城郭探訪

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男鬼入谷城(高取山城・男鬼城) 近江国(彦根・鳥居本)

2016年11月30日 | 山城

http://www.city.hikone.shiga.jp/cmsfiles/contents/0000003/3305/52_ohrinyudani.pdf←彦根教育委員会HP

お城のデータ

所在地:彦根市鳥居本・男鬼町  map:http://yahoo.jp/yw5ALd

別 称:高取山城・男鬼城

区 分:山城

現 状:森林

築城期:天文年間(1532~1553)の頃。

築城者:京極高広か

城 主:川原豊後守

遺 構:曲輪、土塁、石垣、堀切

標 高:685m  比高差:40m

城 域:東西300m×南北100m

目標地:男鬼町比婆神社奥宮(646m)

駐車場:男鬼町比婆神社奥宮http://yahoo.jp/G1lZDt

訪城日:2016.11.23

誰が付けられたのか?主郭にある「高取山城」のネームプレート

お城の概要

1982~10年懸けて『滋賀県中世城郭分布調査』でも発見されず、2000年に米原 西番場の泉良之氏により発見された。

彦根市教育委員会hp「わたしの町の戦国」解説シート 18 

■ 男鬼入谷(おおりにゅうだに)城跡 ■
男鬼入谷城跡は、彦根市の男鬼と多賀町甲頭倉の間、標高 685 メートルの高所に位置しています。
周囲は見渡す限り山又山。山中に孤立したように存在していますが、規模は大きく、発達した城郭構造が注目されます。 男鬼入谷城は、尾根上の3つの頂部と尾根筋を利用して築かれています(縄張図参照)。

 3つの頂部をⅠ郭 かく ・Ⅱ郭・Ⅲ郭と呼ぶことにしましょう。まず北東のⅠ郭を見ると、北東側に大規模な三重 の堀切 ほりきり を設けて高取山山頂へ伸びる尾根を切断し、竪掘りや土塁、そして石積みを加えています。一方、南東側に伸びる尾根にも曲輪群を配し、土塁や食い違い縦堀、畝状 竪堀群などを加えています。

中央のⅡ郭は規模が小さく、南東側に 小さな曲輪群を階段状に設けています。先端部の二重堀切は大規模なものです。Ⅱ郭から西側に伸びる尾根にも、竪堀につながる規模の大きな堀切を設けて尾根を完 全に断ち切っています。

西側のⅢ郭は南西側にのみ土塁が築かれています。Ⅲ郭から南に伸びる小さな尾根には堀切を伴う小曲輪群が設けられていますが、Ⅲ郭にもっとも近い小曲輪は土塁が巡り石積みで補強されています。 

高取山城(最近、彦根市教育委員会は、文化財遺跡登録名を「男鬼入谷(おおりいりや)城」としている。)は、佐和山城のある彦根市鳥居本から一山林道で越えた山里、男鬼町南側の山の上に築かれている。 

 集落西はずれに比婆神社の鳥居があり、ここから細い林道を山頂近くの神社まで登る。 比婆神社で高取城探訪の無事を祈って参拝。 社殿裏から比婆山頂を経て(山頂の先で山道は二股に分かれるので左の道を降る。)、尾根筋を進み、二つ目のピークが高取山城だ。

 高取山城は、東西に連なる尾根筋を幾段にも削平した連郭式の縄張りで、城の遺構は完存と云えるほど良く残っている。 主郭の東下には、主郭から堀底まで約7~8m程の深さの大堀切があり、更に北に二重の堀切が連なる。 主郭東の曲輪には、削り出し土塁の遺構が見ることが出来る。 南側の二つの支尾根に対しても、二重の堀切を配してた小曲輪が防備を固めている。

 地元の林業の方しか訪れない!、高取城を訪城時は、GPS付スマホは必ず持参のことい。小生の途中断念、今回の城歩会見学会でやっと見学出来ました。霊山の山系の高所にある城!

お城の歴史

 一般に、近江の戦国時代は、南の六角氏と、北の京極氏・浅井氏との対立の時代として語られます。 浅井氏が京極氏の家督争いに乗じて台頭し、やがて湖北を支配するようになるのが天文年間(1532~1553)の頃。

 この頃、浅井氏の湖北支配は盤石なものではなく、京極氏の勢力もあなどれないものがありました。 天文19年から22年(1550~53)にかけて、京極高広は、六角氏と抗争を繰り広げます。注目されるのは、この抗争で高広軍の南下が常に霊仙山系を越え芹川に沿って平野部を攻めるという、山越えルートである点です。浅井氏によって平地を追われた京極高広は、坂田郡の山間部で勢力を維持していたと推定されており、抗争で立てこもる拠点として男鬼入谷城が築かれたのではないかと考えられています。

 ただ、『大洞弁天当国古城主名札』に「男鬼城主川原豊後守」の名が見える。 

『淡海国木間攫』には、「坂田郡 男鬼村 往古此所ニ川原豊後守在城ナリ、其城今在セリ」と記す。

 規模は湖東地域で最も大きく、どうしてこのような山深い里に築かれたか?

 男鬼城の位置から、上平寺城~鎌刃城~高取山城~桃原城を結ぶ繋ぎの城でもあったのだろうか。

比婆神社奥宮

土橋のような細尾根

此処から城域

土橋

『淡海国木間攫』には、「坂田郡 男鬼村 往古此所ニ川原豊後守在城ナリ、其城今在セリ」と記す。

往時、この高所で在城していたか?

2011年4月30日の丸山竜平博士(元滋賀県中世城郭分布調査委員会 事務局)の指導のもと、現地調査で室町期の黒塗土師片・擂鉢片・天目茶碗を表面発見!

黒塗土師片

 

 Hiromi Hasegawa氏のfacebookより

参考資料:彦根市教育委員会hp「わたしの町の戦国」解説シート 18 ・城歩会レジュメ・Hiromi Hasegawa氏のfacebook

本日の訪問ありがとうございす!!


