城郭探訪

yamaziro

仮)藤瀬城   近江国(多賀)

2016年06月23日 | 丘陵城

城発見か!

お城のデータ

所在地:滋賀県犬上郡多賀町藤瀬   map:http://yahoo.jp/EpLEAn

現 状:山林

区 分:丘陵城

築城期:

築城者:

遺 構:石垣・石積(後世の物か?)、空堀・土塁・曲廓・物見廓

目標地:藤瀬集落の東側林道を登ると、林道脇に石垣

駐車場:林道沿いに資材置き場

訪城日:2016.4.16

お城の概要

犬上川の左岸の藤瀬集落の背後の丘陵に、城郭遺構は残存する。一ノ瀬城の下流1km程

藤瀬集落の東側林道を登ると、林道に左脇に石垣と平削地ある。右側にも低土塁の敷割り(浅堀)が残存する。

林道から、50m程の西山中には、土塁・空堀・曲廓・廓が残るが、詳細不明

お城の歴史

詳細不明。

              

ナビ画面は林道の駐車位置(大滝小・大滝局対岸)

             

     土塁 空堀        

駐車位置駐車位置から、林道の反対側からの入りる

藤瀬集落から遠望(白雲の下が主郭)

本日の訪問ありがとうございす!!


さよなら アル・プラ大津 駅隣接 42年 歴史に幕

2016年06月21日 | 番外編

大勢の買い物客らに見守られ、最後の営業日を終えたアル・プラザ大津(20日午後8時、大津市春日町)

さよなら アル・プラ大津 駅隣接 42年 歴史に幕

 大津市のJR大津駅に隣接する平和堂(本社・滋賀県彦根市)の商業施設「アル・プラザ大津」が20日閉店し、前身の平和堂大津店時代を含め計42年間の営業を終えた。最終日は「普段の4倍」(同店)の買い物客が訪れ、慣れ親しんだ店や店員との別れを惜しんだ。跡地には2019年度完成予定のマンション計画があり、平和堂は1階に食料品販売中心の店舗を出店する。

 同店は1974年に平和堂大津店として開店。6階にレストラン街を備え、2階でJR大津駅に直結していた。ピークの80年代には年間40億円超を売り上げたが、店舗の老朽化や郊外型店舗との競合激化などで2013年に閉店を決定。1、2階と地下1階のみの営業に縮小していた。

 この日午後8時の閉店前には中井秀男店長(57)らが正面入り口前に並び、買い物客を見送った。なじみの店員と互いに涙を浮かべながら握手を交わす人の姿も見られた。店舗前で中井店長が「明日から皆さんの顔が見られないのは寂しいが、3年後に店は戻ってきます」とあいさつすると、見守った客や駅利用者ら約100人から大きな拍手が送られた。開店時から利用してきたという主婦中尾高子さん(83)=大津市逢坂2丁目=は「駅に近く、日常品を買うのに便利だった。閉店は寂しい」としんみり話した。

 閉店に伴い、平和堂は23日から大津駅周辺から石山店(同市松原町)への無料送迎バスを木・日曜に運行する。同市中心部の西友大津店跡地(同市長等2丁目)にも来年夏に食料品中心の店のオープンを予定している。

     京都新聞【 2016年06月20日 22時21分 】


講座:『信長文書の 世界』

2016年06月21日 | 講座

滋賀の文化財講座「打出のコヅチ」

第2回信長文書の世界

織田信長というと、古いしきたりや秩序にはとらわれず、新しい時代を切り開いた革命児といったイメージが広く定着しています。

しかし、信長の政策をみると、意外なほど現実的で、戦国末期という時代の枠組みのなかで行動していたことがわかります。

信長の実像と一般に流布しているイメージとの間には大きなギャップがあるのです。



今回の講座では、少し角度を変えて、信長が発給した古文書を題材に、信長の実像に迫ります。古文書に書かれた内容だけでなく、手紙の書き方、紙の選び方など、新たな古文書の見方を通して、これまでとは違った織田信長の姿をご
紹介します。

 

          

   

        

               

      

    
   

1.日時 平成28年6月16日(木) 13:30〜15:00
                    ※13:15受付開始

2.場所 コラボしが21(大津市打出浜2−1) 3階大会議室
     JR膳所駅より徒歩約15分 京阪石坂線石場駅より徒歩約5分

3.講師 松下 浩(滋賀県教育委員会事務局文化財保護課副主幹)

4.主催 滋賀県教育委員会(主管:文化財保護課) 滋賀県立琵琶湖文化館

5.後援 滋賀県文化財保護連盟、公益社団法人びわこビジターズビューロー

6.募集人数 200名(事前申込制 ただし当日参加も可)

7.聴講料 無料


野路城   近江国(草津)

2016年06月18日 | 平城

野路城

 遺跡ウォーカーの比定地 

お城のデータ
所在地:草津市野路町   map:http://yahoo.jp/4qxiLO
現 状:神社・寺院
区 分:平城
築城期:室町期
築城者:野路又三郎
遺 構:
目標地:新宮神社・浄泉寺
駐車場:新宮神社の駐車場
訪城日:2016.4.21
お城の概要
野路町の旧東海道沿いの草津宿の手前に位置し、野路駅の宿場であった。
野路城は、新宮神社も含む範囲位置していたと考えられる
お城の歴史
『佐々木南北諸氏帳』には、「栗田郡 野路 住 野路又三郎」の名を記す。が詳細不明。

   遺跡ウォーカーの比定地           平清宗の胴塚
平 清宗(たいら の きよむね)は、平安時代末期の武将である。平家の棟梁平宗盛の長子で、平清盛の孫にあたる。母は後白河法皇の寵妃・賢春門院の同母妹である平清子。

