城郭探訪

yamaziro

御姫屋敷城 近江国(水口)

2014年03月30日 | 平山城

  1・2の郭を分断するJR草津線

所在地:甲賀市水口町高山字沢山 map:http://yahoo.jp/duRnMM

現 状:山林

遺 構:曲輪・土塁・空堀・堀切

区 分:平山城

築城者:高山氏カ?

築城時期: 室町期

有名城主:高山氏カ?

訪城日:2014.3.28

甲賀の城の中でも、確認困難な城!

 

1の郭と2の郭はJR草津線により分断されている。

 

1の郭

草津線のトンネルの東側から

線路脇から1の郭へ

本来は連郭式の一体となった縄張であった可能性がある。さらに後世の宅地化・耕作地利用により随分破壊されている。

2の南辺には土塁と堀切がよく残っている。


5は高山集落から最も近い位置にあり、高野屋敷とは連絡路によって接続されていたような地形がみえる。北側には2段の削平地が連郭しており、切岸もするどい。北側以外の3辺には土塁が廻るが極めて低い。
全体的に倒木と下草がひどく、現在はそれぞれの連絡路も絶たれ、非常に確認困難な城であった。

1・2の郭を分断しているJR草津線の線路(右側が郭1)?・・・分断された稜線カ?

破竹の切株が、郭に侵入を防御か?

郭の土塁が残るが、郭内は破竹で!!!!

線路を渡って、2の郭へ

トンネルの東側へ下りた。

3・4の郭へ

3・4の郭への侵入口、堀(水路)を渡り、獣害ヘンスの中へ

4の郭は土塁で囲む(雑木・竹・笹)。

3の郭へ(高山屋敷と繋がるが、土塁なく平削地・・・詰め城カ?)

 

5の郭へ

郭群の東裾を北(1の郭)へ・・・その東側はJR草津線

高山集落の北西に接した山中には、中世城郭が点在している。その中では最も南方で、集落に接する山林裾部に所在するのが高山屋敷であるが、その他の5つの単郭は総称して御姫屋敷城と呼ばれている。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査(甲賀)、淡海の城、甲賀の城、甲賀郡誌

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


高山館 近江国(甲賀・水口)

2014年03月30日 | 館跡

所在地:甲賀市水口町高山字沢山  map:http://yahoo.jp/Q9oEYr

現在の状態 :山林・宅地

遺構:曲輪・土塁・空堀

区 分::居館

築城者:高山氏

築城時期室町期

有名城主:高山氏

訪城日:2014.3.28

高山集落の北西に接した山中には、中世城郭が点在している。その中では最も南方で、集落に接する山林裾部に所在するのが高山屋敷である。


高山屋敷は大まかには空堀と土塁で四方を廻らせた甲賀に特徴的な方形単郭プランである。特に西から北にかけた山側に接するところでの空堀は深く、土塁との高低差は5mを越え、一番の見どころだ。南東隅に虎口が開口している。

高山屋敷は、高山集落の一部のような位置にある。「甲賀郡志」によると、現在の光照寺である一学殿屋敷跡も高山屋敷の範囲との記述があり、付近の集落を見渡すと、他にも標高が近い高台に建つ宅地が目につく。そのため、かつての高山屋敷は、周辺の宅地を含む範囲であった可能性もある。

北方の山中には5つの単郭があり、これを総称して御姫屋敷城と呼ぶが、御姫屋敷城の最も南方にある曲輪は、高山屋敷の東に隣接する宅地に付属した格好になっている。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査(甲賀)、淡海の城、甲賀の城、甲賀郡誌

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!

 


週間の閲覧数・訪問者数とランキング

2014年03月30日 | 番外編

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小山城  近江国(水口)

2014年03月28日 | 平山城

 

 西ノ飼戸池

住所 :甲賀市水口町三大寺字西ノ飼戸 map:http://yahoo.jp/0g25c6

現 状 :竹林

目標地:日吉神社、飯道山寺(本堂裏の駐車場を拝借)

遺 構::曲輪・土塁・空堀

区 分:平城 標高210m 比差4m

築城時期

築城者

有名城主 :

訪城日:2014.3.28

小山城は、飯道山をピークとする山塊の東麓に所在する三大寺集落の西端、山塊から続く傾斜面途中の台地にある。
  遺構は集落西端の裏山のように残る約50m四方の竹薮内に、単郭を北から東辺にかけてL字状に土塁と空堀が確認でき、南辺には虎口とそれに伴う土塁が残る。

特に北東の空堀は底部が箱堀状になり見事である。西辺には土塁等が見られず、後世に造られた西ノ飼戸池により破壊されたと思われる。全体的に竹林は荒れ放題。

北側(道路)に土塁

虎口

虎口前に、石仏2体(個人宅の畑)

個人宅の梅

県道4号より、 三大寺集落へ曲がってすぐ(日吉神社より、徒歩で戻る)

南側の竹藪が城址(竹藪と倉庫の間を・・・虎口へ)

