城郭探訪

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池之脇城   近江国(永源寺)

2016年01月30日 | 平山城

お城のデータ

所在地 : 東近江市(旧神崎郡)永源寺町池之脇 map:http://yahoo.jp/AYKQ0o

区 分:山城

標 高:280m 比高差:60m  

築城期:戦国期

築城者:

遺 構:堀切、横堀、土橋、土塁、竪堀

訪城日:2016.1.5・2016.1.9

お城の概要

現長寿寺の南およそ150mの山頂部を山城が占め、東側の山腹に元亀年間の兵火により消失したとされる東大寺末の荘厳寺支院「長寿寺」跡が残っている。
山頂の山城は、主郭が変形した長方形で、背後を大きく堀切った単郭式である。比高差およそ2.5mの切岸の裾には巾およそ1.5m、深さ0.5~0.6mの形式だけの横堀が断続的に巡っている。比高も小さく、外周には土塁もなく、見張り台的な機能を担ったと思われる。

遺構A

主郭部

南側の低土塁

堀切

歴 史

寺院付属の城郭である。横堀の存在から永禄11年(1568)の織田信長の近江侵攻に応じて築かれたと考えられている。

 

遺構B

現長寿寺(池乃脇集落)の、南およそ400mの山頂部を山城が占め、東側の山腹に元亀年間の兵火により消失したとされる東大寺末の荘厳寺支院「長寿寺」跡が残っている。

 城址は、ハイキングコースコース・山麓を大型重機で削られ尾根筋は、大きく破壊されしまった。その他は、何とか遺構が残存している。

 山頂の主郭が変形した長方形で、背後を大きく堀切った単郭式である。比高差およそ2.5mの切岸の裾には巾およそ1.5m、深さ0.5~0.6mの形式だけの横堀が断続的に巡っている。比高も小さく、外周には土塁もなく、見張り台的な機能を担ったと思われる。

池乃脇集落の南に向かって70m程の所に「ひつじ公園」がある。さらに道なり進むろ営農倉庫があり、その左手の東側280mの尾根上のピークが城跡。

 

ここに駐車

長寿寺: 滋賀県東近江市池之脇420

 応仁の乱が治まった文明9年(1477)には佐々木高頼による寺領の安堵書が残されている。

 その後戦国期に信長の兵火により寺坊ことごとく灰燼に帰したが、江戸時代に入り、現在地に残された萬寶院を秀圓法印により、万治2年(1659)に再建された。現在の本堂は明和4年(1767)に改築され、内陣に円柱を建て須弥檀を構えた中古の形式を持ち、祀られている仏像の多くが羅災のあとを残す、本尊観世音菩薩は、平安中期の作で、県文化財に指定されている。 内

また、赤穂神宮寺の僧俊惠が在住したことから、赤穂四十七士にまつわる「大石内蔵助」の書翰や関係文書が残されている
平安時代悲劇の主人公文徳天皇の皇子惟喬親王にまつわることや、僧俊惠と近江商人松居久治郎の逸話を残す寺である。

 長寿寺は東近江市池之脇町にある天台宗寺院です。その謂れにつきましては、『永源寺町史 通史編』に「長寿寺の開基は聖徳太子とされ、慈覚大師円仁が中興し、現在の寺地より五〇〇メートルほど離れた本堂谷付近に伽藍を築いたが、元亀・天正年間(1570~92)の兵火で焼失後衰退したと伝えられている。」とあります。

 また、明治42年(1909)に田中長八が記した「高木風土記」(田中滋家所蔵)には、長寿寺は天平九年(737)に高木に建立された荘厳院の末寺であり、16世紀末の戦乱で荘厳院が焼失した際に残った僧坊の1つが長寿寺であると記載されています。

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』、淡海の城、

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鯰江城落城の「餅なし正月」消える風習 滋賀など局地的に伝わる

2016年01月28日 | 番外編

「餅なし正月」消える風習 滋賀など局地的に伝わる お雑煮の餅。正月にあえて餅を食べない「餅なし正月」の風習は薄れてきている(京都市内)

正月に餅を食べない「餅なし正月」という、ちょっと変わった風習が全国各地で局所的に残っている。京都府内では伝承が確認されていないようだが、滋賀県では受け継ぐ地域がある。餅を食べない理由は地域によってさまざまというこの風習は、核家族化の進行に伴い、消えかかっている。

信長の時代から

 東近江市鯰江(なまずえ)町に住む鈴村重史さん(66)宅では例年、元日から3日まで餅を食べず、イモが入ったみそ汁を出す。「昔からうちではこうです。代々、ずっと続けています」

 なぜ正月に餅を食べないのだろうか。

 鈴村さんが住む鯰江町にかつてあった鯰江城が織田信長勢に攻められ、落城した。「その死者を追悼するために始まったと父から聞いています」

 鯰江町では多くの家が「餅なし正月」の風習を受け継いできたが、近年は失われつつあるという。「70軒ほどありますが、今も受け継いでいるのは10軒ほどではないでしょうか」と鈴村さんは話す。

 「餅なし正月」を研究する民俗学者の金田久璋さん(72)=福井県美浜町=によると、滋賀県内でこの風習を受け継ぐのは鯰江町と、その近くの東近江市青山町、湖南に位置する栗東市出庭の3地域が確認されている。

 京都では伝承や事例が報告されていないことについて、金田さんは「かつてはあったかもしれないが、長く都が置かれた地で、文化がめまぐるしく変化する中で消えたのではないか」と推測する。

 栗東市の出庭地域の風習などを記録した「出庭の民俗」によると、出庭では五つの家で餅を食べない風習が伝えられていた。理由は各家で異なり、「敵の急襲に備えて、のどを詰まらせないようにする」「貧しくて食べられなかった」がある。

 餅なし正月の由来として、稲作文化の象徴といえる餅を畑作文化が拒んだとする説がある。しかし、滋賀県内の3地域はいずれも山地と琵琶湖の間に広がる扇状地の平野部に位置する豊かな水田地帯で、必ずしも畑作文化と稲作文化の対立とは結論づけにくいようだ。

 そして栗東でもこの風習は薄れているようだ。栗東歴史民俗博物館に問い合わせたところ、5家のうち複数が今は餅を食べていると答えたという。

 そもそも昨今は、正月に餅を食べたり、おせち料理を食べたりといった食の伝統が薄れつつある。まるで餅が伸びるように連綿と受け継がれてきた「餅なし正月」の風習が断絶の危機にあるのも時流なのかもしれない。

 <餅なし正月>「日本民俗大辞典」(吉川弘文館)によると、元日を中心に、餅をつかず、食べず、供えずという禁忌を継承すること。その伝承は全国各地で確認されており、餅なし正月研究の第一人者である故坪井洋文氏の研究によると、最北端は宮城県で、最南端は鹿児島県という。

【京都新聞 2016年01月27日 17時04分 】

 

 


安土城見学会

2016年01月26日 | 戦国山城

安土城見学会

 信長公記 巻九 天正四年1、安土築城  安土御普請の事

 この年の正月中旬、信長公は丹羽長秀に命じ、江州安土山の築城を開始させた。そして2月23日には信長公自身が安土に座を移した。普請の進行ぶりを実検した信長公はひとまず満足し、褒美として丹羽長秀に名物珠光茶碗を与えた。まことにかたじけなき次第であった。またこのとき馬廻の衆は信長公より山下に屋敷地を与えられ、それぞれ自邸の普請を開始することを命じられた。・・・・ 云々

 お城の概要

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%9C%9F%E5%9F%8E

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、信長公記、ウィキペディア

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安土築城  安土御普請の事

2016年01月26日 | 戦国山城

 

信長公記 巻九 天正四年

1、安土築城  安土御普請の事

 この年の正月中旬、信長公は丹羽長秀に命じ、江州安土山の築城を開始させた。そして2月23日には信長公自身が安土に座を移した。普請の進行ぶりを実検した信長公はひとまず満足し、褒美として丹羽長秀に名物珠光茶碗を与えた。まことにかたじけなき次第であった。またこのとき馬廻の衆は信長公より山下に屋敷地を与えられ、それぞれ自邸の普請を開始することを命じられた。