承安2年(1172)、3歳で伯母である建春門院の御給で徐爵し、従五位下となる。同時に元服して内昇殿、紫色を許されるという破格の待遇を受けている。承安3年(1173)、女院御所で行われた鵯合で後白河法皇は幼い清宗を膝に乗せ、人目も憚らず鍾愛したという。

治承4年(1180)、11歳で従三位に昇叙。養和2年(1182)、13歳で正三位。寿永2年(1183)2月に平頼盛の娘との婚姻が成立している。

同年7月に平家一門は源義仲の上洛により安徳天皇とともに都を落ち、清宗もこれに従う。平家は各地で敗れ、元暦2年(1185)3月24日、壇ノ浦の戦いで敗北し、滅亡に至る。清宗は父の宗盛とともに入水を試みるが、父子は海から引き上げられて捕虜となる。

宗盛と共に都を引き回されたのち、5月に源義経により鎌倉へ護送される。6月、宗盛が頼朝と対面したのち、父子は再び京に護送される途中の6月21日、宗盛は近江国篠原宿(現在の滋賀県野洲市)で橘公長によって斬首され、清宗も同日に近江国野路口(同草津市)で堀慶光に斬首された。享年17。首は京・六条河原にさらされた(『吾妻鏡』元暦二年六月廿一日・廿三日の条)。

 滋賀県草津市野路5丁目には清宗の胴塚と伝わる石塔が、遠藤家邸宅の中庭にあり、毎年6月21日に「清宗忌」が行われ、代々保存供養されている


        
新宮神社へ
御神紋:十六菊
御由緒
 聖武天皇天平二年に僧行基が野路寺創建の時、此地に神籬を立てて鎮護の神と仰ぎ、光仁天皇宝亀元年に野路宿弥藤原為亮が社殿を建立した。昌泰三年無位より従五位下の神位を授けられ、大永三年に現在の社殿が造営された。
天正の社記、膳所藩明細帳には、正一位新宮大神と記し、別名野路神社と称すとある。 明治九年村社に列格、大正五年神饌幣帛料供進指定、大正十二年本殿国宝建造物に指定され現在重文。

藤原 為通(ふじわら の ためみち、天永3年(1112) - 仁平4年(1154)6月13日は、平安時代末期の公卿。藤原北家中御門流、太政大臣・藤原井通の長男。母は右京大夫・藤原定実の女。幼名を次太君。正四位下・参議。

経歴

 崇徳天皇に寵愛される。大治5年(1130)敘爵され、右少将、左中将、備中介等を歴任。大治6年(1131)従五位上の昇叙から、保延年間に十四位上まで昇進。永治2年(1141)に正四位下に叙され、備後健介、左中将、蔵人頭等を経て、久安6年(1150)に参議・中宮権太夫。仁平2年(1152)に丹波権守となるが、2年後に卒去した。享年43。


                                             


参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1、 佐々木南北諸氏帳、遺跡ウォーカー、Wikipedia
本日の訪問ありがとうございす!!

岡本城(岡本館)   近江国(蒲生)

2016年06月17日 | 居館

岡本城/岡本館

 
お城のデータ
所在地:東近江市蒲生岡本町字岡極  map:http://yahoo.jp/XNQ-qb
別 称:岡本館
現 状:畑地・水田
区 分:平城
築城期:
築城者:岡本民部
遺 構:
目標地:ガリ版伝承館
駐車場:高木神社の駐車場
訪城日:2016.5.23
お城の概要

御代参街道(ごだいさんかいどう)は、江戸時代に近江国に整備された脇街道。東海道土山宿(現・甲賀市)から中山道小幡(現・東近江市)までの約36kmを結ぶ。東海道脇街道、北国越安土道、伊勢道、市道とも呼ばれる。

  •  土山宿(甲賀市)~笹尾峠~鎌掛宿(日野町鎌掛)~石原宿(日野町石原)~岡本宿(東近江市蒲生岡本町)~八日市宿(東近江市八日市町)~小幡宿(東近江市五個荘小幡町)

 春日局が1640年(寛永17年)に伊勢神宮から多賀大社へ参詣した際に整備されたと伝えられている。江戸中期頃には京の公卿たちの間で年に3回(正月・五月・九月)伊勢神宮と多賀社へ代参の名代を派遣する習慣があり、その際に利用されたことから「御代参街道」の呼称が生まれた。ただし江戸期の文献には「御代参街道」との記述はあまり見られず、慶応4年(1868)の記述が初見である。また、土山の道標には「右北国たが街道 ひの八まん道」とあることから、北国への最短経路としても利用されていたと考えられる。

 現在この街道の役割を引き継いでいるのは、道路では県道52号線、同45号線、同46号線、国道477号線、滋賀県道41号線など、鉄道では近江鉄道本線となる。ただし近江鉄道は日野から南は笹尾峠を通らずに甲賀市水口町へ向かっている。

お城の歴史
『佐々木南北諸氏帳』には「蒲生郡 岡本 佐々木義輝隋兵 岡本民部」の名が見えるが、詳細不明
 
    
       
高木神社   由緒

 『三代実録』に麻生神と記された式外社。
 社伝によれば神亀元年(724)に創祀された。古くは高岡宮と称した。村の東側に高岡山なる小高い丘があり、これに由来する。窯跡がある。
 『古事記』神代記に、「高木神は高御産巣日神の別の名ぞ」とあること、もしくは大木を祀り、高木と名を改めたと言う。

                 
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査4、遺跡ウォーカー 、Wikipedia
本日の訪問ありがとうございす!!

焼尾砦    近江国(湖北)

2016年06月13日 | 

【城攻め追体験】怒りに燃える信長、小谷城攻略シーンを追う

第3回 6月11日(土)【ハードなコース】
「小谷城背面攻撃」小谷城背面攻撃から朝倉軍への追撃までをたどる。
○焼尾砦から大嶽城攻撃をメインに
 9:30 小谷城戦国歴史資料館
10:00~10:30 小谷上田山町 和泉神社
10:30~12:00 焼尾砦跡~

   参加しましたが、体調悪く、ここで退散しました!残念! 

