城郭探訪

yamaziro

宮野城   近江国(高島)

2015年12月30日 | 平城

延暦寺山徒是祥坊の居城

お城のデータ

所在地:高島市宮野(旧:高島群高島町宮野) map:http://yahoo.jp/IaM_CU

区 分:平城

現 状:集落・宅地

築城期:室町期

築城者:是祥坊か

遺 構:堀址

目標地:白山神社

駐車場:白山神社前の空きスペース

訪城日:2015.12.23

お城の概要

 宮野集落の中心付近に、四周を水路に囲まれた方形(正確には南辺にさらに2つの折れをもつ不等辺五角形)の区画があります。ここが、宮野城址ではないかと推測されますが、『集成』でも正確な位置については不明としています。この区画の東側には寺ノ前の字名があり、是祥坊関連の地名と推測されています。周辺は宅地化されているので、そのほかに遺構らしきものはない。

歴 史

 『近江輿地志略』に、「往古是祥坊と称する山徒此地に住し、代々佐々木浅井に属し、後信長の為に亡さる」とある。

宮野城は、築城年代や築城者については定かではないが、延暦寺山徒是祥坊がこの地に居城し、高島氏・浅井氏に従っていたが後に織田信長によって滅ぼされた。

 『滋賀県中世城郭分布調査』では、かつては天台宗の寺院があり、山徒である是祥坊が関わった存在としている。比叡山と関連する人物とみているのだろうが、詳細は不明である。付近には比叡山延暦寺下司職であった林氏の打下城や伊黒城がある。

 

白山神社

白山神社境内の宮野会議所

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、

    本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


永田城  近江国(高島)

2015年12月30日 | 平城

新道から土塁

 長盛寺山門

お城のデータ

所在地:高島市(旧:高島群高島町字城出)永田883-1(字城出)  map:http://yahoo.jp/BV86_3

区 分:平城

現状:竹藪・宅地

築城期:室町期

築城者:永田胤信

城 主:永田刑部少輔賢家・永田左近大輔李家

遺 構:土塁、堀・廓

目標地:長盛寺

駐車城:長盛寺の隣の集落防災広場

訪城日:2015.12.23

長盛寺横の堀痕

お城の概要

 集落の北面に「てらかやぶ」とよばれる一郡の竹藪がある。ここが永田城跡とされており、宅地と田地に続いている。一帯には城出という地名が残っている。

なお、高島郡高島町永田は高島市永田になっています。 

上永田集落内の長盛寺周辺を字城出、その北側を「てらかやぶ」と呼ばれる一角あり竹藪に土塁が残っている。永田城はその一帯にあったものと考えられています。集落北側に新道が建設され、新道からも竹藪に土塁も確認てきる。長盛寺の南隣には水路が流れており、堀の跡と推測されます。

 永田は、東を南北に北国往還(西近江路)が走り、西に進めば朽木谷へと至る交通の要衝にあります。 

お城の歴史

『江州佐々木南北諸氏帳』には、「高島郡 永田城主 佐々木高島末 永田刑部少輔賢家・同 永田左近大輔李家」の名を記す。

『日本城郭体系 11』によりますと、創築者は「永田胤信」、

 城の歴史は「村落の北面に「てらかやぶ」とよばれる一郡の竹藪がある。ここが永田城跡とされており、宅地と田地に続いている。一帯には城出という地名が残っている。永田城は高島郷の地頭であった佐々木高島高信の次男胤信が移り住んだのに始まる。代々永田氏は高島七頭の一員として、ここを居城としていた。

『淡海温故録』によると、永田氏は、もとは高島氏の庶流であり、応仁・文明年間(1467~0487)の頃、東近江に勢力をもち六角家近習の旗頭を勤めたとされている。代々時の屋形(大名)に忠節であり、軍功もあったが、佐馬助秀宗の代に、浅井・朝倉軍の先鋒として坂本合戦に出陣し、織田信長軍に討たれて家は滅ぼされた。(後略)」とあります。

元亀元年(1570)、織田氏と浅井・朝倉両氏との間で起こった坂本合戦で、当時の永田城主永田左馬助秀宗は、浅井・朝倉連合軍の先鋒として出撃して討ち死にし、永田氏は滅んだとされる。その後の永田城については不明である。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、日本城郭大系、淡海温故録、高島七頭とその城郭 

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新庄城(大善寺遺構)   近江国(高島)

2015年12月29日 | 平城

磯野員昌が高島郡支配の拠点としたお城。

お城のデータ

別名 大善寺遺跡

所在地:高島市(旧:高島郡)新旭町新庄    map:http://yahoo.jp/z7uNc6

区 分:平城

比 高:-m 

現 状:工場・学校・宅地・畑地

遺 構:土塁、駒札=現地説明板

築城期;室町期

改築期:織豊期

築城者:新庄氏

改築者:磯野氏

城 主:浅見俊孝、多胡久秀・定信、磯野員昌、織田(津田)信澄

標地:大善寺・新旭南小学校

駐車場:路上駐車

訪問日:2015.12.23

お城の概要 

  新庄城の主郭は国道161号線の右手の綾羽工業の工場周辺と推定されます。主要部も国道161号線上、新旭南小学校一帯と考えられ、(発掘調査では土塁・石列・井戸が検出されたようです)小学校西側の集落にある大善寺境内から東側の水田を囲む様に土塁の遺構が残る。「大善寺の遺構」この遺構も新庄城の一部であると寺の山門前にある案内板に記載されていた。

