城郭探訪

yamaziro

旧・蒲生・神崎郡:近江の国にはどれ位のお城があったのか?(全国に2万5千あったらしい?)

2016年09月16日 | INDEX

近江八幡市 23


蒲生郡 安土町 10

安土城見学会観音寺城御屋形・ 武藤氏屋敷(安土城山麓館)香庄館(香庄城)観音寺城(佐々木城) 観音寺城木村城(常楽寺城)金剛寺(こんごうでら)城 金剛寺城根来陣屋桑実寺(仮幕府)
武藤氏屋敷(安土城山麓館)

蒲生郡 蒲生町 9

大塚城・大森館・岡本城(岡本館)葛巻(かずらまき)城川合城河合城・越後城・寺村城(寺村館)横山館(横山氏館)上南(かなみ)城木村城鈴村館寺村氏(蒲生)

蒲生郡 日野町 45

新野砦太田氏館勝長氏館・神戸氏館(西大路-位置不明)・森氏館・遠城(杣‐位置不明)・木津森西城/森安城四つ谷城(奥師城)薬師堂遺構(妙楽長興寺)・落合城(落合-位置不明)・音羽城跡雲迎(うんこう)寺(音羽城出丸)鎌掛城 鎌掛城・残念!鎌掛山屋敷・鎌掛長野館・鎌掛古館・木津岡山城(岡宗左衛門屋敷)小谷山城小谷館・駒月館(位置不明)・駒月城(位置不明)・小御門(こみかど)城佐久良城桜谷城中山陣屋・外池氏館・園(おん)城鳥居平(とりひら)城長寸(ながす)城 長寸城(上の城)中野城(日野城) 日野城跡(中野城跡)音羽城(日野城/智閉城/智関城)・中郷城(中之郷城)・仁正寺陣屋西大路城西大路館馬渡氏城内池館山本館木津岡山城(岡屋敷・木津館)丸山城(澤山城)矢野屋敷上迫(かみはざま)城/(儀俄(ぎが)氏城)下迫(しもはざま)城(三木氏屋敷/三木氏城)小井口城(原氏城・原城)清田城御師尻(おしがしり)屋敷(御師尻館)勝長氏館仮称)中山城清源寺(定秀の別邸桂林庵・西大路藩/仁正寺藩主市橋氏の菩提寺)興敬(こうきょう)寺遺構信楽(しんぎょう)院標(しめ)の松塚(蒲生貞秀の墓所)蒲生氏ゆかりの地十禅師館(下司坊)

蒲生郡 竜王町 8

鏡城(井上館)川守城(吉田城)・大木城・星ケ崎城 星ヶ崎城弓削城林城(赤座城)村田氏館信濃館丸山城岡屋城鵜川館鏡陣所裏山遺跡・西川館山副氏館(山副館)・山之上館・竜王山遺跡(野寺城下屋敷)

八日市市  29

池田城林田館瓜生津城大森城 大森城(上大森城) 大森城仙台藩代官屋敷上羽田陣屋建部氏館 建部館 (松尾神社庭園)柏木館狛氏館小脇館小脇城後藤氏館 後藤氏館小脇山城布施山城 布施山城布施館南城(柴原屋敷)上村館安村館最上陣屋(大森陣屋)雪野山城 雪野山城建部城岡田館

織田 信次の墓織田淡水の墓(供養塔) 織田淡水の墓船岡山」古戦場なり川合寺館(津田氏邸)

神崎郡 永源寺町 26

石谷城市原野城(野村氏館)市原野白鳥社城上二俣城高松御所一色城・一式城・黄和田(きわだ)城(黄蘗城)九居瀬城甲津畑城・・池之脇城・高木城・高野城高野館(お鍋館=姫屋敷)殿屋敷城相谷城山城(鶴尾山城) 相谷万灯山城山上城(山上陣屋) 山上藩は山上陣屋和南城山田城八尾城箕川館杠葉尾城坂の頭関所蛭谷館(蛭谷城)佐目館
信長の千種越え 千草峠にて鉄砲打ち申すの
神崎郡 五個荘町 7
金堂陣屋箕作城(箕作山城)和田山城 和田山城小幡館塚本館宮荘清水ヶ井(しずがい)城宮荘殿屋敷遺構建部城(建部伝内屋敷)奥村館七里館下日吉城辻伊賀守墓

神崎郡 能登川町 16
福堂館阿弥陀堂城伊庭城(伊庭陣屋)今村城猪子館 佐野館小川城垣見城川南(かわなみ)城種村城新村城(志村城)八仏手城山路城徳永城(徳永氏館)躰光寺館伊庭古城(いばふるしろ)城須田館佐生日吉城(佐野山城・佐生城) 佐生日吉城 近江国(能登川・五個荘)
仮称)伊庭山城仮称)北須田山城仮称)石馬山城

旧・高島・滋賀・栗太郡:近江の国にはどれ位のお城があったのか?(全国に2万5千あったらしい?)

2016年09月15日 | INDEX

高島郡 マキノ町 6

安土城・奥田城・白谷館・山中館・牧野城(栗瀬城)・野口城・小荒路の遺構・小荒路館・小荒路の遺構・海津山城・海津東内城・海津願慶寺城・海津(海津西内・海津東)城知内浜城(知内城)西浜城 ・西浜砦・中庄浜城・中庄城・沢村城(饗庭氏館)田屋城  田屋城中ノ谷(馬かけ場)の遺構長法寺館(田屋氏館) 長法寺館(田屋氏館)・知内浜城・石庭城蛭口館・新保城・森西城・角川館・角川(丸山)城砦・薬師堂遺跡・野口館・寺入保館・
西 与一左衛門と海津浜

高島郡 今津町 5

伊井城(鑓城(やじろ)・今津城・構(かまえ)城・高田城(高田館)・三谷城・角館・北仰城・角川砦(丸山砦)・中之町城・河上城・
仮称)井伊支城・砦(伊井奥ノ城)

高島郡 朽木村 4

   朽木本陣(朽木城) 朽木城(朽木陣屋) 岩神館(秀隣寺庭園) 岩神館西山城・野尻坂砦 ・坊殿館・桑野館・村井城

   池ノ沢の遺構・涌出館・大野館・入部谷城

  ・信長の隠れ岩 信長の隠れ岩

高島郡 安曇川町 

高島郡 高島町 8

伊黒城打下(うちおろし)城長法寺(城)遺構大溝城 大溝城 ・大溝陣屋武曽館横山城宮野城永田城・長法寺北遺構・白髭のA遺構・白髭のB遺構・白髭のⅭ遺構・白髭のⅮ遺構・
大溝城発掘調査現地説明会

高島郡 新旭町 6

五十川(いかがわ)城清水山城 清水山城(日高山城・比叡谷城)新庄城(大善寺遺構)日爪城(日爪城山)日爪の遺跡(南谷遺構=日爪のねごや)平井城吉武城(針江城)・今宿城・森館・深溝城饗庭(あいば)館井ノ口館(清水山城館)・麻畑の遺構・大善寺遺構・今市城・新庄城(大善寺遺構)・清水寺の遺構・地蔵谷の遺構・御屋敷遺構・

滋賀郡 志賀町 7

大津市 42

草津市 14

守山市 13

栗東市 25/29

野洲郡 中主町 8/12

 

野洲郡 野洲町 19/28


旧坂田・東浅井・伊香郡:近江の国にはどれ位のお城があったのか?(全国に2万5千あったらしい?)

2016年09月15日 | INDEX

坂田郡 米原町 

朝妻城(朝妻湊)磯山城/虎が城磯城鎌刃城 鎌刃城 鎌刃城 鎌刃城見学会醒井城・醒ヶ井神籠石・地頭山(ぢどうやま)城枝折(しおり)城(土肥城)番場城殿屋敷福島城 福島城太尾山城西円寺館醒井山城上野館門根城六波羅山(ろくはらやま)砦

坂田郡 山東町 20/53

・池下城・大野木館大原氏館・大峰砦・柏原城柏原御殿猪鼻城(河内城)上平寺館(京極氏館)西山城(城山城・源氏山の遺構)須川城須川山城須川山砦長比城(野瀬山城)高屋城高屋砦・長岡館・本郷城 本郷城箕浦氏館八講師城(八講師砦)梓の関・石田館・野一色城・夫馬館・本庄中村城・村居田館・油里城・堂谷西の砦(岩祖山城)・美濃こえ(山の神)遺構・堂谷東山砦・千畳敷東の遺構・千畳敷砦・滝ヶ谷城・小田城・市場城・黒谷遺跡・間田城・堀氏館・竹越氏館・向山の砦・竜宝院の関連遺構・総山城・井ノ口城・大庭還・鳥脇還・常谷城・年吉(としみ)城・殿村氏館・長岡城(京極氏館・加賀屋敷)・旗本西郷氏邸小川(こかわ)の関箕浦氏館
新発見『焼尾茶屋城』新発見『白鳩城』

坂田郡 伊吹町 

向山城治山城・天清城・河瀬館・弥高寺城上平寺城(桐ヶ城) 上平寺城(桐ヶ城・霧ヶ城・刈安尾城)上平寺屋敷(京極氏屋敷) 上平寺館(京極氏館)・太平寺館・太平寺城(霧ガ城)

 

坂田郡 近江町 

顔戸山砦・飯村城(嶋氏館)・多和田山城・福田寺長沢城 長沢城箕浦城(新庄城)若宮城(若宮氏館)宇賀野長野家 宇賀野長野家宇賀野館三田村屋敷寺倉城世継館岩脇(いわぎ)館

長浜市 

横山城石田館(石田屋敷)・今川城・今村城・榎木城・垣見氏館加田七殿屋敷(加田館・七殿屋敷)・加納城・上坂城・小足館・三田村城下坂氏館(下坂館)・十里館・常喜城・長浜城(湖中城) 長浜城・名越館・八幡山中館・広瀬氏館・堀部山城・小堀氏館・堀部館・南田付城・宮川陣屋(宮川氏館)宮川陣屋(宮川氏館)横山城 ・室町城居立城鳥羽上城国友城 山室砦(名越ごえの山城)姉川の合戦茶臼山砦姉川の合戦信長本陣「陣杭(じんご)柳」姉川の合戦家康本陣岡山(勝山)姉川古戦場浅井長政と陣田・血川・野村新庄寺城馬場城口分田(くぶた)古殿城口分田(くぶた)城ノ根城(口分田氏館)

東浅井郡 浅井町 

  大依山城瓜生館(海北氏館)・主計館・木尾城・草野城小室城・佐野館・須賀谷館尊勝寺城(多賀古屋敷)・種路城・野田館・丸山城・三田村城大田館(赤田氏草野田館)西村館 尊野城平塚城(平塚館)内保城瓜生館(海北氏館)田根城東出館北野砦北野館竜安寺山城黒部館黒部砦竜安寺城長泉寺館

東浅井郡 虎姫町 8/12

大井城月ヶ瀬城宮部城(宮部砦)八相山城滝川陣屋(滝川氏館)三川城唐国城大寺城・田村城・中野城・彦部氏館・

東浅井郡 湖北町 

山本山城・山本氏館・浅見氏館・朝日山陣屋・月所丸大嶽(おおずく)城福寿丸山崎丸・海老江館・小倉館・伊部館・今西館・今村館・大野木氏館・尾上城小谷城 小谷城 小谷城~水の手道から京極丸へ焼尾砦・佐野城・城山城・田中館・虎御前山(砦)・速水館・雲雀山砦丁野館山脇城/山脇砦・渡辺氏館、丁野山城 丁野山城中島城八幡の岡陣城・河毛城・芝山城(芝山古城)・下山田城・高田館(渡辺氏館)・田中館・種路城・丁野城・脇坂館・比伎多理神社遺構・大興(光)寺・八太夫屋敷・延勝寺館(飯開(いびらき)神社遺構)・猫今城(今村館)・速水城(西の宮館)南速水城(伯母屋敷)雲雀山砦・二俣館・馬渡城・薮田城・山脇屋敷(佐野城)・高月城・西野城・高田館(渡辺氏館)

東浅井郡 びわ町 4/15

安養寺城 安養寺城・落合城・川道城・曽根城・富田城・錦織城・新居城・南浜城・早崎城・細江城・下八木城・弓削城・益田城八木浜城(中村氏屋敷)

伊香郡 高月町 

磯野山城大森山城陣所赤尾山城・井口城・磯野館宮沢城・森本館・持寺館・柏原城・唐川城・宇根館・柏原城・片山館・陣屋の馬場城・高田城・高月城・富水館・西阿閉城・西野城・西物部城東柳野城西柳野館・保延寺館・馬上城・馬上山城・熊野城・松尾山城・横山城高野館

伊香郡 木之本町 

田上山城(砦)(木之本城)赤尾氏館赤尾城丸山城大音(おおと)館・川合城・小山館・杉野館・田居前館・菅山寺城・木之本城・黒田屋敷 黒田 官兵衛(黒田屋敷)賤ヶ岳城仮)西山砦賤ヶ岳砦 賤ヶ岳合戦と城郭 賤ヶ岳古戦場・千田城・田部山城/田部城仮称西山砦・西山城・布施城・古橋城・石田三成の隠岩窟(オトチ洞窟)・飯浦山城(位置不明)・法華寺遺構・飯福寺遺構(鶏足寺別院)・古橋裏山遺構

伊香郡 余呉町 

玄蕃尾城(内中尾山城)・秋葉超え遺構・秋葉神社砦・高尾山砦・イ地点遺構・ロ地点遺構・峰通りP地点遺構・峰通りℚ地点遺構・峰通りℝ s地点遺構・溝谷砦・余呉館・大谷山砦・笠上城・柏谷山砦(1の砦)・雨森城・池原山砦・芝上城・川並城・坂口砦・行市山砦・下余呉砦・神明山砦 神明山陣城(大杉山砦)天神山砦神明山砦今市上砦(久太郎小屋)東野山砦=陣城(実山砦=左禰山砦)菖蒲谷砦茶臼山砦城堂木山砦 堂木山砦(堂木山陣城)橡谷(くぬぎたに)山砦中谷山砦林谷山砦東野館別所山砦山寺山砦・柳瀬城・摺墨越え遺構菅山寺城・官山寺遺構・茂山陣所と権現坂・賤ヶ岳砦・角鹿山遺構・大将宮山遺構・椿坂遺構・大岩山砦(陣城) 大岩山砦(陣城)岩崎山砦 岩崎山砦・植谷山城-坂口(余呉合戦記)・大野路山城-(余呉合戦記)・河置山城-(江余)・谷山城-(江余)・丸山城-(江余)・
・岩崎山の大岩(烏帽子岩・お膳岩伝説)

伊香郡 西浅井町 

塩津城山城(塩津城)塩津城(大平山城・山麓遺構)塩津浜城(塩津浜山城)塩津城東出丸塩津城出丸(祝山(ほおりやま)城)西岡城集福寺若山城・永原城・沓掛北砦沓掛南砦沓掛(くつかけ)西砦(集福寺北城)応昌寺城(応正寺城)・岩熊城・月出坂砦/月出浜砦・深草越え遺構
菅浦惣村葛籠尾崎湖底遺跡

 

伊勢国
伊賀国
美濃国

越前国

 戌山城跡村岡山城疋壇城(疋田城) 


旧:犬上郡・愛知郡:近江国にはどれ位のお城があったのか?(全国に2万5千あったらしい?)

2016年09月13日 | INDEX

彦根市 56

安養寺館磯城・磯崎城・松原城 旧彦根藩松原下屋敷(お浜御殿)彦根城外堀 彦根城 彦根藩主井伊家墓所(清凉寺)今村城宇尾城(大宇城)堀城大堀城大藪城(大藪館)・男鬼城・岡村館尾末山砦甲崎城甘呂城(甘露城)小泉館越川城佐和山城 佐和山 佐和山城 佐和山城 佐和山城物生山(むしやま)城 物生(むし)山城松原内湖遺跡原城地蔵城新海城・新海館・高宮城田附城(田付城)葛篭(つづら)城(岡部城)百々屋敷小野城沼波(のなみ)館・野田山館・彦富城(藤田屋敷)・・彦根館肥田城平田城平田山城(雨壺山城・徳川家康陣城)・本庄城・河瀬城仮称)南川瀬城三ツ屋城茂賀山(もがやま)城(茂賀山砦)荒神山城山脇古城山城山崎山城北町城里根山城蓮台寺城山屋敷清水城太堂(たいどう)城平流(へるい)城中川館薩摩館日夏城(詰め城)日夏城(泉城・泉古屋敷)長江館上西川館洲越館佛生寺城荘厳寺(しょうごんじ)城菖蒲嶽城キドラ谷砦長久寺陣所北町城島左近屋敷丸山城(丹羽砦)
佐和山城跡伝本丸における範囲確認調査現地説明会

犬上郡 豊郷町 5

高野瀬城那須城八町城(赤田館)吉田城
四十九院陣所

犬上郡 甲良町 

尼子城(館)在士館藤堂高虎・「虎高」の居館下ノ郷城勝楽寺城横関館佐々木道誉の居館

犬上郡 多賀町 20

一の瀬城久徳城 久徳城 久徳城来栖舘・栗栖城・小林城猪鼻城(河内城)猿荻氏館曽我城多賀城土田館 土田館・富之尾城・楢崎(ならさき)城敏満寺城桃原(もばら)城佐目館(明智屋形通称:十兵衛屋敷)高室山城一円館・一円城・一円屋敷籠城山(ろうじょうやま)城八尾山城(八ツ尾山城)・殿城(位置不明)・大賀城・中原城(位置不明)・藤瀬城(仮称仮称)桃原北山城仮称)下水谷丸山城 


 愛知郡 愛東町 15

百済寺城平尾館井元城 井元城 井元城山口城(外村城)小倉城勝島城青山城曽根城中戸城大萩城 上岸本城鯰江城 鯰江城鯰江森村城池之尻城北坂本城(北坂城)下山城下山本館下山館

       愛知郡 湖東町 12/14

     愛知郡 秦荘町 10

    愛知郡 愛知川町 7


甲賀:近江の国にはどれ位のお城があったのか?(全国に4万以上あったらしい?)

2016年09月10日 | INDEX

甲賀郡 石部町 4

甲賀郡 甲西町 14

   三雲館「三雲城」と「謎の出丸」宮嶋城・宮崎城・谷城上城谷城下城青木館菩提寺城西正福寺城東正福寺城(宇山城)東丸岡城丸岡城(養林寺城)針氏城夏見城

甲賀郡 水口町 65

大徳寺(家康宿所)今郷城(おばん城) おんば城(今郷城)新城氏城嶬峨城嶬峨(ぎが)西城・堀田陣屋・備後城・水口古御殿水口城-水口岡山城と城下町 水口岡山城(水口古城山城) 水口岡山城8~9メートル石垣 水口岡山城 三の丸 水口岡山城伝三の丸 水口岡山城(水口古城山城)栄子姫塚杣中城高山城 高山城高山館小山城平子城奥谷城一学殿屋敷・三木城・平子城源太屋敷城城屋敷御姫屋敷城内貴城内貴殿屋敷内貴尾山城内貴川田殿屋敷虫生野(むしょうの)堂の前城北虫生野(きたむしょうの)城北内貴城内貴川田山城・・水口城(碧水城・水口御茶屋御殿) 水口城(碧水城・水口御殿)伴中山城西出館(にしでやかた)・・植城・宇田城・下山城・下山北城下山城畑村城山村田引城上村城・山村城・山村支城(2)・伴屋敷城西出城百姓村城三大寺竹中城牛飼城山上館山上城山上城Ⅱ広徳寺砦(庚申城)富川屋敷東迎山城(迎山城東丸)西迎山城(迎山城西の丸)津山城飯道山城美濃部古屋敷岩坂屋敷平野城伊佐野城里北脇城北脇城柏木神社遺構

甲賀郡 土山町 24

音羽野城 音羽野城頓宮城頓宮舘頓宮池ノ谷城・頓宮支城・大野山本城大野城山本神社遺構土山城山中城大河原氏城黒川砦大宮神社遺構黒川氏城 黒川氏城鮎河館 鮎河館鮎河山城(仮称)中ノ尾城鷹尾山城平子館今宿堀田陣屋今宿城

甲賀郡 甲賀町 91

滝川城滝川西城滝川支城瀧川城(五反田城)西ノ口城櫟野大原城奥殿城(奥殿屋敷)大原上田城大宝寺遺跡南殿屋敷(南城)・大窪城・垂井城(甲斐屋敷)・大宝寺城・大鳥神社遺構篠山城(殿藪)鳥居城大原忠道屋敷・笹山陣屋・竹林(たけばやし)城市場陣山城(じんやまじょう)補陀楽寺(ほだらくじ)城木内城・別府城・堀田陣屋・油日館 油日館油日(あぶらひ)城前山城(油日支城・山ノ鼻城)中山城岡崎城油日冨田(あぶらひとみだ)城上野城冨田城五反田口城北上野城A北上野城B冨田山城観音堂城(勘四郎山城)北上野城・大原城・梅垣城青木城東城館青木城西城館多喜城(元・多喜北城)・多喜支城・多喜北城多喜城南・獅子ケ谷城・山岡城 山岡道阿弥・毛牧北城・殿山城公方屋敷公方屋敷城・公方屋敷支城・和田館和田城群和田支城Ⅰ和田支城Ⅱ和田支城Ⅲ公方屋敷支城・・棚田山城高嶺北城(高峯氏本城)高嶺中城繋ぎ城高嶺南城高嶺東谷城伊賀見城栢ノ木(かやのき)城佐治城佐治城二の丸佐治城三の丸・佐治屋敷・神保(じんぼう)城打越城隠岐城隠岐支城Ⅰ隠岐支城Ⅱ隠岐支城Ⅲ砂坂城岩室城龍泉寺城市原Ⅱ城仮称)梅垣奥ノ城高野城高野東城

甲賀郡 甲南町 52

望月村嶋城(村島城・望月城)望月村嶋出城(櫻神社遺構)・柑子村城・柑子村支城(2)・馬杉本城馬杉城馬杉支城馬杉中城馬杉北城岡之下城染谷砦野川城野尻城野尻支城寺庄城葛木(かつらぎ)館葛木城(葛城城)深川城(片山城)・野田城・饗庭(あいば)城(合羽城)望月屋敷倉治城新宮城・村雨城・池田東城池田西城村嶋支城・市原城・磯尾城上磯尾城井口氏城谷出城小池城竜法師城坊谷城中屋敷青木城小谷城小出城中野城(池田城)中野城詰め城 Ⅰ中野城詰め城ー2塩野城と詰め城塩野陣屋竹中城(竹永城)佐々木神社遺構(杉谷館)服部城杉谷城(杉谷屋敷)杉谷砦杉谷屋敷カ

甲賀郡 信楽町 17

宮町城(鵜飼城)・蒲生城・岩倉城・長野城・牧城・小川城(小川鶴見城)小川西ノ城小川中ノ城・朝宮城・朝宮城山城(赤松城)多羅尾古城多羅尾城山城多羅尾砦多羅尾代官陣屋跡(設楽(しがらき)陣屋)近衛政家邸(大興寺)山口陣屋(山口館)神山(こうやま)城谷氏館
=家康最大のピンチ救った功労者=

 

 

 

【近江水の宝】瀬田川流域をゆく-唐橋から旧南郷洗堰へ- INDEX

2013年10月03日 | INDEX

瀬田川は琵琶湖から流れ出る唯一の川として有名です。瀬田唐橋と旧南郷洗堰は、この川と琵琶湖と人々とのかかわりを雄弁に物語る二大モニュメントです。

旧南郷洗堰は明治38 年(1905)に竣工し、史上はじめて琵琶湖の水位コントロールを可能にしました。湖岸域や下流域の洪水を防ぎ、発電などの利水ができるうようになったのも、すべて旧南郷洗堰の恵みといってよいでしょう。

瀬田唐橋は『日本書紀』にも登場する有名な橋です。古来、琵琶湖・瀬田川の東西を結ぶ唯一の橋であったことから、瀬田地域には古代近江国の政治の中心が営まれる一方、壬申の乱(672 年)や源平合戦(1180 ~ 85年)、また本能寺の変(1582 年)の後の攻防など、しばしば日本史の表舞台となりました。

・京阪石山寺駅周辺

・大津放水路(湖都は水害対策が出来ていた)

   

・石山寺門前へ

・石山の貝塚・石山観光会館

・石山港~

・関西電力宇治発電所 【南郷呑口】

・旧南郷洗堰

・瀬田川洗堰

・アクア琵琶

・南郷水産センター

・オランダ堰堤

・瀬田高橋川と建部大社

 

・門前 瀬田名物「たにし飴」

・明治29年洪水碑 西光寺・・・

・瀬田の唐橋

              本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!!

 


ブロガー情報発信【沖島周辺を訪ねて~近江八幡市~】 INDEX

2013年09月13日 | INDEX

滋賀県近江八幡市沖島町に属する。約350人が居住する有人島で、島の南西部に集落が形成されている。市立小学校や郵便局なども設置されている。淡水湖に浮かぶ島に人が住んでいるという例は日本では唯一。

観光案内などでは世界的に見ても珍しいとされることがあるが、実際には世界各地に湖上の有人島は数多くある。島では自家用車並みに、一軒に一隻以上の船が所有されている。

戦国時代には琵琶湖水運の重要拠点としてここに関所が設置されていた。ここを通過する船は陸上の関所と同様に関銭を徴収される代わりに沖島の住民によって航行の安全が保証されていた。この島の関所は当初は六角氏の影響下にあったが、後に本願寺系の自治都市堅田の保護を受け、更に織田信長の近江平定に従って関所の存続が特に許され、豊臣政権下の天正13年(1585年)頃まで存在していた。

2013年6月離島指定基準の見直しにより国土交通省の諮問会議により離島地域に加えられることが決定した。

・堀切港と通船おきしま

 

http://www.youtube.com/watch?v=zYRUi0PABAg

http://www.omi8.com/access/okisimahunezikoku.htm

・沖島歴史年表

・おきしま資料館

古い民家を改築してつくられた「おきしま資料館」。開館はわりと新しく2005年。                                                       漁具や島民の生活用具などが展示されているらしいが、月曜日は休館。入館料:200円。

沖島の歴史

万葉集などにも沖島に関する詩が見受けられる事や大正期に赤碕沖付近で漁を行っていた船からシジミに混ざって縄文土器や和同開珎が発見された事があるなど、かなり以前から沖島付近に人々の往来はあったと思われます。
 和銅年間に近江の国守であった「藤原不比等」(藤原鎌足の子)が奥津島神社を建立し、奈良時代には、称徳天皇への反逆の罪で追われた恵美押勝(藤原仲麻呂)が一族らと共に沖島に一時期住んだと伝えられています。しかし、本格的に人が住むようになったのは、保元・平治の乱(1156~1159)による源氏の落武者7人が山裾を切り開き漁業を生業とし居住したことに始まると言われ、彼ら(南源吾秀元、小川光成、西居清観入道、北兵部、久田源之丞、中村磐徳、茶谷重右衛門)が現在の島民の祖先とされています。
 琵琶湖に浮かぶ沖島は戦略的にも重要な位置にあり、この事は数々の歴史書に見受けられます。
 南北朝時代には戦いに敗れた南朝軍の一部が越前―新田義貞との連絡網を確保し食料と軍備を建て直すために頭山一帯に城を構えたとされ(蒲生郡史)、室町時代には、当時勢力を伸ばしつつあった堅田(大津市)の湖賊が比叡山延暦寺の攻撃によって町が焼き払われたため、約2年間に沖島に避難生活をしたとの記録があります(堅田本福寺・明誓跡書)。
 また、8代将軍足利義政は湯谷ヶ谷(番所山)に島民に湖上を行き交う船の監視と取締りを命じたとされ、戦国時代には、織田信長が浅井長政に対して行った「手筒山の戦い」や「小谷城攻め」の際に、島民に船を差し出すよう命を出し、これらの一戦で活躍したことにより、信長から感謝状と琵琶湖一里四方を禁漁区とする特権を付与されています。文禄の役(1592)でも朝鮮出兵に従軍し、(管浦観音寺文書)、関ヶ原合戦後の徳川家康による石田三成への「佐和山城責め」においても水軍として活躍(沖島共有文書)しました。以後も、時の権力者から、航路の警備、輸送等の重要な任務を務める見返りとして、漁業権の特権は認められ続けました。
 徳川時代にも慣用専用漁場として認められ、堅田の漁師との8年にも及ぶ論争においても京都町奉行で沖島側主張が受け入れられ、明治8年には滋賀県知事より永代借用権として認められましたが、最終的には戦後の漁業法改正により消滅しました。

    

・奥津島神社

和銅5年(712年)に勅命を蒙った藤原不比(藤原鎌足の次男)等によって創祀されたと伝わる。『延喜式神名帳』に記載された名神大社とされる。奈良時代には、称徳天皇への反逆の罪で追われた恵美押勝(藤原仲麻呂)が一族らと共に沖島に一時期住んだと伝えられています。

  

奥の院へ

・沖島 城跡

 本格的に人が住むようになったのは、保元・平治の乱(1156~1159)による源氏の落武者7人が山裾を切り開き漁業を生業とし居住したことに始まると言われ、彼ら(南源吾秀元、小川光成、西居清観入道、北兵部、久田源之丞、中村磐徳、茶谷重右衛門)が現在の島民の祖先とされています。
 琵琶湖に浮かぶ沖島は戦略的にも重要な位置にあり、この事は数々の歴史書に見受けられます。
 南北朝時代には戦いに敗れた南朝軍の一部が越前―新田義貞との連絡網を確保し食料と軍備を建て直すために頭山一帯に城を構えたとされ(蒲生郡史)、室町時代には、当時勢力を伸ばしつつあった堅田(大津市)の湖賊が比叡山延暦寺の攻撃によって町が焼き払われたため、約2年間に沖島に避難生活をしたとの記録があります(堅田本福寺・明誓跡書)。
 また、8代将軍足利義政は湯谷ヶ谷(番所山)に島民に湖上を行き交う船の監視と取締りを命じた。

・石切り場

江戸時代から昭和40年代まで、沖島は採石場として栄えました。

石英班岩と呼ばれる良質の石は、明治時代の琵琶湖疎水、南郷洗堰、国鉄東海道線などの工事に使われたのだそうです。

 

・西福寺

7人の落武者の一人:茶谷重右衛門の末裔が蓮如(本願寺第8代上人)に帰依し庵を建てたことに始まります。

寺宝には蓮如上人直筆の虎斑の名号(とらふのみょうごう)と正信偈(しょうしんげ)が残されています。

 虎斑の名号/正信偈

 茶谷重右衛門の妻が産後間もなく死亡したことで、子供いとおしさに幽霊となって現れるようになった。茶谷重右衛門(法名:釈西了)がこのことを不憫に思い、氏神に祈ったところ、夢の中で、「明日蓮如上人が来られるので、お願いするように」とのお告げがあり、翌日偶然にも越前吉崎御坊から堅田本福寺に向かう途中に遭難し、沖島に立ち寄った蓮如上人にお告げのことを話したところ、上人は幽霊を教化するため六字の名号(南無阿弥陀仏)を与えられた。これらはムシロの上で書かれたため、南無阿弥陀仏の字が虎斑のような濃淡が出ているので、俗に「虎斑の名号」と呼ばれています。正信偈(四句の御文)は蓮如上人が島を去る際にお別れの形見として残されたものです。

        

・伊崎寺

伊崎寺概要: 伊崎寺の創建は不詳ですが奈良時代、役小角が開基したのが始まりと伝えられています。貞観年間(859~77)、相応(比叡山回峰行の創始者)が再興し比叡山延暦寺の末寺となりました。古くから修行道場として知られ、荒行の1つで琵琶湖に面する断崖絶壁の上に建立された竿飛び堂から突き出した棹の先端から琵琶湖に飛び込む「竿飛び行事」が引き継がれています。

 

・昼食 あじさい村(味彩村)

住所:滋賀県近江八幡市大中町405−2

・長命寺

御詠歌:八千年(やちとせ)や柳に長き命寺(いのちでら)運ぶ歩みのかざしなるらん

琵琶湖畔にそびえる長命寺山の山腹に位置し、麓から本堂に至る800段余の長い階段で知られる。かつての巡礼者は、三十番札所の竹生島宝厳寺から船で長命寺に参詣した。

伝承によれば、第12代景行天皇の時代に、武内宿禰がこの地で柳の木に「寿命長遠諸願成就」と彫り長寿を祈願した。                                            このため宿禰は300歳の長命を保ったと伝えられる。                                                                                      その後、聖徳太子がこの地に赴いた際、宿禰が祈願した際に彫った文字を発見したという。これに感銘を受けてながめていると白髪の老人が現れ、その木で仏像を彫りこの地に安置するよう告げた。                                                                                    太子は早速、十一面観音を彫りこの地に安置した。太子は宿禰の長寿にあやかり、当寺を長命寺と名付けたと伝えられている。その名の通り、参拝すると長生きすると言い伝えられている。

実際の創建年次や創建の事情については未詳であり、確実な史料における長命寺の初見は、承保元年(1074年)3月2日付の「奥島庄司土師宿禰助正解文」(おくしましょうじ はじのすくねすけまさ げぶみ)という文書である。

長命寺には中世以降の文書が豊富に残されている。                                                                                  それによると、中世の長命寺は比叡山(延暦寺)西塔の別院としての地位を保ち、近江守護佐々木氏の崇敬と庇護を受けて栄えていた。しかし、永正13年(1516年)、佐々木氏と伊庭氏の対立による兵火により伽藍は全焼。

現存する堂宇は室町時代から近世初期にかけて再建されたものである。

秘宝曼荼羅

近江八幡市長命寺町の穀屋寺の倉庫から、「長命寺参詣曼荼羅(まんだら)」三点、「熊野観心十界曼荼羅」二点、「古文書」千点が、このほど発見された。
 穀屋寺は、長命寺の米穀出納のほか、災害や兵火によって失った寺の再建・修復のために各地を巡って浄財を集める勧進(かんじん)を担当した寺で、越前国織田(現・福井県越前町織田)出身の春庭慈芳尼(しゅんていじほうに 一四九二―一五四七)を中心とする勧進聖(ひじり)集団による勧進活動の拠点となっていたと思われる。長命寺は、永正十三(一五一六)年に兵火で本堂など主な堂舎が焼失している

 「長命寺参詣曼荼羅」はこれまで長命寺と個人所有の二点が知られていたが、今回、同一場所(木箱)から同時に三点が発見されたのは画期的。

 また、「熊野観心十界曼荼羅」二点といっしょに、同じ木箱に五点とも折り畳んだ状態で納められていた点で通例掛け軸などに仕立て直されて発見されるのがほとんどであるのに比べても珍しく、使用状態を物語るものとしても意義は大きい。さらに、七点もの曼荼羅が一つの寺で見つかるのも全国的に珍しい。
 「長命寺参詣曼荼羅」には長命寺の本堂や三仏堂、三重塔の建物や参詣者のにぎわいなどが克明に描かれており、勧進聖などが絵解きをしながら寄付を募った。

・大中湖と西の湖

 

琵琶湖の東岸に位置し、かつて40数か所あった琵琶湖の内湖の中で最大の面積を有した。行政区画としては、近江八幡市、神崎郡能登川町(現東近江市)、蒲生郡安土町(現近江八幡市)におおむね均等に三分割されていた。戦後に干拓されて農地となった。

 

大中湖は琵琶湖中央部の東岸に位置し、沖合約2kmには琵琶湖最大の島である沖島が浮かんでいる。大中湖と琵琶湖は砂州で区切られており、湖面標高84mの琵琶湖に対して大中湖の湖面標高は81mだった。直径4kmのほぼ円形であり、隣接して小中湖(伊庭内湖、安土内湖、西ノ湖の総称)があった。湖底は平坦で浅く、水深は最大でも2.7mしかなかった。面積は15.4km2である。周囲一帯は内陸性気候であり、冬期には他の湖東地域よりも積雪が多い。米原市から近江八幡市にかけての湖東地域にはかつて内湖が点在しており、大中湖以外の主要な内湖を以下に挙げる。湖東地域と湖北地域の総干拓面積は2521.3ヘクタールであり、琵琶湖の面積の3.7%である。戦後には特に琵琶湖南湖において、リゾート施設や公共施設建設のための湖岸埋め立てが行なわれたが、これらの総湖岸埋め立て面積は336ヘクタールに過ぎない。

 

 

滋賀県安土町から近江八幡市に跨る内湖。
近江八幡から安土にかけての広大な農地の中にある。
流入する河川はほぼ南から、流出する河川は放水路の長命寺川が主。
かつては近接して安土内湖等があったが、現在は西の湖を残し干拓されている。
往時の安土水郷の情景は西端の園地に色濃く残っていて、水郷めぐり観光が人気。湖岸には広大なヨシ原が残り、今も葭細工に重宝される。

・タイムスコープVR安土城再現

タイムスコープVR安土・・・youtube(要准)

安土城があった時代の風景を楽しむアプリ 近江八幡市がiOS用アプリ「VR安土城タイムスコープ」を無料公開

2013年4月8日、近江八幡市はiOS用アプリ「VR安土城タイムスコープ」を無料公開しました。

このアプリは、安土城が存在した風景をiPhoneあるいはiPadを通じて眺めることができるもので、安土城大手門前で利用すると、かつてその場所から見えた当時の城郭がフルCGパノラマで再現されるとのことです。

 

・劇場版タイムスクープハンター 安土城 最後の1日

NHKの人気TVシリーズが豪華キャストを迎え、待望の映画化!!

未来の通信社の記者=時空ジャーナリストが、タイムワープ技術を使い、教科書に載らない名もなき人々に密着し、歴史の真実をドキュメンタリータッチの取材映像であぶり出していく――。その独自のコンセプトが話題のNHK「タイムスクープハンター」が、遂に映画化!
劇場版の舞台は、織田信長が天下統一の拠点とするも、謎の焼失を遂げた“安土城”。
臨場感溢れる映像で、未だ解明されない歴史の謎に迫っていく。
出演は、テレビシリーズから引き続きとなる要潤、杏に加え、夏帆、時任三郎ら豪華キャストが顔を揃えた。スケールアップした「タイムスクープハンター」で、戦国乱世の最前線を体感せよ!

 

おまけ!

youtube琵琶湖に浮かぶ暮らしがある島 沖島 http://www.youtube.com/watch?v=EfzQwMm4AQI

 

 

参考資料:パンフレット各種・現地説明板・専門員のガイド説明・PCホームページ・blog 等々

本日も、訪問ありがとう御座いました!

 


ブロガー情報発信【琵琶湖の雫・余呉湖(鏡湖)の周辺と高時川の上流域を訪ねて】 INDEX

2013年09月06日 | INDEX

湖国近江にはもうひとつの湖があります。琵琶湖の雫(しずく)・余呉湖。

戦国史上に有名な賤ヶ岳の麓にあって、その澄んで美しいさまは鏡湖と称されてきました。

数々の伝説を映す神秘の湖でもあり、『帝王編年記』養老7年(723 年)条には、この湖を舞台として伊香刀美と天女をめぐる白鳥伝説(羽衣伝説)が語られ、江戸時代には桐畑太夫伝説菅原道真伝説菊石姫伝説を生み出していきました。

そして現在、治水潅漑(かんがい)ダムとして機能する余呉湖の姿には、自然と人々の英知の共生を見ることができます。

余呉湖周辺の伝説や文化財、ダム湖としての機能を詳しく情報発信ます。

余呉湖周辺の伝説

・天女の衣掛柳

    

・「菊石姫と蛇の目石」伝説

   

・岩崎山の大岩(烏帽子岩・お膳岩伝説)と岩崎山砦登り口

一番手前の岩が、「烏帽子岩・お膳岩」と伝承される。
菅原道真が烏帽子を掛けたとされる岩と、供え物を載せたとされる岩。

 烏帽子岩・お膳岩伝説

岩崎山は、賤ヶ岳の合戦で高山重友(右近)の砦有名だが、古代は智者寺・蓮法寺があり、これと並び岩崎の大岩として人々から崇拝されていたが道路拡張で取除かれた。湖岸に一部の岩は当時を偲ぶなごりである。

   岩崎山砦登り口

文化財

・官山寺 弘善館(里坊)

    

     弘善館(里坊)

 官山寺

・乎弥神社、乃弥神社、意波閇神社

 

意波閇神社

・洞寿院

如仲禅師が全国に3000余の寺を建て最初の道場がこの洞寿院。

・慶長10年(1605)徳川秀忠将軍からご朱印地として30石の領地と葵の紋章を寺紋とすることを許された。

・住職が京都霊鑑寺の戒師を務めて以来、宮家の崇敬を受け、菊のご紋章を本堂つけることを許されている。

      

・茶わん祭の館

丹生神社の祭礼である滋賀県指定無形民俗文化財、丹生茶わん祭が行われ、神輿の渡御とともに北村、中村、橋本の3組の山車が曳行される。

   

   

・賤ヶ岳古戦場

     

・大門(だいもん)古墳

  

・余呉イチ・・・俳句の道

     

 桐畑太夫屋敷伝説

ダム湖としての機能

・余呉湖ダム化で、治水・灌漑

  

  

  

 

  

 

・余呉湖水質改善対策

    

その他・食事・泊まる・買い物・・・

・JH賤ヶ岳サービスエリア(昼食) 

    

・ウディパル余呉(森林公園)

  

・菊水飴本舗

350余年の伝統の味を今に伝えている無添加食品の飴です。
菊水飴本舗は旧北国街道に位置し、江戸時代から旅人の疲れをいやしたといわれる「飴」です。

   

・道の駅 はごろもhttp://www.hagoromoiti.com/

・国民宿舎余呉草

【電話】 0749-86-2480
【FAX】 0749-86-2313
【住所】滋賀県伊香郡余呉湖畔
【URL】http://www.systemi.com/yogoko/

ウッディパル余呉は…http://woodypal.jp/

 奥びわ湖の山に抱かれた、宿泊施設とレジャー施設を併設したアウトドアスポットです。                                                                  コテージで仲間とバーベキュー!テントで家族キャンプ!もちろん林間合宿やパーティーにも!                                                                老若男女が楽しめるアクティビティもいっぱいです。                                                                                                       夏はアスレチック や パターゴルフ 、テニスグラウンド・ゴルフ。冬はファミリーゲレンデでソリやスキーで遊べる。

 

 

参考資料:パンフレット各種・現地説明板・専門員のガイド説明・PCホームページ・blog 等々

本日も、訪問ありがとう御座いました!

 

 


ブロガー情報発信【本能寺の変直後の蒲生氏郷の足跡 周辺を訪ねて~日野町~】  INDEX

2013年07月06日 | INDEX

 

天正10年(1582)6月2日の未明、 信長は明智光秀の謀叛により京都本能寺で横死した。

光秀は安土城に向かった。留守を守る賢秀は、討死を決意 したが、「遺族を無事守ることこそ忠節」と論され、 日野城に遺族を届け、氏郷とともに日野城を固めた。

安土城下町の南西に常楽寺という集落があり、城下町成立以前より湊があり、にぎわいがあったことで知られています。この常楽寺湊から南へ延びる街道が安土街道で、八日市で御代参街道に接続し、伊勢へとつながります。本能寺の変の直後、安土城の留守居であった蒲生賢秀が、城内にいた信長の妻子を居城の日野へと逃がす時、迎えに来た息子氏郷が通ったルートがこの安土街道と考えられます。

【信長の妻子を日野城へ】

安土城~常楽寺~南腰峠~石寺~老曾~八日市~岡本~日野~中野城

安土城観音寺城安土街道箕作城小脇山城大塚城

 八日市御代参道標日野祭り山モニュメント中野城(日野城)

本能寺の変直後の蒲生氏郷の足跡

・蒲生氏郷の足跡・・・「遺族を無事守ることこそ忠節」 信長・秀吉時代は、湖東百二十八郷を治めた、氏郷の城下町として栄えた日野、今も町の至る所に当時に面影を色濃く残す・・・保地煙管・玉受山・桟敷窓・・・!

蒲生氏郷 銅像   

 

  ・日野城跡(中野城跡) 蒲生氏郷の祖父定秀が築城した蒲生家の居城。本能寺の変直後信長の妻子を匿った。

 

 ・音羽城跡  中野城以前の蒲生家の居城

 

 

・信楽院

信楽院(しんぎょういん)は、日野の領主であった蒲生(がもう)氏の菩提寺。菩提寺墓地には蒲生氏郷の遺髪供養塔あり。

・馬見岡綿向神社 蒲生の豪族・蒲生稲置三麿と山部連羽咋が綿向山麓に狩りに来たところ一天にわかに掻き曇り、四月(新暦五月)だというのに吹雪となった。
しばらく岩陰で休み、雪が止んで外に出てみると大きな豬の足跡を発見。夢中になって足跡を追っていくうちに山頂に導かれ、綿向大神の化身となって現れた白髪の老人から「この山の頂に祠を建てて祀れ」との託宣を受け、社殿を建てて祀ったという。


 

・興敬寺 湖東・湖南の中心的真宗寺院。一向一揆の中心となり信長と戦った。境内には土塁と堀が残る。蒲生・甲賀・栗太の三郡に門末を擁して、本願寺を支えていた有力寺院が蒲生郡松原(日野町)の興敬寺あった。

 

・清源寺 近世日野の領主仁正寺藩市橋家の菩提寺。境内には3代・6代・8代藩主の墓
があり。歴代藩主の肖像画を伝える

 

・西大路藩 市橋藩庁

 

 

 

 

現在の日野城下町MAP 

 

日野町のバス

 

・昼食 レストラン岡崎 近江日野牛レストラン

 

 

 

・和菓子 かぎや

日野商人の銘菓

 

・日野物産館(特産品館 伊勢藤) 日野町の特産品を販売

 

 

・信長の千種越え

 

   

 

参考資料:パンフレット各種・現地説明板・専門員のガイド説明・PCホームページ・blog 等々

 

本日も、訪問ありがとう御座いました!

 


ブロガー情報発信【英雄伝説・継体天皇と織田信長の足跡を訪ねて~高島市~】  INDEX

2013年06月17日 | INDEX

近江の国は、水と大地に刻まれた歴史遺産が全国屈指の散在し、そこに光をあて、その価値を高めて、その魅力を全国に情報発信するため、「近江水と大地の遺産情報発信致します。

英雄伝説・継体天皇と織田信長の足跡を訪ねて~高島市~ 

 

継体天皇ゆかりの地~安曇川・高島~

 

・三重生(みおう)神社     継体天皇の両親である彦主人王と振姫の二神が、つつましく寄り添うように祀られています。

 

 

・王塚古墳(彦主人御陵)     継体天皇の父である彦主人王と伝えられる。彦主人王御陵

 

・安産もたれ石   彦主人王のお妃、振姫が出産の際もたれたと伝えられています。この石をなで自分のお腹をさすって安産を願う慣わしが残っています。

 

・安閑(あんかん)神社の「神代文字石」  祭神は、継体天皇の長子安閑天皇。境内には「神代文字(かみよもじ・じんだいもじ)」ともいわれる謎の図像が陰刻された石がある。

 

・鶴塚  鎌倉時代中期頃に造立された宝塔で、高さは4mを測る。県内の石造宝塔内では最大級

 

・胞衣(えな)塚    6世紀代の円墳。衣(えな)とは胎盤のことで、振姫がお産のあと、継体天皇の「へその緒」を埋めたと伝わる。 継体天皇は高島の地に誕生され、母・振姫がお産のあと天皇の「へその緒」を埋めたのが、この胞衣塚だと。

 

・鴨稲荷山古    湖西地方では、平野部に立地する唯一の前方後円墳。明治時代に、後円部の横穴式石室から家形石棺が見つかり、豪華絢爛な副葬品が出土した。大陸との交流をもった地域の王が葬られたとみられる。

 

・高島歴史民俗資料館   鴨稲荷山古墳出土の復元宝冠と飾履は圧巻。また、貞観15年(873)と記された農業日誌的内容の木簡は全国の注目を集めました。高級陶器や銅製印「朝」の出土は国家的祭礼が行われていたのではないかと思わせます。民具クラブによる民具の収集も膨大なものであります。

 

 

織田信長と戦国武将ゆかりの地 ~高島市~

 

 

朽木 信長の隠れ岩     織田信長が越前の朝倉氏を攻めた際、同盟を結ぶ浅井長政の裏切りで撤退を余儀なくされ、京へ戻る途中に一時身を隠したと伝わる。

 

・興聖寺(旧秀燐寺跡)       足利庭園は、享禄元年(1528年)に室町幕府12代将軍足利義晴が兵乱を避けてこの地に滞在した際、朽木稙綱が将軍のために造営したことで知られる。

 

 ・新くつき本陣  【鯖街道交流館】道の駅朽木本陣の隣りに建てられた。観光案内所やバイキングレストラン、会議室、無料休憩所などがある。レンタサイクルの貸し出しも行っている。

 

・朽木郷土資料館(朽木城祉・朽木本陣跡)   朽木陣屋は、鎌倉時代、「承久の乱」の木陣屋跡があります。是非資料館と一緒にご覧下さい。資料館を含めた一帯が史跡公園となっています。

 

・近江大溝城   織田信澄(信長の弟、勘十郎信行の子)が高島郡を領し、明智光秀の縄張りによって築城、打下城から居城を移した。

 

・白鬚神社  豊臣秀吉の遺命を受け、豊臣秀頼が片桐且元を奉行に命じ、播磨の大工の手によって造営されたものである

 

・鵜川四十八体石仏群  佐々木六角義賢が亡き母の菩提を弔うため、観音寺から見てちようど対岸にあたる鵜川に建立したものです。 

 

 

参考資料:パンフレット各種・現地説明板・専門員のガイド説明・PCホームページ・blog 等々

本日も、訪問ありがとう御座いました!


歴史ブロガーの「瀬田橋をめぐる攻防の地を訪ねて」探訪記 INDEX

2012年07月30日 | INDEX

歴史ブロガーの「瀬田橋をめぐる攻防の地を訪ねて」の史跡探訪記です。

 

以下、各地のレポート記事へのリンクとなっています。

awazu-map.gif/粟津一里塚ウォーキングマップ

 

歴史ブロガーの「瀬田橋をめぐる攻防の地を訪ねて」・・・瀬田唐橋・近江国庁跡・堂ノ上遺跡など

旧東海道を勢多の唐橋へ

唐崎焼き 近江牛往時町並み

明治天皇鳥居川御小休所

 

瀬田川中の島

うなぎの「うおい」・・・瀬田川中の島で 

瀬田の唐橋  古来より「唐橋を制する者は天下を制す」と言われた。

参考に:瀬田城

瀬田城跡の建つ、在りし日の臨湖庵瀬田城跡に建つ、在りし日の臨湖庵 瀬田城跡には、2008年に近江・臨湖庵と名の高層のマンションが建てられた。

龍王宮秀郷社(りゅうおうぐうひでさとしゃ)藤原秀郷(俵藤太(たわらのとうた))

  

堂ノ上遺跡へ

旧東海道

近江国丁跡へと

    

芦浦街道(旧東海道)を

   

久保江古墳跡

  

若宮神社

  

 

歴史ブロガーの「瀬田橋をめぐる攻防の地を訪ねて」・・・建部神社

  建部(たけべ)大社

古代日本の軍事的統一に活躍した伝説上の英雄日本武尊(やまとたけるのみこと)を祭神とする古社。天武(てんむ)天皇4 年(675 年)神崎郡建部(たけべ)郷から瀬田せたの東、大野山(おおのやま)上に遷座、さらに天平(てんぴょう)勝宝(しょうほう)7 年(755年)近江国の軍団の長の建部氏が山麓の現在地に移して、近江一の宮としたと伝えられる。
平安時代には正一位に叙されるなど朝廷の信仰も厚く、鎌倉時代には軍神として源頼朝を始め武家の信仰を集めた。

石の菊花(本殿の裏)

昭和20年の千圓札

宝物殿

・参考資料:文化財保護課(・県)・現地説明板、パンフレット、HP・BLOG等々

滋賀県教育委員会事務局文化財保護課の企画の
「ブロガーによる歴史探訪情報発信」これにて終了です。

【滋賀県歴史探訪】:Aコース 「平家物語・祇王祇女と源義経のゆかりの地を訪ねて」探訪記 INDEX

【滋賀県歴史探訪】:Bコース「景清・清盛・道誉 つわものどもの謎と足跡を訪ねて」探訪記 INDEX

【滋賀県歴史探訪】:Cコース「歴史ブロガーの「東山道をめぐる攻防の地を訪ねて」探訪記 INDEX

【滋賀県歴史探訪】:Dコース歴史ブロガーの「木曽殿最後の地・膳所を訪ねて」探訪記 INDEX

是非、一度現地に出かけ、確認下さいませ!

 今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。感謝!

 


【滋賀県歴史探訪】:Dコース歴史ブロガーの「木曽殿最後の地・膳所を訪ねて」探訪記 INDEX

2012年07月26日 | INDEX

「ブロガーによる歴史探訪情報発信」Dコースに参加させていただき
歴史ブロガーの「木曽殿最後の地・膳所を訪ねて」の史跡探訪記です。 

以下、各地のレポート記事へのリンクとなっています。

歴史ブロガーの「木曽殿最後の地・膳所を訪ねて」 前半

 『名もなき尼僧』この尼が美しく武勇に優れた側室の、巴御前(ともえごぜん)が名を隠して墓を守ったのである。

 芭蕉の句「旅に病んで夢は枯野を駆け巡る」「古池や蛙飛び込む水の音」

伊勢の俳人又玄の有名な句「木曽殿と脊中合わせの寒さかな」

歴史ブロガーの「木曽殿最後の地・膳所を訪ねて」 後編

膳所城は、関ヶ原合戦の翌年(合戦後、最初に建てた城)、東海道・瀬田橋・琵琶湖水運などをおさえる要衝として、徳川家康が築城の名手藤堂高虎(とうどう たかとら)に「初めて天下普請の城」。本多佐渡守正信は、瀬田の地では東海道を押さえても、湖上水運を押さえられないことから、膳所の地に
 膳所城は、東海道の名勝として、屏風や図絵にも描かれ、街道を行き来する旅人は、「瀬田の唐橋 唐金擬宝珠(からかねぎぼし) 水に映るは膳所の城」と唄われるほどでの雄姿でもありました。

 

 

次回7/28 Eコース:「歴史ブロガーの「瀬田橋をめぐる攻防の地を訪ねて」・・・瀬田唐橋・近江国庁跡・堂ノ上遺跡など 」 をお楽しみに


【滋賀県歴史探訪】:Cコース「歴史ブロガーの「東山道をめぐる攻防の地を訪ねて」探訪記 INDEX

2012年07月26日 | INDEX

2012年7月14日(土)、

「ブロガーによる歴史探訪情報発信」Cコースに参加させていただき
米原市の「東山道をめぐる攻防の地」の史跡探訪記です。

東山道(中山道)を米原宿・番場宿・醒井宿・柏原宿・・・佐々木京極氏の治領を!

以下、各地のレポート記事へのリンクとなっています。

歴史ブロガーの「東山道をめぐる攻防の地を訪ねて」 前                                                           米原宿・・青岸寺・

番場宿・・蓮華寺・・北条仲時自刃の地・墓所、番場の忠太郎地蔵・・・

醒井宿・・居醒の泉・地蔵川・西行泉・道の駅・・・

歴史ブロガーの「東山道をめぐる攻防の地を訪ねて」 中

成菩提院

柏原宿

 お茶屋御殿

歴史ブロガーの「東山道をめぐる攻防の地を訪ねて」 後

北畠貝行墓碑

徳源院清滝寺・・・京極一族の菩提寺・墓所

 

・参考資料:現地説明の神主、語り部、文化財保護課(県)・現地説明板、パンフレット、HP・BLOG等々

 次回Dコース:歴史ブロガーの「木曽殿最後の地・膳所を訪ねて」 前半お楽しみに


【滋賀県歴史探訪】:Bコース「景清・清盛・道誉 つわものどもの謎と足跡を訪ねて」探訪記 INDEX

2012年07月26日 | INDEX

2012年7月7日(土)、
「ブロガーによる歴史探訪情報発信」Bコース
近江八幡安土町・東近江五個荘・甲良町・多賀町の史跡探訪です。

 Bコース:「景清・清盛・道誉 つわものどもの謎と足跡を訪ねて」

以下、各地のレポート記事へのリンクとなっています

駅前信長公にご挨拶、瑟瑟桜を確認、佐々木六角の観音寺城址(繖山・安土山)を見ながら出発・・・・。

歴史ブロガーの「景清・清盛・道誉 つわものどもの謎と足跡を訪ねて」・・・安土編                                                           ・景清道景清道の浄厳院(元は領主佐々木氏の菩提寺慈恩寺)、佐佐木源氏の氏神であり、佐々木姓発祥地佐々貴神社、厳院教林坊へ・・・小堀遠州作庭の梅雨の苔寺(白洲正子の愛した近江・・・隠れ寺)・・・

   

歴史ブロガーの「景清・清盛・道誉 つわものどもの謎と足跡を訪ねて」・・・五個荘編                                                                   ・近江商人の故郷 五個荘商人(商人屋敷)、昼食・・・ 

歴史ブロガーの「景清・清盛・道誉 つわものどもの謎と足跡を訪ねて」・・・甲良編                                                               ・勝正寺(ご住職の説明)・道誉の墓所・・・・気になる「勝正寺城跡」後日探訪しよう!

 

歴史ブロガーの「景清・清盛・道誉 つわものどもの謎と足跡を訪ねて」・・・多賀編                                                               ・名神高速道路のSA内敏満寺城跡敏満寺城祉、故宮神社・多賀大社。あけぼのパーク多賀博物館で「ゾウがいたゾウ」

 

  

・参考資料:現地説明の住職、文化財保護課(県・竜王町・野洲市)・現地説明板、パンフレット、HP・BLOG等々 

次回 Cコース:歴史ブロガーの「東山道をめぐる攻防の地を訪ねて」 前半も、訪問下さいね!

 


【滋賀県歴史探訪】:Aコース 「平家物語・祇王祇女と源義経のゆかりの地を訪ねて」探訪記 INDEX

2012年07月26日 | INDEX

「ブロガーによる歴史探訪情報発信」Aコースに参加させていただき
滋賀県蒲生郡竜王町と野洲市の史跡探訪です。

Aコース:「平家物語・祇王祇女と源義経のゆかりの地を訪ねて」

以下、各地のレポート記事へのリンクとなっています

歴史ブロガーの「妓王妓女と源義経の里を訪ねて」・・・竜王編                                                                   ・苗村神社・義経元服池・鏡神社・鏡の宿・・・(何時も、車で素道りいている道路脇) 

  

歴史ブロガーの「妓王妓女と源義経の里を訪ねて」・・・野洲編                                                                           ・平家終焉の地・妓王寺・祇王井・兵主神社、永原御殿・・・(何時も、車で素道りいている道路脇) 永原御殿跡20120709

 

 

 

・何時も、車で素道りいている道路脇に、素晴らしい文化遺産(名前が知っていても訪問したこともない)にびっくりしました。                                    ・道の駅「鏡の郷」の、昼食・特産品の土産物や新鮮な地場野菜の直販所(地産地消)、文化遺産のPRも(ドライバーの休憩所では?)

・コメントで、祇王・妓女・・・・HP・blogや写真・本により「妓」「祇」「祈」の違いの質問に、対応するため、野洲市文化財保護課に質問に行き、返信ました。

 

 

・参考資料:現地説明の神主、語り部、文化財保護課(県・竜王町・野洲市)・現地説明板、パンフレット、HP・BLOG等々

次回 歴史ブロガーの「景清・清盛・道誉 つわものどもの謎と足跡を訪ねて」・・・安土編も、訪問下さいね!