城郭探訪

yamaziro

妙見山城 近江国(大津)

2019年04月04日 | 山城

 

お城のデータ

所在地 :大津市大石東一丁目 マップhttp://yahoo.jp/J_fvpp

現 状:山林・山頂

形 式 : 山城

築城期:室町期

築城者:大石久衛門義信

標 高:202m 比高差:浄土寺より102m

遺  構 : 曲輪、土塁、空掘、堀切、箱掘、竪堀

目標地:浄土寺

駐車場:浄土寺参拝者用駐車場

訪城日 : 2013.11.19・2019.4.4

お城の概要

妙見山城は、大石良郷が鹿跳山に構えたとされる山城と考えられている。同城は、大石東館と同じ山塊(妙見山)の山頂部に築かれており、大石東館の詰城と見なされているが、詳細についは不明である。

浄土寺裏手の墓地から石段で北東上方の大石東館跡へ、館跡からは南東へ5分程で、山頂の妙見山城に着く。


まず最初に目に入るのは主郭の虎口で南東隅に開き、両脇には土塁が築かれ、右手前には空堀を穿ち、左手前に土塁を置き城道に折れを作り防御を固めており、城内土塁上からの威圧も強力である。主郭は40m×20m程でよく削平され、北東端に土壇があり櫓台と思われる。主郭の北東尾根と西尾根に腰郭を配し連郭式構造とし、北東端は堀切で尾根を断ち切り、西端は横堀を設けて切岸高を大きくしている。また、主郭中央付近の両斜面に竪堀を入れ横移動を押さえている。城道はやはり館のある南尾根に続いていたものと思われる。

まず最初に目に入るのは主郭の虎口で南東隅に開き、両脇には土塁が築かれ、右手前には空堀を穿ち、左手前に土塁を置き城道に折れを作り防御を固めており、城内土塁上からの威圧も強力である。主郭は40m×20m程でよく削平され、北東端に土壇があり櫓台と思われる。主郭の北東尾根と西尾根に腰郭を配し連郭式構造とし、北東端は堀切で尾根を断ち切り、西端は横堀を設けて切岸高を大きくしている。また、主郭中央付近の両斜面に竪堀を入れ横移動を押さえている。城道はやはり館のある南尾根に続いていたものと思われる。

 https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1318535944975644

大津市、瀬田川流域の複雑さの縄張りの城跡

◆妙見山城(大津市大石東町)無名だが、優等生の城

妙見山城は浄土寺背後の妙見山(標高202m)に築かれ、浄土寺の北東にある大石東館の詰め城と大石氏は、藤原鎌足を先祖に持ち、山城国田原郷と大石庄を領有した藤原秀郷(俵籐太)の流れを汲む豪氏で応仁の乱で一統・一族は断絶。遠縁の小山久朝が大石家を復興した。この館大石久衛門義信は近江八幡城の豊臣秀次に仕え、嫡男良照は本貫地を守り、二男内蔵助良勝は浅野家に仕え・・・忠臣蔵の大石内蔵助に繋がる家系と推定される。

妙見山城跡俯瞰図・鳥瞰図(長谷川氏:平成2年=1990年作図)

妙見山城横矢配図

 精密機械のように緻密な構造は中世城跡の奥義が隠されている。(長谷川氏:平成2年=1990年作図)妙見山城跡は大津南部の山城としては中世城跡の微細を知り尽くした心憎いばかりの縄張技術が恐縮した、最高峰の玄人肌の山城。

滋賀県下でベスト10に入る優れた名城。今回の図面は本邦初公開。

参考資料:県中世城郭分布調査、

 本日の訪問ありがとうございす。


三尾城(みおのき) 近江国(古代山城)

2018年05月22日 | 山城

三尾城(みおのき)は、近江国にあった日本の古代山城。城跡の所在地は不明で、現在の高島市付近に推定される。

『日本書紀』天武天皇元年(672)7月条によれば、天智天皇の死後に大海人皇子(のち天武天皇)・大友皇子の間で起こった争乱(壬申の乱)の際、大海人皇子方は大和国・近江国の2方面に各数万人の軍勢を配して進攻したが、そのうち近江方面軍はさらに湖北(湖西)方面軍・湖東方面軍に分かれ、湖北方面軍においては将軍の出雲臣狛・羽田公矢国らが北陸路を押さえたのちに7月22日に「三尾城」を攻め落としたという。

三尾城が記録に見えるのは、上記記事のみになる。

城名の「三尾」は地名で、『和名類聚抄』にも近江国高島郡に「三尾郷」と見えており、現在は滋賀県高島市安曇川町三尾里を遺称地とする。

同地は天智天皇・大友皇子の営んだ大津宮の北方に位置することから、三尾城は大津宮の北面防衛目的で築造された城であったと推測される。築城時期は定かでないが、天智天皇の時代には白村江の戦い(663)の敗北を契機として西日本の各地に古代山城(いわゆる朝鮮式山城や神籠石)が築城されており、三尾城も同様の背景による築城とする説が有力視される。

具体的な城の所在地は、現在も明らかでない。比定地には諸説あるが、特に白鬚神社(高島市鵜川)北側の長法寺山に比定する説が有力視される。同地では長法寺跡(伝・嘉祥2年(849)創建)や中世山城跡が重複することもあって、確実な遺構は明らかでないが、1982年(昭和57年)の調査では山中において7キロメートル以上に及ぶ長大な石塁などの存在が認められている。これを江戸時代のシシ垣(動物よけ)とする伝承もあるが、長大さ・水門などシシ垣にはそぐわない点も見られることから、(後世にシシ垣に転用されたとしても元々は)古代山城の遺構である可能性が指摘される。

なお三尾の地では、継体天皇の出自と関わる古代豪族の三尾氏が割拠したことが知られる。この三尾氏は朝鮮文化の影響を強く受けた氏族であることから、三尾城の築城主体に三尾氏を推定する説があるほか、実際の壬申の乱での三尾城主将に三尾氏を仮定する説もある。また、『日本書紀』天武天皇元年(672)5月是月条では「自近江京至于倭京、処処置候」として、道々には候(うかみ、斥候・監視所)が置かれたことが知られるため、三尾城は城郭ではなくこのような監視所であったとする説もある。

 


岩尾山城跡 近江国(甲賀)

2018年05月22日 | 山城

所在地:滋賀県甲賀市甲南町新田岩尾山 

緯度経度:34.888250, 136.127417 
遺構概要:城跡 
お城の概要
甲賀市甲南町域南西部、三重県境にそびえる岩尾山は、その名のとおり岩で覆われた標高471mの霊山です。平安時代初期に最澄が開山しました。
修験者、忍者の修練山で、中腹には屏風岩などの奇岩が点在しています。馬の形をした「おうま岩」、扇を開いたような「扇岩」や、たたくと木魚の音がする「木魚岩」など、その名もユニークです。
また、頂上からの眺めは360度の大パノラマ。眼下には杣川沿いに平野が広がり、遠くには鈴鹿山系を見渡すことができます。
 岩尾山の麓には、明治年間に農業かんがい用としてつくられた岩尾池が広がっています。この辺りは山と大自然の美を巧に取り入れた名勝地で、紅葉の季節は特に山々が真っ赤に色づき、とてもきれいです。
参考資料:遺跡ウォーカーの比定地、びわこビュロー

箕作城(箕作山城・清水山城)近江国(五箇荘)

2018年05月19日 | 山城

 

お城のデータ

所在地:東近江市(旧神崎郡の)五個荘山本町  map:http://yahoo.jp/8eDKEd 

別 称:清水山城

区 分:山城

現 況:山林  

築城期:鎌倉期

築城者:六角政尭

遺 構:石垣・土塁・城跡碑・案内板:

標 高:325m 比高差:200m

目標地:貴船神社

駐車場:山本自治会館か・路上駐車

訪城日:2016.11.5

お城の概要

箕作城は、観音寺城と中山道を挟んだ南側に2つある山のうち、北側の峰上にあります。こちらの山を通常清水山と呼び、南箕作山と地元住民は呼び。すなわち、箕作(山)城は箕作山の上の箕作城には数千人を収容できるほどの規模はないため、南の箕作山には小脇山城がある。

城跡へは、北麓の貴船神社脇が大手であろう。南東麓の建部神社脇からは、近年地元住民が登城路を整備、西の主郭から、北西麓の清水鼻へ搦め手道か?

