城郭探訪

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中村城 近江国(大津・葛川中村町)

2017年04月30日 | 平城

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然

お城のデータ

所在地:大津市葛川中村町108-1 map:https://yahoo.jp/3o_IYY

現 状:学校・神社

区 分:平城

築城期:

築城者:集落民

遺 構:石垣

標 高:335m 比高差:0m

目標地:葛川小・中学校

駐車場:葛川小・中学校

訪城日:2017.4.16

写真の説明はありません。

お城の概要

葛川小・中学校(葛川中村町108-1)の北側あたり、安曇川の左岸にありました。

集落の南の守り城と考えられ、今も史跡がわずかに残っています。

葛川は、大津市北部に位置しており、安曇川の峡谷沿いのいくつかの集落から形成される自然豊かな地域。
平安時代から続く修行の場として知られ、古民家の建ち並ぶ歴史と情緒あふれる美しきこの葛川の地。

お城の歴史

詳細不明だが、鯖街道添いの、集落の防衛のための集落の城(細川城と同じく)か?

844~ 平安時代 温井(貫井)地域に惟喬親王を祖とする木地師の集団が住み着く
859      坊村に葛川寺(明王院)が相応和尚により創建される

1334 南北朝  坊村の葛川寺はこの頃より息障明王院を正式寺号とする
1662 江戸時代 5月、高島町を震源地としたM7.6の大地震が発生し、榎村(現梅ノ木)町居村                     坊村に惨憺たる大被害をもたらした(貝原益軒、湖国巡の記より)
1873 明治 6月 木戸口の地蔵院に弘文学校、梅ノ木に梅巷学校、細川に蓬莱学校ができる
1873    8月 弘文学校が葛川学校になる
1889   22  当時、細川、貫井、梅ノ木、町居、坊村、中村、木戸口、坂下の八村に分かれて                    いたのが八村が合併して葛川村になる画像に含まれている可能性があるもの:空、山、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:夜、木、空、屋外画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、空、植物、家、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、空、屋外
写真集:https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/948997715262804

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査・大津のかんきょうの宝箱

本日の訪問ありがとうございす!!


目賀田城(安土山) 近江国(安土)

2017年04月22日 | 丘陵城

安土山にあった目賀田城 

お城のデータ

所在地:近江八幡市安土町下豊浦   map:http://yahoo.jp/804zFJ

区 分:丘陵城

築城期:南北期

築城者:目賀田氏(六角氏の重臣)

現 状:山林(安土山 馬場平) 

遺 構:平削地(曲輪)・石垣・土塁・虎口・

標 高:160m  比高差:65m

目標地:安土城跡

駐車場:安土城無料駐車場

訪城日:2016.1.26

お城の概要

『蒲生郡志』には、案内板の縄張図には他に、安土城には大手道の他に百々橋口道、七曲り道、搦手道、東門道などが描かれており当時は多くの城道が使われていた事が分かります。

『近江蒲生郡志 増補 昭和篇』に綴じ込まれている「大正4年11月測量の縄張図も安土城の全貌を知るのに役立ちます。

これらの道の多くは立ち入りが禁止されていますが、東門道道は現在でも立入が可能です。(中心部への通り抜けはできません)そしてこの東門道からは、尾根を経てて観音寺城に直行する事ができます。 

 また東門道の道沿いには、安土城築城以前に目賀田城が置かれていたとされる馬場平があります。この東門道については ” 安土城|もう一つの登城道・東門道

 安土城には有名な大手道の他に百々橋口道、七曲り道、搦手道、東門道がある。

しかし東門道は紹介されていない、この東門道は、東門の入口は「北腰越」(県道2号線=朝鮮人街道)、安土山と観音寺山の間を通る朝鮮人街道の峠付近にある。

 安土城の駐車場からは 内堀跡の散策道を通って300メートルくらいのとろにある松源院弘法大師堂から入る。

現在では、松源院弘法大師堂の前を通り石の階段を登りとすぐに石仏に出会い、この道が霊場巡りのミニ巡礼道として使われてている事が分かります。

この巡礼道は、1849年に五個荘の安福寺の寿仙(尼僧)が発起人となり、賛同者の寄付で大正八年に整備されたという。

少し進むと立派な石垣があり、その角に「東門」の名が刻まれた石碑が立つ。その上にある郭の虎口(目賀田城)にあたり、防御の為かここで道は折れ曲がっていまる。その先には削平地があります。ここは御茶屋平と呼ばれる郭の跡地ですが、現在では四国八十八カ所巡りの起点の石仏がピラミッドのように積み上げられれている。

 この御茶屋平の北側を抜けるとお堂があり、道は二手に分かれています。その道の一方は中腹を安土城の中心部に向い、もう一方は尾根筋に向っています。安土城跡の案内図にはこの尾根筋の道沿いに、神様平と馬場平の 2つの削平地がある。

ここで尾根筋方向に向かうと、石仏が並んでおり安土城の城道では無く、巡礼道として改変されたようだ。

さらに進むと尾根道幅は広がり、稜線に登ってみると削平地があり、角の丸い四角い大きな石が意味ありげに鎮座しているます。このあたりが神様平か?。

南側の下方に大きな 2つの削平地が現れます。ここが「馬場平」。石垣だらけです。石垣の立派さには驚かされる。

安土城築城以前この安土山は目賀田山と呼ばれ、佐々木六角の有力な家臣であった目賀田氏の居城がありました

安土山に残る目賀田城の遺構について、馬場平に目賀田城があった。この馬場平では石垣と小石塁が組み合わせて使用されており、これは初期の観音寺城独特の構造です。また観音寺城の支城として有意な位置関係にあることから、ここが目賀田城であった。 馬場平から先、道は延びていますが幅が狭まりすぐに行き止まり。このあたりから中腹方向に下ると、広い立派な道に出ます。この道は東門道の幹線と思われ、広い道が続いていますが少し進んだところに「立入禁止」のロープが張られており、安土城中心部にに抜ける事はできません。