男鬼入谷城(高取山城・男鬼城)見学会 2016.11.23

2016年11月24日 | 山城

主 催:米原城歩会主催

講 師:長谷川博美氏

訪城日:2016.11.23

 

男鬼入谷城(高取山城・男鬼城)見学会 2016.11.23

彦根市教育委員会hp「わたしの町の戦国」解説シート 18 

■ 男鬼入谷城跡 ■
男鬼入谷城跡は、彦根市の男鬼と多賀町甲頭倉の間、標高 685 メートルの高所に位置しています。
周囲は見渡す限り山又山。山中に孤立したように存在していますが、規模は大きく、発達した城郭構造が注目されます。 男鬼入谷城は、尾根上の3つの頂部と尾根筋を利用して築かれています(下の縄張図参照)。

 3つの頂部をⅠ郭 かく ・Ⅱ郭・Ⅲ郭と呼ぶことにしましょう。まず北東のⅠ郭を見ると、北東側に大規模な三重 の堀切 ほりきり を設けて高取山山頂へ伸びる尾根を切断し、竪掘りや土塁、そして石積みを加えています。一方、南東側に伸びる尾根にも曲輪群を配し、土塁や食い違い縦堀、畝状 うねじょう 竪堀群などを加えています。 中央のⅡ郭は規模が小さく、南東側に 小さな曲輪群を階段状に設けています。先端部の二重堀切は大規模なものです。Ⅱ郭から西側に伸びる尾根にも、竪堀につながる規模の大きな堀切を設けて尾根を完 全に断ち切っています。 西側のⅢ郭は南西側にのみ土塁が築かれています。Ⅲ郭から南に伸びる小さな尾根には堀切を伴う小曲輪群が設けられていますが、Ⅲ郭にもっとも近い小曲輪は土塁が巡り石積みで補強されています。



 このように見てくると、男鬼入谷城が北東から南方面に対して防御を厚くしているのに対して、北から西側にはほとんどそうした
施設が確認できません。北東から南方面の敵に対する備えの城であったと いうことができるでしょう。また、男鬼入谷城の多くの
 堀切は岩盤を掘削しており、要所に石積みを用いるなど、高い土木技術が施されていました。人の寄り付かない深山を選び、そこに高い土木技術を用 いて城を築いた人物は、いったい誰だったのでしょう。
 
■ 深山の築城者は誰? ■

一般に、近江の戦国時代は、南の六角氏と、北の京極氏・浅井氏との対立の時代として語られます。 浅井氏が京極氏の家 か 督 とく 争いに乗じて台頭し、やがて湖北を支配するようになるのが天文年間(1532~ 1553)の頃。しかし、この頃、浅井氏の湖北支配は盤石なものではなく、京極氏の勢力もあなどれな いものがありました。 天文19年から22年(1550~53)にかけて、京極高広は、六角氏と抗争を繰り広げます。注目 されるのは、この抗争で高広軍の南下が常に霊仙山系を越え芹川に沿って平野部を攻めるという、山越えルートである点です。浅井氏によって平地を追われた京極高広は、坂田郡の山間部で勢力を維持していたと推定されており、抗争で立てこもる拠点として男鬼入谷城が築かれたのではないかと考えられています。

 


【安土城考古博物館特別陳列関連講座】11/19(土)「お市と浅井長政」

2016年11月20日 | 講座

安土城考古博物館特別陳列関連講座
『お市と浅井長政』
特別陳列「お市と浅井長政」(10/29〜11/27)の関連企画として、当館学芸員により博物館講座を開催しますので、どうぞ御参加ください。

【日程】平成28年11月19日(土)13時30分〜15時

【講師】当館学芸課 副主幹 ��攴�����【会場】安土城考古博物館2階セミナールーム
(近江八幡市安土町下豊浦6678)

【参加費】200円(資料代等)
入館料は含まれていませんので、特別陳列の観覧には、常設展入館料が別途必要です。

【定員】当日先着140名
(事前申し込みは不要です)

【お問合せ先】
滋賀県立安土城考古博物館
TEL:0748-46-2424

◆主催:滋賀県立安土城考古博物館


連続講座「近江の城郭」第1回 水口岡山城跡

2016年11月20日 | 平山城

「有戦国の近江」魅力発信事業・連続講座「近江の城郭」第1回
水口岡山城跡

水口岡山城は羽柴秀吉の家臣中村一氏が築いた城です。当時、秀吉の最大の脅威であった徳川家康に備え、東海道を望む山上に築かれました。また、秀吉政権による近江支配の拠点城郭として、中世、大名権力を排除して自治を行っていた甲賀地方を掌握するための城でもありました。

最近甲賀市教育委員会によって水口岡山城跡の発掘調査が行われ、これまで知られていなかった実像が明らかになりつつあります。

今回の講座では、水口岡山城跡を甲賀市教育委員会文化財専門職員の案内で御覧いただきます。

1.日時:平成28年11月20日(日曜日)9時45分~15時25分

  • 水口中部コミュニティセンター前集合 ※甲賀市水口町八坂7-4 近江鉄道水口石橋駅下車徒歩5分
  • 近江鉄道水口石橋駅解散

2.場所

  • 講義:水口東部コミュニティセンター(甲賀市水口町神明3-20)
  • 現地見学:水口岡山城跡・水口岡山城城下町跡

3.行程

  • 水口中部コミュニティセンター→水口東部コミュニティセンター(講義・昼食)→水口岡山城跡→水口岡山城城下町跡→近江鉄道水口石橋駅
  • 全行程約5km※山道あり

4.主催:滋賀県教育委員会

5.協力:甲賀市教育委員会

6.講師

  • 講義「甲賀郡中惣の終わり」:畑中英二(滋賀県教育委員会文化財保護課)
  • 現地探訪:甲賀市教育委員会歴史文化財課専門職員

7.定員:60名(事前申込制)

8.参加費:200円(水口岡山城跡ブックレット代)

 


水口岡山城跡 史跡の指定へ

2016年11月20日 | 文化財
 

=荒神山神社6件 登録有形文化財へ=

水口岡山城跡


 国の文化審議会が十八日に開催され、「水口岡山城跡」(甲賀市水口町水口字古城)を“史跡”に指定し、「荒神山神社」(彦根市清崎町)六件を“登録有形文化財”に新登録するよう文部科学大臣に答申した。
 水口岡山城跡は、天正十三年(一五八五)頃に豊臣秀吉の命を受けた中村一氏(なかむら・かずうじ)により甲賀の直接支配の拠点、東国への抑えとして築城されたと考えられる。その後、豊臣政権下で奉行を務めた増田長盛(ました・ながもり)、長束正家(なつか・まさいえ)といった政権の重要人物が城主とされるなど、その政治的、軍事的な意味合いは大きい。関ヶ原の戦い後には、正家が西軍に与(くみ)したため、接収され、その後しばらくして廃城となるが、その後も幕府や水口藩により管理され、明治時代以降は公有財産として引き継がれたため、保存状況は極めて良好である。また文献資料には、築城にあたって矢川寺(やがわでら)の堂塔を壊して水口岡山城へ運んでいることや、長束正家が城主となった後に大溝城(おおみぞじょう)の天守を解体して、その部材を利用したことなどが知られているが、発掘調査では矢川寺遺跡出土のものと同笵(どうはん)の軒瓦(のきがわら)、高島市の大溝城跡から運ばれたと考えられる軒瓦が出土したことにより、文献史料の記載が考古学的にも裏付けられた。


