探訪「八幡 秀次の城と城下町」 2 20111217
「うだつ」と「見越しの松」
・うだつは、日本家屋の屋根に取り付けられる小柱、防火壁、装飾。本来は梲と書き、室町以降は卯建・宇立などの字が当てられた。
・見越しの松の用語解説 - 塀ぎわにあって外から見えるようにした松の木。
旧 伴邸
探訪「八幡 秀次の城と城下町」 2 20111217
「うだつ」と「見越しの松」
・うだつは、日本家屋の屋根に取り付けられる小柱、防火壁、装飾。本来は梲と書き、室町以降は卯建・宇立などの字が当てられた。
・見越しの松の用語解説 - 塀ぎわにあって外から見えるようにした松の木。
旧 伴邸
八幡堀
八幡堀
城下町を見学することで城と城下町が一体となった八幡堀
1585年 18才で近江国43万石を与えられ八幡山城を築城、城下町八幡を開く。
豊臣秀次の八幡山城居城のもと、城下町が栄える原因となった町の一大動脈です。
近江商人の発祥と発展、また町の繁栄に八幡堀は大きな役割を果たし、江戸時代後期には近江国において大津と並ぶ賑わいを見せたといいます。昭和初期までは、常に町の人々の経済・流通路でしたが、戦後は陸上交通の発展によって廃れました。堀に沿って、白壁の土蔵や旧家が立ち並び、華やかだった当時の様子をよく伝えています。日牟禮八幡宮の大鳥居をくぐったところに、堀に白雲橋がかかり、橋からは、かつて全国各地から送られてきた物産を一時保管した土蔵が見られます。近年になって、観光名所として整備され、船着き場などが復元されました。
オレンジが秀次跡、黄色が家臣団館跡
大手道の秀次屋敷跡の虎口の石垣
大手道の秀次屋敷跡の虎口の石垣
豊臣秀吉の遺構の八幡山城や八幡堀が、破壊されず現在も残存するのは、江戸幕府の天領であったから!
お城のデータ
所在地:近江八幡市宮町 map:http://yahoo.jp/tW9Zhk
区 分:居館
現 状:山林・公園
築城期:織豊期 天正13年(1585)
築城者:羽柴秀次
標 高:130m 比高差:35m
遺 構:石垣・曲廓・土塁・虎口
目標地:八幡公園
駐車場:近江八幡市図書館
訪城日:2011.12.17
お城の概要
八幡山城主の山麓居館。八幡公園から少し登った場所に竹林と化した館跡が残っている。石垣は崩壊している箇所も多いが概ね良好に残る。居館跡はあまり整備されておらず、竹林のために昼なお暗い場所である。
晩年の秀吉の蛮行の犠牲者となり、その行いを正当化するために殺生関白という汚名まで着せられた秀次は悲運の人であると思う。合戦上手ではなかったが、小牧・長久手の合戦以外では秀吉の名代をそつなくこなしているし、近江八幡の城下町を見ていても見事な町づくりを行った為政者だと思う。秀次の悲劇を思うと静かで美しい街並みも哀しく見える。
歴史
天正13年(1585)に羽柴秀次は八幡山城を築いた。織田信長の安土城に倣って築かれた山城であり、麓の居館も真っ直ぐに大手道が伸びる両側に家臣団の屋敷が配置された安土城の大手道を模した設計であり、その突き当りに高石垣で構築された秀次の居館が築かれていた。
青年武将であった秀次は琵琶湖から水を引き八幡堀を廻らせ、安土の城下町をそのまま移転させ、碁盤の目のような町割りを行い城下町を建設した。八幡山城下は賑わい、多くの商人たちが集う活気のある町に発展したようだ。近江商人発祥の地として今に残る美しい町並みは秀次時代の産物とも言える。秀次の栄耀栄華は短かった。秀頼が誕生すると秀次は秀吉にとって目障りな存在となってしまい、あらぬ嫌疑をかけられた挙句に文禄4年(1595)に自刃させられ、妻妾たちも非業の死を遂げた。八幡山城は廃城となり秀次の夢の跡は苔むした石垣が残るだけとなった。
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、
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山上の西の丸・北の丸・本丸・二の丸へ
二の丸の石垣砕石の矢穴多数残る。
お城のデータ
別 称:近江八幡城・八幡山城
所在地:近江八幡市宮内町
区 分:山城
標 高:251m 比高差:155m
現 状:公園・寺・山林
遺 構:郭・石垣・石碑・説明板
築城期:織豊期
築城者:豊臣秀次
駐車場:日牟礼八幡宮
目標地:村雲瑞龍寺・日牟礼八幡宮
訪城日:2011.12.17
豊臣秀吉の遺構の八幡山城や八幡堀が、破壊されず現在も残存するのは、江戸幕府の天領であったから!
