城郭探訪

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柏原御殿  (滋賀県米原市柏原)

2012年07月31日 | 館跡

 

(現地案内板より)

 

 

 

 

徳川家康は、領国江戸と京・大坂をしばしば往復し、その都度柏原宿を通過している。 当初は柏原宿の土豪西村勘助の屋敷を宿舎として利用していた。

 柏原御殿は、近江に4個所(水口御殿=水口城、伊庭御殿、永原御殿、柏原御殿)設けられた将軍家上洛の時に使用する御殿(御茶屋)として、元和9年頃に建築し、寛永3年大改修をして完成し、元禄2年に柏原御殿は廃止となった。

 余談だが、柏原宿の地は交通の要衝でもあったため、古くは豊臣秀吉の蔵入地、その後は徳川幕府の直轄地であったが、享保9年には大和郡山藩領となり明治に至った。

 

柏原御殿は、中山道柏原宿の南外れにあり、現在は緑地駐車場となっている。                        道路脇には案内板と石碑があり、その背後に御殿の井戸だけが残っている。

 御殿跡は、これと云って見るべきものはないが、柏原宿は江戸時代に約500軒もの店や宿がひしめく中山道の中で大規模な宿場町であった。         旧中山道に面した通りは、宿場町の風情を今でも堪能することが出来る。

柏原宿は、柏原駅から西側の旧中山道沿いに江戸時代の面影を残す町並みが続き、歴史資料館もある。                                               また、清滝の清滝寺には、近江守護京極氏の墓所がある。北畠行基の墓所もある。

鉄 道: JR東海道本線柏原駅~徒歩
 車 : 名神高速米原IC~国道21号線~旧中山道(町道)
駐車場:

なし。(御殿跡の小公園前に路上駐車)

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。感謝!


箕浦館 近江国(滋賀県米原市柏原)

2012年07月31日 | 館跡

箕浦館は、中山道の宿場町の一角に残っているお城(居館)。 

お城のデータ

所在地:米原市(旧山東町)柏原 map:https://yahoo.jp/Se74qD

区 分:居館

現 状:宅地

築城期:南北朝

築城者:箕浦氏

遺 構:城跡碑、井戸

訪問日:2017.7.31

目標地:柏原宿歴史館

駐車場:城石碑前に路上駐車

お城の概要・歴史                                                                                                  中山道柏原宿の真ん中あたりにある『柏原宿歴史館』前から、南側に小路を入った右手の民家前に城石碑が建てられ、碑の背後に「館の井戸」が今も残っていた。                                                                                                                      それ以外の館の遺構は何も残っていない。

箕浦館は、南北朝時代に京極氏の家臣箕浦氏によって築かれたが、その他の詳細については定かでない。

 

柏原宿は、柏原駅から西側の旧中山道沿いに江戸時代の面影を残す町並みが続き、歴史資料館もある。徳川家の柏原御殿跡も。

 また、清滝の清滝寺には、近江守護京極氏の墓所がある。 北畠行基の墓所もある。

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


歴史ブロガーの「瀬田橋をめぐる攻防の地を訪ねて」探訪記 INDEX

2012年07月30日 | INDEX

歴史ブロガーの「瀬田橋をめぐる攻防の地を訪ねて」の史跡探訪記です。

 

以下、各地のレポート記事へのリンクとなっています。

awazu-map.gif/粟津一里塚ウォーキングマップ

 

歴史ブロガーの「瀬田橋をめぐる攻防の地を訪ねて」・・・瀬田唐橋・近江国庁跡・堂ノ上遺跡など

旧東海道を勢多の唐橋へ

唐崎焼き 近江牛往時町並み

明治天皇鳥居川御小休所

 

瀬田川中の島

うなぎの「うおい」・・・瀬田川中の島で 

瀬田の唐橋  古来より「唐橋を制する者は天下を制す」と言われた。

参考に:瀬田城

瀬田城跡の建つ、在りし日の臨湖庵瀬田城跡に建つ、在りし日の臨湖庵 瀬田城跡には、2008年に近江・臨湖庵と名の高層のマンションが建てられた。

龍王宮秀郷社(りゅうおうぐうひでさとしゃ)藤原秀郷(俵藤太(たわらのとうた))

  

堂ノ上遺跡へ

旧東海道

近江国丁跡へと

    

芦浦街道(旧東海道)を

   

久保江古墳跡

  

若宮神社

  

 

歴史ブロガーの「瀬田橋をめぐる攻防の地を訪ねて」・・・建部神社

  建部(たけべ)大社

古代日本の軍事的統一に活躍した伝説上の英雄日本武尊(やまとたけるのみこと)を祭神とする古社。天武(てんむ)天皇4 年(675 年)神崎郡建部(たけべ)郷から瀬田せたの東、大野山(おおのやま)上に遷座、さらに天平(てんぴょう)勝宝(しょうほう)7 年(755年)近江国の軍団の長の建部氏が山麓の現在地に移して、近江一の宮としたと伝えられる。
平安時代には正一位に叙されるなど朝廷の信仰も厚く、鎌倉時代には軍神として源頼朝を始め武家の信仰を集めた。

石の菊花(本殿の裏)

昭和20年の千圓札

宝物殿

・参考資料:文化財保護課(・県)・現地説明板、パンフレット、HP・BLOG等々

滋賀県教育委員会事務局文化財保護課の企画の
「ブロガーによる歴史探訪情報発信」これにて終了です。

【滋賀県歴史探訪】:Aコース 「平家物語・祇王祇女と源義経のゆかりの地を訪ねて」探訪記 INDEX

【滋賀県歴史探訪】:Bコース「景清・清盛・道誉 つわものどもの謎と足跡を訪ねて」探訪記 INDEX

【滋賀県歴史探訪】:Cコース「歴史ブロガーの「東山道をめぐる攻防の地を訪ねて」探訪記 INDEX

【滋賀県歴史探訪】:Dコース歴史ブロガーの「木曽殿最後の地・膳所を訪ねて」探訪記 INDEX

是非、一度現地に出かけ、確認下さいませ!

 今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。感謝!

 


歴史ブロガーの「瀬田橋をめぐる攻防の地を訪ねて」・・・瀬田唐橋・近江国庁跡・堂ノ上遺跡など

2012年07月29日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

 歴史ブロガーのEコース「瀬田橋をめぐる攻防の地を訪ねて」

JR石山駅13:00集合

 awazu-map.gif/粟津一里塚ウォーキングマップ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「五月雨に隠れぬものや瀬田の橋」松尾芭蕉

 江戸時代に松尾芭蕉(1644-94)が4カ月間暮らした草庵。京阪電鉄石山寺駅の西にある国分山東斜面の近津尾(ちかつお)神社にあります。芭蕉が、ここでの生活を『幻住庵記(げんじゅうあんき)』に記したことはあまりにも有名です。幻住庵は、芭蕉の門人の1人であった菅沼曲翠(すがぬまきょくすい)(1659-1717)が義仲寺で生活していた芭蕉の隠棲地として、伯父幻住老人(げんじゅうろうじん)(定知(さだとも))の旧庵に手を加えて、提供したものです。芭蕉は、ここからの眺望やここでの生活を心から愛しました。幻住庵の名は、曲翠の伯父幻住老人の名に由来しています。
 今までは、近津尾神社境内に跡碑と句碑がひっそりと立っているのみでしたが、平成3年(1991)10月「ふるさと吟遊芭蕉(ぎんゆうばしょう)の里」事業の一環として幻住庵が再建され、『幻住庵記』の中に出てくる「とくとくの清水」は、現在も変わらずに木立ちの中を流れています。なお、句碑に刻まれているのは「先(まず)たのむ椎の木もあり夏木立」という『幻住庵記(げんじゅうあんき)』を結ぶ句です。

歴史ブロガー「瀬田橋をめぐる攻防の地を訪ねて」瀬田唐橋・近江国庁跡・堂ノ上遺跡など

旧東海道を勢多の唐橋へ

唐崎焼き

江戸の往時の旧東海道沿いの町屋

明治天皇鳥居川御小休所

鳥居川町4-16(石山商店街の南)道路の西側に黒い木戸と白壁の門があり、向かって右側に「明治天皇鳥居川御小休所」と刻まれた石碑。

  
その昔、この黒門の辺りは松屋(川村清佐衛門宅)と云う旅籠で、明治11年10月に明治天皇が北陸や東海道ご巡幸の際、小休憩されたのを記念して建てられたものです。
碑の側面に「史蹟名勝天然紀念保存法ニ依り史蹟トシテ昭和十年十一月文部大臣指定」と記されています。建立は昭和12月3月、建立者は不詳です。

 瀬田の唐橋

  琵琶湖から注ぎ出る川は瀬田川しかなく、東から京都へ向かうには瀬田川か琵琶湖を渡るしかない。瀬田川にかかる唯一の橋であった瀬田の唐橋は京都防衛上の重要地であったことから、古来より「唐橋を制する者は天下を制す」と言われた。