磯野員昌が在城していた新庄城について、明治時代の新庄村の絵図には、大善寺の東・西・北の3方に土塁(土手)や堀の痕跡と考えられる「コの字」に囲む土地割が見られ、現在も土塁が残っています。この囲まれた空間が、新庄城の中心部と推定されています。 この方形の区画を中心として、「西手」「東町」の小字名が残るまでの間と、「二ノ丸」「三ノ丸」の地名が残るエリアが、新庄城の範囲とされています。 国道161号線バイパスに伴う「二ノ丸」「城ノ内」の発掘調査では、堀や土塁、石敷、井戸などが発見され、城下であった。

 また、大善寺の北側の東西に伸びる道沿いには、新庄城下の町場、東側の南北に伸びる道沿いには、武家屋敷があったことが想定され、員昌によって城下町整備計画がすすめられたと推測されています。大善寺周辺は重臣屋敷址ではないかと推測され、寺と隣の水田を囲むようにコの字状に土塁が巡ります。

歴 史 

 元々は清水山城の出城として築城されたようですが、築城時期などは定かではない。高島氏一族の新庄実秀が居城した。永正年間には浅見俊孝、永禄年間には多胡久秀・定信が城主であった。元亀四年(1573年)に織田信長は多胡宗右衛門に本知を安堵したとあるようです。 新庄城は、佐々木越中氏が城主であった清水山城の出城と伝えられ、戦国時代には浅見氏や多胡氏が城主であったと伝えられています。

新旭町新庄に所在する新庄城は、天正元(1573)年7月の織田信長の高島郡攻略後、磯野員昌が高島郡の支配の拠点とした城郭。

 員昌は浅井長政につかえ、六角氏に対して最前線となる佐和山城の城主でした。元亀元(1570)年6月の姉川の合戦では、浅井軍の先鋒として出陣し、織田軍の十三段の備えのうち、十一段まで撃破する猛攻は、「員昌の姉川十一段崩し」の逸話として残っています。

 姉川の合戦後、包囲された佐和山城に7か月間籠城しましたが、やむなく信長に降りました。員昌とろう城兵は、船で高島まで移送されました。信長は員昌に対し、高島郡内の支配を命じます。この時の拠点となった城が新庄城です。

 員昌は、善積荘(よしづみのしょう)と木津荘(こつしょう)の境界争いの裁定など、郡内の民政にあたるほか、元亀元年5月に千草越を通過していた信長を鉄砲で狙撃し、逃亡していた杉谷善住坊を、天正元年9月に高島郡堀川村の阿弥陀寺で捕らえ、岐阜に送っています。びわ湖の源流.comより(杉谷善住坊が、天正元年9月に高島郡堀川村の阿弥陀寺で捕らえた。)

天正年間の初め頃に、信長の甥の織田(津田)信澄を養子にし、天正4(1576)年には「今津より北」を員昌が、「今津より南」は、信澄が統治したとされています。しかし、磯野員昌は天正6(1578)年2月、信長の怒りを買ったため、高野山に入りました。

 信長は、信澄に高島郡の一郡支配を命じ、高島郡支配の拠点も新庄城から大溝城に移ります。大溝城下町の建設にあたり、新庄城下から町場の移転も行われました。

 織田信澄は、大溝城を新たに築いて移り、新庄城は廃城となった。

『滋賀県百科事典』によりますと、

大善寺の概要は「高島郡新旭町大字新庄字東町にあり、放光山大善寺と称し、天台真盛宗。本尊大日如来(木造坐像)は伝教大師作とつたえられ、重要文化財(藤原期)に指定されている。べつに伝恵心作観音立像があり、この像は口碑に旧弥勒寺の本尊であったが、堂塔が破壊し、安曇川の洪水のときひろいあげて大善寺におさめたという。

 (中略)大善寺の創立は延暦年間(782~806)で、最初熊野山の堂立山にあったのを寛平年間(889~98)に東河原村(現、大字新庄)の現在地にうつった。延暦寺の飛地境内の一区で当時は七堂伽藍がそなわっていたが、

 1571年(元亀2)織田信長に焼打ちされ衰退した。1578年(天正6)織田信澄が新庄城から大溝城へうつったとき、大溝城下に大善寺の別院を建立した。1582年(天正10)6月丹羽長秀は新庄、万木、三重生に26石余を寄進した。延宝年間(1673~81)火災にかかり諸堂什器はすべて焼失した。本尊はさいわい難をのがれた。(河原喜久男)」とあります。なお、高島郡新旭町大字新庄字東町は現在高島市新旭町新庄になっています。

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査報告、淡海の城、びわ湖の源流.com

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小松城(伊藤氏城・北小松城)      近江国(志賀・北小松)

2015年12月26日 | 平城

 

お城のデータ

在地:大津市(旧志賀郡)志賀町北小松) 旧小松郵便局map:http://yahoo.jp/r--5Pl

    吉兵衛屋敷 :大津市(旧志賀郡)志賀町北小松 徳善寺の西(個人宅)http://yahoo.jp/pnu0xU

別 称:伊藤氏城・北小松城

区 分:平城

現 状:宅地・旧郵便局

築城期:室町期

築城者:伊藤氏

城 主:小松内膳(江州佐々木南北諸士帳)、伊藤氏

遺 構:屋敷跡

目標地:志賀小松局、JR北小松駅

訪城日:2015.11.7・2015.12.23

資料文献

名古屋女子大学 丸山竜平教授は、

  滋賀県中世城郭分布調査委員会の委員(滋賀県教育委員会事務局 文化部 文化財保護課考古員)