お城の概要
安土城の焼失から3年後、天正13年(1585年)に、18歳にして近江43万石の領主に任ぜられた豊臣秀次(豊臣秀吉の甥)が築城した城が八幡山城です。後背部は 津田内湖(昭和46年干拓)、東には西の湖(ラムサール条約登録湿地)が広がっています。本丸、二の丸、北の丸、出丸からなる城郭を持ち、南側の山麓には 城主「豊臣秀次」の居館や重臣達の邸宅があったとされ、中世の城の形態である山城の形を取る最後の城として歴史的価値が高いとされています。築城に当た っては、安土城下の町や社寺の一部を移し、新しいまちづくりが進められました。
八幡山城は長らく石垣を残すだけでしたが、村雲御所瑞龍寺が移築されロープウェーが整備されたことなどにより、多くの観光客が訪れる観光拠点になって います。
八幡山城の本格的な調査はこれまで行われてきませんでしたが、平成12年度からの本格的な調査では、豊臣秀次居館跡から金箔瓦の破片(約200点)などが出土 しています。
歴 史
天正十三年(1585年)に羽柴秀次(豊臣秀次)によって築かれました。文禄四年(1595年)に秀次が秀吉の命により切腹して八幡城も廃城となりました。昭和三十七年に秀次の菩提寺の村雲瑞竜寺を京都より移築されました。八幡は城下町ではなくなりましたが、秀次が開いた八幡堀を含む水運に優れ、近江商人の町として残りました。
築城から5年後(1590年)、秀次は100万石を領し清州へ移封となり京極高次が城主となりましたが、1595年、秀次が自刃後に八幡山城は廃城(高次は大津城へ 移封)となりました。
本丸西側高石垣
西の丸
西の丸より北・・・長命寺~琵琶湖~対岸湖西~比良(雪雲の中)
西の丸より、西・・・水茎岡山城。
H23の「のろし駅伝のスタート・ゴール」http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/111124/wlf11112409060005-n1.htm
北の丸
北の丸より東の眺望
本丸
本丸の山門(八幡山城の虎口跡,秀次の居城)。に村雲御所端龍寺を移築されている。
現在、本丸跡にある『端龍寺本堂』は、秀次の母(日秀尼)が秀次の菩提を弔うため京都嵯峨野の村雲に建てたものを、昭和36年に移したもので村雲御所とも呼ばれている。
左遠方・・布施山城址。手前左は瓶割山城址。右遠方は雪野山古墳。
真ん中は三上山(近江富士)の左裾に星ヶ丘城址
二の丸から東~
右が観音寺城址(繖山)。
遠方が箕作山城(清水山・・鉄塔が建つ)。正面が小脇山城址・太郎坊宮(箕作山系)。
左遠方・・布施山城址。手前左は瓶割山城址。右遠方は雪野山古墳。
織田信長亡き後、安土の民を移り住まわせ、城下町・近江八幡をつくりあげた。また、楽市楽座を施し自由商業を推し進めたことが、のちのちの近江商人発祥につながったのではないかとも言われている。
近江八幡の城について | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
