城郭探訪

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滋賀県大津の戦争遺産

2015年01月17日 | 戦争遺産

 

兵営跡地の多くは、大津商業高校・市役所となっている。

大津商業高校グランド

全体写真と正門付近、将校集会所付近の写真3枚。


写真1 第九連隊兵舎全景
画面左下には(練兵場の向かって左側)、藁葺きの小屋や莚を干している風景が写されています。
また兵舎は、現在の大津商業高校あたりですが、向かって右側、寄棟の屋根に2階建ての兵舎2棟が並んでいるのは、現在の大津市役所本館・新館・別館が建っているところです。


写真2 第九連隊正門付近
現在の大津商業高校正門と同じ場所。門の手前両側には、門衛の詰め所となっていた小さな建物。
九連隊の敷地全体が少し高くなっており、手前の練兵場との間に細い道がある。


写真3 将校集会所付近
写真左上、九連隊兵舎群の向こうの山すそに、将校集会所。この集会所は戦後、アメリカ軍が接収し、引き続き使用していたのですが、昭和26年、漏電によって全焼し、その後、洋風の建物が建設されます。

この新しい建物は、ながらく大津市民文化会館として活用されていた。

なお、全焼前の将校集会所は、彦根城内の建物を移築したものとも。
また、その集会所の右上には、土手に囲まれた蔵のような建物が写っていますが、これは九連隊の弾薬庫とのこと。

【若鷲の碑】案内板・・・歴史博物館方面へ

 

歩9 (5)
碑の近くにある石柱。詳細不明だが営内にあった物か?

歩9 (7)こちらも詳細不明の燈篭の一部と思われる物。将校集会所の庭園の物か?

歩9 (9)
階段を上がるとある「陸軍地」の境界石。陸軍墓地にある物と同じである。(ただし、どこにあった境界石かは不明)

 兵営前駅はホームのみが残っている。

陸軍墓地の南には火薬庫の記載が有る。何の情報も無いので何も残ってないだろうが、せっかく来たので訪ねてみる。

歩9 (10)火薬庫に向かう道には狸の石像と、その後ろには道標があった。形状的に違うだろうが、念のために見てみると・・・

歩9 (8)何と、陸軍の文字が!!!これは珍しい境界石で、こんな指さしの形状の物は初めて見た。

歩9 (13)さらに坂を登る途中にも、境界石と思われる石柱の有ったが、埋まっていて詳細不明。


火薬庫付近は、境界を調べるために墓地に入ると、移設された物であろう「陸軍省所轄地」の石柱が2本あった。

写真、向かって右の石柱 

こちらは左の石柱。
     本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


近江歴史探訪ウォーク 【陸軍八日市飛行場と周辺戦跡を巡る】

2014年11月16日 | 戦争遺産
JRふれあい ハイキング 【近江歴史探訪ウォーク】
 
 東近江市観光協会  観光ボランティアガイドと東近江路の戦争遺産を巡る。
 【陸軍八日市飛行場と周辺戦跡を巡る】11月15日=日本で三番目に開設された同飛行場の戦争遺跡を中心に旧八日市市内を巡り、布引山麓に今も残る掩体壕群を目指す。
コースは順に、近江鉄道八日市駅(集合)、本町通り商店街、市神神社、東近江大凧会館、湖南鉄道廃線跡、陸軍飛行場跡、冲原神社(昼食)、掩体壕、近江鉄道大学駅前(解散)。約十キロメートル。
集合時間:午前十時で、完全予約制。 参加費用:各五百円(保険料、資料代、ガイド料)で交通費は含まない。
問い合わせ:同観光協会(TEL0748―48―2100)
 
出発式
 
八日市の商店街=御代参街道(本町通り)のヴォーリス建築
 
市宮神社へ
額田王の立像(昭和天皇在位60年=1985年京都の復元師に」より彩色された)
(400年前の市場まつりで山車飾られていた立像=彩色前の写真)
 