自動代替テキストはありません。

お城の歴史

 永禄十一年、尾張の織田信長が足利義昭を奉じて上洛軍を起こした。信長は六角承禎に協力を要請したが、承禎はこれを拒絶したため、信長軍の攻撃を受けて観音寺城は陥落、六角氏は没落した。目賀田貞政は浅井氏に属したが、浅井氏は越前朝倉氏と結び信長と対立して天正元年(1573)に滅亡、貞政は嫡男の堅綱とともに信長の麾下となり旧領を安堵された。
 畿内を平定した信長は近江に築城を計画、白羽の矢を立てられたのが目賀田氏が拠る目賀田山であった。天正四年(1576)、貞政は目賀田山明け渡しの命を受け、所領のひとつである光明寺野に移住すると新たに目賀田城を築き、春日神社を勧進した。これが現在残る目賀田城址で、光明寺野も目加田と呼ばれるようになった。ときに、目賀田氏の所領は二万石であったという。一方、目賀田山に築かれた信長の新城が安土城と称されたことはいうまでもないだろう。
 貞政の嫡男堅綱は六角氏との戦いに戦死し、嫡孫の堅政が目賀田城主を継いだ。天正十年、徳川家康が安土城を訪問したとき、堅政は信長の命によって家康一行を番場宿で饗応し、家康の入京から堺見物にも随従した。そのとき本能寺の変が起こり、家康は伊賀越で近江に出て三河に逃げ帰った。家康は堅政に三河行きを進めたが、堅政は近江に留まる道を選び、明智光秀に従って山崎の合戦に出陣、敗残の身となった。その結果、所領は没収されて一族は離散、堅政は剃髪すると備中に流浪して生涯を閉じたという。

 安土城建設前の安土山(目賀田山)には、当時明智光秀の配下で、近江守護佐々木氏(六角氏)に仕えた御家人格の目加田(目賀田)氏の居城であり、観音寺城の支城であった目加田(目賀田)城があった。 信長に安土城建設のための用地提供を要請された42代目賀田摂津守貞政は代わりの領地と、現在の目賀田城とを引き換えに目賀田山を信長に明け渡した。

 

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参考資料:『近江蒲生郡志』 安土山: Wikipedia安土城|もう一つの登城道・東門道

本日の訪問ありがとうございす!!


穴太野添の遺構 近江国(大津)

2017年04月21日 | 

作図:長谷川博美氏(滋賀県中世城郭分布調査9 滋賀郡の城:踏査図)

この林の中が、穴太野添の遺構

滋賀県中世城郭分布調査より

お城のデータ

所在地:滋賀県大津市穴太三丁目 map:http://yahoo.jp/eYXAK4

立 地:山地

現 状:山林

区 分:砦

築城期:織豊期か?

築城者:?

遺 構:土橋・曲輪・

標 高:160m  比高差:50m(旧北国街道より)

目標地:穴太野添古墳

駐車場:穴太野添古墳駐車場

訪城日:2017.4.20

お城の概要

穴太から京へ「旧白鳥越えの峠道」があった。

当時は、古墳以外の墓地は無く、「旧白鳥越えの峠道」からは200m位の距離がある。

穴太野添古墳の駐車場の北東の山林の中、踏査図(滋賀県中世城郭分布調査)の遺構が残存する。

古墳や地形を利用してした、砦のようである。

昭和44年(1969)に県道敷設は、遺構を残存するように設置されている。

駐車場の背後は、穴太野添古墳群はその中の一つの古墳群で、180基以上の古墳で構成されています。この数は、周辺の古墳群の中でも随一の数を誇っています。

古墳群は、現在、墓地とその周辺の山林の中に残っていて、こんもりとした墳丘や開口・露出している石室をそこかしこに見ることができます。古墳群の一部は、昭和44年(1969)に県道敷設に伴い滋賀県教育委員会によって7基が、昭和61・62年に墓地の拡張整備に伴い大津市教育委員会によって17基が、それぞれ調査されています。その調査成果から、おおむね6世紀前半から7世紀初めにかけて築造されたことがわかっています。なお大津市教育委員会によって調査された古墳の一部は、現地で保存・整備されていて、見学することができます。

お城の歴史

元亀元年の「志賀の陣」の関連の砦を考えられるが、詳細不明は不明。

志賀の陣:坂本の戦い(Wikipedia)

近江の琵琶湖西岸方面における織田方の重要拠点は坂本のやや南にある宇佐山城であり、ここは森可成ら1000人余りが守っていた。可成は浅井・朝倉勢接近の報を聞き、500の兵を率いて宇佐山城のやや北、坂本口に出陣して周辺の街道を封鎖して志賀や穴太に伏兵を配し9月16日には浅井・朝倉軍と小競りを行って幾人かの首を獲る勝利を収めた。

その後に信長の弟信治、近江国衆青地茂綱など2000の兵が救援として駆けつけ坂本の守勢に加わっている。

しかし、19日になると顕如の要請を受けた坂本里坊、延暦寺の僧兵達も攻め手に加わり、西の僧兵と北の浅井・朝倉軍ら総勢3万の兵から挟み撃ちを受けた森可成、織田信治、青地茂綱ら3将は奮戦するも衆寡敵せずいずれも討死してしまった。主将を失った宇佐山城も連合軍の攻撃を受けるが寡兵ながら士気は高く可成の家臣各務元正、肥田直勝などが中心となって抗戦し落城は免れた。

 10、志賀の陣  志賀御陣の事

 9月24日、信長公は上京本能寺を立ち、逢坂を越えて越前衆の攻撃に向かった。しかし下坂本に布陣していた越前勢は、信長公の旗印を見るやたちまち敗軍の体を見せて比叡山へ逃げ上がってしまった。山へ上がった越前勢は、蜂が峰・青山・局笠山に陣を取った。
 このとき信長公は延暦寺の僧十人ばかりを呼び寄せ、「信長に味方するならば、分国中の山門領を元通りに還付する」と金打して約束し、かさねて「出家の道理により片方への贔屓なりがたし、と申すならば、せめて敵味方とも見除せよ」といって説得し、その旨を稲葉一鉄に申し付けて朱印状にしたためさせた。その上で信長公は、「このこと違背するならば、根本中堂・三王二十一社を始め諸堂ことごとく焼き払う」と宣告した。しかし山門の僧衆はこの勧告を聞き入れず、情勢を見て浅井・朝倉に味方し、魚・鳥・女人を山に上げて悪逆をほしいままにした。

 信長公は下坂本に陣を取り、25日になって叡山を囲んだ。
織田勢はまず麓の香取屋敷を補強して平手監物・長谷川丹後守・山田三左衛門・不破光治・丸毛長照・浅井新八・丹羽源六が入り、穴太にも砦が築かれて簗田広正・河尻秀隆・佐々成政・塚本小大膳・明智光秀・苗木久兵衛・村井貞勝・佐久間信盛ら十六将が入れ置かれた。・・・・云々
 

穴太野添古墳駐車場獣道を10m程入り石の手前を東に土橋を抜ける

砦の頂部頂部の凹み(狼煙穴か?)

