城郭探訪

yamaziro

平田山城(雨壺山城・徳川家康陣城) 近江国(彦根)

2015年11月30日 | 戦国山城

11/29月(現地見学会/特別研修会)

地元の人にも知られず、訪城されていない穴場の城

お城のデータ

 所在地::彦根市山之脇町・芹川町・和田町・岡町(雨壷山) map:http://yahoo.jp/TzGG6b

別  名:雨壺山城

現  状::山林・千鳥ヶ丘公園

遺  構:曲輪・土塁・虎口・竪堀・横矢・塹壕・石積

 区 分::平山城 137.3m  比高差:25m(千鳥が丘公園より)

築城期 :室町期

歴代城主:平田宗左衛門高慶、徳川家康陣主

目標地:新神社・千鳥ヶ丘公園無料駐車場

 駐車場: 千鳥ヶ丘公園無料駐車場

 訪城日:2013.3.13・.215.11.29

平田山城


千鳥ヶ丘公園に立つ駒札
歴 史

応仁の乱の騒乱の中でも平田山が軍事拠点として使われていたとも伝えられていますので、実は彦根市内でも古いタイプの山城形式をもった平山城だったのかもしれません戦国時代は、領主平田氏の城であった

『肥田城と水攻め』の話で登場しました六角義賢の父親・六角定頼が上坂景宗と対陣した時に平田山を中心に矢を射ち合う“矢戦”が行われて、「江北軍(上坂軍)・磯野源三郎為員の軍勢、が江南軍(六角軍)・吉田安芸守定雄の軍勢と戦った結果、磯野為員が耐え切れずに退却した」という記録が残っています。六角定頼が当主になった永正15年(1518)から磯野為員が山本山で戦死する天文元年(1532)の間である事は間違いありませんので戦国時代前半には城として戦略拠点になっていた。


元亀佐和山城は8ヶ月間と籠城戦が長い

元亀元年(1570)に織田信長が磯野為員の甥・磯野員昌が守る佐和山城を攻めた時には、水野信元(徳川家康の伯父)が平田山城に軍を置いて佐和山城を囲む一端を担っていた。

 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの直後に行われた佐和山城攻めも、平田山に徳川家康、井伊直政の本陣もおかれました。家康の本陣が置かれ、家康はここから佐和山城が落城する様子を眺め、戦いが終わった後に麓の長久寺で休息しました。

江戸時代になると平田山城跡は井伊家の狩場となっていました。七代藩主・井伊直惟は特に好んで鷹狩を楽しんでいたそうです。

現在、城跡は千鳥ヶ丘公園として整備されている所もありますが、山の中に入って行くと、土塁や曲輪の跡、そして石垣(近世のもの)も残っています。この石垣が近世の物ですが興味が引かれる遺構の一つです。

山城攻めの時には城としての機能がどれほど残っていたのかははっきりしませんが、彦根市内の戦いでは絶対に必要となる城。

  • 城攻めには、
  • A「仕寄」=接近包囲 包囲殲滅 
  • B「遠巻」=遠方包囲 糧道封鎖  の二種類攻城戦にあります。

山頂から佐和山や彦根山※が一望できます。」とあるが、今は、千鳥が丘公園の東尾根頂の古墳上の「展望台から」

※彦根山は、彦根城が立つ山で、別名:金亀山(こんきさん)(彦根城築城以前は金亀寺が建っていた)

 彦根古図略図

  

 戦国時代後期に佐々木六角と江北軍合戦の舞台として史実に登場、以降佐和山城に対する争奪戦の舞台の一部となる。

平田山城新規巨大詳細図面発表

先ずは、千鳥が丘公園散策~見晴らし台から彦根佐和山城・彦根城・里根城・彦根市内の眺望

公園の見晴らし台

織田信長の佐和山包囲網

 元亀元年(1570)に織田信長は浅井長政の重臣磯野員昌が籠る佐和山城を攻囲しているが、そのときに織田勢は佐和山城を四方から囲むように陣城を構えている。北の山(物生山城)に市橋長利、西の彦根山or尾末山に河尻秀隆、東の丸山砦(百々屋敷の詰め城)に丹羽長秀、そして南の山(里根山城)には水野信元が布陣した。

西の城(金亀山=彦根城or尾末山)

佐和山城

南の城(里根城=彦根カントリークラブ)

北の城(物生山城) 物生山城出丸(松原内湖遺構)、東の城(丸山砦…百々屋敷城)

 徳川家康 没後400年 本格城郭見学会 

特別企画 アフター関ヶ原合戦 彦根平田山城(徳川家康陣) 奇跡の復活

 

 

 ここから【平田山城(雨坪山城)】

石碑に社地=新神社の鎮守の森弓座&銃座

主郭下の土留め石積み(後世のもの)

頂部の主郭

主郭中央に円石柱で円形に日露戦争の忠魂施設(何故か破壊されている)日露戦争の忠魂墓

参加者の記念撮影大手の家臣団の曲郭割

 

平田山城新規巨大詳細図面発表

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、平田山城見学会資料

11月29日(日)30()

集合場所:彦根市平田町の信号雨壺山旧彦根市火葬場駐車場10時集合

    本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


アフター関ヶ原合戦 彦根平田山城・徳川家康陣城跡

2015年11月30日 | 平城

 

アフター関ヶ原合戦 彦根平田山城・徳川家康陣城跡

 

平田山城現地城郭見学会 

平田山城見学会 11/29と11/30 同じ内容
午前10時 彦根市平田町信号雨壺山「平田山」 
 
資料に登場する関連人物
 
  1 観音寺 六角定頼
    蒲生郡野寺城主 吉田安芸守 日置流弓術家
 
  2 長浜市高月町出身
    江北一の剛弓、勇将磯野為員(宮澤平八朗)
 
  3 徳川家康と井伊直政の佐和山城攻め本陣
当時1570年の丹羽長秀の鳥居本百々屋敷の城郭図も今回の資料付けます。同年元亀元年の百々屋敷城の私の図面と平田山城の図面を比較しましよう。あっと思うような何か発見があれば水野下野守なる家康の叔父が織田信長に何故殺害されたのか?まあ武田との内通かもしれませんが?
水野下野守が佐和山城を八か月間包囲していた時の城が私が今回計測した平田山城図ならばショツキングな事になります。そりや八か月も包囲していたら、城としてかなり工事が進み、今回の私の図面みたい塹壕「武者隠し」枡形跡などもあり魅力ある城を再認識する契機となるかと、元彦根住民としては幸いかと!