荒神山神社本殿

 荒神山神社は、荒神山山頂部一帯を境内とし、山麓の参道入り口に鳥居が建ち、山上に本殿、拝殿、渡殿(わたどの)、神饌所(しんせんしょ)、神楽殿(かぐらでん)などが建ち並んでいる。本殿は、前室付の三間社流造(さんげんしゃながれづくり)で、柱上(ちゅうじょう)は船肘木(ふなひじき)、妻飾(つまかざり)は豕叉首(いのこさす)組とし、彫刻などの装飾も少なく、復古的な意匠が用いられている。拝殿は、入母屋造(いりもやづくり)の優雅な向拝(こうはい)が特徴で、周囲の建具に蔀戸(しとみど)を用いる点に、本殿同様、復古的な意匠が見られる。渡殿、神饌所は、本殿や拝殿とともに神社の構えを構成する建造物として重要だ。
 これらの建造物六件は、明治時代から昭和初期の滋賀県の近代の神社建築として重要である。

■平成28年11月20日(日) 滋賀報知新聞 第17659号


後藤又兵衛討ち死

2016年11月19日 | 文化財

後藤又兵衛討ち死に報告 豊臣秀頼に、書き付け発見

大坂の陣で後藤又兵衛が討ち死にしたことを、配下の武士が豊臣秀頼に報告した書き付け

 岡山県立博物館は17日、徳川家が豊臣家を滅ぼした大坂の陣(1614~15年)で豊臣側の「五人衆」として戦った後藤又兵衛が討ち死にしたことを、配下の武士が豊臣秀頼に報告した書き付けが、京都府内で見つかったと発表した。

 同館によると、腰に重傷を負った又兵衛は配下の武士に自身の首を討たせていたが、書き付けでは、その際に秀頼から授かった脇差し「行光」を使っていたことが初めて分かったという。

 書き付けは縦27・4センチ、横35センチ。又兵衛の下で戦い、秀頼に又兵衛の討ち死にを報告したとみられる金万平右衛門の子孫宅で見つかった。25日から同館で展示する。

【京都新聞 2016年11月17日 12時55分 】


指月伏見城、石垣と堀発見 

2016年11月19日 | 丘陵城

指月伏見城、石垣と堀発見 慶長地震で倒壊か

高さ2・8メートル、南北14・5メートルにわたって確認された指月城とみられる石垣と堀跡(京都市伏見区桃山町泰長老)

 豊臣秀吉が造営した初期の伏見城(指月城)とみられる石垣と堀が19日までに、京都市伏見区で見つかった。関西文化財調査会(上京区、吉川義彦代表)が発表した。指月城とみられる石垣は過去にも部分的に見つかっているが、6~7段積まれた本格的な石垣の発見は初めて。

 調査地は、伏見区桃山町泰長老と同区常磐町にまたがる公務員宿舎跡地で、文献などから指月城の西側と推定される。堀は幅20メートルに及ぶ可能性があり、高さ2・8メートルの石垣が南北14・5メートルにわたって確認された。自然石や割り石を積み、隙間に小石を埋めていた。

 指月城は1592(文禄元)年、秀吉が隠居所として指月の丘に建設を始め、天守を備えた本格的な城へと改造したが、96年の慶長伏見地震で倒壊。北東の木幡山に後期の伏見城を建立した。

 見つかった石垣に地震で崩壊した跡はなかったが、堀にたまった泥には、建具の一部とみられる木片や瓦の破片が大量に交じっていた。

 吉川代表は「地震で倒壊した建物の瓦だと考えられ、地震以前に築かれた初期の伏見城の石垣と言える。それぞれの石の平らな面を表にして積み上げるなど手が込んでいる」と話している。

 【 京都新聞 2016年11月19日 22時50分 】


戦国期の惣構えか 京都市内最大級、堀の跡発見

2016年11月19日 | 文化財

戦国期の惣構えか 京都市内最大級、堀の跡発見

京都府庁の北側で見つかった、戦国時代の自衛施設「上京の惣構」とみられる東西方向の大規模な堀(京都市上京区)

 16世紀後半の戦国時代に機能した大規模な堀の跡が、京都市上京区の京都府庁北側の発掘調査で見つかり府埋蔵文化財調査研究センターが17日、発表した。自衛のための防御施設「構(かまえ)」とみられ、市内で確認された中では最大級。上京全体を囲った惣構(そうがまえ)の可能性があるという。

 上京区下長者町通新町西入ルの府庁北側の中立売署跡地で、幅約5メートル、深さ約3・5メートルの堀が約75メートルにわたって確認された。北側の下長者町通(当時の鷹司小路)に沿って東西にさらに延びていたとみられる。

 北側から短期間で埋められており、堀の土で北側に土塁を設けていた可能性がある。同センターは「市内で60カ所以上見つかった構の中で最大級。北側を守る大規模な構だとすると、上京一帯を囲った惣構ではないか」とみている。堀を埋めた後に掘られたごみ穴から、豊臣秀吉時代の大名屋敷のものと考えられる金ぱく瓦が出土した。

 現地説明会は19日午前10時半と午後1時半の2回。現地事務所の携帯電話090(3995)3936(当日のみ)。

【京都新聞 2016年11月17日 22時20分 】


永源寺は南北朝時代の1361(康安元)年、近江守護の六角氏頼が

2016年11月15日 | 文化財

十王図一堂、永源寺の書画展示 東近江で重文含む68点

全11幅が一堂に会した「地蔵十王図」(東近江市五個荘竜田町・観峰館)

 臨済宗永源寺派大本山永源寺(滋賀県東近江市永源寺高野町)を開山した寂室元光(じゃくしつげんこう)の650年遠諱(おんき)に合わせ、同市五個荘竜田町の「観峰館」で、特別企画展「永源寺に伝わる書画」が開かれている。寂室の墨跡など重要文化財28点を含む同寺所蔵の68点を展示している。

 永源寺は南北朝時代の1361(康安元)年、近江守護の六角氏頼が、中国で修行した名僧寂室元光を開基に招いて創建したとされる。寺が保管している南北朝時代から明治時代までの記録などをつづった「永源寺文書」は、2002年に重文に指定されている。

