城郭探訪

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瓶割山城の山麓屋形か? 近江国(八日市 上平木)

2017年06月20日 | 居館

 瓶割山城の山麓屋形か?

所在地:東近江市上平木町 map:https://yahoo.jp/FnMx6X

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瓶割山城(長光寺城) (東近江市上平木町 御澤神社近く)写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然

 

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本日の訪問ありがとうございす。


碓氷峠に「お城」跡 豊臣側の小田原合戦拠点か

2017年06月16日 | 陣城

碓氷峠に「お城」跡 豊臣側の小田原合戦拠点か

京都新聞 更新日時:2017年6月16日(土) AM 06:00
 群馬県側に侵攻することを想定した構造などから、合戦で中山道から関東に侵攻した豊臣側の前田利家、上杉景勝、真田昌幸の北国勢が、約10キロ南東の同市の松井田城を攻めた際、食料の供給や野営に使った可能性が高いとみられる。

 城跡は長野県軽井沢町教委の職員が2015年に見つけ、中世の城館を専門とする飯森さんが調査を進めて、未発見の城跡と確認した。

 小田原合戦は、北条氏が真田氏ゆかりの名胡桃(なぐるみ)城(みなかみ町)を攻めたことを契機に始まった。県内では松井田城が最初の戦場となり、同城が1カ月の攻防の末に落ちると、北条氏の手にあった箕輪、厩橋(まやはし)、沼田などの城も次々に陥落した。

 飯森さんは「小田原合戦で使われた陣城の発見は県内で初めてだろう。当時は北条氏にも力があり、豊臣側が松井田城攻めの準備を慎重にしていた様子がうかがえる」と分析。調査に同行した東京都江戸東京博物館学芸員の斎藤慎一さん(55)は「戦乱の時代に大名がどのようにして守り、攻めようとしたのかを具体的に物語る重要な遺跡だ」と指摘している。
「1590年の豊臣秀が北条氏を責め立て「小田原合戦」で真田昌幸、前田利家、上杉景勝らが築いた可能性が高いという」
飯森さんよると当時、北条氏の家臣が群馬県安中市松井田城に籠城。豊臣側の真田昌幸ら北國勢が1カ月以上かけて攻略したされる。城址は現在登山道となっている旧中山道添いで、松井田城まで直線で10km余り。中山道を進んだ北国勢が、食料の補給や野営に使ったとみられる。
城址は東西200m、南北100mで、土塁や堀切がり城内への入り口を狭くして敵の侵入を防ぐ「桝形虎口」など、当時としては高度な技術が用いられている。
 碓氷峠周辺の地域振興に取り組む碓氷関所保存会の佐藤健一会長(81)は「本当であれば極めて貴重な発見。地元としては観光や整備に期待したい」と話した。
安中市の碓氷峠で見つかった城跡の一部とみられる土塁
 
 

 


雄琴城(和田氏館) 近江国(大津)

2017年06月09日 | 平山城

お城のデータ

所在地:大津市雄琴2丁目 map:https://yahoo.jp/Oz3zdL

別 称:和田氏館

区 分:平山城

遺 構:土塁・廓

現 状:福領寺の南、竹林

築城期:天文7年(1538)

築城者;和田秀純

目標値:雄琴神社・福領寺

駐車場:福領寺に駐車

訪城日:2013.10.3・2017.5.18

2017.5.18見学

お城の概要

  雄琴城は、雄琴温泉郷の北方で、琵琶湖に向かって突出した丘陵先端部に築かれていた。琵琶湖からの距離は500mにも満たず、北国街道のみならず湖上交通の監視にも優れた立地にある。

和田源左衛門秀純の居城と言われています。現在は城薮と呼ばれる竹薮があります。城跡は、雄琴村の西方の丘の上(雄琴2丁目11番街区西側山手付近)にあった。


雄琴城は雄琴神社、およびに福領寺南西の丘陵地にあったが、延宝4年(1676)5月に山崩れが起き、その大半が埋没してしまったという。山崩れで消失した場所には現在畑地が広がっている。ただほんの先端部にはL字形の土塁を伴う曲輪と、その背後の堀切を挟んで小曲輪が残っていた。

