城郭探訪

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観音寺城(佐々木城)  近江国(安土)

2016年03月31日 | 山城

城郭フォーラム 佐々木六角 観音寺城 (日本最大の中世石垣城郭を廻る)

 

お城のデータ

所在地:蒲生郡安土町石寺  map:http://yahoo.jp/SXqpLH
別 名:佐々木城
築城期:応仁・文明年間(1467~1487)

築城者:佐々木氏頼
初城主:佐々木六角氏
区 分:山城
遺 構:本丸,平井丸,落合丸,池田丸,淡路丸,土塁,石垣,井戸,暗渠,埋め門
城 域:2500m×2000m

標 高:433m  比高差:325m 
戦 い: 永禄6年(1563)○六角家臣・浅井長政 VS  ●六角義治・六角承禎
    永禄11年(1568)○織田信長      VS  ●六角承禎

目標地:観音正寺

駐車場:観音正寺駐車場

訪城日:2016.3.26

お城の概要
 観音寺城は標高433mの繖山一帯に築かれた山城で、登城道は幾つもあるが、一般的には石寺地区、桑実寺から徒歩で登るルートと、途中まで車を利用して登るルートがある。車を使用する場合は、東近江市五箇荘川並町から林道、若しくは安土町の鳥打腰から林道を利用するとよい。管理費500円が必要。徒歩なら1時間、車なら約20分観音正寺に着く。

観音寺城本丸は、観音正寺から更に15分ほど登る。
 山中には至る所に石垣が見られ、山全体が城塞化されており、これらの石垣遺構は弘治2年(1556)より六角義賢が改修したものとされる。
中でも、本丸の薬師口(桑実寺方面)の食違い虎口は、永禄11年の信長の近江侵攻以前に築かれていたものであり、永禄年間における六角氏の築城、縄張り技術を考察する上では非常に貴重な遺構と云える。

 また、平井丸の大石で組まれた石垣の算木積みの技法、あるいは池田丸等の石垣には “横目地” が通っていること等を観ていくと、天正4年(1575)から始まる安土城築城以前の近江における石積み技術の高さを窺い知ることが出来る。
『金剛輪寺下倉米銭下用帳』に、観音寺城における高度な石積み技術を示すのが、馬淵邸付近にある7mを越える高石垣や大手道にある6mほどの高石垣の存在と、本丸東側の階段中腹に観られる排水用の暗渠や池田丸の曲輪内部に観られる排水枡である。高度な排水対策が施され400年以上も見事な石垣が崩れることなく残る。近世城郭に先行して築かれた “石垣造りの観音寺城” の存在意義はに大きい。

お城の歴史
 観音寺城は標高433mの繖山(きぬがさ山)に築かれた近江源氏・佐々本六角氏の居城で、六角氏が、いつごろ繖山に城砦を築いたのかは明らかではないが、建武2年(1335)足利尊氏についた氏頼(時信という説もある)が、奥州より攻め上ってきた北畠顕家軍を阻止しようとして、観音寺の城郭に立て龍もったという「太平記」の記述が初見。

 信長の近江侵略

 永禄11年(1568)織田信長が第15代将軍足利義昭を奉じて上洛する際に、これを阻止しようとした六角承禎(義賢)、義弼父子は箕作城や和田山城をはじめとする諸城に籠もって戦うが、支えきれず甲賀に遁走し、観音寺城は落城した。

信長公記 巻一 上洛 信長入洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるるの事

 永禄11(1568)年9月7日、信長公は義昭殿の元へ参上し、出陣の挨拶を述べた。 「江州をひと呑みに討ち果たし、お迎え申し上げる」 そうして信長公は濃尾勢三四州の軍兵を率い、同日岐阜を出立した。

軍勢は岐阜・平尾村で夜を明かして翌8日江州高宮まで進み、この地に二日間滞在して人馬の息を休めた。

11日になって休息を終えた軍勢は愛知川近辺まで進軍して野陣を張った。ここから馬を駆けまわして付近の敵状を探索した信長公は、沿道に散在する敵城には目をくれずに進軍し、六角承禎親子が立てこもる観音寺城に近接する箕作城へ向かった

翌12日、信長公の命を受けた佐久間信盛・木下藤吉郎秀吉・丹羽長秀・浅井新八らによって箕作城の攻撃が開始された。攻撃は申刻(午後3時過ぎ)より始まり、夜半に城は落ちた。
 信長公の所領となってまもない美濃の将士は、この戦ではさだめし先手として追い使われることになろうと覚悟していた。しかしいざ戦が始まってみると、信長公は美濃衆などに構わず馬廻りだけで攻撃を開始してしまった。この思いもよらない戦の仕方に、美濃三人衆などはただ驚くばかりであったという。

 落城後、信長公は箕作山に陣を据え、翌日にも六角氏の本拠観音寺城を攻める勢いを示した。ところが箕作の陥落をみた承禎親子は抵抗は不可能とみて城を捨てて逃亡してしまった。翌日織田勢はやすやすと観音寺城へ入城を果たした。観音寺落城によって付近の六角残党が軒並みに降伏してきたため、信長公は人質を差し出させた上で彼らの所領を安堵してやり、一国を支配下に収めた。盟約通り江南を平定した信長公は、14日不破光治を迎えの使者に立てて美濃立正寺へ向かわせた。

布施淡路丸

特性弁当 

 観音寺城は繖山(きぬがさやま)南麓を中心に数多く郭を配置、削平された郭の法面には石垣が築かれ、礎石を用いた建物が建っていた。石組みの貯水池や水路などの遺構の多く、大規模中世城郭。

 本格的に石垣を築き始めた城郭として安土城が有名ですが、安土城50年以前から、石垣が用いられていた、1m~5m比較的低い石垣で、城郭全体に石垣が用いられているのが特徴的。

 観音寺城の石垣は、東に「金剛輪寺から石積み職人を有償で借りて築いた」金剛輪寺下倉米銭下用帳伝えられています。
城郭の石垣を築くために技術者を提供した金剛輪寺は、室町時代までの石積み技術(石垣を積む職人集団)は大規模な中世寺院が保有していた。
 