 同館に昨年、展示品の温度や湿度調整ができる新しい展示棟が完成したことから、地元の優れた文化財を知ってもらおうと企画。展示は前期、後期に分かれており、現在は後期展(20日まで)が開かれている。

 会場でまず目に入るのは、寂室直筆の墨書「永源寺」(南北朝時代)。氏頼の法名「崇永」と「近江源氏」から取ったとも伝わる山号を、威風堂々とした楷書で記している。

 「華蔵寺宛消息」は、寂室が親しい京都の住職に送った書状。同館の寺前公基学芸員は「普段の寂室の字がよくわかる。六角氏頼が下向していたことを知らされず『恨み入る』などと記され、人間くささを感じる面白い作品」と評する。

 後期展最大の目玉は、元時代の中国で描かれたとみられる「地蔵十王図」。仏教において、亡者が裁きを受けるとされる閻魔(えんま)王ら10王と地蔵菩薩(ぼさつ)が審理にいそしみ、亡者が拷問を受ける様子が描かれている。11幅が一堂に展示されるのは非常に珍しいという。

 永源寺中興の祖、一絲文守(いっしぶんしゅ)の書や、井伊直弼が参詣した際に秋の紅葉にも劣らない新緑の美しさを詠んだ和歌、同寺を祈願寺としていた足利義満が記した三河国の末寺「天恩寺」の山号など、寺にゆかりのある僧侶や武将らの書画も多数並び、永源寺の歴史と影響力を感じられる。

 20日まで。月曜休館。入館料千円(高校生以上800円、中学生以下無料)。19日午後1時から、学芸員による講座(500円、要申し込み)もある。観峰館TEL0748(48)4141。

【京都新聞 2016年11月13日 22時00分 】


豊臣秀吉が再建したと伝わる。滋賀県長浜市湖北町伊部の小谷寺

2016年11月15日 | 文化財

スーパーモデル? 秘仏・如意輪観音公開 滋賀・長浜の小谷寺

公開されている小谷寺の本尊「如意輪観音像」(長浜市湖北町伊部)

 滋賀県長浜市湖北町伊部の小谷寺で、秘仏とされてきた本尊の「如意輪観音像」(市指定文化財)が公開されている。年に一度の開帳で、九州や関東など遠方から参拝する人もいる。

 同寺は約1300年前、白山信仰開祖の泰澄(たいちょう)が開いた修験道場の坊舎の一つとして小谷山に建てられたのが始まりとされる。戦国時代に浅井家が小谷城を築いた際に麓に移り、同城の落城とともに破壊されたが、豊臣秀吉が再建したと伝わる。

 像は高さ約22センチの金銅製で、右手指先のしなやかな曲がり方や右足の親指の反り上がり方など高度な技術が見られる。同寺管理者の高密教照さん(70)は「手足が長く、今で言うならスーパーモデル級」と例える。

 厨子(ずし)を開けると大洪水が起こると伝えられ、長らく秘仏とされてきたが、2010年から12日の開山忌に合わせて公開するようになった。18日まで。午前9時~午後4時(最終日は午後3時まで)。拝観料500円。問い合わせは同寺TEL0749(78)0257。

【京都新聞 2016年11月15日 17時00分 】


堅田城  近江国(大津)

2016年11月12日 | 平城

堅田城

 

お城のデータ
所在地:大津市本堅田町   map:http://yahoo.jp/p-xNG
現 状:宅地
区 分:平城
築城期:
築城者:
遺 構:水路(堀痕か?)
目標地:伊豆神社
駐車場:参拝者駐車場
訪城日:2016.11.6
お城の概要

遺構は現存しないが、「西ノ切」「宮ノ切」などの地名と直線的に張り巡らされた水路が残る

琵琶湖の水運に絶大な特権を持った自治都市・堅田の本拠。
堅田大宮・伊豆神社を拠点に、殿原衆と全人衆の合議制による運営がなされていたとか。

戦国期には織田信長に降伏。朝倉軍の攻撃を受け、織田方大将の坂井政尚が戦死するほどの激戦となる。
江戸時代には堅田藩が置かれ、大津代官従属の元で自治運営時代の経済的特権を追認されている。

お城の歴史 

『江州佐々木南北諸氏帳』には、「片田城主(堅田城主) 佐々木隋兵 片田兵部少輔秀氏・同 佐々木末隋兵 山田民部丞忠宗・同 佐々木末元備州 沢田兵庫宗永」の3城主名を記す

『当代記』には、

 元亀4年2月20日条

「二月廿日、信長人数被立、則山岡光浄院道阿弥事令味方則参陣、堅田の城は被責落、三百被討補」と記す。

志賀の陣

元亀元年(1570)9月16日~12月17日 織田信長と浅井長政・朝倉義景・比叡山延暦寺の戦い】Wikipedia

堅田の戦い

 25日になって堅田の猪飼昇貞・居初又次郎・馬場孫次郎が織田方に内通したので、信長は、坂井正直・安藤右衛門佐・桑原平兵衛ら1千の兵を堅田の砦に侵入させ、防備を固めることで西近江の物流の差し押さえを狙った。しかし朝倉軍も素早く坂井の堅田入りを察知し、翌26日には朝倉景境・前波景当や一向宗門徒らが比叡山より下って堅田に攻め寄せた。坂井の軍は堅田を囲まれ孤立したが奮戦し、前波景当を返り討ちにするなどしたが、結局は数に押し込まれ織田軍は壊滅し坂井政尚らは戦死。猪飼らは堅田を捨てて船で琵琶湖渡って逃走し、この試みは失敗に終わっている。