お城の歴史

雄琴城は和田秀純の居城である。

 和田氏は六角氏の支流定秀が神崎郡和田に住し、和田山城主となり和田を名乗った。定秀の孫高盛の時、神崎郡和田から甲賀郡和田に移住し和田城を築く。

高盛には3人の子があって長男が和田城主となり、その子が将軍義昭を援けた惟政である。3男秀純は六角義秀の近臣となり、天文7年(1538)(一説には永禄9年(1566))義秀から志賀郡雄琴を賜わり雄琴城を築城し、志賀郡の旗頭を命じられた

元亀元年(1570)元亀騒乱で浅井朝倉連合軍が織田信長軍と対峙した時、六角氏は浅井朝倉方で戦い、浅井軍が雄琴城に駐屯した。

しかし翌元亀2年(1571)には一転して織田方についた。その後坂本城主となった明智光秀の配下となったが、本能寺の変後は羽柴秀吉に従った。

 秀純の嫡子信盛の代で関ヶ原合戦が勃発、西軍に与して岐阜城で討死し、弟正盛が雄琴城主となったが、江戸時代となり一国一城令が布かれ雄琴城は廃城となった。

その後の和田氏は、膳所城主本多氏や大溝城主分部氏の庇護を受けて存続したという。

『日本城郭体系 11』には、 創築年代は「天文七年(一五三八)」、創建者は「和田秀純」、形式は「山城」です。城の歴史は「雄琴城は、雄琴神社の南の丘陵地に位置しており、そこには、かつて城跡があったというが、延宝四年(一六七六)五月の山崩れで埋没したといわれている。(中略)

『近江国滋賀郡誌』には、天文七年に雄琴の土豪和田氏がこの地に城を築いたと伝えており、元亀元年(一五七〇)九月の織田信長と浅井長政・朝倉義景の戦いでは、浅井の軍勢が雄琴城に陣を置いたという。

また天正三年(一五七五)には、付近の土民が蜂起して雄琴城を攻め、同十一年に、廃城になったともいわれている。」とあります。

 

雄琴会館に駐車

2013.10.3見学

お城の歴史

雄琴城は和田秀純の居城である。

 和田氏は六角氏の支流定秀が神崎郡和田に住し、和田山城主となり和田を名乗った。定秀の孫高盛の時、神崎郡和田から甲賀郡和田に移住し和田城を築く。

高盛には3人の子があって長男が和田城主となり、その子が将軍義昭を援けた惟政である。3男秀純は六角義秀の近臣となり、天文7年(1538)(一説には永禄9年(1566))義秀から志賀郡雄琴を賜わり雄琴城を築城し、志賀郡の旗頭を命じられた

元亀元年(1570)元亀騒乱で浅井朝倉連合軍が織田信長軍と対峙した時、六角氏は浅井朝倉方で戦い、浅井軍が雄琴城に駐屯した。

しかし翌元亀2年(1571)には一転して織田方についた。その後坂本城主となった明智光秀の配下となったが、本能寺の変後は羽柴秀吉に従った。

 秀純の嫡子信盛の代で関ヶ原合戦が勃発、西軍に与して岐阜城で討死し、弟正盛が雄琴城主となったが、江戸時代となり一国一城令が布かれ雄琴城は廃城となった。

その後の和田氏は、膳所城主本多氏や大溝城主分部氏の庇護を受けて存続したという。

『日本城郭体系 11』には、 創築年代は「天文七年(一五三八)」、創建者は「和田秀純」、形式は「山城」です。城の歴史は「雄琴城は、雄琴神社の南の丘陵地に位置しており、そこには、かつて城跡があったというが、延宝四年(一六七六)五月の山崩れで埋没したといわれている。(中略)

『近江国滋賀郡誌』には、天文七年に雄琴の土豪和田氏がこの地に城を築いたと伝えており、元亀元年(一五七〇)九月の織田信長と浅井長政・朝倉義景の戦いでは、浅井の軍勢が雄琴城に陣を置いたという。