 今回は貴船神社参道脇から登下山した。尾根筋に出てすぐに、箕作城址石碑(大正期)が建つ。縄張り図によっては、ここも城内に含まれているのですが、石碑や鉄塔の建設によって地形が改変されいる。また比高差200mの急斜の尾根上で土塁は低土塁で

 主城域は、大きく分けて東西2つの曲輪からなっる。東側の曲輪が清水山山頂(城石碑建つ)にあたり、西の主郭には、石垣がわずか残る。両曲輪とも、城外側に虎口跡と石垣の痕跡が見受けられます。また、両曲輪とも樹木が伐採されていて、眺望絶景となって中山道のいます。、鉄塔建て替え工事に伴うものだ。新調された鉄塔の脇には、土塁跡

箕作城は、石垣や虎口を備えてはいるものの、両曲廓の尾根道脇は、5mの規模で、とても3千人が籠城。城内だけでなく清水山全体に陣取っていた。。

お城の歴史 

 応仁の乱の後、六角高頼に対抗するため、幕府が送り込んだ佐々木政尭が清水城を築いて籠城したといい、これが箕作城の前身とも云われる。 

永禄11年(1568年)織田信長が六角氏の観音寺城を攻めたとき、六角氏は箕作山城に建部源八郎と吉田出雲を入れて守りを固めた。しかし、佐久間盛信や木下藤吉郎などが攻めかかって城は落城、六角父子は夜陰に紛れて甲賀へ逃れたと云われる。

箕作城 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

箕作城(みつくりじょう)は、現在の滋賀県東近江市五個荘山本町箕作山の山上に築かれた六角氏の城館。

本丸の石垣がわずかに残る。

  • 応仁の乱で六角高頼の観音寺城に対抗して佐々木政尭(まさたか)が築城。

  • 天文19年(1550)頃、佐々木六角高頼が改修。
  • 永禄11年(1568)、織田信長の攻撃で落城し以後は廃城となった(観音寺城の戦い=箕作城の戦い}。

観音寺城の支城です。六角定頼が天文十九年(1550年)に改築城しましたが、永禄十一年(1568年)に織田信長の侵攻で落城しました

 

信長公記 巻一

4、上洛  信長入洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるるの事

 永禄11(1568)年9月7日、信長公は義昭殿の元へ参上し、出陣の挨拶を述べた。

「江州をひと呑みに討ち果たし、お迎え申し上げる」
そうして信長公は濃尾勢三(信長所領の兵に家康の援軍も加え、総勢四万~六万と伝えられる。)四州の軍兵を率い、同日岐阜を出立した。

 軍勢は平尾村(現岐阜県垂井)で夜を明かして翌8日江州高宮(現滋賀県彦根市)まで進み、この地に二日間滞在して人馬の息を休めた。11日になって休息を終えた軍勢は愛知川近辺まで進軍して野陣を張った。ここから馬を駆けまわして付近の敵状を探索した信長公は、沿道に散在する敵城には目をくれずに進軍し、六角承禎親子が立てこもる観音寺城(現・安土町)に近接する箕作城(現五箇荘)へ向かった。翌12日、信長公の命を受けた佐久間信盛・木下藤吉郎秀吉・丹羽長秀・浅井新八らによって箕作城の攻撃が開始された。攻撃は申刻(午後3時過ぎ)より始まり、夜半に城は落ちた。

 信長公の所領となってまもない美濃の将士は、この戦ではさだめし先手として追い使われることになろうと覚悟していた。しかしいざ戦が始まってみると、信長公は美濃衆などに構わず馬廻りだけで攻撃を開始してしまった。この思いもよらない戦の仕方に、美濃三人衆などはただ驚くばかりであったという。

 落城後、信長公は箕作山に陣を据え、翌日にも六角氏の本拠観音寺城を攻める勢いを示した。ところが箕作の陥落をみた承禎親子は抵抗は不可能とみて城を捨てて逃亡してしまった。翌日織田勢はやすやすと観音寺城へ入城を果たした。観音寺落城によって付近の六角残党が軒並みに降伏してきたため、信長公は人質を差し出させた上で彼らの所領を安堵してやり、一国を支配下に収めた。盟約通り江南を平定した信長公は、14日不破光治を迎えの使者に立てて美濃立正寺へ向かわせた。・・・云々

箕作(みつくり)城の戦い

  箕作山は標高3百メートル余の小山であったが、城へ通じる道は急斜面に一筋しかなく、大樹に覆われた要害であった。守将は剛勇で知られた吉田重光・建部秀明・狛修理亮・吉田新助などで3千余人が防備にあたり、徹底抗戦の構えを見せていた。

  これに対して織田軍は東口から丹羽長秀隊3千余人、北口から羽柴秀吉隊2千3百余人が攻め立てた。しかし城方の守備は堅固で、日没まで陥落させることができなかった。そこで秀吉は蜂須賀正勝の夜襲案を採用することにした。

 1メートルほどの大松明を数百本用意し、箕作山の麓から中腹まで50箇所ほどに積み重ねておき、頃合いを見て一斉に点火し、いわゆる火攻めを行うというものだった。それと同時に秀吉隊も手に松明をかざして一斉攻撃を展開したために城兵たちも防ぎきれず、2百余人の犠牲者を出して退散してしまったのである。

 この箕作城の陥落を知った和田山城では一戦も交えることなく全員が逃亡し、観音寺城の義賢も完全に戦意を失い、夜陰に紛れて甲賀郡へと落ち延びていった。翌日になって義賢父子が逃亡したことがわかると六角氏重臣の平井定武・後藤高治らもことごとく信長に降った。

  最後まで抵抗の姿勢を示した日野城主の蒲生賢秀(氏郷の父)も、神戸友盛の説得によって降伏した。

 観音寺城の戦いは、永禄11年(1568年)9月12日、足利義昭を奉じて上洛の途にあった織田信長と近江守護である六角義賢・義治父子との間で行なわれた戦い。支城の箕作城(みつくりじょう)が主戦場だったため、別名「箕作城の戦い」とも云われている。

 しかし信長の行動はその裏をかいた格好となった。

 9月12日早朝、織田軍は愛知川を渡河すると、3隊に分かれた。稲葉良通が率いる第1隊が和田山城へ、柴田勝家と森可成が率いる第2隊は観音寺城へ信長、滝川一益、丹羽長秀、木下秀吉(後の豊臣秀吉)らの第3隊が箕作城に向かった

 戦端は箕作城でひらかれた。木下隊2千3百が北の口から、丹羽隊3千が東の口から攻撃を開始した。この箕作城というのは急坂や大木が覆う堅城で、吉田出雲守隊の守りも固く、午後五時前後には逆に追い崩されてしまった。

 木下隊では評議を行い、夜襲を決行することになる。木下秀吉は策をめぐらし、3尺の松明を数百本用意させ、中腹まで50箇所に配置し一斉に火をつけ、これを合図に一挙に攻め上った。7時間以上戦ったその日のうちに夜襲を仕掛けてくるとは考えてもいなかったのか箕作城兵は驚き、必死に防戦したが支えきれず、夜明けを待たずに落城してしまった。かなりの激戦だったらしく、200以上の首級が上がった。箕作城の落城を知った和田山の城兵は、戦わずに逃亡してしまった。

 長期戦を想定していた六角義治は、戦端が開かれてから1日も立たずに箕作城と和田山城が落ちたことに落胆し、観音寺城の防備が弱いことを悟ったのか、古来の例にならい夜陰に紛れて甲賀へ落ち延びていった。当主を失った18の支城は、1つを除き次々と織田軍に降り、ここに大勢が決した。この戦いの織田軍の損害は1500人ほどだと『フロイス日本史』に記載されている。

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査・『ウィキペディア(Wikipedia)』・『信長公記』