本格的には近江大津宮遷都の時に架橋されたと考えられるが、当時は現在の位置より65m南の龍王社・雲住寺を東端としていた。南は雲領事住寺から東へ上がって行く道が勢多駅家と考えられる堂ノ上遺跡の前を通り「近江国丁跡へと至る。

幾多の戦禍で破壊と再建が繰り返された日本三名橋のひとつ

 琵琶湖の南端から流れ出る瀬田川にかかる瀬田の唐橋は、近江八景の一つ「瀬田の夕照(せきしょう)」として有名な橋で、古くは日本書紀にも登場するほどです。
 瀬田の唐橋は、東国から京に入る関所の役割を果たし、軍事・交通の要衝でもあったため、「唐橋を制する者は天下を制す」とまでいわれ、7世紀の後半の「壬申の乱」、13世紀の「承久の乱」、14世紀の「建武の戦い」など、幾多の戦乱の舞台になり、そのたびに破壊・再建を繰り返してきました。
 本来、橋はもう少し上流にありましたが、天正3(1575)年、織田信長が現在の位置に新しい橋を建設し、以来、今の場所が定位置になっています。
 その後も、たびたび橋は架け替えられ、現在の橋は昭和54年に造営されたもので、ゆるやかな反り、旧橋の擬宝珠(ぎぼし)をつけるなど、昔のおもかげをしのばせています。
 瀬田の唐橋は文学や民話にもたびたび登場しています。民話「三上山のムカデたいじ」では、唐橋を渡る俵藤太の前に龍宮の姫が変身した大蛇が現れますが、橋の東詰めには藤太や竜宮の王を祀る龍王宮秀郷社(りゅうおうぐうひでさとしゃ)や藤太の追善供養のために建立された雲住寺があります。

 

 

 古代

最初に架けられた橋は両岸に生えていた大きな藤の木を利用したつり橋で、景行天皇(日本武尊の父)の時代に丸木舟を横に何艘も並べ、藤や葛のツタで絡めた搦橋が架けられた。 

神功皇后の摂政元年、香坂皇子と忍熊皇子が反乱。忍熊皇子は神功皇后(応神天皇の母)の家来である武内宿禰の軍に攻められ、瀬田で自害したという(『日本書紀』 気長足姫尊 神功皇后)。

 大津京の天智天皇の後継争いの壬申の乱(671年)では、大友皇子(弘文天皇)と大海人皇子(天武天皇)の最後の決戦場となった。大友皇子方が、橋板をはずして大海人皇子方を待ち受けたが、突破されて滅んだ御霊神社の主祭神は大友皇子である(『日本書紀』 天武天皇 上 元年七月)。これが瀬田の唐橋の文献上の初見である。

 平安時代

  • 870年1月9日(貞観11年12月4日)に火事(『日本三代実録』巻十六)。
  • 871年12月19日(貞観13年11月4日)に火事(『日本三代実録』巻二九)。
  • 藤原秀郷(俵藤太)の大ムカデ退治伝説として有名だが、背景には平将門の乱平定があるといわれる。
  • 治承・寿永の内乱(源平合戦) 1183年(寿永元年)に源義仲対平家、1184年(寿永2年)に源義経対義仲の合戦があった際に、源範頼が攻める瀬田橋の橋板をはずして守っていたのが今井兼平。宇治で敗れた義仲と合流し、粟津が原の合戦で敗死(『平家物語』)。

鎌倉・室町時代

  • 承久の乱 1221年(承久3年)、後鳥羽上皇の京軍(山田次郎重忠が率いる比叡山の僧兵三百騎)と北条義時の弟・時房率いる鎌倉幕府軍が瀬田川を挟んで交戦。
  • 建武の戦い 1336年(建武4年)、足利直義の率いる北朝軍と南朝軍が瀬田川を挟んで交戦。
  • 本能寺の変~天王山の戦い 唐橋を現在の位置に移したのは織田信長。架橋奉行は瀬田城主の山岡景隆で、90日で完成させたという。  明智光秀が本能寺の変で信長を倒されると、景隆は光秀が安土を攻めようとしたため、唐橋と瀬田城を焼いてこれを阻止した。 しかし橋は光秀によってただちに修復されてしまった。

江戸時代以降

膳所藩(本多家)が管理。東海道がここを通った。

木造の橋が現在のコンクリート製になったのは1979年(昭和54年)のことであるが、橋の特徴である擬宝珠は歴代受け継がれており、「文政」「明治」などの銘が入ったものも現存する。

『近江八景』シリーズ(歌川広重)のひとつ「瀬多夕照」に描かれた往時の唐橋。 日本三名橋の一つで近江八景「瀬田の夕照」で名高い名橋。                                                                             古くは、瀬田橋・瀬田の長橋とも呼ばれ、日本書紀にも登場する。

ファイル:Hiroshige View of a long bridge across a lake.jpg『近江八景』シリーズ(歌川広重)のひとつ「瀬多夕照」に描かれた往時の唐橋。                                           

現在の状態は、織田信長により現在の状況(大橋・小橋)に整備された。

唐橋の川下の中の島から龍王宮秀郷(俵籐太)社

 

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「五月雨に隠れぬものや瀬田の橋」松尾芭蕉

現在の橋は昭和54年に架け替えられたが、緩やかな反りや旧橋の擬宝珠など往時の姿をとどめている。 

                                         2012年唐橋の塗替えが完了、地元では色の選定に論議が醸し出され大いに賑わいました。沢山の色が発表され、注目の度合いに驚き。最終的に色は「唐茶」に決定され、5月の末には、きれいに塗り替えられた橋が風景にマッチし優美な落ち着きを醸し出しています。

「いそがばまわれ」の語源となった。咄本「醒睡抄」のなかの説話から諺。宗長のよめる『武士(もののふ)の やばせの舟は速くとも 急がば回れ瀬田の唐橋』」宗長は、室町後期の連歌師で、この歌の意味は、東海道を通って大津に行く場合の2つの経路について、琵琶湖を渡る船便と遠回り迂回陸路とを比較しています。当時は一般的に早便としては、船便を使っていたようで、陸路を歩いていくより距離で2里も近い。しかし、湖上経路は比良の山から吹きおろす突風で船が難破する危険があり、瀬田の唐橋を渡った方が、安全確実だと歌ったもの。また、草津宿では「瀬田へ廻ろうか矢橋け下ろか此処が思案のうばがもち
また、「急がざれば、濡れざらましを旅人のあとより晴れる野路の村雨」という世渡りの訓戒として知られた歌も伝承されています。

 龍王宮秀郷社(りゅうおうぐうひでさとしゃ)藤原秀郷(俵藤太(たわらのとうた))

瀬田の唐橋には、平安時代、平将門の乱を鎮めた藤原秀郷(俵藤太(たわらのとうた))が、唐橋の川底にある竜宮の乙姫の願いで、見上山を七巻半するという大ムカデを退治したという伝説があり、その秀郷と乙姫の霊を祀る神社。

 

 

 

堂ノ上遺跡へ

近江国丁跡へと

  旧瀬田の唐橋から近江国丁へ直線に古代官道が!

 

 

芦浦街道(旧東海道)を

 道標「旧芦浦街道」芦浦道 - 地図Z

道標「右せた 左や者せ」

久保江古墳跡

若松神社の陶器でできたお棺(レプリカ?)。

若宮神社

窪江城(別名大江城址)瀬田城同様に瀬田唐橋を守る城。 

若松神社より城址方向 遠景の森が、窪江城(別名大江城址)                                       築城は南北朝の頃。戦国期に山岡氏によって改修され石垣にて天守台も作られた。                                                  資料によると天守台が残っておりコンクリートで相当補強はされていますが石垣は往時のものとの事。                                        東レ工場の西側に天守台があるらしいので、若松神社側から廻り西側フェンス越しに工場内をみましたが、はっきりと天守石垣は確認できません。  (工場内には城址碑も建てられているようです。) 元々、この辺りには古墳があり、若松神社には陶器でできたお棺が出土したところです。これら古墳を利用した城域なのかもしれませんが、今は、城址の中心部は工場の敷地内にある。

 

参考に:瀬田城跡

 

瀬田城跡碑瀬田城跡碑

唐橋の中ノ島より瀬田城址のマンション

 

瀬田城は永享年間(1429~1441)に山岡資広(すけひろ)が城主となってから八代目の山岡景隆(かげたか)は、瀬田城最後の城主でした。景隆は、室町幕府の将軍足利氏に仕えていました。六角氏の有力家臣でもありましたが、永禄十一年(1568)六角氏の安土の観音寺城の落城で織田信長に付きました。また、天正三年(1575)には信長の命により、瀬田橋架橋の任につきました。
天正十年(1582)6月、明智光秀は京都本能寺に信長を討ち、安土城を受け取るため近江に入りましたが、途中、景隆はその行く手をさえぎるべく、瀬田橋を焼き落としました。光秀は使者をつかわして、自軍への勧誘をはかりましたが、景隆は、追い返しました。そののち、信長の次男の信雄(のぶかつ)・羽柴秀吉とともに北伊勢攻めに参陣しましたが、賤ヶ岳の合戦の際、敵方の柴田勝家に内通していたことがわかり、瀬田城を追われました

