平城
築城期:織豊期
築城者:野村氏
城 主:野村丹後守
目標地:安羅神社
駐車場:安羅神社境内
訪城日:2017.12.7
お城の概要
草津市野村6丁目の野村セントラルパークが、遺跡ウォーカーの比定地である。
近年商業開発や宅地開発が進み、遺構はないが5丁目の安羅神社の社殿碑に「永禄中野村丹後守高家社殿を修造して武運を祈ると見ゆ。」と記す。草津の野村は永録年間は野村氏が領主であった。 画像に含まれている可能性があるもの:空、屋外
画像に含まれている可能性があるもの:木、屋外
お城の歴史
草津市野村5丁目には、安羅(やすら)神社がある。
鳥居の横の社伝碑ある、「慶運元年(704)三月、牛頭天王この地に降臨なり、これ当社の創なり」とある。「永禄中野村丹後守高家社殿を修造して武運を祈ると見ゆ。」
社伝の終わりには、「野村、穴村に安羅神社、十里に小安羅神社の鎮座あるは、安羅郷の古へを推想するに足る」とある。
御由緒
徃古この地一帯は安良の里、または安良郡ともよばれていた。栄花物語に引く長和元年大嘗会歌にも「もろ人の願ふ心の近江なる安良の里の安らけくして」とあり、また近江国注進風土記(山槐記元暦元年)にも「安良郡 栗太」とみえている。
明細書によれば創祀年代不詳であるが、社伝によると文武天皇の慶雲元年に牛頭天皇が、この地に降臨された、時の国司がすぐ天皇に奏聞し、この地に神籬をたてて祀り、国土安泰・疫病退散・五穀豊穣を祈った。これが当社の創立と考えられる。
又後村上天皇の興国五年に鈴鹿より速佐須良比鵝ε桂?型世瞭鹵譴凌昔遒鮃艫?気譴燭氾舛┐襦1箆叔?屬北鄲蔀宛綣藕皺箸?俄討掘?隸芯控廖?丗紅鳳匹魑Г蠎凖造鮟ぢい靴拭?修慮緻鄲執饅馭圭??海涼呂飽椶蠎劼鮗蕕辰慎?燭?△襦”
明治九年村社に加列。
本殿・境内建物画像に含まれている可能性があるもの:屋外
〔本殿〕入母屋造唐破風付 間口一間三尺 奥行二間三尺
〔拝殿〕入母屋造 間口三間 奥行三間
 
参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査3「旧野洲・栗太郡の城」』・遺跡ウォーカー・安羅神社の社伝碑・滋賀県神社庁HP
本日の訪問ありがとうございす!! 

枝折城 近江国(米原・枝折)

2017年12月03日 | 山城

下丹生から見学会開始 谷筋を尾根まで直登です。

やっと尾根まで!

此処から【枝折城】の城域

写真の説明はありません。

滋賀県中世城郭分布調査【枝折城】

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然

お城のデータ

所在地:米原市(旧坂田郡米原町)枝折町 map:http://yahoo.jp/dpAd_x

別 名:土肥城

現 状:山林

区 分:山城

築城期:室町期

築城者:土肥氏

城 主:土肥六郎左衛門実勝土肥次郎

遺 構:土塁・櫓台・長土橋・堀切・竪土塁・竪堀、

標 高:263.8m   比高差:130m

城 域:150m×50m

訪城日:2017.12.2・2017.12.10

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/962522943910281

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/951981181631124

お城の概要

 南東尾根から見学会の資料を手に尾根上部から、尾根を削り取り、幅1m弱、長さ25m程の長土橋が残る(尾根筋に厳重な防御)。

城外に大きな堀切2つ・小さな堀切1つ。標高263.8m・比高130mの尾根先端に位置する。

主郭の規模は45m×15mで南と東側に土塁を、南端は一段高く櫓台。主郭の西側及び南東側は尾根続きで、堀切で切断。

主郭の北側は削平地を巨大な堀切で切断。この堀切より北側は自然地形が30m程続いて、2段の削平地。下段の削平地は土塁で囲む。
城跡の立地が集落の背後の山に立地し、構造が極めて小規模山城で、典型的な在地領主の詰城か?。小規模な城郭であるが、防御機能の強い城。

お城の歴史

 土肥六郎左衛門実勝の居城。

源頼朝の家臣土肥次郎実遠の末葉で、足利尊氏の世に近江・美濃の野武士を平定して功があり、

箕浦庄の地頭として下向した御家人とされ、番場・多和田・醒井に分住し、箕浦庄の三土肥と称した。

このうち醒井殿と称する系統が枝折に住しており、枝折城の城主であったとか。

『淡海国木間攫』には、「坂田郡 枝折村 往古土肥次郎居城セシ事有ト云、其譜代ノ臣池田氏・江龍氏・能勢氏ノ姓名ノコレリト聞、」と記す。

滋賀県中世城郭分布調査・【枝折城】鳥瞰図:作図:長谷川博美氏

写真の説明はありません。長谷川博美氏作図

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、屋外、自然最初の堀切(50cmの堆積)紅白の鉄筋で測っかて!

画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然櫓台東下の堀切(30㎝の堆積)画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然南下を西側に回り

画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然主郭部へ登り

画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然土塁

画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然櫓台です

画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然5段曲輪が

画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然東側に土塁

画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外、自然虎口(炭釜に使用され壊されていますが)

画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然

 

2月10日再訪

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、植物、屋外、自然

虎口

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査6 旧坂田郡の城』、『見学会資料(城歩会:長谷川博美氏作成)』、遺跡ウォーカー(枝折城/土肥城)、『淡海国木間攫』

本日の訪問ありがとうございす!!