「南側の竹藪が城址」の道路の反対北側に石仏が

道路脇に空堀・土塁が見える

三大寺の中世城郭

竹石城祉

竹中城祉

鵜飼屋敷祉

小山城址

 奥谷城址

倉穂根城址

若林城址

福本屋敷址

奥出屋敷祉

三大寺の城址は、古地図、史料並びに伝承等により上記にあげました。詳細は、ふる里三大寺に掲載されています。

甲賀市には、滋賀県の城址の3分の1が集中しているとされています。今回その中で飯道寺城についての史料を紹介したいと思います。

年代順に先山中文書(山中道俊・同頼俊軍忠状案)に「飯道寺城」が出てきます。又,柏木源蔵人が拠っていたとも。建武四年(1337)四月二十五日、また「大乗院寺社雑事記」延徳四年五月十一日(1492)には「赤松・武田・武衛三頭、六角甲賀郡之番頭寺篭居山伏寺也」に関岡文書 永正七年(1510)般童寺(飯道寺)の衆徒に至るまで云々(ウンヌン)。以上の史料等により寺自体が、武装化を図っていたものと考えられる。

織田信長の朱印状が国立公文書館にあります。                                                                               知行を安堵する書状ですが、寺役を勤める条件が添えられています。信長・秀吉は、宗教武装勢力を弾圧しました。それは、比叡山・高野山などです。しかしまた復興に関与したのも元飯道寺僧知行を安堵する書状ですが、寺役を勤める条件。

 

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査(甲賀)、淡海の城、甲賀の城、甲賀郡誌

本日も訪問、ありがとうございました。


奥谷城 近江国(水口)

2014年03月28日 | 平山城

 

飯道山の登山道を南に進み、

右前方の丘陵林(竹林)が城址

所在地::甲賀市水口町三大寺字川合谷・平林  map:http://yahoo.jp/PgQ_VO

目標地:日吉神社、飯道山寺(本堂裏の駐車場を拝借)

現 状:山林・畑地

区 分:丘陵城 標高219m 比差 10m

遺 構:曲輪・土塁・堀切

築城時期

築城者

有名城主

訪城日:2014.3.28

 

土橋を渡り、南から攻め込む虎口aに!

奥谷城は、飯道山をピークとする山塊の東麓に所在する三大寺集落の西方、途中道路により分断されてはいるが、山塊から続く舌状尾根の先端に築かれていた。



  登城には南東側の農道から入ると虎口cに至る。基本プランは四方を土塁で囲んだ東西20m×南北50mの主郭と、主郭の北東隅虎口bの先に連続する2つの曲輪で構成されている。土塁は幅広で高く、甲賀でよく見る構造である。主郭南西端には水溜めの窪みが残る。虎口cは登城道を屈曲させるため土塁が食い違い、横矢掛りも意識されている。

   主郭南方には数個の削平地が見られるが、南端山側に明確な堀切が確認できないため、それらは後世の開墾によるものかも知れない。従って主郭南方堀切aまでが城域である可能性が高い。

北方田地を挟んで約60m先には近接して小山城が所在するが、奥谷城は集落からやや離れていることや、虎口が反対側に開口していること、構造が類似していないことなどにより、関係性はないのではないかと思われる。

主郭は北側が高く、南側は割と低い土塁が巡ります。主郭の西側に堀切状で遮断されています。基本的には単郭の城館ですが、もあしかしたら、西側にも城の施設はあったかもしれません。

主郭土塁主郭土塁主郭土塁主郭土塁主郭土塁主郭土塁

虎口C

虎口Cの下平削地・・・郭外堀

遠景

三大寺の中世城郭

竹石城祉

竹中城祉

鵜飼屋敷祉

小山城址

奥谷城址

倉穂根城址

若林城址

福本屋敷址

奥出屋敷祉

三大寺の城址は、古地図、史料並びに伝承等により上記にあげました。詳細は、ふる里三大寺に掲載されています。

甲賀市には、滋賀県の城址の3分の1が集中しているとされています。今回その中で飯道寺城についての史料を紹介したいと思います。

 年代順に先山中文書(山中道俊・同頼俊軍忠状案)に「飯道寺城」が出てきます。又,柏木源蔵人が拠っていたとも。建武四年(1337)四月二十五日、また「大乗院寺社雑事記」延徳四年五月十一日(1492)には「赤松・武田・武衛三頭、六角甲賀郡之番頭寺篭居山伏寺也」に関岡文書 永正七年(1510)般童寺(飯道寺)の衆徒に至るまで云々(ウンヌン)。以上の史料等により寺自体が、武装化を図っていたものと考えられる。

織田信長の朱印状が国立公文書館にあります。

知行を安堵する書状ですが、寺役を勤める条件が添えられています。信長・秀吉は、宗教武装勢力を弾圧しました。それは、比叡山・高野山などです。しかしまた復興に関与したのも元飯道寺僧知行を安堵する書状ですが、寺役を勤める条件。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査(甲賀)、淡海の城、甲賀の城、甲賀郡誌

本日も訪問、ありがとうございました。


一学殿屋敷 近江国(甲賀・水口)