瀬田城跡(に建つ、在りし日の臨湖庵)・・・瀬田唐橋を守る城臨湖庵跡地に建てられたマンション城跡には臨湖庵という料亭が建っていたが、2008年に近江・臨湖庵と名の高層のマンション。

【瀬田城跡】
壬申の乱以来、源平の戦いなどで重要な地点として瀬田川畔に戦国時代に瀬田城を築いたのは甲賀武士の流れをくむ佐々木氏家臣の山岡景房である。
織田信長の命によって、瀬田橋をかけた当時の城主山岡美作守景隆は、本能寺で信長を討ち安土城に向かう明智光秀と瀬田川で対戦したが力つき自ら城に火を放って甲賀へ引きあげそれ以来廃城となり、今はわずかに石垣を残すばかりである。その後膳所藩の別邸となり禅僧天寧が庵をたて「臨江庵」と名づけた。
昭和四十九年 大津市教育委員会(現地説明板より)

【臨湖庵の由来】
瀬田城は永享元年(1429年)、勢多判官章則氏の手により築城されました。
天正10年本能寺の変の際、城主山岡景隆の手により火が放たれました。その後膳所藩の重臣、三松氏が出家しこの地に草庵を結び、臨江庵と名づけたのが現在の臨湖庵の由来となった。
(現地案内板より)明智光秀の進軍を瀬田で迎え撃った山岡景隆とはどのような人物だったのでしょうか。景隆は近江勢多城主山岡景之の長男で、父景之の母は宇野氏と言われています。山岡景隆ははじめ将軍足利氏に仕え、佐々木六角氏のもと、江南の旗頭として織田信長に対抗しましたが、永禄12年(1569)からは信長に仕えました。


明智光秀の進軍を瀬田で迎え撃った山岡景隆とはどのような人物だったのでしょうか。景隆は近江勢多城主山岡景之の長男で、父景之の母は宇野氏と言われています。山岡景隆ははじめ将軍足利氏に仕え、佐々木六角氏のもと、江南の旗頭として織田信長に対抗しましたが、永禄12年(1569)からは信長に仕えました。

  壬申の乱以後、源平の戦いなどで重要な地点としての瀬田川京都防衛の重要拠点でした。                                          瀬田城を築いたのは甲賀武士の流れを汲む佐々木氏の臣の山岡景房が永享元年(1429年)に築いた城。                                    織田信長の命によって瀬田橋を架けた当時の城主山岡美作守景隆は、本能寺で信長を討ち安土城に向かう明智光秀と対戦したが、                        瀬田唐橋を焼き・城にも火を放って甲賀へ引き上げ以来廃城となりました。                                                                  江戸期に膳所藩の別亭となり禅僧天寧が庵をたて「臨江庵」と名付けられました。<現地案内板より>
                             2012年現状                              フェンス内の石垣

 

 

・参考資料:文化財保護課(・県)・現地説明板、パンフレット、HP・BLOG等々

 Eコース:「歴史ブロガーの「瀬田橋をめぐる攻防の地を訪ねて」・・・建部神社」 お楽しみ下さい!

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。感謝!

歴史ブロガーの「瀬田橋をめぐる攻防の地を訪ねて」・・・建部神社

2012年07月29日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

 

歴史ブロガーの「瀬田橋をめぐる攻防の地を訪ねて」

歴史ブロガーの「瀬田橋をめぐる攻防の地を訪ねて」・・・建部神社

建部(たけべ)大社

 武運来運の神として信仰を集めました。  社殿は、日本武尊を祀る正殿と大己貴命(おおなむちのみこと)を祀る権殿が並び立ち、拝殿左右に未社が並んでいます。拝殿左右に未社が。  日本武尊を祀る正殿
古代日本の軍事的統一に活躍した伝説上の英雄日本武尊(やまとたけるのみこと)を祭神とする古社。天武(てんむ)天皇4 年(675 年)神崎郡建部(たけべ)郷から瀬田せたの東、大野山(おおのやま)上に遷座、さらに天平(てんぴょう)勝宝(しょうほう)7 年(755年)近江国の軍団の長の建部氏が山麓の現在地に移して、近江一の宮としたと伝えられる。
平安時代には正一位に叙されるなど朝廷の信仰も厚く、鎌倉時代には軍神として源頼朝を始め武家の信仰を集めた。

ご由緒

当社は古来、建部大社、建部大明神などと称え、延喜式内名神大社に列し、又近江国の一之宮として朝野の崇敬篤く、長い歴史と由緒を持つ全国屈指の古社です。
御祭神、日本武尊は御年僅に16才にて熊襲を誅し、更に東夷を平定され、遂に32才にして伊勢の能褒野において崩御されましたが、父君景行天皇は尊の永逝をいたく歎かれ、御名代として建部を定め、その功名を伝えられました(日本書紀にしるされている)これが即ち建部の起源です。
景行天皇の46年、神勅により御妃 布多遅比売命(ふたじひめのみこと)(父は近江安国造)が、御子稲依別王(いなよりわけのみこ)と共に住まわれていた神崎郡建部の郷(御名代の地)に尊の神霊を奉斎されたのが当社の草創であって、その後天武天皇白鳳4年(675年)、当時近江国府の所在地であった瀬田の地に迀祀し、近江一宮として崇め奉ったのが現在の当大社です。
歴朝の御尊信篤く、武門武将の崇敬枚挙にいとまなく、とくに源頼朝が平家に捕われ、14才にして伊豆に流されるため、京都から関東に下向の折、永暦元年(1160年)3月20日当社に参篭して前途を祈願した事が平治物語に記されています。遂に頼朝は源氏再興の宿願成って、建久元年(1190年)11月右大将として上洛の際、再び社前で祈願成就の神慮に対し、幾多の神宝と神領を寄進して奉賽の誠を尽くされたのです
爾来当大社が出世開運、除災厄除、商売繁盛、縁結び、医薬醸造の神として広く崇敬される所以です。

 

大己貴命(おおなむちのみこと)を祀る権殿社務所前には御神水

境内にある石灯籠。〈重文〉

幻の千圓札・・・昭和20年発行された高額紙幣(現在に換算すると20~30万円札)

建部大社日本武尊

宝物殿(有料)社宝としては、平安時代の作で日本武尊の妃といわれる木造女神像があります。〈重文〉 

 武運来運の神として信仰を集めました。 平治の乱に敗れた源頼朝が伊豆に流される途中、再起を祈願した。                                                                                                                                                                  毎年8月17日に行われる船幸祭(せんこうさい)が有名です。 境内の大野神社は縁結の御利益があります。 

大津市神領1-16-1
077-545-0038
境内は無料
宝物殿は200円(要予約)
JR石山駅から徒歩15分又は
バス建部大社前下車、徒歩3分
名神瀬田西・東ICから5分
普通車70台、大型車数台
http://takebetaisha.jp/

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・参考資料:建部(たけべ)神社宮司・文化財保護課(・県)・現地説明板、パンフレット、HP・BLOG等々

 

本日の歩数 13,931歩   2時間14分 9.7km

消費カロリー 595.0kcal    脂肪消費量 85.0g

 

 

 

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。感謝!


【滋賀県歴史探訪】:Dコース歴史ブロガーの「木曽殿最後の地・膳所を訪ねて」探訪記 INDEX

2012年07月26日 | INDEX

「ブロガーによる歴史探訪情報発信」Dコースに参加させていただき
歴史ブロガーの「木曽殿最後の地・膳所を訪ねて」の史跡探訪記です。 

以下、各地のレポート記事へのリンクとなっています。

歴史ブロガーの「木曽殿最後の地・膳所を訪ねて」 前半

 『名もなき尼僧』この尼が美しく武勇に優れた側室の、巴御前(ともえごぜん)が名を隠して墓を守ったのである。

 芭蕉の句「旅に病んで夢は枯野を駆け巡る」「古池や蛙飛び込む水の音」

伊勢の俳人又玄の有名な句「木曽殿と脊中合わせの寒さかな」

歴史ブロガーの「木曽殿最後の地・膳所を訪ねて」 後編

膳所城は、関ヶ原合戦の翌年(合戦後、最初に建てた城)、東海道・瀬田橋・琵琶湖水運などをおさえる要衝として、徳川家康が築城の名手藤堂高虎(とうどう たかとら)に「初めて天下普請の城」。本多佐渡守正信は、瀬田の地では東海道を押さえても、湖上水運を押さえられないことから、膳所の地に
 膳所城は、東海道の名勝として、屏風や図絵にも描かれ、街道を行き来する旅人は、「瀬田の唐橋 唐金擬宝珠(からかねぎぼし) 水に映るは膳所の城」と唄われるほどでの雄姿でもありました。

 

 

次回7/28 Eコース:「歴史ブロガーの「瀬田橋をめぐる攻防の地を訪ねて」・・・瀬田唐橋・近江国庁跡・堂ノ上遺跡など 」 をお楽しみに


【滋賀県歴史探訪】:Cコース「歴史ブロガーの「東山道をめぐる攻防の地を訪ねて」探訪記 INDEX

2012年07月26日 | INDEX

2012年7月14日(土)、

「ブロガーによる歴史探訪情報発信」Cコースに参加させていただき
米原市の「東山道をめぐる攻防の地」の史跡探訪記です。

東山道(中山道)を米原宿・番場宿・醒井宿・柏原宿・・・佐々木京極氏の治領を!