     大嶽城跡
13:00 月所丸跡、越前忍び道
14:00 中島城跡、丁野山城跡
15:30 小谷城戦国歴史資料館

 

お城のデータ

所在地 :長浜市(旧:東浅井郡湖北町)小谷上山田町 map:http://yahoo.jp/WKySDR

現 状:山林

区 分:陣城

築城期: 織豊期 天正元年(1573)

築城者:浅井氏

守 將:浅見対馬守

遺  構 : 削平地、堀切

標 高:253m  比高差:120m

目標地:和泉神社

駐車場:和泉神社の駐車場

訪城日 :2016.6.11

お城の概要

上山田の集落から山田川の神明橋を渡り、すぐ左に神明宮跡の石碑の裏手に、大嶽城への案内板と山道がある。
 急坂を登って一旦平坦になり、さらに登ると下山田の集落が望める平坦地がある(標高253m)、ここが焼尾丸。土塁も何もなく、かなりスペース的には狭い。

焼尾砦は小谷山山頂にある大嶽城から見て北西の尾根上にある砦。旧湖北町上山田から小谷山頂につづく細長い尾根の平坦地(標高253m)に 土塁など遺構はないが、小谷城址保勝会蔵の「小谷城絵図」では、焼尾砦は上山田の上部に描かれいる。

お城の歴史

信長公記 信長公記 11、決壊  阿閉謀叛の事

 8月8日になり、江北の土豪阿閉淡路守貞征が信長公へ内通してきた。すると信長公は夜中にもかかわらず岐阜を出陣し、そのまま敵城月ヶ瀬城へ攻め寄せ、翌晩までに開城させてしまった。

そして10日には旗下の諸勢を大嶽北方の山田山に集結させ、越前への主通路を遮断した。このため越前から出陣してきた朝倉義景の二万の援軍は小谷に近付くことができず、余呉・木之本・田部山方面に布陣しなければならなかった。

 また近年になって浅井久政は大嶽山麓の焼尾という地に砦を築いて浅見対馬に守らせていたが、この浅見も阿閉貞征にならって信長公へ通じた。

12、追撃  大筒・丁野攻破らるるの事

  信長公に通じた浅見対馬は、8月12日みずからが守る大嶽下の焼尾へ信長公の人数を引き入れた

その夜はことのほか風雨が激しかったが、信長公は虎御前山の本陣に嫡男信忠殿を残し、みずから馬廻を率いて大雨の中をずぶ濡れになりながら大嶽へ攻め上がった。大嶽には斎藤・小林・西方院らの越前衆五百ばかりが番手として籠っていたが、信長公直々の攻撃の前にたまらず降伏した。 

 降伏した越前兵は、すべて討ち果たされて当然のところであった。しかし夜の闇に加えて折からの風雨が敵方の視界をさえぎり、当の朝倉義景がこの大嶽陥落を気付いていないおそれがあった。そこで信長公は降兵たちの命を助けて朝倉本陣へ向かわせ、彼らに大嶽が落去してもはや戦勢を支えがたくなった事実を知らせさせた。このとき信長公は、このまま一挙に朝倉義景の陣所を抜く考えを固めていた。

  信長公は大嶽に塚本小大膳・不破光治・同直光・丸毛長照・同兼利らを置くと、すぐさま丁野山の攻撃にかかった。ここには越前平泉寺の玉泉坊が籠っていたが、これもまたたく間に降伏して退散した。・・・・云々

天正元年(1573)8月の織田信長による小谷城攻めに際し、江北の守りの要である山本山城の守将浅井氏重臣の阿閉貞征が寝返り、信長は8月10日に小谷城北の山田山(下山田城)に布陣することができた。

 このため、北方防備の必要に迫られた小谷城は焼尾砦を構え、浅見対馬守を入れ置いたと考えられている。
小谷山山頂・大嶽城の北方を守備する浅見対馬守は、信長に内応し8月12日に織田軍を焼尾砦に引き入れ、織田軍はこれを足掛かりに大嶽城を攻め落とした。

  • 江北の守護・京極氏は、戦国時代も中頃になると内訌により衰退し、家臣間の覇権争いが起こり大永3年(1523)には浅井氏・三田村氏・今井氏・堀氏らが浅見氏を盟主として結束、京極高清の家宰上坂信光を上平寺城に攻め、京極高清と上坂信光を尾張へと追放し、高清の嫡男・高広(高延)を擁して京極家当主と仰ぎ、浅見貞則の居城・尾上城に迎えた。 ところが、京極高広を奉じた浅見貞則の専横に対し、翌年、浅井亮政は貞則と争って高広を奪い小谷城に迎えると共に、先きに尾張へと追放した京極高清も小谷城へ迎え入れた。 以後、浅井氏が台頭するが長政の代まで浅見氏は浅井氏に従属することはなかったと云われ、こうした経緯が浅見氏の裏切りに繋がったと考えられている
  • 天正元年(1573年)、浅井氏側の浅見対馬守は焼尾丸を守っていた。
  • 同年8月8日、山本山城主阿閉貞征が羽柴秀吉の調略で織田側に寝返ったことで、小谷山包囲網が可能となった。
  • 同日、信長は岐阜城を出発し、同月10日、越前から小谷山へのルートを封鎖し、援軍に南下してきた朝倉義景の2万の軍勢を小谷城への入城を阻止し、木之本や余呉に足止めした。この中、焼尾丸を守る浅見対馬守が降伏した。
  • 8月12日、畿内に襲来した嵐を好機として、信長は浅見対馬守の手引きで大嶽を攻撃、落城させた。翌13日、形勢不利と見て撤退する朝倉氏を強襲し、刀根坂の戦いで壊滅的な打撃を与え、嫡男信忠の手勢を押さえに残して、越前に攻め込み朝倉氏を滅亡させた。
  • 8月26日、信長は虎御前山に帰陣し、翌27日、羽柴秀吉の軍勢が清水谷の急傾斜から、小谷城京極丸を急襲し陥落させ、浅井久政が守る小丸を落城させ、久政は自害、翌日には本丸も落ち、浅井長政は本丸の袖曲輪の赤尾屋敷で自刀し、浅井氏は滅亡した。 (「wikipedia」 小谷城などから)
  • しかしながら、この浅井氏滅亡の日には異論がある。太田浩司氏によると、浅井長政から片桐且元の父である孫右衛門尉へ8月29日付けで籠城の礼の手紙が残っていること、浅井久政が同月27日に西野弥治郎あてに出した文書も残り、結局8月29日に久政が、9月1日に長政が自刀ということになるという。(「浅井長政と姉川合戦」太田浩司著)ということで、焼尾砦の降伏は、山本山城のそれとともに小谷城陥落の一つの引き金となった。