本日の訪問ありがとうございす。


観音寺城(御屋形・大手道・観音寺城・桑実寺) 

2018年04月29日 | 山城

画像に含まれている可能性があるもの:木画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外、自然

画像に含まれている可能性があるもの:木、屋外、自然、水

山麓の御屋形跡の土塁画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、植物、屋外、自然

 

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然本丸

 

「戦国の近江」地域の魅力発信事業・連続講座「近江の城郭 足利将軍と近江」第5回足利将軍と近江

  応仁元年(1467年)に始まる応仁・文明の乱は、約11年間にわたり、全国を戦乱の渦に巻き込みました。その結果、室町幕府の権威は衰退し、各地に実力で領国支配を成し遂げる戦国大名が台頭します。戦国時代の幕開けです。

しかし、近江では強力な権力を持った戦国大名は誕生せず、鎌倉時代から近江守護であった六角氏の支配が織田信長の上洛まで続きます。一方で、室町幕府の権威が衰退した結果、畿内での政争に敗れた足利将軍が京都を離れ、有力守護の領国に在国する事態が頻発します。近江へは守護六角氏の支援を求めて12代将軍義晴や13代将軍義輝がやってきており、足利将軍と深いかかわりを持つところが、「戦国の近江」の特徴の一つとなっています。

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1041648435997731画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1041650929330815

今回は、12代将軍足利義晴が約3年間滞在した桑実寺とそれに続く近江守護六角氏の居城観音寺城の現地探訪

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然桑実寺御所跡

参考資料:

本日の訪問ありがとうございす!!

 

 


星ヶ崎城(鏡山城) 近江国(竜王)

2018年04月23日 | 山城

画像に含まれている可能性があるもの:空、木、屋外画像に含まれている可能性があるもの:屋外

お城のデータ 

所在地:蒲生郡竜王町鏡   map:http://yahoo.jp/Sca-1H

別 名:鏡山城

現 状:山林

区 分:山城 

標 高:247m  比高差:130m

築城期:室町中期

築城者:鏡久綱

遺 構: 石垣・曲輪・土塁・竪堀・池・石碑

目標地:道の駅「かがみの里」

駐車場:道の駅「かがみの里」駐車場

訪城日:2018.3.31

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、空、屋外画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外写真の説明はありません。

お城の概要

 星ガ崎城へは、道の駅「かがみの里」から西光寺跡を経ても登れる。旧中山道へと入る。旧中山道の鏡地区の中ほど山手側の住宅地の横から細い山道が星ガ崎城へと続いている。

 中山道に面しているこの道が星ガ崎城の大手道。山形が比較的なだらかであるだけに道が分かり難いが、所々木にぶら下がっている「星ヶ崎城址」の表示板を目印に登ると尾根道に出る。尾根筋には堅堀らしきものが幾つかみられる。小さなピークを二つほど越え、登り初めて約30分ほどで山頂に着く。

 山頂の主曲輪はおおよそ50m×20mほどで、城址を示す石碑が建てられている。
南側斜面に高さ3m、長さ20mほどの石垣がしっかりと残り、北東側の斜面にも長さ2mほどの石積みがみられる。また主曲輪の東側虎口にも石が散乱しており、当時は主曲輪周囲に石積みがなされていたであろうことを窺わせる。

なお、北側山麓には鏡氏の居館である井上館がある。画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:屋外

お城の歴史

築城者は、竜王町鏡の土豪、鏡氏とされるが、定かではない。

伝承によると、鎌倉時代、鏡久綱の居城であったが、承久3年(1221)の承久の変に破れ、鏡氏は滅亡する。その後、馬渕氏、六角氏が城主となる。

永禄9年(1566)に起きた観音寺騒動の際に、反旗を翻した家臣の永原氏が永原城に立て籠もったのに対して、六角承禎が星ケ崎城に入って対峙したという記録がある。

仕え星ヶ崎城は佐々木氏の支流鏡氏代々の居城で、鏡山の星ヶ峰にある。

鏡氏は佐々木定綱の二男定重を祖とし、定重の子久綱が鏡庄を領有して鏡氏を称した。

 久綱は承久の乱に官軍に属して尾張で戦死し家系は絶えたが、京極氏より入りこれを継がせたとある。鏡高規とその子定頼は、後に織田信長に仕えた。

城の立地状況は、観音寺城の東の陣城とされた佐生城とよく似ています。佐生城は愛知川を前面に置き、東からの攻撃に対しての橋頭堡となる城で、しかも石垣が築かれています。

星ヶ崎城もこれより西にある信長時代には佐久間信盛が江南の支配拠点に置いた永原城があります。永原城の東の抑えになる陣城で前面には日野川があり、橋頭堡となる城です。石垣を主郭のみに用いる点も共通しています。

織田が近江侵攻を計った時に、六角義治が十八の支城で侵攻を阻止しようと試みたとあり、そのうちの一つという説もあります。

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1041139442715297

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1041184852710756

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1041186402710601 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、城歩会資料・作図:長谷川博美氏(城郭研究家)

             本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!!


小川城(城山城・小川鶴見城)   近江国(甲賀・信楽)

2018年04月15日 | 山城

画像に含まれている可能性があるもの:屋外

城山城画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、屋外

 

お城のデータ

別 称:小川鶴見城・城山城 

所在地:甲賀市信楽町小川(旧:甲賀郡信楽町小川) map: http://yahoo.jp/ba8ETw 

区 分:山城

標 高:470m   比高差:120m 

現 状:山林・公園

遺 構:曲郭・土塁・堀切・石垣・説明板

築城期:室町期・・嘉吉三年(1305)

改築期:織豊期(天正年間)

築城者:鶴見伊予守定則(道宗)

改築者:多羅尾光俊

廃 城:文禄四年(1595)

駐車城:主郭すぐ5分

目標地:林道の入口は県道138号線天満宮の鳥居のやや北東側に小川城の道標が出いる。

訪問日:2018.4.14

画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、草、空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:屋外画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、草、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:屋外

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1041119486050626

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1041121552717086

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1041125916049983

画像に含まれている可能性があるもの:木、草、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、植物、草、屋外、自然

お城の概要

車で林道を進み5分程度登りますが、(対向車のないこと祈りながら)。山頂の主郭のすぐ下まで林道があり、普通車クラスなら車で登ることができる。林道の入口は県道138号線天満宮の鳥居のやや北東側に小川城の道標が出ており、これにしたがって林道を進めばよい。

小川城は小川集落の南東にある標高470.4mの通称城山山頂に築かれている。

 主郭は南西から北東方向に伸びた山頂部に築かれており、南西端に櫓台を設けた土塁で囲まれた曲輪で、北西側に虎口があり力石がある。土塁が屈折した形状で草で覆われ確認できないが、礎石が残されているという。北東側は土塁で区画された削平、小段と続き、南西側は堀切で区画され東屋の建つ曲輪がある。南へ続く尾根は堀切で遮断され、北西の中之城に続く尾根にも一郭あり、尾根は土塁と堀切で遮断されている。

大光寺には近衛家基とその子経平そして多羅尾氏の祖となった高山太郎師俊の墓があり、多羅尾氏の墓所もある。

城址は整備され、思った以上の規模と遺構に満足。主郭は土塁が巡り、遠くから主郭を見ると半地下状に見えて印象的です。また、僅かですが土塁の内側に石垣も見ることができます。さらに、南側の谷を挟んだピークに出丸と思われる箇所も認められます。城址よりは信楽中心部が見渡せ、眺望がとてもいいです。

中の城へも案内が!。案内板には中の城と小川城の間は1.5Km(中の城と県道までは500m)と表記ありますが、ここもそんなに長い距離とは思えません。途中には小郭が二箇所、堀切が数箇所認められ、本城と支城の間の連絡道が完存してる支城と本城との繋ぎ道。写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、草、屋外、自然

歴 史

小川城は嘉吉三年(1305)に鶴見伊予守長実によって、あるいは、富永俊盛によって築城されたと伝えられる。

しかし、山頂城址からの出土品などによって、正安二年(1300)に鶴見伊予守定則(道宗)の築いたとするのが 定説となっている。

永享元年(1487)、鶴見氏を逐った多羅尾氏の拠るところとなり、天正年間、多羅尾光俊が 改築したものがいまに残る城址という。


天正十年(1582)、本能寺の変に際して甲賀から伊賀を通って三河へ逃げ帰った徳川家康が、甲賀で一夜を 明かしたもは小川城であったとも伝えられている。が?