野添古墳の駐車場

参考資料:Wikipedia:志賀の陣・『信長公記』・『滋賀県中世城郭分布調査9』・滋賀県文化財保護協会:渡来人の奥津城その3-穴太野添古墳群

本日の訪問ありがとうございす


穴太城 近江国(坂本)

2017年04月21日 | 

塹壕堀・・・白鳥超えの街道を上から、狙い打ちか!

お城のデータ

所在地:大津市坂本本町 map:http://yahoo.jp/jNTQLk

現 状:山林

区 分:砦

築城期:織豊期

築城者:織田信長軍

陣 主:明智光秀をはじめ、簗田広正・河尻秀隆・佐々成政

遺 構:掻揚土塁(銃座か?)・平削地(曲輪)、空堀・竪堀・

標 高:225m   比高差110m(旧街道より)

目標地:湖美が丘自治会館

駐車場:湖美が丘自治会館

訪城日:2017.4.20

お城の概要

 穴太駅から急斜道を登ると、雛壇状の「湖美が丘地区」の住宅開発がされいる、「湖美が丘自治会館」を目指す。

「湖美が丘自治会館」の西側の丘陵が、幸い間伐直後で遺構がはっきりと確認できる。

砦頂部は自治会より40m程だが、北側は「四ツ谷川」・南側(宅地)は空堀と土塁。

穴太町「湖の美が丘地区」の北側、旧白鳥越えの峠道沿いにあったとされる。
『滋賀県中世城郭分布調査』具体的な場所は特定されていないが、「湖美が丘自治会館」の背後から西へ、山に入ると複数の平削地が確認できる。

 

お城の歴史

比叡山延暦寺攻めのために織田氏が構築した砦のひとつ。 1571年、延暦寺攻めの指揮を任された明智光秀が辛崎・穴太・田中に城砦を構築。 穴太には明智光秀をはじめ、簗田広正・河尻秀隆・佐々成政らが入城した。

 信長公記 巻三 元亀元年

 10、志賀の陣  志賀御陣の事

 9月24日、信長公は上京本能寺を立ち、逢坂を越えて越前衆の攻撃に向かった。しかし下坂本に布陣していた越前勢は、信長公の旗印を見るやたちまち敗軍の体を見せて比叡山へ逃げ上がってしまった。山へ上がった越前勢は、蜂が峰・青山・局笠山(壷笠山)に陣を取った。
 このとき信長公は延暦寺の僧十人ばかりを呼び寄せ、「信長に味方するならば、分国中の山門領を元通りに還付する」と金打して約束し、かさねて「出家の道理により片方への贔屓なりがたし、と申すならば、せめて敵味方とも見除せよ」といって説得し、その旨を稲葉一鉄に申し付けて朱印状にしたためさせた。その上で信長公は、「このこと違背するならば、根本中堂・三王二十一社を始め諸堂ことごとく焼き払う」と宣告した。しかし山門の僧衆はこの勧告を聞き入れず、情勢を見て浅井・朝倉に味方し、魚・鳥・女人を山に上げて悪逆をほしいままにした。

 信長公は下坂本に陣を取り、25日になって叡山を囲んだ。
織田勢はまず麓の香取屋敷を補強して平手監物・長谷川丹後守・山田三左衛門・不破光治・丸毛長照・浅井新八・丹羽源六が入り、穴太にも砦が築かれて簗田広正・河尻秀隆・佐々成政・塚本小大膳・明智光秀・苗木久兵衛・村井貞勝・佐久間信盛ら十六将が入れ置かれた。
 田中には柴田勝家・氏家ト全・安藤守就・稲葉一鉄が布陣し、唐崎の砦にも佐治八郎・津田太郎左衛門が入った。そして信長公自身は志賀の宇佐山城に陣を取った。
 叡山西麓の将軍地蔵山の古城跡には織田信広・三好康長・香西越後守に公方衆を加えた兵二千余りが布陣した。また八瀬・大原口には山本対馬守と高野蓮養坊が足がかりの陣地を築き、地理に詳しい両人はここから夜中山上に忍び入っては谷々へ放火してまわり、寺側を大いに悩ませた。

 10月20日、信長公は朝倉勢へ菅谷長頼を使者に遣わし、「いらざる時を費やすをやめ、一戦をもって勝敗を決さん。日時を定めて出で候え」と申し述べさせた。しかし朝倉勢からの返答はなかった。そののち朝倉勢は交戦を中止して講和を申し入れてきたが、信長公は是が非にも決戦して鬱憤を散らすべしとして、これを蹴った。

 信長公が叡山に釘付けとなっている間、・・・云々。

湖美が丘自治会館

参考資料:遺跡ウォーカー、さきろぐ、『信長公記 巻三(元亀元年)9月25日条』『城郭分布調査1』

本日の訪問ありがとうございす!!

 


平井氏屋敷 近江国(安土)

2017年04月20日 | 居館

屋敷跡比定地

お城のデータ

所在地:近江八幡市安土町上豊浦 map:http://yahoo.jp/YHCc-f

現 状:田地

区 分:居館

築城期:室町期

築城者:平井氏

目標地:活津彦根神社

駐車場:路上駐車

訪城日:2017.4.14

お城の概要

安土城への活津彦根神社の参道脇の圃場。城跡には家が建たぬ!とか?

此処のこの一区は、圃場としぢて住宅はない。安土城築城時は城下町であった所。

お城の歴史

平井氏 『蒲生郡志 増補 昭和篇 第2巻』四九頁 

佐々木氏の支流より出てし平井氏には三流あり、

一は佐々木経方の三男豊浦冠者行寛の孫井源太家寛の長子源八家員を祖とするもの。

二は行寛の弟牛屋冠者愛智四朗太夫家行の二子家次を祖とするもの。

三は高島郡に分かれし佐々木高信の孫八郎奏氏の三子五郎師を祖とするもの。

「佐々木庄在住し、安土山下大字上豊浦の一部を平井と称するは此子孫に相傳せし土地なり、天文十三年十月連歌師宗牧が佐々木氏の観音寺城に登り連歌会ありし時、平井加賀守の亭に臨みし條に亭主知行豊良の里の眺望成べし云々、とある即ち平井氏の所領豊浦内にありしを證するものなり。」と記す。

 