ここから、戦争遺産を巡る~
八紘荘(旧・飛行士の宿所)
 
陸軍の境界碑(世界大凧会館に4本残る)
 
 
「旧飛行場線路跡)の桜並木
陸軍八日市飛行場跡碑(滋賀日産の北、国道421号沿い)http://yahoo.jp/1BGods
 
冲原神社

多くの飛行機士が飛び立った飛行場の後

大正3年(1914年)、今の八日市南高校付近に日本初の民間飛行場が開設されました。 その後、軍の航空部隊を誘致する計画が持ち上がり、大正11年(1922年)、陸軍八日市飛行場となり、航空機の発達とともに規模が拡大されて行きました。しかし、当時の飛行機は故障が多く、飛行士の無事と飛行の安全を守る冲原神社が敷地内に建立されました。戦時中、この神社には出撃前の兵士たちが参拝に訪れたと言います。  戦争末期には、八日市飛行場も米軍の爆撃を受けるようになり、航空機を敵の爆撃から守る格納庫「掩体壕」が築かれました。  当時の飛行場正門は冲原神社に移築されているほか、飛行場の滑走路だったところは、今では神社前の道路となっています。神社の拝殿には、戦闘機が大空を飛ぶ姿や海上で戦艦と戦う様子を描いた絵馬が、遺族会から奉納され飾られています。

住民たちの手で復興した「冲原神社」http://yahoo.jp/o8JeBG

大正14年(1925年)に建てられ、多くの兵士が手を合わせた冲原神社も、戦後はお参りする人影もなくなり、本殿も拝殿も姿を消して荒廃していきました。しかし、昭和34年(1959年)の町制誕生を契機に、中嶋高名宮司らを中心に、沖野町の住民たちの手によって復興しました。境内には戦没者の慰霊碑があり、戦争の悲惨さを今に伝えています。

 

コンクリート製 掩対壕http://yahoo.jp/naClNz

八日市飛行場 戦時中に陸軍八日市飛行場第八航空教育隊に所属していた三船敏郎 第八航空教育隊時代の三船敏郎(提供・三船プロ
 
布引スタジアム
 
 
御代参街道
見返り稲荷
 
移築の道標・常夜灯
 
道標
 
布施山城
 
八日市発祥の元祖「ぼびだし坊や」
びわこ学園大学
 
近江鉄道:大学前駅
解散、お疲れ様でした。
 
本日の実歩数  20,022歩
    実距離  15.0km
   実歩時間 3:13
 カロリー消費 600.5kcal
  脂肪燃焼量  85.7g 

   本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


滋賀県内戦争遺跡見学フィールドワーク

2013年07月09日 | 戦争遺産

県内戦争遺跡見学フィールドワーク

 県平和祈念館は、七月七日の「県内戦争遺跡見学フィールドワーク」の参加を二十三日まで募っている。大津第九連隊にかかわる若鷲の碑、御幸山の紀年碑、園城寺の絵馬などを巡る。定員は先着三十人。参加費五百五十円。京阪電車別所駅午前九時集合。TEL0749―46―0300。

講師・現地案内・・・ 滋賀県立大の中井均准教授(日本考古学)

 

兵営跡地の多くは、大津商業高校・市役所となっている。

【若鷲の碑】案内板・・・歴史博物館方面へ

 歴史博物館下の穴太遺跡のオンドル

 歴史博物館下の旧東海道の車石

歩兵第9連隊は、よく京都9連隊と言われるが、その輝かしい歴史の多くは大津を衛戍地としていた。

明治7年6月に大阪で創設、同年12月に軍旗を親授され、翌明治8年3月に大津へ移駐し、以後、西南戦争、日清戦争、台湾土匪討伐、日露戦争、シベリア出兵、満州守備などの経歴を経て、大正14年に京都伏見へ移駐した。
ただ、郷土の誇りでもあり、また経済的理由でも連隊の移駐には反対も多く、第3大隊は引き続き大津に残る事となった。
その歴史ある歩兵第9連隊の遺構は皆無と言われているが、詳細不明ながら、僅かに境界石等を見付けたので紹介する。