以下、各地のレポート記事へのリンクとなっています。

歴史ブロガーの「東山道をめぐる攻防の地を訪ねて」 前                                                           米原宿・・青岸寺・

番場宿・・蓮華寺・・北条仲時自刃の地・墓所、番場の忠太郎地蔵・・・

醒井宿・・居醒の泉・地蔵川・西行泉・道の駅・・・

歴史ブロガーの「東山道をめぐる攻防の地を訪ねて」 中

成菩提院

柏原宿

 お茶屋御殿

歴史ブロガーの「東山道をめぐる攻防の地を訪ねて」 後

北畠貝行墓碑

徳源院清滝寺・・・京極一族の菩提寺・墓所

 

・参考資料:現地説明の神主、語り部、文化財保護課(県)・現地説明板、パンフレット、HP・BLOG等々

 次回Dコース:歴史ブロガーの「木曽殿最後の地・膳所を訪ねて」 前半お楽しみに


【滋賀県歴史探訪】:Bコース「景清・清盛・道誉 つわものどもの謎と足跡を訪ねて」探訪記 INDEX

2012年07月26日 | INDEX

2012年7月7日(土)、
「ブロガーによる歴史探訪情報発信」Bコース
近江八幡安土町・東近江五個荘・甲良町・多賀町の史跡探訪です。

 Bコース:「景清・清盛・道誉 つわものどもの謎と足跡を訪ねて」

以下、各地のレポート記事へのリンクとなっています

駅前信長公にご挨拶、瑟瑟桜を確認、佐々木六角の観音寺城址(繖山・安土山)を見ながら出発・・・・。

歴史ブロガーの「景清・清盛・道誉 つわものどもの謎と足跡を訪ねて」・・・安土編                                                           ・景清道景清道の浄厳院(元は領主佐々木氏の菩提寺慈恩寺)、佐佐木源氏の氏神であり、佐々木姓発祥地佐々貴神社、厳院教林坊へ・・・小堀遠州作庭の梅雨の苔寺(白洲正子の愛した近江・・・隠れ寺)・・・

   

歴史ブロガーの「景清・清盛・道誉 つわものどもの謎と足跡を訪ねて」・・・五個荘編                                                                   ・近江商人の故郷 五個荘商人(商人屋敷)、昼食・・・ 

歴史ブロガーの「景清・清盛・道誉 つわものどもの謎と足跡を訪ねて」・・・甲良編                                                               ・勝正寺(ご住職の説明)・道誉の墓所・・・・気になる「勝正寺城跡」後日探訪しよう!

 

歴史ブロガーの「景清・清盛・道誉 つわものどもの謎と足跡を訪ねて」・・・多賀編                                                               ・名神高速道路のSA内敏満寺城跡敏満寺城祉、故宮神社・多賀大社。あけぼのパーク多賀博物館で「ゾウがいたゾウ」

 

  

・参考資料:現地説明の住職、文化財保護課(県・竜王町・野洲市)・現地説明板、パンフレット、HP・BLOG等々 

次回 Cコース:歴史ブロガーの「東山道をめぐる攻防の地を訪ねて」 前半も、訪問下さいね!

 


【滋賀県歴史探訪】:Aコース 「平家物語・祇王祇女と源義経のゆかりの地を訪ねて」探訪記 INDEX

2012年07月26日 | INDEX

「ブロガーによる歴史探訪情報発信」Aコースに参加させていただき
滋賀県蒲生郡竜王町と野洲市の史跡探訪です。

Aコース:「平家物語・祇王祇女と源義経のゆかりの地を訪ねて」

以下、各地のレポート記事へのリンクとなっています

歴史ブロガーの「妓王妓女と源義経の里を訪ねて」・・・竜王編                                                                   ・苗村神社・義経元服池・鏡神社・鏡の宿・・・(何時も、車で素道りいている道路脇) 

  

歴史ブロガーの「妓王妓女と源義経の里を訪ねて」・・・野洲編                                                                           ・平家終焉の地・妓王寺・祇王井・兵主神社、永原御殿・・・(何時も、車で素道りいている道路脇) 永原御殿跡20120709

 

 

 

・何時も、車で素道りいている道路脇に、素晴らしい文化遺産(名前が知っていても訪問したこともない)にびっくりしました。                                    ・道の駅「鏡の郷」の、昼食・特産品の土産物や新鮮な地場野菜の直販所(地産地消)、文化遺産のPRも(ドライバーの休憩所では?)

・コメントで、祇王・妓女・・・・HP・blogや写真・本により「妓」「祇」「祈」の違いの質問に、対応するため、野洲市文化財保護課に質問に行き、返信ました。

 

 

・参考資料:現地説明の神主、語り部、文化財保護課(県・竜王町・野洲市)・現地説明板、パンフレット、HP・BLOG等々

次回 歴史ブロガーの「景清・清盛・道誉 つわものどもの謎と足跡を訪ねて」・・・安土編も、訪問下さいね!

 

 


歴史ブロガーの「木曽殿最後の地・膳所を訪ねて」 後編

2012年07月22日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

 

歴史ブロガーの「木曽殿最後の地・膳所を訪ねて」 後編

 

膳所城址(膳所公園)

縄張りは有名な藤堂高虎が担当。城普請大名「藤堂高虎」


築城に際しての興味深い話として、関ヶ原の合戦のあとの守備として、逢坂の関を復旧するか、大津城を再興するかという家康の相談に、信任の厚かった本多佐渡守正信は、その策には賛同できないといって、瀬田の山岡景隆(かげたか)の城跡と大江の窪江城跡、そして膳所崎(ぜぜがさき)の3ヶ所に幟(のぼり)をたて、城地としての地勢を判断した結果、膳所崎が最適であると提案しました。
大津城は大津籠城の際、守りのもろさを露呈しました。瀬田の地では東海道を押さえても、湖上水運を押さえられないことから、膳所の地に
膳所城は、東海道の名勝として、屏風や図絵にも描かれ、街道を行き来する旅人は、「瀬田の唐橋 唐金擬宝珠(からかねぎぼし) 水に映るは膳所の城」と唄われるほどでの雄姿でもありました。

鳥瞰図は正保城絵図を参考にして描かれている。                                                                               

 湖水に突き出す半島状の地形を利用して本丸と二の丸が置かれていた。本丸の脇には出丸と呼ばれる付属的な郭もあった。                               本丸の広さは36m×45m、二の丸が65m×92mほどの大きさで近世城郭としてはささやかな規模である。二の丸の南には馬出しのような郭もあるが、正保年間より以降、ここに三の丸が設けられていたという。

 城域はそれほど広大なものではないが、図を一見して気が付くように、この城には多層の建造物が多く建てられていた。本丸にある天守は珍しい四層構造で、本丸にはその他に三重櫓もあった。また2層櫓も多く建てられているが、なんと言っても目立つのは、虎口周辺の2層構造の多聞櫓の存在であろう。2層の多聞櫓が枡形を形成している様は他の城ではあまり見られないものであり、もしこれが現存していたなら、そうとうに見ごたえのあるものであったと思われる。

本多家の「立葵紋」 膳所城跡公園

 膳所城跡碑

三の丸(外観復元)膳所天守跡

膳所城祉 三角点

芭蕉の句二の丸跡は、ヨシが群生。 

「石鹿地蔵尊」

 城跡公園の一角にお地蔵さんが。 織田信長が比叡山を焼き払い坂本城を築城した際に石地蔵を礎石として使用。それが大津城、膳所城と使用され明治3年の廃城時本丸跡などから現れたものさんが祀られている。

膳所城跡~膳所神社門前参道に

膳所神社門前のうなぎ専門店(土用の丑の日近いためか、いい匂いが!)