近江佐々木の【観音寺城】の「石垣見える化」

2015年11月30日 | 戦国山城
  • 観音寺城のぼりを立てた城跡の大石垣周辺で、雑木などを片付けるボランティア作業の人たち=近江八幡市
  •   
 

 近江八幡市の観音寺城の大石垣を新幹線から見えるようにしよう、と活動している地元の人たちの集まり「豊かな杜(もり)づくり隊」が29日、城郭跡に続く山道の階段づくりや、石垣を崩す雑木の伐採などの活動を本格的に始めた。

 観音寺城は、近江の守護大名・六角氏の居城で、繖(きぬがさ)山(433メートル)西斜面にあり、今は石垣群が残る。この日集まったのは地元の森林組合や企業など約170人。雰囲気を盛り上げるために用意したホラ貝の音を合図に、3班に分かれて作業を始めた。山道に木を組んで階段をつけたり、石垣の間に根をはる雑木をチェーンソーで切ったりした。また、枯れた倒木を運び出すなどで約3時間。参加者のひとりは「ここまで登ってくるのがひと苦労。そのうえ斜面で足場が悪い」と額の汗を拭いていた。

 毎月1回こうした活動を続け、来春には城郭跡を見て回れるように遊歩道や案内板を整備していく。杜づくり隊隊長の木野和也さん(69)は「こんなに多くの人が参加してくれるとは思ってもいなかった。いろんな人から、いい汗をかいた、楽しかった、などと声をかけてもらい、感無量です」と話した。

朝日新聞 2015.11.30より

新幹線から観音寺城石垣見て 滋賀で住民らが手入れ

 

観音寺城跡の石垣周辺を手入れし、のぼりを立てる参加者ら(近江八幡市安土町石寺)

 滋賀県近江八幡市安土町石寺に残る中世の山城、観音寺城跡の石垣を、近くを走る東海道新幹線の車窓から見えるようにしようと、29日に住民や地元企業の従業員ら約170人が草刈りなどの作業を行った。

 観音寺城は、標高432メートルの繖(きぬがさ)山南西側一帯に築かれた、近江守護・六角氏の居城。安土城以前の城としては例外的に石垣が多用されていて、城跡は国史跡に指定されいている。

 繖山周辺で森林や古道の整備を行う住民グループ「豊かな杜(もり)づくり隊」が、観音寺城を地域の宝として広く知ってもらおうと、城の遺構を巡る登山道や石垣の手入れを呼び掛けた。

 参加者は三つのグループに分かれ、ほら貝の音に合わせて作業を開始。登山道約400メートルでは下草を刈って階段を造った。築城当初の大手門とされる中腹の石垣では、うっそうと茂る雑草や雑木を取り除くと、眼下に新幹線や国道8号が見渡せるようになり、遠くから分かるようのぼりを立てていた。

 同隊代表の木野和也さん(69)は「石垣も道もとても良くなり感無量。皆が熱心に作業してくれて感激した」と話していた。

京都新聞 2015.11.30より


佐久間玄蕃盛政の行市山陣城と前田利家の別所山城の見学会

2015年11月29日 | 陣城

 

佐久間玄蕃盛政の行市山陣城と前田利家の別所山城の見学会

 

 2015/11/28は時雨ました。
少し暗い気分でウッデイパル余呉の森林文化センターに到着すると多数の城郭愛好家様が、東京、愛知、三重、兵庫、大阪、和歌山など次々集合。
 県内は長浜市、彦根市、米原市、東近江市、近江八幡市、大津市から、ぞくぞく到着冬なのに余呉は異様な熱気。
 私達は先ず別所山城と行市山城を濃霧の中を登山して是次々に見学攻略。
行市山頂で講師は立ったまま、賎ヶ岳合戦弁当を食べる。
参加者様の体温を保つ為に早速下山。行市山城、別所山城を再度見学。
 ロープで足場も確保講師は此処で機転の利く中村様に相談。
 徒歩下山しながら橡谷(くぬぎだに)山城、中谷山城などの柴田勝家陣営の陣城も併せて、県内外の人々にスペシャルプライスとして是を付加見学結局は、行市山城、別所山城、橡谷山城、中谷山城などの4城を次々に見学攻略して毛受兄弟の墓も見学する、なんと五段構えの見学33人の陣容で、行市山麓に無事到着。

橡谷(くぬぎたに)山砦 近江国(余呉)

2015年11月29日 | 陣城

賤ヶ岳合戦で柴田方の金森長近の陣城

お城のデータ

城名: 橡谷山(くぬぎたにやま)城

所在地:長浜市余呉町小谷・池原(旧伊香郡余呉町小谷・池原)map:http://yahoo.jp/ioGbEO

現 状: 山林
標 高:368m   比高差:210m

築城期: 織豊期 天正11年(1583)
築城者: 金森長近
守 将:徳山秀現・金森長近

区 分:陣城(砦)
遺 構:土塁・曲郭・軍道、堀切、櫓台、竪堀
訪城日:2015.11.28

お城の概要

 橡谷山砦は行市山から東へ派生した尾根の標高368.4mの山頂一帯に築かれている。 ここで紹介している橡谷山砦は「滋賀県中世城館調査報告」による仮称で、としているので注意要。同書による「中谷山砦」はここから南東の尾根にあり、ここには現地標柱もないため、表記は「滋賀県中世城館調査報告」に従っている。