佐々木六角氏の系譜

 近江源氏は宇多天皇を祖とし、敦実親王が近江に下向、佐々木荘を本拠として佐々木氏を名乗るようになった。 
8代佐々木秀義は少年の頃より源為義に従い為義の猶子となる。保元の乱(1156)では源義朝に従い、平治の乱(1159)では源義平に属して平氏と戦うが、敗れて一族と共に東国に下り、相模国・渋谷重国の許に身を寄せる。
 治承4年(1180)8月源頼朝の挙兵の際に佐々木秀義は定綱・教高・盛綱・高綱・義清の五人の子を率いて頼朝に従い、鎌倉幕府の創設に貢献したことで、旧領近江国を領する。

 その後、12代佐々木信綱は長男・重綱を分家させ大原氏を名乗らせ、二男高信には高島郡に領地を与え高島氏とし、三男・泰綱には愛知川以南六郡(志賀、甲賀、栗太、野洲、蒲生、神崎)を与え六角氏として佐々木宗家を継がせる。 四男・氏信には愛知川以北の六郡(愛知、犬上、坂田、浅井、高島)を与えて京極氏とした。
 こうして近江国を二分する形で領有した六角氏と京極氏は、以後骨肉相はむ戦いを続けることになる。 なお、六角氏と称するようになったのは、京都六角東洞院にある元平賀邸に住居を構えたことに由来し、京極氏は京都京極高辻の元伊賀邸を相続したことに因んだものとされている。    

観音正寺

観音正寺の石垣(旧石垣と新石垣)

旧石垣・新石垣


本丸への石段に、暗渠=排水口(500年もの年月、石垣崩れを防ぐ)

本丸

本丸井戸 排水口

平井丸

埋め門記念撮影

落合丸

池田丸

佐々木城祉碑

裏面

岩蔵

目加田丸

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、信長公記、金剛輪寺下倉米銭下用帳

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太田氏館    近江国(日野)

2016年03月30日 | 居館

お城のデータ

所在地:蒲生郡日野町村井 map:http://yahoo.jp/_ktdIp

現 状:田地

区 分:居館

築城期:室町期

築城者:大田氏

遺 構:大田氏墓(数年前まで)

目標地:馬見岡綿向神社の西側

駐車場:農道に路上駐車

訪城日:2016.3.28

お城の概要

太田氏館は、村井馬見岡綿向神社の西隣の田の一角が太田屋敷という地名あり、大永元年(1521)8月11日の夜に主の蒲生高郷によって大田一族が惨殺された地であるとされ、現在も8月11日に綿向神社宮司と蒲生氏菩提寺信楽院によって現地で鎮魂祈祷会が行われている。

遺構は何も残っていないが、自然石の「太田氏の墓と樫の木」が立っており、また太田氏の霊を宿す白蛇がこの辺りに出るという伝承が地元村井にはある。

圃場整備で、消失。「自然石の太田氏の墓と樫の木が立ってた」ようですが!(map:の航空写真には、残っている)

お城の歴史

大永元年(1521)8月11日の夜に主の蒲生高郷によって大田一族が惨殺された地

滋賀県中世城郭分布調査報告書には、綿向神社の西の田んぼに『太田氏墓』と

(yafoo map:の航空写真には、残っている)

太田氏館は、馬見岡綿向神社の西隣の田の一角が太田屋敷という地名ありここに築かれていた。 館の遺構は何も残っていないが、自然石の太田氏の墓と樫の木が立ってたようです。近江 太田氏館http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/ootasiyakata.htm

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、近江 太田氏館、(yafoo map:の航空写真)

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中山陣屋 近江国(日野)

2016年03月30日 | 陣屋

お城のデータ 

所在地:蒲生郡日野町中山西谷 比定地 map:http://yahoo.jp/YkvebM

現 状:宅地

遺 構:

区 分:陣屋

築城期:江戸期

領 主:関氏

目標地:光明院・中山西会議所

駐車場:中山西会議所に駐車

訪城日:2016.3.28

お城の概要

比定地は、個人宅の前の畑地で中山西会議所の向かいである。

比定地の近くの光明院は、元金剛定寺一院の一つであったが文明年間(1469-1487)真宗に改宗・ 光明永正年間(1504-1521)に中興。

お城の歴史

蒲生氏郷は、・・・その後は清州会議で優位に立ち、信長の統一事業を引き継いだ羽柴秀吉に従い、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは羽柴秀長の下、峰城をはじめとする滝川一益の北伊勢諸城の攻略にあたった。戦後、亀山城を与えられるが、氏郷自身は入城せず、家臣の関盛信を置いた

蒲生氏の家臣 関一政 (?~1625年)

 関盛信の子。天正十年末、蒲生氏郷は布施忠兵衛に嫁いでいた妹を離縁させ、関一政に嫁がせた。天正十一年、伊勢亀山城主。天正十二年、織田信雄と戦う。同年、蒲生氏郷から一万石を賜る。天正十八年、韮山城攻めに参加。同年十月、白河城四万八千石。文禄四年、豊臣秀吉から蒲生秀行の補佐を命じられる。慶長三年、蒲生家から独立し、信州川中島三万石。慶長五年、関ヶ原合戦で西軍に属し、竹中重門と共に東軍の犬山城を攻める。竹中重門が東軍に寝返る際、その説得を受けて共に寝返る。慶長十五年七月、伯耆黒坂五万石。慶長十九年、大坂冬の陣に参戦。

家臣同士の争いが起きた事から改易される甥氏盛が跡を継

関氏盛 (?~1674年)

  関盛吉の子。伯父一政の跡を継ぐ。安芸守。近江蒲生郡五千石。幕府寄合衆となる

 

中山西集落

光明院参道

蒲生氏の墓石

中山西会議所に駐車遺跡ウォーカーの比定地

旗本札

 ==== 近江国 ====
近江国における旗本札発行旗本の特徴としては、[交代寄合]または[旗本寄合席・寄合]といった大身旗本が発行元となっている点が挙げられる。