            

焼尾砦(未訪の砦)に到着!

    


50m程登り、体調が悪い!(気温30℃で、熱射病か?ガイドさんの了解を得て一人で下山)

一人で下山 下山田集落

焼尾砦(案内板は無いは、檜にピンクpp紐が3本位巻かれた平坦地)

         

            

参考資料:信長公記

本日の訪問ありがとうございす!!


上野田(こうづけだ)城(上野田氏館)(上野田館)   近江国(日野)

2016年06月10日 | 居館

上野田城/上野田氏館/上野田館

 「又六ざんまい」=上野田氏の墓地

お城のデータ
所在地:蒲生郡日野町上野田    map:http://yahoo.jp/HLaXM5
別 称:上野田氏館・上野田館
現 状:水田+墓地
区 分:居館
築城期:織豊期
築城者:上野田氏
遺 構:「又六ざんまい」と呼ばれる上野田氏の墓地
目標地:上野田共同墓地
駐車場:墓地駐車場
訪城日:2016.5.23
お城の概要
 日野町上野田集落北方に100m四方を水路(堀)で囲まれた、「古屋敷」と呼ばれる土地があり、「又六屋敷」と言われた上野田氏邸跡と伝わる。現在、一部は共同墓地となっているはが、元は上野田氏の所有地であり、また更に北方に「又六ざんまい」と呼ばれる上野田氏の墓地が残存ずる。
お城の歴史
詳細不詳だが、『佐々木南北諸氏帳』には「蒲生郡 三本木 佐々木蒲生隋兵 上野田主計介」の名を記す。
が、三本木が、上野田集落であるかどうかの確証は無い

 近江蒲生氏の出目(蒲生氏の支流に上野田忠俊(蒲生惟俊の子)

藤原秀郷を祖と称する藤原氏の一族。近江国蒲生郡を中心に勢力を築き、藤原惟俊の代から蒲生氏を称した。

室町時代には近江国の守護大名となった六角氏に客将として仕えた。

藤原季俊の子、惟俊を祖とする・・・ 藤原季俊の子蒲生惟俊ー蒲生惟賢 蒲生惟俊の子、朝国惟義 蒲生惟俊の子、上野田忠俊 蒲生惟俊の子
    北方に「又六ざんまい」と呼ばれる上野田氏の墓地が残存ずる。http://yahoo.jp/wldMFe
  
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1・3・4(旧:蒲生・神崎郡) 、佐々木南北諸氏帳、Wikipedia
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寺村氏    近江国(蒲生)

2016年06月08日 | 郷土の偉人

寺村氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
 
寺村氏
家紋
丸に隅立て四つ目結
本姓 宇多源氏佐々木氏流
種別 武家
出身地 近江国蒲生郡寺村
主な根拠地

近江国

土佐国

著名な人物

寺村小八郎

寺村半左衛門

寺村重友

寺村道成

 

寺村(てらむら)氏は、日本の氏族。

概要

宇多源氏佐々木氏の庶流。家紋は佐々木氏の代表家紋である「平四つ目結」から派生した「丸に角立四ツ目結」などを使用。

近江国蒲生寺村の領主であったことから寺村の姓を名乗るようになり、室町時代には近江国の守護大名となった六角氏に仕えた。六角氏の家臣の多くは国人領主]であり、被官化されていたとはいえ独立性が高かった。

1563年(永禄6年)に六角氏の御家騒動(観音寺騒動)が起こると、六角氏本家だけではなく、南近江の国人連合の結束と勢力の衰退につながり、さらに六角氏が観音寺城の戦いで織田信長の上洛軍に敗れると、寺村氏一族は、浅井長政に仕える者、羽柴秀吉に仕える者、山内一豊に仕える者、蒲生氏郷に仕える者、蒲生郡小野村に居住する者などに分かれた。

近江寺村氏

寺村小八郎は、浅井長政に仕え、1570年に姉川の戦いに従軍し、以後1573年まで4年にわたり小谷城に詰めた。最後まで浅井家への忠誠を変えない者達に長政は感状を与えたが、有名なのが寺村小八郎に与えたもので、「ここ4、5年骨身惜しまぬお働き忠節これに勝るもの無く、ことに今度の籠城は誠に神妙に存じ候。愈々この上ともご奔走が大切、心底より望むところ確かりと申し付け候」がある。

寺村盛久(寺村半左衛門)は、蒲生氏郷に仕え、天正年間には近江寺村城に居城した。 蒲生氏郷の伊勢、会津への移封に従い、葛西大崎一揆の平定にあたっては、氏郷本隊の三段目を任された。