KJ00000179240.pdf - 名古屋女子大学リポジトリ の10ページです

名古屋女子大学 丸山竜平教授

  信長の近江侵攻以前に属するところの佐々木六角氏や京極氏、 あるいは浅井氏 の頃に. 築かれた中世戦国期の山城から柴田 ..... 小松城の背後は、 比良の山麓が真 近に迫り、 落下距離がおよそー42mにもぉよぶ楊梅滝を生み出すほどの難所である。

g.小松城(伊藤氏城)ー平地城館と詰め城ー

北小松はもともと比良山麓と湖岸が交わる平地のないところであったが、そこへの流域の短い滝川が埋め残した内湖が良港を形成したに違ない。比良山麓の港では数少ない船留まりであったと思われる。

 このような港を掌握によって富と権力を蓄えた地侍層として伊藤一族が知れる。                                             伊藤一族の城館は、現在の北小松の集落内に重なっており、「民部屋敷」「吉兵衛屋敷」「斎兵衛屋敷」の伝承が館の構造を伝えている。それぞれの屋敷は元来濠と土塁で囲郭されていいたらしく、小松郵便局前(東側)の道は、堀を埋めたものであり、その向かいの「吉兵衛屋敷」(30×50m)の道沿いには土塁が認められ、その上には欅が6~7本あったいう。

 現在も伊藤氏の子孫の屋敷地をする「民部屋敷」(半町四方)では、土塁がわずかにに残存し、モチの木が植わっている。また、土塁には門があり、夜には跳ね橋を上げていたと伝える。ということはこの屋敷でも濠が土塁の外側を巡っていたことを物語る。「斎兵衛屋敷」(25m四方)は低地囲まれた一段高い地形あったことから、やはり濠を巡らしたいたことになる。

伝承と地形の名残から、濠をそれぞれ屋敷地が共有して連結式城館(150m×100m 15,000㎡)の可能性がある。

ダンダ坊600㎡、歓喜寺城3,800㎡、長法寺城1,2000㎡と比較しても、平地城館とはいえ規模の大きさ伺える。

お城の概要

北小松はもともと比良山麓と湖岸が交わる平地のないところであったが、そこへの流域の短い滝川が埋め残した内湖が良港を形成したに違ない。比良山麓の港では数少ない船留まりであったと思われる。

 このような港を掌握によって富と権力を蓄えた地侍層として伊藤一族が知れる。                                             伊藤一族の城館は、現在の北小松の集落内に重なっており、「民部屋敷」「吉兵衛屋敷」「斎兵衛屋敷」の伝承が館の構造を伝えている。それぞれの屋敷は元来濠と土塁で囲郭されていいたらしく、北小松の駅前の志賀小松局から国道161号を超えた旧小松郵便局の前(北側)の道は、堀を埋めたものであり、その向かいの「吉兵衛屋敷」(30×50m)の道沿いには土塁が認められ、その上には欅が6~7本あったいう。

歴 史

「江州佐々木南北諸士帳」には、小松城主 小松内膳の名を記す。

「滋賀県遺跡目録」では、伊藤氏の城としている伊藤氏(佐々木流六角氏の被官)の居城とされいるが、詳細不明であるが、地元の伝承では、伊藤氏の居館とされ、民部屋敷、吉兵衛屋敷、斎兵衛屋敷などの地名が残る。

従って小松庄は佐々木氏の湖西における拠点であったと考えられる。

『浅井三代記』は、永正15年(1518)浅井亮政が赤尾駿河守に3,500余騎を与えて、8月15日に高島玄蕃の大溝城を攻略させ、さらに伊黒城、深溝城、小松城、真野城を降伏させて、8月26日小谷に帰陣させたと記すが、浅井氏が高島郡を征服したのは、朽木氏が浅井氏と和した永禄11年(1568)とすべきと指摘している。 浅井氏の高島郡支配時には、家臣の海津氏や林氏が城主であったが、その期間は織田信長が高島郡を攻略する天正年間初頭までの5~6年であった。


  • 下神社

社家は伊藤氏。伊藤氏は佐々木流六角氏の被官であり、伝えによると寛喜2年(1230年)に神官になったという。また、祭祀は中世より、神官と宮座12座により執り行われている。 

中世末織田信長による元亀の変等によって、祭礼や宮座十二座も大きく衰退したが、滅亡を免れ、母雲天正年間には再建され、これが近世小松庄鎮守社の神事運営の出発点となった。

 樹下神社の北200mの竹藪は「屋敷跡」???伊藤一族の屋敷跡?

在地:大津市志賀町北小松 (旧志賀郡志賀町北小松) map:http://yahoo.jp/KCbLHd

現 状:竹林

樹下神社からの遠景 

 樹下神社 

鳥居の東は、すぐ琵琶湖

 

http://yahoo.jp/Khm59Q

現 状:樹下神社(じゅげじんじゃ) 

樹下神社 

社家は伊藤氏。伊藤氏は佐々木流六角氏の被官であり、伝えによると寛喜2年(1230年)に神官になったという。また、祭祀は中世より、神官と宮座12座により執り行われている。

 

 

御由緒
創立年代は不詳であるが、佐々木兵庫佐成瀬が蒲生郡佐々木庄に移り近江を領した当時、岡島の渡合と称する処に妖怪が出没し旅人を害したので、成瀬はこれを憂い坂本村日吉十禅師を深く祈念してこの妖怪を退治した。
この縁由により天元五年当北小松に日吉十禅師を分祭したと伝えられる。
 
 このように当社は近江国守護職佐々木氏と深い関係にあり、神社に伝わる宝物大般若経と十六善神画像は佐々木六角氏の寄進と伝えられ、また境内に佐々木氏の祈願寺があったとも伝えられる。
従って小松庄は佐々木氏の湖西における拠点であったと考えられる。
 
佐々木氏が当社に大きな影響を持っていたことは、社家である伊藤氏が佐々木六角氏の被官であり、また中世からの宮座十二座も六角氏と密接な関係があったことからも明白である。
 
小松村役場古社寺取調(明治28年)によると、寛喜二年に伊藤丹後守祐治が、伊豆国より近江国に移り、仁治二年小松庄を草創の時、不測の神感を蒙り日吉十禅師権現と天満宮の両社を最造す、とある。
 
 
 
 中世末織田信長による元亀の変等によって、祭礼や宮座十二座も大きく衰退したが、滅亡を免れ、母雲天正年間には再建され、これが近世小松庄鎮守社の神事運営の出発点となった。明治三年十禅師社を樹下神社と改称、同九年村社に加列、同四十一年神饌幣帛料供進指定。尚境内には樹下神社古墳群がある。
 
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、名古屋女子大学 丸山竜平教授は、KJ00000179240.pdf - 名古屋女子大学リポジトリ の10頁 丸山竜平氏は滋賀県中世城郭分布調査委員会の事務局(滋賀県教育委員会事務局 文化財保護課考古員)

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比良城 近江国(大津)

2015年12月26日 | 平城

比良城跡(樹下神社の南に)藩主:明智一族の比良太郎兵衛の石塔ある。

比良太郎兵衛は、松江藩士の中に本国・生国共に近江という比良太郎兵衛なる人物がいたが、これは霜の兄弟である比良内蔵助の子、比良太郎兵衛と同一人物であろうか。検索すると、比良太郎兵衛は堀秀重の女婿であり、「堀家大系図」には実名だか号だか分からないが「玄賀」とある。霜の父は真賀法印という人物のようなので、つながりが感じられる。

DSCF4590坂本の西教寺にも、出雲国松平出羽府中 比良太郎兵衛の墓

お城のデータ

在地:大津市北比良町 (旧志賀郡志賀北南比良町) map:http://yahoo.jp/k2uO6z

区 分:平城

現 状:宅地・社地

築城期:室町期

築城者:

城 主:比良太郎兵衛

遺 構:神社土塁

目標地:樹下神社・天満宮・湖西自動車

駐車場:樹下神社前の駐車スペース

訪城日:2015.12.23

お城の概要

 志賀町大字北比良小字森前に位置した。地籍図によると湖西路を南北に走る西北国海(街)道は、この地区から琵琶湖へ折れ曲がっている。樹下神社・天満天神社が隣接している。集落の古老にも、この場所に城があったと伝承されているが、それ以前のことは不明である。

 樹下神社は、神社土塁で囲われ、」周辺は圃場整備や国道161号線等大きく改変されているが、樹下神社・天満神社の社の背後は自然のまま、鎮守の森に土塁・石垣・虎口に似た構造をしている部分が残存しています。 現在この場所は自動車整備会社の一角に墓碑がある。一部北国街道、国道161号線は城址の上を通すルートとなり情景が変化してしまった。

歴 史

 旧志賀町域には、北小松・南比良・木戸の3ケ所に樹下神社があり、樹下神社は日吉大社山王二十一社の上七社のひとつで、祭神として玉依姫命がお祀りされています。このうち南比良の樹下神社の境内には天満神社が並立し、同じ境内内でまったく別の神社として社殿や鳥居もすべて2つ存在しています。

 これは南北朝期に比良庄にあった比良村が分村し、元和8年(1622)には南比良村と北比良村の別々の村となり、明治5年(1872)に樹下神社を南比良村の、天満神社を北比良村の氏神と定めて境内を両分されたことによります。

 境内の一角には、樹下神社や天満神社が祀られる以前の、土着の神として祀られていた比良神社のお堂や、南北朝期から室町時代初期の作とされる宝塔も残されています。 

 文献資料にも、この城に関する記載は無く

「北比良村誌」によると「・・略・・元亀二辛末年九月織田信長公延暦寺ヲ焼減ノ攀本村ノ山上山下ニ之アル全寺ノ別院ヨり兵火蔓延セテ・・略・・」とあり、この時期やはり他の城郭と同様壊減ものと思われる。また、隣接する樹下神社も同時に兵火にかかったと伝わる。

元亀2年9月織田信長比叡山焼き討ちに関連して、同月ここも信長の手にかかり、天正12年から丹羽長秀がおさめることなったと伝える。其の後明智光秀の所領に。

両本殿の背後にある花崗岩製の宝塔。

南北朝から室町初期の作。円仁の徒である湛慶が修法をおこなった折に、慣れ来ていた白鹿の墓であると伝える。 他に、銘文入りの燈籠も見かける。

 

天満神社

琵琶湖岸の天満神社の鳥居

 

御霊社『天満宮』
この社には幾つかの説があります。
・菅原道真公の御霊社
道真公は仏生寺野北のヤブの近くに住んでいたとも言われ、その死後一族が御霊社として祀った。無実の罪で太宰府へ左遷された道真公は、それでも天皇への敬愛と京への強い想いを抱きながら失意と困窮の中、死去しました。
その死後、道真公の霊が怨霊となり、その一つが比良の地まで飛来し、それを祀ったのがこの社であると言われています。
・堪慶阿じゃりの御霊
比良には、古来より比良の神が存在し、天智天皇(668~671)時代には、比良の神を守護する寺として景勝、妙法、仏性の三箇精舎が創設されました。
これらの比良の山寺を舞台に活躍した慈覚大師の弟子堪慶阿じゃりの御霊を比良に祀った。これが南は景勝寺勝野の還来神、北は仏生寺の御霊神と言われています。弘安3年(1280)に作られた比良荘絵図に描かれている
御霊神は現在の今在家辺りと見られるが,尺度の精度も不明であり、また久安4年(1148)、御霊社は比良郷柊原に戻されたとの記述もあり、正確な位置は不明です。北比良の船橋家には御霊社の掛け軸が残されており、毎年天満宮の例大祭の日には掛け軸が出されます。当日の朝には当主が神供物を供え、紋付に紙草履で御霊社へ参拝するが、その場所は秘密にされています。御霊社への参拝が済んだ後、宮司以下祭りに関係するモノはすべて船橋家で御神酒を頂いて御輿渡御が行われます。

 

琵琶湖岸の天満神社のお旅所

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査報告9(旧滋賀郡の城)、北比良村誌、淡海の城、

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北比良城(田中氏城) 近江国(大津)

2015年12月26日 | 平城

 

 

お城のデータ

所在地:大津市北比良(旧滋賀郡志賀町北比良) map:http://yahoo.jp/e6-P_S

別 称:田中氏城

区 分:平城

現 状:寺院(福田寺)

築城期:室町期

築城者:田中氏

初城主:田中左衛門尉

遺 構:城跡碑・石垣(明治期の修築時)

目標地:福田寺

訪城日:2015.12.23

石垣【明治】の文字が!

お城の概要

比良城は、北比良集落のほぼ中央で、現在の福田寺の境内一帯とされる。現在は琵琶湖から少し離れているが、かつては湖岸線が入りこんでいたようだ。の境内には北比良城の石碑が建てられている。

 山門前面の石積みは横目地が通った積み方で、年代を感じさせるが、近世「明治元年」のと刻印された石垣の石あり修築のもの。

お寺の方の話では、「先代住職が他界され詳しいことはわからないが、佐々木源氏の出で、出家し仏門に入ったと聞いています」と

、また部屋には立派な槍が二振あり、昔は音のお殿様が乗られるような駕籠も残っていたようです。

福田寺の北側石積み柵

 庭園

歴 史

現在は浄土真宗本願寺派に属する福田寺だが、多例のようにここも天台宗あったものを改宗したものである。

 『由緒書』によると、この地は元亀の頃まで比叡山の一派田中坊・西道坊・禅可坊等が各々領していたものを、元亀2年9月織田信長比叡山焼き討ちに関連して、同月ここも信長の手にかかり、天正12年から丹羽長秀がおさめることなったと伝える。

 福田寺は、檀佗(檀多・檀他・旦多)坊の里防と言われている。「平時の城(居館)」と「有事の城」は、古老の聞き取りで調査をしたが発見出来なかった。が

「由緒書」よると「本村ノ北側檀佗山の東ノ半腹にニアリ稍平担ノ地アリ、古事延暦寺ノ一派檀他坊ノ廃跡ト云」とある。 

大津市北比良の北比良城は、天正10年(1582)田中左衛門尉定光が在城したが、織田信長を裏切ったため、落城した。

 『当代記』には、木戸城(志賀町) 

  元亀3年3月11日条 「十一日、滋賀郡へ出給、木戸・田中(北比良城=田中左衛門尉定光の城=現福田寺)両城取出を被取、明智十兵衛光秀、中川八郎右衛門、丹羽五郎左衛門被置」

 元亀4年7月26日条 「江州田中(北比良城=田中左衛門尉定光の城=現福田寺)・木戸両城被取懸所」と記す。

『近江輿地志略』の木戸村の「木戸古城跡」荒川木戸村の間、西の山にあり。今其名を城の尾(木戸山城)といふ。里民傳云。十乗坊といふ者在城すと。木戸十乗坊が事は『武家中興盛衰記補』のもあり。或云ふ木戸越前守在城せしと。信長と朝倉戦争の時は、朝倉方田子左近兵衛氏久といふ者居住す。」と記す。

信長公記 巻五 元亀三年   建設と政略と  むしやの小路御普請の事

 信長公は木戸・田中(北比良城=田中左衛門尉定光の城=現福田寺)の攻囲を明智ら三将にまかせ、みずからは3月12日京へのぼった。宿は二条妙覚寺に定めた。-----

信長公記 巻六 元亀四年   湖上疾る  大船にて高嶋御働き、木戸・田中両城攻めらるる事

 7月26日、信長公は京を出て坂本へ下り、そこから件の大船に乗って江州高島郡へ出陣した。そして陸の味方と協同しつつ、敵勢の籠る木戸・田中(北比良城=田中左衛門尉定光の城=現福田寺)の両城へ押し寄せた。信長公は直属の馬廻をもって攻撃にあたらせ、両城に猛攻を加えた。そのため城兵はほどなくして降伏し、城を退いた。落城後、信長公は両城を明智光秀に与え、みずからは高島郡内にある浅井久政・長政父子直轄の知行所へ馬を進めた。そして林与次左衛門方に陣を取り、ここから知行所内へ兵を放って諸所をことごとく放火した。


福田寺駐車場

隣の西福寺

湖岸の天満宮の鳥居

御霊社『天満宮』
この社には幾つかの説があります。
・菅原道真公の御霊社
道真公は仏生寺野北のヤブの近くに住んでいたとも言われ、その死後一族が御霊社として祀った。無実の罪で太宰府へ左遷された道真公は、それでも天皇への敬愛と京への強い想いを抱きながら失意と困窮の中、死去しました。
その死後、道真公の霊が怨霊となり、その一つが比良の地まで飛来し、それを祀ったのがこの社であると言われています。
・堪慶阿じゃりの御霊
比良には、古来より比良の神が存在し、天智天皇(668~671)時代には、比良の神を守護する寺として景勝、妙法、仏性の三箇精舎が創設されました。
これらの比良の山寺を舞台に活躍した慈覚大師の弟子堪慶阿じゃりの御霊を比良に祀った。これが南は景勝寺勝野の還来神、北は仏生寺の御霊神と言われています。弘安3年(1280)に作られた比良荘絵図に描かれている
御霊神は現在の今在家辺りと見られるが,尺度の精度も不明であり、また久安4年(1148)、御霊社は比良郷柊原に戻されたとの記述もあり、正確な位置は不明です。北比良の船橋家には御霊社の掛け軸が残されており、毎年天満宮の例大祭の日には掛け軸が出されます。当日の朝には当主が神供物を供え、紋付に紙草履で御霊社へ参拝するが、その場所は秘密にされています。御霊社への参拝が済んだ後、宮司以下祭りに関係するモノはすべて船橋家で御神酒を頂いて御輿渡御が行われます。

『比良の歴史』より

 

1280年の「比良荘絵図」(北比良区蔵)

比良とは滋賀県大津市、JR蓬莱駅近くの天川から以北、高島市鵜川近辺までの比良山麗一帯を指す古い呼称をいう。

 古代海族とされる比良一族の居住地としてひらかれ、平安時代に隆盛となり、比良三千坊と称する寺院群があったという。古来、比良の湊がおかれ、北陸地方との交易を中心に水運にも従事。中世には比良八庄とよばれ、小松荘と木戸荘がその中心であった。1280年の「比良荘絵図」(※上記、画像:北比良区蔵)は有名である。この地を南北に西近江路が開通、1926年に江若鉄道が開通したが、現在では湖西道路、国道161号、JR湖西線にかわっている。

 

1376年 比良庄絵図(部分)

 

地名は古語およびアイヌ語で急傾斜の地の意味で、比良の断層崖よりおしだされる砂礫からなる扇状地性の急勾配の土地に由来する説がある。またこの地は、比較的水田に恵まれず、水利の便もあまり良くなかったので、田地をめぐる争いや水論がしばしば発生した。幕末期1734年の木戸村と荒川村の間に生じた大谷川の分水をめぐる紛争や、1810年には大物村と南比良村での四ツ子川筋の分水に関する争論などである

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査報告 9 滋賀郡の城、淡海の城、城・湖国百選

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大溝城発掘調査現地説明会 近江国(高島)

2015年12月25日 | 平城

大溝城に船着き場か 琵琶湖から本丸へ、石垣に階段

大溝城 二の丸は『高島市民病院』

出土品

大溝城三の丸『介護老人保険施設 陽光の里』

見つかった大溝城本丸北端の石垣。調査員の立っている石からクランク状に屈曲している。棒で指している辺りに階段状の施設があり、船着き場の可能性があるという。奥の石垣は天守台(高島市勝野)

 織田信長のおい信澄(のぶすみ)が1578(天正6)年に築城した滋賀県高島市勝野の大溝城遺跡で19日、本丸築城時の北と西の石垣が見つかり、東西規模が58メートルと分かったと市教育委員会が発表した。石垣には階段状の施設が付随し、琵琶湖内湖から直接本丸に上がれる船着き場の可能性があるという。

 11月中旬から、現在も残る天守台の北側と西側を幅3メートルの帯状に調査した。

 石垣は現在残る天守台から34メートル西と23メートル北で見つけた。過去の調査で本丸東端の石垣が見つかっていたが、本丸の他の外郭ラインにも残っていたことで、地下に良好な遺構が残っていることが分かったという。石垣は崩され堀に落ち込み、埋めた土に天正期の瓦が多いことや自然石を積む工法から、築城当初と判断した。中井均・滋賀県立大教授(城郭史)は「配下の工人が動員されるなど、信長の強い関与があったと考えられる」と指摘する。

 船着き場とみられる施設は北側調査区で見つかり、面を加工した石が整然とクランク状に屈曲し、一部が階段状に積まれていた。

 城郭に詳しい木戸雅寿滋賀県教委文化財保護課参事は「天守につながる本丸に直接上がれることから、城主の出入りが想定できる。琵琶湖の移動を強く意識した構造であることが鮮明になった」と話す。

 大溝城を描いた江戸時代の絵図には、方形の本丸を取り巻く堀が描かれており、石垣は絵図の通り見つかったが、船着き場は描かれておらず、中井教授は「階段かどうかも含め慎重な検討が必要」としている。

 現地説明会は23日午前10時半から。問い合わせは市教委TEL0740(32)4467。

<大溝城> 1578(天正6)年造営。明智光秀の設計と伝えられる。琵琶湖内湖の乙女ケ池を堀に活用した水城とされ、同様の水城の安土、長浜、坂本の計4城が等間隔に並ぶことから、織田信長が琵琶湖掌握のため、組織的に配置したことが指摘されている。城主の信澄は光秀の娘婿で、本能寺の変後に織田勢に攻められ大坂で自害した。

京都新聞【 2015年12月19日 23時26分 】

高島市の大溝城遺跡から本丸石垣新たに検出

 滋賀報知新聞■平成27年12月20日(日) 第17377号

=琵琶湖と内湖利用の水城の様子確認=

本丸西端石垣検出状況(※点線は石垣外郭のライン)

◇高島
 高島市教育委員会は十七日、織田信長の甥(おい)である織田信澄によって天正六(一五七八)年に築かれた大溝城遺跡(同市勝野)の本丸石垣を新たに検出したと発表した。
 城の設計は、明智光秀と伝えられ、現在も天守台の石垣が乙女ヶ池に隣接して残っていることから、琵琶湖と内湖を巧みに利用した水城であったことがわかるとしている。
 天下統一を目指した織田信長による琵琶湖掌握の一端を担った拠点の城といえる。
 同市教委では、国の重要文化的景観「大溝の水辺景観」の主要な構成要素である大溝城遺跡の全貌を明らかにしていく目的で、十一月から本丸跡の確認調査を実施してきた。
 調査の結果、築城当初の本丸石垣や堀跡が二か所で検出され、詳細が不明であった本丸規模や石垣の残存状況、現在の変遷過程が判明した。 


伊黒城 近江国(高島)

2015年12月25日 | 平城

お城のデータ

所在地:高島市(旧高嶋郡)高島町伊黒 map: http://yahoo.jp/TDFlWD

区 分:平山城

現 状:小学校跡http://yahoo.jp/TDFlWD

   ・日吉神社http://yahoo.jp/Lmk24b

築城期:室町期

築城者:浅賀氏か

遺 構:削平地、土塁、石垣

目標値:伊黒会議所・日吉神社

駐車場:伊黒会議所

訪城日:2015.12.23

お城の概要

伊黒城は、鴨川の谷戸に突き出した舌状台地を利用した城です。伊黒は高島と朽木、ひいては京を結ぶルートを押さえる要衝の位置にあります。伊黒の集落のある台地は、三方を崖と鴨川の支流に囲まれた天然の要害地形を成しており、台地全体が城域とみられています。ただ、その範囲や遺構については不明瞭な点が多く、いまだに謎を秘めた城といえます。というのも、現状からなかなか城としての伊黒城の姿が想像しにくいためと思われます。長らく比叡山の影響下にあったということからも、伊黒城は集落をそのまま城塞化したものと考えられています。

 わずかにたどれる城の痕跡としては、まず台地の東端近く、小学校があったとされる跡地のあたりを字城垣内(じょうがいと)と呼び、居館跡といわれています。集落内でも比較的広い削平地なのですが、これが学校の造成によるものなのか遺構なのかは判別不能です。           『集成』では、集落背後の一段高い台地を詰城的な曲輪跡と推測しています。こちらも見通しの利く平坦地形ですが、さらに、『集成』では川を挟んだ西側にある日吉神社境内にも曲輪が置かれていたと考えています。日吉神社には本殿を囲むように、土塁あるいは櫓台状の土盛りがあります。これが城の遺構とすると、伊黒城でもっとも良好な遺構ということになると思われます。

お城の歴史

『高島町史』の「伊黒村篠目帳」に、応永二十六年(1419)、延暦寺が伊黒村一帯を支配する浅賀左近尉を滅ぼしたとある。このことから、『中世城館調査報告書集成』では、伊黒城は浅賀氏(あるいは浅賀氏以前の在地領主)によって築かれたと推測している。

伊黒にある日吉神社は、明応年間(1492~1501)に延暦寺下司職林右京亮によって創建されたと伝わる。

高島郡誌には、「或は言う 伊黒城は打下城林与次左衛門が出城なり」とあり、右京亮は与次左衛門の一族と推測される。

このことから、『日本城郭大系』では右京亮が打下城の支城として伊黒城を築いたのがはじまりとしている。

永禄年間(1557~69)ごろから、「法泉坊」なる山徒が城主として現れる。法泉坊は、比叡山の元衆徒で、姓名を新庄俊長といったとされる。『郡誌』には「吉武法泉坊」ともある。同じ比叡山門徒による城主の交代があったことになるが、その経緯は不明である。        

『浅井三代記』は、永正15年(1518)浅井亮政が赤尾駿河守に3,500余騎を与えて、8月15日に高島玄蕃の大溝城を攻略させ、さらに伊黒城、深溝城、小松城、真野城を降伏させて、8月26日小谷に帰陣させたと記すが、浅井氏が高島郡を征服したのは、朽木氏が浅井氏と和した永禄11年(1568)とすべきと指摘している。 浅井氏の高島郡支配時には、家臣の海津氏や林氏が城主であったが、その期間は織田信長が高島郡を攻略する天正年間初頭までの5~6年であった。