蒲生郡の平井氏

佐々木秀義の叔父・愛智源四郎家行の子の家次が平井下野権守と号し、その子の平井六郎家政、その子が蒲生郡の佐々木宮(式内社の沙沙貴神社。蒲生郡安土町常楽寺)の神主となった平井三郎定景であり、その子に平井三郎定能・佐々木宮神主定信兄弟がいた。

愛智源四郎家行の兄・井上三郎大夫(豊浦冠者)行実の曾孫も平井源八家員というが、井上行実・愛智家行兄弟の後裔諸氏は、蒲生郡西部(安土町・近江八幡市)に繁衍したから、現在は確認できないが、平安後期ころには蒲生郡にも平井の地があった可能性がある。

平井定武  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 

 
平井定武
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 不詳
別名 右兵衛尉、加賀守(通称)
墓所 滋賀県愛知郡愛荘町の西生連寺
主君 佐々木六角定頼→義賢→織田信長
氏族 平井氏
父母 父:平井高好、母:某女
高明、娘(浅井長政正室)

平井 定武(ひらい さだたけ)は、佐佐木六角の家臣。子に平井高明、娘は浅井長政の正室(先妻)。通称は加賀守。

生涯

近江の大名・佐々木六角氏の家臣である平井高好の子として誕生。

定武は、後藤賢豊、蒲生賢秀、三雲成持らと並んで六角氏の執政を支える六宿老と呼ばれ、近江国栗太郡平井(平居とも)に拠点を構えたとされる。大永5年(1525)の六角氏と浅井長政との戦いでの出陣や、天文22年(1553)11月の浅井氏との和議に関する書状、さらには石山本願寺への使者として派遣されたことが本願寺側の記録に見えることから、家中で重きを置かれていたことがわかる。また、六角氏に臣従した浅井久政の子・浅井賢政(のちの長政)の烏帽子親をつとめ、後に娘を長政の嫁に送り込んだ。しかし、六角氏の専横に怒った浅井家臣団が久政を廃して長政を擁立すると、娘は離縁され娘は平井家に送り返されたという。

永禄11年(1568)、織田信長が近江に侵攻すると六角氏を離反して信長に降った(『言継卿記』)。以後の消息は不明である。

なお、『浅井氏家譜大成』によると、離別された娘は長政との間に浅井万福丸を産んだとされ、そのため定武は万福丸の外祖父にあたるとされる。

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『紹巴富士見道記の世界』内藤佐登子著では、戦国末期から安土桃山時代にかけての高名な連歌師、里村紹巴(1525生~1602没)が永禄十年(1567)春に富士見物に旅立ったときの道中記録を綴った紀行文が「紹巴富士見道記」であるが、紹巴が出会った六角家家臣の中に孝子平井加州(加賀守)・同威徳院(加州の弟か)の名が見える。
 平井加賀守定武の父は高好(右兵衛尉、加賀守)であり、大永六年(1526)十二月に右兵衛尉高好、翌七年正月に平井右兵衛尉と『宗長日記』に見え、次に天文十三年(1544)十月に平井加賀守、平井右兵衛尉と『東国紀行』に見えており、さらに『天文日記』には天文二三年(1554)二月に平井加賀入道と見えるとされます。これらのうち、天文十三年の平井右兵衛尉だけが定武で、残りは父の高好であって、「右兵衛尉→加賀守→加賀入道」と呼称が変化しています。息子の定武も、父を踏襲して「右兵衛尉→加賀守」となったことになります。
 このほか、①加賀守を称した高好・定武系が平井氏三流のなかで、守護家に最も重く用いられたこと、②『東国紀行』に平井氏知行の地が「豊良(豊浦)の里」と記され、現安土町下豊浦に平井の地名が残ること、下豊浦小字神楽のうちの刑部は平井刑部の邸跡、小字十七のうちの蛭子は平井氏が蛭子神を祀ったという伝承が残ること、③定武は宗養と両吟を巻くほどの文化的教養の持ち主だったこと、なども内藤氏は記しています。
 田中政三氏の『近江源氏』には、永源寺文書・東寺文書に大永・天文の頃には加賀守平井高好がいて、はじめ右兵衛、後に平井加賀入道宗和と称したとあることを紹介し(ただし、典拠は確認できなかったとも記す)、この高好が永禄四年(1561)に没したとすれば、光岳和尚とも符合すると内藤氏は記しています。

 紹巴が永禄十年(1567)に出会った者のなかに、蒲生左兵衛大夫賢秀・鶴千代(氏郷の幼名)という親子の名も挙げられるのは、興味深いと思われます。
 
 

武藤助左衛門屋敷 近江国(安土)

2017年04月15日 | 居城

誰も知らない【武藤屋敷助左衛門屋敷】 近江国(安土城)

『蒲生郡志』には、案内板の縄張図には他に、七曲り道、搦手道、東門道などが描かれており当時は多くの城道が使われていた事が分かります。

『近江蒲生郡志 増補 昭和篇』に綴じ込まれている「大正4年11月測量の縄張図も安土城の全貌を知るのに役立ちます。

これらの道の多くは立ち入りが禁止されていますが、東門道道は現在でも立入が可能です。(中心部への通り抜けはできません)そしてこの東門道からは、尾根を経てて観音寺城に直行する事ができます。 

 また東門道の道沿いには、安土城築城以前に目賀田城が置かれていたとされる馬場平があります。この東門道については ” 安土城|もう一つの登城道・東門道 ” で詳しく紹介しています。

安土城が出来る前にあった「江藤氏屋敷」
無料駐車場の脇を上ったところにあり、屋敷跡と安土城側の石垣で囲まれた空堀があります。

お城のデータ

所在地:近江八幡市安土町下豊浦   map:http://yahoo.jp/rNM5qE

区 分:居館

築城期:織豊期

築城者:武藤氏(織田信長の家臣)

現 状:森林 (現・安土城祉・山麓館跡) 

遺 構:平削地(曲輪)・石垣・土塁・空堀・

目標地:安土城跡

訪城日:2017.4.4

お城の概要

安土城が出来る前にあった「武藤氏屋敷」
無料駐車場の脇を上ったところにあり、屋敷跡と安土城側の石垣で囲まれた空堀があります。

空堀の西側に登ると平削地は五段、石垣に圧倒される!大手道の伝前田邸・伝徳川邸と谷筋を挟んで東側に位置する。

なお、見学コースではないのて見学会資料は、近江蒲生郡志の大正期の測量図で、

安土城が完成する前にあった「武藤氏屋敷」
 安土城図江州安土古城図

お城の歴史

 