 4月1日からは大石をもって山内の塁壁地に石垣が築かれはじめた。また「城内に天主を築くべし」(安土城の場合、天守には「天主」の字を当てていたことが知られている)との信長公の命に従い、安土には尾・濃・勢・三・越五州に若州・畿内の諸侍、および京都・奈良・堺の大工諸職人が参集し、おのおの技巧のかぎりを尽くした。瓦焼には唐人の一観が加えられ、唐様に仕上げるよう申し付けられた。
 近接する観音寺山・長命寺山・長光寺山・伊場山(伊庭山)(いずれも安土周辺(現近江八幡市~能登川町あたり)の山)からは大石が数多く引き出され、千・二千・三千とまとめられて安土山へ上げられていった。引き上げられた石は石奉行の西尾小左衛門・小沢六郎三郎・吉田平内・大西某によって吟味され、小石は退けられて大石のみ選りすぐられていった。

 これらの石の中で、津田坊が運んできた蛇石と呼ばれる石はまた格別のものであった。すぐれた名石であったが、並はずれた大石でもあり、山麓までは運べたものの山上には一切上げられずにいたのである。結局この蛇石は羽柴秀吉・滝川一益・丹羽長秀の助勢一万人の手によって昼夜三日がかりで引き上げられることとなったが、このとき信長公は巧妙な手で(原文「御巧を以って」。足利義昭邸建造(巻二第二段)のときのように石を飾り立てて笛や太鼓で囃したものか)人足たちを囃し立て、いとも簡単に天主台へ引き上げさせることに成功したのであった。このように普請は昼夜の別を問わず、山も谷も動かんばかりの勢いで進められた。

 安土の普請が進む中、信長公はまた京都にも座所を造ろうと考えた。そして安土の監督は御息信忠殿に任せ、みずからは4月晦日に京都に入って二条妙覚寺に宿泊した。

 これが『蛇石』か?

 

安土城を築くため信長は石仏など多くの石を集めました。記録によると大きな石を上げるために数千人の人が必要であったといわれ、なかでも「蛇石」と呼ばれる銘石は7千人の人が昼夜を問わず引き上げたが、上がらず150人もの人が下敷きになり死んだそうです。今この石がどこにあるかわかっていません

★「蛇石」の話は信長公記の天正4年の”安土御普請の事”に津田坊という人が 運んだことが記載されている。しかし、これには150人が下敷で死んだ話はで ていない。

 

★フロイス日本史4(川崎桃太.松田毅一訳.中央公論)第33章の「信長がその統治の過程で行った他のことどもについて」には、「蛇石」とは記されていないが、特別の一つ(石)として150人以上が下敷きになり死んだ話が述べられている。二つの話をつなぐと「築城にまつわる話」となる。

 

★「蛇石」とはどんな石かわからないが、蛇紋岩という石ならある。一般的な特徴は暗緑色塊状のものが主であるが、繊維状の岩もある。 つるつると滑らかで、蛇の皮の紋様みたいな岩もあり、不規則な塊状をしている。また蛇紋岩の成分の一つであるクリソタイルは石綿の一種であり、これは、じん肺を 誘発する。私が関係している労働衛生とか職業病の分野では時々耳にする。

 

★蛇紋岩の産地
  安土に近い蛇紋岩の産地について、原色岩石図鑑で調べて見ると、愛知県.新城市と繊維状蛇紋岩(京都.宮津)が該当する。運ぶ時に滑りそうな石は愛知県.新城市の石のように思う。愛知県というと、信長と関係がでてきそうだが、こんな遠くから大石を運んだか疑問もでてくる。

 

■ 安土山を霊鷲山にする方法

★荒神山(彦根市)は霊鷲山だった

 二つの資料を並べてみて、ほとんど平仮名の文より漢文読み下しの方が読みやすい感じがするのですが、一般的にはどう感じられるのでしょうか? 初めのお話は、東大寺造営に力を尽くした僧である行基についての伝説なのですが、その中の太字で示した部分に、昔は平流山と呼ばれていた現在の彦根市にある荒神山の伝説がのせられています。

 荒神山はもともと、釈迦が法華経などを説いた天竺にある霊鷲山の一岳であり、その霊鷲山の一岳が蛇の背中に乗って日本へやって来て、蛇がそのまま石になった、という伝説です

★しっぽが無い

 このへび岩のしっぽは、かめ山(彦根市)むかし話では、北がわの石寺(彦根市)の村に出ている、と、伝えられているのですが、現在荒神山北側の石寺の方面には、しっぽらしい岩は存在しません。 2003年に彦根城博物館が編集した『荒神山と周辺地域の暮らし』の――聞き取り調査ノートより――には、「蛇岩のしっぽ側は曽根沼干拓前の昭和35年頃には、採掘され失われた…蛇岩は山の上の方にあり、採掘された石は、崖から谷筋へ転がし落とし、曽根沼際の石積み場へ運んだ。」 というように昭和35年ごろに採掘されたという証言がありますが、この中の、「蛇岩は山の上の方にあり」という証言から言って、昭和35年頃に採掘されたのは蛇岩では無いと考えられます、 なぜなら、もともと蛇岩は荒神山を乗せて来た蛇が石になったもので、頭側は山の下の方にあり地元の人に祭られている事から、しっぽ側の石も同じく、山の下の方にあって、地元で祭られていなければおかしいからです。 たしかに昭和35年ごろなら御神体の岩を工事用に採掘する事もありそうなのですが、その場合でもたたりを恐れて神事がとり行われるはずで、何の伝承もなしに蛇岩が採掘されてしまうのは不自然で、なおかつ山を乗せているはずの蛇のしっぽが山の上の方にあるという証言からして、この時採掘された岩は、もともとのへびのしっぽでは無いと考えます。

へび岩のしっぽが安土城へ運ばれた 

 以上の事から、安土城へ運ばれた蛇石とは、荒神山の へび石のしっぽ側の岩で、取られた荒神山石寺の人は、山の上の方にあった岩を新たにへびのしっぽに見立てたものと考えられ、この解釈なら信長公記から読み取れる蛇石の条件、安土山以外の場所から持って来た、もともと有名な石、という二つを満たし、聞き取り調査ノートの証言の説明も付けられます。

★安土城を霊鷲山にする方法

 安土城障壁画の復元考察を行った平井良直氏は『安土城天主五階の空間構成に関する一試論』の中で、「信長は、『法華経』の造形を、の装置として巧みに転用しているという可能性が、ここで新たに指摘できるのではあるまいか。」と結論部分で指摘しています。

 法華経が説かれたのは天竺の霊鷲山であり、三国伝記ではその霊鷲山が蛇の背中に乗ってやって来たのが荒神山であるとされているので、荒神山のへび石と、荒神山の土を安土城の天主に持って来れば、安土城天主は宗教的には霊鷲山と同じものになることができます。 つまり、へび石のエピソードも、安土城天主を、法華経の造形によって自己神格化の装置として取り入れた信長の、一貫した意思のあらわれだったのです。

へび石の埋められた場所は 

へび石が、荒神山から運ばれた安土城天主を霊鷲山にする装置の一つと考えると、へび石が置かれた場所は、天守台を背中に乗せて運べそうな部分であると考えられ、具体的には天主から東に延びる天守取り付き台部分の地下ではないかと思われます。 発掘調査の際にもこの天守取り付き台部分から岩らしい物の反応があったので、天守台から左右に伸びる岩盤の東側の端に蛇のしっぽを付ければ、想像される蛇の頭は伝二の丸信長廟辺りに位置する事になり、天守指図の間取りから考えれば、信長の寝起きした常の御所は伝二の丸に想定されるので、へびの頭を押さえる位置に信長の座所が位置する事になり、自己神格化の装置としてちょうど良いのではないかと思われます。
 以上の事から、へび石は現在、天守取り付き台部分の地下に埋まっているものと、とりあえず考えておきます。