画像に含まれている可能性があるもの:1人、屋外近年、大光寺を宿所にしていた文書が発見された!

信長死後、豊臣政権に生き残った多羅尾氏であったが、 文禄四年(1595)、豊臣秀次の罪に連坐した多羅尾氏は没落、 小川城も廃城となった。

城址を歩くと土塁、堀切、虎口などがよく保存・整備され、石垣もわずかだが残っている。 城址からの展望は抜群で、登山の疲れを一気に吹き飛ばしてくれる風景が広がる。 

永禄11年(1568)、織田信長からの近江路案内役の依頼を断った佐々木氏は、信長に居城・支城をことごとく攻略されてしまう。そして天正9年(1581)、信長は安土城に4万6千の大軍を集め、全滅作戦「天正伊賀の乱」を決行したのである。こうして近江の雄、佐々木氏の時代は去っていったのだが、この時、甲賀忍者集団が積極的に佐々木氏を支援しなかったのが大きな敗因でもあった。

 実はこの裏では、徳川家康が動いていた。家康は早くから忍者の実力に目を付け、永禄元年(1558)には甲賀・伊賀の忍者を合わせて270名雇い入れていたという。信長の佐々木氏攻めに甲賀忍者が動かなかったのは、佐々木氏に加担しないことを条件に、家康が甲賀攻めを回避したからだといわれている

 もともと甲賀忍者の生き方は、決して攻撃的なものではない。あくまでも自分たちの生活を守るために武力を行使してきた。

 今までは近江の一大勢力であった佐々木氏と手を結び、協力することが必要であると判断してきたが、佐々木氏の衰退を見た忍者たちは、信長寄りの姿勢を固めていったといえる。信長の力の前に甲賀忍者は屈したが、信長には内心は反発していたようだ。その実力・手腕を認めながらも、強引なやり方には反感を持っていたし、また信長も甲賀忍者には警戒の目を向けていた。

「天正伊賀の乱」からわずか8ヶ月後の天正10年(1582)、本能寺の変が起こる。信長の家臣・明智光秀が、京都四条の本能寺において、信長の不意を襲って自害に追い込んだのである。この時、信長の招きで都見物に来ていた家康は旅先でこの大事件を聞き、一刻も早く本拠三河に帰ろうとしたが光秀勢に帰路を阻まれ窮地に追い込まれていた。

 しかし甲賀忍者の好意的な援護により、宇治田原から信楽へ入り、甲賀53家の1人・多羅尾家で一泊した。その先は、服部半蔵ら伊賀忍者等に護られ、伊賀から加太(かぶと)越えし伊勢の白子浜に着き、そこから海路で三河まで逃れることができた。この「伊賀越え」の功績により、多羅尾氏は後に代官に取り立てられ、伊賀忍者たちも尾張の鳴海に呼ばれ、伊賀二百人組が組織された。

このように先の見通しを早くから察知して、天下の成り行きを十分把握していたのが忍者の活躍の特徴である。信長・秀吉・家康、この3人の実力者の内、時の流れの一歩先を見越して、最後に天下を取るのは三河の家康であろうと見通していたかのように思われる。また戦国大名の中では、家康が一番見事に忍者を活用していたといえよう。

 甲賀の忍者たちが江戸に移り住むようになるのは寛永11年(1634)で、伊賀忍者たちの江戸移住よりおよそ50年程後になってからのことである。というのも、甲賀忍者は合議制の伝統が続いていたこともあって、先祖代々の土地を離れて江戸に移住することに反対するものも多かったためである。しかし将軍の度々の勧めを断り続けるわけにもいかず、ようやく大原氏以下数人の者が江戸移住を決意したことで、甲賀百人組もようやく江戸に舞台を移すことになった。

画像に含まれている可能性があるもの:空、木、屋外、自然小川城遠望

画像に含まれている可能性があるもの:5人、、スマイル、立ってる(複数の人)、屋外

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城、

本日の訪問ありがとうございす。



北内貴城(比佐殿屋敷) 近江国(甲賀・水口)

2018年02月12日 | 山城

 写真の説明はありません。

別 称:比佐殿屋敷

所在地:甲賀市水口町北内貴字大谷・水口字下真海 map:http://yahoo.jp/IgNUVy

現 状:山林

遺 構:曲輪(二郭三曲輪)・ニ重土塁・障子堀・竪堀・土橋

区 分:平山城 (山頂)

築城者:美濃部茂忠

築城期:織豊期 永禄年間(1558-70)

標 高:230m  比高差50m

目 標:みなくち子どもの森(一番奥)

駐車場・・・(要注意:閉門16:30)

訪城日:2018.2.10

お城の概要

甲賀には珍しい障子掘・二重土塁に囲まれた

北内貴城は北内貴の東端、野洲川左岸に広がる山塊内に所在する。

野洲川(東側)は、切岸状で土塁はない。西側の池(灌漑池)を前掘に、築城され比高差少ないためか土塁の外側を堀込んで障子掘に、その外側は掻揚土塁として防御力を図る巧みな築城技術的な城!

現在西麓の谷部はみなくち総合公園(みなくち子どもの森)、公園を見下ろす格好で南北に延びる尾根頂部(230m)を一杯に築かれている。

 曲輪Ⅰが主郭と見られ、甲賀には珍しい障子掘・二重土塁に囲まれた方形区画で、急崖の北東辺以外は平地城館のような横堀が掘られている。南東辺に平虎口が開口し、土橋状の通路で曲輪Ⅱに至る。
 曲輪主郭と副廓の間は主郭側高く5mを図る。長い土塁と障子掘である。

南端は尾根筋を遮断する堀切に土橋が架かっていて、曲輪Ⅲ側には櫓台のような高まりが更に防御性を高めている。
曲輪Ⅱは北東辺以外を甲賀には珍しい障子掘・二重土塁に囲まれた方形区画土塁で囲み、北隅付近に虎口が開口している。虎口の外側は、城道に付属する土塁が設けられる厳重さから、これが大手だと思われる。大手を下った先には幾つかの削平が確認できる。

 北内貴城は、他の甲賀の城のように集落背後とは離れた立地と、特徴的な縄張、特定の土豪(美濃部氏)の城と伝わる。

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、座ってる(複数の人)、木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然

お城の歴史

 北内貴城は、永禄年間(1558-70)に美濃部茂忠が築いた。

茂忠の子美濃部治茂は、蒲生氏の女である比佐女を室に迎えたが、この比佐女がここに住したため「比佐殿屋敷」の別名が伝わる。

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、犬、屋外、自然

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1041628562666385

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1041632192666022

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1041633565999218

作図:長谷川博美氏

参考資料:『甲賀市史 甲賀の城』・城歩会資料・

本日の訪問ありがとうございす!! 