2014年03月28日 | 館跡

所在地:甲賀市水口町高山字栗ヶ谷 map:http://yahoo.jp/mQNCrJ

現 状:光照寺

区 分::陣屋

遺 構:曲輪

築城者:美濃部一学氏

築城時期:江戸初期カ

駐車場:光照寺

訪城日:2014.3.28

歴 史

一学殿屋敷は、現在は高山集落の西方の最も高い位置に建つ光照寺にあったとされている。江戸前期作成とされる「高山村絵図」には、現在光照寺が建つ敷地上に「一学殿屋敷」と記載されている。

この地は元々土豪高山氏の屋敷地であった一部に美濃部氏が陣屋を置いたと考えられる。

現在見られる遺構は切岸程度であるが、江戸期の陣屋ならば特に防御施設は必要ない。

 

甲賀二十一家は、甲賀五十三家の中でも六角氏より感状を貰うほど信頼の厚かった二十一家を指し、後の甲賀流忍術の中心となった家々である。

甲賀五十三家は、「鈎の陣」にて六角氏に味方した甲賀の地侍五十三家のことであり、後の甲賀流忍術の中心となった家々である。

美濃部氏は、甲賀二十一家の一家、美濃部氏は、水口城域にも屋敷跡が残る

一学殿屋敷は、柘植家とともに江戸期を通して高山村を知行した美濃部一学殿家の陣屋跡だとされる。
一学殿家は中世は美濃部同名中の一員の土豪であったが、江戸初期に幕府から旗本に取り立てられ、江戸に出府していた。

また光照寺は天文5年(1536)開基と伝えるが、一学殿家が江戸へ移住したのち、その跡地に移築されたもの。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査(甲賀)、淡海の城、甲賀の城、甲賀郡誌

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!

 
 
 

源太屋敷城 近江国(水口)

2014年03月28日 | 平山城

岩坂集落からは中央を通る路地を南方に抜けて、その延長上の畦道から山林内に入る。山裾付近は切岸状の急崖だが、山裾を東に回りこみ、中央付近だけは竪堀状に開け進入できるので、これが大手虎口。

山裾付近は切岸状の

山裾を東に回りこみ、この倉庫の反対側が大手虎口

源太屋敷城は、岩坂集落のすぐ南方の山林内にあった。現在は途中を県道が遮断しているが、飯道山からのびた尾根の先端にあたる。

山裾を東に回りこみ、中央付近だけは竪堀状に開け進入できるので、これが大手虎口。

別 名:源太城

住 所:甲賀市水口町岩坂字菖蒲谷 map:http://yahoo.jp/IDG1S5

築城者:篠原源太

目 標:岩坂公民館

築城時期:

現 状:山林

遺 構::曲輪・土塁・堀切

区 分:丘陵城

有名城主 :

駐車場:岩坂公民館

訪城日:2014.3.28

歴 史

「甲賀郡志」によると、「相伝土豪篠原源太の邸跡」とされるが詳細は不明。

駐車場可、獣害フェンスを開けて攻め込む!

縄張は甲賀によくみられる単郭方形とは全く異なり、地形をそのまま生かした歪な削平地が組み合わさって構成されている。

その中で、対角が約30mの六角形状の曲輪Ⅰが主郭と思われ、南方の山上側は切り込み、他の辺は土塁が囲んでいる。

北東辺は虎口bが開口し、両側の土塁は食い違っている。また虎口を下ると、竪土塁cが直進を阻み大きく迂回する造りとなっていて、ここが一番の見どころである。
主郭直下は地形そのままに削平された小規模な曲輪が左右に並んでいる。

主郭Ⅰ南側の切岸約10m頭上には土壇aがある。そこから南方には、ほぼ自然地形で不明瞭ながら小削平地が続き、どこまでが城域なのか判断できる堀切等の防備がない。北方山麓側は切岸により遮断性が高いのに対し、南方山上側が不明瞭なことが、どうもすっきりしなかった。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査(甲賀)、淡海の城、甲賀の城、甲賀郡誌

本日も訪問、ありがとうございました。


鎌刃城(遠望) 

2014年03月28日 | 平山城

西番場 鎌刃城跡の現地案内板 

現地案内板

鎌刃城は、戦国時代に浅井氏に属していた堀氏の居城だった。
1570年、浅井氏は朝倉氏の越前を攻めた織田信長との同盟を破棄した。
金ヶ崎から京に戻った信長は、部下の木下藤吉郎秀吉に浅井氏家臣団の切り崩しを命じ、秀吉は堀氏を寝返らせることに成功した。
しかし1571年、奪還を謀る浅井井規に鎌刃城を攻められる。
秀吉は鎌刃城を守らなければ今後浅井氏から織田氏への寝返りがなくなることを恐れ、また最前線維持のため急いで援軍を出した。
しかし秀吉の本城の横山城も浅井本隊によって攻められており、わずか100騎程しか援軍を出せなかった。
秀吉自らそれを率いて鎌刃城へ入城し、援軍を得た鎌刃城兵は奮戦し、わずか5、600ばかりで数倍の敵を追い払ったという。
その間横山城も浅井本隊による襲撃を受けたが竹中半兵衛の指揮で退けた。
現在は町指定の史跡として整備が行き届いている。
山の高さは384mあり、典型的な山城で、江北と江南の境目を守る役目を持つ。
主郭周りや北端郭には石垣が残り、虎口にも石段や石積みが残る。登山道はよく整備されており途中に表示がある。
ちなみに鎌刃というのは尾根の両側が鎌の刃のように峻険だということから名づけられたという。