秀吉ファン心つかめ 長浜城歴博、初の改修

2016年01月25日 | 館跡

リニューアル工事が行われている長浜城歴史博物館(長浜市公園町)

 滋賀県長浜市公園町の長浜城歴史博物館が1983年の開館以来、初のリニューアル工事を行っている。長浜に城を築いて天下統一の足がかりとした羽柴(豊臣)秀吉と地元の関わりを紹介したコーナーを新しく独立させて設けるなど、展示内容を充実させたいとする。

 同博物館は秀吉が築いた長浜城の跡にあり、展望台付きの模擬天守の建物は長浜観光の目玉の一つになっている。

 リニューアルでは秀吉ファンの観光客に足を運んでもらおうと、3階に秀吉のコーナーを設ける。姉川合戦や賤ケ岳合戦など秀吉が居城していた間の出来事を絵巻物風にした年表を新たに作製するほか、築城の様子を再現したジオラマを2階から移設する。

 このほか、2階に縦3メートル、幅5メートル、奥行き1・2メートルある最新の密封ケース1基を導入。ケース内は常時、温度20度、湿度60%に保つことができ、貴重な文化財を保存、展示できるようになるという。

 リニューアルオープンは2月27日。太田浩司館長(54)は「長浜を訪れる観光客の多くは秀吉に興味がある。秀吉と長浜の関係を分かりやすく紹介したい」と意気込む。

 白い天守がそびえる長浜城歴史博物館。長浜城は羽柴(豊臣)秀吉が1574年から4年かけて築城し、同時に城下町も築いたと伝わる。だが、1615年の大坂夏の陣で豊臣家が滅亡した後、長浜城は解体され、遺構の多くが彦根城に活用されたという。

 長浜城の再興は市民の願いだった。民俗資料館建設構想で地元出身の実業家が「城型の建物にして」と寄付したのをきっかけに建設の機運が高まった。総事業費10億3700万円のうち約4億3千万円が寄付でまかなわれて着工、開館に至った。

 近世の犬山城(愛知県)や丸岡城(福井県)を参考にした模擬天守は、黒壁スクエアなどとともに長浜の観光スポットになっており、今も年間14万人が訪れる。市中心部では1996年、NHK大河ドラマ「秀吉」の放映に合わせて「北近江秀吉博覧会」も開かれた。

 同博物館のリニューアル工事は老朽化した空調施設の交換に合わせて昨年12月から総事業費約9300万円をかけて行っている。工事期間中は全館休館で、この機会に学芸員は所蔵品の整理や調査にあたり、受付の職員は観光客に対応できるよう観光地を訪ねるなど研修を積んでいる。

 同博物館には一つの強みがある。文化庁の「公開承認施設」に認定されている点だ。国宝や重要文化財の公開手続きが簡素化されるメリットがあり地域へ質の高い企画の発信が求められる。文化庁美術学芸課は「リニューアル後も重要文化財を継続的に広く市民に公開することを期待したい」とする。

 リニューアルオープンに向け太田浩司館長(54)は「博物館としてのグレードを高め、観光で訪れる人の玄関口としての役割を果たしたい」と力を込める。長浜観光協会の漣(さざなみ)泰寿副会長(59)も「博物館は市民のシンボルで、長浜の歴史と文化を発信する拠点。秀吉と長浜がキーワードのリニューアルは楽しみ」と期待する。

京都新聞【 2016年01月25日 08時58分 】

 

 


戦国武将、六角氏学ぶ 滋賀県教委が3月にシンポ

2016年01月25日 | 講座

繖山山中に残る観音寺城跡の石垣(近江八幡市安土町石寺)

近江の戦国大名六角氏の居城で、繖山(きぬがさやま)一帯に数多くの遺構が残る滋賀県近江八幡市の観音寺城跡を探訪し、近年の調査結果をもとに新たな魅力を学ぶシンポジウムが3月5、6両日に開かれる。

 県教委が開催する連続講座「近江の城郭」の一環。5日は県の文化財担当者の案内で城跡の土塁や石垣、曲輪(くるわ)などを探訪する。東近江市五個荘塚本町のぷらざ三方よし集合。午前9時40分から同11時まで4班に分かれて出発する。歩きやすい格好で、健康保険証、弁当、飲み物持参。

 6日は近江八幡市安土町桑実寺の文芸セミナリヨで元奈良大教授下坂守氏の基調講演「佐々木六角氏と近江の戦国時代」や報告、パネル討論を行う。午前10時~午後4時半。

 どちらか一方の参加も可。いずれも無料。申し込みは参加者の氏名、住所と連絡先、参加を希望する日を記入し、3月2日までに県城郭調査事務所TEL0748(46)6144かファクス0748(46)6145へ。(京都新聞)


【近江の城郭探訪】のアクセス・ランキング

2016年01月24日 | 番外編

過去1週間の閲覧数・訪問者数とランキング(日別)

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過去3週間の閲覧数・訪問者数とランキング(週別)

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水口岡山城(水口古城山城)   近江国(水口)

2016年01月22日 | 戦国山城

お城のデータ

 

所在地:甲賀市水口町水口(甲賀郡水口町水口)    map:http://yahoo.jp/0cSWF4 この地図のURL

別 名 :水口古城城

現 状:城山公園・森林 

遺 構:曲郭・石垣、土塁、枡形虎口、竪堀、堀切

区 分:平山城

築城期:織豊期 天正13年(1585)

築城者:豊臣氏(中村式部少輔一氏)

初城主:中村式部少輔一氏

廃 城:慶長5(1600)年

城 域:600m×200m

標 高:282m    比高差:100m

目標地:水口小学校

駐車場:水口岡山城登城口駐車場http://yahoo.jp/33mkhD

訪城日:2016.1.17

お城の概要

  「城山高く有らずとも 今の稚木の生い立たば やがて雲をも凌ぐべき 茂山なる日こそこめ」。巖谷小波(水口ゆかりの児童文学者)の作詞になる水口小学校の校歌ににも歌われる「城山」は、水口市街を見下ろすお椀を伏せたような「古城山」のことです。歌詞の通り標高289メートルと低い山ではありますが、独立丘であることから山頂からは眼下の水口はもとより、鈴鹿峠方面、日野、八幡方面まで一望することができます。 

この山は古くは「大岡山」あるいは「岡山」といい、山上には「岡観音」と呼ばれた大岡寺があったと伝えられますが、天正13(1585)年に、羽柴(豊臣)秀吉が家臣の中村一氏に命じて城を築かせます。当時は「水口城」と呼ばれていました。近江東南部の支配とともに、鈴鹿峠をひかえ、東海地方への押さえが意図されたのでしょう。城主には一氏に続き増田長盛、そして長束正家と豊臣政権の「五奉行」があてられており、その重要性がうかがわれます。

この城は大きく、

(1)甲賀郡で最初の大規模な織豊系城郭である。

(2)中世以来甲賀郡各地に割拠した土豪・地侍集団である「甲賀衆」の在地支配が払拭された。

(3)水口が城下町として整備され近世甲賀郡の中心となった。などの歴史的意味がありますが、

慶長5(1600)年の関ヶ原合戦で、三代城主であった長束正家が西軍に与したため破却されてしまいます。

 近年の城郭調査により、山頂部には堀切などで区画された大規模な曲輪を複数配置し、とくに本丸には高石垣が築かれていたこと、山腹にも曲輪や帯曲輪、桝形を配し、竪堀なども見られることが分かってきました。また寛永期の絵図(幕府京都大工頭中井家文書)には、山上の「本丸」に「天守」とあるほか、南麓から西麓、さらに北側へと堀がめぐらせて城の内外を区画したこと、城下との出入り口として3カ所の枡形があったことが判明しています。城域の大半は未発掘ですが、本丸一帯からは大量の瓦が出土しており、瓦葺きの建物が並んでいたようです。このように水口岡山城跡は、豊臣政権による近江南部支配の拠点であるとともに、規模が大きく遺構もよく遺っていることから今後の調査が期待される遺跡です。なお、現存する縄張については、平成22年12月刊行予定の市史第7巻「甲賀の城」で詳しく紹介される予定です。

歴 史

 『江州佐々木南北諸氏帳』に、「甲賀郡 岡山寺 甲賀三郎兼氏」とあり、詳細は不明ながら、甲賀三郎兼氏は他の古文書には無い?