[高島郡 (滋賀県)朽木(現・滋賀県高島市朽木野尻)の[朽木氏](交代寄合表御礼衆)は[福知山藩]朽木家の本家筋で、足利将軍家が有事の際にしばしば頼った名家である。

[蒲生郡 大森(現・東近江市大森町)の[最上氏]は、[出羽国]の名族で山形城主であった最上氏が御家騒動により減知のうえ転封し、のち更に減知により国主格のままで交代寄合表御礼衆となった。

[神崎郡 (滋賀県)伊庭(現・東近江市伊庭町)の三枝氏は、甲斐国の名族で[武田氏]の重臣であった家である。

[蒲生郡]中山(現・蒲生郡日野町中山)の[関氏]は、[伊勢国]亀山城主や[伯耆国]黒坂城主を歴任した大名であったが、御家騒動により領地を没収され、養子が改めて旗本として取り立てられて成立した家である。

[蒲生郡 老蘇(現・近江八幡市安土町東老蘇)の[根来氏]は、[紀伊国]の[根来寺]に所属して[豊臣秀吉]の根来寺攻撃に抵抗し、のちに徳川家に属した成真院盛重の後裔である。

近江国の旗本札の特徴としては、銀建て、銭建ての札で、紙幣として使用されることが前提のものでありながら、朽木氏の炭切手、伊庭三枝氏の種切手、中山関氏の豆切手、老蘇根来氏の豆手形、大森最上氏の茶切手というように、いずれも商品切手[商品券]の名目をとっている点がある。近江国では、[彦根藩]、[膳所藩]、[水口藩]、[大溝藩]など、江戸期に発行された同国諸藩の藩札も同様の特徴を有している場合が多い。

 老蘇根来氏は、陣屋を構えていた老蘇のほかに、[大和国 [宇智郡]の知行地においても札面が類似した様式の紙幣を発行した。

参考資料:関氏 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、滋賀県中世城郭分布調査1、『日本城郭大系』11、蒲生の家臣団

    本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


仮称)中山城 近江国(日野)

2016年03月29日 | 丘陵城

お城のデータ 

所在地:蒲生郡日野町中山西谷  map:http://yahoo.jp/F71HYy

現 状:山林

遺 構:廓・土塁・

区 分:丘陵城(関氏の詰め城か?)

築城期:織豊期

築城者:蒲生氏の家臣 関一政?(光明院に蒲生一族の墓石)

遺 構:廓・土塁・切岸

目標地:光明院・中山西会議所

駐車場:中山西会議所に駐車

訪城日:2016.3.28

お城の概要
日野中山西集落の光明院の東側丘陵上(境内か?)綺麗清掃され、今は珍しい半鐘塔が建っている。

その丘陵への登り道を進むと竹藪がある、中でシイタケ栽培をされているが、南側は削り残した土塁・東側を削り込んだ平削地、北側は切岸状で10m×10mの廓が残存する。綺麗清掃され舌城の西側丘陵も城郭遺構か?

また、光明院には「蒲生一族の墓石」が残る。

お城の歴史

蒲生氏郷は、・・・その後は清州会議で優位に立ち、信長の統一事業を引き継いだ羽柴秀吉に従い、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは羽柴秀長の下、峰城をはじめとする滝川一益の北伊勢諸城の攻略にあたった。戦後、亀山城を与えられるが、氏郷自身は入城せず、家臣の関盛信を置いた

蒲生氏の家臣 関一政 (?~1625年)

 関盛信の子。天正十年末、蒲生氏郷は布施忠兵衛に嫁いでいた妹を離縁させ、関一政に嫁がせた。天正十一年、伊勢亀山城主。天正十二年、織田信雄と戦う。同年、蒲生氏郷から一万石を賜る。天正十八年、韮山城攻めに参加。同年十月、白河城四万八千石。文禄四年、豊臣秀吉から蒲生秀行の補佐を命じられる。慶長三年、蒲生家から独立し、信州川中島三万石。慶長五年、関ヶ原合戦で西軍に属し、竹中重門と共に東軍の犬山城を攻める。竹中重門が東軍に寝返る際、その説得を受けて共に寝返る。慶長十五年七月、伯耆黒坂五万石。慶長十九年、大坂冬の陣に参戦。家臣同士の争いが起きた事から改易される。寛永二年十月二十日没。甥氏盛が跡を継ぐ

 関氏盛 (?~1674年)

   関盛吉の子。伯父一政の跡を継ぐ。安芸守。近江蒲生郡五千石。幕府寄合衆となる

廓内に墓石


中山西集落

光明院参道

蒲生氏の墓石

参考資料:光明院説明板、蒲生氏の家臣団

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御師尻(おしがしり)屋敷(御師尻館)   近江国(日野)

2016年03月29日 | 居館

城のデータ

所在地:蒲生郡日野町鎌掛 map:http://yahoo.jp/p6omGx

現 状:田地

区 分:居館

築城期:室町期?

築城者:

遺 構:

標 高:139m 比高差:ー

目標地:日吉神社

駐車場:鎌掛・日吉神社に駐車

訪城日:2016.3.28

お城の概要

御師尻(おしがしり)屋敷(御師尻館)は、詳細不明。

日野 鎌掛村の、御代参街道(江戸期に整備=東海道と中仙道を結ぶ間道)沿いにあった。今は圃場整備で遺構は消失したが。

 春日野局も伊勢神宮に詣でて、御代参街道を通り八日市村で宿し、江戸城へ上がったと記録が残る。

 御師(おし)は、全国あちこちの大きな寺社にいるが、御師(オンシ)と言えば伊勢神宮の下級神職。太夫とも言う。下級と入っても全盛時代には伊勢の宇治(内宮)と山田(外宮)で1,000軒あったと言う説もあるくらい数が多く、規模もさまざまであった。
 仕事は祈祷の委託や参拝者の宿泊、案内を業とし、地方の檀家に御祓、伊勢暦、また土産物を配り初穂料を頂き、また伊勢参拝を勧誘した。つまり今の旅行代理店、ホテル、そして伊勢神宮出張所を兼務したものと考えて頂くとよい。御師は地方では丁重な待遇をされた。