鎌刃城遠望・・・中央鉄塔の間


信長公記 遭難行路  千草峠にて鉄砲打ち申すの事)

2014年03月27日 | 武将

信長公記 巻三 元亀元年

5、遭難行路  千草峠にて鉄砲打ち申すの事

 5月19日、浅井長政は鯰江城①に軍勢を入れ、同時に市原②に一揆を蜂起させて岐阜へ下る信長公の行く手を阻んだ。これにより信長公は近江路を断念せざるをえなくなり、日野の蒲生賢秀・布施藤九郎・香津畑③の菅六左衛門の尽力を得て経路を千草越え④に変更した。
 そこへ刺客が放たれた。六角承禎に雇われた杉谷善住坊という者であった。杉谷は鉄砲を携えて千草山中の道筋に潜み、山道を通過する信長公の行列を待った。やがて杉谷の前に行列が現れ、その中の信長公が十二、三間の距離⑤まで近付いたとき、杉谷の手から轟然と鉄砲が発射された。
 しかし天道は信長公に味方した。玉はわずかに体をかすめただけで外れ、信長公は危地を脱したのであった。
 5月21日、信長公は無事岐阜に帰りついた。

 ①現滋賀県愛東村 ②現永源寺町市原野 ③現永源寺町甲津畑 ④前出。近江から伊勢へ抜ける経路。 ⑤約22~24mほど

元亀元年(1570)越前の朝倉攻めを敢行した織田信長は、4月25日敦賀の手筒山城を落とし、翌26日には金ケ崎城、,疋田城をも落とし、まさに木ノ芽峠を越えて越前に攻め入らんとした時、近江江北・小谷城を本城とする娘婿の浅井長政の離反にあい、若狭から朽木街道を経て京に逃げ戻る。この時信長に従う者は僅か10名ほどだったと云われている。



 信長は浅井討伐の準備をするため、美濃・岐阜城へ帰国するルートとして選んだのが、千種越え(現在の永源寺町甲津畑から杉峠を越えて、三重県菰野町にでるルート)であったが、

その時に信長が甲津畑で馬を繋いだと云たれる松が甲津畑の速水氏宅にある。

 

 

遠藤周作氏の『男の一生』では、千草越えで織田信長を狙撃した甲賀の杉谷善住坊を、金ケ崎の戦いの際に遠藤喜右衛門が雇った傭兵であったとする。
『杉谷善住坊のかくれ岩』の標示があったので谷に下りてみると説明板があった。

簡単に説明すると浅井長政の裏切りにより織田信長が濃州岐阜に戻るとき、ここで待ち伏せに会い杉谷善住坊の鉄砲でかすり傷を負った。

杉谷善住坊のかくれ岩

「対岸の信長を狙撃」事件の「善住坊のかくれ岩」

 

 

-----------信長公記 千種峠にて鉄炮打ち申すの事
日野蒲生右兵衛門大輔、布施籐九郎、香津畑の菅六左衛門馳走申し、千種越えにて御下なされ候。左候ところ、杉谷善寺坊と申す者、佐々木左京太夫承禎に憑まれ、千種・山中道筋に鉄砲を相構へ、情なく十二、三日隔て、信長公を差し付け、二つ玉にて打ち申し候。されども、天道照覧にて、御身に少しづゝ打ちかすり、鰐の口を御遁れ候て、目出たく五月廿一日濃州岐阜御帰陣。
-----------

その後磯野丹波守は信長より近江高島郡を与えられる。

丹波守は高島に隠れていた、かつて信長を狙撃した杉谷善住坊を捕らえ、天正元年(1573年)9月に岐阜へ引き出した。 

 

杉谷 善住坊(すぎたに ぜんじゅぼう)

生年不詳 - 天正元年9月10日(1573年10月5日))は、安土桃山時代の人物。織田信長を火縄銃で狙撃したことで知られる。

鉄砲の名手であったという以外の人物像は不明であり、出身については織田家に滅ぼされた武家、甲賀五十三家の一つである杉谷家の忍者、雑賀衆、根来衆、賞金稼ぎ、猟師ともいわれている。                                                                                         信長を狙った理由も、近江を追われた六角氏からの依頼、信長への個人的な恨み、鉄砲名人としての腕試しなど諸説ある。

元亀元年(1570年)4月、越前朝倉氏攻めの途中で浅井長政に挟撃され一時京都に逃れていた(金ヶ崎の戦い)信長は、翌5月に岐阜城への帰還の途についていた。5月19日、善住坊は伊勢方面へ抜けるため近江の千草越(千草街道)を通過していた信長を狙撃するが失敗に終わった。12-13間(20数m)の距離から2発撃ったとされるが、信長はかすり傷のみで済んだ。

その後は逃亡生活を送るが、暗殺されかけた事に激怒した信長の厳命で、徹底した犯人探しが行われた。                                                 その結果、近江高島郡堀川村の阿弥陀寺に隠れていたところを、近江高島郡の領主である磯野員昌に捕縛される。                                        織田家へ引き渡された後は、菅屋長頼・祝重正によって尋問された後に、生きたまま首から下を土中に埋められ、竹製のノコギリで時間をかけて首を切断する鋸挽きの刑に処された。                

   

 参考資料:パンフレット各種・現地説明板・専門員のガイド説明 等々

本日も、訪問ありがとう御座いました!感謝!