十王地蔵
この寺の境内には伊賀に通ずる御斎峠の路傍にあったという南北朝期の石仏十王地蔵がある。
天慶元年(938)、多羅尾の開祖甲賀三郎兼家が当地で出世すると、兄重宗、定頼の二人がこれおねたみ、
兼家を謀殺しようとして、かえって自亡した。その亡霊の冥福をいのるために地蔵尊十基が造られた。
もとは御斎峠の近くにあったものをここに移したと伝わる

 大岡寺・・・・古く、この寺は「龍王山観音院」と号し、俗に「岡観音」の名で知られています。寺伝によれば、僧行基が諸国行脚に際し、大岡山(おおおかやま)に一宇を建て、自彫の千手観音の木像を安置したのが創まりで、時は白鳳十四年(六八六年)六月十八日であったと伝う。その後、寺勢は盛大を極め、十六箇院が建立され、当山は、その東坊=本坊でありました。 当山の所在が要害の地で、交通も至便であったので、武将の布陣となったこともあり、源義綱(天仁二年)、鴨長明(健保の頃この寺で発心)、源光行(貞応三年)、それに一条兼良(文明の頃)などが宿ったことがありました。 また、元禄の頃には、俳人芭蕉も当山を訪れ、友人と会見「命ふたつ中には活きたる桜かな」の一句を残しています。

 「岡山の寺=大岡寺」は、中村一氏の築城時、天正13年(1585)中村一氏が秀吉公の命を受け、岡山城に築城にあたり、本堂は1716年(享保元)に当時の住職寂堂がそれまで古城山にあった東坊をふもとに移築し、山頂に城郭を構築しました。落城後、江戸期に加藤氏が水口城=碧水城(現在水口高校)の城主となるに及んで、当山をその祈願所とし、寺領および大般若経六百巻、梵鐘寺等を寄進しました。正徳5年(1715)僧寂堂は、藩主の好意を得て、古城山麓の現在地に中興開山し「龍王山大岡寺」と称し、時あたかも享保元年(1716)6月でした。

 水口岡山城は、天正13年(1585)羽柴(豊臣)秀吉の命で、家臣中村一氏によって大岡山(現在の古城山、通称「城山」)に築かれました。一氏の後、増田長盛、長束正家が城主となります。 眼下には東海道が東西に通り、鈴鹿越えの道を押さえることを意識した当時の戦略がうかがえます。水口岡山城は、豊臣政権における甲賀支配の中核となる城だったといえます。 

  水口城跡(水口御殿)から1kmほど北にある古城山(標高283m)の山頂にある城跡で、天正13年(1585)羽柴秀吉の命を受けた中村一氏により築かれたといわれます。文禄4年(1594)秀吉の五奉行の一人長束正家が城主となり、一帯五万石を領知したほか、蔵入地の代官を兼任しますが、関が原の合戦で西軍に属し、敗戦後廃城となりました。
 城跡は山頂部に東西に六郭からなる主部を配し、おのおの堀切、竪堀により区画され、周辺にも小規模な郭が4ヶ所ほど見られます。また、寛永11年(1634)の水口城築城に当たって当城の石材を利用したという説もあります。

西の丸

竪堀を北へ・・・すぐ石垣・・・城内最大の残存石垣へ

本丸の北の石垣へ

本丸石垣西天守

瓦の破片がいっぱい!丸瓦が!

南側桝形虎口

本丸到着

東側天守

天守址で、特製「お市と三姉妹弁当」!「豊臣・・・茶々vs徳川・・・江」

大手道を下り

二の丸への枡形虎口

東天守の北側へ・・・食い違い虎口・・・石垣

主格と二の丸の間の箱掘

箱堀の北の土橋

食い違い虎口

東店主の北下の石垣二の丸の下の竪堀(笹で解りにくいが)

二の丸と三の丸間の箱掘を覗く!

二の丸と三の丸間の箱掘

三の丸へ

北側への竪堀

3の丸の東の郭

竪堀二条 山麓郭

参加者記念撮影《水口城で》

中村一氏

 一氏は多喜氏の出で、弥平治一政の子で、初め滝孫平治と称し、後中村式部少輔と改める。滝川一益と同じ伴家一族である。秀吉に仕えて戦功あり、岸和田城主となり従五位下式部少輔に任ぜられる。天正13年(1585)7月、6万石の水口岡山城主となる。

 この水口を含む甲賀の地は所謂甲賀流忍者の本拠であり、甲賀21家、53家で代表される群小の地侍層が甲賀郡中惣のもとに団結して外敵に対処してきた所である。信長の時代には六角氏と組んで敵対したこともある。畿内のひざ元にどっちへ就くか分からない武力集団を自由にしておけないというのが秀吉の考えだったのだろう。甲賀の中心地にぽっかり聳えた岡山に城を築いて甲賀全域に睨みをきかすこと、そのためには事情に明るいこの土地の出身武将を城主にする必要があると、多喜氏出身の中村一氏に白羽の矢が立ったと思われる。しかし、6万石といってもどこからか取ってこなければならない。

 甲賀武士は一時は逆らったものの、六角氏が滅びてからは信長につき、その後は秀吉の麾下に属している。領地を取り上げる口実を作らないと目的を達することができない。そこで考え出されたのが、まず第一に「敵に通心した」という濡れ衣を着せることであった。篠山氏はその例で、信長の時代から繋がりのあったことが災いして信雄攻めのときに「通心」の疑いをかけられ領地没収の憂き目をみた。二つ目は「落ち度を作ること」で、雑賀攻めのとき水攻めの土木工事がうまく進まなかったとの落ち度をつくり、領地没収を敢行した。佐治氏はこれに服さず反抗して滅ぼされている。領地はこうして岡山城主に集中された。

 中村氏はその後天正18年(1590)の小田原城攻めに武勇を奮い、封を駿河国府中に転じられ14万石を賜ることになる。あとを継いだのは増田長盛、ついで長束正家である。

 秀吉の死後は徳川家康に属し、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いには病のため参加できなかったが家臣は美濃大垣で活躍した。同年城中にて没す。

 参考資料;滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭、甲賀市誌7巻甲賀の

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井元城  近江国(愛東)

2016年01月20日 | 陣城

 

 

井元城跡縄張図 

(滋賀県文化財学習シートより)重ね馬出

お城のデータ

所在地:東近江市(旧愛知郡愛東町)妹町 map:http://yahoo.jp/DgCoA3

現 状:鎮守の森(春日神社)

遺 構:曲輪、重ね馬、土塁、空堀、 

区 分:段丘城(陣城)

築城者: 柴田勝家

築城期:織豊期 永禄11年頃

目標地:春日神社

駐車場:春日神社の駐車場

探訪日: 2016.1.17

お城の概要

 井元城は、愛知川北岸の河岸段丘上に位置する城郭。文献資料にも記載が無く、城主や築城時期などは不明ですが、滋賀県の中世城郭分布調査で初めて発見され、地元の愛東町教育委員会(現東近江市教育委員会)による発掘調査で堀や土塁などが検出。

発掘調査で16世紀の遺物が出土していることも、そうした推測を裏付けます。

 城の構造は、一辺30mの方形単郭で断崖側を除く三方を土塁で囲み、その外側に横堀を廻らせている。東側の虎口前には「コ」の字形に土塁と堀をめぐらせた角馬出が設けられ、さらに北側こもう1つ角馬出しが付けられ「重ね馬出し」と呼ばれる縄張りになっている。この虎口構造は、全国的にも極めて数少ない事例とされる。
虎口の東外方に150m×30mの土塁と空堀に囲繞された区画が設けられ、兵士の駐屯地と考えられ、また、土塁と堀の土層断面から構築方法は単純で、急造されており臨時的な陣城の可能性が強いと考えられている。
複雑な虎口構造を備える割には、施設規模は品弱で、強固さの感じられない遺構で、鯰江城攻略の為の中核砦では?。

