信長公記 巻三 元亀元年
5、遭難行路 千草峠にて鉄砲打ち申すの事
5月19日、浅井長政は鯰江城①に軍勢を入れ、同時に市原②に一揆を蜂起させて岐阜へ下る信長公の行く手を阻んだ。これにより信長公は近江路を断念せざるをえなくなり、日野の蒲生賢秀・布施藤九郎・香津畑③の菅六左衛門の尽力を得て経路を千草越え④に変更した。
そこへ刺客が放たれた。六角承禎に雇われた杉谷善住坊という者であった。杉谷は鉄砲を携えて千草山中の道筋に潜み、山道を通過する信長公の行列を待った。やがて杉谷の前に行列が現れ、その中の信長公が十二、三間の距離⑤まで近付いたとき、杉谷の手から轟然と鉄砲が発射された。
しかし天道は信長公に味方した。玉はわずかに体をかすめただけで外れ、信長公は危地を脱したのであった。
5月21日、信長公は無事岐阜に帰りついた。
①現滋賀県愛東村 ②現永源寺町市原野 ③現永源寺町甲津畑 ④前出。近江から伊勢へ抜ける経路。 ⑤約22~24mほど
元亀元年(1570)越前の朝倉攻めを敢行した織田信長は、4月25日敦賀の手筒山城を落とし、翌26日には金ケ崎城、,疋田城をも落とし、まさに木ノ芽峠を越えて越前に攻め入らんとした時、近江江北・小谷城を本城とする娘婿の浅井長政の離反にあい、若狭から朽木街道を経て京に逃げ戻る。この時信長に従う者は僅か10名ほどだったと云われている。
信長は浅井討伐の準備をするため、美濃・岐阜城へ帰国するルートとして選んだのが、千種越え(現在の永源寺町甲津畑から杉峠を越えて、三重県菰野町にでるルート)であったが、
その時に信長が甲津畑で馬を繋いだと云たれる松が甲津畑の速水氏宅にある。
遠藤周作氏の『男の一生』では、千草越えで織田信長を狙撃した甲賀の杉谷善住坊を、金ケ崎の戦いの際に遠藤喜右衛門が雇った傭兵であったとする。
『杉谷善住坊のかくれ岩』の標示があったので谷に下りてみると説明板があった。
簡単に説明すると浅井長政の裏切りにより織田信長が濃州岐阜に戻るとき、ここで待ち伏せに会い杉谷善住坊の鉄砲でかすり傷を負った。
杉谷善住坊のかくれ岩
「対岸の信長を狙撃」事件の「善住坊のかくれ岩」
-----------信長公記 千種峠にて鉄炮打ち申すの事
日野蒲生右兵衛門大輔、布施籐九郎、香津畑の菅六左衛門馳走申し、千種越えにて御下なされ候。左候ところ、杉谷善寺坊と申す者、佐々木左京太夫承禎に憑まれ、千種・山中道筋に鉄砲を相構へ、情なく十二、三日隔て、信長公を差し付け、二つ玉にて打ち申し候。されども、天道照覧にて、御身に少しづゝ打ちかすり、鰐の口を御遁れ候て、目出たく五月廿一日濃州岐阜御帰陣。
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その後磯野丹波守は信長より近江高島郡を与えられる。
丹波守は高島に隠れていた、かつて信長を狙撃した杉谷善住坊を捕らえ、天正元年(1573年)9月に岐阜へ引き出した。
杉谷 善住坊(すぎたに ぜんじゅぼう)
生年不詳 - 天正元年9月10日(1573年10月5日))は、安土桃山時代の人物。織田信長を火縄銃で狙撃したことで知られる。
鉄砲の名手であったという以外の人物像は不明であり、出身については織田家に滅ぼされた武家、甲賀五十三家の一つである杉谷家の忍者、雑賀衆、根来衆、賞金稼ぎ、猟師ともいわれている。 信長を狙った理由も、近江を追われた六角氏からの依頼、信長への個人的な恨み、鉄砲名人としての腕試しなど諸説ある。
元亀元年(1570年)4月、越前朝倉氏攻めの途中で浅井長政に挟撃され一時京都に逃れていた(金ヶ崎の戦い)信長は、翌5月に岐阜城への帰還の途についていた。5月19日、善住坊は伊勢方面へ抜けるため近江の千草越(千草街道)を通過していた信長を狙撃するが失敗に終わった。12-13間(20数m)の距離から2発撃ったとされるが、信長はかすり傷のみで済んだ。
その後は逃亡生活を送るが、暗殺されかけた事に激怒した信長の厳命で、徹底した犯人探しが行われた。 その結果、近江高島郡堀川村の阿弥陀寺に隠れていたところを、近江高島郡の領主である磯野員昌に捕縛される。 織田家へ引き渡された後は、菅屋長頼・祝重正によって尋問された後に、生きたまま首から下を土中に埋められ、竹製のノコギリで時間をかけて首を切断する鋸挽きの刑に処された。
参考資料:パンフレット各種・現地説明板・専門員のガイド説明 等々
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