信長の側室 お鍋

2014年03月27日 | 武将

信長の側室

関係図

  • 拡大して見る 

 鍋は、織田信長の側室の一人として有名な女性である。土豪の高畑源十郎の娘と云われているが確証はない。また、嫁ぎ先においても、八尾城(東近江市)の城主である小倉左近将監実澄とする説や高野城(東近江市)の城主である小倉右京亮実治とする説等がある。また、実治を実房とする説やおのおのの持ち城が八尾城や高野城、小倉城(東近江市)、佐久良城(日野町)と入れ替わって説明されている場合もあり諸説ある。これらは愛知郡小椋庄を領地として高野城と小倉城を居城とする東家と、神崎郡御園庄を領地として山上城を本城を構え、和南城、山田城、相谷城,九居瀬城、八尾山城等を一族の支城とする西家とが混同されているからと考えられる。いずれにしても、鍋には甚五郎と松千代(松寿)の二人の子供があったことは事実のようである。

さて、小倉氏は、永禄2年(1559)に京都から帰途につく織田信長を、八風街道越えで伊賀に抜ける手引きをしたことを理由に六角承禎の怒りを買い、殺されてしまう(和南山の合戦)。鍋は2人の子供を抱え小田(近江八幡)に住む姉の家に身を寄せたといわれている。その後、鍋は信長の側室となり、その後を岐阜で暮らすこととなった。岐阜では七男信高、八男信吉と、後に水野忠胤・佐治一成の室となる於振を生んでいる。また、先夫の子二人は信長により庇護されたが、松千代は本能寺の変で森蘭丸らと共に討ち死にした。

天正10年(1582)に本能寺の変で信長が死去した後の鍋は、信長の菩提を弔うことに尽力したといわれ、それを見た羽柴秀吉は近江愛知郡内に182石を与えた。天正11年(1583)にさらに400石が加増された。また、長男の甚五郎が加賀松任城主に任じられたという話もあるが定かではない。慶長5年(1600)、関ヶ原の戦で信長との子の信吉が西軍についたため、鍋の領地も召し上げられた。しかし、その後信吉はかろうじて高家としての扱いを受け京都で晩年を過ごし、慶長17年(1612)に死去した。墓所は信長と同じ京都の大徳寺塔頭総見院にある。

鍋の足跡を訪ねて

このように、鍋と鍋の夫小倉氏をめぐる遺跡が近江には残されている。

八尾城の詳細は明らかではないが、佐久良城、小倉城は現地でも遺構を見ることができる。また、佐久良城の近くの曹洞宗神護山仲明寺は小倉実澄の菩提寺として有名である。特に高野城については、平成14年度に高野館遺跡で永源寺町教育委員会が団体営圃場整備に伴う事前発掘調査を実施し、16世紀末から17世紀にかけての土器類と共に石垣が発見されたことで知られている。また、近くには秀吉が没してから、隠栖した場所として「お鍋屋敷」と称される伝承地もいまに伝えているが、高野に居住した確証は得られておらず詳細は明らかではない。

また、一時を過ごした小田には「小田は良いとこ お鍋の方が 殿をまねいたこともある」と地元の子守唄(『近江八幡ふるさと昔はなし』)とともに、「お鍋さんの屋敷跡」という伝承が残されており、かつては、お鍋の弔いのために一本松が植えられ、「おなべ松」と呼ばれていた松があったという。現在、屋敷の伝承地の松は枯れ、かつて松が生えていた塚とその後に植えられた3本の松が残されている。信長を暗殺した敵を憎むお鍋の妄念は消えようとしても消えず、いつしか「白蛇」のたたりとなって、この堀を掘ったり、松を切ろうとすると発熱させたりしびれさせたりするという言い伝えも、今に伝えられている。

(滋賀県教育委員会文化財保護課 木戸雅寿)

 


連続講座「近江の城郭」 第5回 徳川幕府西国支配の要~彦根城跡

2014年03月23日 | 平山城

 

○連続講座「近江の城郭」 第5回 徳川幕府西国支配の要~彦根城跡

慶長5年(1600)9月15日の関が原の合戦に家康が勝利したことで、近江国の勢力配置は大きく変わりました。それまで東国の徳川家康に対する防波堤として豊臣配下の武将が置かれていましたが、合戦後の領地替えによって徳川配下の武将たちが近江に領地を与えられ、近江は大坂城にいる豊臣氏をにらむ最前線と位置づけられるようになりました。中でも最重要拠点だったのが彦根城です。彦根城は、関が原の合戦の戦功により石田三成の居城佐和山城を与えられた井伊直政の死後、後を継いだ直継によって築かれました。戦国末期の城郭にふさわしく、様々な工夫が凝らされたその縄張は、究極の城として歴史ファン・城郭ファンの注目を集めています。