朝宮支城(朝宮城山城・赤松城)  近江国(甲賀・信楽)

2018年01月13日 | 山城

 主郭虎口

お城のデータ 

所在地:甲賀市(旧甲賀郡)信楽町下朝宮 map:http://yahoo.jp/vEmMyn

別 名:赤松城・朝宮城山城

区 分:山城

現 状:山腹(森林)

築城期:室町期

改築期:織豊期

築城者:山口籐左衛門光英源助

改築者:松永久秀方とする見解

標 高:369m  比高差:70m

遺 構:土塁、堀切、畝状竪堀、虎口、曲廓、」城跡碑

目 標:国道307号線沿い御茶屋工房

駐車場:国道307号線沿い城址登り口駐車スペース

訪城日:2016.2.5

主郭曲廓に建つNHKのアンテナ塔

お城の概要

 朝宮城山城は、京都府と境界を接する信楽町下朝宮集落の南東、標高369mの通称「城山」の山頂に築かれている。

街道沿いの、比高差70mで、防衛面で強化がされた城郭。切岸・畝城竪堀・曲廓間横堀を多用。

 主郭は山頂にあって、北郭と南郭からなり、南北に細長い逆「く」の字状を呈している。西面の中央付近に郭面を掘り窪めて内枡形状の虎口を設け、この虎口を北郭と南郭が共用する形になっている。北郭は20m×45m程の規模で、郭内は小さな段差で二段になっている。南郭は北郭に比べ細長くなっている。この郭も小さな段差で二段になっており、南面に土塁と堀切を設け区画されている。東側と西側の南半分には畝状空堀が入れ、防備を固めている。
 頂部から西にのびる支尾根には、西郭が設けられている。西郭は北郭とほぼ同規模で、東西側に堀切を穿ち、東面には土塁も築いている。北面のやや東寄りに郭面を方形に掘り窪めた枡形状の虎口が開口している。この虎口から主郭の虎口へは、北側に一段下がり連絡用の通路が設られており、各郭間に一体性を持たせている。

切岸に多数の畝状空堀や竪堀を入れる構造は、甲賀ではもちろん、近江でも見られない特殊な城郭である

登城口は国道307号線沿いの製茶工房【茶のみやぐち】があり、

その対面側の建物の背後から山道を登ると城跡に至る。 国道307号線添いの駐車可スペースある

歴 史

初代は朝宮城主山口籐左衛門光英源助

天正10年(『近江與地志略』は、赤松満祐が伊賀攻めの際にとどまったという説を記しており、赤松城とも呼ばれるが、遺構は戦国時代の特徴を示し、構造が大和国に見られることから、築城者を松永久秀方とする見解がある。

 これは、松永方が大和と南山城を勢力下に置きつつ、永禄年間(1558~70)には織田信長方として六角氏や湖南の一向一揆を牽制するため近江南部に侵攻しており、また、元亀年間(1570~73)には甲賀・伊賀に逃れていた六角氏や多羅尾氏とともに反織田信長連合を形成し、甲賀方面での軍事行動を活発に行っていることからである

『江州佐々木南北諸氏帳』には、「甲賀郡 朝宮城主 佐々木隋兵 多羅尾和泉守 朝宮城主 箕作隋兵 多羅尾平内」の名を記す。

 天正10年(1582)光広の時、いわゆる「神君伊賀越え」に功があったとして、江戸時代に柞原下村、朝宮下村で各250石の500石余を与えられた。旗本として明治維新まで存続した。

多羅尾氏、勢力を伸張

 多羅尾氏と並んで信楽に勢力を保っていた武士に鶴見氏がいた。「鶴見氏系図」によれば鶴見弾正左衛門長実が近衛家基に従って信楽に来住、嘉元三(1305)年に小川城を築いたとある。一方、平安末期より信楽にある興福寺領の下司職として小川東部に居住、鶴見伊予守道宗(定則)が正安二年(1300)に小川城を築いたとする説もある。
 南北朝時代を迎えると鶴見氏は南朝の味方して活躍、暦応三年(1340)、鶴見俊純は朝宮城を築き、山城国和束の米山一族との戦いを展開した。この戦いに多羅尾播磨入道は鶴見氏を後援、合戦は鶴見方の勝利となった。このことから、南北朝の争乱に際して多羅尾氏は南朝方として行動していたことがうかがわれる。以後、多羅尾氏と鶴見氏は拮抗するかたちで並立、小川の地の統治は交互に行われるということがつづいた。
 室町時代を迎えると守護大名の強大化から幕府の権威が動揺、さらに将軍後継をめぐる内訌が生じ、応仁元年(1467)、応仁の乱が起こった。乱の一方の主要人物である足利義視は伊勢の北畠氏を頼って京を脱出、多羅尾氏は信楽に入った義視を守護して伊勢に送り届けている。また、義視が伊勢から京に帰るときも多羅尾氏が道中の警固をになった。甲賀の地は伊賀を通じて伊勢に通じる道筋にあたることから、甲賀武士たちは中央貴族の往来を保護する任を担っていたようだ。
 応仁の乱がもたらした下剋上の風潮は、諸国の守護・地頭らが荘園の押領をうながし、貴族らの経済基盤はおおきく揺さぶられた。応仁二年、近衛政家が信楽に下向してきたのも、京の戦乱を避けることもあっただろうが信楽荘の経営安定と立て直しが狙いであった。政家を迎えた多羅尾玄頻はその接待につとめ、信楽荘の年貢公事等の徴収にあたるという契約を結んだ。かくして、多羅尾氏は、近衛家の年貢徴収役をあずかることで、地域に大きな基盤を築き、近衛家への公事徴収からの利益を得ることでさらに勢力を拡大していったのである。
 応仁の乱における近江は、佐々木六角氏が西軍、佐々木京極氏が東軍に味方してそれぞれ抗争を繰り広げた。多羅尾氏ら甲賀武士は六角氏に属して活躍、文明年間(1469~87)になると六角氏と京極氏の対立はさらに激化した。文明三年(1471)の蒲生黒橋の戦いに参加した甲賀武士の多くが戦死した。
 応仁の乱より反幕府的姿勢を明確にする六角高頼は、自己勢力の拡張をめざして、近江国内にある寺社領、幕府奉公衆の所領を蚕食していった。幕府は再三にわたって六角高頼の行動を制止したが、高頼は幕命に応じることはなかった。高頼の態度に業を煮やした将軍足利義尚は、長享元年(1487)、六角高頼攻めの陣を起こした。いわゆる長享の乱で、高頼は居城の観音寺城を捨てて甲賀に逃走した。以後、幕府の大軍を相手に六角高頼はゲリラ戦を展開、そして、多羅尾四郎兵衛ら甲賀武士は将軍義尚の鈎の陣を夜襲する活躍をみせ、甲賀五十三士と称された。

表舞台への登場

 多羅尾氏と並ぶ信楽の有力武士であった鶴見成俊は将軍方に属したため、多羅尾氏は小川城を攻略、敗れた成俊は山城の椿井播磨守を頼って没落した。多羅尾氏家譜によれば、光教十二代の孫が光吉で、左京進・和泉守などを称し、永禄十一年(1568)に死んだとある。このことから、鶴見氏を逐って小川城主となったのは、光吉の父か祖父の代かと思われる。
 鶴見氏を逐って信楽の最有力者となった多羅尾氏は、近衛氏領である信楽の押領を繰り返すようになり、ついに明応十年(1501)、近衛氏は信楽郷を守護請として支配を放棄するにいたった。その後、多羅尾氏は伊庭氏の代官職管掌のもとで庄官を務め、近衛家領を完全に掌握し、名実ともに信楽随一の領主に成長したのである。
 光吉の子が多羅尾氏中興の祖といわれる四郎兵衛光俊(入道道可)で、光吉より信楽の領地七千石を受け継ぎ佐々木六角氏に属した。永禄十一年(1568)、六角氏が信長の上洛軍に敗れて没落すると信長に仕え、天正九年(1581)の伊賀攻めの陣にも参加した。ところが、翌天正十年(1582)六月、信長が明智光秀の謀叛によって、京都本能寺において生害した。

登り口

NHKケーブル埋設直登した

主郭と西曲廓の間の堀切

西曲廓

主郭へ大手道

 

主郭と3曲廓の堀切堀切三ノ曲廓虎口南曲廓への堀切三ノ曲廓と二曲廓

谷筋に下りる

山口陣屋からの遠景

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、『甲賀の城』武家家伝多羅尾氏、信楽の狸物語 狸宗苑のHP「山口陣屋跡と狸 (下朝宮)」