「これは伊勢の御師で御座る、毎年今時分は、国々旦那廻を致す、当年も廻らうと存ずる、誠に大神宮の御影程有難い事は御座らぬ、斯様に国々廻れば、何方にても御馳走にあふ事で御座る」(狂言『禰宜山伏』)本居宜長記念館HPより

お城の歴史

御師尻(おしがしり)屋敷(御師尻館)の歴史の詳細不明。

 

御代参街道沿い遺跡ウォーカーの比定地街道沿いの地蔵堂

鎌掛の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

鎌掛(かいがけ)は滋賀県蒲生郡日野町にある大字鎌掛。はかつて同区域に存在した鎌掛村(かいがけむら)について

 近江盆地と甲賀郡・伊賀国を結ぶ主要な間道の沿線で、笹尾峠は甲賀郡土山へ抜ける重要な峠であった。中世には間道を押さえるために蒲生氏が音羽城(のち中野城)の支城として鎌掛城(貝掛城)を築いた。 近世になると間道は御代参街道(土山~五箇荘・小幡)として整備され、鎌掛は八日市村(現:東近江氏八日市地区)・岡本村(現:東近江市蒲生岡本町)・石原村(現:日野町石原)とともに脇宿に指定され、発展した。宿場町であると同時に、近江商人として成功を収める村民も多かった。1787年(天明7年)時点で、日野商人の大当番仲間(現代でいう商業組合)に加入する村民が20人おり、いずれも関東地方に出店していた。1868年(慶応4年)の村の明細帳には、114人の村人が関東地方の出店へ奉公人として働きに出ていたと記録されている。

 江戸時代には、初期は幕府領、1627年(寛永4年)から伊予松山藩領、1933年(寛永10年)から再び幕府領、1680年(延宝8年)から甲斐甲府藩領、のち再び幕府領、1711年(正徳元年)から遠江掛川藩領、1746年(延享3年)から再び幕府領、1763年(宝暦13年)から陸奥棚倉藩小笠原氏領、1817年(文化14年)から棚倉藩井上氏領、1836年(天保7年)から上野館林藩領、1845年(弘化2年)から棚倉藩松井松平氏領、1866年(慶応2年)から幕末まで武蔵川越藩領であった。1868年(慶応4年)には一時的に西大路藩の預地となっている。1846年(弘化3年)には館林藩井上氏の移封を不服とし、鎌掛村を含む13か村の領民総代が幕府老中に駕籠訴を起こしている。寛永石高帳の記録では鎌掛村の石高は1403石余。慶安2年の記録では田1015石余、畑・屋敷206石余、永荒182石余。天保郷帳の記録では石高1634石余。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1、遺跡ウォーカー、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、本居宜長記念館HP

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西大路館  近江国(日野)

2016年03月29日 | 居館

お城のデータ

所在地:蒲生郡日野町村井 map:http://yahoo.jp/p6omGx

現 状:畑地・竹藪

区 分:居館

築城期:織豊期

築城者:藤岡才六

遺 構:土塁・土壇・屋敷割・堀

標 高:139m 比高差:ー

目標地:滝の宮神社・佐川印刷の寮

駐車場:佐川印刷の寮の近くに駐車

訪城日:2016.3.28

お城の概要

仁正寺庁の西約500m西、往古日野川に突き出した河川岸に位置する。

現状は畑地・梅林・竹藪をなり、基壇や廓割が残るが、詳細は不明。

お城の歴史

 大永3年(1523)蒲生氏が日野の地に日野を築城した。賢秀の代に織田信長の臣下となった。天正12年(1584)蒲生氏郷は伊勢国松ヶ島12万石に移封し、その後田中吉政、長束正家と城代が入り、慶長5年(1600)関ヶ原の戦い以降廃城となった。

元和6年(1620)市橋長政が越後国三条より2万石で入封し、日野城(中野城)の一部に陣屋を構えた。元和8年(1622)、長吉に2千石分知し、慶安元年(1648)、市橋政信の弟政直に1千石分知し、1万7千石となった。文久2年(1862)仁正寺を西大路藩に改称した。

以降江戸時代を通じて、市塙氏は日野を離れる事もなく10代長和の代に明治維新を迎えた。

詳細不明だが、福円畑地蔵尊は、関ケ原の合戦(1600)の頃、この地住んでいた藤岡五郎平家初代佐右衛門宋悦翁「医者」の子 才六は百姓となり、尼寺「福円庵」の屋敷跡が荒廃していたのを譲り受け開墾していたところ、石地蔵を掘り出し畑の付近お堂を建てお祀った。才六は市橋氏が仁正寺藩主となって2年後元和6年他界した。

参考資料:遺跡ウォーカー、滋賀県中世城郭分布調査1、「日本城郭体系」11,ウィキペディア

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長久寺陣所    近江国(彦根)

2016年03月29日 | 陣城

千鳥ヶ丘公園に立つ駒札

お城のデータ

所在地:彦根市後三条町  map:http://yahoo.jp/4a7KTb

現 状:寺院

区 分:陣所

築城期:織豊期

陣 主:徳川家康

遺 構:

目標地:長久寺

駐車場:長久寺の駐車場

訪城日:2016.2.28

お城の概要

長久寺は、彦根市後三条町の北東部、壷笠山(平田山)の舌状先端部の山麓にある。

長久寺の南の平田山の舌状先端部には、古墳跡がありその上に【見晴らし台】ある。佐和山城を北に望む好位置にある。

 

 本堂は井伊家家老の庵原主税助朝真の寄進により再建されました。その意匠は桃山時代の気風をもち、小規模ながら均整のとれた建物です。真言宗の寺院で、寺宝に、井伊家より拝領のお菊の皿があります。

 