 橡谷山砦は東西に伸びた尾根の西端と東端に土壇があり、曲輪となっている。 西側の曲輪は薮化して遺構がはっきりしない部分が多い。東の曲輪は先の標柱が建っており、多角形の曲輪で周囲に低い土塁が巡り、西側に大堀切がある。切岸の外側に犬走の通路が設けられ、南に虎口らしき開口部が残る。

歴 史

天正11年(1583年)賎ヶ岳合戦で勝家方の砦として築かれた。 城将は金森長近あるいは原長頼という。

原彦次郎は、織田信長に仕へ越前大野郡に2万石を与えられ、勝家の与力として付属されていたことから、この地に従軍することになった。先鋒及び敗走時には殿を勤めたが、敗戦濃厚となり最後には羽柴秀吉に下ったとされる。
なお、現地標柱は「中ノ谷山砦」となっているが「滋賀県中世城郭分布調査7」では「橡谷山砦(仮称)」とされ、守将を徳山秀現・金森長近としている。

登城案内

余呉町新堂にある毛受兄弟墓より行市山山頂へ登る登山道の途中にある。橡谷山砦の前は「中谷山砦、後は別所山砦の写真を参照。

 

現地標柱は「中ノ谷山砦」となっているが「滋賀県中世城郭分布調査7」では「橡谷山砦」

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査7、城覚フォーラム資料

         本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


別所山砦 近江国(余呉)

2015年11月29日 | 陣城

別所山砦・行市山砦の秘蔵イラスト(講師:城郭研究家の長谷川博美氏)を披露

お城のデータ

 所在地:長浜市(旧伊香郡)余呉町小谷 map:http://yahoo.jp/fRWTcW

区 分:山城(陣城・砦)

標 高:448m   比高差:46m(林道より)

築城期:織豊期(天正11年(1583年)賎ヶ岳合戦)    

築城者:前田利家・利長

初城主:前田利家・利長

遺 構:土塁、空堀、現地説明板

 市指定史跡

訪城日:2015.11.28

林道を標高402mまで、研修会車で

お城の概要

「別所山砦」は行市山山頂から南東へ派生した尾根の頂部、標高447m一帯に築かれている。

 主郭は方形に近い形状で南東隅を入隅にして横矢掛けとしている。 周囲には土塁が巡り、東側と西側に横堀が付いている。南辺中央に土塁の開口部があり、ここが虎口とされる。主郭から東尾根を降ると谷間に土塁が付いた地形が残り、さらに降っていくと大きな堀とそこから南東尾根に伸びる巨大な土塁が付いた堀底道がある。この尾根の下方には山寺山砦があり、そこに繋がっている軍道がある。

歴 史



一説に当所を佐久間盛政の与力、排郷五左衛門の山寺山の陣とする説もあるが、越前府中城主・前田利長の陣所は中谷山砦と著者は軍記類の記述から推測しているが、北国軍の行市連峰の諸将の陣所の記録は、諸書、錯綜しており行市山の他は砦の主を完全に確定が出来ないのが現状であり、従って当陣所城も伝前田利家の陣城と表現したい。

天正11年(1583年)賎ヶ岳合戦で柴田勝家方の砦として築かれた。 城将は前田利家・利長父子あるいは拝郷五左衛門家嘉と伝えられる。

賎ヶ岳合戦のとき、前田利家は能登国小丸山城主、前田利長は越前国府中城主であった。前田父子は賎ヶ岳合戦の最中に戦線を離脱して越前へ引き上げている。拝郷家嘉は加賀国大聖寺城主であった。

前田利家隊に関する良質の史料は無いが、その次に、別所山砦に配置された。『近江輿地志略』この別所山は、かつて万福寺があり、織田信長の浅井氏攻めの際に灰燼に帰したままであったが、整備して城砦を築いた。『戦国佐久間一族』

主郭下の陣小屋

主郭

参加者の集合写真+シャッターマン(小生)

別所山砦に戻り再見学

  

別所山陣城から行市山陣城(遠望)…比高差:200m

 

 林道から20m程下りると、山寺山砦の大土塁遺

 

 

賤ヶ岳合戦

 ようやく春がきた1583年2月末(新暦4月)勝家軍は越前をでる。

 府中(現武生市)城主の前田利家の長男利長を先陣に、勝家の甥佐久間盛政、前田利家らが次々と出陣、勝家も3月9日に北庄をでた。利長ら先発隊は、勝家が近江からのメーン道路として整備した、今庄から現在の北国街道(国道365号線)を通り近江に出る栃木峠から椿坂へ下る道を通ったと見られる。しかしこの年はまだ雪が多く、かき分けながらの道中に苦労したことから、後発隊は木の芽峠から敦賀を通って県境の柳ケ瀬に出る道を通りほぼ同時に着いたと言われる。

 先発隊はいったん木之本まで進出し、周辺や北国街道沿い、さらには関ヶ原まで進出してに火を放った。その後羽柴勢が前進基地の砦を置いた天神山を囲むため戻り、結局余呉湖の北側、北国街道の西側の山々に陣を敷いた。

 柴田の近江侵入を聞き秀吉は伊勢攻めの兵力の大半を近江に向かわせる。佐和山を経て、17日には勝家勢の退いた木之本まで進出。弟秀長が木之本に近い田上山に羽柴秀長、さらに柳ケ瀬に近い中ノ郷を見下ろす左祢山に掘秀政を置き、北国街道の東側を押さえた。木之本北側の賤ヶ岳、余呉湖に中川清秀、高山右近らの兵を置き、余呉湖の北の天神山に木村隼人正の陣を置いた。

 

 ~前田利家の背反~

 佐久間盛政の深追いによって佐久間(鬼の玄蕃)隊が賤ヶ岳に破れ、本陣(行市山)へ戻るところ、もしくは、権現坂砦で防御を試みるところを秀吉隊が追撃するに至り、茂山砦にあった利家は、その陣地を放棄して移動を開始した。