今回の講座では、彦根城内を隅々まで散策し、その遺構や縄張について、地元彦根市の文化財専門職員の案内で御覧いただきます。

 

1.日時 平成26年3月22日(土) 10:30~15:30

○集合:大学サテライト・プラザ彦根

    ※JR彦根駅西口前アルプラザ彦根6階

○解散:彦根城跡表門前

         ※彦根城博物館前 JR彦根駅まで徒歩約10分

 講義「関が原合戦と近江」 講師:上垣幸徳(滋賀県教育委員会文化財保護課) 会場:大学サテライト・プラザ彦根

連続講座・・・5回皆勤賞(21名)表彰・・・代表者

現地探訪・・・班割

 現地探訪 彦根城跡    解説:彦根市教育委員会文化財専門職員

行程 大学サテライト・プラザ彦根(講義・昼食)→彦根城跡大手門前→彦根城内(米蔵跡→観音台→西の丸→本丸→天守→鐘の丸)→彦根城跡表門前   全行程約2km(石段あり)

集合場所へ

米蔵跡

米蔵へ搬入口(内堀から)

西の丸下へ縦掘

西の丸下へ縦掘

山崎郭へ

観音台(寺院跡)

西の丸へ

石垣にノミ跡

石垣にノミ跡

石垣にノミ跡

石垣にノミ跡

本丸へ

石垣にノミ跡

石垣にノミ跡

石垣にノミ跡  石垣にノミ跡

孕みで崩れた石垣

天秤櫓へ

 

 

 

二ノ丸 佐和口多門櫓

 主催 滋賀県教育委員会 協力 彦根市教育委員会

定員 60名(事前申込制) 参加者127名(スタッフ別)

参加費 800円(保険料・彦根城観覧料・彦根城ガイドブック等実費分)

持ち物 健康保険証、弁当、水筒、タオル、ウォーキングに適した服装・靴

・その他 講座資料(A4 8頁程度)を無料で配布します。

・受講された方には修了証を発行します。

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 滋賀県教育委員会事務局文化財保護課城郭調査担当

 〒521-1311 滋賀県近江八幡市安土町下豊浦6678 城郭調査事務所

  TEL0748-46-6144 FAX0748-46-6145 E-mail ma16@pref.shiga.lg.jp

本日も訪問、ありがとうございました。


出庭城 近江国(湖南・栗東)

2014年03月22日 | 平山城

住所 :栗東市出庭 maphttp://yahoo.jp/GfiOA6

現在の状態 :出庭神社・集落

遺構 :堀跡

形式 :平城

築城時期 :江戸期・元禄期カ?

築城者 :遠藤胤親カ

有名城主 :

訪城日:2014.3.18

遠藤 胤親(えんどう たねちか)は、近江三上藩の初代藩主。徳川綱吉の側室・お伝の方(瑞春院)の甥にあたる。

 

天和3年(1683年)5月14日、白須政休の長男として生まれる。元禄5年1692年)に八幡藩主遠藤常久が家臣によってわずか7歳で毒殺されて、遠藤氏は無嗣改易となったが、幕府では遠藤氏の祖先の功績などを考慮して、5月に遠藤胤親を美濃大垣新田藩主・戸田氏成の養子にした上で常陸・下野国内で1万石を与えて、遠藤氏の再興を認めた。

 

元禄11年(1698年)3月7日、胤親は所領を近江4郡に移されて、ここに三上藩が立藩し、初代藩主となる。宝永6年(1709年)3月7日に従五位下・下野守に叙位・任官する。宝永7年(1710年)に朝鮮通信使の饗応役を勤め、その後も江戸城馬場先門番・和田倉門番・一橋御門番などを務めた。享保8年(1723年)12月18日に但馬守に遷任する。                                                                                   享保18年(1733年)9月25日、家督を長男の胤将に譲って隠居する。享保20年(1735年)3月2日に死去した。享年53。

 

 

出庭城は、野洲川西岸の出庭集落一帯にあったとされる。

出庭集落は四方を水路がめぐり、さらに集落中央に鎮座する出庭神社にも水路がめぐる様子は、里城特有の周濠集落の装いを呈している。

 


出庭神社東側には蓮池があった跡を残す蓮池公園があり、地形から判断すると主郭は出庭神社とその西方付近を比定出来る。
近年まで集落北西端の水路沿いには土塁状の高まりが残っていたようだが、現在は消失した。

 

出庭神社から100mほど東に新興住宅地があり、その辺りが遠藤屋敷と伝えられているとのことであった。
この遠藤屋敷が出庭城かどうかは不明。
 出庭地区の出庭神社を中心として、東西300m、南北200mの範囲で周囲を取り囲むように川(水路)が流れ、東側には小さな沼地跡。

 また周辺と比較しても出庭神社だけが土盛りをしたように0.5~0.7mほど高くなっているのを見ていると、出庭神社,西光寺、および従縁寺一帯が出庭城ではないかと考えられるのだが・・・・。