信長公記 巻七 天正二年

2、越前擾乱  前波生害、越前一揆蜂起の事

 正月19日、越前の前波吉継①が国中の諸侍に攻め潰されて死んだとの報が岐阜の信長公へもたらされた。前波は先年より信長公によって越前国守護代に任ぜられていたのだが、地位に溺れるあまり恣意の振舞いが多く、かつての同僚に対しても万事につき無礼な態度をとっていた。そのため国内の地侍たちは憤激し、一揆を結んで前波を攻め殺してしまったのである。地侍たちはその上で国境の地に要害を構えて防備を固めたため、越前国は一揆持ちの国と相成ってしまった。

 これに対し、信長公はひとまず羽柴秀吉・武藤宗右衛門舜秀・丹羽長秀・不破光治・同直光・丸毛長照・同兼利および若州衆を敦賀へ遣わし、備えを固めさせた。

 ①前波吉継は別名桂田長俊、前波長俊とも


武藤 舜秀(むとう きよひで)

生年未詳~ 天正7年7月3日1579年7月26日))は戦国時代から安土桃山時代にかけての武将織田信長の家臣として仕えた。通称は宗左衛門、宗右衛門、惣右衛門、弥平兵衛。子に康秀

生涯

尾張馬寄城主。尾張国出身といわれるが、信長に臣従するまでの経緯は、はっきりしたことが分かっていない。出自についても、美濃国土岐氏系の武藤氏の一族や武蔵国から美濃国へ移住した藤原氏系の武藤氏の一族などが、尾張国へ移住した武藤氏の一族。 または、若狭国武藤氏の一族など、ではないかといわれている。信長に降った時期も不明であるが、元亀年間という説が多い。

1574年(天正2年)、越前国守護代である桂田長俊越前一向一揆によって殺害されると、一向一揆に備えるため、舜秀は羽柴秀吉丹羽長秀らとともに、敦賀郡へ出陣した。一向一揆軍が勢いに乗って、木ノ芽峠を越えて南下しないための措置だった。一段落すると、不破光治とともに敦賀郡にとどまって、郡の行政にたずさわる。1574年9月16日、光治とともに、敦賀郡西福寺に土地を寄進した文書が残っている。(『西福寺文書』)

1575年(天正3年)3月、舜秀は朝倉家旧臣・堀江景忠を敦賀に迎え、その降伏を信長に仲介している。(『朝倉記』)6月、越前国衆・建部周光への宛行状に副状を発給している。8月、信長は越前の一向一揆討伐へ取りかかる。8月6日信長入国のため、舜秀は立石惣中に清掃を命じている。(『立石区有文書』)敦賀に着陣した信長は、舜秀の敦賀城(花城山城)に逗留した。舜秀は敦賀郡より越前へ侵攻し、越前一向一揆の殲滅に貢献した。その後、秀吉・明智光秀稲葉良通細川藤孝万見重元簗田広正とともに加賀に攻め入って、能美郡・江沼郡の南二郡を平定している。

信長は越前の国割りを行い、舜秀は敦賀郡を与えられた。1576年(天正4年)7月6日、西福寺に対して、違乱する者を捕らえて出すよう、命令を出している。(『西福寺文書』)1577年(天正5年)4月15日、川船衆に以前通り売買することを許可している。(『道川文書』)柴田勝家を長とした軍団には組み込まれず、舜秀は独立した遊撃軍団の長として、各地を転戦する。主に1577年(天正5年)紀州征伐手取川の戦い1578年(天正6年)神吉城攻め、有岡城攻め(有岡城の戦い)等に参戦している。

1579年(天正7年)7月3日、有岡城攻めの最中、付城・古屋野城にて急死する。舜秀の死を聞いて、信長はその死を惜しんだと言われている。

参考資料:『近江蒲生郡志』、『信長公記』Wikipedia、雪野山♡しもはねだ里山天国

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倉橋部城 近江国(近江八幡)

2017年04月15日 | 平城

倉橋部城

主郭部の石垣

お城のデータ
所在地:近江八幡市倉橋部町/東近江市上羽田町 map:ttp://yahoo.jp/kATND9
現 状:山林(山麓/山頂・林)
区 分:平山城
築城期:室町期
築城者:倉橋部氏
遺 構:曲輪・土塁・竪堀・石垣
標 高:154m  比高差40m
目標地:安吉神社
駐車場:倉橋部集会所:前路上駐車
訪城日:2016.7.25・2017.3.10・2017.4.4
お城の概要
近江八幡市倉橋部集落の「愛楽寺」の狐狸の裏山が遺跡ウォーカーの比定地であるが?。
安吉神社の背後が詰め城か?
山麓館は「愛楽寺」と考えられるが、あくまで想像で確証はない。
お城の歴史
『佐々木南北諸氏帳』には、「蒲生郡 倉橋部住 佐々木隋兵 倉橋部 右京進の名が見える。
『江源武鑑現代語訳』には

九月大

二日 右衛門督が勢州から夜毎加勢を呼び寄せて箕作城へ入れていると吉田出雲守が観音寺城へ注進する。屋形は浅井下野守祐政に、承禎父子の軍勢は八千程である、いくらでも勢州から加勢を呼び寄せてから攻めよ、そうすれば勢州退治が容易になるであろうと仰せになる。浅井は、この計画は必ずうまくいくと思われると申して、わざと箕作への加勢をゆっくりと入れさせる。

十九日 京極、朽木、浅井が観音寺城に出仕して屋形に申し上げるには、箕作の軍勢が一万二千になり、その上和田山の建部源八兵衛、吉田出雲守等も寝返り義弼に味方した、さらに勢州国司が鈴鹿越えで近日当国に入ると伝え聞いており、これ以上戦を引き延ばせば却って逆襲を招くことになり難しい状況となるであろうとのことである。屋形は、今こそ合戦の時である、それぞれの攻口を定めると仰せになる。

一 箕作表へは京極長門守高吉五千騎、浅井下野守祐政、備前守長政父子四千五百騎の合わせて九千五百騎である。箕作東口へは平井加賀守、進藤山城守、後藤喜三郎の三人で八千騎である。

一 和田山南坂へは澤田武蔵守、楢崎太郎左衛門尉、伊達出羽守、朽木宮内大夫、青地伊予守の五人で六千騎である。西坂口へは京極兵部大夫、蒲生右兵衛大夫両名で七千騎である。