浅井三代記 第十六

朝倉浅井堅田寺内を取返す事 附坂井右近討死の事

 斯而堅田の地下人一統して信長卿の勢を引入、浅井朝倉が役人共悉く討取旨、浅井朝倉両将の許へ注進有しかば、味方の諸勢いろをうしなひ、あはて騒ぐ事おびたゞし。浅井朝倉家老共を近付被レ申けるは、東近江越前への通路を敵堅田にてとりきらば、誠に鳥ならではかけりがたし、兎やせん角やあらんと評議したまふに、朝倉義景被レ申けるは、とかく信長の本陣へ切入、一戦をとぐるか、又は朽木越を可レ落かと被レ申ければ、備前守長政の曰、敵陣へ切入といふ共、敵籠城したる数万の勢なればやはか利有べしとも不レ覚、又ぬけ道へまはるとも敵よも落さし追討にうたれ、末代迄の悪名をとゞめむより、明日は未明に堅田へ人数四五十計出し、無二無三に一刻に責つぶし、坂井右近が首を刎んに何の子細候べきと被レ申ければ、義景の家老朝倉式部大輔、山崎長門守進出て、長政の仰誠にゆゝしく御座候。明日の御先は某等両人可レ仕と申により、評議一統してあけゝれば、十一月廿四日に義景方には朝倉式部大夫、山崎長門守を侍大将として三千餘騎、浅井方には赤尾美作守、浅井玄蕃亮、侍大将として二千餘騎、都合其勢五千餘騎なり。浅井勢は朝倉勢の後陣也。斯而三千の勢を三手に作り堅田へ押寄る。坂井右近は是を見て一千餘騎の勢を五百余騎は引かへす。残る五百の勢にて堅田の町面へ討て出る。越前勢五百計弓鉄炮を射かけ打かくれば、右近も弓鉄炮を射かけ打かくれば、右近も弓鉄炮を敵を以あいしらふ。越前勢敵を小勢成と勝にのり、はや鑓を入、面もふらず突懸る。右近は本より巧者也。しばしさゝへ敵の色を見てかゝれ/\と下知すれば、右近が五百余騎一度に撞と突かゝる。越前勢引色に見えたりけるが、山崎は是を見て、きたなし味方の者共よ、我一軍してみせんとて五百計おめきさけむですゝめば、右近此いきほひに突立られ、一町計引退く跡をしたがふて突かゝる。右近能時分を引請、取て返し、火花を散して戦へば、右近がかくし勢五百計撞と喚て真黒にて成、面もふらず突かゝる。越前勢足をしどろにみだし、既に崩れんとせし處に、式部大輔は其を引なと云まゝに、馬煙を立てかけ込ば、浅井が勢も備へて待て何にかせんとて、相かゝりに突かゝる。てき味方入違へ、互に命も不レ惜たゝかへば、右近は寺内へ引入むとする處を、味方堀きは迄ひしと付、寺内を付入にせんとせしを右近取て返し、敵を四方へ追払ひ、其透に寺内へ懸入ば、朝倉浅井が兵ども寺内をおつ取巻より、はや堀へひた/\と飛込/\、我先にと乗込ば、右近も大剛の兵なれば、走り廻て下知すれ共、敵は多勢味方は小勢叶はずして、遂に討死したりける。浦野源八父子、坂井十介、馬場居初もはしたなく働、右近は小勢叶はずして遂に討死す。味方にも前波藤左衛門尉、堀平右衛門尉、中村木工之丞きらびやかに相働討死す。是は朝倉が兵也。浅井方には浅井甚七、赤尾甚介、田那部平内、八木又八郎ゆゝしき働して討死す。總じて其時の責口にては、敵味方にて寺内の堀は平地と成、かくて義景長政寺内を取かへすといひ、坂井右近討取事浅からざりし次第なりとて、喜の事は限なし。則堅田を拵て朝倉よりは堀江七郎平、浅井よりは月ガ瀬若狭守を入をかる。去程に信長卿は坂井右近討死の次第をきゝたまひ、われらが命にかはるといひ、数度の忠功報しがたしとて鎧の袖をぬらし給ふぞ忝なき。

 
『本福寺由来記』・・・千葉乗隆著「蓮如上人ものがたり」より
 城には一人もたまらず、うみなるゆかに、置きつるもの取り入て、その日、沖の島をさして、舟をおしだし、よき順風なれば、帆をあげて落ち行、やがて島へぞとつきたる。
 五日にわたる防戦のすえ、堅田は四方から焼きたてられ、湖上に待機させていた舟に分乗し、沖の島へ撤退した。
 いったん沖の島へ退いた堅田衆は、坂本衆に権益回復の決死の戦いをいどんだ。

   

伊豆神社
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1・遺跡ウォーカー・『近江国輿地志略』・『浅井三代記』・『当代記』『本福寺由来記』・ Wikipedia・『江州佐々木南北諸氏帳』
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堅田陣屋 近江国(大津)

2016年11月09日 | 陣屋

お城のデータ

所在地:大津市本堅田1  map:http://yahoo.jp/I9WqCn

現 状:宅地・駐車場

区 分:陣屋

築城期:江戸初期

築城者:堀田氏

歴代城主:堀田正高・堀田正峯・堀田正永・堀田正賓・堀田正富・堀田正敦

遺 構:石垣・現地説明板

駐車場:拝観者用駐車場利用

訪城日:2013.4.4・2016.11.6

nobusan(中世の自治都市・堅田) より

お城の概要

堅田陣屋は景勝地である浮御堂満月寺の北側一帯に築かれていた。 ちょうど伊豆神社の東側一帯が「御陣屋」と呼ばれ陣屋跡であった。 伊豆神社の東側にある舟入遺構の所に案内板が設置されている。

お城の歴史

堅田藩(かただはん)は、近江国滋賀郡・高島郡(現在の大津市堅田)に存在した藩。藩庁は堅田陣屋。

元禄11年(1698年)堀田正高によって築かれた。 堀田正高が下野国佐野から一万石で入封し、堅田に陣屋を構えたのが堅田藩の始まりである。

文化3年(1806年)堀田正敦のとき一万三千石に加封され、文政9年(1626年)に一万六千石で再び下野国佐野に転封となり、堅田藩は消滅し天領となった。

戦国時代、堅田は堅田水軍と呼ばれる水軍衆がおり、安土城を本拠として天下布武を狙う織田信長にとっては、堅田は重要拠点と見なされていた。また、堅田は水運の要衝としても大いに栄えた。

中でも堅田は、織田信長や豊臣秀吉が重用した堅田水軍の根拠地であって、中世から江戸時代にかけては、水路権を握った堅田衆と呼ばれた人々によって、琵琶湖最大の自治都市を築いていた。この程度の知識は持ち合わせていたが、堅田に「湖族の郷(こぞくのさと)」が、

西イ港この程度の知識は持ち合わせていたが、堅田に「湖族の郷(こぞくのさと)」

近世には、元禄11年(1698年)3月7日、下野国佐野藩主であった堀田正高が1万石で堅田に移封されたことにより、堅田藩が立藩した。藩政の基礎は初代藩主・正高から第3代藩主・堀田正永の頃にかけて固められた。第6代藩主・堀田正敦は陸奥国仙台藩主・伊達宗村の八男であり、その経緯から若年寄、湯島聖堂再建の副奉行、『寛政重修諸家譜』などの編纂を務めるなど文教政策に携わっている。文化3年(1806年)には3,000石を加増され、1万3,000石の所領を領することとなった。なお、正敦は仙台藩の藩主に若年藩主が相次いだため、その補佐役も務めている。藩政においても5ヵ年に及ぶ倹約令を発し、藩財政再建に努めた。