 それは、佐久間隊の背後を遮って、峰越えに移り、塩津谷に下り、敦賀方面へ脱出したのだという(『江州余吾庄合戦覚書』)。
また、塩津越えをして匹田に出て、木ノ目峠を経て府中城に逃れたともいう(『加賀藩歴譜』)。

 この退却の際に、小塚藤右衛門、木村三蔵ら5、6名が討死した(『村井重頼覚書』)。
横山長隆、富田景勝らの譜代衆、殿軍を受け持った長連竜も戦死したという(『三州志』『北藩秘鑑』)から、相当な激戦であったとも思われるし、利家自身にも危険が及んだものと推察される(岩沢愿彦氏)。

 この前田隊の退却は、佐久間隊からは後陣の崩れに見え、後陣からは佐久間隊の崩れに見えたことから、ひろく戦意を失って、戦場を脱する者が続出した(『江州余吾庄合戦覚書』『賤ヶ岳合戦記』)。

利家はわずかの兵で府中城に帰陣すると、直ちに城の守備を整えさせ、城下町から鉄砲を徴発した。そして二十一日夜から翌日にかけて追撃軍との銃撃戦と市街戦があって、再び戦死者が出たらしい(『小川忠左衛門覚書』『亜相公御夜話』)。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、城郭フォーラム資料、前田利家と賤ヶ岳の戦い

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山寺山砦  近江国(余呉)

2015年11月29日 | 陣城

林道

林道から、山寺山砦・橡(くぬぎ)山砦・中谷山砦・林谷砦・毛受(めんじょう)兄弟墓へ

20m程下りると、山寺山砦の大土塁遺構

 

別所山砦と山寺山砦

お城のデータ

所在地:長浜市(旧伊香郡)余呉町小谷    map:http://yahoo.jp/lDZwBm

現 状:森林

築城年:織豊期 

築城者:柴田軍方 

区 分:陣城 

標 高:367m 

遺  構:土塁、空堀、堀切

 城位置:別所山砦の下

 訪城日:2015.11.28

お城の概要

山寺山砦は別所山砦から南西方向に下った尾根上に位置する。山寺山という名称は万福寺が山寺と称していたから山寺山と、別所山の俗称寺山と言われるといい、別所山・寺山・山寺山という名称は若干混乱しているようだが。寺院と城郭は直接繋がらないが、寺院廃絶後、寺院遺構を砦として改筑したようだ。

 

歴 史

別所山砦は、柴田軍の最前線の陣城として前田利家・利長によって築かれた。秀吉軍に対峙する最前線の砦として防御を重視して築かれいる。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、近江の戦国 新視点・山寺から山城へ(第四回山城サミット)

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行市山砦 近江国(余呉)

2015年11月29日 | 陣城

 

お城のデータ

所在地:長浜市余呉町小谷(旧伊香郡余呉町小谷) map:http://yahoo.jp/EHj390

区 分 :山城(砦)

築城者:東野行一

砦 期:織豊期(天正11年(1583)の賤ヶ岳の合戦時の佐久間盛政の陣)

陣 主:佐久間盛政

遺 構 :堀切,曲輪

標 高:645m 比高差:200m(別所山砦より)

城 域:南北約44.16m×東西約17.3m

目標値:行市山頂

訪城日:2015.11.28

お城の概要

行市山砦は天正11年(1583)の賤ヶ岳の合戦時に柴田勝家軍の佐久間盛政が陣を構えた所で、勝家の本陣である玄蕃尾城からは直線距離にして約5km。
行市山に砦を構えたのは京極・浅井時代に、東野行一(行市)とされており、京極・浅井氏がここに砦を構えた理由は、現地に立ってみると頷ける。

 行市山からは余呉町,木之本町を走る北国街道が手に取るように判るが、660mの高所で、東野行一が砦を構えた当時は監視目的ではないか!

 遺構は別所山砦からの尾根筋に堀切が2本と山頂の曲輪跡が残っている。土塁なども残っているようではあるが、クマ笹が生い茂り確認出来ない。

行市山砦は、行市山山頂(標高659.7m)から南へ派生した尾根の先端付近に築かれている。

この日は、雲の中(霧の中)、砦のクマ笹で全体確認できず、登山道からの堀・土塁の確認のみ!!

 単郭の小さな砦で、周囲を土塁が巡り南に虎口を開く。虎口は内側を遮断する土塁の外側に堀を設け、その外側にさらに土塁を回しているが、現状薮化しており全く地形が把握できない。北尾根は堀切によって遮断している。

 

堀から土塁へ

1970年の踏査・測量(長谷川銀蔵・博美氏)の写真(提供:長谷川博美氏)

 

行市山頂で「賤ヶ岳合戦 七本屋弁当 

行市山頂(三角点)横に【佐久間玄蕃盛政の砦】の標柱・・・砦は南西15m下

比高差:200mも雨・霧の中軍道を登ったが、「賤ヶ岳弁当」を雨の降る中食べただけ!

雨・霧で、景色は見えない!砦の全体の確認もクマ笹で掴めない!