天智天皇の大津宮時代、獲った魚を調達した陪膳浜(おものはま)といわれていた。                                                      

膳所神社

社伝によりますと、天智天皇の大津京遷都のとき、膳所の地が御厨(みくりや)の地と定められ、天武天皇の代に大和国から食物の神を移して祀ったのが膳所神社の始まりとされていますが、確かな資料は、平安時代、この一帯が天皇の食事としての湖の魚介類を献上する場所に指定されたことによると言われています。御祭神は、食物をつかさどる豊受比売命(とようけひめのみこと)です。
  江戸時代、膳所藩の領地になると、本多家歴代藩主に信仰され、神社の領地や社殿の寄進がたびたびありました。
正面に建っている薬医門は、もともと膳所城の城門を移築したもので北門や南門も膳所城の門ですが、南門は近年建て替えられた。

 

北門南門

 

 門前・宿場に旨いものあり「亀屋廣房の兼平餅」
兼平餅 : 湖都・近江膳所・亀屋廣房でございます膳所城のお膝元、中庄に瀟洒なお店を構える亀屋廣房さんの兼平餅。古くはこの地にあった三軒茶屋にて名物であったもので芭蕉、勝海舟も味わったとされるこの銘菓が一度は途絶えたものの、約30年前に復活させたという由緒正しい逸品です。蓬の餅に黒砂糖餡を包み、きなこをたっぷりとまぶした小粒の餅はしつこさも無く実に美味。赤く色づいた紅葉を見ながら舌鼓を打たせていただきました。

篠津神社

表門である高麗門はかつての膳所城の北大手の城門

 御祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)です。創始年代はわかりませんが、篠津神社にある康正(こうしょう)二年(1456)銘の棟札から、室町時代の中頃には鎮座していたことがわかり、地元の氏神として信仰を集めています。古くは、天王社、天王宮、のちに牛頭天王社と言われていました。
江戸時代に入って、膳所藩主本多家の崇敬を受け、神社の領地二十二石が認められていました。現在の社殿は、本多俊次が藩主の時代、万治四年(1661)に造営したものです。表門である高麗門はかつての膳所城の北大手の城門であったことが、発見された棟札から判明しました。

旧東海道を往く、勢多(瀬田)方面

 

 

若宮八幡神社

表門は膳所城の犬走門を移築

 

御祭神は仁徳天皇です。社伝によりますと和田神社と同じく白鳳四年の創建といわれ、天智天皇が宇佐八幡の神のお告げより、この地に行幸した時、紫の雲がたなびき、金色の鳩が飛来し、この近くの森の大木に止まりました。天皇は、それを、めでたいことの前兆として現れる不思議なこととして、神社の造営を決められ、仁徳天皇の木像を下賜されたことが、この神社の始まりだといわれています。
この神社は、延喜十七年(917)落雷のため憂き目を見ますが、再建後の平安時代末期、寿永三年(1184)、木曽義仲の粟津の合戦で焼失ののち、源頼朝により再興されました。江戸時代は、他の膳所の神社同様、藩主本多家に庇護されました。やはりこの表門も膳所城の犬走り門を移築したもの。

旧武家屋敷跡が続く・・・江戸時代徳川家康が大津城を廃城とし、膳所城を築城して以来軍事的な城下町として栄えた。家並みや屈折した小路など、往時の東海道の面影を偲ぶことができる。
また江戸時代、膳所藩の侍たちが暮らしていた屋敷は、すべて造り土塀をめぐらしていましたが、現在ではほとんど姿を消しています。それでも中ノ庄駅付近にはまだ何軒か土塀のある屋敷が残されています。


 京阪電鉄に平行している旧東海道の町並みは、家並のほか曲折した小路を持っているなど昔の面影を偲ぶことができ、特に旧武家屋敷跡の土塀などが今も残っている。縁心寺(えんしんじ)や膳所事件で犠牲者となって処刑された藩士11名のうちの数名が葬られている安昌寺(あんしょうじ)など、まさに街全体が歴史といえる。

粟津口番所

膳所の城下町の南の入口。

枡形街道で、防衛の役目)膳所城のの勢多口は家老常駐していた。

本多神社(浜御殿)膳所藩主を輩出した本多氏ゆかりの神社で、明治16年(1883年)に旧膳所藩士など有志により建立された。                祭神は本多氏中興の祖と仰がれる本多忠俊、忠次、康俊、俊次の4名で、このうち康俊、俊次は膳所藩主となった人物である。                    神紋も本多氏の「立葵」で、境内地は膳所藩主の別邸として江戸初期に営まれた瓦ケ浜御殿の跡にあたる。

  

 

粟津の晴嵐(通貨)

旧東海道の粟津の松並木(旧NEC石山工場~石山駅北口へ)

明治28年、粟津ヶ原、東海道の松並木・田植の絵図農業試験場発祥の地付近

(植物ウィルスが、昆虫を媒介によって伝染されることを発見した世界的な研究や、稲作史上はじめての人口交配により、新しい品種(近江錦)を育成、実用化に成功したことなどで、農業の発展に貢献した幾多の試験研究がこの地で行われた)

今井兼平墓・・・石山駅の北口を出て、大津方面に5分

今井兼平は平安後期の武将で、木曽(源)義仲の乳兄弟。義仲とともに源頼朝軍と戦い、粟津の合戦(1184年)で敗れ義仲が戦死すると、後を追い自刃した。現在の墓は今井家末裔により建てられたもので、もとは本多俊次が業平の自刃した地、中庄墨黒谷に墓碑を建立。兼平を尊敬していた膳所藩主本多康将が、参拝の便を考え、この地に移設した墓。

義仲の乳母子として共に育ち、兄の兼光と共に側近として仕える。鎌倉軍に追われ敗走する義仲に従い、粟津の戦いで討ち死にした義仲の後を追って自害した。享年33才、その壮絶な最期は、乳兄弟の絆の強さを示すとして知られる。

この碑は業平の末裔、木曽諏訪市の人から

 

 

石山駅の北口のガス灯

 平成19年には、JR石山駅北口広場にも1基設置されている。1640年、オランダの化学者

石山駅北口のガス灯の下で解散

・参考資料:現地説明の神主、語り部、文化財保護課(県)・現地説明板、パンフレット、HP・BLOG等々

次回Eコース:「歴史ブロガーの「瀬田橋をめぐる攻防の地を訪ねて」・・・瀬田唐橋・近江国庁跡・堂ノ上遺跡など 」 お楽しみに!


探訪 【膳所城址(膳所公園)  近江国】 2012.7.23

2012年07月22日 | 平城

 

縄張りは有名な藤堂高虎が担当。城普請大名「藤堂高虎」


築城に際しての興味深い話として、関ヶ原の合戦のあとの守備として、逢坂の関を復旧するか、大津城を再興するかという家康の相談に、信任の厚かった本多佐渡守正信は、その策には賛同できないといって、瀬田の山岡景隆(かげたか)の城跡と大江の窪江城跡、そして膳所崎(ぜぜがさき)の3ヶ所に幟(のぼり)をたて、城地としての地勢を判断した結果、膳所崎が最適であると提案しました。
大津城は大津籠城の際、守りのもろさを露呈しました。瀬田の地では東海道を押さえても、湖上水運を押さえられないことから、膳所の地に
膳所城は、東海道の名勝として、屏風や図絵にも描かれ、街道を行き来する旅人は、「瀬田の唐橋 唐金擬宝珠(からかねぎぼし) 水に映るは膳所の城」と唄われるほどでの雄姿でもありました。

鳥瞰図は正保城絵図を参考にして描かれている。                                                                               

 湖水に突き出す半島状の地形を利用して本丸と二の丸が置かれていた。本丸の脇には出丸と呼ばれる付属的な郭もあった。                               本丸の広さは36m×45m、二の丸が65m×92mほどの大きさで近世城郭としてはささやかな規模である。二の丸の南には馬出しのような郭もあるが、正保年間より以降、ここに三の丸が設けられていたという。

 城域はそれほど広大なものではないが、図を一見して気が付くように、この城には多層の建造物が多く建てられていた。本丸にある天守は珍しい四層構造で、本丸にはその他に三重櫓もあった。また2層櫓も多く建てられているが、なんと言っても目立つのは、虎口周辺の2層構造の多聞櫓の存在であろう。2層の多聞櫓が枡形を形成している様は他の城ではあまり見られないものであり、もしこれが現存していたなら、そうとうに見ごたえのあるものであったと思われる。

本多家の「立葵紋」 膳所城跡公園

 膳所城跡碑

三の丸(外観復元)膳所天守跡

膳所城祉 三角点

芭蕉の句二の丸跡は、ヨシが群生。

「石鹿地蔵尊」

 城跡公園の一角にお地蔵さんが。 織田信長が比叡山を焼き払い坂本城を築城した際に石地蔵を礎石として使用。それが大津城、膳所城と使用され明治3年の廃城時本丸跡などから現れたものさんが祀られている。