 

鳥居前堀

駐車場は出庭公民館の敷地内(出庭蓮池公園)

隣に【出庭山 西光寺】http://ideha-ritto.jp/p_02.htm

滋賀県栗東市出庭249番地

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査 3( 旧野洲・栗太郡の城)、淡海の城、お城のとびら

本日も訪問、ありがとうございました。


古高城 近江国(湖南・守山)

2014年03月22日 | 平山城

所在地 :守山市古高町 map:http://yahoo.jp/RGObq8

現在の状態::集落・大将軍神社

遺構 :堀跡・神社土塁

区 分 :平城

築城時期 :室町時代

築城者 :古高氏・三上氏

歴代城主:古高氏・三上氏

訪城日:2014.3.16

歴史

古高城は詳細は不明だが、国人領主古高氏が居城していたと考えられる。
江南守護六角氏が勢力を拡大して以来、古高の地もその支配下となり、六角氏の重臣で野洲郡三上を本拠とする三上氏の傘下にあったと考えられる。

伝承ではこの地に代官所があったとされ、江戸期は三上藩の支所として機能したと考えられる。
また幕末には古高俊太郎を輩出していることから、武家古高家は何らかの形で存続していたのではないか。

古高城の位置は明確ではないが、周囲に「東屋敷」「西屋敷」「南屋敷」「堂ノ内」の地名がある大将軍神社のあたりに城郭があったと考えられている。
大将軍神社は、狭い道で駐車できないので、近くのコンビニ等の駐車場を拝借するのが便利。

古高の地は、鎌倉時代以降、佐々木氏の領地であり、佐々木四天王の一人といわれた、家臣の三上氏が治めた。                                        古高城は、三上氏の傘下、国人領主の古高氏の居城であったと伝わる。
永禄11年(1568)、織田信長は足利義昭を奉じて上洛するにあたって、近江に侵攻し、佐々木六角氏を破った。この際に、古高城も滅んだと伝わる。

古高城は、現在の大将軍神社辺りに築かれていた。

古高城は、幕末の勤皇志士古高俊太郎の出身地として著名な古高集落一帯にあったとされる。
字堂ノ内に鎮座する大将軍神社を中心に、北方に「東屋敷」「西屋敷」、南方に南屋敷の地名が残っている。

特に東・西屋敷は現在でも三方を水路に囲まれ、城構えの様相を呈している。
また大将軍神社には北東に土塁が残っているが、城との関連はないのだろうか。
大将軍神社社殿は、応仁元年(1467)三上満実の再興である。

 

金森城の下流の堀

将軍神社の隣に土塁(古高城のものカ?)

鳥居~拝殿まで、神社土塁に堀(今は用水路)

境内にある土塁の名残カ?

参考資料:古高城遺跡発掘調查報告書、滋賀県中世城郭分布調査 3( 旧野洲・栗太郡の城)、淡海の城、お城のとびら、日本のお城

本日も訪問、ありがとうございました。


追分城 近江国(湖南・草津)

2014年03月20日 | 遺蹟

住所 :草津市追分町

現在の状態 :追分緑地公園・八幡神社

形式 :平城

遺構 :なし・神社土塁

築城者 :青地城主青地氏カ?は大身領主

築城期 :

目標地:追分会館・追分八幡神社

有名城主:宇野氏カ

追分城は、追分緑地公園内に建つ八幡神社付近にあったとされる。

 滋賀県安土城郭調査研究所発行の『淡海の城』に記載されているが、詳細不明とある。 

『淡海の城』や草津市の遺跡マップによれば、八幡神社社地が追分城址とされています。八幡神社は、北向きのごく緩やかな舌状台地にありますが、要害性はほとんどみられません。八幡神社のすぐ東側を新幹線が走っているため、こちらの旧地形は分かりませんが、西側は緩やかな谷戸となって北の伯母川の方へ開いています。第一に、この谷戸を治める在地領主の城館と推測されます。
 また、伯母川のすぐ上流には青地城があります。青地城主青地氏は大身領主であるため、追分城も青地氏の影響下にあったとも考えられます。

現地に石碑や解説板

神社の由緒書に豪族・宇野氏の名前がありました。
  追分城との関連性は分かりませんが、この近辺を宇野氏が支配していた時代があるなら館はだったでしょう。それが追分城だった。
もしくは、城郭化していったということは十分に考えられる。

青地氏(あおぢ)は、日本の武家の一つ。本姓は源氏。佐々木氏の支流氏族。『尊卑分脈』によれば、馬淵廣定の四男・基綱を祖とする。馬淵氏は佐々木氏の支流氏族で、廣定は佐々木定綱の五男である。

一本系図では、一帯の古代豪族小槻山君の末裔・小槻氏の子孫が青地庄の地名に因み青地氏を称したとする。その後青地定兼に子がなかったため、基綱を養子に迎え小槻姓から佐々木氏の源姓に改めたとされる。このほか、青地系図では、基綱は青地右馬助入道の養子と記される。

追分城址(八幡神社)。

追分城址(八幡神社)。

神社土塁

新幹線側の城域カ?