自動代替テキストはありません。画像に含まれている可能性があるもの:スケッチ

 本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


史跡観音寺城跡の調査と整備

2018年01月11日 | 山城

史跡観音寺城跡の調査と整備

観音寺城と佐々木六角氏

近江源氏佐々木六角氏

佐々木六角氏は、鎌倉時代初期から戦国時代末期まで近江守護を勤めた名門です。この六角氏が戦国時代に居城としたのが観音寺城です。
佐々木六角氏の系譜は、宇多天皇の皇子敦実親王にはじまる近江源氏につながるといわれています。その子雅信が源姓を賜わり、その孫成頼の代に近江に下り、さらにその孫経方の時、佐々木庄(近江国蒲生郡)の下司となって佐々木姓を名乗ったようです。その過程で、古代より蒲生郡で勢力を誇り、延喜式内社である沙沙貴神社を氏神とした佐々貴山公を祖とする一族を取り込んでいったと考えられています。
中世近江における佐々木氏発展の基礎を築いたのは、源平争乱で源頼朝に忠誠を誓ってめざましい活躍をした佐々木秀義とその5人の息子たちです。この時の恩賞により、嫡子定綱は佐々木庄地頭職を安堵され、近江国惣捕使(のちの近江守護)となっていきます。他の兄弟たちもそれぞれ恩賞を得、多いときには延べ17ヶ国の守護に任じられた時期もあったようです。ともかく、一族の基盤であった近江については、一時期を除き、佐々木惣領家が近江守護を嗣いでいきます。
その後、定綱の孫の代に佐々木氏は四家に分かれ、惣領であった三男泰綱は京都六角東洞院に屋敷を賜ったことから六角氏を名乗ります。他の庶子家も惣領家から独立し、近江各地から全国へと展開していきます。京極氏、尼子氏、朽木氏などがその代表です。
南北朝期から室町前期にかけては、一族内の家督争いや内紛が起こり、近江国内は混乱します。こうした混乱を経て再び守護としての権力強化を目指したのが六角高頼です。高頼は足利義尚・義材と2度にわたり、将軍親征を受けますが、これを乗り切り、権力の強化に成功します。この高頼からその子氏綱・定頼とつづく時期が戦国期六角氏の絶頂期といえるでしょう。この間、守護権力を脅かす存在であった守護代伊庭氏を追放し、新興の家臣たちを奉行人とする奉行人体制を構築します。しかし、この絶頂期にあっても六角氏は戦国大名として絶対的権力をもって近江国内を統一することはできませんでした。それは、近江国が京都に近く延暦寺をはじめとした荘園領主の力が強かったこと、そうした状況を背景として惣村や寺内町といった民衆の自治が発展していたことによるといわれています。こうした諸勢力に対し、あくまで六角氏は守護としての権限を行使するのみで、それ以上に直接的な支配を行っていません。
六角氏による近江支配を最終的に終わらせたのは織田信長による近江侵攻です。永禄11年(1568)、後の15代将軍足利義昭を擁して岐阜から上洛の途に付いた信長は、近江通過にあたり、六角承禎に道案内を命じます。しかし承禎がこれを拒否したため軍勢を率いて近江に入った信長は、居城観音寺城に迫ります。承禎・義治父子は信長軍の侵攻を前に、戦うことなく城を出、甲賀地方に逃亡します。それ以前に、六角氏の奉行人を勤めた近江国内の在地領主たちがいち早く信長に随い、六角氏を見限っています。このあたりに、六角氏の権力の弱さをみることができます。ともかく、ここに六角氏による近江支配を終焉をむかえることとなったのです。
その後、六角氏は反信長包囲網の一つとして近江湖東の一向一揆を扇動したり、反信長勢力間の連絡を行ったりしていましたが、元亀3年(1573)の鯰江城(滋賀県東近江市)の戦いに敗れて最後の拠点を失い、歴史の表舞台から姿を消すことになりました。

観音寺城の歴史と構造観音正寺境内

観音寺城は、標高432mの繖山にありました。山頂から南斜面にかけての山復全体に郭が鱗状に広がっていますが、これらの多くが古くからこの山にあった観音正寺の遺構ではないかと考えられ、城郭の遺構との区別が今後の課題となっています。
観音寺城の名は、城跡の中心に伽藍を構える観音正寺(中世には観音寺)に由来します。南北朝時代に佐々木氏頼が観音寺に布陣したことを、「観音寺ノ城郭」と『太平記』に記されたのが初見です。その後も、たびたび観音寺へ陣所がおかれましたが、このことが「観音寺(ノ)城」と記録されたのを、現在はそのまま「観音寺城」と呼んでいます。江戸時代の古城図や城内の石碑は「佐々木城趾」としています。
観音寺城が当主の居住する城として石垣を多用した姿に整備されたのは、修築の記録が集中する1530〜50年代のことと考えられます。これが正しいとすると、石垣を多用した城郭としては安土城より早く、戦国時代としてはほとんど唯一の城になります。観音寺城は、中世山城としては傑出した規模を持っていて、俗にいう「日本五大山城」の一つにも数えられている一方で、防御の観点からすると通常の山城では考えられない、不可解な構造をそなえていることでも有名です。伝本丸裏虎口伝平井丸虎口
観音寺城の中枢部分は、本谷を挟んで観音正寺境内の向かい側にある、伝本丸、伝平井丸、伝池田丸のあたりと考えられます。これらの郭は、城内でも特に面積が大きく、四隅を作って方形志向の平面形を呈し、大石を使った壮大な石塁が郭を囲んでいます。昭和45年の発掘調査では、茶器や中国産の陶磁器などが豊富に含まれていていました。天文13年(1544)に城を訪れた連歌師谷宗牧は、山上の城の「御二階」の座敷に案内され、そこには「数寄」の茶室に茶器の名品が用意されていて、城の退出にあたっては秘蔵の古筆を送られたと書いています。観音寺城が要塞であるとともに、六角氏の風雅な生活の場所であったことがうかがえます。
永禄11年(1568)に織田信長が観音寺城を攻撃すると、六角承禎・義治親子は正面から戦うことなく逃亡し、あっけなく開城しました。発掘調査によれば、観音寺城は大規模な火災にあったことがうかがえますが、炎上した時期は記録や伝承で伝わっていることが一致していません。天正7年(1579)に安土城が完成したことによって、観音寺城は歴史的役割を終えたようです。

城下町石寺

繖山の南山麓に広がる集落が石寺です。観音寺城の城下町があったとされ、今でも郭状の平坦地と石垣が広がっており、家臣団屋敷の跡ではないかと考えられています。伝御屋形跡高石垣
集落のもっとも高い部分にある天満宮は御屋形跡とも呼ばれ、六角氏の居館があったとされています。郭の前面の石垣は、城内でももっとも高い石垣で、稚拙ながらコーナー部分に算木積みが見られます。御屋形跡を少しくだったところに、山麓に沿って東西方向に景清道が通っています。この道は平景清が尾張から京都へ行く時に通った道といわれていますが、石寺から常楽寺(現蒲生郡安土町常楽寺)方向への抜け道です。この景清道沿いに郭が広がっており、かつて多数あった観音正寺の坊跡と考えられていますが、今では教林坊が現存するだけです。さらに南へ下がると現集落の中央を東西方向に貫く道が通っています。石寺の南を通る東山道(中山道)から石寺集落内を通り、集落東端で再び東山道と合流する道で、下街道と呼ばれています。一説には景清道沿いの郭が家臣団屋敷で、下街道沿いに町人の居住域があったとする考えもありますが、この時代にそうした身分による整然とした住み分けは無かったという考えも有力で、詳細は不明です。
石寺についてもう一つ触れておきたいのは楽市の存在です。天文18年(1549)、史上最初の楽市が「石寺新市」という場所で行われました。楽市とは、営業権を独占していた座に属していないものも、自由に商売することを認める政策です。つまり石寺新市においては、誰もが自由に商売ができるということです。この石寺新市については、地名に基づく研究から現在の奥石神社付近ではないかと推定されています。中世においては、城下町と市場とが分離していることが一般的で、石寺についても城下町とされる繖山山麓の現集落から離れた奥石神社付近に市があったと考えられるのです。
観音寺城・城下町石寺および石寺新市については、まだまだ調査研究が進んでおらず、不確かなことがたくさんあります。さらなる調査研究が必要です。