近江の国は、古より人々や物資の往来が盛んで様々なものが行き交いました。近江の国を舞台にした戦いが数多くあることを示すものとして「近江を制するものは天下を制する」という言葉も残されています。 |
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探訪「八幡 秀次の城と城下町」
天正13年(1585)、羽柴秀吉は甥の秀次に近江湖東地域で43万石の領地を与え、八幡山に城を築かせました。八幡山城主となった秀次は、織田信長にならって城下町に楽市楽座令を出すなど、城下町の振興を図り、現在の近江八幡市の基礎を築きました。
八幡山城の築城によって、織田信長の居城であった安土城は廃城となり、中世から近世へと時代は移り変わっていきます。八幡山城の築城は、近世の幕開けを象徴する出来事だったのです。
探訪「八幡 秀次の城と城下町」20111217
八幡山城は標高285mの鶴翼山の山頂から山麓にかけて築かれました。随所に残る石垣が城の雄大さを示しています。また最近、山麓部から秀次の館跡をはじめとした複数の屋敷群の発掘調査が行われ、八幡山城の姿が具体的になりつつあります。
この見学会では、専門職員の案内で現地に残された八幡山城の遺構を訪ねます。
【歴 史】
長享年間(1487-89)に六角氏の家臣・伊庭氏が居城としていた。
天正13年(1585)羽柴秀次は叔父の秀吉から近江国に20万石を与えられ、八幡山を本拠とした。
城下町の建設にあたっては安土城下の商人たちに移住を命じた。
秀次が同18年尾張清洲城に移封されたあと京極高次が入城。文禄4年(1595)に高次が大津城へ移ると廃城となった。
城下町は近江商人の町として生まれ変わり、江戸時代には特産品を背にした八幡商人が日本全国に展開。インドシナ半島にまでもその名が知られた。
八幡堀
あわせて城下町を見学することで城と城下町が一体となった八幡の姿をより深く理解していただきたいと思います。
1.日時 平成23年12月17日(土) 9時30分~13時
2.集合 9時~ 八幡公園(近江八幡市立図書館裏)
※JR近江八幡駅より近江鉄道バス野ヶ崎行き 公園前下車
JR近江八幡駅発9:20-公園前着9:26をご利用ください。
※なるべく公共交通機関をご利用ください。駐車場は市内の市営駐車場をご利用ください。
3.行程 八幡公園→秀次館跡→ロープウェイ乗り場→西ノ丸→北ノ丸→本丸→二ノ丸→ロープウェイ乗り場→日牟礼八幡宮→八幡堀→新町通→近江八幡市立資料館前(解散) 全行程約3km
1585年 18才で近江国43万石を与えられ八幡山城を築城、城下町八幡を開く。
オレンジが秀次跡、黄色が家臣団館跡
大手道の秀次屋敷跡の虎口の石垣
大手道の秀次屋敷跡の虎口の石垣
山上の西の丸・北の丸・本丸・二の丸へ
二の丸の石垣本丸の石垣
西の丸
西の丸より北・・・長命寺~琵琶湖~対岸湖西~比良(雪雲の中)
西の丸より、西・・・水茎岡山城址。H23の「のろし駅伝のスタート・ゴール」http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/111124/wlf11112409060005-n1.htm