 

小雨で霧(幸い風がないので)・・・行市山砦・別所山砦にを戻

道案内

  • 余呉町新堂にある毛受兄弟墓より整備された登山道がある。登山道入口から中谷山砦、橡谷山砦、別所山砦を散策しながら登って約2時間30分。
  • 林道池原小谷線で標高約402mまで車で上がれる。
  • ここから登山道で別所山砦(標高約448m)を経て約45分で行市山山頂に着く。
  • その間の木之本町,余呉町の眺望は素晴らしい。

林道を402mまで、研修会車で

歴 史

東野氏の祖とも伝えられる東野行一(行市)が砦を築いていたとも伝えられ、行市山の名はこの行市から云われるが詳らかではない。

天正11年(1583年)賎ヶ岳合戦で柴田勝家方の砦として築かれた。 城将は佐久間盛政であった。

天正11年(1583)、余呉湖周辺に布陣した柴田勝家軍と羽柴秀吉軍は2月初旬から4月までの2ヶ月間に及ぶ対陣が続いた。
 4月にはいり、木之本地蔵(浄信寺)に本陣を置いていた秀吉は岐阜城の織田信孝を攻撃。この隙を狙って行市山の佐久間盛政は4月20日に大岩山砦を急襲、大岩山砦に布陣していた秀吉配下の中川清秀は自刃。
 「柴田軍動く」との知らせを聞いた秀吉は、意表を突く早さで大垣から引き返し、大岩山砦の佐久間盛政に反撃を開始。

 この佐久間盛政の大岩山砦の攻撃に端を発して戦局は動き、前田利家の離反もあって柴田軍は敗走、北庄城に逃れた勝家も4月24日に北庄城の落城と共に自刃して、賤ヶ岳の戦いは秀吉軍の勝利に終わった。

 佐久間盛政は賎ヶ岳合戦のとき加賀国尾山城主であった。秀吉が賤ヶ岳の陣を抜けだして美濃の岐阜城主織田信孝を攻めにいったとき、盛政は秀吉方の大岩山砦と岩崎山砦を急襲して攻め落とし、中川清秀を討ち取った。さらに賎ヶ岳砦を攻め取ろうとしたが、丹羽長秀の援軍もあって攻め落とせず、急を聞きつけて秀吉の大軍が美濃から戻ると逆に攻め立てられた。そのうち勝家方であった前田利家・利長父子が戦線を離脱して越前へ引き上げると均衡が破れ、勝家方は総崩れとなり、佐久間盛政は加賀へ引き上げる途中に捕縛され斬首となった。


 賤ヶ岳の戦いで、なぜ佐久間盛政が秀吉軍・桑山重晴等が布陣する賤ヶ岳砦を迂回して、大岩山砦を攻撃したのか、その経緯が太閤記の1節「山路将監進中入欲遂宿意企之事」に書かれている。 ただ、太閤記というのは秀吉が天下を取ってから書かれたもので、あくまでも「勝利者・秀吉」からみた賤ヶ岳の戦いである。


---------------- 山路将監進中入欲遂宿意企之事
「同十九日之早朝に、将監佐久間玄蕃允に云やうは、羽柴筑前守一昨日濃州至って発向せしむる由候。
 其意趣は三七殿今度勝家を救はんと思召、秀吉に対し敵之色を立させられ、氏家稲葉が分領放火し給ふに依て信孝を退治せんとの儀なりとかや、然ば信孝御心ざしの程を救ひ給はでは、叶わざる叶はざる事にておはさんか。
 いかゞ思ひ給ふぞやと云ければ、尤助成申度事は飛立計なりと云ども、大山を隔て、大敵其間にあれば、了簡及不事共なり。
何とぞ救ひ奉らん行(てだて)もあらば承度こそ候へと云し時、山路さゝやきけるは、上方より北国勢をおさへ置し取出共の普請は、何も丈夫におはしまし候。余語之海の外なる、中川瀬兵衛尉が有し要害は、多くの取出之城共を隔て、敵あひの遠さを頼みとし、普請請以下かた計にこしらへ候しなり。
 是をうたんなどとは、上方勢思ひもよらざる所に候。然ば不意討に同じ。不意討に利のなき事は稀なる事に候。秀吉卿濃州出勢は折を得たる幸候。いざさせ給へと、ありあり重ねてすめければ、玄蕃いとど進みたき折ふしなれば、即同心し、さらば取出之城々おさへの勢を、勝家へ間奉り定めんとて、同日午刻匠作之陣所へ玄蕃久右衛門兄弟同参して、其旨相議あり。運のつきなん験しかや。

 勝家もいかゞあらんと思惟に及不、行の事共を聞届、宜しがらんと同じ給へり。西の方二ケ所の城のおさへには、前田又左衛門尉利家子息孫四郎利長、志津嶽の押へには原彦次郎、安井左近大夫、堀久太郎取手をば勝家おさへおくべき之条、心安く働き候へ。帰陣には海道を直に退候へ。必宿陣すべからず。今日中に引取候べしとて、廿日之早朝に蝦乞有しが、是ぞ最期の暇乞とは成にける。先陣は不破彦三、徳山五兵衛尉、佐久間久右衛門尉、大将は玄蕃允都合其勢一万余騎余語之入海をつたひ山路たどりたどり急しかば、・・・・・
----------------ココマデ

山路将監:天神山砦に布陣していた山路正国、佐久間玄蕃允:佐久間盛政

 

賤ヶ岳合戦

 ようやく春がきた1583年2月末(新暦4月)勝家軍は越前をでる。

 府中(現武生市)城主の前田利家の長男利長を先陣に、勝家の甥佐久間盛政、前田利家らが次々と出陣、勝家も3月9日に北庄をでた。利長ら先発隊は、勝家が近江からのメーン道路として整備した、今庄から現在の北国街道(国道365号線)を通り近江に出る栃木峠から椿坂へ下る道を通ったと見られる。しかしこの年はまだ雪が多く、かき分けながらの道中に苦労したことから、後発隊は木の芽峠から敦賀を通って県境の柳ケ瀬に出る道を通りほぼ同時に着いたと言われる。

 先発隊はいったん木之本まで進出し、周辺や北国街道沿い、さらには関ヶ原まで進出してに火を放った。その後羽柴勢が前進基地の砦を置いた天神山を囲むため戻り、結局余呉湖の北側、北国街道の西側の山々に陣を敷いた。

 柴田の近江侵入を聞き秀吉は伊勢攻めの兵力の大半を近江に向かわせる。佐和山を経て、17日には勝家勢の退いた木之本まで進出。弟秀長が木之本に近い田上山に羽柴秀長、さらに柳ケ瀬に近い中ノ郷を見下ろす左祢山に掘秀政を置き、北国街道の東側を押さえた。木之本北側の賤ヶ岳、余呉湖に中川清秀、高山右近らの兵を置き、余呉湖の北の天神山に木村隼人正の陣を置いた。