城の構造は方形の区画を土塁と空堀で囲んだ簡単なものですが、注目すべきは虎口部分。

虎口(こぐち)の外側をコの字形に堀と土塁をめぐらせたいわゆる角馬出(かくうまだし)がありますが、さらにその外側にもう一つの角馬出が設けられた「重ね馬出」となっているの。重ね馬出の類例は全国でも珍しく、虎口の形態としてはもっとも発達したもの。

歴   史

井元城に関する文献も伝承も一切残っておらず、滋賀県の実施した中世城郭分布調査により発見された城跡である。
しかし、重ね馬出しを設けた縄張りや鯰江城との距離などから「信長公記」に記された元亀4年(1573)4月に鯰江貞景の鯰江城に六角義賢(承禎)・義治父子が旧臣らと共に立て籠もった際、織田信長が佐久間信盛・蒲生氏郷・丹羽長秀・柴田勝家に命じ、四方より取詰め付城を構えさせているが、その付城の一つがこの井元城と考えられている。なお、鯰江城は天正元年(1573)9月に落城させられている。

信長公記 巻六 元亀四年

 5、表裏の果て  百済寺伽藍御放火の事

  守山を出た信長公は百済寺(愛東)に入り、ここに2、3日滞在した。近在の鯰江城(愛東)に佐々木右衛門督六角義治が籠っており、これを攻略しようとしたのである。信長公は佐久間信盛・蒲生賢秀・丹羽長秀・柴田勝家らに攻撃を命じ、四方より囲んで付城を築かせた。このとき、近年になって百済寺が鯰江城をひそかに支援し、一揆に同調しているという諜報が信長公の耳にとどいた。それを知った信長公は激怒して4月11日寺に放火し、百済寺の堂塔伽藍は灰燼に帰してしまった。焼け跡は目も当てられない有様であった。 同日、信長公は岐阜へ馬を収めた。

 15、小谷落城  浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事

小谷城は陥ちた。落城後、浅井父子の首は京に後送されて獄門にかけられ、十歳になる長政嫡男も捕らえ出されて関ヶ原で磔にかけられた。元亀以来というもの浅井氏に苦汁を舐めさせられつづけてきた信長公は、ここに年来の鬱憤を晴らしたのであった。
 戦後、江北の浅井氏遺領は羽柴秀吉に一職進退の朱印状が下された。秀吉は年来の武功を認められ、名誉の至りであった。

 9月4日、信長公は佐和山に入り、柴田勝家に六角義治の籠る鯰江城の攻略を命じた。柴田はすぐさま兵を寄せて鯰江を囲み、義治を降伏させた。こうして各所の平定に成功した信長公は、9月6日晴れて濃州岐阜へ凱旋を果たした。・・・・・

「信長公記」に記された元亀4年(1573)4月に鯰江貞景の鯰江城に六角義賢(承禎)・義治父子が旧臣らと共に立て籠もった際、織田信長が佐久間信盛・蒲生氏郷・丹羽長秀・柴田勝家に命じ、四方より取詰め付城を構えさせている。なお、鯰江城は天正元年(1573)9月に落城させられている

城は、方形の主郭とその周囲に廻らされれた土塁と空堀があり、主郭東側には重ね馬出の遺構が良く残っている。 重ね馬出の遺構自体あまり見られないことから、貴重な遺構。

 

春日神社入口西側から左手に神社裏手に登る道がある。 この道を登り切るとそこには井元城の空堀と土塁が現れる。北西一帯の河岸段丘の檜林の中に井元城はあった。 

 

春日神社の参拝者用無料駐車場

 井元城(遠景)

参考資料:滋賀県城郭分布、滋賀県文化財学習シート、淡海の城他

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水口城(碧水城・水口御殿) 近江国(甲賀)

2016年01月19日 | 陣屋

 水口城跡(水口城資料館) 

 滋賀県甲賀市水口町本丸4-80

お城のデータ

所在地:甲賀市水口町水口字中邸(本丸部分) (旧甲賀郡水口町水口字中邸(本丸部分))    map:http://yahoo.jp/hjPmgf

別 名:碧水城

現 状:水口高校グランド

遺 構:出丸・本丸跡、水堀、土塁、石垣、移築門、説明板

 移築遺構:水口町・蓮華寺の本堂に水口城の玄関が大岡山(水口岡山城のある古城山)の麓の大岡寺に茶室が移築されている

 区 分:水口御殿

 築城期:江戸期 寛永9年(1632)

 築城者:徳川幕府

 城 主:初城主:坪内玄蕃(城代)

 城 域:360m×360m

 目標地:水口城、水口城資料館 

 駐車場:水口城資料館・体育館無料駐車場

 県指定史跡

 訪城日:2016.1.17

お城の概要

水口城は明治維新後廃城となり、建物や石垣の大半は撤去されたが、本丸跡地のみ保存され、水口高校のグランドとして使用されている。

 グランドの周囲には
今なお土塁が残り、その外周には水堀が巡り、北西角には乾櫓の櫓台が良好な状で残っている。

堀の水は湧水を利用しているといわれ、水深は15mもある薬研堀であるという。なお、水口城が碧水城とよばれる所以は涌水だけを使用していたためとされ、現在でも湧水の取り口や排水口は不明である。

 御成門付近の石垣と乾櫓の石垣は、中村一氏が築城した岡山城(水口古城)から運んだ石で積まれているとされる。

 大手門口の出丸部には、平成3年(1991)に模擬櫓(水口城資料館)が建てられている
 なお、水口町蓮華寺の本堂に水口城の玄関が大岡山(水口岡山城のある古城山)の麓の大岡寺に茶室が移築されている

北西角には乾櫓の櫓台

 

参加者全員23名

ドリル砕石の痕が残る。残念!

 

歴 史

 水口は京から伊勢へ通じる交通の要所にあり、中世後期にはすでに町並が形成されていたとされる。天正13年(1585)羽柴秀吉の命により水口岡山城が築かれ、その城下町として発展を見せた。

  関ケ原合戦後、この地を幕府直轄地とした徳川家康は、水口を東海道の宿駅に指定し、家康自身もしばしばこの地を通行し、宿内の大徳寺などに宿泊している。
   寛永11年(1634)三代将軍家光は上洛に先立ち、道中となる水口に専用の宿館を築かせたのが水口城である。近江には、柏原御殿、伊庭御殿、永原御殿がある。

 水口城の築城は幕府の直轄で行われ、その作事奉行には建築や造園、茶道などで知られる小堀遠江守政一(小堀遠州)があてられた。
延べ10万人の大工が動員され、本丸は京都二条城を小型にしたものと云われている。

しかし、その後家光は上洛することなく、幕府の管理下で城番が置かれた。なお、水口城は居館式城郭で本丸と二の丸曲輪だけで構成されていた

その後、天和2年(1682)加藤明友が入封して水口藩2万5千石の居城となり、別名「碧水城」といわれた城。

  

駐車場:水口城資料館・体育館無料駐車場

【水口藩 加藤家文書】

 江戸時代、水口には水口藩が置かれました。それは天和2(1682)年に、石見国吉永(現島根県大田市)から加藤明友が、1万石加増の2万石で就封したことに始まります。加藤家は「賤ヶ岳の七本鎗」の一人として有名な加藤嘉明を祖とする外様大名で、明友を初代藩主として、明英・嘉矩(以後2万5千石)・明経・明熙・明堯・明陳・明允・明邦・明軌・明実と幕末まで藩主をつとめました(ただし藩主としては明英と嘉矩の間に譜代大名の鳥居忠英が一代入り、明英以降は譜代格となります)。