歩9兵営跡地の多くは、大津商業高校となっている。

    

削岩のノミの跡

削岩のノミの跡

大正7年・・奉納額

のろばん碑の展望台から大津市・琵琶湖(園城寺内)

三井寺の裏山には、西南戦争の祀念碑がある。明治13年5月24日竣成(?)と彫られている。
さて、この祀念碑の場所は分かり難い。土地勘のある人なら山道を通って行けるだろうが、私は三井寺の中を通って訪ねた。(この際には、拝観料500円が必要となる。)
大津そろばんの碑等、記念碑がある一角があるのだが、そこから更に山を登る事5~10分のところに開けた場所があり、そこにあるのだが、非常に分かり難い。

 

明治末年に撮影された陸軍歩兵第九連隊の写真です。
明治6年(1873)1月、明治新政府によって徴兵制が施行されると、同年、全国を6つの軍管区に分けて、その下に連隊を置くことで、兵力の整備を計りました。
このとき、軍管区も連隊も、ナンバーを付けて呼ばれるようになります。
大津には、第四軍管大阪鎮台所属の第九連隊と呼ばれました。
陸軍歩兵第九連隊の始まりです。

ただ、大津に移駐してきたのは明治8年でした。
場所は別所の地、現在の滋賀県立大津商業高校の建つ地で、そこに兵舎が建ち並び、兵舎の東方(琵琶湖側)は広い練兵場でした。

以前、京都市山科区の方から、この第九連隊の兵舎を撮影した明治末年の写真を寄贈していただきました。

かなり鮮明な写真で、拡大すると、第九連隊の正門や兵舎、練兵場、その背後の将校集会所、弾薬庫の詳細が見てとれます。

以下に、全体写真と正門付近、将校集会所付近の写真3枚を掲載し、解説を付けましたので、興味のある方はご覧ください。


写真1 第九連隊兵舎全景
画面左下には(練兵場の向かって左側)、藁葺きの小屋や莚を干している風景が写されています。
また兵舎は、現在の大津商業高校あたりですが、向かって右側、寄棟の屋根に2階建ての兵舎2棟が並んでいるのは、現在の大津市役所本館・新館・別館が建っているところです。


写真2 第九連隊正門付近
現在の大津商業高校正門と同じ場所にあたります。門の手前両側には、門衛の詰め所となっていた小さな建物が見えます。
九連隊の敷地全体が少し高くなっており、手前の練兵場との間に細い道があることも確認できます。


写真3 将校集会所付近
写真左上、九連隊兵舎群の向こうの山すそに、将校集会所が写っています。
この集会所は戦後、アメリカ軍が接収し、引き続き使用していたのですが、昭和26年、漏電によって全焼し、その後、洋風の建物が建設されます。
この新しい建物は、年配の市民の方は覚えておられると思いますが、ながらく大津市民文化会館として活用されていたものです。
なお、全焼前の将校集会所は、彦根城内の建物を移築したものとも言われています。
また、その集会所の右上には、土手に囲まれた蔵のような建物が写っていますが、これは九連隊の弾薬庫とのことです。

 

 

歩9 (5)
碑の近くにある石柱。詳細不明だが営内にあった物か?

歩9 (7)こちらも詳細不明の燈篭の一部と思われる物。将校集会所の庭園の物か?