歴史ブロガーの「木曽殿最後の地・膳所を訪ねて」 前半

2012年07月22日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

 

 歴史ブロガーの「木曽殿最後の地・膳所を訪ねて」 前篇

    

歴史ブロガーの「木曽殿最後の地・膳所を訪ねて」 上編

  義仲寺 JR膳所駅・京阪電鉄膳所駅の北約300mにある寺院。この街道(旧東海道)を少し北西に進むと、左側に狭い門構えの義仲寺(ぎちゅうじ)がある。  その昔は粟津ヶ原と言われて、征夷代将軍木曽義仲はここで討ち死にした。

琵琶湖の岸はこの辺りであったらしい。今は琵琶湖沖合いへと広く埋め立てられている。

 義仲寺の名は、平家討伐の兵を挙げて都に入り、帰りに源頼朝軍に追われて粟津(あわづ)の地で壮烈な最期を遂げた木曽義仲(きそよしなか)(1154-84)をここに葬ったことに由来しています。近江守護であった佐々木六角が、室町時代末期に建立したといわれています。
 江戸時代中期までは木曽義仲を葬ったという小さな塚でした。                                                           このほか、本堂の朝日堂(ちょうじつどう)・翁堂(おきなどう)・無名庵(むみょうあん)・文庫などが立ち、境内全域が国の史跡に指定されています。

周辺の美しい景観をこよなく愛した松尾芭蕉(1644-94)が度々訪れ、のちに芭蕉が、生前の遺言によってここに墓が立てられたと言われています。        芭蕉の亡くなった場所は、難波で(現在で言えば、大阪御堂筋)であるが、芭蕉の遺言で、「遺骸は近江義中寺の義仲公の傍(カタエ)に埋めよ」遺体は淀川を遡って、琵琶湖湖畔のこの寺まで運ばれ、ここに葬られた。 芭蕉がこの地を墓所としてなぞったのは唐の詩人・杜甫の死を思った故。                                                                                                                                                                                                                                                              芭蕉の筆頭の高弟子の内藤丈艸(ないとう じょうそう)は、難波から遺体を運び、芭蕉の墓を築き この寺に住み、生涯芭蕉の墓守をしたと言われる。            

 

2歳の頃に木曽に逃れてきた駒王丸は、中原兼遠の養育を受け、後に元服し木曽次郎源義仲と名乗りました。
 1180年に後白河法皇より平家追討の命を受け、木曽の地で旗挙げを行い、その後北陸に進撃、入京を果たした後、征夷大将軍に任ぜられました。
 
しかし、後白河法皇の策略によって鎌倉軍に敗れ、粟津ヶ原(あわつがはら)で討死。31歳の短い生涯でした。
義仲寺と巴地蔵

朝日堂・・・義仲寺本堂で、本尊は木彫聖観世音菩薩。義仲公、義高公父子の木像を厨子に納める。義仲公、今井兼平、芭蕉翁、丈艸諸位ほか合わせて31柱の位牌を安置する。現在の朝日堂は昭和54年(1979)11月改築されたものである。

無名庵・・・粟津の合戦で木曽義仲の討ち死に。その後、1人の尼僧が塚に侍して、供養ねんごろになるよう至って、里人その有縁を問うに、『名もなき尼僧」と答えるのみであった。この尼が美しく武勇に優れた側室の、巴御前(ともえごぜん)が名を隠して墓を守ったである。
 伊勢の俳人又玄の有名な句「木曽殿と脊中合わせの寒さかな」は、同年9月13日ごろ、又玄が無名庵に滞在中の翁を訪ね泊まったときの作
 

 義仲公の墓碑(木曽塚)芭蕉翁の墓碑巴塚

句碑「旅に病んで夢は枯野を駆け巡る」「古池や蛙飛び込む水の音」

井戸 芭蕉木身余堂文庫

資料館内

 芭蕉翁 義仲公

 のちに内藤丈艸は庵主となり、代々俳人に聖蹟となった。

義仲寺前の旧東海道は西近江路まで直進 

膳所城下町・北惣門跡

 膳所の城下で何度も右へ左へと曲がったが、その最後の左折角に「膳所城北総門跡」の石標があった。

膳所の城下町の北の入口。(枡形街道で、防衛の役目)膳所城の北の大津口は家老常駐していた。(所藩家老村松家の屋敷門)

 城下町は、西庄に(しのしょう)・木下(きのした)・膳所(ぜぜ)・中庄(なかしょう)・別保(べっぽ)の膳所5 ヶ村で形成され、北の大津口、南の瀬田口の2 ヶ所に惣門が置かれ、城下町を通る人々を監視した。城下町の規模は貞享(じょうきょう)2年(1685 年)で侍屋敷499 軒、町屋409 軒、寺22 の合計930 軒、人口3,094人であった。

旧東海道には、江戸時代の風情の家並が多く残されて往時を・・・・!

湖魚(うなぎ・鮒ずし・佃煮)の調理したお店が多い!

敬願寺の惣門

石座神社

 精霊天王宮みは天智天皇・弘文天皇をお祀りしているため時計の碑が!

 誓忍寺

 

 膳所藩家老村松家の屋敷門を移築したもの。

和田神社

 和田神社表門(旧、藩校遵義堂表門)

和田神社本殿は鎌倉時代の建築を補修しながら使用されている重要文化財

石田三成関ヶ原の合戦で敗れて、母の実家へ・・・オトチ洞窟探訪京へ護送される休止の際につながれた樹で、樹齢600年超の和田神社のいちょう!

膳所城下町・大手門跡

旧東海道沿い 

膳所城址(膳所公園)

 膳所城は、関ヶ原合戦の翌年(合戦後、最初に建てた城)、東海道・瀬田橋・琵琶湖水運などをおさえる要衝として、徳川家康が築城の名手藤堂高虎(とうどう たかとら)に「初めて天下普請の城」。

・参考資料:現地説明の神主、語り部、文化財保護課(県)・現地説明板、パンフレット、HP・BLOG等々 

続けて、Dコース:歴史ブロガーの「木曽殿最後の地・膳所を訪ねて」 後編」をお楽しみ下さいませ!


大工奉行 甲良備後守

2012年07月20日 | 武将

甲良豊後守宗廣(1574-1646)日光東照宮の寛永大造替の大棟梁

城普請大名藤堂高虎と大工奉行 甲良備後守

 

甲良町役場に車を止めて「

ガイドMAPを

甲良神社(甲良町法養寺)

甲良神社(甲良町法養寺)

祭神:須佐之男命(すさのお)・伊弉諾命(いざなぎ)・伊弉冉命(いざなみ)

甲良神社は佐々木京極氏によって、永正15年(1518)弓削村(現・竜王町弓削)から御神体を迎えたと伝わる。
この法養寺は甲良大工発祥の地ともいわれている。
佐々木氏の子孫で、日光東照宮造営の棟梁をつとめた甲良豊後守宗廣が、慶長9年(1604)この社を修理したとされる。
この神社は古くから上の郷の総社として奉仕され、明治5年(1872)には郷社になった。

甲良宗廣の祖と生誕地
   甲良宗廣は甲良町法養寺に生まれる。甲良家は、中性から甲良に住む工匠で、もともと社寺の建築造営を担う大工を職務としていたと思われる。現に、永禄九年(1566)に造営された重要文化財の油日神社楼門(甲賀町)も棟札に、「内棟梁大工御子息甲良五郎左衛門殿・・・」とあり、甲良家が有力な名工であったことを物語っている。甲良光広の孫にあたる宗廣は、慶長九牛(1604)三十歳の時、幕府に召し出され、江戸の僧上寺造営の棟梁をはじめて務めたのである。そのあと、彼の畢生の業績として後世に伝えられた日光東照宮造営の大棟梁となった。甲良家の始祖ともなった宗廣は、幼年期から郷里の近くにある湖東三山の西明寺・金剛輪寺・.百済寺といった優れた建造物に親しみ、これらが格好の研究材料になる恵まれた環境にあったといえる。
藤堂高虎と宗廣
   東照宮は初め元和二年(1574)、同郷の藤堂高虎が作事奉行として造営されたが、現在に見るほどの立派さはなかった。同郷の宗廣が幕府作業方棟梁に召され絢襴豪華、壮麗無比の東照宮に生まれ変わった。
帰郷後の宗廣  
   宗廣は、六十三歳(1636)になった時、大棟梁の職を「子の宗次に譲り、甲良に帰郷する。しかし、生誕他の法養寺は、水害が多く彦根藩により村落が移されたため生家もなく、やむなく隣村四十九院の檀家の唯念寺に住まいすることとなった。宗廣は帰郷しながらも郷里の寺院の造営に援肋する。まず唯念寺の本堂を寄進し新築するが、惜しくも幕末に焼失する。また、信長の兵火で焼失し、甥が住職をしていた百済寺(愛東町)の本堂造営にあたる。晩年、宗廣は法衣の自像を彫り、唯念寺に残し、正保三年(1646)、七十二歳で情熱の生涯を終えた。