調査・整備にむかって

現在、滋賀県教育委員会では、将来の史跡観音寺城跡の調査・整備にむけて準備作業を進めています。まずは、平成16・17年(2004・2005)の2年間をかけて、「史跡観音寺城跡保存管理計画」を策定いたしました。これは、史跡観音寺城跡を将来どのように管理し、保存・活用を図っていくかの方向性を定めたものです。つづいて平成18・19年(2006・2007)の2ヶ年で、「史跡観音寺城跡整備基本構想・基本計画」を策定しました。これは、史跡観音寺城跡の調査・整備をどのような理念・方法で進めていくかを定めるもので、調査・整備事業のベースとなるものです。これらを経て現地での発掘調査・環境整備へと進んでいきます。本格的な発掘調査・環境整備に着手する時期はまだ未定ですが、平成20年度からは城内の石垣分布調査を行います。滋賀県が生み出した貴重な文化遺産である史跡観音寺城跡の実態を明らかにし、その成果を皆様にお伝えできるよう、努力してまいりたいと思います。

発掘調査と森林伐採

保存管理計画の策定、基本構想・基本計画の策定を経て、平成20年(2008)から史跡観音寺城跡石垣基礎調査がスタートしました。これは、観音寺城の最大の特徴である石垣の現状把握を目指し、城跡全体の石垣分布調査を実施するものです。4年計画で現在実施中です。また、これと合わせて部分的な発掘調査を行っています。

また、平成21年度(2009)に史跡観音寺城跡の森林・竹林整備事業を実施しました。これによって、これまで生い茂った竹や木々に埋もれて見ることの出来なかった石垣や、近づくことのできなかった郭が姿を現しました。整備したのは観音寺城の東端に位置する伝目賀田丸付近と、西端に位置する伝池田丸から南に延びる尾根筋です。伝目賀田丸では郭を囲う土塁が姿を現し、伝池田丸付近では何段にも築かれた石垣を見ることが出来ます。ぜひ現地を訪れ、中世五大山城の一つに数えられる観音寺城の、スケールの大きさを実感してください。

参考資料:滋賀県教育委員会HPより「史跡観音寺城跡の調査と整備」転載

本日の訪問ありがとうございす!!


岩尾山城 近江国(甲南)

2018年01月11日 | 山城

 画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然

お城のデータ

所在地:甲賀市甲南町新田岩尾山 /杉谷 map:https://yahoo.jp/WL5Wxf

区 分:山城

現 状:山林

遺 構:不明

築城期:

築城者:

標 高:471m 比高差:100m

目標地:息障寺

駐車場:乗用車10台

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然 画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然

お城の概要

岩尾山(息障寺) 甲賀市甲南町杉谷3774

息障寺 TEL:0748-86-5700

甲賀市甲南町域南西部、三重県境にそびえる岩尾山は、その名のとおり岩で覆われた標高471mの霊山です。

平安時代初期に最澄が開山しました。修験者、忍者の修練山で、中腹には屏風岩などの奇岩が点在しています。馬の形をした「おうま岩」、扇を開いたような「扇岩」や、たたくと木魚の音がする「木魚岩」など。また、頂上からの眺めは360度の大パノラマ。眼下には杣川沿いに平野が広がり、遠くには鈴鹿山系を見渡すことができます。

 岩尾山の麓には、明治年間に農業かんがい用としてつくられた岩尾池が広がっています。この辺りは山と大自然の美を巧に取り入れた名勝地で、紅葉の季節は特に山々が真っ赤に色づき、とてもきれいです。

 お城の歴史

平安時代初期に最澄が息障寺を開山。

南北朝の動乱の砦か?

写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外

画像に含まれている可能性があるもの:木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、草、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、空、屋外、自然

 画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然曼荼羅岩

画像に含まれている可能性があるもの:木、家、屋外本堂

 

写真集: https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/974454709383771

岩尾山息障寺・会式法要・採灯護摩
somagawa20170110somagawa20170111

参考資料:遺跡ウォーカー、https://www.biwako-visitors、滋賀県甲賀市 飯道山観光協会

本日の訪問ありがとうございす!!


仮称)江龍奥4城 近江国(米原・下丹生)

2017年12月25日 | 山城

画像に含まれている可能性があるもの:スケッチ画像に含まれている可能性があるもの:木、屋外画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:空、木、植物、屋外、自然

新発見の城の城 仮称)江龍奥1~4の城郭群

お城のデータ

所在地:米原市下丹生 江龍奥 map:ttps://yahoo.jp/neEv3Y

現 状:山林(山頂)

区 分:山城

築城期:南北朝期?

築城者:土肥氏?・江龍氏?

遺 構:土塁・段築曲輪

標 高:3817m 比高差:230m

目標地:下丹生古墳

駐車場:林道脇空地

訪城日:2017.12.2

写真集:https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/965496030279639

           https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/965497063612869

画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然

お城の概要

江龍奥1城は:標高321.4mの城「横たわる長大な土塁、多数の段築、一部石積みあり、多数の郭を配した巨大ななしろ城」

江龍奥2城は:標高約320mの「巨岩を利用した南北朝期の城郭を思わせる険しい山城」

江龍奥3城は:標高:375.6mの城「坂田郡の屈指の優れた縄張技巧、二重堀切を誇る驚くべき構造の城」

龍奥4城は:最高峰、標高:381.3mの城「陣城と推定される構造。仮称)枝折本城から続く林道から300mの切岸や横堀を構成する。」

この林道は上丹生や京極氏の隠れ城梓河内へ続き重要な間道と言える。

この江龍奥城:四城は長谷川博美氏・田畑喜久雄氏・末永清司氏・門川夫妻の城郭現地調査で確認された、新発見の城である。

お城の歴史

土肥六郎左衛門実勝とされ、源頼朝の家臣土肥次郎実遠の末葉で、足利尊氏の世に近江・美濃の野武士を平定して功があり。 箕浦庄の地頭として下向した御家人とされ、番場・多和田・醒井に分住し、箕浦庄の三土肥と称した。 『土肥八人衆・土肥八軒衆』は、醒井(醒飼)氏・野瀬氏・江籐氏・野勢氏・池田氏・ニ国氏・籾居氏・堀氏の八軒を云う。 

根本地頭職土肥氏とその被官(家臣)江龍氏等が割拠した城郭群の可能性。

米原町下丹生小字江龍・江龍前・江龍奥の名がある。土肥氏の被官で土豪江龍の根幹地と推測される。

地頭土肥氏の敵対勢力の、京極政経の山岳城郭河内梓城・男鬼城・桃原城を意識した城郭群?

・『滋賀県中世城郭分布調査6 旧坂田郡の城 P115・P300』に、旧米原町下丹生 江竜に 城郭関係地名57-元城

江龍奥4城 

12月2日も見学会は、6城でしたが、・・・実に、仮称)小町谷城・仮称)江龍奥1城も隣の頂部で違いは、長谷川博美氏の資料、解説があっても解かり難い?此の丹生谷の山上曲輪は驚き!画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、植物、空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人、立ってる、木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:スケッチ画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然

参考資料:城歩会現地見学会説明資料『滋賀県中世城郭分布調査 旧坂田郡の城』

本日の訪問ありがとうございす!!


仮称)江龍奥3城 近江国(米原・下丹生)

2017年12月25日 | 山城

写真の説明はありません。

新発見の城の城 仮称)江龍奥1~4の城郭群

お城のデータ

所在地:米原市下丹生 江龍奥 map:https://yahoo.jp/GaBsym

現 状:山林(山頂)

区 分:山城

築城期:南北朝期?

築城者:土肥氏?・江龍氏?