また天正三年(一五七五)には、付近の土民が蜂起して雄琴城を攻め、同十一年に、廃城になったともいわれている。」とあります。

 

福領寺

北国街道~雄琴神社・福領寺へ

北国街道からの遠望(竹藪・林)

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、近江の城郭

本日も訪問、ありがとうございました。


六波羅山  近江国(米原 番場)

2017年06月08日 | 古戦場

お城のデータ

所在地:滋賀県米原市番場   map:https://yahoo.jp/0AARyJ

現 状:山林・山腹。

北条仲時

 
北条仲時 / 普恩寺仲時
HoujyoNaotoki.jpg
北条仲時画像(蓮華寺蔵)
時代 鎌倉時代末期
生誕 徳治元年(1306年
死没 元弘3年/正慶2年5月9日1333年6月21日
別名 時阿(法名)
墓所 滋賀県米原市蓮華寺
官位 従五位下弾正少弼越後
幕府 鎌倉幕府六波羅探題北方・信濃守護
主君 守邦親王
氏族 北条氏普恩寺流
父母 父:北条基時、母:未詳
兄弟 仲時高基
友時、女子
 
蓮華寺の北条仲時以下432名墓所

北条 仲時(ほうじょう なかとき)は、鎌倉時代末期の北条氏一門。鎌倉幕府最後の六波羅探題北方である。普恩寺流で第13代執権である北条基時の子。普恩寺 仲時(ふおんじ なかとき)とも呼ばれる。

生涯[編集]

元徳2年(1330年)11月(7月21日)、鎌倉を発って上洛する[1]。12月27日、六波羅探題北方となる[1]

元弘元年(1331年)の元弘の乱で、大仏貞直金沢貞冬ら関東からの軍勢と協力し[2]、挙兵して笠置山(京都府相楽郡笠置町)に篭城した後醍醐天皇を攻め、天皇を隠岐島に配流する[1]。さらに護良親王楠木正成らの追討・鎮圧を担当する[1]

元弘3年/正慶2年(1333年)5月、後醍醐の綸旨を受けて挙兵に応じた足利尊氏(高氏)や赤松則村らに六波羅を攻められて落とされると、5月7日に六波羅探題南方の北条時益とともに、光厳天皇後伏見上皇花園上皇を伴って東国へ落ち延びようとしたが、道中の近江国滋賀県)で野伏に襲われて時益は討死し、仲時は同国番場峠(滋賀県米原市)で再び野伏に襲われ、さらには佐々木道誉の軍勢に行く手を阻まれ、やむなく番場の蓮華寺に至り天皇と上皇の玉輦を移した後に、本堂前で一族432人と共に自刃した。享年28。この史実は、『増鏡』、『梅松論』、『太平記』に詳しく記載されている。天皇と上皇は道誉に保護されて京都へ戻された。蓮華寺には自刃した432人の五輪塔群がある。

 

1333年元弘3年/正慶2年)、後醍醐天皇の綸旨を受けた足利尊氏等に攻められた六波羅探題北方の北条仲時が、持明院統光厳天皇後伏見上皇花園上皇を伴い東国へ落ち伸びる途中、行く手を佐々木道誉に塞がれたため、やむなく蓮華寺へ至り、天皇と上皇の玉輩を蓮華寺に置いた後に、本堂前で一族郎党432名と伴に自刃した。その際に血が川の様になって流れたと伝わる。時の住持の同阿上人が彼らを憐れみ法名を与え、過去帳に登載したのが有名な『陸波羅南北過去帳』である。寺内にあるその主従の墓とされる一石五輪塔群は近代になってから整備されたもの。

別に向かいの六波羅山とよばれ、山腹に。六波羅山の北条仲時の墓(五輪塔)