長久寺概要: 長久寺の創建は長久2年(1041)、勅願により善応(高野山の学僧)が開いたのが始まりと伝えられています。後三条天皇の帰依や真言密教の道場として寺運が隆盛し最盛期には現在の彦根市の半分の寺領を領し湖東三山(百済寺・金剛寺・西明寺)や比叡山延暦寺とも同等の勢力を持っていたそうです。永平7年(1510)の六角・京極氏、元亀2年(1571)の織田信長の兵火により多くの堂宇が焼失し衰退します。江戸時代に入りると彦根藩主から庇護され再興、寛永6年(1629)には彦根藩家老庵原主税助朝真により本堂(観音堂:入母屋、銅板葺、元茅葺、桁行3間、梁間3間、向拝1間、滋賀県指定文化財)が造営されています。

又、寺宝として「番町皿屋敷」のお菊が所有していたと伝わる6枚の皿とお菊慰霊供養寄進帳を所蔵しています。

お城の歴史 佐和山城攻めの時の家康本陣

 

 関ヶ原で三成ら西軍を粉砕した家康は、その足で佐和山へと軍を進た。三成は戻っておらず、三成の父や兄が二千八百の兵が籠ったていた

 徳川家康は軍を三つに分け佐和山へと進撃を命じた。一番隊は小早川・田中・福島・藤堂・池田・脇坂・小川・朽木ら(これは前日に進発)、二番は細川・黒田、三番は堀尾・浅野、四番は井伊・石川らといった順で進発した面々が三方に別れて進撃する。翌十七日に佐和山北東麓の鳥居本に到着して攻撃部署を定め、篝尾(かがりお)へは小早川・脇坂・朽木・小川と美濃勢など、水之手口へは田中・宮部(長熙)らと決まった。

 家康は近くの平田山(長久寺)に本陣を置いて軍を指揮、さっそく各隊は佐和山城へと向かい、正午頃には城を包囲する。真っ先に攻め寄せたのは小早川隊の先鋒・平岡頼勝。

平田山

千鳥ヶ丘公園に立つ駒札

 

長久寺から見晴らし台へ 

見晴らし台金亀山(彦根城) 

佐和山城里根城

本陣の置かれた【長久寺】


「番町皿屋敷」のお菊が所有していたと伝わる6枚の皿

参考資料:関ケ原の戦い

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西円寺砦  近江国(近江)

2016年03月28日 | 

お城のデータ

所在地:米原市(旧坂田郡近江町)西円寺 map:http://yahoo.jp/48imAY

区 分:平山城

現 状:山林・山頂

築城期:室町期

築城者:今井氏

遺 構:土塁、空堀

標 高:190m  比高差:80m

城 域:東西100m×南北300m

駐車場:西円寺駐車場

訪城日:2016.3.27

 

お城の概要

「淡海のお城」には竪堀などの遺構が残っていることが記載されているので、南側のピーク一帯(西円寺の裏手の山)が城域である。

西円寺の南西に張り出た尾根から登ると楽に主尾根筋に出られる。

 京極氏、浅井氏に従った箕浦城を本拠とする今井氏の砦とされます。今井氏菩提寺の黄檗宗西円寺の裏山一帯が砦址と推測されます。

西円寺地区の八幡神社境内横の山道から直登すると砦の北端。

道は途中でなくなるが、ら直登する岩場があり、この岩場を利用して砦を造ることも可能。尾根にでると南北に走る尾根道があり、北へ(右手)の道を辿る。この間、削平地らしきところが幾つかあるが、遺構は見られないまま、北側ピーク(丸山)に着く、北側斜面を降りる。斜面は急であるが、あちこちにこのルートでは砦の北端。
堀切?

現在は、西円寺地区にある八幡神社・西円寺館と南の山を越した米原高等学校を結ぶ道が通っています。切通しとなっていて、堀切のようにも見えます。

土塁の上から西円寺

集落奥の奇抜な山門のある黄檗宗西円寺周辺が舘跡とみられ、その背後の山や寺の東西に張り出す尾根に構えられたのが砦と思われる。
しかし、東西に張り出た尾根を除き、山上に山城らしき遺構は見当たらない。
中世城郭分布調査の城郭分布図に西円寺砦と示される寺の西189.7mの山頂まで登ったが、頂上や尾根上には城郭遺構らしきものは見つからなかった。強いて上げれば堀切?(切り通し)が2ヶ所と頂部から南に下った東斜面に畝状竪堀らしきものが見られたが、遺構ではないように思われる。

お城の歴史

『佐々木南北諸氏帳』には、「坂田郡 西園寺大谷 住 今井備前守 ・住 今井駿河守 ・住 今井権平」と記す。

『淡海木間攫』には、西園寺村 「当所二古ノ城塁跡残レリ、是箕浦ニ居住セシ今井肥後守頼弘ノ末子今井権六住スル所ナリ、故アッテ父及家嫡ノ者劒ニ伏テ死ス、ソノ事新庄ノ部ニ載スルヲ以テ略ス、其時父ノ棒禄三分一ヲ以テ末子権六ニ与ヘ居住ノ地ヲカヘラレ、其替地ナリト見ユ、件ノ権六後孫ハ今ハ垣籠村ノ医師ト成テ居住ス」と記す

 西円寺の一帯は、京極氏根本被官であった今井氏の奥城跡で菩提寺でもある。境内の南西に張り出した舌状尾根に今井権六三代の墓が残されている。
今井氏14代今井権六秀俊は享禄元年(1528)の内保河原の戦いで六角方が敗れたため、浅井方に従ったが天文2年(1533)に浅井亮政に進退を疑われ神照寺で切腹させられた。
15代今井権六備中守定清は浅井方に属し、永禄4年(1561)太尾山城の夜襲で敵と見誤った味方の槍で背後から刺されて討死し、また、子の今井権六丸(秀形)は秀吉に従っていたが天正11年(1583)に伊勢にて討死し、この三代が菩提寺である西円寺に葬られたとされる。

西円寺館

 

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』6「旧坂田郡の城 1989.3)、 淡海の城、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