一 勢州国司の軍勢への抑えとして君ヶ畠口へ山崎源太左衛門秀家、永田刑部少輔、山岡美作守の三人で五千騎である。

一 同様に国司の抑えとして鈴鹿口へ多賀新左衛門尉、和田和泉守、目加多摂津守の三人で四千三百騎である。

二十日 卯の下刻からそれぞれの軍が合図を定めてまず和田山に攻め懸ける。城中からは六千騎の軍勢が防戦する。卯の下刻から午の刻までの戦いで敵八百七十騎を討ち取り、味方は三百二十騎が討死する。午の下刻になって吉田道覚が城を出て、命を助けてもらえるならば城を明渡すと屋形へ申し入れる。屋形は、諸卒には罪はない、建部、吉田が切腹すれば兵卒は助けようと仰せになる。これを受けて建部、吉田は出家し味方の陣に降伏して再び屋形に申し上げる。屋形は、既に出家をしたのであれば助命しようと仰せになり和田山の城を受け取られる。建部、吉田の二人は屋形の菩提所である東光寺に入寺する。同日、箕作城に二方面から攻め懸ける。承禎父子は大手、搦手へ打って出て自ら采配を取り下知をする。下方三夢という者が堀で討死しそうなのを見て右衛門督が一騎で駆け下りてこれを助けたところ、味方の軍から右衛門督を討ち取ろうと浅井の家人で坂田十内という者が駆け寄り横槍を入れる。義弼は引き返して十内を馬上から掴み、箕作城の二の丸から数町の堀へ投げ入れる。このようにして敵味方が大手、搦手で同時に入り乱れて戦い、承禎軍は二千三百、味方は八百二十騎が討死する。武将は一人も討たれず午の刻から酉の刻まで戦う。承禎から軍使が立てられ開城する旨を申し入れるが、屋形は承諾されず承禎父子を討ち取るように諸将へ仰せ付けられる。これに対して京極高吉、朽木宮内少輔の両名が屋形に諫言し、一家を滅ぼしてしまうことはよくない、その上開城すると申し入れているのを承認せずその者を誅殺しようとするのは良将が強く嫌うところであると申し上げる。屋形は、どのようにでも其の方等の思うように任せると仰せになり、京極、朽木両名は箕作城を受け取って承禎父子を日野谷かいかけという所へ移す。この時の落書には次のように詠まれる。

をしかりしそのみつくりを後藤にかへて今はかうびんかいかけの城

元来承禎父子はこのような目にあう筈はなかったのであるが、六年前に後藤但馬守を殺害してからは屋形との仲が悪くなりついにはすべてを失うこととなった。実に屋形が幼少の頃から近江国の政務を預かり管領職まで手に入れたが、息子右衛門督が欲心を抱き屋形を滅ぼして国を奪おうと数年間企んだところついに天命に背きこのようなことになった。屋形も承禎父子には数年に亘り不義等が多くあったが、亡父が後見につけてからは偏に承禎公に慈父の如く礼を尽くされたので国人も尊敬し後見の義賢と申したものである。義賢は去る永禄六年に後藤を謀殺したため家を失ったのである。

二十一日 将軍並に織田上総介信長が総勢二万八千で本日卯の上刻に濃州立正寺を発ったと池田庄三郎が早飛脚を仕立てて屋形に申し上げる。午の下刻に観音寺城へ早飛脚が到着する。屋形は池田に対して、その旧功を思う所ひととおりでないと仰せになる。同日、将軍が江州柏原上菩提院に着陣されたと報告がある。信長は田中城に参陣したということである。

二十二日 将軍が桑実寺へ着陣されたと報告がある。信長は馬場に参陣したということである。酉の刻に屋形は観音寺城を発ち将軍の御迎のために桑実寺へ移られる。将軍は対面し、まず承禎父子のことを仰せになる。承禎父子が国の害となるのを知り一族といえども天下草創のためを思い追い払ったと聞き大いに心を動かされたということである。

二十三日 卯の刻に屋形が桑実寺を発ち観音寺城へ帰城される。未の刻に将軍が観音寺城に到着される。信長は武佐に着陣する。屋形は信長と評議をされ、一両日まずは人馬を休息させることになる。

二十七日 本日は吉日であるので将軍家が観音寺城から上洛される。天下草創の上洛であるため行列等を決められたところ先陣は信長、二陣は屋形、三番目に将軍家が出立することに決まる。そこで屋形が仰せになるには、吾は信長より若年でありさらに信長に対して既に慈父の礼を取っている、それだけでなく当家が代々天下草創に際して功を顕していることは世間で語られるところである、このため先陣を仕りたいとのことである。信長は、吾を慈父の如く思い礼を正されるのは非常に恥ずかしいことである、特に古例を引かれたように確かに佐々木家が天下草創に功を顕す例は古今に多い、と申す。そこで前陣屋形、二陣信長と定め本日酉の刻に観音寺城を出発される。

一 先陣屋形の軍勢五万六千騎  この備は十三備(実は江州の軍勢は三万五千騎であるという。軍勢を多く見せる計略である。)

  • 先手七手組(これは江州で代々先手を司る家である。)  目賀田摂津守、馬渕伊予守、伊庭河内守、三井出羽守、三上伊予守、落合出雲守、池田大和守   以上七人の軍勢五千騎
  • 二番備  浅井下野守、同備前守、高嶋越中守、朽木宮内大輔  この軍勢四千三百騎
  • 三番備  永原大炊頭、同筑前守、平井加賀守、楢崎内蔵介、鯰江又八  この軍勢三千四百騎7四番備  京極長門守、同治部太夫、黒田日向守、坂田兵庫頭、水原河内守  この軍勢四千三百騎
  • 五番備  蒲生右兵衛太夫、後藤喜三郎、和田和泉守、種村三河守 この軍勢二千八百騎
  • 六番備  澤田武蔵守、種村大蔵大輔、永田刑部少輔、山崎源太左衛門尉、青駿河守、朽木宮内大夫 この軍勢三千七百騎
  • 七番備  小川孫一郎、久徳左近兵衛尉、野村越中守、鏡兵部少輔 この軍勢二千五百騎
  • 八番備  平井丹後守、倉橋部右京進、赤田信濃守、宮川三河守、田中石見守、大野木土佐守、三田村左衛門佐、加藤佐渡守  この軍勢三千二百騎
  • 九番備 ・・・・・
  •  
  • 十三番・・・・・木村筑後守、山内讃岐守   この軍勢三千八百騎  

一 二陣織田家の軍勢六万六千騎  以上十七備(実は四万二千騎である。江州と同じ計略である。)