 

 ~前田利家の背反~

 佐久間盛政の深追いによって佐久間(鬼の玄蕃)隊が賤ヶ岳に破れ、本陣(行市山)へ戻るところ、もしくは、権現坂砦で防御を試みるところを秀吉隊が追撃するに至り、茂山砦にあった利家は、その陣地を放棄して移動を開始した。

 それは、佐久間隊の背後を遮って、峰越えに移り、塩津谷に下り、敦賀方面へ脱出したのだという(『江州余吾庄合戦覚書』)。
また、塩津越えをして匹田に出て、木ノ目峠を経て府中城に逃れたともいう(『加賀藩歴譜』)。

 この退却の際に、小塚藤右衛門、木村三蔵ら5、6名が討死した(『村井重頼覚書』)。
横山長隆、富田景勝らの譜代衆、殿軍を受け持った長連竜も戦死したという(『三州志』『北藩秘鑑』)から、相当な激戦であったとも思われるし、利家自身にも危険が及んだものと推察される(岩沢愿彦氏)。

 この前田隊の退却は、佐久間隊からは後陣の崩れに見え、後陣からは佐久間隊の崩れに見えたことから、ひろく戦意を失って、戦場を脱する者が続出した(『江州余吾庄合戦覚書』『賤ヶ岳合戦記』)。

利家はわずかの兵で府中城に帰陣すると、直ちに城の守備を整えさせ、城下町から鉄砲を徴発した。そして二十一日夜から翌日にかけて追撃軍との銃撃戦と市街戦があって、再び戦死者が出たらしい(『小川忠左衛門覚書』『亜相公御夜話』)。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、城郭フォーラム資料、前田利家と賤ヶ岳の戦い、近江の城郭

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中谷山砦 近江国(余呉)

2015年11月28日 | 陣城

お城のデータ

所在地 : 伊香郡余呉町池原・小谷 map:http://yahoo.jp/oWhj9mこの地図のURL

区 分:山城(柴田軍陣城)

標 高:310m 比高差:150m 

築城年 : 天正11年(1583)

遺  構 : 土塁、横堀、櫓台、竪土塁

訪城日 : 2013.5.14、2015.11.28

お城の概要

中谷山砦は橡谷山砦の南東の尾根先と、南へ伸びた尾根に築かれている。 ここで紹介している中谷山砦は「滋賀県中世城館調査報告」による名称で、現地には標柱がない。

(中之谷山 原彦次郎長頼」の標柱は橡谷山砦に建っているので要注意)。

中谷山砦は東へ伸びた尾根先の曲輪と、その西側から南へ伸びた尾根に築かれた曲輪群がある。

 東へ伸びた尾根先の曲輪は登山道の途中にあり、堀底道へと出た所にある。

中谷山砦は、橡谷山砦と林谷山砦の中間の南に位置し、主尾根と主尾根から南に派生する尾根上の2箇所に遺構が残る。

主尾根上の砦は、南と東に土塁が廻り、南土塁裾に犬走りが、東土塁外に横堀が掘られ、東土塁の中央付近に食い違い虎口が設けられている。

 横堀から東中央の虎口を入り尾根筋を登る堀底道状の通路が尾根中央を東西に貫通しているが、発達した虎口や郭配置が見られる織豊系城郭としては、不自然な通路構造に思われる。また、下方側に明瞭な遺構が残るが、上方側には堀切や土塁などの防御施設が見当たらないのも不思議?

南尾根上の砦は、100m程の間に不明瞭な段築が連なり、先端部はクランク状になった比較的明瞭な土塁が残っている。東側に途切れ途切れの不明瞭な土塁があり、その東側を犬走り通路が走り、段郭からの虎口が設けられている。

滋賀県中世城郭分布調査では、

中谷山砦の位置を2箇所に明示する城郭分布図が掲載されている、縄張図とその城郭分布図を見比べ橡谷山砦と林谷山砦のほぼ中間やや南に位置しすると見当を付け、毛受兄弟の墓から尾根伝いに山道を登ったが、通り過ぎてしまい橡谷山砦まで行き着いてしまった。

2度目の訪城なので、見逃さないよう注意深く下山して、主尾根上の砦を見つけた。主尾根上の砦から少し上方にある小さなピークから南に派生する尾根にある砦跡は大変に見つけ難く、案内板があれば助かるのだが。砦は東へ伸びた尾根先の曲輪と、その西側から南へ伸びた尾根に築かれた曲輪群がある。

東へ伸びた尾根先の曲輪は登山道の途中にあり、堀底道へと出た所にある。 曲輪は東と南に土塁が付いていおり、東側には堀底道が南尾根から続いて曲輪の北側へと通っている。

南尾根の曲輪群は、先の曲輪から少し西へ進んだ所から南へ伸びた尾根にあり、少し段になっている部分があるものの大半は自然地形に近い地形である。南端部分に鈎状に屈折した土塁があり、虎口か。

歴史

天正11年(1583)の賎ケ岳合戦において、別所山は柴田勝家方の陣地として、七尾城主であった前田利家と府中の城主であった前田利長父子が僅か2ケ月余で砦を構築したところである。柴田勝家の玄蕃尾城の本陣より、行市山頂を経て別所山・中谷山・大池山・林谷山の各陣地は、尾根を人馬によって駆け抜けられる道によって結ばれた強力な陣地として構築された。

しかし、柴田方はこれら強固な陣に依って戦うことは一度もなく、余呉湖畔で敗北する結果となった。

林谷山砦から南西の方角へ

登ること約20~30分。

中谷山砦跡。

主郭は削平されず、陣膜が貼られていたのか。

きく堀切は、正面の高い土塁に圧倒される。

裏手に廻ると50~60cm程の高さで土塁が認められる。 

中谷山砦 近江国(余呉) 2013.5.14

 

遠望

賎ヶ岳合戦古戦場の中谷山砦見学・・・講師長谷川博美氏(城郭研究家)

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました!!感謝!!