      本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


佐和山城跡伝本丸における範囲確認調査現地説明会

2016年03月28日 | 山城

石垣が破壊され山肌と小石が散らばる佐和山城本丸の発掘現場 

『佐和山城跡伝本丸における範囲確認調査現地説明会』

開催要項 ■ 開催主旨

 彦根市には豊かな文化財が残り、それぞれが個性的で興味深い歴史を刻んでいます。市域北部には、中世から近世を代表する城郭遺跡である佐和山城跡と彦根城跡が存在し、それらは旧城・新城の関係で歴史的連続性を有しており密接な関係にあることから、本来一体の重要遺跡と考えることができます。

 このように、彦根を代表する二つの城郭遺跡ですが、現在の彦根の市街地形成のきっかけでもある彦根城跡は国の特別史跡に指定されており、大切に保護されている一方、彦根城の前身の城郭である佐和山城跡については、現地に良好な遺構が残っているにも関わらず未指定の遺跡となっております。

このような状況を踏まえ、彦根市教育委員会では佐和山城跡を特別史跡彦根城跡に関連する重要遺跡と位置付け、将来の史跡指定を視野に入れつつ、その歴史的重要性を探るべく平成 23 年度より佐和山城跡の総合調査を実施しております。
それらの総合調査の一環としまして、範囲確認(発掘)調査を進めております伝本丸の調査成果に関しまして、下記のとおり、発掘現場の現地説明会を開催することとします。 
■ 開催日   平成 28年3月 27 日(日) 午前 10 時 00 分から正午まで

■ 集合場所   龍潭寺前

■ 内容   文化財課の発掘調査を担当している学芸員が、 調査地周辺の概要と発掘調査成果をわかりや すく説明します。

■ 申込み 不要 ■ 参加費 無料

■ 募集対象   佐和山城跡に興味・関心のある方。ただし、小学生以下は保護者同伴。

現場および現場内は山中であるため、危険箇所も多々ありますが、各自で注意してご来場下 さい。

佐和山城跡全体は個人所有であり、所有者のご厚意により、調査および見学会を実施。

説明に参加しました。

切通(かもう坂通り往還)

塩硝櫓西の丸

西の丸と本丸間の堀切

本丸

角石垣

説明会の順番待ち

石垣が破壊され山肌と小石が散らばる佐和山城本丸の発掘現場

≪今回の調査でわかったこと≫

1.伝本丸における破城の状況の確認

石垣が崩された。

 ・石垣用の石材なし(彦根城へ石垣に転用・搬出)、石垣の裏詰め小石出土(佐和山の石・河原石少量)

 ・伝本丸の曲廓面が削られた。破城に伴い徹底的に削られたようだ。

 ・石垣の跡地が埋められた、本丸を削って大量の土砂で埋められた。深さ2.8mのところもある。


痕跡一掃、居城「見せしめ」破壊…発掘で裏付け(毎日新聞)

 滋賀県彦根市教委は24日、戦国武将・石田三成が居城としていた同市の「佐和山城」跡で、城を破壊する「城割り」の痕跡が確認されたと発表した。関ケ原の戦い(1600年)で三成が敗れた後、徳川家康方が「見せしめ」として徹底的に壊したとみられる

 佐和山城は佐和山(233メートル)に築かれた山城。三成は1590年に城主となり、5層の天守を構えたとされる。関ケ原の戦いの後、家康の家臣・井伊直政が入城したが、近くに彦根城を築いたことに伴い、1606年に廃城となった。

 

本丸絵図

西の丸(塩櫓)

発掘調査跡http://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/4f3f4fbd6d13553c0fd19a9e9aad837b


帰りに雑兵に遭遇

石田氏家臣墓石群

観音堂の石垣

仏足石

石田三成公

観音堂の門龍潭寺の門

ボンネットバス

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馬場城  近江国(長浜)

2016年03月28日 | 居館

お城のデータ

所在地:長浜市新庄馬場町 map:http://yahoo.jp/zBFhHQ

現 状:寺院・集落

区 分:居館

築城期:室町期

築城者:馬場氏

遺 構:土塁・堀

標 高:98m 比高差:ー

目標地:誓傳寺・新庄馬場会館

駐車場:新庄馬場会館駐車場

訪城日:2016.3.20

 

お城の概要

集落の北橋に流れる川寄川は新庄村と新庄中村の境をなし、北方には誓傳寺・浄覚寺、西方には福永荘の総社であった八坂神社や新庄馬場廃寺跡がある。西端の竹藪の中にある小池は屋敷庭の一部と伝え、さらにその西には御池と称す字名の残る。

馬場城は、新庄馬場地区の中心部にある誓傳寺・浄覚寺の境内を中心とする一帯に築かれていたと比定地。

 馬場会館から誓傳寺にかけて流れる用水路は、往時の堀の跡か。

お城の歴史

『江州佐々木南北諸氏帳』には、「坂田郡 馬場 住 馬場清太夫」の名を記す。

  馬場城は、築城年代や築城者など詳細不明。

 

滋賀県中世城郭分布調査報告書には

誓傳寺の寺伝には、治承年間には福永重正が牛頭天の神体を作ったとあり、当地は福永荘の荘官館が考えられるが。

江州佐々木南北諸氏帳に見る「馬場清太夫」明応ニ年の総持寺文書に見える馬場頼秀など室町期には、馬場氏が居住した。

また天文五年の伊夫岐神社奉加帳には宇野弥五郎の名も見え、総社八坂神社には藤原出雲守なる人物がいて永正元年に相撲平八郎為則が同社を再建したと伝う。 

新庄馬場会館に駐車

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、江州佐々木南北諸氏帳

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高田館(渡辺氏館)  近江国(湖北)

2016年03月27日 | 居館

お城のデータ

所在地:長浜市湖北高田町  map:http://yahoo.jp/-HAvg3

別 称:渡辺氏館

現 状:宅地・畑地

区 分:居館

築城期:室町期?