寺村家の枝連衆であった寺村重友は、当初は羽柴秀吉に仕え、その後、秀吉よりお預けの形で寄騎衆として山内一豊に仕えた。

天正年間に近江長浜城主となった山内一豊に召し抱えられて臣となり、山内一豊の移封に従い、遠江国(静岡県)掛川を経て、土佐国(高知県)に移り、初代土佐寺村氏となった。

本陣寺村氏(近江)

六角氏の滅亡後に、寺村行隆と、その子寺村規行は病身であることから武士を捨てて小野村に移り、本陣役を務めるようになった。寺村規行には2人の兄弟があり、共に長浜城主であった山内一豊に仕え、のちに土佐へ入った。 佐和山城の落城後は小野宿は廃止され、1603年(慶長8年)、中山道の整備に伴って小野村から鳥居本に宿場が移った時、小野宿で本陣役を務めていた寺村荘兵衛は鳥居本に移り、引き続き鳥居本宿でも本陣役を務めた。寺村規行から数えて10代目の寺村義貴の時に、本陣は廃止となった。

本陣寺村の家紋は「五段梯子(はしご)」であるが、『綱要日本紋章学』(昭和52年)によれば、「土佐山内氏家臣寺村氏が、梯子を用ひて天正十八年山中城に乗り込んだ武功を紀念するために用ひた」のが梯子紋の歴史上の登場とされている。

土佐寺村氏

当初は羽柴秀吉に仕え、秀吉よりお預けの形で山内一豊に仕えた寺村重友は、天正年間に近江長浜城主となった山内一豊に召し抱えられて臣となった。山内氏の遠江国掛川入封時は家老職400石、土佐国入封時は中老格4400石を給され、初代土佐寺村氏となった

二代目の寺村淡路重次は3200石、三代目の寺村守善重昌は山内可氏の三女を妻に迎えた。

また、四代目の寺村淡路重信は、山内可氏の子である山内定氏の長女を妻に迎えた。

幕末には、寺村成相(中老格700石)の三男寺村道茂(左膳)は参政として藩政の中枢にあった。薩長に近づきたい土佐藩は、ついに1867年(慶応3年)の6月に京都の三本木の料亭吉田屋において土佐藩と薩摩藩の首脳会談をもった。土佐からは後藤象二郎・寺村道茂、薩摩からは小松清錬・西郷吉之助(西郷隆盛)・大久保利通、仲介人として坂本龍馬・中岡慎太郎が参加し、薩土盟約を締結した。盟約破綻後も大政奉還路線を進め、主君山内容道ほか4名(後藤象二郎・寺村道茂・福岡考弟・神山左多衛)の連名で大政奉還建白書を提出した。幕末の政治活動を記した『寺村左膳手記』『寺村左膳道成日記』は、幕末の土佐藩の中心にいた人物の記録として貴重な史料である。

維新後、土佐寺村氏の多くは「日野」と改名し、家紋は「鶴に丸」を使用した。姓や家紋を改めた理由は不詳であるが、公家の日野家との古くからの関係から「日野」と「鶴に丸」を使用したようである。高知県立図書館の山内家宝物資料館所蔵『侍中先祖書系図牒』の系図には、「寺村」という箇所に「日野」と改めた紙が貼ってあり、家紋は「鶴二蝶梯子」とある。寺村道成は日野春草(春章)と改名したが、祐天寺(東京都目黒区)の日野春草の墓には「五段梯子」の家紋が刻まれている。

寺村道成の次の当主である日野茂義(軍馬)は板垣退助の姉である勝子を妻に迎え、勝子は日野成文(次郎三)や山田兵左衛門の妻となった信(のぶ)を生んだ。

寺村氏と「日野」の接点

  • 鶴紋を使う蒲生氏と関係があるとする説。近江国蒲生郡には日野町という場所があり、蒲生貞秀(氏郷の祖父)が1533年(天文2年)から3年程かけて日野城を築城した。
  • 「鶴に丸」紋を使う公家の日野家と関係があるとする説。本願寺第三世である本願寺殻に覚如の父覚恵は、日野広綱と親鸞の末娘覚信尼との間の実子である。浄土真宗の宗祖である親鸞は日野有範の息子であるため本願寺]は日野家である。
  • 本願寺第十一世で本願寺顕如は、1557年(弘治3年)4月17日、宇多源氏佐々木氏嫡流である六角定頼の猶子の徐春尼と結婚した。
  • 土佐寺村氏の初代寺村重友が日野家の流れを汲んでいたとの説があるが不詳である。
  • 近江寺村城に居城した寺村盛久の草堂から始まった得照寺は、親鸞を宗祖とする浄土真宗本願寺派である。
  • 日野唯心は、徳川家康側近の僧侶として仕え、以心崇伝、天海に次ぐ地位にあり、近江国蒲生郡に1,030石余の所領をもった。唯心の次代で、日野家は朝廷に仕える堂上家と、幕府に仕える高家に分かれた。

山副氏館(山副館)     近江国(竜王)

2016年06月08日 | 居館

山副氏館/山副館

 
お城のデータ
所在地:蒲生郡竜王町薬師     map:http://yahoo.jp/K28Y7
別称:山副館
現 状:宅地・竹林
区 分:居館
築城期:織豊期?
築城者:山添氏
遺 構:背後の竹藪に平削地
目標地:竜王町薬師集落の、祖父川の左岸の山添い
駐車場:空き地に路上駐車
訪城日:2016.5.22
お城の概要
 竜王町薬師集落の、祖父川の左岸に位置し、屋敷に西の山中にも削平地(竹藪)が残る、西背後山に三方に二重の堀と土塁を巡らしいたというが、今は宅地化が進み、何も残っていない。
お城の歴史
 竜王町薬師の山副家は、信長の近江入国以前は山添氏を名乗った土豪で、近世には、大庄屋を務めていたいう。
            祖父川(右岸から西)・・・集落の山副氏館の遠景 

   
参考資料:滋賀県中世城郭分布1、4(旧蒲生・神崎郡の城)(1986.3)、遺跡ウォーカー
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加田七殿屋敷(加田館・七殿屋敷)      近江国(長浜)

2016年06月08日 | 館跡

加田七殿屋敷/加田館/七殿屋敷

 甚兵衛屋敷の堀(神田公民館前)
お城のデータ
別 称:加田館/七殿屋敷
所在地:長浜市加田町    map: http://yahoo.jp/ObSIo3
現 状:加田集落
区 分:居館
築城期:
築城者:
遺 構:堀・
目標地:神田公民館
駐車場:神田公民館駐車場
訪城日:2016.6.3.
お城の概要
 加田一族七人の屋敷跡。地元では「ななとのさん」よんでいる。加田氏の菩提寺「興善寺」の南側の位置する。
お城の歴史
 加田氏に初見は「政所腑銘引付」」の文明年間の記事で京極氏の被官加田九郎兵庫尉の名は見える。がその後の動向は不明。「垣見文書」に見える天文13年(1544)の加田口合戦は京極高広が浅井氏側の加田氏の館を攻めものと考えられている。
 加田七殿とは、加田孫左衛門、加田九郎左衛門、加田権左衛門、加田甚兵平、加田右近右衛門、加田新八、加田重右衛門の七人。
また、『佐々木南北諸氏帳』は「坂田郡 加田 住 佐々木浅井隋兵 加田源八郎・同 佐々木隋兵伊藤末 加田九郎左衛門・同 加田権左衛門・同 加田甚兵衛・同 佐々木浅井隋兵 加田右近右衛門・同 加田新八・同  右加田七家 加田重右衛門と「右加田七家」と記している。
また『佐々木南北諸氏帳』の「坂田郡 加田 伊賀角兵衛・加田 浅井隋兵 北川東右衛門を記す。 この二名は詳細不詳。
 
             
菩提寺の與善寺
     
         
立派な屋敷の中に土塁が残る。
  ブロック塀の中に土塁
             神田公民館に駐車
 
加田七屋敷の詰め城か?(八幡神社・神田山)
                       
八幡神社本殿の南側の平削地・土塁が残存する。              
 参考資料:滋賀県中世城郭分布6(1989.3)(旧坂田郡の城)、『日本城郭大系』11、遺跡ウォーカー
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栗原城     近江国(志賀)

2016年06月07日 | 平城

栗原城

 

お城のデータ
所在地:大津市(旧:滋賀郡志賀町)栗原   map:httpLW-2-://yahoo.jp/z
現 状:棚田
区 分:平城
築城期:
築城者:
遺 構:石垣(土止め)・基壇(棚田)・土塁(畔)
目標地:栗原集落の南の川添い
駐車場:栗原集落の南の川添いの東屋近く
訪城日:2016.4.20
お城の概要
詳細不詳ながら、古道京道添いに位置する。
大津市栗原集落にあったとされる城。 詳細は一切不明。

志賀町の古道 京道(きょうみち)
 北国海道は、その名の通り北国への道。古代・中世の北陸道(西近江路)を通る道を北国海道と呼ばれてきた。志賀町和邇今宿を過ぎて高城への道の常夜灯のそばにある道標などにも「北国海道」と刻まれている。
 この道は、平安時代に入ると平安京と北国をつなぐ最短距離の道、京道として脚光を浴びるようになる。志賀町の山手を通る、この「京道」は志賀町史にも全く記述は無い。志賀町内の京道(北国海道支道)の存在を確認した。 調査を行った志賀町文化財専門委員(県文化財保護指導員)によると、この道は志賀町八屋戸から山手に向かい、湖西道路をくぐって岩神神社のホコラ近くから栗原の妙道会を通り、比叡霊園地を経て伊香立の龍華道へ抜ける。裏付け史料としては、栗原に伝わる民話「龍華夫人・八畳岩」や、比叡山天台密教の寺院由来歴などをあげ「いずれも、この道を通らなければ行けない場所にある」と検証している。
室町時代に建立された水分(みくまり)神社・底なしと言われたナリカマの穴・源為朝が京より逃れて馬を止め、一夜を過ごしたと言われる岩神神社志賀町栗原水分神社の小さな祠が残存する。(2001年1月号掲載)
志賀町栗原水分(みくまり)神社
 栗原地域の信仰の中核は氏神を守る祭祀組織としての宮座であり、これを今も伝えているのが志賀町栗原地域にある水分(みくまり)神社の祭祀組織である。
 湖西道路の和邇インターチェンジを出て栗原地区に入ると、美しい棚田が目につく。この山間農業を守り続けてきた村の習慣が祭祀組織だった。栗原に生まれた男子は、その年の蔵じまいの日(12月10日ごろ)に烏帽子料を納めて氏子入り。その後、青年団入り、二人が一年務める小頭、60代で回ってくる宮世話、その後に一年納める神主役、そして神主を納めた長老から年齢順で構成する十人衆、最長老の一番尉という役が決まっていて、この人たちで宮守りを行う。
 この東栗原集落にある水分神社は比良流水の守護神・天之水分神を祭神とし、ここで「ひおおぎ祭り」に始まり御田植祭(6月10日)、八朔祭り(9月1日)などのお祭りがある。
 「ひおおぎ祭り」は、3月6日と7月6日に行われ、3月6日は田植えを前にして日を迎える祭事、7月6日は日を仰ぐ祭事といわれる。いずれも午前10時に宮守役が集まって作物などを献饌の後、裃姿の当家神主が神前に供えた桧扇を開き、東西南北に向かい「ひおおぎ」「ひおおぎ」「ひおおぎ」と三回唱えながら扇を上下し、日輪を仰ぐ。 農村が太陽を信仰する古典的な行事の一つともいわれている。(2000年2月号掲載)
お城の歴史
詳細不詳、土豪のの城か?栗原集落は山間を切り開いた農村で、在地領主の居館であったと推測される
                   ここに駐車
参考資料:滋賀県中世城郭分布1(1983.3)9(旧滋賀郡の城)、志賀町の古道 京道
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口分田(くぶた)古殿城  近江国(長浜)

2016年06月06日 | 居館

お城のデータ

所在地:長浜市十里町    map:http://yahoo.jp/yUi_P7

現 状:田地・道路

区 分:居館

築城期:室町期

築城者:口分田氏?・加藤氏?