佐久間玄蕃(行市山城) 前田利家(別所山城)見学会

2015年11月28日 | 陣城

 城郭フオーラム   壮大『賎ヶ岳城塞群』の見学会

 *観光・レジャーではありません!真面目な勉強・学習会です。

 賎ヶ岳城塞群 行市山城と別所山城 見学会

講師 城郭研究家 長谷川博美氏
日 時 2015年11月28日(土)10
時05
分〜16時
 

11/28土(現地見学会) 佐久間玄蕃の行市山城 前田利家の別所山城見学会

林道を402mまで、研修会車で!

別所山砦・行市山砦の秘蔵イラスト(講師:城郭研究家の長谷川博美氏)を披露

別所山砦へ

参加者の集合写真+シャッターマン(小生)

行市山城(佐久間砦)へ

軍道を比高差200m

行市山砦

行市山頂で「賤ヶ岳合戦 七本屋弁当」

小雨で霧(幸い風がないので)・・・行市山砦・別所山砦に軍道を戻る

別所山砦に戻り再見学

林道から、橡(くぬぎ)山砦・中谷山砦・林谷砦・毛受(めんじょう)兄弟墓へ

20m程下りると、山寺山砦の大土塁遺構

橡(くぬぎ)山砦…中乃谷山 原彦次郎

中谷山砦

金森

林谷山砦

に戻り

毛受兄弟墓の「登り口」へ

 【毛受兄弟の墓】

柴田勝家の身代わりとなり、最後まで支えた毛受勝助家照と兄の茂左衛門兄弟を地元住民は今なお手厚く供養し、忠義義勇の士として語り継いでいる。

 

城郭フォーラム:参加費:2700円 (弁当/研修バス/講師代)現地見学

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査7、城覚フォーラム資料

本日の歩数  16,404歩

 

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「難波津の歌」全文記す木簡 平仮名形成期、京都で出土

2015年11月26日 | 遺蹟

「難波津の歌」が記された木簡(左)と、赤外線写真

京都市埋蔵文化財研究所は26日、中京区壬生朱雀町で実施した発掘調査で、古今和歌集にも登場する有名な「難波津の歌」が書かれた9世紀後半の木簡が見つかったと発表した。平仮名が形成される時期の文字で歌をほぼ全部記した初の木簡で、意味不明の散文も付いていた。平仮名の成り立ちを探る重要な史料として研究者が注目している。

 調査地は平安京のメーンストリート「朱雀大路」のすぐ近くで高い身分の貴族邸宅や公的機関の可能性が高い。井戸の中から見つかった木簡は長さ約35センチで、有名な「難波津に咲くやこの花冬ごもり いまは春べと咲くやこの花」の歌がほぼ平仮名で記されていた。

 埋文研によると、7世紀から史料に登場する難波津の歌は貴族の手習いによく使われ、全国で木簡や土器に難波津の歌が37例確認されている。今回の木簡はサイズや内容から、文字の練習や儀礼などと用途が違ったとみられる。木簡は2行あり、左側に書き込まれた散文の内容は解読できなかったが、歌の注釈とも考えられるという。

 京都では中京区の藤原良相邸跡で日本最古級の平仮名墨書土器が見つかっている。今回の木簡は同じ9世紀後半の出土物で少し時代は新しい。調査した京都産業大の吉野秋二准教授(日本古代史)は「平仮名の歴史を考える上で墨書土器の文字と対照できる重要な史料だ。歌と散文が一緒に書かれている木簡は例がなく、今後の研究課題となる」と話している。

 現場調査はすでに終了している。木簡は27日から12月13日まで市考古資料館(上京区)で展示する。無料。

京都新聞2015.11.26


【近江歴史探訪】大名庭園と竹生島を訪ねて

2015年11月26日 | 平城

【近江歴史探訪】大名庭園と竹生島を訪ねて

【近江歴史探訪】大名庭園と竹生島を訪ねて

彦根観光ボランティアガイド協会のガイドの案内で、日本を代表する大名庭園である「名勝玄宮楽々園」「名勝旧彦根藩松原下屋敷(お浜御殿)庭園」と、「名勝史跡竹生島」を詳しく訪ねます。
旧彦根藩松原下屋敷(お浜御殿庭園)はふだん見ることはできませんが、探訪会当日は、秋の特別公開初日にあたります。
なお、玄宮楽々園では夜間ライトアップも実施されていますので、探訪会終了後にご参加いただくことが可能です。

【日時】平成27年11月21日(土)10時 〜 16時頃 

【場所】JR彦根駅〜玄宮楽々園〜お浜御殿庭園〜竹生島〜夢京橋あかり館

【集合】JR彦根駅

【解散】夢京橋あかり館(滋賀県彦根市本町2丁目1-3)

【定員】60名(20名×3班)※先着順・定員になり次第受付を終了します。
※各班同じコースを時間差で探訪します。

【対象】やや健脚向け(歩程約7km。竹生島の参道は急傾斜です。)

【行程】各班共通
≪集合≫JR彦根駅西口 → 玄宮楽々園 → 旧彦根藩松原下屋敷(お浜御殿)庭園 →  彦根港 →(航路)→ 竹生島 →(航路)→ 彦根港 → 夢京橋あかり館≪解散≫

【費用】1,100円(ガイド料・入園料・拝観料)
※竹生島航路乗船運賃として3,500円が別途必要です。乗船時に各自でお支払いいただきます。

【持物】健康保険証(コピー推奨)、弁当、水筒、歩きやすい服装等


永源寺の山城と森のハイキング

2015年11月24日 | 平城

永源寺の山城と森のハイキング

  • 鎌倉時代から戦国時代にかけて佐々木六角に仕えた土豪「小倉氏」城郭=山田城・八尾城・お鍋館・高野城・山上城
  • 江戸期の山上陣屋を歩く。
  • 秋が深まる緑の森の中、星野溜・池田牧場・愛郷の森・渋川・八風窒のハイキング。