築城者:渡辺氏

遺 構:土塁・堀

目標地:兵主神社

駐車場:兵主神社前空地

訪城日:2016.3.20

お城の概要

 高田館は高田集落の南にある兵主神社の北側にある畑地・宅地一帯であった。「滋賀県中世城館調査報告」によれば、「現当主は十四代目に辺り…」とあるので現在も子孫の方が住んでいるのだろう。

宅地なので道路から見るだけだが、土塁の上に祀られているのが八幡様であろうか。左から手前に掛けて堀が回っているようである。

お城の歴史

 築城年代は定かではないが。

赤田渡辺氏

嵯峨源氏渡辺綱の子孫と伝えられている。
 渡辺綱は嵯峨天皇の皇子源融の後裔で、摂津国西成郡渡辺村に移って渡辺を称するようになった。多田源氏源頼光に仕えて四天王の一人近江に土着 等の四男七郎備は越後から近江に移り、その子左衛門尉栄(さこう)は犬上郡曾我村に居を構えたという。『『尊卑文脈』には向の赤田孫肥後守高までが記されている。高のあと、記録によれば衒・滋・輝とつづいて赤田隼人正隆(たこう)に至った。隼人正隆はなかなかの人物で、永正年間(1504~20)に一族・家臣を引き連れて八町村に移り住み、八町城を築き、小さいながらも犬上郡の一角に勢力を張ったのである。
 隆は江北の戦国大名に成長した浅井氏に従い、江南の佐々木六角氏との戦いに身をおいた。その一方で、領内の水利をはかり、橋を架け、道を開くなどして領民から敬い親しまれていた。そして、六十一歳のとき常禅寺を建立し、家督を嫡男の興に譲ると禅三昧の生活に入り、弘治元年(1555)に世を去った。
 信濃守興も浅井氏に属して六角氏と対峙、永禄十一年(1568)、神崎郡位田の戦いで戦死した

やがて、尾張の織田信長が上洛の軍を起こすと、浅井長政は信長と結び、対する六角氏は没落した。その後、信長の朝倉攻めをきっかけに、長政は信長と袂を分かって敵対関係になった。
 元亀二年(1570)、織田信長と浅井長政・朝倉連合軍とが姉川で戦ったとき、信濃守姓は浅井方の部将として参戦、抜群の活躍を示した。姉川の戦いに敗れた浅井氏は、天正元年(1573)、織田軍の攻撃を受けて小谷城で滅亡した。渡辺氏も小谷城の戦に加わり、浅井氏と没落を共にした。

 その後、豊臣秀吉が天下を統一すると、姓の子堅が五千石をもって秀吉に召し抱えられた。そのとき、秀吉は姉川の合戦における渡辺姓の奮戦振りを物語ったという。かくして再興なった渡辺氏だが、文禄二年(1593)堅が死去、残された子達は幼かったため所領没収、一族離散の憂き目となった。
 慶長五年(1600)、関ヶ原の合戦が起こると堅の子虎之介は、赤田氏再興を図って西軍に属して力戦したが、合戦は西軍の敗北に終わり渡辺氏の再興は頓挫した。その後、野に下った虎之介は、家の再興を願って藤淵に身を投じ、龍神になったと伝えられている。
 いまも、赤田氏の故地である犬上郡の曽我・八町などには、村岸・成宮・田部・藤野氏など赤田氏の一族を称する家が繁栄している

堀に囲まれた「土壇の祠」

兵主神社側から

現・渡辺家

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、武家と家紋

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大寺城 近江国(虎姫)

2016年03月26日 | 平城

お城のデータ

所在地:長浜市(旧東浅井郡虎姫町)大寺町 map:http://yahoo.jp/EAGZLk

現 状:畑地・竹藪

区 分:平城

築城期:

築城者:大寺氏か?

遺 構:低土塁・堀痕か?

標 高:92m   比高差:ー

目標地:真證寺

駐車場:真證寺に駐車

訪城日:2016.3.20

お城の概要

大字大寺小字的場の通称「きつね藪」と称す地がある土塁状の遺構を指す。土塁は南北約20mで土塁状には、五輪塔の残欠等石造物が数基置かれている。地元では、この藪に狐が住んでいたとの伝承あるが、城館の伝承はないが・・・?

しかし、吉田勝氏は、当地を大寺氏の館跡であると推定している「近江の城」・・(聞き取り協力者:安藤寿貞次氏)

「滋賀県中世城郭分布調査」解説されている。

大寺城は、JR虎姫駅の北約200mの真證寺の南にある民家に脇に「きつね薮」と呼ばれる土塁遺構が残る。

近年新道路が通り、道路から「きつね薮」も畑の土塁の確認できる。

畑となっている部分もあり、、その外側にも低い土塁状の地形があり、間は少し凹ん(堀痕か?)でいる。

お城の歴史

詳細不明。大寺氏の居城か?。

真證寺

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査

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南速水城(伯母屋敷) 近江国(湖北)

2016年03月25日 | 平城


お城のデータ

所在地:長浜市(旧東浅井郡)湖北町南速水 map:http://yahoo.jp/fqYU0K

別 名:伯母屋敷

区 分:平城

現 状:宅地・竹藪

築城期:

築城者:

遺 構:土塁、横堀、

標 高:93m  比高差:ー

目標地:熊野神社

駐車場:路上駐車

訪城日:2016.3.20

お城の概要

南速水城は南速水集落の北側に遺構が残る。熊野神社から少し東へ進み集落の東端付近に北側に無線塔が建っている。この西側の竹藪の中に土塁の遺構が残存する。

集落の北側に東から西に字伯母屋敷は竹藪、奥屋敷は畑、北屋敷は明善寺が並び、

伯母屋敷には、今も土塁と堀が残り、複数の土塁囲いの屋敷跡の存在する。群郭式平地城館であった。竹藪の中に残る土塁や堀は明瞭である

「滋賀県中世城館調査報告」によれば北東隅部と思われるL字の土塁が二つ、北西隅部と思われるL字の土塁が一つあり、少なくとも三つの区画があったことが確認できる。

お城の歴史

『江州佐々木南北諸氏帳』には、浅井郡 速水 住 佐々木隋兵山本源氏 速水右馬介 速水冠者頼信ヲ元祖トス

                   速水 住 渡辺勘兵衛   同 渡辺甚介

                   速水 住 今井林右衛門       と記す。

渡辺勘兵衛 (石田家臣)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
渡辺 勘兵衛(わたなべ かんべえ)は、石田氏の家臣。別名で新之丞(しんのじょう)とも書かれ、こちらの表記で書かれることが多い。『佐和山落城記』に、石田三成に付き従った家臣の一人としてその名が見られる。