歩9 (9)
階段を上がるとある「陸軍地」の境界石。陸軍墓地にある物と同じである。(ただし、どこにあった境界石かは不明)

 兵営前駅はホームのみが残っている。

陸軍墓地の南には火薬庫の記載が有る。何の情報も無いので何も残ってないだろうが、せっかく来たので訪ねてみる。

歩9 (10)火薬庫に向かう道には狸の石像と、その後ろには道標があった。形状的に違うだろうが、念のために見てみると・・・

歩9 (8)何と、陸軍の文字が!!!これは珍しい境界石で、こんな指さしの形状の物は初めて見た。

歩9 (13)さらに坂を登る途中にも、境界石と思われる石柱の有ったが、埋まっていて詳細不明。


火薬庫付近は、境界を調べるために墓地に入ると、移設された物であろう「陸軍省所轄地」の石柱が2本あった。

写真、向かって右の石柱 こちらは左の石柱。

なお、大津連隊区司令部跡と憲兵隊跡では、遺構は見つけられなかった

 

参考資料:現地説明、poen/blogレポート


米原の列車壕を探訪 2011.8.13

2011年08月14日 | 戦争遺産

米原市の戦争遺跡「列車壕(ごう)」の見学会が13日、同市岩脇の岩脇山であり、県内から35人が参加した。列車壕の歴史や保存の取り組みなどについて学んだ。

 来年3月に東近江市で開館する県平和祈念館(仮称)のプレイベント。祈念館のボランティア13人も参加した

『ここに存在する二つの洞窟(左側は奥行52m止め、右側は130mで貫通)は、太平洋戦争末期に二本の輸送の大動脈である東海道線及び北陸線の列車を引っ張る蒸気機関車を連合軍の空爆から守るために掘られた防空壕です。
この岩脇山は岩盤が固く、その上当時は物量が乏しく、火薬、スコップ、ツルハシ、トロッコなどの手作業にため難工事であったことがうかがえます。
しかしながら完成することなく終戦となったが、作業に従事した人達の汗と涙の結晶である防空壕跡が、長い間ごみ捨て場として放置さてたままになっていました。
そこで「岩脇まちづくり委員会」では戦争の悲劇を風化させないために戦争の遺跡として保存するため平成20年10月から平成21年8月にかけて整備したものです』
 委員長の藤本伝一さん(69)は「遺跡保存のために、未整備の部分を今後整備したい」と話す。

  列車壕はJR米原駅の北東約2キロの「岩脇山」(127メートル)に、全長約130メートルの貫通したものと、山の両側から掘り進められ、途中で未貫通となった2本の横穴(幅2~4メートル、高さ1・5~5メートル)が南北に平行に開いている。壕内側の岩肌の様子などから、ツルハシやスコップの他、火薬などが使用されたとみられる。
こちらがもう一本の貫通している壕です。
同様に柵が施されていましたので入れません。

 壕の建設に関する記録は一切残っていないが、県内の考古学者でつくる「滋賀戦争遺跡研究会」の中井均・県立大准教授(日本考古学)らによると、米原駅は戦時中、東海道線や北陸線を通じて兵士や弾薬を運ぶ拠点だったという。県内でも空襲が始まった1945年頃に、空襲から運搬手段として重要な列車を守るために着工したが、完成せずに終戦を迎えたとみられる。

 壕はその後、家庭ごみなどで埋まって長年、放置されていたが、地元のまちづくり団体「岩脇まちづくり委員会」が中心となって2008年10月~09年8月、ごみを運び出し、壕内に電灯を置くなどして整備。現在では、見学会や小中学校の平和学習などに利用されている。

 
 中井准教授は「恐らく国内唯一の列車壕で、重要な遺産だが、住民だけで保存、整備するには限界がある。行政も、方策を考えてほしい」と話している。 

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました


戦争遺跡「布引掩体群」の実態が

2011年08月07日 | 戦争遺産

 

旧陸軍の掩体壕(東近江市柴原南町)

帝国陸軍八日市飛行場 掩体壕(滋賀県東近江市)

 日本最初の民間飛行場として開設された八日市飛行場ですが、後に陸軍航空隊が置かれました。

この飛行場跡周辺には有蓋・無蓋含めて17基の掩体壕が現存しています。

戦争遺跡「布引掩体群」の実態が・・・

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました