城郭探訪

yamaziro

木尾城 近江国(長浜市浅井町木尾)

2018年05月15日 | 丘陵城

 写真の説明はありません。

お城のデータ

所座地:長浜市木尾 map:https://yahoo.jp/CFa3Ss

通 称:城山

区 分:平山城

現 状:森林(自然林)

築城期:

築城者:

遺 構:曲輪・櫓台・坂虎口

標 高:127m  比高差:20m

目標地:あねがわ温泉(を500m北上北側急陵)

駐車場:南側の城址空地に駐車

訪城日:2018.5.11 

お城の概要

現状、平山で自然林で矢竹の密集で、藪漕ぎして頂部を目指したが、遺構の見学は断念した。

北側の麓に、滋賀県教育委員会の「文化財を大切にしよう」の石柱が二本立っている。

城山の周囲は、農地整備が進み「城山」だけ残るが、その城山に重機で破壊されされ初めている。

お城の歴史

城山(木尾城)について・・・『木尾のいまむかし』・・・(1995年4月 佐治寛一著『喜寿の春』)

『木尾のいまむかし』には、「慶長七年検地帳に地名として掲載され「じようやま」と称しその他古書に散見される。

城山は、壬申の乱の戦跡にして当時近江軍が拠守せし塁砦であり、西北東の三方に城の腰・白渕・古淵の地名が有る様に、川や沼に囲まれた一大要害であった。

麓より弥生時代の石棒が出土(県の博物館に保管されている)、又麓には横穴式の登り釜や八嶋持等跡ある。此の一帯は古くより開かれ重要な位置を占めてた。

アセビ林道に多くの古墳と城郭あるが、この城山を起点してるもようである。調査の結果、中央に大きな古墳が二基ある。

北側には、小谷城へ通じる主要道ある。おそらく中世の烽火(のろし)場であり、小谷城・横山城との烽火の中継点であった思われる。

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、空、草、屋外、自然

他の写真https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1318666204962618

参考資料:滋賀県城郭分布調査、長谷川博美氏の資料、『木尾のいまむかし』、遺跡ウォーカー

本日の訪問ありがとうございます


小川西之城  近江国(信楽 小川)

2018年04月15日 | 丘陵城

お城のデータ

所在地:甲賀市(旧甲賀郡)信楽町小川小字伊吹谷 map:http://yahoo.jp/UvSxeh

現 状:山林

区 分:丘陵城

築城期:室町期

築城者:鶴見(小川)行俊

標 高:370m  比高差:40m

遺 構:堀切、空堀、土塁、畝状竪堀、井戸

目 標:清光寺

駐車場:清光寺の登り口駐車城

甲賀市指定史跡

訪城日:2018.4.14

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1041137289382179

写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、屋外、自然

お城の概要

小川集落にあり、清光寺西側の丘陵部に位置している。中手川を隔てた南東の丘陵部には小川中ノ城が、また、小川中ノ城の東南東の山上には小川城が所在している。
小川の地は、京都から伊賀・伊勢方面への交通の要衝に位置し、勢力をのばした多羅尾氏が多羅尾からこの地に支配の拠点を移した。城の遺構も甲賀・伊賀方式から脱皮した構造が見られる。
 この城が築かれる以前は、現在、城の北側の谷に所在する大光寺の前身である大興寺があったと云われ、応仁の乱を避け信楽庄に避難した近衛政家がこの寺に応仁2年(1468)8月19日から10月19日の二ヶ月間にわたり滞在したとの記録が残り、政家の対面の場となった「清故庵」は、城の東、丘陵先端部にある清光寺の位置と伝えられている。

城の構造は、南側の東へ伸びる尾根に築かれた東城と、西から北東方向に伸びる尾根に築かれた西城とに分けることができる。東城は丘陵頂部に主郭、その東側に空堀で区画しされた二郭、三郭が続く。西城は北東と北西の尾根筋を二条ずつの堀切で遮断し、北から南西に四郭、五郭、六郭が配される。両城とも連郭となっており、単郭方形を基本とする甲賀方式とは異なる構造である。
主郭は、東西70m、南北50mで南側を除く三方に土塁の痕跡が残存し、東から北側に空堀がめぐる。虎口は南側に開口している。東斜面には畝状竪堀も見られる。空堀を隔てた東側が二郭で、東西35m、南北30m、北面と東面の一部に土塁が残り、東側を除く三方に空堀がめぐる。さらに空堀を隔てた東側に三郭があり、西面を除く三方を土塁で囲繞され、西面に虎口が開口し、空堀を通路としている。これら三つの郭は、南北軸より少しずつずらせてあり、横矢が効く様にしている。なお、南側の下方に東西に細長い平坦地が付帯しているがどの部分まで城域か判断出来ないようである。
東城の北西端の鞍部を隔てて西城となる。西ノ城は、西端頂部に東西15m、南北20mの櫓台状の六郭を置き、東側と西側に堀切を敷設している。西側の堀切の北西外50m程にもう一条堀切を設け、それらを横堀で結び「エ」の字状とする特異な形態となっている。東側の堀切を隔てて西面に櫓台状の土塁を伴った郭があり、その北東一段下がって東西35m、南北50m程の西面と北面に低土塁が残る四郭を配している。五郭は、六郭東側の堀切を南に通り抜けた南側に設けられている。四郭の北東方向60m間隔で二条の堀切を穿ち尾根続きを遮断している。

歴 史

 築城年代は定かでないが小川氏によって築かれたと伝わる。その後、近衛家領信楽荘の荘官の多羅尾氏が整備したと考えられている。
なお、同氏は、15世紀代に信楽庄を支配して中央に進出し、三好氏の被官になった一族がいたと考えられ、河内国の守護代となり、永禄6年(1566)6月松永久秀に与して、淀城に籠った多羅尾常陸介は同族と見られている。

鶴見長実の子、鶴見行俊は小川氏を称して代々続いたが、長享元年(1487年)に多羅尾和泉守に敗れた小川成俊は山城国和束庄へ逃れ、以降は多羅尾氏の所領となった。

 天正10年(1582年)本能寺の変によって織田信長が倒れた際、堺見物をしていた徳川家康が伊賀越えで所領に戻る際に設楽で一夜を明かしたのが、この小川と伝えられる。 文禄4年(1595年)に多羅尾光太の娘が豊臣秀次に嫁いでいたことから、秀次に連座して改易された。

その後に徳川家康に召し出されて旗本となり、江戸時代には多羅尾代官陣屋を構えている。これは多羅尾光俊・光太父子が守護した恩に報いたものといわれる。

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、植物、屋外、自然

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀の城、武家家伝多羅尾氏、

 本日も訪問、ありがとうございました。


寺前城 近江国(甲賀・甲南)

2018年02月03日 | 丘陵城

写真の説明はありません。写真の説明はありません。

お城のデータ

所在地:甲賀市甲南町新治小字寺前城 map:https://yahoo.jp/n-VrSo

別 称:持前城

区分:丘陵城

現 状:山林

築城期:室町期

築城者:服部氏か?

改築期:織豊期

遺 構:曲輪・虎口・土塁・堀切・横堀・現地説明板(大谷池の岸にある)

標 高:213m  比高差:10m

目標地:新名神高速道路甲南サービスエリア

駐車場:路上駐車

国指定史跡

訪城日:2018.1.20

お城の概要

寺前城の詳細は詳細は不明ですが、「甲賀郡中惣遺跡群」のひとつとして国の史跡に指定されています。大谷池の西にある丘陵の北端に築かれており、南側には二重堀切をへだてて村雨城が隣接しています。甲賀特有の二城連結城で、村雨城を主郭として、寺前城を副郭としていたと考えられます。村雨城に比べると小規模ですが、主郭部を囲う土塁のほか、堀切や喰い違い虎口などの遺構を見ることができます。甲賀郡中惣遺跡群(寺前城・村雨城・新宮城・新宮支城・竹中城)の一つとして国指定史跡となっている。

寺前城は大谷池の西にある丘陵の北端に築かれており、南側に隣接して村雨城がある。寺前城は方形区画の主郭に東を除く三方に土塁が付く。東側にもかつては土塁があったという。村雨城に続く南尾根には二条の深い堀切・・箱堀を設けて遮断している。主郭の虎口は複雑で、北と北西に虎口を開く。北虎口は土橋を経て北から西へ曲がり、北西虎口は西から北へ通路が伸び、それぞれの通路が土橋状の通路として交わる。

写真集:https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/989070394588869

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、空、屋外、自然、水

お城の歴史

中世後期、甲賀の小領主たちは、同じ名前を名乗る一族同士で血縁的な結合を強め、同名中惣を組織していた。
永禄から元亀の頃になると、その連合が甲賀全域に拡大し、甲賀郡中惣が結成された。
同名中惣内部では、総領家を中心としながらも、その力は絶対的なものでなく、分家に当る庶子家の自立度は高く、それぞれに城を構えていた。そして、他所の一揆衆との間に争乱が起これば、一味同心に合力して戦うことなど、有事の際の具体的な行動が、 一族内の取り決めとして定められていた。
同規模の武士団が連合し合った郡中惣という枠組みの中では、甲賀郡を一円的に掌握する突出した領主は現われず、そのため同じ規模、 同じ形の城が、多く造られたものと考えられる。
村雨城もそのような甲賀郡中惣の城の一つであるが、甲賀の城の中でも進化した築城技術が施されており、

その背景には、 永禄11年(1568)の織田信長の上洛に伴い、守護六角氏が甲賀杉谷へ逃避したことにより、この地域に軍事的な緊張が生じたことが要因であると思われる。
尚、城主などを知る記録類は残されておらず、詳細は不明である。『「近江の山城・中井均著(サンライズ出版刊)」、現地説明板」より

画像に含まれている可能性があるもの:立ってる(複数の人)、植物、木、屋外、自然村雨城と寺前城の間の箱堀画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、花、屋外、自然

写真の説明はありません。作図:長谷川博美氏

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査 旧甲賀郡の城』・『甲賀市史・甲賀の城』・城歩会資料・

本日の訪問ありがとうございす!!


村雨城 近江国(甲賀・甲南)

2018年02月03日 | 丘陵城

画像に含まれている可能性があるもの:屋外、自然

お城のデータ

所在地:甲賀市甲南町新治小字池ノ谷 map:https://yahoo.jp/4LmW4Y

区 分:丘陵城

現 状:山林

築城期:室町期

築城者:服部氏か?杉谷氏?

改築期:織豊期後期(信長の近江侵略に備えて)

遺 構:高土塁・箱掘・虎口

標 高:210m 比高差20m

目標地:新名神高速道路甲南サービスエリア

駐車場:路上駐車

国指定史跡

訪城日:2018.1.20

お城の概要

甲賀郡中惣遺跡群(寺前城,村雨城,新宮城,新宮支城,竹中城)の一つとして国指定史跡となっている。

村雨城は大谷池の西にある丘陵に築かれており、北側に隣接して寺前城がある。村雨城は大きく東西二郭で、東が主郭、西が二郭となる。主郭の周囲は高土塁が巡らされ、西中央部に虎口を開く。西の二郭は北側に土塁を設けており、西側がやや北へ張り出すようになっている。

主郭の南北両尾根は深く堀切となり、北はやや自然地形に近い尾根に東西に土塁が付き、その先が寺前城の二重堀切へ続いている。

村雨城は、寺前城と連結する甲賀特有の二城連結城で、丘陵の先端部分にあるのが寺前城で、その50mほど南にあるのが村雨城である。
甲賀市甲南町新治付近には、現在確認されている中世の城館が7箇所あるそうだ。いずれも方形に土塁で囲む城館で、 保存状態も非常に良いそうだが、この村雨城もほぼ完存である。
主郭は25m×20mの長方形に近い形で、周囲を土塁がめぐっている。南側の土塁は、部厚くて高く、その外側に空堀をめぐらせている。
西側に設けられた虎口への道は少し屈曲しており、虎口付近は急斜面になっている。
また、虎口の西側前方には土塁で囲まれた2段の曲輪が設けられ、曲輪の先端より下方へ緩い斜面になっている。
東側は急崖になっており、その向こう側は大谷池であるが、大谷池は近世に用水池として築かれたもので、往時は谷になっていたようだ。
北側の寺前城との間には、堀切が3条ほど設けられている。

お城の歴史

中世後期、甲賀の小領主たちは、同じ名前を名乗る一族同士で血縁的な結合を強め、同名中惣を組織していた。
永禄から元亀の頃になると、その連合が甲賀全域に拡大し、甲賀郡中惣が結成された。
同名中惣内部では、総領家を中心としながらも、その力は絶対的なものでなく、分家に当る庶子家の自立度は高く、それぞれに城を構えていた。そして、他所の一揆衆との間に争乱が起これば、一味同心に合力して戦うことなど、有事の際の具体的な行動が、 一族内の取り決めとして定められていた。
同規模の武士団が連合し合った郡中惣という枠組みの中では、甲賀郡を一円的に掌握する突出した領主は現われず、そのため同じ規模、 同じ形の城が、多く造られたものと考えられる。
村雨城もそのような甲賀郡中惣の城の一つであるが、甲賀の城の中でも進化した築城技術が施されており、

その背景には、 永禄11年(1568)の織田信長の上洛に伴い、守護六角氏が甲賀杉谷へ逃避したことにより、この地域に軍事的な緊張が生じたことが要因であると思われる。
尚、城主などを知る記録類は残されておらず、詳細は不明である。『「近江の山城・中井均著(サンライズ出版刊)」、現地説明板」より

写真集 https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/989069254588983

 

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、木、植物、屋外、自然南側の箱掘画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然土塁東側画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然東側から虎口画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然北側虎口写真の説明はありません。作図:長谷川博美氏

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査 旧甲賀郡の城』・『甲賀市史・甲賀の城』・城歩会資料・

本日の訪問ありがとうございす!!


新宮城 近江国(甲賀・甲南)

2018年01月25日 | 丘陵城

画像に含まれている可能性があるもの:屋外画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外

 新宮城跡

お城のデータ
所在地:甲賀市甲南町新治 (旧:甲賀郡甲南町新治) map:https://yahoo.jp/gAp3nc
目標地:善願寺・新宮神社

区 分:丘城

標高:230m 比高:30m 
現 況:山林

遺 構:土塁・堀・碑・説明板
築城期:室町期

築城者:服部氏

改築期:織豊期

駐車場:路上駐車

訪問日:2018.1.20

写真集:https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/983492035146705

 

    https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/983493765146532

 

    https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/983507701811805


画像に含まれている可能性があるもの:屋外、自然

お城の概要

 主郭は、3mほどの高さの土塁で四方を囲み、およそ30m×30mの大きさの規模で、虎口を東に向けています。                                                            この城の特徴は、虎口に至る緩斜面に、土塁で屈折させた枡形状の進入路を設けていることで、容易に主郭に至れないような工夫を施しています。また要所に堀切を設けたり、竪堀を掘るなど、従来の単郭方形型の城郭を基本としながらも、様々な防御機能が備えられており、築城技術の発展の様子を見ることができます。

住宅団地の東側と灌漑用の池(大門池)と県道49号線に挟まれた丘陵の雑木林の中に新宮城と新宮支城があります。                                  

西側は崖のようになっており、自然の地形を切岸・城内を平削し土塁に積み上げ9m位。北側と南側には堀切状の堀があり、尾根を断ち切る堀切というより横堀が北側と南側に付属しているという感じで、西側は周囲より低い沢のような地形で、東側は麓に向かって急な斜面になってますが、比高20m程度ですから堀切・・・自然の磯尾川を堀にして、作事・縄張りした 主郭は東側から斜面を掘り込んで作られたようで、西側は掘り残しの土塁で、主郭内より7m程度あるでしょうか。そのほかは盛り上げた土塁で東側に虎口があります。虎口より北東に向かって細長い削平地が存在します。また、一段下がったところに北側に仕切り土塁を持つ広い郭もあります。

磯尾川を前堀に、大門池を水掘に利用した、途中に城址碑が建っていて、路肩駐車を攻め込む。

写真の説明はありません。

お城の歴史

 中世の甲賀郡は、武士達が一族を単位として地域的に連合し、共和的な自治組織を作っていました。これを甲賀郡中惣。この一族毎に複数の城郭を構えたことにより、甲賀郡には、300余の極めてたくさんの城が築かれた。新宮城、新宮支城もその一つです。

織田信長の近江侵略で、佐々木六角観音寺城から逃れ甲賀郡へ、石部・三雲・杉谷・伊賀へ・・対信長の為か、織豊期の城郭技法が見られる。画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然

 画像に含まれている可能性があるもの:スケッチ踏査図:長谷川博美氏画像に含まれている可能性があるもの:14人、立ってる(複数の人)、屋外

 

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』・現地説明板・城歩会資料・『甲賀市史七巻 甲賀の城』

本日の訪問ありがとうございす!!


新宮支城 近江国(甲賀・甲南)

2018年01月25日 | 丘陵城

画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然

 新宮支城

お城のデータ
所在地:甲賀市甲南町新治 (旧:甲賀郡甲南町新治) map:https://yahoo.jp/gAp3nc
目標地:善願寺・新宮神社

区 分:丘城

標高:230m 比高:30m 

現 況:山林
遺 構:土塁・堀・碑・説明板
築城期:室町期

築城者:服部氏

改築期:織豊期

駐車場:路上駐車

訪問日:2018.1.20

写真集:https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/983492035146705

    https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/983493765146532

    https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/983507701811805

お城の概要

 主郭は、3mほどの高さの土塁で四方を囲み、およそ30m×30mの大きさの規模で、虎口を東に向けています。                                                            この城の特徴は、虎口に至る緩斜面に、土塁で屈折させた枡形状の進入路を設けていることで、容易に主郭に至れないような工夫を施しています。また要所に堀切を設けたり、竪堀を掘るなど、従来の単郭方形型の城郭を基本としながらも、様々な防御機能が備えられており、築城技術の発展の様子を見ることができます。

住宅団地の東側と灌漑用の池(大門池)と県道49号線に挟まれた丘陵の雑木林の中に新宮城と新宮支城があります。                                  

西側は崖のようになっており、自然の地形を切岸・城内を平削し土塁に積み上げ9m位。北側と南側には堀切状の堀があり、尾根を断ち切る堀切というより横堀が北側と南側に付属しているという感じで、西側は周囲より低い沢のような地形で、東側は麓に向かって急な斜面になってますが、比高20m程度ですから堀切・・・自然の磯尾川を堀にして、作事・縄張りした 主郭は東側から斜面を掘り込んで作られたようで、西側は掘り残しの土塁で、主郭内より7m程度あるでしょうか。そのほかは盛り上げた土塁で東側に虎口があります。虎口より北東に向かって細長い削平地が存在します。また、一段下がったところに北側に仕切り土塁を持つ広い郭もあります。

磯尾川を前堀に、大門池を水掘に利用した、途中に城址碑が建っていて、路肩駐車を攻め込む。

お城の歴史

 中世の甲賀郡は、武士達が一族を単位として地域的に連合し、共和的な自治組織を作っていました。これを甲賀郡中惣。この一族毎に複数の城郭を構えたことにより、甲賀郡には、300余の極めてたくさんの城が築かれた。新宮城、新宮支城もその一つです。

織田信長の近江侵略で、佐々木六角観音寺城から逃れ甲賀郡へ、石部・三雲・杉谷・伊賀へ・・対信長の為か、織豊期の城郭技法が見られる。画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:屋外画像に含まれている可能性があるもの:スケッチ踏査図:長谷川博美氏

 

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』・現地説明板・城歩会資料・『甲賀市史七巻 甲賀の城』

本日の訪問ありがとうございす!!


朝宮城 近江国(信楽・下朝宮)

2017年12月29日 | 丘陵城

写真の説明はありません。

お城のデータ

所在地:甲賀市信楽町下朝宮芝 map: https://yahoo.jp/PJ97wv

区 分:丘陵城(平山城)

現 状:森林(元茶畑)

築城期:南北朝期

築城者:鶴見俊純(朝宮城を築き)

城 主:多羅尾和泉守・多羅尾平内」の名を『江州佐々木南北諸氏帳』に記す。

遺 構:曲輪・土塁・竪堀・虎口・城跡碑

標 高:230m 比高差40m

目標地:下朝宮の八坂神社

駐車場:下朝宮の八坂神社横の空地

訪城日:2017.12.23

写真の説明はありません。

お城の概要 

 八坂神社の社務所の背後の丘陵城。

社務所の背後の丘陵へ登ると城跡碑建つ、更に登ると近年茶畑として使用してようで茶木が残る曲輪跡へ。

曲輪の南側には、土塁・腰廓・竪堀を確認出来る。

西側の尾根を遮断するように堀切と土塁が残存するが防衛には、効果は乏しい。

街道を守備する役割分担をしていたのであろう。

お城の歴史

南北朝時代を迎えると鶴見氏は南朝の味方して活躍、暦応三年(1340)、鶴見俊純は朝宮城を築き、山城国和束の米山一族との戦いを展開した。この戦いに多羅尾播磨入道は鶴見氏を後援、合戦は鶴見方の勝利となった。このことから、南北朝の争乱に際して多羅尾氏は南朝方として行動していたことがうかがわれる。以後、多羅尾氏と鶴見氏は拮抗するかたちで並立、小川の地の統治は交互に行われるということがつづいた。http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tarao_k.html

『江州佐々木南北諸氏帳』には、「甲賀郡 朝宮城主 佐々木隋兵 多羅尾和泉守 朝宮城主 箕作隋兵 多羅尾平内」の名を記す。

甲賀(こうか)市信楽(しがらき)町朝宮は、南北朝時代に郷名としてみえ、南北両軍の合戦があったという。

近世以来、茶の生産地として知られ、現在も宇治茶と同じ高級茶が栽培され朝宮茶として有名で、国道307号が通じ、裏山にはゴルフ場がある。

写真集:https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/966721256823783

    https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/966720003490575

画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然西側の堀切・土塁・竪堀画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然主郭部の虎口

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然八坂神社 

画像に含まれている可能性があるもの:屋外八坂神社の由緒

 当社は寛永十一年(1633年)当時の和束の地頭であった山口佐平太(多羅尾の出身)がその領地の一部である下朝宮の住民の安寧のため社殿を創始し、その後、元禄十三年(1700)に至り同じく地頭山口藤左衛門が社殿を再建次第に住民の崇敬を受けるようになった。

 従来より本殿・拝殿・社務所・鳥居等一応の礼拝施設は整備されていたので、昭和五十一年十月の神社の設立、神社の規則の制定、承認等一連の手続きを了し、神社本庁統理の承認を受け、滋賀県知事の認証を得て登記を完了し、名実ともに宗教法人八坂神社(やさかじんじゃ)として住民福祉のため諸種の祭祀を執行している。』

参考資料:遺跡ウォーカー・武家家伝「多羅尾氏」・八坂神社の由緒

本日の訪問ありがとうございす!!


仰木陣所(高月城) 近江国(大津)

2017年10月24日 | 丘陵城

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然

お城のデータ

別 称:高月城

所在地:大津市仰木7丁目7427 map:https://yahoo.jp/BFdkIg

現 状:山林

区 分:丘陵城

築城期:室町期

築城者:浅井・朝倉軍?

遺 構:平削地・土塁・櫓台・

目標地:衣川天満宮・湖西バイパス線の西

駐車場:林道に路上駐車

訪城日2017.5.18

お城の概要

春日山の衣川天満宮の西の丘陵に、遺構が残る

詳細不明であるが、築城期は室町期のようだが(遺跡ウォーカー)

今は林道があり、車の横付けできるが、志賀の乱の浅井・朝倉軍の陣城であろう?

お城の歴史

『來迎寺要書』一  真雄和尚

元亀元年坂本合戦時、当寺什物悉ク手・・・・

 一、九月十八日、浅井備前守長政、朝倉左衛門義景、其勢二万八千余騎ニテ、江州志賀郡江打出、小塚山ヲ為本陣、苗鹿、雄琴、乳野、仰木飯室、絹川(衣川)、堅田辺迄取陣也、此時宇佐山之取出森三左衛門可成五百余騎ニテ志賀表ニ人数ヲ伏置、・・・・云々。

志賀の陣の浅井・朝倉軍の陣城であろう?写真の説明はありません。写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然、水画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、草、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然写真の説明はありません。

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/927668324062410

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査・遺跡ウォーカー、『來迎寺要書』一真雄和尚

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目賀田城(安土山) 近江国(安土)

2017年04月22日 | 丘陵城

安土山にあった目賀田城 

お城のデータ

所在地:近江八幡市安土町下豊浦   map:http://yahoo.jp/804zFJ

区 分:丘陵城

築城期:南北期

築城者:目賀田氏(六角氏の重臣)

現 状:山林(安土山 馬場平) 

遺 構:平削地(曲輪)・石垣・土塁・虎口・

標 高:160m  比高差:65m

目標地:安土城跡

駐車場:安土城無料駐車場

訪城日:2016.1.26

お城の概要

『蒲生郡志』には、案内板の縄張図には他に、安土城には大手道の他に百々橋口道、七曲り道、搦手道、東門道などが描かれており当時は多くの城道が使われていた事が分かります。

『近江蒲生郡志 増補 昭和篇』に綴じ込まれている「大正4年11月測量の縄張図も安土城の全貌を知るのに役立ちます。

これらの道の多くは立ち入りが禁止されていますが、東門道道は現在でも立入が可能です。(中心部への通り抜けはできません)そしてこの東門道からは、尾根を経てて観音寺城に直行する事ができます。 

 また東門道の道沿いには、安土城築城以前に目賀田城が置かれていたとされる馬場平があります。この東門道については ” 安土城|もう一つの登城道・東門道

 安土城には有名な大手道の他に百々橋口道、七曲り道、搦手道、東門道がある。

しかし東門道は紹介されていない、この東門道は、東門の入口は「北腰越」(県道2号線=朝鮮人街道)、安土山と観音寺山の間を通る朝鮮人街道の峠付近にある。

 安土城の駐車場からは 内堀跡の散策道を通って300メートルくらいのとろにある松源院弘法大師堂から入る。

現在では、松源院弘法大師堂の前を通り石の階段を登りとすぐに石仏に出会い、この道が霊場巡りのミニ巡礼道として使われてている事が分かります。

この巡礼道は、1849年に五個荘の安福寺の寿仙(尼僧)が発起人となり、賛同者の寄付で大正八年に整備されたという。

少し進むと立派な石垣があり、その角に「東門」の名が刻まれた石碑が立つ。その上にある郭の虎口(目賀田城)にあたり、防御の為かここで道は折れ曲がっていまる。その先には削平地があります。ここは御茶屋平と呼ばれる郭の跡地ですが、現在では四国八十八カ所巡りの起点の石仏がピラミッドのように積み上げられれている。

 この御茶屋平の北側を抜けるとお堂があり、道は二手に分かれています。その道の一方は中腹を安土城の中心部に向い、もう一方は尾根筋に向っています。安土城跡の案内図にはこの尾根筋の道沿いに、神様平と馬場平の 2つの削平地がある。

ここで尾根筋方向に向かうと、石仏が並んでおり安土城の城道では無く、巡礼道として改変されたようだ。

さらに進むと尾根道幅は広がり、稜線に登ってみると削平地があり、角の丸い四角い大きな石が意味ありげに鎮座しているます。このあたりが神様平か?。

南側の下方に大きな 2つの削平地が現れます。ここが「馬場平」。石垣だらけです。石垣の立派さには驚かされる。

安土城築城以前この安土山は目賀田山と呼ばれ、佐々木六角の有力な家臣であった目賀田氏の居城がありました

安土山に残る目賀田城の遺構について、馬場平に目賀田城があった。この馬場平では石垣と小石塁が組み合わせて使用されており、これは初期の観音寺城独特の構造です。また観音寺城の支城として有意な位置関係にあることから、ここが目賀田城であった。 馬場平から先、道は延びていますが幅が狭まりすぐに行き止まり。このあたりから中腹方向に下ると、広い立派な道に出ます。この道は東門道の幹線と思われ、広い道が続いていますが少し進んだところに「立入禁止」のロープが張られており、安土城中心部にに抜ける事はできません。

自動代替テキストはありません。

お城の歴史

 永禄十一年、尾張の織田信長が足利義昭を奉じて上洛軍を起こした。信長は六角承禎に協力を要請したが、承禎はこれを拒絶したため、信長軍の攻撃を受けて観音寺城は陥落、六角氏は没落した。目賀田貞政は浅井氏に属したが、浅井氏は越前朝倉氏と結び信長と対立して天正元年(1573)に滅亡、貞政は嫡男の堅綱とともに信長の麾下となり旧領を安堵された。
 畿内を平定した信長は近江に築城を計画、白羽の矢を立てられたのが目賀田氏が拠る目賀田山であった。天正四年(1576)、貞政は目賀田山明け渡しの命を受け、所領のひとつである光明寺野に移住すると新たに目賀田城を築き、春日神社を勧進した。これが現在残る目賀田城址で、光明寺野も目加田と呼ばれるようになった。ときに、目賀田氏の所領は二万石であったという。一方、目賀田山に築かれた信長の新城が安土城と称されたことはいうまでもないだろう。
 貞政の嫡男堅綱は六角氏との戦いに戦死し、嫡孫の堅政が目賀田城主を継いだ。天正十年、徳川家康が安土城を訪問したとき、堅政は信長の命によって家康一行を番場宿で饗応し、家康の入京から堺見物にも随従した。そのとき本能寺の変が起こり、家康は伊賀越で近江に出て三河に逃げ帰った。家康は堅政に三河行きを進めたが、堅政は近江に留まる道を選び、明智光秀に従って山崎の合戦に出陣、敗残の身となった。その結果、所領は没収されて一族は離散、堅政は剃髪すると備中に流浪して生涯を閉じたという。

 安土城建設前の安土山(目賀田山)には、当時明智光秀の配下で、近江守護佐々木氏(六角氏)に仕えた御家人格の目加田(目賀田)氏の居城であり、観音寺城の支城であった目加田(目賀田)城があった。 信長に安土城建設のための用地提供を要請された42代目賀田摂津守貞政は代わりの領地と、現在の目賀田城とを引き換えに目賀田山を信長に明け渡した。

 

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参考資料:『近江蒲生郡志』 安土山: Wikipedia安土城|もう一つの登城道・東門道

本日の訪問ありがとうございす!!


指月伏見城、石垣と堀発見 

2016年11月19日 | 丘陵城

指月伏見城、石垣と堀発見 慶長地震で倒壊か

高さ2・8メートル、南北14・5メートルにわたって確認された指月城とみられる石垣と堀跡(京都市伏見区桃山町泰長老)

 豊臣秀吉が造営した初期の伏見城(指月城)とみられる石垣と堀が19日までに、京都市伏見区で見つかった。関西文化財調査会(上京区、吉川義彦代表)が発表した。指月城とみられる石垣は過去にも部分的に見つかっているが、6~7段積まれた本格的な石垣の発見は初めて。

 調査地は、伏見区桃山町泰長老と同区常磐町にまたがる公務員宿舎跡地で、文献などから指月城の西側と推定される。堀は幅20メートルに及ぶ可能性があり、高さ2・8メートルの石垣が南北14・5メートルにわたって確認された。自然石や割り石を積み、隙間に小石を埋めていた。

 指月城は1592(文禄元)年、秀吉が隠居所として指月の丘に建設を始め、天守を備えた本格的な城へと改造したが、96年の慶長伏見地震で倒壊。北東の木幡山に後期の伏見城を建立した。

 見つかった石垣に地震で崩壊した跡はなかったが、堀にたまった泥には、建具の一部とみられる木片や瓦の破片が大量に交じっていた。

 吉川代表は「地震で倒壊した建物の瓦だと考えられ、地震以前に築かれた初期の伏見城の石垣と言える。それぞれの石の平らな面を表にして積み上げるなど手が込んでいる」と話している。

 【 京都新聞 2016年11月19日 22時50分 】


生津(なまづ)城 近江国(伊香立)

2016年11月06日 | 丘陵城

長谷川博美氏の踏査図を現地で拝見(Blog公開許可済)

お城のデータ

所在地:大津市伊香立下在地町  map:http://yahoo.jp/Z0UPns

区 分:丘陵城

標 高:170m 比高:約30m

現 状:森林・竹林・小学校のグランド

遺 構:土塁・櫓台・堀切・蔵・曲輪・基壇・切岸

築城期:織豊期

初城主:林宗林坊

城 域:150m×50m

目標地:伊香立小学校

訪城日:2016.11.6


生津城遺跡現地説明会(2016.11.06)配布資料

 

 


 
 公益財団法人滋賀県文化財保護協会では、伊香立浜大津線補助道路整備工事に伴う生津城(なまづじょう)遺跡の発掘調査を平成28年7月から実施しています。
発掘調査では、礎石建物や石積みを伴う櫓台(やぐらだい)、土塁(どるい)や堀切(ほりきり)などの遺構や、戦国時代の土器などの遺物がみつかりました。特に、これまで詳細が明らかではなかった、大津市伊香立地域の中世城郭および京都大原方面に続く旧道の伊香立越えの重要性を考えるうえで、貴重な遺跡であることが明らかになりました。
 2016.11.06に開催された現地説明会を下記からダウンロードできます。

生津城遺跡現地説明会(2016.11.06)配布資料(約2M)

 

お城の概要 

生津城は、近江と京と繋ぐ途中越の起点である途中から坂本へ抜ける街道沿い、伊屋ヶ谷の通称城山といわれる小丘上に築かれている。

城跡は、伊香立小学校の立つ丘陵の台地の両側に「伊屋が谷」の小字名が残り、地元では「城山」を称さてる小丘だある。

乗馬川に突き出た半島状の先端に南北に2段の郭を連ね、乗馬川を堀に見立てる地形である。

上段の曲輪(竹藪)は小学校のグランドも一部城域と考えられる。下段の曲輪は広さは30m×40mほどで削平状で、乗馬川は、切岸状に落ち込み堀の地形である。極めて防御性に良い。民家側の斜面に腰郭なのかの段郭状に平坦地があり、城道のようになってます。折り返す箇所には(虎口形状)土塁のような高まりもあります。畑地の跡か?

城山の北には堅田から京 左京区 古知平野に達する伊香立越えの旧道が通っている。

お城の歴史

生津城は1723年に膳所藩が編さんした地誌『近江輿地志略』に「生津村の城山」と記され、城主は延暦寺に属した「林宗林坊(はやしそうりんぼう)」と伝わる。県教委が1980年代に行った分布調査で堀切跡などが見つかったため遺跡として認知されたが、築城時期や城郭構造は不明のままだった。

 戦国時代、この地域は戦略的に重要な地点だったといい、県教委文化財保護課の木戸雅寿参事は「延暦寺攻めなど織田信長の湖西攻略の攻防の中で役割を果たした可能性がある」としている。

未発掘部

  

 

 

 

   

 

 

 

 

 

 土塁・堀切(南西部)

発掘調査現地説明会

櫓台(北東部の最高所)の石垣東側の切岸

建物礎石と側溝・・蔵跡?(物入廓)

 

参考資料:長谷川博美氏の踏査図及び俯瞰図・生津城遺跡発掘調査現地説明会資料、  

       今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。



生津(なまづ)城 発掘調査現地説明会 近江国(伊香立)

2016年11月06日 | 丘陵城

現地説明会に長谷川博美氏(城郭研究家)も!

長谷川博美氏の踏査図を現地で拝見(Blog公開許可済)=滋賀県中世城郭分布調査9に掲載

長谷川博美氏の生津城俯瞰図

城郭探訪仲間の岩◆氏も

出土品品

説明会資料

現地説明会

 

 

戦国期の櫓台跡発見 大津の生津城遺跡

 野面積みの石垣が伴う櫓台の遺構(大津市伊香立生津町・生津城遺跡)

 滋賀県文化財保護協会は3日、大津市伊香立生津町の生津(なまづ)城遺跡から石垣を伴う櫓(やぐら)台や倉庫とみられる建物の礎石など戦国時代の城郭の遺構が見つかった、と発表した。櫓は大津市堅田と京都市左京区大原を結ぶ旧道「伊香立越え」を監視し、戦に特化した山城だったと見られ、同協会は「伊香立地域の中世城郭の一端を知る重要な成果」としている。

 生津城は1723年に膳所藩が編さんした地誌「近江輿地志略(よちしりゃく)」に「生津村の城山」と記され、城主は延暦寺に属した「林宗林坊(はやしそうりんぼう)」と伝わる。県教委が1980年代に行った分布調査で堀切跡などが見つかったため遺跡として認知されたが、築城時期や城郭構造は不明のままだった。伊香立浜大津線補助道路整備工事に伴い、7月から1500平方メートルを調査している。

 櫓台の遺構は曲輪(くるわ)北隅の最も高い場所で見つかり、斜面部2カ所には石垣が残っていた。石垣は直径50センチの築石の間に小さな石が詰め込まれた野面積みで、同地域が延暦寺の荘園だったことからも寺院に用いられた高い技術が城郭にも導入されたと見られる。土塁や深さ4・5メートルの堀切のほか、16世紀の土器片なども出土した。

 戦国時代、この地域は戦略的に重要な地点だったといい、県教委文化財保護課の木戸雅寿参事は「延暦寺攻めなど織田信長の湖西攻略の攻防の中で役割を果たした可能性がある」としている。

 6日午後1時半から現地説明会。近隣に駐車場はない。問い合わせは同協会TEL077(548)9780。

京都新聞【 2016年11月04日 11時44分 】


仮)藤瀬城   近江国(多賀)

2016年06月23日 | 丘陵城

城発見か!

お城のデータ

所在地:滋賀県犬上郡多賀町藤瀬   map:http://yahoo.jp/EpLEAn

現 状:山林

区 分:丘陵城

築城期:

築城者:

遺 構:石垣・石積(後世の物か?)、空堀・土塁・曲廓・物見廓

目標地:藤瀬集落の東側林道を登ると、林道脇に石垣

駐車場:林道沿いに資材置き場

訪城日:2016.4.16

お城の概要

犬上川の左岸の藤瀬集落の背後の丘陵に、城郭遺構は残存する。一ノ瀬城の下流1km程

藤瀬集落の東側林道を登ると、林道に左脇に石垣と平削地ある。右側にも低土塁の敷割り(浅堀)が残存する。

林道から、50m程の西山中には、土塁・空堀・曲廓・廓が残るが、詳細不明

お城の歴史

詳細不明。

              

ナビ画面は林道の駐車位置(大滝小・大滝局対岸)

             

     土塁 空堀        

駐車位置駐車位置から、林道の反対側からの入りる

藤瀬集落から遠望(白雲の下が主郭)

本日の訪問ありがとうございす!!


家田城 近江国(志賀)

2016年06月01日 | 丘陵城

「滋賀県中世城郭分布調査報告にも掲載されていない城」

家田城

 
お城のデータ
所在地:大津市(旧滋賀郡志賀町)真野家田町   map:http://yahoo.jp/vnhMsI
現 状:山林(近宮神社)
区 分:丘陵城
築城期:
築城者:
遺 構:土塁・虎口・曲廓
標 高:126m    比高差:27m
目標地:近宮神社・家田自治会館
駐車場:家田自治会館前1台駐車可
訪城日:2016.5.28
お城の概要
 大津市の家田集落の背後の丘陵に位置するが、 築城時期・築城者などは詳細不明。
琵琶湖西縦貫道路(161バイパス)の真野出口近くに位置し、途中越え・西近江路の街道を監視する役目があったものと推測される。真野地区は、琵琶湖に大きく張り出した地形と真野川の琵琶湖に流込む。
 現在、城域には近宮神社が建つが、鎮守の森の林が伐採されて、土塁と曲廓・虎口が確認出来る。
      (・・が、伐採さてた木が放置されいるのが残念だ)
神社の東側に土塁に囲まれた15m方形の郭が南・北に土塁囲み遺構が二つ設けられ、東は自然の地形の切岸状ある。南廓には、虎口の確認出来る。北廓の北側には平坦地があり広く三方が切り立った切岸で急斜面である。
お城の歴史
城域からは堅田の平野部と琵琶湖を一望することができる。堅田衆もしくは真野氏の詰城の可能性が考えられる。

真野から堅田にかけては琵琶湖の最狭部で、琵琶湖を北湖と南湖に分ける。「真野の入江」と呼ばれ、歌枕として知られた。

うづらなく真野の入江の浜風に尾花波よる秋の夕暮れ(源俊頼、金葉和歌集巻3)

[正院坊](家田地区の伝承)
比叡山の三千坊の一つに正院坊と呼ぶ寺があった。今はないが家田にあったといいます。そのあとは藪や田畑になっていますが、地名に残っています。例えば堂の上、堂の前、庵の下、中の堂などです。地名から推定すると、本堂と左右の堂、それに一つの寺院の様子がわかります。かなり大きな本堂です。今の若宮神社の付近一帯です。跡のよくわかる瓦や石探していますが見つかりません。

[家田という名](家田地区の伝承)
昔、家田は南庄に属していた。南庄の東、今の家田のあたりは田畑があっただけである。南庄からこのあたりまで農耕に来るのが遠いため、田のために家をつくろう、すなわち田の家、つまり家田の地名が起こったのである。だから家田の神は南庄の神と同じで、源融を祀っている。融神社がそれである。源融は近江の国司で、特にこの地を愛され、よい政治をされたという。村人は融侯によく従い農に励んだという。はじめに移り住んだのは八軒で、今は倍の十八軒で小さなである、つい最近まで南庄の山野の草刈りは許されていたし、今も南庄の祭りにはおこわをいただいて食べるという風習が残っている。

  
近宮神社参道  以前の「近宮神社
現在の近宮神社本殿 
神社西側の土塁                    
虎口 

 

 

   

   

 

 

 

参道家田自治会館前に駐車可

参考資料:遺跡ウォーカー、さくろぐ(城郭レポート)
本日の訪問ありがとうございす!!
 

横田城 近江国(甲賀・甲西)

2016年05月31日 | 丘陵城

 

 

お城のデータ

所在地:湖南市(旧甲賀郡甲西町)朝国/三雲  map:http://yahoo.jp/U6FgC2

区 分:丘陵城

現 状:TOTO工場

築城期:室町期

築城者:横田氏

遺 構:工場地の整備で消滅か

目標地:TOTO滋賀工場

駐車場:TOTO滋賀工場駐車場

訪城日:2016.5.22

 

お城の概要

甲西町と水口町の堺に位置し、国道1号線の横田橋の東詰の北側の独立丘陵の山頂部に、横田城はあった。また、旧東海道の「横田の渡し」や東海道を監視できる処に位置する。

・・・が、現在は、工場に丘陵は大きく削平され、遺構は工場の西側の丘陵麓に一部残るが断定は出来ない。 

お城の歴史

 近江国甲賀郡横田より起こった。家譜によれば「佐々木三郎秀義の末孫 次郎兵衛尉義綱、浅井伊予守吉高に属し戦功により、横田川和泉村のほとりに、采地を受け、家号を横田に改む」とある。また、中興系図には「横田・宇多、紋、釘貫」と出ている。

 横田橋で、その横田橋から上流が横田川と呼ばれていた。横田橋については、寛正二年五月二十四日付室町幕府奉行人奉書(山中文書)に「酒人郷横田河橋」と記され、酒人郷領主京都西芳寺が橋賃を徴収していた。横田氏の家紋が、御上神社の神紋と同様に釘抜紋であることから、三上氏との関係も推測できる。また横田城は三雲城に近く、三雲氏との関係も考えられる。

 三雲氏は、室町将軍による六角氏征伐である長享・延徳の乱で、六角氏の命令によって観音寺城の出城として三雲城を築いた。

 三雲氏は甲賀郡の名族伴氏の一族で、鎌倉期には佐々木秀義の五男隠岐佐々木義清の次男泰清が三雲(見雲)氏を名乗ったとも伝えられ(沙沙貴神社所蔵佐々木系図)、源氏を称することもある。長享・延徳の乱では甲賀に積極的に逃亡した高頼を甲賀二十一家が支えた。そのひとりが三雲新蔵人である。その跡は武蔵七党のひとつ児玉党出身の典膳実乃が継ぎ、さらに小山田上杉行定が典膳実乃の婿養子となり三雲氏を継いだ。これが三雲氏に児玉党の系譜と家紋を伝え、さらに小山田氏という系譜伝承も伝えている理由である。大永二年(1522)、三雲源内左衛門(行定)は幕府から唐物赤毛氈の鞍覆と白傘袋を使用することを許されており(「御内書案」)、管領・守護に准ずる待遇を得た。『勝山記』(妙法寺記)によれば永正十七年に行われた甲斐小山田弥太郎十三回忌法要で施主が藤原氏を称しており、甲斐の郡内小山田氏も上杉流であった可能性がある。戦国期末の越中守信有の代に秩父平氏を意識したのだろう。このように、三雲氏は関東と深い関係にあった。横田氏が関東に転出したのは、三雲氏の出自と関係があったのかもしれない。

 しかし甲賀衆に横田氏の名は見えない。『淡海温故録』には横田美作守秀長が記されているが、その系譜は知られていない。横田氏の中祖佐々木義綱の名に注目すれば、甲賀郡川田神社の由緒に、嘉禎二年(1236)佐々木義綱が社殿を再興したと記されていることを見つけられる。系譜は不明だが、鎌倉前期であることから、定綱の孫伊佐二郎左衛門尉義綱(七郎左衛門尉行綱の長子)の可能性がある。秀義から見れば曾孫であり、横田氏の系譜伝承と矛盾しない。また三上一族であれば、『群書類従』所収三上氏系図(巻百三十)で三上氏を清和源氏賀茂次郎義綱流としており、その系譜が佐々木氏系図に混入したとも考えられる。たしかに義綱の一族は弟義光の陰謀により甲賀山(義光領甲賀郡柏木御厨)で滅んでいる。しかし三上氏が賀茂次郎義綱の子孫とする系図は、宇多源氏行実(「源行真申詞記」)の長男井盛実(守真)を賀茂次郎義綱の子とするなど矛盾があり、同系図にとらわれる必要はないだろう。佐々木氏であることを重視すれば、甲賀郡川田神社の社殿を再興した伊佐二郎左衛門尉義綱の子孫である。

 この甲賀横田氏の出身と考えられる横田村詮は、三好康長の甥で従兄弟三好康俊に仕えた横田宗昭(日上人「己行記」元亀四年一月・二月)と同一人物とも考えられる。しかし、このことは村詮が近江甲賀郡出身であることを否定しない。近江守護六角氏の被官であると同時に細川氏の被官でもあった河田氏や、三好義継の家老である若江三人衆の筆頭多羅尾常陸介(右近)綱知のように、近江武士で細川氏や三好氏に仕えた者はいた。『古今消息集』に(年未詳)正月七日付甲賀諸侍中宛細川氏綱書状(使者三好筑前守[長慶])、望月修氏所蔵文書に(年未詳)八月十八日付村島殿(望月重元)宛細川氏綱書状が所収されているように、細川氏と甲賀衆の関係は深い。また佐治・和田・池田らが尾張に進出しているように、甲賀衆は近隣諸国に積極的に進出していた。行定の子三雲対馬守定持(新左衛門尉)は天文年間に、明の吏部尚書聞石塘から紅鞍龍を贈られているように日明貿易にかかわっており(蒲生郡志三巻および甲賀郡志下巻)、横田氏も三雲氏との関係で日明貿易にかかわり、やがて三好氏と関係を持ったと考えられる。

横田村詮(内膳)は、三好氏が没落すると、同じ甲賀出身の近世大名中村一氏(瀧孫平次)に迎えられた。羽柴秀吉の命により中村一氏が天正十三年(1585)、甲賀郡の支配の拠点として水口岡山城を築き、横田橋も中村氏の管理下に入った。横田村詮は中村一氏の妹婿となり、天正十八年(1590)中村一氏が駿府城主となると、駿府に同行している。関が原の戦いでは、中村一氏は村詮の意見を容れて駿府城下の村詮屋敷で徳川家康との会談を行い、東軍に加わることを決めた。戦後、徳川家康は中村一氏の嫡子一忠を十七万五千石伯耆米子城主に任じており、中村氏は国持大名になった。さらに家康は村詮に六千石を与えた上で、一忠の後見役とした。村詮は城下町を建設し、現在の米子市の発展の基礎を築いた。しかし慶長八年(1603)村詮を妬んだ一忠の側近によって殺害されてしまった。村詮の子主馬助や柳生宗章(五郎右衛門)らは飯山に立て籠もったが、一忠は出雲の領主堀尾吉晴・忠氏父子に助勢を求めて鎮圧した。徳川家康は自ら派遣した村詮の殺害に激怒し、中村氏は断絶となった。

 中村氏と横田氏の関係からも、甲賀郡に横田氏があったことは認めていいようである。そうであれば横田高松はどのような縁故で甲斐武田氏に赴いたのだろうか。ここで注目できるのが、三雲実乃が武蔵児玉党の出身であり、行定が小山田氏の出身であったことである。三雲氏と小山田氏の関係が、近江佐々木氏と甲斐武田氏を結んだと考えられる。

 こののち元亀・天正期に、六角義堯は甲斐武田氏と結び、さらに武田勝頼と上杉謙信に和を結ばせて織田信長包囲網を築いている。上杉氏では、六角氏旧臣の河田豊前守長親が執政を勤めていた。

横田氏の家伝に浅井氏が登場するのは、元亀の争乱で浅井長政・朝倉義景と武田信玄が結んだことを隠喩していよう。「浅井吉高」は六角義堯のまちがいかもしれない。これらのことが一気に結びついてくる。元亀四年三月十日に将軍足利義昭が織田信長に対して挙兵すると、信虎は義昭の命で甲賀に派遣され、反信長勢力の六角氏とともに近江攻撃を企図している(『細川家文書』)。やはり甲賀衆と甲斐武田氏は関係が深いようである。

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査2(甲賀の城)、武家家伝横田氏(Wikipedia)、遺跡ウォーカー

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