正敦は文政8年(1825年)4月に城主格に任じられたが、翌年10月10日に再び佐野へ移封となったため、堅田藩はここに廃藩となった。

堅田の所領のうち、滋賀郡領は佐野藩の飛び地として幕末期まで受け継がれることとなった。

 

堀田 正高(ほった まさたか)は、下野佐野藩主、のち近江堅田藩の初代藩主。

徳川綱吉に仕え大老を務めた堀田正俊の三男。母は稲葉正則の娘。名は正有正在とも。

貞享元年(1684年)、父が暗殺されたときに1万石を分与され、佐野藩主となった。

元禄11年(1698年)3月7日、近江堅田に移封されて、堅田藩主となる。

享保7年(1722年)5月9日、七男・正峯に家督を譲って隠居し、

享保13年(1728年)5月29日に62歳で死去した。

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、『ウィキペディア(Wikipedia)』・現地説明板・nobusan(中世の自治都市・堅田)

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


小番城 近江国(堅田)

2016年11月09日 | 平城

小番城跡/小番城城遺跡

お城のデータ 
所在地:大津市本堅田町2丁目   map:http://yahoo.jp/4CKDa7
現 状:宅地
区 分:平城
築城期:室町期
築城者:
遺 構:石垣
駐車場:路上駐車
目標地:
訪城日:2016.11.6
お城の概要
現在の小番城地区一帯が城域とされる。
琵琶湖と堅田内湖に囲まれた天然の要害の面影を今も残す。
nobusan(中世の自治都市・堅田) より
古絵図の中の本堅田は、水路が張り巡らされ、まるで水の上に浮かんでいるようです。
老ヶ川橋のそばには、「小番城自治会」の広報板があります。
「小番城」は(こばんぎ)と読み、室町時代の城跡(小番城城遺跡)があった地区です。 現在は城跡は残っていない。
お城の歴史

中世の自治都市・堅田にあったとされる水城。 堅田衆の本拠・堅田城と今堅田城の間に位置することから、堅田衆に関連した城と思われる。

nobusan(中世の自治都市・堅田) より老ヶ川

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査9・さきろぐ・nobusan(中世の自治都市・堅田)
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今堅田城 近江国(大津)

2016年11月09日 | 平城

お城のデータ

所在地:大津市今堅田1丁目/今堅田町   map:http://yahoo.jp/VthOps
区 分:平城(水城)
現 状:宅地・平地
築城期:室町期(1340年頃)
築城者:堀口貞満の子・貞祐
遺 構: 
駐車場:路上駐車
訪城日:2016.11.6
お城の概要

 今堅田城の創建者は「堀口掃部介貞祐」、形式は「水城」です。城の歴史は「今堅田城は、大津市の北部に位置する今堅田の湖岸沿いにあった。湖に少し突き出ているような形をとり、しかも三方を湖水に囲まれた要害の地であるが、城の遺構は明確ではない。現在出来島(でけじま)として存在している。ここに城を築いたといわれる堀口掃部介貞祐は、清和源氏の新田氏の一族で、父の貞満は新田義貞にしたがって武勇をたてた人物である。『太平記』によれば、貞祐は堅田に居住し、足利義詮の北国落ちの時、後陣にいた京極導誉の長子秀綱を討ち取ったという。その堀口氏はそののち今堅田に住み泉福寺歴代の住持職をつとめている。その後、浅井・朝倉軍が織田信長に相対するために、今堅田城に甲賀武士団の磯谷新右衛門を主将として守備させたが、明智光秀・丹羽長秀らに湖から攻撃をうけ落城した。このときの戦況をポルトガル宣教師ルイス・フロイスは、「坂本より二レグワ(二里)の堅田(今堅田)の城を攻めたり、同城は一向一宗徒に属し・・・・・・」と述べている。」とあります。なお、大津市今堅田町は現在大津市今堅田になっています。

大津市今堅田1丁目の城域に建つ「線福寺」。
 

線福寺前の散策map

出島 燈台           
 明治8年に航行安全を願って建立されて「今堅田浜」の突端に建つ高さ約8mの高床式木造で、付近は湖上関があったと伝わります。琵琶湖が括れて対岸が迫る、座礁や難破事故が絶えなかった難所でした。
 昭和36年・第二室戸台風により倒壊寸前状態となり、地元の保存運動により昭和48年(1973)に復旧された。4本の柱と中心に立つ支柱の計5本の柱で支え、支柱の頭部に火袋を取付け、光源は大正7年までランプ、以後は電灯です。一度途絶えましたが、地元有志の手で平成元年から点灯を再開しました。(大津市有形民俗文化財) 

お城の歴史

 今堅田城は新田義貞に従い、武功を挙げた堀口貞満の子・貞祐が築城しました。具体的な築城年は明らかではないが、1340年代と思われます。

『佐々木南北諸氏帳』には、「片田今城 佐々木末隋兵 磯部太郎景季・同 佐々木隋兵 居初三郎宗清・同 居初又三郎・同 佐々木隋兵 馬場丹後盛頼資・同 佐々木隋兵 馬場孫次郎・同 佐々木隋兵 猪飼源五左衛門・同 佐々木隋兵 馬場勘助・同 佐々木隋兵 山田遠江守信孝・同 佐々木隋兵 山田重兵衛・同 佐々木隋兵元備州 野村備中守長文・同 佐々木末元犬上士 沢田喜太郎忠宗・同 佐々木元犬上士 沢田刑部少輔・同 佐々木隋兵元坂田士 大野木加賀守秀資・同 佐々木隋兵元浅井士 中島権内 同 佐々木隋兵元坂田士 新庄民部左衛門」等の名を記す。 

 1572年(元亀3年)信長は足利義昭に十七条の意見書を送りつけます。その内容については激しく義昭を叱責するものでした。今までは表面的には友好関係を保っていた二人でしたが、ここで対立は決定的となります。

 しかし、この時期信長は浅井・朝倉・武田・松永などの包囲網に苦しんでおり、窮地に陥った信長は義昭と講和を結ぼうとします。村井貞勝・島田秀満・日乗などを遣わしますが、信長を滅ぼせるチャンスを掴んだ義昭はこの要求を突っぱね、近江の石山に砦を作り兵を入れ、また今堅田の砦にも兵を入れます。1573年(元亀4年)2月20日、信長は柴田勝家・明智光秀・丹羽長秀・蜂屋頼隆らに攻撃を命じます。2月24日まず山岡景友の守る石山砦を攻撃します。石山砦はまだ完成しておらず、26日には落城します。そして29日今堅田城に攻撃を仕掛けます。今堅田城は甲賀衆・磯谷新右衛門が守っていましたが、光秀は囲い舟で湖上から攻撃し丹羽長秀と蜂屋頼隆は地上から攻め29日中に落城します。

