お城のデータ
所在地:大津市(旧志賀郡)志賀町北小松) 旧小松郵便局map:http://yahoo.jp/r--5Pl
吉兵衛屋敷 :大津市(旧志賀郡)志賀町北小松 徳善寺の西(個人宅)http://yahoo.jp/pnu0xU
別 称:伊藤氏城・北小松城
区 分:平城
現 状:宅地・旧郵便局
築城期:室町期
築城者:伊藤氏
城 主:小松内膳(江州佐々木南北諸士帳)、伊藤氏
遺 構:屋敷跡
目標地:志賀小松局、JR北小松駅
訪城日:2015.11.7・2015.12.23
資料文献
名古屋女子大学 丸山竜平教授は、
滋賀県中世城郭分布調査委員会の委員(滋賀県教育委員会事務局 文化部 文化財保護課考古員)
名古屋女子大学 丸山竜平教授
信長の近江侵攻以前に属するところの佐々木六角氏や京極氏、 あるいは浅井氏 の頃に. 築かれた中世戦国期の山城から柴田 ..... 小松城の背後は、 比良の山麓が真 近に迫り、 落下距離がおよそー42mにもぉよぶ楊梅滝を生み出すほどの難所である。
g.小松城(伊藤氏城)ー平地城館と詰め城ー
北小松はもともと比良山麓と湖岸が交わる平地のないところであったが、そこへの流域の短い滝川が埋め残した内湖が良港を形成したに違ない。比良山麓の港では数少ない船留まりであったと思われる。
このような港を掌握によって富と権力を蓄えた地侍層として伊藤一族が知れる。 伊藤一族の城館は、現在の北小松の集落内に重なっており、「民部屋敷」「吉兵衛屋敷」「斎兵衛屋敷」の伝承が館の構造を伝えている。それぞれの屋敷は元来濠と土塁で囲郭されていいたらしく、旧小松郵便局前(東側)の道は、堀を埋めたものであり、その向かいの「吉兵衛屋敷」(30×50m)の道沿いには土塁が認められ、その上には欅が6~7本あったいう。
現在も伊藤氏の子孫の屋敷地をする「民部屋敷」(半町四方)では、土塁がわずかにに残存し、モチの木が植わっている。また、土塁には門があり、夜には跳ね橋を上げていたと伝える。ということはこの屋敷でも濠が土塁の外側を巡っていたことを物語る。「斎兵衛屋敷」(25m四方)は低地囲まれた一段高い地形あったことから、やはり濠を巡らしたいたことになる。
伝承と地形の名残から、濠をそれぞれ屋敷地が共有して連結式城館(150m×100m 15,000㎡)の可能性がある。
ダンダ坊600㎡、歓喜寺城3,800㎡、長法寺城1,2000㎡と比較しても、平地城館とはいえ規模の大きさ伺える。
お城の概要
北小松はもともと比良山麓と湖岸が交わる平地のないところであったが、そこへの流域の短い滝川が埋め残した内湖が良港を形成したに違ない。比良山麓の港では数少ない船留まりであったと思われる。
このような港を掌握によって富と権力を蓄えた地侍層として伊藤一族が知れる。 伊藤一族の城館は、現在の北小松の集落内に重なっており、「民部屋敷」「吉兵衛屋敷」「斎兵衛屋敷」の伝承が館の構造を伝えている。それぞれの屋敷は元来濠と土塁で囲郭されていいたらしく、北小松の駅前の志賀小松局から国道161号を超えた旧小松郵便局の前(北側)の道は、堀を埋めたものであり、その向かいの「吉兵衛屋敷」(30×50m)の道沿いには土塁が認められ、その上には欅が6~7本あったいう。
歴 史
「江州佐々木南北諸士帳」には、小松城主 小松内膳の名を記す。
「滋賀県遺跡目録」では、伊藤氏の城としている伊藤氏(佐々木流六角氏の被官)の居城とされいるが、詳細不明であるが、地元の伝承では、伊藤氏の居館とされ、民部屋敷、吉兵衛屋敷、斎兵衛屋敷などの地名が残る。
従って小松庄は佐々木氏の湖西における拠点であったと考えられる。
『浅井三代記』は、永正15年(1518)浅井亮政が赤尾駿河守に3,500余騎を与えて、8月15日に高島玄蕃の大溝城を攻略させ、さらに伊黒城、深溝城、小松城、真野城を降伏させて、8月26日小谷に帰陣させたと記すが、浅井氏が高島郡を征服したのは、朽木氏が浅井氏と和した永禄11年(1568)とすべきと指摘している。 浅井氏の高島郡支配時には、家臣の海津氏や林氏が城主であったが、その期間は織田信長が高島郡を攻略する天正年間初頭までの5~6年であった。
社家は伊藤氏。伊藤氏は佐々木流六角氏の被官であり、伝えによると寛喜2年(1230年)に神官になったという。また、祭祀は中世より、神官と宮座12座により執り行われている。
中世末織田信長による元亀の変等によって、祭礼や宮座十二座も大きく衰退したが、滅亡を免れ、母雲天正年間には再建され、これが近世小松庄鎮守社の神事運営の出発点となった。
樹下神社の北200mの竹藪は「屋敷跡」???伊藤一族の屋敷跡?
所在地:大津市志賀町北小松 (旧志賀郡志賀町北小松) map:http://yahoo.jp/KCbLHd
現 状:竹林
樹下神社からの遠景
樹下神社
鳥居の東は、すぐ琵琶湖
現 状:樹下神社(じゅげじんじゃ)
樹下神社
社家は伊藤氏。伊藤氏は佐々木流六角氏の被官であり、伝えによると寛喜2年(1230年)に神官になったという。また、祭祀は中世より、神官と宮座12座により執り行われている。
御由緒
創立年代は不詳であるが、佐々木兵庫佐成瀬が蒲生郡佐々木庄に移り近江を領した当時、岡島の渡合と称する処に妖怪が出没し旅人を害したので、成瀬はこれを憂い坂本村日吉十禅師を深く祈念してこの妖怪を退治した。
この縁由により天元五年当北小松に日吉十禅師を分祭したと伝えられる。
このように当社は近江国守護職佐々木氏と深い関係にあり、神社に伝わる宝物大般若経と十六善神画像は佐々木六角氏の寄進と伝えられ、また境内に佐々木氏の祈願寺があったとも伝えられる。
従って小松庄は佐々木氏の湖西における拠点であったと考えられる。
佐々木氏が当社に大きな影響を持っていたことは、社家である伊藤氏が佐々木六角氏の被官であり、また中世からの宮座十二座も六角氏と密接な関係があったことからも明白である。
小松村役場古社寺取調(明治28年)によると、寛喜二年に伊藤丹後守祐治が、伊豆国より近江国に移り、仁治二年小松庄を草創の時、不測の神感を蒙り日吉十禅師権現と天満宮の両社を最造す、とある。
中世末織田信長による元亀の変等によって、祭礼や宮座十二座も大きく衰退したが、滅亡を免れ、母雲天正年間には再建され、これが近世小松庄鎮守社の神事運営の出発点となった。明治三年十禅師社を樹下神社と改称、同九年村社に加列、同四十一年神饌幣帛料供進指定。尚境内には樹下神社古墳群がある。