遺 構:不明

目標地:JH長浜IC

駐車場:近くに路上駐車

訪城日:2016.2.11

お城の概要

 大井川南方にあたる、口分田集落は現在北陸自動車道長浜インターチェンジの入り口付近に位置し、南は山際町・東榎木町との境界をなす。口分田氏か加藤氏関連の屋敷跡と思われるが、詳しくはわからない。なお、古殿町の南の山際町に「上古殿町」「下古殿町」の小字名が残る

「口分田」という文字は、古代土地制度の「口分田」に由来するとされる。「口分田」は律令制の班田制の田種を示す用語。

お城の歴史

『江州佐々木南北諸国帳』には、「坂田郡 十里 住 十里弥介・ 同 住 与力 石崎源吉 ・同 住佐々木浅井隋兵士族 野村弥八郎」と記す。

   

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査6(旧坂田郡の城)、佐々木南北諸氏帳

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口分田(くぶた)城ノ根城(口分田氏館)  近江国(長浜)

2016年06月06日 | 居館

お城のデータ

所在地:長浜市口分田町    map:http://yahoo.jp/hVbIuC

別 称:口分田氏館

現 状:宅地

区 分:居館

築城期:室町期

築城者:口分田氏

遺 構:堀痕(用水路)、口分田氏の氏神天満宮

目標地:口分田会館・口分田郵便局・天満宮

駐車場:口分田天満宮近くに路上駐車

訪城日:2016.6.3

 

 口分田氏館比定地(遺跡ウォーカー)

口分田会館の裏(北東側)が、比定地

お城の概要

口分田氏館は、口分田地区にある長浜口分田簡易郵便局の北側にある口分田会館から北側の住宅地一帯に築かれていた。 集落の天満宮は、口分田氏の氏神を祀ると伝えられている。

「口分田」という文字は、古代土地制度の「口分田」に由来するとされる。「口分田」は律令制の班田制の田種を示す用語。 

お城の歴史

『江州佐条南北諸国帳』には、「坂田郡 口分田 住 佐々木浅井隋兵 口分田彦右衛門」という土豪の存在を記す。

『近江国木間攫』には、「坂田郡 口分田村 往古此所ニ口分田彦七ト云武士アリ、代々京極家ノ卒將ニテ武功ニ家ナリ、浅井家権ヲ奪シ後蟄居セリ、三代記ニ不見、」と記す。

口分田氏館は、築城年代は定かでないが口分田氏によって築かれた。 口分田氏は、新田氏の末裔と伝えられ、佐々木南北諸士帳に口分田彦右衛門の名が見える。

浅井三代記 巻三

亮政を見つかんとて浅井新六郎、中島加助、伊部助七郎、丁野弥助、田部助八、尾山彦右衛門尉、彼等六人其勢二百、上坂の城 .... 上坂掃部頭、口分田彦七郎、両人の者 ども鑓を横たへ、きたなき味方の者共かな敵を味方に合すれば十分一もなきに、取てか  ...

    

     

天満宮

               

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査6(旧坂田郡の城)、佐々木南北諸氏帳。淡海国木間攫、遺跡ウォーカー

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北野スミ櫓城(砦)   近江国(浅井)

2016年06月06日 | 

お城のデータ

所在地:長浜市(旧:東浅井郡浅井町)北野町    map:http://yahoo.jp/7xUB40

現 状:寺院・神社

区 分:山城(砦)

築城期:永正(1504~1521)~天文(1532~1555)年間

築城者:浅井氏

遺 構:堀切・A・B・Ⅽ・Ⅾ・E・F・H

標 高:C部258m 比高差:100m

目標地:北野町墓地

駐車場:北野町墓地の駐車場

訪城日:2016.6.3

お城の概要・歴史

 浅井町田根地区北部に位置する北野集落で、西に小谷山大嶽(おおづく)から伸びる枝状尾根がそびえている。その尾根には、北野砦が切通しを挟んで南北に二ヶ所残存する。南砦の東側に北野集落中程に北野館位置する。北砦は小谷山大嶽(おおづく)方面の258mを頂部に、小谷城の東側を守備する。

 獣害ヘンス内へ、墓地の手前に「立志坂」を登ると鞍部に巾5m・深さ3mの堀切(切り通し)がある。堀切から「立志坂」を北に取ると尾根上にA・古墳に手を加えたH・B、頂部域にはC・Ⅾ・Eの遺構も古墳の改良利用し、浅い堀切ある。Cの枝尾根先にFと遺構が残存するが、頂部遺構以外は、雑木で遺構の確認無理(6月だからか?)