  • 一番備 佐久間右衛門尉、同大学助、同刑部少輔、同左京進 この軍勢五千七百騎
  • 二番備 飯尾近江守、同隠岐守、織田玄蕃允 この軍勢三千二百騎
  • 三番備 水野帯刀左衛門尉、同大膳亮、簗田出羽守、佐々隼人正 この軍勢二千五百騎
  • 四番備 林佐渡守、池田庄三郎、毛利新介、梶川平左衛門尉、織田源兵衛尉 この軍勢三千騎
  • 五番備 柴田権六郎、前田又左衛門尉、徳川三河守 この軍勢四千二百騎
  • 六番備 木下藤吉郎、同雅楽頭、毛利河内守、織田造酒丞  この軍勢三千五百騎
  • 七番備 不破河内守、同彦三、織田上野介、坂井右近将監、中嶋豊後守  この軍勢二千八百騎
  • 八番備 明知十兵衛尉、山田三左衛門尉、蜂屋兵庫頭  この軍勢四千五百騎
  • 九番備 山口飛騨守、遠山河内守、岩室長門守、織田左馬允 この軍勢三千二百騎
  • 十番備 丹羽五郎左衛門尉、津田掃部頭、福冨平左衛門尉 この軍勢三千四百騎
  • 十一番備 佐々内蔵助、河尻與兵衛尉、野々村三十郎、澤田越後守、津田源八郎 この軍勢二千三百騎
  • 十二番備 織田家  旗本の軍勢一万騎
  • 十三番備 織田十郎左衛門尉、同美作守、同市令助、同左助、同孫五郎 この軍勢二千騎
  • 十四番備 森三左衛門尉、稲葉又左衛門尉、村井民部少輔 この軍勢二千百騎
  • 十五番備 氏家常陸守、稲葉伊予守、伊賀伊賀守(名字を後に改めて安藤という)この軍勢二千四百騎
  • 十六番備 村井民部少輔、同丹後守、嶋田所之助、奥平十内、加藤三右衛門尉、甲斐越前守、犬山越中守、名塚采女正、乾加賀守 この軍勢四千二百騎
  • 十七番備 織田孫兵衛尉、同主水正、丸毛伊豆守、山口半左衛門尉、岡部又右衛門尉、堀池主膳正、前田一学、小畠左馬允、丹羽想内兵衛尉、瀧野源八、寺田善右衛門尉、篠川兵庫頭、団平八、永井新太郎、森兵部左衛門尉  この軍勢三千四百騎

第三陣に将軍家近習の軍勢二千騎が続き、細川兵部大輔藤孝、上野中務大輔清信が五百騎にて二列に並び将軍を先導する。

本日未の下刻に将軍が三井寺観音院に着陣される。屋形の軍勢は大津、松本、馬場、茨川に陣を置き、先陣は山科の里々に陣取る。信長の軍勢は多野、勢多、石山、草津、坪井、目川に陣を置き、明日二十八日に京都に入るということである。戌の刻に江州七手組が粟田口へ押し寄せて陣を取ったところ三好笑岩の軍勢は攻めかかってくることもなく、それどころか味方の軍勢が強大であると聞いて三好一族等は近国の城へ引き篭もったと粟田口に陣取る七手組が申し上げる。三好一族の立て篭もる城を一々書状にて申し上げる。・・・・云々 

安吉神社の廃後・・詰め城であろう。
      物見櫓跡か?(瓶割山城
 http://shimohaneda.jpn.org/?p=72主郭部の石垣ハイキングコースで分断された主郭部竪堀        
     
  倉橋部集落がら
東近江市

上羽田地区から遠景

2017.4.4

駐車位置から長福寺城駐車位置かt観音寺城遠望


2016.7.25訪城時(倉橋部)
  
 
近江八幡の城について

 近江の国は、古より人々や物資の往来が盛んで様々なものが行き交いました。近江の国を舞台にした戦いが数多くあることを示すものとして「近江を制するものは天下を制する」という言葉も残されています。
戦に欠かす事の出来ない「城」は、滋賀県内に1300を越える数に及びます。この数は、都道府県別では全国で4番目の多さで、分布密度で見れば全国で最も高くなります。
 近江八幡市が属する東近江地域は鎌倉時代より活躍した近江守護の佐々木氏やその家臣が築いた城が多く、その築城技術の高さは一見の価値があります。今回はその中から代表的なお城を紹介いたします。

織田 信長   豊臣 秀次
▲織田 信長 ▲豊臣 秀次


近江八幡の城マップ


近江八幡市内の主な城跡
1八幡山城宮内町 12久郷屋敷西宿町 23馬渕城 馬渕町
2浅小井城浅小井町 13橋部城 倉橋部町 24牧村城牧町
3宇津呂館 中村町 14小森城中小森町 25円山城円山町
4岡山城(水茎館)牧町 15金剛寺城(金田館)金剛寺町 26安土城 下豊浦
5沖島尾山城沖島町 16田中江城 田中江町 27観音寺城(佐々木城)石寺、宮津
6沖島頭山城沖島町 17谷氏館(友定城) 友定町 28香庄館香庄
7沖島坊谷城沖島町 18長光寺城(待瓶割城)長光寺町 29金剛寺城 慈恩寺
8長田城長田町 19西宿城 西宿町 30常楽寺城(木村城)常楽寺
9小田城(高畠氏館)小田町 20野村城野村町 31平井館下豊浦
10北津田城北津田町 21船木城 船木町  
11北之庄城北之庄 22本郷城(久里城) 金剛寺町  

参考資料:滋賀県中世城郭分布、史跡ウォーカー、『江州佐々木南北諸氏帳』『江源武鑑現代語訳』、近江八幡の城、蒲生郡志

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奥田館 近江国(八日市)

2017年04月05日 | 居館

お城のデータ

所在地:東近江市(旧八日市市)中羽田402 map:http://yahoo.jp/H9efAp

現 状:集落内

区 分:居城

築城期:織豊期

築城者:奥田孫右衛門

遺 構:地蔵堂

目標地:後藤但馬屋敷跡

駐車場:集落内(神社御旅所)

訪城日:2017.4.4

お城の概要

中羽田集落に東端に「後藤館  近江国(八日市)」が、石垣・土塁・堀等遺構が残存する。

中羽田集落の中央部に位置し、居館前には地蔵堂が祀らている。他の遺構は消滅、しかし集落の北端には、竹藪が残る、遺構が残存するか?。

お城の歴史

奥田秀種

 先祖は斯波義将の弟・義稙で、民部昭介満種 -修理大夫持種 -佐兵衛督義敏 - 三郎政敏(秀種の父)と連なる血筋である(『寛政重修諸家譜』の場合。『群書系図部集』の「武衛系図」では義敏の子に彌三郎寛元、又三郎義延という人物はいるが、彌三郎は越前国北郡で討死、又三郎は続末野之跡とある。三郎政敏が途中で改名したのか同一人物かどうか不明)。 満種の3男で源三郎氏種という者が尾張国中島郡奥田庄の領主となり、奥田氏を称した家系があった。