神社土塁・空堀

 

隣の「追分会館」

神社の向かいに土塁!家臣屋敷カ?

城郭の遺構は残りませんが、周辺はやや高台の位置になっており、中世武士の館が置かれる条件には合うでしょう。完全に宅地化されており、ここも往時の姿を偲ぶことはできます。

参考資料;淡海の城、滋賀県中世城郭分布調査、滋賀の城、

本日も訪問、ありがとうございました。


灰塚山城   近江国(栗東)

2014年03月20日 | 丘陵城

灰塚山城(遠景)金勝寺川より

お城のデータ

所在栗東市川辺 map:http://yahoo.jp/7KwyEZ

現 状 :山林・灰塚山古墳群

区 分::丘陵

遺 構 :曲輪・虎口・堀切・狼煙台や物見台

築城者:小槻氏カ、青地氏カ

:築城期 :

駐車場:栗東市出土文化財センター

訪城日:2014.3.16

お城の概要

灰塚山城は、安養寺山の西端に派生した 独立丘、灰塚山にあったとされる。山頂からは栗東地域が見渡せないが、灰塚山のすぐ南麓に「金勝川の水上交通」にも優れ、「東海道の交通の監視」も出来る立地だ。
灰塚橋~栗東市出土文化財センター(車を駐車~西の丘陵が灰塚山城)

登城口・・・名神高速道路のトンネル手前を西に

灰塚山は城山というよりも灰塚山古墳群があることで知られている。古墳は山の稜線上に5基の円墳が並ぶ。
城はその古墳群を利用して築かれ、古墳に付随するように堀切等の城遺構が確認できるが、居住するほどの改修ではないことから、狼煙台や物見台程度のものではなかったかと感じる。

お城の歴史

 灰塚山は、栗東(栗太郡)の名の由来となった栗の大木を燃やした灰が積もってできた山だという古代伝説がある。
奈良~平安時代に栗太郡の中心的な役所・栗太郡衙があった岡遺跡と、これを支配した小槻氏の拠点(小槻大社付近)が灰塚山南西のすぐ近くにあった。

登城口・・・名神高速道路のトンネル手前を西に

土塁と横掘 

       土塁と横堀 横堀

       最高所(主郭5m×10m)虎口最高所(主郭5m×10m)

上段の帯曲輪最高所(主郭5m×10m)
  灰塚山は、安養寺山の西にちょこんと突き出た半独立丘です。南に金勝川が流れ、周囲には灰塚池や目川池などがあることから、かつては氾濫原に囲まれていたものと推測されます。城としての史料はほぼないので、灰塚山1号墳に関する記述を追ってみたのですが、「大きく破壊され」などと書かれているものが多かったです。実際には、城跡としての遺構は結構残っているので、古墳時代愛好家の方々からみると、中世城郭は古墳の破壊者としか映らないのかもしれません…。

 山頂への登山道はとくにないようなので、適当に山肌を直登します。冬場だったとはいえ、とくに樹木が深いわけでも、ヘビや熊の心配があるわけでもないので、登頂は難しくありません。城は、山頂の主郭を中心に、2段ほどの帯曲輪がめぐる構造となっています。

北麓を名神高速が走っており、こちら側は工事によって破壊されている可能性が高いと思われます。主郭の周囲をめぐる土塁が比較的良好に残っており、これによって灰塚山が城跡であることが確定できるといえます(逆に、私には古墳であることが分かりませんでしたが)。西辺に虎口跡と思しき箇所が見受けられます。それ以外にはとくに際立った造作はみられず、ごく小規模な城砦であるといえます。目的は、物見や伝え、緊急避難用など種々考えられますが、確定的なことはいえません。すぐ近くに大身領主青地氏の居城青地城があり、青地氏に関連する施設とも推測されます。

  さて、灰塚山には、その名の由来となった伝説があります。かつてこの地には葉の陰が朝は丹波国に、夕は伊勢国にまで及ぶ巨大なクリの大木があった。周辺住民は田畑に日が差さなくなるので困り、住民ないし天皇が人を集めてクリの木を伐採して燃やし、その灰を集めて塚としたのがすなわち灰塚山であるというものです。また、栗東や栗太郡の語源は、このクリの木にあるともいわれています。この伝説の裏には、かつて大和朝廷と対立した古代豪族がいて、栗東周辺を本拠地とし、遠くは丹波や伊勢にまで影響を及ぼしていたという史実があるように思います。灰塚山の周辺には他にも多くの古墳群があり、また古代郡衙跡である岡遺跡や、古代豪族小槻氏の拠点小槻神社などもあります。また、市内の万年寺には、聖徳太子がかつて近江の敵と戦って一度敗れ、ある老人がこのクリの大木の下に太子を匿ったとする寺伝があるそうです。

現在に残る城館以降は中世のものであり、これらの伝説が直接城跡と関連はないが、灰塚山一帯がかつて大和朝廷を一度は敗走させたほどの古代豪族の拠点であったとする。

   

参考資料;淡海の城、滋賀県中世城郭分布調査、滋賀の城、

本日も訪問、ありがとうございました。