南速水集落には、小字「伯母屋敷」、「奥屋敷」、「北屋敷」といった地名があり、このうち「伯母屋敷」は石田三成の伯母の屋敷跡とか。

奥屋敷

伯母屋敷

北屋敷 

伯母屋敷南速水城・・・遠景

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査「伊香郡・東浅井郡の城」、『ウィキペディア(Wikipedia)』

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須賀谷館    近江国(浅井)

2016年03月25日 | 居館

片桐市正ハ賤ヶ岳七本槍ノ一人ナリ、英雄ノ名ヲ得タル人ニテ

お城のデータ

所在地:長浜市(旧:東浅井郡浅井町)須賀谷町 map;http://yahoo.jp/WtDg-O
区 分:居館
現 状;山林
 
築城期:織豊期

築城者:片桐直貞
標 高:140m 比高差:20m
遺 構:郭・(石垣)・石碑・説明板

目標地:須賀谷温泉
駐車場:須賀谷温泉の奥の神社前空地駐車

訪城日:2016.3.20


お城の概要

小谷城主浅井久政の時代には、この一帯に家臣屋敷が造営され、鷹が巣を作る岩があったことから「巣ケ谷」と呼んだ。「巣ヶ谷」が「須賀谷」へ。

小谷城の南の麓に位置し、須賀谷温泉から上の斜面に郭跡らしき削平地が何段かある。浅井氏の家臣団の居館があったようで、その一角に片桐氏の須賀谷館があり、石碑が建つ。

観音堂は小谷城落城に際し、館の南側には小谷城の守り本尊観音像を移して祀ったとされ、その観音堂の石垣が残る。

お城の歴史

『淡海国木間攫』には、巣ヶ谷村「浅井家小谷山ニ城ヲ築、此地ヲ家士屋敷地トス、往古ヨリ片桐氏居セリ、浅井家士片桐孫右衛門ト云人、此谷ニ鷹ノ巣ヲ懸ル岩アル故。苗字ヲ巣ヶ谷ト改シ由、此人片桐市正カ親ナリト云、今樽片桐ノ末葉此村ニ住ス、即村役人庄屋作左衛門是ナリ、彼カ家ニ浅井城門ノ扉今ニ所持セリト云、鷹ノ巣ヲ懸シ岩、今ニ小谷ノ城京極丸ノ東谷ニ有ト云、

片桐下総守ハ義政将軍ノ直参ニテ、嘉尚卿御任官ノ時ノ役人ナリ、同備後守寛光・同備中守実方・同土佐守実貞・同若狭守実時何レモ記ニ出ス、同市正ハ賤ヶ岳七本槍ノ一人ナリ、英雄ノ名ヲ得タル人ニテ、世上専賞誉セリ」と記す。

片桐氏は信州伊那谷の名族片桐氏の一族。須賀谷館は、戦代に片桐直貞によって築かれた。 

片桐直貞は、信濃伊那谷の船山城主であった片桐氏の一族で、浅井氏仕えた。 直貞の子、且元は秀吉に仕え茨木城主となり、関ヶ原の役後は豊臣家家老職を務めた。 且元弟貞隆は、大和小泉で1万石を領して明治まで続いている。

 片桐孫右衛門(且元の父)も居住。 片桐且元は弘治二年(1556年)に生まれ、羽柴(豊臣)秀吉に小姓をとして仕え、その後、天正十一年(1583年)の賤ケ岳の戦いでは七本槍に数えられます。<現地案内板より> 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査

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東出館 近江国(浅井)

2016年03月25日 | 居館

お城のデータ

所在地:長浜市(旧東浅井郡浅井町)内保町東出  map:http://yahoo.jp/2WMS8T

区分 :居館

現 状:宅地・寺院

築城期:

築城者:

標 高:106m  比高差:-

目標地:内保農政会館・成満寺

駐車場:内保農政会館

訪城日:2016.3.20

お城の概要

 内保集落の小字東出が比定地。そこに成満寺と誓順寺があるが。東出は草野川の北西岸で両寺は東西に並んで建っている。

 成満寺の本堂裏には南北に58mの土塁痕と、その外側に平行して溝(堀)が確認できる。この土塁の上部がかなり削られていて、南部は平地と化している。石碑の建っている北端(道路添い)は寺庭の築山を兼用している高さは1m程あり、外周に堀が有ったようだ。

 誓順寺は成満寺の東に接しているが、明治期の地籍図によれば、成満寺付近に鍜状の藪地がみえ、残存する土塁の南北両端から西に伸びている。しかも、南面ののものは寺城方向にL字状に折れており、屋敷地の正面でった可能性が有る。尚、誓順寺の敷地付近には遺構らしきのもはないが、土塁で囲まれた敷地とほぼ同規模で四方に堀のある一角が見える。

お城の歴史

城郭歴史の築城期や築城者・領主など詳細不明。

 織豊期は、浅井長政の領地であったことから浅井氏の隋兵の居館か?

『江州佐々木南北諸氏帳』には、「浅井郡 内保 」の記録はある。

内保集落の西出には、城郭化した寺院で、戦国期の湖北(湖北10ヶ寺)の一向宗の中心寺院一つ誓願寺(内保城)が存在し、成満寺・誓順寺の付近には僧坊や在地豪族の屋形群あったか?。

道路から土塁

成満寺の庭園

成満寺

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査「伊香郡・東浅井郡の城」

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