甲良豊後守宗廣記念館

甲良豊後守宗廣(1574-1646)の偉業をたたえ、幕府作事方(さくじがた)大棟梁職の甲良家に関する資料を展示する資料館です。江戸時代末期に建てられた旧家を利用した展示棟と、新築された研修棟が渡り廊下でつながれています。                   展示棟には、宗廣自筆の鯉の絵の掛軸や甲良大工道具などの甲良家や宗廣を偲ばせる資料が展示されているほか、収蔵室や談話室もあります。研修棟では、講演会が開かれたりもします。                                                                                   甲良豊後守宗廣は、甲良町法養寺の出身で代々宮大工の匠家を勤める家に生まれました。関白近衛(このえ)家館門や洛東吉田神社の造営を行い、寛水13年(1626)の日光東照宮人造替の大任を最後に仏門に帰依しました。                                                   宗廣の墓所は京都真如堂(しんにょどう)と東京芝の正念寺のニか所にあります。                                                              また、甲良家12代にわたって秘伝「神拝式書(しんぱいしきしょ)」、建築設計基準の嚆矢である「本途帳(ほんとちょう)をはじめ、数々の資料・図面など日本建築学界に多大の功績を残しています。

甲良氏(こうらし)は、江戸幕府の作事奉行輩下である幕府大棟梁を務めた家系である。建仁寺流として11代まで続いた。

  • 主に日光東照宮造営、修理を行った。江戸時代末期には安政大地震によって崩壊した江戸城修復なども行った。
  • 初代は甲良宗広(1574年-1646年)といい、現在の滋賀県甲良町法養寺出身。慶長元年(1596年)、京都近衛関白殿御門を建てる際、左甚五郎より片扉宛分を仰せ付けられ、褒美をいただいた。現在、甲良町には甲良豊後守宗廣記念館がある。
  • 3代宗賀の時、日光東照宮修繕の褒美として切米100俵と市谷の地(市谷甲良屋敷=現在の市谷柳町25番地)を拝領する。また自らは拝領地に居住せず、千住に屋敷を設けている。現在、東京都新宿区市谷甲良町にその名を残すが、前述のように屋敷地跡は隣接の市谷柳町となる。
  • 10代甲良棟全(明治11年(1878年)没)は安政大地震で倒壊した江戸城破損部の修繕を行い実質、最後の大仕事となった。
  • 11代甲良棟隆(匠造、明治43年(1910年)没)の際、明治維新を迎え、廃業した。流派は10代の子である大島盈株に引き継がれ、のちに初代新橋駅等の鉄道建築物の造営に貢献した。
  • 甲良氏は、11代棟隆の子・伝次郎(鉄道省技師)が昭和21年(1946年)に没して断絶した。菩提寺は港区正伝寺。

城普請大名「藤堂高虎」

2012年07月20日 | 武将

高虎公園の藤堂高虎(1555~1630) 

藤堂高虎(とうどう たかとら)b
(プロフィール)
七度主君を変え、豊臣秀吉・徳川家康にも仕えた戦国武将で、外様大名でありながら徳川十七将に数えられる知勇兼備の将。
不義理者と評価されることが多いが、実際には仕えた主君を裏切った事はなく、滅私奉公の如く働いた。

城普請大名藤堂高虎と大工奉行 甲良備後守

誕生
   天文二十四年(1555)、近江国藤堂村(在土)に生まれる。父藤堂虎高は京極家の後、浅井家に仕えた犬上郡数村の領主。藤堂家は、中原氏(平安時代以来の朝廷に仕えた大臣)の家柄であるが、高虎時代は状勢より藤僚氏系と名のった。
徳川時代
   慶長五年(1600)四十五歳・関ケ原戦で家康に従軍し、功績をたて今治二十万石の城主となる。以後、丹波篠山城・亀山城の普請奉行に任ぜられる。慶長十九年(1614)五十九歳・江戸城普請奉行となる。元和三年(1617)六十二歳・東照宮の縄張りを賞せられ、三十二万二千九百余石の大大名となる。寛永七年(1630)七十五歳・十月五日没す。寒松院(津市)に葬る。
藤堂高虎
十五歳にして191Cmの体格
   生まれたときから乳母の一人の乳だけではたらず、家来の女房から乳をもらった。三歳には餅を食い、六歳で大人の食事をし、七歳で40Kgの荷物を持ち、元服の十五歳には191Cmの筋骨たくましい怪童であった。
高虎公園内(高虎像)
高虎公園内(高虎像)
誠意ある人柄
   生涯を通じて誠意を冬くす人に対して必ず誠意を冬くす人であった。若武者時代は父に従って湖北の雄「浅井家」に仕え織田信長軍(姉川合戦)とよく戦った。浅井家滅亡後、秀吉の弟「秀長」に仕え、彼の実力が認められるようになる。主君秀長が死んだ時は、高野山で出家(僧になる)までする。徳川家康に武家屋敷を建てた時、自費を払って裏門を造営する。秀吉亡きあと、後見人石田三成の高慢なところに嫌気がさしていたところ、徳川家康の誠意に共感し、家康こそが私の主君と決断し関ケ原戦で徳川軍として善戦する。家康は高虎の仕事に対する気構えと忠臣精神を認め、遺言状の後見人としての扱いをたまわり、伊勢国三十二万石余の大名となる。
築地土木の天才
   高虎の体は巨人であったが、指がなく全身は刀傷で切り刻まれていた。彼の武勇を語る証である。そればかりではない、高虎には築城工事に優れ名築城家としての才能があった。秀吉時代は伊予大洲城、宇和島城、家康時代は普請奉行としてヨーロッパ築城技術を取り入れた今治城、二条城、穴太衆(滋賀)の石垣技術をフルに利用した再建の大阪城、日本一高い石垣の伊賀上野城、伏見城の補修、そして城主となった津城、また、江戸城の修築などと日光東照宮である。家康の命によって日光東照宮の大棟梁となった甲良豊後守宗廣は、高虎と同郷である。ときに高虎四十五歳、宗廣二十八歳であった。

甲良町役場に車を止めて

近江国の豪族であったが、虎高は武田信虎に仕えて偏諱を受けたという。のち浅井亮政に仕えた(『寛政重修諸家譜』、太田亮『姓氏家系大辞典』)。 虎高の子・高虎は、浅井氏・阿閉氏・磯野氏・織田氏・豊臣氏・徳川氏と主を次々と乗り換え、最後は伊勢国津藩三十万石を手に入れる事に成功している。

高虎公園

 八幡神社は、五命という女神を祀り、戦勝、家内安全五穀豊穣を祈ることで知られています。                                                                           在士(ざいじ)八幡神社の創基ははっきりわかりませんが、藤党影盛(とうどうかげもり)が石清水八幡宮を勧請して建立したのが始まりといわれ、極彩色の本堂は藤原氏が大名になる時に修復されたと伝えられます。                                                                       鳥居脇と本殿裏にある紫藤は、八幡神社を勧請した時、影盛が子孫繁栄米を祈願して植えたと伝えられています。                                                         毎年5月中旬頃が最盛期で、棚いっぱいに藤の房が下がります。1房が1m以上もあり、さながら藤のカーテンのようです。毎年5月の弟2日曜には在士(ざいじ)の化切りと呼ばれる藤切祭りが行なわれ、東京の藤堂家に贈ることが毎年の行事となっています。藤堂家では、贈られた12の花房で花見の宴が催されるといいます。昭和52年(1977)1月、藤が町の花に選定されています


尼子城 近江国(甲良) 

2012年07月16日 | 平城

 戦国大名尼子氏(出雲)の発祥の地

今から約七百年前に滋賀県山東町清滝に生まれた(1296)道誉は、四十一歳のとき、甲良町勝楽寺に移住し、城を築き、鎌倉幕府の滅亡と南北朝・足利尊氏の室町幕府擁立に大きく関わり、その知将として活躍した異色の武将である。京極家は鎌倉幕府執権北条高時の側近として仕え、重用されていた。しかし、足利尊氏が後醍醐天皇(南朝)に応じて鎌倉の北条に兵を挙げるや(1334)道誉は、尊氏につく。以後、道誉は足利氏に仕え天下泰平の道を選び、彼の手腕は限りなく発揮される。 

 

道誉の甲良移住 佐々木道誉
   延元二年(1337)造営は、父祖の地伊吹山麓の柏原を捨てて甲良の勝楽寺に根拠を定めた。甲良への移住の理由は、京都の事変にすぐ応えるためであり、周囲は難攻不落の佐和山城や、大軍移動に困難な中山道摺針峠(彦根)を越える柏原より、はるかに理にかなっていた。第二に勝楽寺城は、城攻めには険しく、さらに前衛本隊を甲良の中心尼子に置き、左右の多賀、河瀬に攻撃型の道進部隊を配するなど戦闘体制に適した地でもあった。道誉はこれ以後、七十八歳(1373)に没するまで足利幕府の要人として、勝楽寺を根拠に活躍する。

