11/29月(現地見学会/特別研修会)
地元の人にも知られず、訪城されていない穴場の城
お城のデータ
所在地::彦根市山之脇町・芹川町・和田町・岡町(雨壷山) map:http://yahoo.jp/TzGG6b
別 名:雨壺山城
現 状::山林・千鳥ヶ丘公園
遺 構:曲輪・土塁・虎口・竪堀・横矢・塹壕・石積
区 分::平山城 137.3m 比高差:25m(千鳥が丘公園より)
築城期 :室町期
歴代城主:平田宗左衛門高慶、徳川家康陣主
目標地:新神社・千鳥ヶ丘公園無料駐車場
駐車場: 千鳥ヶ丘公園無料駐車場
訪城日:2013.3.13・.215.11.29
平田山城
千鳥ヶ丘公園に立つ駒札
歴 史
応仁の乱の騒乱の中でも平田山が軍事拠点として使われていたとも伝えられていますので、実は彦根市内でも古いタイプの山城形式をもった平山城だったのかもしれません。戦国時代は、領主平田氏の城であった。
『肥田城と水攻め』の話で登場しました六角義賢の父親・六角定頼が上坂景宗と対陣した時に平田山を中心に矢を射ち合う“矢戦”が行われて、「江北軍(上坂軍)・磯野源三郎為員の軍勢、が江南軍(六角軍)・吉田安芸守定雄の軍勢と戦った結果、磯野為員が耐え切れずに退却した」という記録が残っています。六角定頼が当主になった永正15年(1518)から磯野為員が山本山で戦死する天文元年(1532)の間である事は間違いありませんので戦国時代前半には城として戦略拠点になっていた。
元亀の佐和山城は8ヶ月間と籠城戦が長い
元亀元年(1570)に織田信長が磯野為員の甥・磯野員昌が守る佐和山城を攻めた時には、水野信元(徳川家康の伯父)が平田山城に軍を置いて佐和山城を囲む一端を担っていた。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの直後に行われた佐和山城攻めも、平田山に徳川家康、井伊直政の本陣もおかれました。家康の本陣が置かれ、家康はここから佐和山城が落城する様子を眺め、戦いが終わった後に麓の長久寺で休息しました。
江戸時代になると平田山城跡は井伊家の狩場となっていました。七代藩主・井伊直惟は特に好んで鷹狩を楽しんでいたそうです。
現在、城跡は千鳥ヶ丘公園として整備されている所もありますが、山の中に入って行くと、土塁や曲輪の跡、そして石垣(近世のもの)も残っています。この石垣が近世の物ですが興味が引かれる遺構の一つです。
山城攻めの時には城としての機能がどれほど残っていたのかははっきりしませんが、彦根市内の戦いでは絶対に必要となる城。
- 城攻めには、
- A「仕寄」=接近包囲 包囲殲滅
- B「遠巻」=遠方包囲 糧道封鎖 の二種類攻城戦にあります。
山頂から佐和山や彦根山※が一望できます。」とあるが、今は、千鳥が丘公園の東尾根頂の古墳上の「展望台から」
※彦根山は、彦根城が立つ山で、別名:金亀山(こんきさん)(彦根城築城以前は金亀寺が建っていた)
彦根古図略図
戦戦国時代後期に佐々木六角と江北軍合戦の舞台として史実に登場、以降佐和山城に対する争奪戦の舞台の一部となる。
平田山城新規巨大詳細図面発表
先ずは、千鳥が丘公園散策~見晴らし台から彦根佐和山城・彦根城・里根城・彦根市内の眺望
公園の見晴らし台
織田信長の佐和山包囲網
元亀元年(1570)に織田信長は浅井長政の重臣磯野員昌が籠る佐和山城を攻囲しているが、そのときに織田勢は佐和山城を四方から囲むように陣城を構えている。北の山(物生山城)に市橋長利、西の彦根山or尾末山に河尻秀隆、東の丸山砦(百々屋敷の詰め城)に丹羽長秀、そして南の山(里根山城)には水野信元が布陣した。
西の城(金亀山=彦根城or尾末山)
佐和山城
南の城(里根城=彦根カントリークラブ)
北の城(物生山城) 物生山城出丸(松原内湖遺構)、東の城(丸山砦…百々屋敷城)
徳川家康 没後400年 本格城郭見学会
特別企画 アフター関ヶ原合戦 彦根平田山城(徳川家康陣) 奇跡の復活
ここから【平田山城(雨坪山城)】
石碑に社地=新神社の鎮守の森弓座&銃座
主郭下の土留め石積み(後世のもの)
頂部の主郭
主郭中央に円石柱で円形に日露戦争の忠魂施設(何故か破壊されている)日露戦争の忠魂墓
参加者の記念撮影大手の家臣団の曲郭割
平田山城新規巨大詳細図面発表
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、平田山城見学会資料
◆11月29日(日)30日(月)
集合場所:彦根市平田町の信号雨壺山:旧彦根市火葬場駐車場10時集合
本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!