 この立地から、小谷城の東の平野部(田根地区)には、田根城・瓜生館・北野館・竜安寺城・木屋城・大依山城等が点在する。小谷城の外廓を形成している。

C・D・F遺構は小字”火屋脇”と称し、火屋は狼煙・松明の通信手段に。

Eは通称”スミヤグラ”と呼ばれ、周見櫓(物見櫓)として築城。

お城の歴史

詳細不詳だが、

『浅井三代記』によると、小谷城は「十日計ヵ間ニハヤ掘土手総講出来スレバ」

大依山砦と小谷城との、南側の北野砦と共に繋ぎ砦であったようだ。

 天正元(1573)年に織田信長の攻撃により小谷城が落城した際に、浅井長政の妻であったお市の方と三人の姫たちが城から落ち延びたと思われるルートをちょうど反対に辿り、小谷城祉まで登り行くコースである。

 小谷城の城下町や城の正面にあたる追手道、それに平時における長政や家臣団の屋敷が建ち並ぶ清水(きよみず)谷など、いわゆる城の表側はすでに信長軍によって占領されており、「お市の方らが落ちていくとすれば、城の搦め手にあたる月所丸からであったろう」というのが大方の推量である。もちろん、脱出ルートに関する正確な文献は残されていない。

     遺構A 堀切(切り通し)    遺構H

 小谷山      頂部手前   hC砦頂部標高258m小堀切     

戻ります。

遺構Fへ           小谷山        堀切=切通し(池野村から北野村)「こじき坂」・・・説明板には、「浅井の侍女たちはは三姉妹の身分をかくす為、池野町(村)の民家で古い野良着に着替させて北野町(村)に降りた、もの山道を「こじき坂」と呼ばれている。

 「五先賢の館から、すぐの田んぼの中にある小さな四輪塔である。元々五輪塔であったものだが、一つ失われて四輪塔となっている。

 祀られている四輪塔は、お市の方と三人の姫たちが小谷城から落ち延びていく際に、乳飲み子であった三女のお江を抱いて逃げた浅井家の侍女の墓であると地元では言い伝え。 

 DSCN5337DSCN5336 城の南東にある実宰院という寺院まで無事に姫たちを送り届けた侍女は、すでに小谷城が落城して城に戻ることができず、この地で浅井家の菩提を弔い続けたのだという。その侍女の墓と伝えられているのが、この四輪塔である。落城にまつわる悲話。・・・・・須賀谷温泉のブログ(一日回峰行同行記)より」

北野砦へ  は次回

   北野集落の北の山麓に墓地ある、ここに駐車して、堀切=切り通しから南の北野砦・北の北野スミ櫓城(砦)へ 

 北野スミ櫓城(砦)・・・遠景

北野砦遠景 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査7(1990.3)(伊香郡・東浅井郡の城)・須賀谷温泉のブログ(一日回峰行同行記)

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北野館     近江国(浅井)

2016年06月05日 | 平城

  

お城のデータ

所在地:長浜市(旧:東浅井郡浅井町)北野町    map:http://yahoo.jp/Cw2PcE

現 状:寺院・神社

区 分:平城

築城期:

築城者:

遺 構:来生寺・官公の宮・北野砦

目標地:北野公会堂

駐車場:北野公会堂の駐車場

訪城日:2016.6.3

お城の概要・歴史

浅井町田根地区北部に位置する北野集落で、西に小谷山大嶽(おおづく)から伸びる枝状尾根がそびえている。ほの尾根には、北野砦が、切通しを挟んで南北に二ヶ所残存する。

南砦の東側に北野集落中程に北野館位置する。

 この地出身の比叡山の高僧で菅原道真と親交のあった相応和尚が、道真が没した時、同字に宮を建て、道真の形見の鏡と道真自身が刻んだ自身像を祀るとともに、神社境内に寺を建立したと伝わっている。
この「菅公の宮」と「来生寺一画」とその四囲を取り巻く巾20mの低地帯を含め方形の館跡とされている。

 また、南東角は虎口と考えられる枡形、現状からは城郭遺構とか?。

来生寺縁起によると、この地の生誕の相応和尚は、比叡山の高僧で、菅原道真とも親交が深かったと言われている相応和尚だが、その事実を証するかのように、本堂に向かって右手にある小さな祠の中に「道真自らが彫ったと伝わる道真像が、本堂から少し離れたもう一つの祠には鏡が、納められている。」DSCN7739DSCN7742普段は扉が閉じられているが、一日回峰行の日だけは、参加者が見られるように扉が開放されていた。・・・・・須賀谷温泉のブログ(一日回峰行同行記)より

相応和尚〈そうおうかしょう〉
 平安時代、比叡山の数ある修行の中でも命がけの「千日回峰行」を始め、最初に成し遂げた高僧として知られていて、天長10年(833)浅井長政の居城があった小谷山の東の山裾、今の長浜市(旧浅井町)北野町に生まれ、十五歳で比叡山延暦寺に入山し、開祖・最澄の教えを全うしょうと決意し「学問の裏には行が、行の裏には学問の裏打ちが必要」と修行に励みました。

そして、宗教界で最も厳しいと言われる荒行「千日回峰行」を創案し実行しました。これは、毎日40粁も比叡の山中を巡拝して歩き、しかも7年、延べ千日間続けます。  その間には9日間、飲まず食わず、寝ずで、不動明王に祈りを捧げる"堂入り"という行を、回峰行者の根本道場、無動寺明王堂で行なうもので、比叡山の法灯と共に今も引き継がれています。

 和尚の友人の中に、時の右大臣菅原道真が九州大宰府に流された時、形見として小さな自像と一面の鏡を和尚に託しました。
 その後2年余りで道真は病死、和尚は形見の二品を郷里の北野の地で祀ったのが神社・寺の始まりと伝えられています。

なお、集落西側の尾根先には、北野砦が構えられている。また、集落の北には、北野スミ櫓城(砦)を構える

来生寺

  

   

官公の宮

   

滋賀県中世城郭分布調査7(1990.3)(伊香郡・東浅井郡の城)より

北野公会堂に駐車

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査7(1990.3)(伊香郡・東浅井郡の城)・須賀谷温泉のブログ(一日回峰行同行記)

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