北の丸
北の丸より東の眺望
本丸
本丸の山門(八幡山城の虎口跡,秀次の居城)。に村雲御所端龍寺を移築されている。
◆現在、本丸跡にある『端龍寺本堂』は、秀次の母(日秀尼)が秀次の菩提を弔うため京都嵯峨野の村雲に建てたものを、昭和36年に移したもので村雲御所とも呼ばれている。
左遠方・・布施山城址。手前左は瓶割山城址。右遠方は雪野山古墳。
真ん中は三上山(近江富士)の左裾に星ヶ丘城址
二の丸から東~
右が観音寺城址(繖山)。
遠方が箕作山城址(清水山・・鉄塔が建つ)。正面が小脇山城址・太郎坊宮(箕作山系)。
左遠方・・布施山城址。手前左は瓶割山城址。右遠方は雪野山古墳。
◆織田信長亡き後、安土の民を移り住まわせ、城下町・近江八幡をつくりあげた。また、楽市楽座を施し自由商業を推し進めたことが、のちのちの近江商人発祥につながったのではないかとも言われている。
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東近江ブロック交流研修会 20111208
東近江ブロック交流研修会
Bコース 3班 「秀次の文人としての歴史と山頂からの蒲生野の絶景をみる。」
近江八幡城は、JR近江八幡駅の北西約2.5キロメートルにある独立丘の鶴翼山、通称八幡山の南半分に築かれた城で、比較的急峻な山城である。八幡山山頂へはロープウェイが通じており、約5分で到着できる。
標高271.9mの八幡山最頂部に本丸をもうけ、二の丸、西の丸、出丸が配置された一大要塞であったと推測されます。
往時の城下町は安土城城下町を移住させて形成し、琵琶湖の水を引いて作られた八幡堀を配して、戦闘の用をなすだけでなく運河の役割も果たしていた。
現在は石垣を残すのみですが、本丸跡には、秀次の母・豊臣秀吉の姉の日秀(智)が開基の村雲門跡瑞龍寺が昭和36年(1961年)に移転されている。
また、平成13年(2001年)には山麓で豊臣秀次の館跡が発見された。
近江八幡城は、1585(天正13)年に豊臣秀吉の甥の豊臣秀次によって築かれた。秀次は43万石を領して入封し、安土城の一部と城下町を移転させて形成した。
秀次は、1590(天正18)年の“小田原征伐”の軍功により、戦後、移封を拒否して改易された織田信雄の旧領である尾張、伊勢北部5郡などに100万石の大領を与えられて尾張清洲城に入る。
替わって、近江八幡城には京極高次が2万8千石で入城したが、高次は、1595(文禄4)年に大津城へ移ったため、近江八幡山城は廃城になった。
ロープウェーの山上駅前で・・・!
本丸跡には、秀次の母・豊臣秀吉の姉の日秀(智)が開基の村雲門跡瑞龍寺が・・・
城下町絵図で・・・!
西の丸から、琵琶湖と長命寺・・・!
雨で・・・蒲生野も瓶割山城址や雪野山も
八幡公園の秀次館・家臣屋敷跡!
八幡城の縄張り・・・!
従一位 関白 豊臣秀次公の銅像(八幡公園)
日牟礼神社~
絵馬も「そろばん」??
現地ガイドを終了して、
近江商人塾で、昼食コース班毎に
その後、班毎に研修討議~~アンケートを提出して、班毎に解散!