西岡城 近江国(西浅井・塩津)

2015年11月23日 | 戦国山城

北の日計山

塩津最強の城 西岡城見学会

 

お城のデータ

所在地:長浜市西浅井町山門~余  (旧西浅井郡西浅井町山門~余)   map:http://yahoo.jp/iYfv_t

現 状:山林

区 分:山城

遺 構:土塁、横堀、曲郭

築城期:室町期   

改築期:織豊期(天正11年期の賎ヶ合戦)

築城者:熊谷氏   

改築者:丹羽五郎左衛門尉長秀

城 主:熊谷下野守直房

陣 主:丹羽五郎左衛門尉長秀

目標地:横波・日吉神社

駐車場:横波・日吉神社駐車場

訪城日:2015.11.22

西城主城東砦

見張砦

お城のデータ

滋賀県中世城郭分布調査7に160頁に城郭図面(長谷川博美氏作図)東西60間×南北30間があり、今回の見学会に先立って長谷川博美氏自身が、再踏査・測量図面を作成。此度見学しました。

西岡城=遺跡見学  1 主城 2西城 3東砦 4見張砦

西岡城の特徴=主郭 土塁全長25間 (因みに、佐久間玄蕃盛政行市山城 土塁全長25間) 

  A 土塁の総囲いからなる。織豊系城郭=天正11年期の賎ヶ合戦に、改修をうけた可能性を示唆する、矩形土塁の縄張、北西に2ヶ所馬出的機能。

  ★ 遺跡の残存状態が異常なほどに良好。城跡の土塁も明瞭に見学可能。

  B 中世城郭として完成度の高さ。土塁の美しさ、堀切の鋭利さ、大掘切の深さ。

歴 史 

西岡城は塩津熊谷氏の宗家 「国人衆」熊谷下野守直房の居城と、推定される、壮大堅固かつ顕著な中世城郭遺跡

甫庵太閤記巻第六:丹羽五郎左衛門尉長秀志津嶽之城へ籠入事長秀其比は若州并江州之内志賀高嶋両郡を領し、坂本を居城とし有しにより、北国勢を押へん為、勢を分敦賀表に三千、塩津海津に七千賦り置、江北を静めける処に ・・・云々

近江熊谷氏

  熊谷直貞の長男・直正が、近江国浅井郡塩津郷に住んだことに始まる。熊谷氏惣領を称した。室町時代には足利家奉公衆として室町幕府に仕えている。「塩津熊谷衆」はその筋にあたる。 近江国で地頭職を与えられ、赴任して以後、湖北地方一帯に勢力を延ばした。

 直正は近江国浅井郡塩津郷に住んで、近江熊谷氏の惣領として豪族化した。この直正の弟が一の谷の合戦で平敦盛を討った次郎直実である。直実は石橋山の合戦では源頼朝を攻めたが、のち源頼朝に従い平家追討に功をたて本領を安堵された。  しかし、建久三年(1192)一族の久下直光との所領争いに敗れて家督を嫡子直家に譲り、法然上人に帰依して出家した。出家後の直実は蓮生房を名乗り、東海道藤枝宿に熊谷山蓮生寺を建立。熊谷郷に帰った後は草庵を建て念仏三昧の生活を送り、承元元年(1207)上品上生を予告し往生したと伝える。直家は頼朝の奥州征伐に功があり、陸奥国本吉郡に所領を賜わり、その子直宗は下向して赤岩館に住して奥州熊谷氏の祖となった。一方、熊谷氏の本貫の地である武蔵の熊谷郷に住んだ直国は、「承久の乱(1221)」の時に戦死し、その功により子の直時は新たに安芸国安北郡三入庄の地頭職を与えられた。直時の子孫は法然が直実に授けた「迎接蔓茶羅」を携えて、元冦のあった弘安以後(十三世紀後半)三入庄に下向し、大林伊勢ヶ坪城に拠った。

長浜市西浅井町横波の日吉神社

  南北朝合戦の爪

長浜市西浅井町横波の日吉神社の建つ五輪塔群【南北朝~室町期=戦国時代】

日吉神社の境内に、大小16基の五輪塔が低い段上に建っている。これらは、平成18年に背後の山際の斜面から発掘されたものだが、それに先立つ平成11年には、同地域から「延元戦没」と記された石碑が発見されていた。

この周辺は、織田信長の元亀兵乱で破壊された石塔が埋まっているという伝承があったが、平成になってその事実が確認された。

発見された石塔は錯乱状態であったが、村の有志が現在の「地・水・火・空」風輪の組み合わせは、再建当時の推測である。

「延元戦没」と刻まれた石碑には、「古えを しのばざらめや 今とても 色を得能の 塚の紅葉は/玄夢作」と和歌が刻まれている。ここで「延元戦没」とあるのは、南北朝期延元3(1336)年10月11日に、足利尊氏によって京を追われた新田義貞軍の一部が戦没したこと指す、本隊に遅れていた河野・土居・得能三将が率いる300騎は雪が降りしるなか、塩津の谷で、敵軍に取り囲まれて自害した。(太田浩司…横波の西田覚氏から聞きとり)

  駐車場で1/2500の踏査・測量図で概要説明

山麓に戻りました。

1122() 西浅井町最強の城 西岡城見学(丹羽長秀) 参加費1000
集合場所 長浜市西浅井町 道の駅無料駐車場 10時 講師 長谷川博美

集合案内

1 滋賀県長浜市西浅井町塩津浜 1765 道の駅=塩津港遺跡案内展示建物

参考資料:西岡城見学会のレジュメ、滋賀県中世城郭分布調査、ウィキペディア

本日の歩数   10,806歩 

本日の歩行距離 8.1km

実歩行時間   2:06:22

消費カロリー  2,212.2Kcal

脂肪燃焼量   30.3g

 本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!