 

バサラ大名の筆頭-道誉
   「婆娑羅」とは、室町時代の流行語で、遠慮なく振舞い、派手で傍弱無人なことをいう。この時代道誉はドンチャン騒ぎを好み、自由奔放でバサラ大名の典型といわれた。特に京都の妙法院事件は、有名である。道誉の部下がこの寺の紅葉の見事さに、思わずその枝を折ったところ門主に見つかり、部下は山法師に痛めつけられた。この報告を受けた道誉は、「わが入道の配下に手向かうとは、片腹痛し…」と自ら二百余騎を率いて妙法院に火を放ったのである。これは道誉の既成の権威に対するすさまじいまでの反骨心であった。
文化人道誉
   しかし、道誉はけっして無節操に傍若無人の振舞いをしていたのではない。一見、野放図に見えながら内乱期を通じての道誉の行動には、一本の筋が通っていた。それは、足利尊氏に対する強い忠誠であった。また、この日本人ばなれした人物-造営は日本の古典芸術、茶道、華道、能楽、連歌など出発点としての奥義を極めていた。歌集では、最初の連歌撰集「菟玖波集」には、道誉の八十一首が入り、彼の非凡さが伺える。「茶」の世界で道誉が選んだ茶器珍器の中には、近世になって信長や秀吉、また茶道の宗匠たちによって受けつがれた大名器があることも道誉の審美眼の高さを物語る。中世芸能の最も華やかなものに能楽と狂言がある。道誉は早くから猿楽能の保護者で、とくに近江猿楽には道阿などを支援し、歌舞の神秘さと幽玄さを特色とする高踏的な芸風を育てた。狂言の世界は、猿に始まり狐に終わるといわれる。「釣狐」の演技はまさに秘曲に値し、その白蔵主狐の伝説が勝楽寺に伝わり、狐塚も残り、道誉との関係が伺われる。バサラ大名道誉は、後世日本芸能の元祖といわれる教養文化人でもあった。

道誉(1296~1373)

所在地:滋賀県犬上郡甲良町尼子

 

 昔、松宮大明神(まつみやだいみょうじん)と呼ばれましたが、明治5年(1872)に現在の神社名に改称しました。兵火で記録などが焼失し、いつごろの開基かはっきりわからりませんが、拝殿棟鬼板(とうきばん)や神輿(みこし)に佐々木神社の神紋(しんもん)と同じ四つ目が使われていることから、近江源氏(おうみげんじ)佐々木氏と関係の深い神社だと考えられ、甲良宗廣(こうらむねひろ)が現在の本殿を造営したと伝えられます。
 本殿横にある権殿はもとの本殿で、室町中期に火事で焼けた後再建された建物の一部といわれていますが、江戸時代初期の墨書が残っているため、その頃の建立と考えられ、国の重要文化財に指定されています。建物の背が非常に高く、規模は小さいですがしっかりした造りです。また、直線的な屋根や神社の建物の配置などが、伊勢神宮によく似ているといわれています。

 

【尼子城の堀跡、殿城池(別名お園堀)】
尼子城は、京極家5代で室町幕府の重臣で「バサラ大名」として其の名を天下に轟かせた京極高氏(道誉)の嫡孫備前守高久が甲良荘尼子村を領有し尼子氏と称した。
其の頃本家京極家の居城城楽寺の前衛城として築かれたのが尼子城です
嫡男出羽守詮久以後近江尼子氏の居城として南北朝の動乱期京極家の有力連枝旗頭として重きをなしていたが、打ち続く戦乱で城は落ち一族家臣達は四散したと考えられるが、山陰山陽に覇を握る分系の雲州尼子氏を頼り彼の地で活躍した一族家臣も多く、近江尼子氏は史上から姿を消しています。

 

 

 

 

 

 

館跡のある尼子の集落の西側には尼子氏一族の墓もある。 尼子の集落の中、細い道端に案内板と個人宅にありそうな庭の池のような堀跡が残っていた。

付近にお住まいの人によると、20~30年前に引っ越してきたときは、数メートルの深さの堀があり、それを埋め立てて住宅地にしたとのこと。
 今でも、住宅地の中には堀を埋め立てた部分は50~60cmほども低くなっている。


殿城池は、ありし日の尼子城の堀跡です。
昭和初期まで池の西、深さ4、5米で北側に湾曲した竹薮となった堀跡が続いていましたが戦後宅地に変貌しました。
村の東、玄翁堂襄の竹薮から尼子城の土塁と堀跡が県教育委員会により発見され、室町時代では広大な平城であったことが判明しました。
お堀の水神様は落城のとき入水された城主の姫君(八千姫)が祭られています。
又このとき、若く美しい侍女お園も姫の後を追って入水殉死したことを領民が憐れみいつしかこの堀を「お園堀」と呼び敬い親しみ護り続けて今日に至っています。
 尼子城の土塁があった所は尼子土塁公園として裏に家系図と案内MAP!

 

尼子土塁公園へは、お堂の横を進みます!

甲良三大偉人

在士で、藤堂高虎(城普請奉行)の出生の地とされる在士館跡が高虎公園として整備されている。

法養寺は日光東照宮の大棟梁甲良備後守宗廣(大工奉行)の出生の地。

犬上郡尼子は、尼子氏は佐々木京極氏の系流であり、先祖は京極五代高氏(道誉)の嫡子高秀の四男・高久が、犬上郡尼子を本拠として尼子を姓とした。

佐々木道誉(1296~1373)勝楽寺蔵 

尼子氏は京極高秀の子高久が犬上郡甲良荘尼子郷を与えられて尼子氏を名乗った事に始まる。

 館跡のある尼子の集落の西側には尼子氏一族の墓もあるらしが?。 

尼子高久の次男尼子持久は出雲に下向し、尼子経久の時代には出雲国富田城を居城とした戦国大名となった。一方近江の尼子氏は京極氏の衰退とともに四散したといわれる。

 尼子氏は佐々木京極氏の系流であり、先祖は京極五代高氏(道誉)の嫡子高秀の四男・高久が、犬上郡尼子を本拠として尼子を姓とした。

 高秀には8人の男子があった。長男は高詮(たかのり)と称して京極家七代目を継いだ。
 二男高経は佐々木宗家六角氏頼の養子となつたが、のち離籍された。三男は五郎秀満と名乗り左衛門尉に任じられたが、応永6年(1399)大内義弘の反乱にくみし、消息不明となつている。

 四男・高久は左衛門尉に任じられ、犬上郡尼子を本拠として尼子を姓とした。これがそもそも尼子氏の元祖である。
 その高久の長男詮久が家を継いで、江州尼子の氏祖となり、高久の二男持久は山陰の出雲国に移つて雲州尼子氏の元祖となった。

山陰の雄 尼子氏発祥の地

戦国時代に陰陽八ヶ国の守護を務めた尼子氏は近江源氏佐々木氏の一族で、バサラ大名の異名を持つ佐々木高氏(道誉)の孫・高久が、近江国甲良荘尼子郷(滋賀県甲良町)に居住し、名字を尼子と称したのに始まる。

 

佐々木氏の代表紋は四目結

 家紋  平四つ目結  尼子氏は佐々木氏の一族平四つ目結  尼子氏は佐々木氏の一族は四目結紋。しかし、尼子氏はそのほかに花輪違紋紋も用いた。

花輪違紋は、佐々木氏の支流である出雲の佐々木義清の一門が用いた。塩冶・富士名・隠岐などの諸氏である。尼子氏も出雲に移動してこの紋を用いるようになったものであろう。
 目結は「メユイ」と読み、古代の染め方の一種である纐纈染めのことである。江戸時代には鹿子染とか鹿子斑ともいわれた。いわゆる、布を糸で括って染料に浸すと括った部分だけが目のように白く染め残る。つまり、目結とは白く斑に染め残った模様のことである。
 これを家紋に用いたのは、宇多天皇の後裔を称し、近江源氏と呼ばれる佐々木氏である。佐々木氏は近江国蒲生郡佐々木庄を名字の地とし、源頼朝の挙兵に際して最初から加わり、大活躍をしたことから世に顕われた。また、佐々木氏は佐々貴神社を氏神として崇敬し、四目結の結を一族団結のシンボルとして家紋に用い繁栄してきた。
 源平合戦における宇治川の戦で、梶原景季と先陣争いを演じた佐々木高綱、室町幕府草創期に「バサラ大名」として名を馳せた佐々木道誉などの名は世に知られているところだ。京極氏と近江国を南北に分け、戦国時代に近江で気を吐いた六角氏なども佐々木氏の一族である
 
花輪違 出雲佐々木氏のそれは花輪違。