雨の中、ガイドを大変勉強になりました。
また、研修後のミーティング各ボランティアさんの、意見や感想など参考になることがたくさん有りました。
***近江八幡観光ボランティアガイド協会の皆様、お世話になりました。
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丸岡城の天守は、全国で現存する12基の天守で最も古い。
丸岡城は、福井県坂井市丸岡町霞にあった城である。別名霞ヶ城。江戸時代の丸岡藩の藩庁。
徳川家康の忠臣 本多作左衛門重次が陣中から妻お仙にあてて送った手紙「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」にちなむものです。 「お仙」とは、後の越前丸岡藩主 本多成重(幼名仙千代)のことで、日本で最も古い天守閣をもつ丸岡城に、この手紙文を刻んだ碑が立っています。
天守の建造年
天守は、前述の通りに古式の形状を踏襲したフォルムと、掘立柱を用いていることにより現存最古の天守とされることがあるが、それについて犬山城天守との論争がある。柴田勝豊の建造である場合、1576年(天正4年)となるが、建築史の観点では、慶長期の特徴を多く見ることができるとして、1596年(慶長元年)以降の築造もしくは、改修による姿ではないかという説もある。
丸岡城天守(元国宝/現在は国指定重要文化財)
野面積の天守台石垣と二重三階の望楼型天守。修復再建された現存最古の天守。
お城のデータ
別 称:霞ヶ城
所在地:福井県坂井郡丸岡町霞
区 分:平山城
築城期:織豊期 天正4年
築城者:柴田勝豊
遺 構:曲輪、天守、移築門、石垣
目標地:丸岡城
訪城日:2011.11.29
お城の概要
福井平野の丸岡市街地の東に位置する小高い独立した丘陵に築かれた平山城である。近世に山麓部分が増築され、周囲に五角形の内堀が廻らされていた。安土桃山時代に建造されたと推定される天守は、国の重要文化財に指定されている。その他、石垣が現存している。移築現存する建物として、小松市の興禅寺および、あわら市の蓮正寺に、それぞれ城門、丸岡町野中山王の民家に、不明門と伝わる城門がある。ほかに土塀が現存する。五角形の内堀は現在埋め立てられているが、この内堀を復元する計画が浮上している。
「霞ヶ城」の名の由来は合戦時に大蛇が現れて霞を吹き、城を隠したという伝説による。
丸岡城の天守は、全国で現存する12基の天守で最も古い。
この天守は、二層三階の初期望楼型独立式で、軒下や壁面が白木造りとなっている。 また、全国的に見ても珍しい石瓦で葺かれている。
天守内部の階段は、大変急な階段で(訪れる観光客のためにか?)手すりならぬロープに捕まりながら上るのには驚いた。
天守以外には何も残っておらず、堀も大部分埋め立てられ、小高い丘の上に天守閣だけがぽつんと建っている感じだ。
お城の歴史
天正3(1575)年、織田信長は北陸地方の一向一揆を平定するために大軍を派遣し、当時丸岡の東北4kmの山中にあった豊原寺(とよはらじ)を攻略し寺坊を悉く焼き払った。信長はこの恩賞として柴田勝家に越前之国を与え、守護職とし、北ノ庄(きたのしょう/今の福井市)に築城を命じた。勝家は甥の勝豊を豊原に派遣し豊原城を構えたが、翌天正4(1576)年、豊原から丸岡に移り城を築いた。これが現在の丸岡城である。
勝豊以後、安井家清、青山修理亮、同忠元、今村盛次、本多成重以下4代、有馬清純以下8代の居城を経て明治維新となった。大正中期より昭和の初期にわたり濠は埋められ、現在は本丸と天守閣と僅かに石垣を残し城域は霞ヶ城公園となっている。昔の城郭は五角形の広い濠を有し外郭に侍屋敷を配地し、さらに河川を利用し外濠を設け寺院民家を包容し城下町を形成していた。
丸岡城は現存する天守閣の中で最も古い建築で、外観は上層望楼を形成して通し柱がなく、一層は二階三階を支える支台をなし、屋根は二重で内部は三階となっている。又、屋根が全部石瓦で葺かれているのが全国にも稀な特徴である。このような古調に富んだ望楼式天守閣は後の時代の松本城、彦根城、姫路城など層塔式天守閣と比較すると、いかに城郭建築の初期のものであるかがうかがえる。昭和9年国宝に指定されたが、昭和23年福井大震災により倒壊した。昭和25年重要文化財の指定を受け、昭和30年に修復再建された。