第11回の鎌刃城まつりを晴天のもとに開催しました。午前中は現地見学会で鎌刃城コースと番場城コースを歩き、番場城コースは今回が初めてで、鎌倉時代にこの地域を治めた地頭の土肥氏の屋敷跡からその詰め城の番場城、今福寺跡、六波羅山の北条仲時の墓を見学・御参りしました。続日本100名城選定記念にふさわしい充実したイベントでした。北条仲時の墓は、こちら六はら山にあるらしい。なんでも江戸時代、彦根藩 井伊の殿様が、馬に乗って蓮華寺を参拝した日の夜「我を馬上から見下ろすとは何事ぞ」と、仲時に夢の中で叱責されたことから、山頂に仲時の墓だけ移転した

六波羅山と地元でが呼ばれる。

 参考資料:蓮花寺HP・

  参考資料:蓮花寺・Wikipedia:ウィキペディア、鎌刃城公式サイト

本日の訪問ありがとうございす!!


番場城 近江国(米原・番場)

2017年06月08日 | 平山城

写真の説明はありません。鎌刃城まつりに参加、画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)『番場城』見学会!

画像に含まれている可能性があるもの:空、山、木、植物、屋外、自然番場城(遠景)

お城のデータ

所在地:米原市番場殿屋敷  (旧坂田郡米原町番場 殿屋敷)

現 状:山林

遺 構:曲郭・土塁・堀切・櫓台

区 分:平山城

標 高:200m   比高差:約100m

築城期:南北朝期

築城者:土肥氏カ?

城 主:堀氏カ?

目 標:西番場バス停

訪城日:2017.6.5

お城の概要

西番場地区の2ヶ所の鎌刃城登城道が番場城尾根の東西直下を走っていて、どちらからでも頂部に建つ送電鉄塔を目指せば辿り着く。目印は名神道ガード「彦根42」と「彦根43」の間である。

 縄張は三方を土塁がめぐる南北約35mの主郭を中心に、先端に腰郭、山側に櫓台を備える。櫓台の背後は山頂方向の尾根筋を堀切にて分断している。堀切の外側は、約20mの自然地形を経て、さらに薄い堀切が確認できる。
全体的に風化が激しく、土塁は薄く、櫓台は鉄塔建設により改変され不明瞭な部分が多い。尾根先は名神道開通により削り取られているので、本来の大手道は消滅したと思われる。

お城の歴史

『江州南北諸士帳』に、「番場 住 佐々木随兵鎌倉平氏 土肥三郎、同 同男左京進」とあり。(番場城に関して、文献等の資料は少ない。)

 鎌倉幕府成立頃から頼朝の家臣として活躍した土肥氏は、箕浦庄の地頭として下向した。土肥氏はその後、番場・多和田・醒井をそれぞれ分派に与え、箕浦庄の三土肥と称された。

 番場に居を構えた土肥氏は、その後もこの地で活躍して室町時代に鎌刃城を築いたとされるが、それ以前に居城としたのが番場城と殿屋敷であった。

画像に含まれている可能性があるもの:テキスト番場城の尾根先には殿屋敷と称される鎌刃城主堀氏の屋敷と伝承される地があるが、立地からみて番場城との詰城と居館の関係とみるのが普通である。

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、草、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:立ってる(複数の人)、木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:屋外画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、屋外、自然南側の土橋

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、植物、木、屋外、自然南側の堀切画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人、立ってる、屋外画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、屋外画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、木、植物、空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人、木、屋外、自然

東側に下りる。

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然


https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1042130015949573

 

西麓には「今福寺遺跡」とされる遺構が存在する。背後を水堀で遮断し、ほぼ中央の段築部には石積みが見られる。この遺跡は番場城遺構の一部のように思えるため記載しておく。

鎌刃城まつりで番場城と今福寺跡を長谷川博美先生に案内いただきました。今福寺跡は現在番場集落内にある称揚寺の前身の今福寺があったところとは知っていましたが、この地の歴史的な意味は地元でもあまり話題になる地域ではありませんでした。先生の説明を聞き3段の堀や石垣を備えた屋敷跡であったことが説得力のある説明と現地の形体から良く理解できました。番場城と一体的な中世の城下町的な屋敷ではないかと興味を持ちました。

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』、『江州南北諸士帳』、鎌刃城公式サイト

本日も訪問、ありがとうございました。