 この奥田家が3代目・直種の代で断絶のところ、秀種が養子となり奥田家を相続した。最初尾張国奥田庄に住んでいたが、のち美濃国茜部に移住し、土岐氏の家臣となった。

 近江国へ度々合戦へ赴き手柄を立てた。近江の佐々木一門との合戦で、佐々木氏の「四つ目結び」の旗指物を奪い取り、四つ目のうちの一つをとり、「釘貫き」の家紋とした。定紋は「亀甲に花菱」。

「釘貫き」の発祥自体は鎌倉時代の関東の武士のようだが、村松藩の堀家の「釘貫き」は秀種に由来する。弘治3年(1557年)9月5日没、享年54。

 

末裔に「奥田 重盛」 正保4年(1647)~元禄16年2月4日(1703.3.20)は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は孫太夫で、最初は兵右衛門を名乗った。

集落に竹藪・土塁か?http://yahoo.jp/hX4Yy3

参考資料:『滋賀県中世城郭分布』Wikipedia

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落合城 近江国(日野)

2017年04月03日 | 平城


お城のデータ

所在地:蒲生郡日野町松尾1丁目79 map: http://yahoo.jp/nJJxYN

区 分:居城

現 状:寺院

築城期:

築城者:落合氏

遺 構:宝塔

目標地:日野町立幼稚園・日野小学校グランドの西側・スーパー隣

駐車場:長福寺

訪城日:2017.4.2

お城の概要

日野町の旧街道の外れ(現官庁・学校域)、無住の長福寺が残存する。毘沙門堂・印塔(墓?)、地蔵尊が残る。

 『滋賀県中世城郭分布調査』その他城郭一覧には、「291落合城 蒲生郡日野町落合」と記す

『日野町志』には、落合城「落合因幡守城跡在長福寺とあるが、詳細不明」と記す。現在、蒲生郡日野町に落合集落が存在しない?

遺跡ウォーカーには、「滋賀県蒲生郡日野町落合 落合城」には、滋賀県城郭分布調査1、城。<立地>不明。<現況>不明。

お城の歴史

『浅井三代記』 磯山の城責落す事 http://yoshiok26.p1.bindsite.jp/bunken/cn14/pg422.html

翌日十七日未明より浦手へ向ひし堀能登守、新庄駿河守、野村伯耆守、同肥後守此四人の人々磯山に楯籠る松原弥三右衛門尉成久か城へ押よせ鬨を憧と作ける。城中よりも、二百五拾騎にて打て出て、明神山の上にてしばしか程はさゝへしか。味方六百余騎面もふらず切てかゝればこゝは防ぎがたき所なりとて、城へ引取り門をちやうとうち城を丈夫にかためたり。

 観音城には佐和山表へ敵働き出るとて、定頼卿諸卒引具し出張し給ふ。相つゞく人々には、進藤山城守、後藤但馬守、伊庭美濃守、目賀多伊豆守、蒲生筑後守、三上伊予守、平井加賀守、落合因幡守、永原安芸守、奈良崎源五左衛門尉彼を宗徒の大将として、都合其勢九千三百余騎の着到にて、十七日辰の一天に観音城を立て佐和山表へ進発すばや、前勢は清水村平田辺までみち/\たり。それより二手にわけ、一手は上道佐和山海道へ打むかふ。一手は海手へをしまはす。上道の士大将には進藤山城守なり。相つゝく人々には伊庭、目賀多、三上、蒲生、永原四千余騎にてかけむふ。 

長澤(ながさわ)神社 御由緒 滋賀県野洲市比江765

御由緒
社蔵の「長澤神社表録」によれば、大宝三年の創建と伝え、近江国司紀朝臣友安が朝廷に奉聞、官符を賜わって宮殿を造営、神田、封戸が附与され、正一位勲三等長澤三処太神の勅額が掲げられたという。境内の長澤池は、菖蒲の名所として名高く、高倉院の御宇安元二年五月ごろ、藤原俊成は、「長沢の 池のあやめを 尋ねてそ 千代のためしに ひくべかりける」と詠み、鎌倉将軍源頼朝は文治三年に禁制を立て、この池の「杜若」の無断伐採を禁じた。神田・封戸を当社に寄進した。
社殿は、文永年中に兵火にかかって焼失、のち建武年中に再建されたが、応仁の大乱のとき、落合因幡守の陣所となり、再び社殿・諸樓が焼失。
日野小学校グランド隣のスーパー
参考資料:『日野町志』『江州佐々木南北諸士帳』『浅井三代記』『滋賀県城郭分布調査1』『遺跡ウォーカー』『日本城郭大系11』。

中郷城/中之郷城  近江国(日野)

2017年04月03日 | 山城
お城のデータ
所在地:滋賀県蒲生郡日野町中之郷 map:http://yahoo.jp/8phy8m
区 分:山城
現 状:山林
立 地:山地(山頂部・山腹)
築城期:室町期
築城者:蒲生氏
標 高:250m  比高差40m 標 高:242m
目標地:中之郷灌漑ダム湖
駐車場:中之郷灌漑ダム湖の登り口鉄扉前
訪城日:2017.4.2
お城の概要
蒲生郡日野町中之郷灌漑ダム湖の西の山上平削地と東下10m曲輪に曲輪・尾根道を土塁に南側に曲輪が認められる。さらに、東への尾根道あるが、
北へに尾根道には、平削地は五段あり、不明瞭な堀切も確認できる。

土師器片
お城の歴史
『近江興地志略』では、蒲生飛騨守氏郷の居城とある。
『大洞弁天当国古城名札』には、飛騨守の家来とあり寺倉氏の城とも考えられる。
『江州佐々木南北諸氏帳』には、「蒲生郡 中ノ郷 住 佐々木蒲生隋兵 寺倉三衛門」と記す。
中之郷灌漑ダム湖の登り口鉄扉前遠景登城口
参考資料:『近江興地志略』『大洞弁天当国古城名札』『江州佐々木南北諸氏帳』『滋賀県中世城郭分布調査1』『日本城郭大系11』、遺跡ウォーカー 

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