(文は現地リーフレットより)
天守
北陸地方では丸岡城の天守のみが現存している。大入母屋の上に廻り縁のある小さな望楼を載せた古式の外観から現存最古の天守とも呼ばれている。現在、見られる天守は、昭和23年(1948年)の福井地震によって倒壊した後、昭和30年(1955年)に部材を組みなおして修復再建されたのである。その際、最上階の窓の造りが引き戸から突き上げ窓に改変されている。
独立式望楼型2重3階で、1階平面を天守台に余分を持たせて造られているため天守台を被せるような腰屋根が掛けられている。屋根瓦には笏谷石製の石瓦が寒冷地であるという気候事情により葺かれているといわれる。
丸岡城は、福井平野丸岡市街地の東に位置する小高い独立した丘陵に築かれた平山城である。 近世に、山麓部分が増築され、周囲に五角形の内堀が廻らされていた。安土桃山時代に建造されたと推定される天守は、国の重要文化財に指定されている。 その他、石垣が現存している。移築現存する建物として、小松市興善寺およびあわら市蓮正寺に、それぞれ城門、丸岡町野中山王の民家に、不明門と伝わる城門がある。ほかに土塀が現存する。 五角形の内堀は現在埋め立てられているが、この内堀を復元する計画が浮上している。
「霞ヶ城」の名の由来は合戦時に大蛇が現れて霞を吹き、城を隠したという伝説による。
安土桃山時代・江戸時代
「人柱お静」の伝説
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大地の遺産活用事業「戦国・武士と姫たちの遺跡」
探訪 坂本城と坂本の町をゆく
元亀2年(1571)9月の比叡山焼き討ち後、織田信長は明智光秀に坂本
城を築かせました。当時の坂本は巨大な荘園領主延暦寺の門前町であるとと
もに琵琶湖上交通の要港であり、北国や東国から集まった年貢等を京都へ運
ぶ物流拠点の一大経済都市でした。そうであったからこそ、信長は有能な光
秀を坂本城において支配させようとしたのです。
しかし、天正10年(1582)6月、光秀は本能寺の変で信長に反逆する
も、山崎合戦では羽柴秀吉に敗れ、坂本城は炎上しました。その後、坂本城
は復興されますが、秀吉が大坂城を築くと、琵琶湖の物流拠点も坂本から大
津に移り、天正14年頃に大津城が築かれると、坂本城は廃止されました。
探訪 坂本城と坂本の町をゆく
◆明智光秀は、北国道(西近江路)と湖上交通との要衝にあたるこの地に、元亀三年坂本城を築いた。 この城は琵琶湖に臨む典型的な水城で、しかも築城に造詣の深い光秀だけに城は、豪壮華麗で、安土城に次ぐ名城といわれていた。ここで辺り滋賀郡を支配し、民政は行き届いていたという。 その後、光秀は丹波を平定し、天正五年ころから亀山城を築き、その城下町が現在の亀岡市の基礎となった。さらに同七年ごろ城の大改造を行い、明智にちなんで福智山となった。いまも福知山踊りには光秀を偲ぶ歌がうたわれている。 ◆明智光秀は、美濃国の名族、土岐氏一族の出身。永録十年(1567)四十歳ころ織田信長の家臣となる。 元亀二年(1571)山門焼き討ちのあと光秀は、湖岸に豪壮な坂本城を築城し、その初代城主となった。以後およそ十年間光秀は坂本城を本拠地として活躍した。光秀はすぐれた武将であっただけでなく当代一流の文化人と親交をもち茶の湯、連歌、詩歌などに造詣の深い文化人でもあった。 ◆天下統一をめざし、戦国時代を疾風のごとく駆け抜けた織田信長は、元亀二年(1571)比叡山延暦寺を焼き討ちすると、最も信頼する家臣の一人である明智光秀を、京都を扼する西近江の要衝、坂本に封じた。 築城の名手であった光秀は、翌元亀三年、本公園の北方300mの湖岸に、安土城に次いで日本第二の名城と謳われた坂本城を築城した。坂本城には、姫路城のように大天主と小天主があり、城郭の範囲は、日吉山王祭のよびものの一つ、船渡御の神事が行われるこの七本柳にまで及んでいたとされている。 なお、今も城、城畔、御馬ヤシキなどの字名が残っている。 『坂本城跡案内』より
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