水口藩は小藩とはいえ、甲賀地域に城を構える唯一の大名であり、甲賀の歴史に大きな足跡を残していますが、家臣団の構成や藩政機構、明治維新期の動向など、藩政の実態は史料の不足から不明な点が多く残されていました。

 老中奉書老中奉書(天和3年に水口城の門の立替えを許可する内容)

 
辞令
辞令(写)(明治2年に加藤明実を水口藩知事に任じる)

しかし、近年水口町内に大量の古文書が残されていることが分かり、その寄贈を受けたのを契機として、平成18(2006)年から4年をかけて詳細な調査を実施した結果、近世初期~大正期の総点数1万3983点にも及ぶ古文書群であることが判明しました。

「水口藩加藤家文書」と名付けられたこの古文書群には、実に多様な史料が含まれています。近世のものとしては、加藤嘉明へあてた豊臣秀吉・秀頼の朱印状をはじめ、徳川家康・秀忠以降家茂まで歴代江戸幕府将軍からの「御内書」(献上への礼状)約640通、水口藩の成立などを示す「老中奉書」約400通、幕府役人や他大名などからの書状約200通、加藤家が勤めた大坂加番などの軍役関係史料約180点、江戸藩邸でまとめられた藩日記、水口藩領の村絵図などがあります。

また近代以降のものとしては、王政復古の頃の水口藩知事任命書や、廃藩置県にともなう明治政府からの一連の通達類など、近代水口藩から華族加藤家への移行期に関するもの、また加藤家のみならず、華族全体の動向を知ることもできる書状・廻達文・記録などがあり、これらは、近世のものと合わせて、全国的にも貴重な古文書群であることが判明し、その成果は平成22年3月に甲賀市教育委員会が刊行した『水口藩加藤家文書調査報告書』にまとめられました。

 参考資料;滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭、甲賀市誌7巻甲賀の

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国友城    近江国(長浜)

2016年01月17日 | 平城

お城のデータ

所在地:長浜市国友町 map:http://yahoo.jp/A849V9

現 状:畑地・宅地

区 分:平城

築城期:室町期

築城者:国友氏

目標地:国友鉄砲の里資料館

駐車場:国友鉄砲の里資料館の駐車場利用

訪城日:2016.1.10

お城の概要

 「国友鉄砲の里資料館」のある通りの西側、ちょうど遍増寺の南側辺りに「殿やしき」ち呼ばれているところが国友城のあったところ。 現在は全面畑地で、周囲を流れる用水路は堀痕。

国友は有名な鉄砲鍛冶が栄えた場所で集落内も整備されており、城址には、遺構も無く、資料館を中心の散策する。

国友城の比定地 城址には、住宅が建たぬと云う。ここも例外ではないようよだ。

国友伯耆守・国友兵庫介の屋敷跡

歴 史

国友の由来は平安時代 に始まる。

国友の由来は、中世福永庄のうちで、文明18年11月3日の角氏棒行人奉書に「福永国友」永正14年8月日の米布施御影供新寄進帳に「国友」と見える。

『江州佐々木南北諸氏帳』に、「坂田郡 国友 住 富岡藤太郎」の名を記す。

国友城は、戦国時代に国友伯耆守等の名が文献にあり、国友氏を称する豪族が居城していた。

宮部継潤(宮部城主)は信長に恭順の姿勢を見せるために、

野村氏は佐々木六角氏の流れ汲む一族で浅井郡野村に住んでいたので野村姓を名乗った。その後いくつかに分かれるが全て浅井氏に従った。

浅井氏旧臣 野村直隆(近江国友鉄砲村の支配者)永禄13年(1570)、織田氏から横山城を死守し、横山城救援に来た浅井勢との間に姉川の戦いが起こる。合戦後、横山城を開城し、小谷城へ退く。

宮部継潤(宮部城主)は信長に恭順の姿勢を見せるために、1571年国友(国友の砦)を守備していて宮部継潤の来襲を退ける。狙撃したのは兵庫守の娘婿富岡藤太郎という鉄砲名人で元亀2年5月琵琶湖上から秀吉を狙撃したこともあった。継順の首を取ろうと近づいた藤太郎を友田近右ェ門が突き倒し、継潤に肩を貸して辛うじて戦線を離脱する事が出来た。

浅井氏滅亡後は織田家に臣従し鉄砲頭で2万石。羽柴秀吉の長浜支配が、堀秀政に譲り渡された時点で信長の直参になった。最初から信長様の直轄地代官だったか?。

 

・・・国友鉄砲一番手柄・・・

信長の部下であった秀吉は、この戦いを一日も早く終らせるため、浅井方についていた宮部城の城主宮部継潤に、信長の味方になることを勧め、継潤は浅井方に勝つ見こみのないことをさとり、勧めにしたがって信長の味方になりました。継潤は信長の味方になったことを他の武将に知らせ、信長への忠誠を示すために、姉川をはさんで2キロメートル南にある国友城を攻めた。 継潤は300人の部下をひきいて国友城に押し寄せました。かねてこのことを予期していた国友城では、これも同じく300人の軍勢で城を出て姉川の堤に出て防ぎました。戦いは姉川を舞台にくりひろげられました。継潤は先頭に立って、命令しました。

「野村を討ちとるのは今だ。ものども続け。遅れるなっ」
「ひきょう者の宮部勢。裏切り者の継潤を生かして帰すな」

 国友方も槍をかざし刀をふりかぶって応戦します。3年前の姉川合戦の再現です。あちこちに組打ちが始まり、勝名のりの声がひびきます。大将同志、宮部潤継と野村兵庫頭も、いつの間にか馬をひきよせて戦っています。しかし、継潤は有名な力持ちの武芸者で、じりじりと兵庫頭を南へ押しつけていきます。兵庫頭は「ああ、俺もここで継潤に討たれるか」と思ったその時です。「ズドーン」と一発の銃声がしました。はっとしてよく見ると、今まさに自分に向かって大刀をふり上げた継潤が、どしんと馬から落ちています。左のももからは真赤な血がふき出ていました。

 そこへ、鉄砲を片手にした一人の武士、富岡藤太郎が、継潤の首を取ろうと駈けよってきました。藤太郎は、国友の鉄砲の名人でした。人々は鉄砲の力を知らないで、武士の数にもしていませんでしたが、藤太郎は「ここらで新しい武器の威力を見せてやろう」と火縄に火をつけて獲物をねらっていたのでした。この時銃声で、大将の一大事を知った継潤の部下がどっと助けに来たので、継潤の首は取れませんでしたが、宮部勢は一目散に退却して行きました。 このことを伝え聞いた信長は、1丁の鉄砲が300人の兵士にも優る威力を持っていることを知り、早速500丁の鉄砲を国友に注文しました。そして、その鉄砲の威力によって、天下統一の望みをはたしました。 

 その後国友は、秀吉、三成、そして徳川幕府の保護を受け、永く鉄砲鍛冶の村として栄えました。

江戸期は『天領 国友村』

 大坂堺と並んで鉄砲の産地として有名な国友村は優れた鍛冶技術や刀剣技術を持っていた。その村に種子島に漂着したポルトガル船から譲られた鉄砲が種子島時堯→島津貴久→足利義晴→足利義輝→細川晴元→京極氏の手を経てもたらされた。鉄砲に欠かせない火薬も薬品のエキスパートの伊賀忍者や甲賀忍者の手によって簡単に製造できた。

信長も国友の鉄砲製造技術を高く評価していて天分18年7月19日に六匁玉筒5百丁、元亀2年1月17日大筒(に百匁玉筒)を2丁注文している。

  1549年には織田信長が、500挺もの国友村鉄砲を発注したという記録があるが、姉川の戦い(1570)を機に村を所領とした信長は、羽柴秀吉に命じ、この地の鉄砲業の発展をなし遂げさせた。

 江戸幕府のもとでは、村は徳川家康の掌中にはいるが、慶長12年(1607)前述の4名は鉄砲代官に任命されることとなる。このあたりから産業は隆盛を極め、大坂夏の陣の時点では国友村は鉄砲鍛冶が73軒、鉄匠が500人だったと記録されるが、太平の世の中になると需要は激減した。

江戸時代には幕府と密接に連携して一定量の発注を受けて生産したが、それのみで生計が成り立つ数量には満たなかったようである。工人らは交代で江戸に詰め、江戸城での銃器メンテナンスも行った。各地の領主の招聘に応じその地に逗留・移住する銃工も多く、それら銃工の作品には「国友」銘のほか本名で鐫られたものも多い。国友出身でない銃工が国友で修行して「国友」を名乗る例や、商品価値を高めるための「国友」銘もあるといわれる。並び称せられた堺の銃が豪華な装飾金具や象嵌を施した「見た目の付加価値」であるのに対し、国友の製品は「機能美的」に洗練された秀作が多い。日本の古式銃の約4分の1は国友銘と云われ、堺と人気を二分していた。

 

国友 一貫斎(くにとも いっかんさい、九代目国友 藤兵衛(- とうべえ)

 安永7年10月3日(1778年11月21日) - 天保11年12月3日(1840年12月26日))は鉄砲鍛冶師、発明家。幼名は藤一。号は一貫斎、眠龍。諱は重恭。能当(旧字では能當)と銘を切る。日本で最初の実用空気銃や反射望遠鏡を製作。その自作の望遠鏡を用いて天体観測を行った。

近江国国友村(滋賀県長浜市国友町)の幕府の御用鉄砲鍛冶職の家に生まれた。9歳で父に代わって藤兵衛と名乗り、17歳で鉄砲鍛冶の年寄脇の職を継いだ。

文化8年(1811年)、彦根藩の御用掛となり二百目玉筒を受注することとなったが、国友村の年寄4家は自分たちを差し置いてのこの扱いに異議を申し立て長い抗争に発展した(彦根事件)。しかし一貫斎の高い技術力が認められ、文政元年(1818年)に年寄側の敗訴となった。

文政2年(1819年)、オランダから伝わった風砲(玩具の空気銃)を元に実用の威力を持つ強力な空気銃である「気砲」を製作。その解説書として「気砲記」を著し、後には20連発の早打気砲を完成させた。

文政年間、江戸で反射望遠鏡を見る機会があり、天保3年(1832)頃から反射式であるグレゴリー式望遠鏡を製作し始めた。当時の日本で作られていた屈折望遠鏡よりも優れた性能の望遠鏡であり、口径60mmで60倍の倍率の望遠鏡であった。後に天保の大飢饉等の天災で疲弊した住人のために大名家等に売却されたと言われ、現在は上田市立博物館(天保5年作、重要文化財)、彦根城博物館に残されている。

その他、玉燈(照明器具)、御懐中筆(万年筆、毛筆ペン)、鋼弩、神鏡(魔鏡)など数々の物を作り出した発明家である。

また、彼は自作の望遠鏡で天保6年(1835)に太陽黒点観測を当時としてはかなり長期に亘って行い、他にも月や土星、一説にはその衛星のスケッチなども残しており、日本の天文学者のさきがけの一人でもある。天保11年(1840)、国友村にて死去。享年63。

参考資料:滋賀県城郭分布調査、信長公記、淡海の城、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

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滝川陣屋(滝川氏館) 近江国(虎姫)

2016年01月16日 | 陣屋

お城のデータ

所在地:長浜市宮部町(旧東浅井郡虎姫町宮部) map:http://yahoo.jp/0NCYoz

現 状:公園・宅地

区 分:平城

遺 構:城跡碑、堀(用水路)

築城期:江戸期

築城者:滝川一明

目標地:宮部会館・宮部西薬師寺

駐車場:公園の駐車場利用

訪城日:2016.1.10

お城の概要
宮部集落の西部に宮部西薬師堂が現存する、その東側が陣屋跡で、明治期に宮部学校が建てられて現存する。
周囲は、堀跡(用水路)がは巡り、『滝川陣屋跡』の城跡が建つ。周囲は宅地化され、往時の遺構は堀痕だけである。
 
滝川陣屋跡(江戸期)のち宮部学校
歴 史
滝川一積は、天正11年(1583年)誕生。滝川一益の孫にあたる。父・一忠は豊臣秀吉により追放されて浪人であったため、一積もまた関ヶ原の戦い以前の行動は定かではない。旧知であった真田氏の元にいたともいわれ、関ヶ原の戦いの際に石田三成の妻の従兄弟である宇多頼次と離縁していた真田昌幸の娘・於菊を託されたという。

その後、織田長益の推挙によって中村一忠に仕えた。その直後の慶長8年(1603年)に徳川家康の下で2000石を拝領して家臣となっていた叔父・滝川一時が若くして死去し、子の滝川一乗が幼少ということもあって、一乗が15歳になるまでの名代に任じられて家康に仕えた(ほぼ同時期に米子藩では横田騒動が起こったことも理由の一つとしてある)。大坂の陣では、徳川方使番として活躍した。

ところが元和2年(1616)、一乗が15歳となっても所領を譲ろうとしなかったため一乗に訴えられ、その結果、一乗に750石を分与することとなり、一積は1000石の旗本となる(なお、その後この問題については結局うやむやとなった)。また於菊を妻にしていた縁から、討死にした真田信繁の娘を養女に迎え、伊予松山藩家老・蒲生郷喜に嫁がせるなど、たびたび真田氏のために働いた。

しかし寛永9年(1632)になって、幕府から突如としてこれら信繁の娘を養女として他家に嫁がせたことなどを罪状にされ、幕府使番の職を解かれて除封される。

実際には蒲生忠知家の内紛や、幕府内の勢力争いが背景にあったとされるが不明。ただし嫡子の一明は、寛文3年(1663)に再び幕府に300俵で召しだされ、幕臣となっている。 

 
 

参考資料:滋賀県城郭分布調査、淡海の城、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

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八相山城 近江国(虎姫)

2016年01月16日 | 陣城

八相山砦八相山

お城のデータ

別 称:成道山城

所在地:滋賀県東浅井郡虎姫町中野八相山 map:http://yahoo.jp/3E17uH

現 状:公園・社地・平地+山地・山林

区 分:丘陵城(砦・陣城) 遺 構:曲郭・堀切・物見廓

築陣期:織豊期

築陣者:織田信長軍(蜂谷氏・多賀氏)

陣 守:多賀貞能・蜂屋頼隆

標高:140m 比高差:50m

目標地:三川の時游館・中野の矢合神社

駐車場:矢合神社下の駐車場

発掘調査:遺物概要県報(5世紀-鏡+剣+刀子+短甲)。 発掘概要教育キャンプ場整備事業。 

訪城日:2016.1.10 

 

お城の概要

虎御前山砦と同じ丘陵の南側を八相山砦「中野山とも呼び)多賀貞能と蜂屋頼隆の陣城は残る。これで虎御前山の西にある月ヶ瀬城に対する備えとして位置している。

矢合神社えを挟んで、多賀氏・蜂谷氏の陣城として、公園整備されている。ハイキングコースや自動車道も整備され、顕著会のよって整備され、観光と城郭跡や説明板・石碑の建ち非常に解り易いが、虎御前山砦として一体化され、八相山砦の区分は、現地では判別されていない。

歴 史

『太平記 巻三十』に「八相山城 虎姫町」

観応2年9月7日の条・・・「同九月七日近江国へ打出、八相山ニ陣ヲ取ル」と記す

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虎御前山の尾根にあり、見晴らしが良い。「矢合」と音が通じる八相(やあい)山に鎭座し、旧称八相大明神と称した。

元亀元年(1570)までは古来の神殿があつた。元亀・天正の兵火で焼失。明治に矢合神社と改称

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‐‐‐信長公記 巻五 元亀三年  3、戦野  奇妙様御具足初に虎後前山御要害の

この虎御前山から後方の横山までは三里の距離があり、やや遠かった。このため途中の八相山と宮部郷(虎姫町宮部)にも連絡用の砦が築かれた。宮部郷には宮部善祥坊継潤が入り、また虎御前山から宮部郷までは悪路が続いて通行が不便だったため、信長公は道路の改修を命じて道(軍道)幅を三間半にまで広げさせ、敵地側の道路脇には五十町の距離にわたり高さ一丈の築地を築かせ、(水攻め)川水を堰入れさせた・・云々

軍道・築地・・・予想図

 八相山砦―東浅井郡虎姫町中野

虎御前山砦と同じ丘陵の南側を八相山(中野山とも呼び)砦を多賀貞能と蜂屋頼隆が守りについた。これで虎御前山の西にある月ヶ瀬城に対する備えが出来た。信長は次に宮部城との兵員や物資の移動が容易に行えるよう軍用道路の普請を命じた。道幅が3間半(約6.3メートル)距離が50町(約5.5キロ)の道で敵からの攻撃を避けるために1丈(約3メートル)の築地が設けられた。
11月3日この軍用道路を破壊しようと大将朝倉景鏡が出陣してきた。同時に浅井井規が宮部城を包囲した。これを見て秀吉は虎御前山砦から浅井軍の背後を突こうと出撃した。秀吉軍の梶原勝兵衛、弓衆中野又兵衛一安、毛屋猪介、富田弥六、信長から譴責を受けて湖北に残された馬廻衆滝川彦右衛門らの猛攻をみて景鏡も戦いに加わり大乱戦となった。そこへ継潤が城から討って出御前山(中野山、八相山)は、日本の歴史上で2度の大きな戦場として登場します。

・虎御前山・八相山(中野山)は、日本の歴史上で2度の大きな戦場として登場します。

  • 室町時代の初め、将軍の足利尊氏と弟の足利直義が戦った八相山(はっそうざん)の合戦。
  • 織田信長が小谷山の浅井長政を攻めたときで、尾根上には信長をはじめ木下秀吉、柴田勝家、堀秀政、滝川一益、丹羽長秀などの陣地跡。
  • 近江国浅井郡宮部村(現在の滋賀県長浜市宮部町)の小豪族を出自にもち、もとは比叡山の山法師であったと伝わる。宮部善祥坊清潤の養子となって比叡山で修行をしたのち僧侶となったが、故郷宮部に戻り、近江の戦国大名・浅井長政の家臣として仕えるようになる。武勇に優れた一面もあり、長政に従って織田信長との戦いで活躍し、横山城の城将であった羽柴秀吉と対峙したが、元亀3年(1572)10月、秀吉の調略に応じてその与力となった(『浅井三代記』)。寝返りの証として浅井側の国友城を攻めた際、銃撃を受け負傷している。
  • 『信長公記』にはこれより少し早い8〜9月に、信長によって宮部村の要害を守るよう命じられたとある。

虎御前山城の遺構

虎御前山の遺構は、一部破壊されている部分もあるが、比較的良好に 残されている。
山の最高所に位置する「く」の字形の曲輪(くるわ)(伝織田信長陣)は、北・東・西の三方を高い切岸で防御されており、ここを中心に南側の砦(伝堀秀政陣・滝川一益陣)は堀切と竪堀を使った防御がなされる。 また、最も小谷城に近接する伝木下秀吉陣は、三角形の曲輪を中心に、周囲に帯曲輪が巡らされるなど、ここが最前線であったことを窺わせる。

虎御前山城図

天正元年(1573)8月、小谷城総攻撃が仕掛けられ、9月1日に長政が自刃して浅井氏は滅亡、小谷城攻略戦に終止符が打たれ、虎御前山城は廃城となった

矢会(やあい)神社は延喜式神名帳に近江国浅井郡十四座ノ一と記され、古くは八相社又は八相大明神と云へり、鎮座するこの一帯の山を八相山と云ふ。八相を“やわい”と訓読す。けだし当神社には往古より弓矢の神事ありて村民盛んに射的を神前で行ひ多くの矢が行き合うことにより、矢合の文字を以て社名とせり。
祭神の葦那陀迦神は葦の生じ易き水辺を司どり給ふ神なり。この地古くより水利の便意の如くならざりしかばこの神を祭る。世にいふ世々開長者の“せせらぎ”は水の湧き出ずる状を表す語にして村民篤く敬仰す。

天正年間信長の小谷城攻撃の際、戦火に遇い多くの古文書逸散したるも、現社殿は天明年間の作なり。境内に現存する鐘楼は戦火をまぬがれし道成寺のものを移築したものなり。

中野にある矢合神社に注目される。同名の神社は式内社の論社として、同じ長浜市域の西浅井町岩熊にもあって、そこには、「浅井姫命と気吹雄命が争った時、気吹雄命が浅井岡を襲い、浅井姫命は当地まで退き、防矢を射た」という伝承があるから、浅井姫と矢に関係深いことが分かる。倭建命西征には美濃の弟彦公が弓矢に優れた者とともに従軍したと『日本書紀』景行段に記され、矢道には弟彦公の古墳とみられる長塚古墳もあり、三角縁神獣鏡が出土した。丁野にある式内社岡本神社の祭神も食糧神ヲカ神たる保食神とみられるが、「保食神=罔象女神」でもあったから、これも浅井姫に関係がある。坂田郡には式内社の岡神社もある。 土塁

多賀氏陣所

 駐車場の石仏

参考資料: 滋賀県中世城郭分布調査、『日本城郭大系』11。『信長公記』巻三(元亀元年)、『浅井三代文書集』、虎姫時游館展示品 

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石谷城 近江国(永源寺)    

2016年01月15日 | 居城

滋賀県中世城郭分布調査 4 旧蒲生・神崎郡の城より

お城のデータ

所在地:東近江市石谷町(旧神崎群永源寺石谷) map:http://yahoo.jp/KH-mff

現 状:畑地・宅地

築城期:室町期

築城者:倉垣氏

城 主:倉垣次(二)郎兵衛・倉垣勘八郎

廃城期:織豊期

区 分:居館(平城)

遺 構:消失

目標地:石谷集落の本間ガラス店・石谷住宅案内板

駐車場:路上駐車

訪城日:2013.5.4、2.16.1.9

 近江蒲生郡志の地籍図

お城の概要

城跡は、旧八日市市瓜生津町の東端、旧永源寺町石谷の西端にあり、両集落を合わせて見るとその中央部となる所に位置した。

 明治初期の石谷村地誌に「大薮と呼称した所に土塁や堀、井戸などの遺構が残っていた」、近江蒲生郡志には二重の防御を施した測量図を載せるが、遺構は消失し詳細は不明である と記されている。しかし、宅地化が進み、城跡は痕跡も留めていない。

国道307号の瓜生津町交差点を東折し県道170号に入る。東に150m程に南側の石谷住宅案内板・本間ガラス店があり、南奥の空地・畑地が城跡。

城址には、住宅が建たないと言うが、この比定地も空地(駐車場)・畑地のままで、例外ではない。周りは新興住宅で囲まている。

医谷住宅案内図

城址の比定地

歴 史

淡海温故録は「石谷村、倉垣二郎兵衛ト云フ此処ノ領主アリ」と記され、

大洞弁天当国古城主名札には、城主として倉垣次郎兵衛 記す

江州佐々木南北諸士帳には、倉垣次兵衛を挙げているが、これは中世末の領主であって平安初期以来の様子は殆ど不明とされる。

なお、倉垣氏については、室町時代の最終期、元亀元年(1570)と同2年に六角義治から倉垣勘八郎に宛てた、信長の退路遮断を賞する感状や忠誠を賞する感状が残っている。

天正元年(1573)の朝倉・浅井氏の滅亡、六角氏の籠る鯰江城の落城と共に、石谷城も廃城となり、倉垣氏は帰農したと考えられている。

郵便局 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、近江蒲生郡志、淡海の城、古文書、遺跡ウォーカー

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