堀口氏の居城。 1340年代、堀口貞祐による築城。

戦国期には将軍・足利義昭に与した甲賀衆が入城し、織田信長と交戦。織田方の柴田勝家・明智光秀に攻められ、落城した。

信長公記 巻六 元亀四年

2、異見十七ヶ条  公方様御謀叛

公方様が内々に信長公へ対し謀叛を企てていることは、この頃すでに明白となっていた。そのことは先年信長公が公方様の非分の行いを諌めるべく建言した十七ヶ条の異見書を、公方様が不承諾とした一事により明らかとなった。

 その十七ヶ条とは以下の通りであった。

(略)・・・以上の旨を異見したところ、金言耳に逆らったのであった。遠州表で武田信玄と対峙し、江州表では浅井下野守久政・長政父子および越前朝倉氏の大軍と取り合い、虎御前山の塞も守備半ばで方々手塞がりの状態となっている信長公の様子を、下々の者が御耳に入れたためでもあったろうか。
 信長公は年来の忠節がむなしく潰えて都鄙の嘲弄を浴びることを無念に思い、日乗上人・島田秀満・村井貞勝の三使を公方様のもとへ遣わした。そして要求のごとくに人質・誓紙を差し出して等閑なきようにする旨、種々様々に申し述べたが、ついに和談はならなかった。

 公方様は和談の交渉に対するに、兵をもって報いた。近江堅田の山岡光浄院景友・磯貝新右衛門と渡辺党へ内々に命を下し、かれらに兵を挙げさせたのである。かれらは今堅田に人数を入れ、一向一揆と結んで石山に足懸かりの砦を築いた。これに対し、信長公はすぐさま柴田勝家・明智光秀・丹羽長秀・蜂屋頼隆の四人を鎮圧に向かわせた。

3、火の手上がる  石山・今堅田攻められ候事

 軍勢は2月20日に出立し、24日には瀬田を渡って石山の砦へ取りかかった。砦には山岡光浄院が伊賀・甲賀の衆を率いて在城していたが、砦が普請半ばで守りがたく、26日には降伏して石山を退散した。砦は即刻破却された。
 今堅田の攻略は29日朝から開始された。東の湖上からは明智光秀が軍船をそろえて城西方へ攻め寄せ、陸からは丹羽長秀・蜂屋頼隆の両名が城南を攻め立てた。そして午刻頃に明智勢が攻め口を破って城内へ押し入り、敵兵数多を斬り捨てて砦は落ちた。これによって志賀郡の過半は相鎮まり、明智光秀が坂本に入城した。柴田・蜂屋・丹羽の三将は岐阜へ帰陣した。

 この挙兵によって公方様は、信長公への敵対の色を天下に示した。それをみた京童は、「かぞいろとやしない立てし甲斐もなくいたくも花を雨のうつを」(かぞいろ(父母)と思って養い立てた甲斐もなく、花(花の御所=将軍)を雨が打つ)と落書して洛中に立てまわった。

 3月25日、信長公は入洛のため岐阜を発った。そこへ29日になって細川藤孝・荒木信濃守村重の両名が、信長公への忠節の証として逢坂まで軍勢を迎えに出てきた。信長公は上機嫌でこれを迎え、同日東山の智恩院に着陣した。旗下の諸勢は白川・粟田口・祇園・清水・六波羅・鳥羽・竹田など(現京都市左京区・東山区・伏見区。京都東郊~南郊)にそれぞれ宿営した。信長公はここで荒木村重に郷義弘の刀を与え、細川藤孝にも名物の脇差を与えた。

 4月3日、信長公は堂塔寺庵を除く洛外の地に火を放ち、公方様へ和平をせまった。信長公は事ここに至っても公方様の提示する条件通りに和談を結ぶ旨を述べて交渉したが、ついに許容されることはなかった。


参考資料:滋賀県中世城郭分布調査・遺跡ウォーカー・『信長公記』『江州佐々木南北諸氏帳』

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箕作城(清水山城) 近江国(五箇荘)

2016年11月08日 | 山城

お城のデータ

所在地:東近江市(旧神崎郡の)五個荘山本町  map:http://yahoo.jp/8eDKEd 

別 称:清水山城

区分:山城

現 況:山林  

築城期:鎌倉期

築城者:六角政尭

遺 構:石垣・土塁・城跡碑・案内板:

標 高:325m 比高差:200m

目標地:貴船神社

駐車場:山本自治会館か・路上駐車

訪城日:2016.11.5

お城の概要

箕作城は、観音寺城と中山道を挟んだ南側に2つある山のうち、北側の峰上にあります。こちらの山を通常清水山と呼び、南箕作山と地元住民は呼び。すなわち、箕作(山)城は箕作山の上の箕作城には数千人を収容できるほどの規模はないため、南の箕作山には小脇山城がある。

城跡へは、北麓の貴船神社脇が大手であろう。南東麓の建部神社脇からは、近年地元住民が登城路を整備、西の主郭から、北西麓の清水鼻へ搦め手道か?

 今回は貴船神社参道脇から登下山した。尾根筋に出てすぐに、箕作城址石碑(大正期)が建つ。縄張り図によっては、ここも城内に含まれているのですが、石碑や鉄塔の建設によって地形が改変されいる。また比高差200mの急斜の尾根上で土塁は低土塁で

 主城域は、大きく分けて東西2つの曲輪からなっる。東側の曲輪が清水山山頂(城石碑建つ)にあたり、西の主郭には、石垣がわずか残る。両曲輪とも、城外側に虎口跡と石垣の痕跡が見受けられます。また、両曲輪とも樹木が伐採されていて、眺望絶景となって中山道のいます。、鉄塔建て替え工事に伴うものだ。新調された鉄塔の脇には、土塁跡

箕作城は、石垣や虎口を備えてはいるものの、両曲廓の尾根道脇は、5mの規模で、とても3千人が籠城。城内だけでなく清水山全体に陣取っていた。。

お城の歴史 

 応仁の乱の後、六角高頼に対抗するため、幕府が送り込んだ佐々木政尭が清水城を築いて籠城したといい、これが箕作城の前身とも云われる。

 