遺 構:石垣・竪堀・土塁・段築曲輪

標 高:375.6m 比高差:150m

城 域:南北182m

目標地:下丹生古墳

駐車場:林道脇空地

訪城日:2017.12.2

写真集:https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/965413680287874

画像に含まれている可能性があるもの:木、屋外、自然

お城の概要

江龍奥1城は:標高321.4mの城「横たわる長大な土塁、多数の段築、一部石積みあり、多数の郭を配した巨大ななしろ城」

龍奥3城は:標高約320mの「巨岩を利用した南北朝期の城郭を思わせる険しい山城」

江龍奥3城は:標高:375.6mの城「坂田郡の屈指の優れた縄張技巧、二重堀切を誇る驚くべき構造の城」

江龍奥4城は:最高峰、標高:381.3mの城「陣城と推定される構造。仮称)枝折本城から続く林道から300mの切岸や横堀を構成する。」

この林道は上丹生や京極氏の隠れ城梓河内へ続き重要な間道と言える。

この江龍奥城:四城は長谷川博美氏・田畑喜久雄氏・末永清司氏・門川夫妻の城郭現地調査で確認された、新発見の城である。

お城の歴史

土肥六郎左衛門実勝とされ、源頼朝の家臣土肥次郎実遠の末葉で、足利尊氏の世に近江・美濃の野武士を平定して功があり。 箕浦庄の地頭として下向した御家人とされ、番場・多和田・醒井に分住し、箕浦庄の三土肥と称した。 『土肥八人衆・土肥八軒衆』は、醒井(醒飼)氏・野瀬氏・江籐氏・野勢氏・池田氏・ニ国氏・籾居氏・堀氏の八軒を云う。 

根本地頭職土肥氏とその被官(家臣)江龍氏等が割拠した城郭群の可能性

米原町下丹生小字江龍・江龍前・江龍奥の名がある。土肥氏の被官で土豪江龍の根幹地と推測される。

地頭土肥氏の敵対勢力の、京極政経の山岳城郭河内梓城・男鬼城・桃原城を意識した城郭群?

・『滋賀県中世城郭分布調査6 旧坂田郡の城 P115・P300』に、旧米原町下丹生 江竜に 城郭関係地名57-元城 

江龍奥2城 画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然

12月2日も見学会は、6城でしたが、・・・実に、仮称)小町谷城・仮称)江龍奥1城も隣の頂部で違いは、長谷川博美氏の資料、解説があっても解かり難い?此の丹生谷の山上曲輪は驚き!画像に含まれている可能性があるもの:立ってる(複数の人)、木、植物、屋外、自然写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然

参考資料:城歩会現地見学会説明資料『滋賀県中世城郭分布調査 旧坂田郡の城』

本日の訪問ありがとうございす!!

 



仮称)江龍奥2城 近江国(米原・下丹生)

2017年12月25日 | 山城

写真の説明はありません。

新発見の城の城 仮称)江龍奥1~4の城郭群

お城のデータ

所在地:米原市下丹生 江龍奥 map:ttps://yahoo.jp/neEv3Y

現 状:山林(山頂)

区 分:山城

築城期:南北朝期?

築城者:土肥氏?・江龍氏?

遺 構:土塁・段築曲輪

標 高:320m 比高差:150m

目標地:下丹生古墳

駐車場:林道脇空地

訪城日:2017.12.2

写真集:https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/964940987001810画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然

お城の概要

江龍奥1城は:標高321.4mの城「横たわる長大な土塁、多数の段築、一部石積みあり、多数の郭を配した巨大ななしろ城」

龍奥2城は:標高約320mの「巨岩を利用した南北朝期の城郭を思わせる険しい山城」

江龍奥3城は:標高:375.6mの城「坂田郡の屈指の優れた縄張技巧、二重堀切を誇る驚くべき構造の城」

江龍奥4城は:最高峰、標高:381.3mの城「陣城と推定される構造。仮称)枝折本城から続く林道から300mの切岸や横堀を構成する。」

この林道は上丹生や京極氏の隠れ城梓河内へ続き重要な間道と言える。

この江龍奥城:四城は長谷川博美氏・田畑喜久雄氏・末永清司氏・門川夫妻の城郭現地調査で確認された、新発見の城である。

お城の歴史

土肥六郎左衛門実勝とされ、源頼朝の家臣土肥次郎実遠の末葉で、足利尊氏の世に近江・美濃の野武士を平定して功があり。 箕浦庄の地頭として下向した御家人とされ、番場・多和田・醒井に分住し、箕浦庄の三土肥と称した。 『土肥八人衆・土肥八軒衆』は、醒井(醒飼)氏・野瀬氏・江籐氏・野勢氏・池田氏・ニ国氏・籾居氏・堀氏の八軒を云う。 

根本地頭職土肥氏とその被官(家臣)江龍氏等が割拠した城郭群の可能性

米原町下丹生小字江龍・江龍前・江龍奥の名がある。土肥氏の被官で土豪江龍の根幹地と推測される。

地頭土肥氏の敵対勢力の、京極政経の山岳城郭河内梓城・男鬼城・桃原城を意識した城郭群?

・『滋賀県中世城郭分布調査6 旧坂田郡の城 P115・P300』旧米原町下丹生 江竜に 城郭関係地名57-元城

 江龍奥2城 

12月2日も見学会は、6城でしたが、・・・実に、仮称)小町谷城・仮称)江龍奥1城も隣の頂部で違いは、長谷川博美氏の資料、解説があっても解かり難い?此の丹生谷の山上曲輪は驚き!画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然

参考資料:城歩会現地見学会説明資料『滋賀県中世城郭分布調査 旧坂田郡の城』

本日の訪問ありがとうございす!!


江龍奥1城 近江国(米原・下丹生)

2017年12月25日 | 山城

写真の説明はありません。

新発見の城の城 仮称)江龍奥1~4の城郭群

お城のデータ

所在地:米原市下丹生 江龍奥 map:https://yahoo.jp/qUuhuR

現 状:山林(山頂)

区 分:山城

築城期:南北朝期?

築城者:土肥氏?・江龍氏?

遺 構:土塁・段築曲輪

標 高:321.4m 比高差:150m

目標地:下丹生古墳

駐車場:林道脇空地

訪城日:2017.12.2

写真集:https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/964368637059045

画像に含まれている可能性があるもの:木、屋外、自然

お城の概要

江龍奥1城は:標高321.4mの城「横たわる長大な土塁、多数の段築、一部石積みあり、多数の郭を配した巨大ななしろ城」

江龍奥2城は:標高約320mの「巨岩を利用した南北朝期の城郭を思わせる険しい山城」

江龍奥3城は:標高:375.6mの城「坂田郡の屈指の優れた縄張技巧、二重堀切を誇る驚くべき構造の城」

江龍奥4城は:最高峰、標高:381.3mの城「陣城と推定される構造。仮称)枝折本城から続く林道から300mの切岸や横堀を構成する。」

この林道は上丹生や京極氏の隠れ城梓河内へ続き重要な間道と言える。

この江龍奥城:四城は長谷川博美氏・田畑喜久雄氏・末永清司氏・門川夫妻の城郭現地調査で確認された、新発見の城である。

お城の歴史

土肥六郎左衛門実勝とされ、源頼朝の家臣土肥次郎実遠の末葉で、足利尊氏の世に近江・美濃の野武士を平定して功があり。 箕浦庄の地頭として下向した御家人とされ、番場・多和田・醒井に分住し、箕浦庄の三土肥と称した。 『土肥八人衆・土肥八軒衆』は、醒井(醒飼)氏・野瀬氏・江籐氏・野勢氏・池田氏・ニ国氏・籾居氏・堀氏の八軒を云う。 

根本地頭職土肥氏とその被官(家臣)江龍氏等が割拠した城郭群の可能性

米原町下丹生小字江龍・江龍前・江龍奥の名がある。土肥氏の被官で土豪江龍の根幹地と推測される。

地頭土肥氏の敵対勢力の、京極政経の山岳城郭河内梓城・男鬼城・桃原城を意識した城郭群?

『滋賀県中世城郭分布調査6 旧坂田郡の城 P115・P300』に、旧米原町下丹生 江竜に 城郭関係地名57-元城

画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然

写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然

江龍奥1城 

12月2日も見学会は、6城でしたが、・・・実に、仮称)小町谷城・仮称)江龍奥1城も隣の頂部で違いは、長谷川博美氏の資料、解説があっても解かり難い?此の丹生谷の山上曲輪は驚き!

参考資料:城歩会現地見学会説明資料『滋賀県中世城郭分布調査 旧坂田郡の城』

本日の訪問ありがとうございす!!