永禄11年(1568年)織田信長が六角氏の観音寺城を攻めたとき、六角氏は箕作山城に建部源八郎と吉田出雲を入れて守りを固めた。しかし、佐久間盛信や木下藤吉郎などが攻めかかって城は落城、六角父子は夜陰に紛れて甲賀へ逃れたと云われる。

自動代替テキストはありません。

箕作城 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

箕作城(みつくりじょう)は、現在の滋賀県東近江市五個荘山本町箕作山の山上に築かれた六角氏の城館。

本丸の石垣がわずかに残る。

  • 応仁の乱で六角高頼の観音寺城に対抗して佐々木政尭(まさたか)が築城。

  • 天文19年(1550)頃、佐々木六角高頼が改修。
  • 永禄11年(1568)、織田信長の攻撃で落城し以後は廃城となった(観音寺城の戦い=箕作城の戦い}。

観音寺城の支城です。六角定頼が天文十九年(1550年)に改築城しましたが、永禄十一年(1568年)に織田信長の侵攻で落城しました

 

信長公記 巻一

4、上洛  信長入洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるるの事

 永禄11(1568)年9月7日、信長公は義昭殿の元へ参上し、出陣の挨拶を述べた。
「江州をひと呑みに討ち果たし、お迎え申し上げる」
そうして信長公は濃尾勢三(信長所領の兵に家康の援軍も加え、総勢四万~六万と伝えられる。)四州の軍兵を率い、同日岐阜を出立した。

 軍勢は平尾村(現岐阜県垂井)で夜を明かして翌8日江州高宮(現滋賀県彦根市)まで進み、この地に二日間滞在して人馬の息を休めた。11日になって休息を終えた軍勢は愛知川近辺まで進軍して野陣を張った。ここから馬を駆けまわして付近の敵状を探索した信長公は、沿道に散在する敵城には目をくれずに進軍し、六角承禎親子が立てこもる観音寺城(現・安土町)に近接する箕作城(現五箇荘)へ向かった。翌12日、信長公の命を受けた佐久間信盛・木下藤吉郎秀吉・丹羽長秀・浅井新八らによって箕作城の攻撃が開始された。攻撃は申刻(午後3時過ぎ)より始まり、夜半に城は落ちた。
 信長公の所領となってまもない美濃の将士は、この戦ではさだめし先手として追い使われることになろうと覚悟していた。しかしいざ戦が始まってみると、信長公は美濃衆などに構わず馬廻りだけで攻撃を開始してしまった。この思いもよらない戦の仕方に、美濃三人衆などはただ驚くばかりであったという。

 落城後、信長公は箕作山に陣を据え、翌日にも六角氏の本拠観音寺城を攻める勢いを示した。ところが箕作の陥落をみた承禎親子は抵抗は不可能とみて城を捨てて逃亡してしまった。翌日織田勢はやすやすと観音寺城へ入城を果たした。観音寺落城によって付近の六角残党が軒並みに降伏してきたため、信長公は人質を差し出させた上で彼らの所領を安堵してやり、一国を支配下に収めた。盟約通り江南を平定した信長公は、14日不破光治を迎えの使者に立てて美濃立正寺へ向かわせた。・・・云々

箕作(みつくり)城の戦い

  箕作山は標高3百メートル余の小山であったが、城へ通じる道は急斜面に一筋しかなく、大樹に覆われた要害であった。守将は剛勇で知られた吉田重光・建部秀明・狛修理亮・吉田新助などで3千余人が防備にあたり、徹底抗戦の構えを見せていた。

 これに対して織田軍は東口から丹羽長秀隊3千余人、北口から羽柴秀吉隊2千3百余人が攻め立てた。しかし城方の守備は堅固で、日没まで陥落させることができなかった。そこで秀吉は蜂須賀正勝の夜襲案を採用することにした。

 1メートルほどの大松明を数百本用意し、箕作山の麓から中腹まで50箇所ほどに積み重ねておき、頃合いを見て一斉に点火し、いわゆる火攻めを行うというものだった。それと同時に秀吉隊も手に松明をかざして一斉攻撃を展開したために城兵たちも防ぎきれず、2百余人の犠牲者を出して退散してしまったのである。

 この箕作城の陥落を知った和田山城では一戦も交えることなく全員が逃亡し、観音寺城の義賢も完全に戦意を失い、夜陰に紛れて甲賀郡へと落ち延びていった。翌日になって義賢父子が逃亡したことがわかると六角氏重臣の平井定武・後藤高治らもことごとく信長に降った。

 最後まで抵抗の姿勢を示した日野城主の蒲生賢秀(氏郷の父)も、神戸友盛の説得によって降伏した。

 観音寺城の戦いは、永禄11年(1568年)9月12日、足利義昭を奉じて上洛の途にあった織田信長と近江守護である六角義賢・義治父子との間で行なわれた戦い。支城の箕作城(みつくりじょう)が主戦場だったため、別名「箕作城の戦い」とも云われている。

しかし信長の行動はその裏をかいた格好となった。

9月12日早朝、織田軍は愛知川を渡河すると、3隊に分かれた。稲葉良通が率いる第1隊が和田山城へ、柴田勝家と森可成が率いる第2隊は観音寺城へ信長、滝川一益、丹羽長秀、木下秀吉(後の豊臣秀吉)らの第3隊が箕作城に向かった

 戦端は箕作城でひらかれた。木下隊2千3百が北の口から、丹羽隊3千が東の口から攻撃を開始した。この箕作城というのは急坂や大木が覆う堅城で、吉田出雲守隊の守りも固く、午後五時前後には逆に追い崩されてしまった

 木下隊では評議を行い、夜襲を決行することになる。木下秀吉は策をめぐらし、3尺の松明を数百本用意させ、中腹まで50箇所に配置し一斉に火をつけ、これを合図に一挙に攻め上った。7時間以上戦ったその日のうちに夜襲を仕掛けてくるとは考えてもいなかったのか箕作城兵は驚き、必死に防戦したが支えきれず、夜明けを待たずに落城してしまった。かなりの激戦だったらしく、200以上の首級が上がった。箕作城の落城を知った和田山の城兵は、戦わずに逃亡してしまった。

 長期戦を想定していた六角義治は、戦端が開かれてから1日も立たずに箕作城と和田山城が落ちたことに落胆し、観音寺城の防備が弱いことを悟ったのか、古来の例にならい夜陰に紛れて甲賀へ落ち延びていった。当主を失った18の支城は、1つを除き次々と織田軍に降り、ここに大勢が決した。この戦いの織田軍の損害は1500人ほどだと『フロイス日本史』に記載されている。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査・『ウィキペディア(Wikipedia)』・『信長公記』

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