法泉坊は浅井氏に属していたが、天正元年(1573)に織田信長の攻勢に屈して降伏した。しかし、同年中に浅井長政の攻撃を受けて攻め滅ぼされた。その後の伊黒城については不明である。

正念寺

日吉神社

伊黒会議所に駐車

小学校跡

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査8 高島郡の城、『日本城郭大系』11『近江国輿地志略』、遺跡ウォーカー、浅井三代記

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横山城 近江国(高島)

2015年12月25日 | 平城

お城のデータ

所在地 : 高島町武曽横山 map:http://yahoo.jp/lsh1dH

区 分:平城

城城期:室町期

築城者:横山氏

遺  構:山麓の平削地・屋敷跡か?

訪城日:2015.12.23

お城の概要

横山城は、八田川が山地から平野部へ東流する谷口の南岸に位置し、北西面を山地と八田川、南西面を山地、東面の谷口を段差により囲まれる要害地形を呈している。
横山集落中心部の小字御新造、その孫字「丸の内」にあり、面積は約五千坪であったとされ、御新造の周りには上・下的場や九文目、御馬場、東畑といった、城郭関連とみられる字名も残っている。
しかし、現在は周辺の条里制と異なる地割に痕跡が残るのみで、城郭遺構は。
なお、横山城背後の山地の南側山裾に横山氏の支城とされる武曽城あり、支配領地の広がりが感じられる。 

 

歴 史

佐々木氏庶流で高島七頭の一人で武曽横山を所領とした横山氏代々の居城とされる。
横山氏は、近江守護・佐々木信綱の二男・高信が高島郡に移り高島氏を称え、その孫・頼信が横山に移り住み横山氏を称えたことにはじまるとされる。横山下野守高長のとき、浅井長政に攻められ浅井氏の軍門に降った。そして、元亀3年(1572)には織田信長に攻められ降伏している。その後の横山氏については不明である。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査8 高島郡の城、『日本城郭大系』11『近江国輿地志略』、遺跡ウォーカー、淡海の城、 

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千町城  近江国(大津)

2015年12月25日 | 丘陵城

お城のデータ

所在地:大津市石山千町 map:http://yahoo.jp/uElcj0

区 分:丘陵城

現 状:山林(大平山トンネルの上)

遺 構:土塁、平担な突起部、櫓台

築城期:織豊期

築城者:

城 主:

標 高:170m  上水道施設管理道路より比高差:40m

目標地:北千町バス停

駐車場:路上駐車

訪城日:2015.12.23

お城の概要

城跡は、大平山団地の南、石山寺辺町と千町四丁目にまたがる東西に細長い丘陵上にある。高速道路の石山トンネルの上に位置し、大津市企業局の上水タンクの管理道路を利用して、城址直下に車で横付けできる。

高さ0.5~1.0m、幅1.2mの土塁のような土盛りが、東西に長く続いている。また、土塁の東端よりには、平担な突起部が南に向かって認められ、櫓跡か。

 城跡の南側には、石山から京都の笠取・醍醐へ抜ける岩間越えの道が通り、北側は、同じく石山から京都の陀羅谷に抜ける道あり近江国と山城国をつなぐ二本の間道をおさえる位置にある。

大津市の南部、石山と南郷に挟まれた地域。瀬田川に面した地域で町内の中心を東西に流れる千丈川は、古くから蛍の名所で小林一茶が「和睦せよ 石山蛍 瀬田蛍」と詠んだように、昔は多数のホタルが団子状になってぶつかり合う「ホタル合戦」がよく見られたという。

 遠方の鉄塔の右の頂部

歴 史

天正年間(1573~1597)に織田信長の家臣だった小野将監義政が、神崎郡伊庭村(現・東近江市能登川伊庭町)から移住し一千町の新田を開いたのが、地名の由来とされる。

他にも、源平争乱の戦場になったことが、由来との伝承もある。赤川という地名が残っており、戦乱で川が赤く染まったから、との伝承もある。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、おおつの城、大津かんきょう宝箱

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石山砦 近江国(大津)

2015年12月25日 | 

公園化され、瀬田城・瀬田川と膳所城・粟津・石山への見張り。羅漢山の中腹に未完成の砦(詰め城)が残る。

お城のデータ

所在地:大津市石山寺1丁目 map:http://yahoo.jp/MGiwvy

区 分:砦(羅漢山の中腹に未完成の砦(詰め城)が残る。)

現 状:公園・森林

遺 構:築城途中の土塁・平削地・竪堀

築城期:織豊期

築城者:山岡景友(山岡光浄院)

城 主:山岡景友(山岡光浄院)

標 高:190m  100m

目標地:羅漢山公園

駐車場:羅漢山公園駐車場

訪城日:2015.12.24

お城の概要

石山寺の背後の羅漢山頂の北側に羅漢山公園がある。羅漢山から尾根続の北頂部は歩道・階段・公園化され平削地(頂部遺構)は破壊さているが、歩道(ハイキングコース)添いには、曲郭跡や土塁が残る。頂部の平削された公園部から、更に北へ下りる平削地・竪堀・堀切の一部が残る。破壊されたか、普請途中の遺構明確に確認できる。

頂部の平削地(公園)

北東へ下りる

歴 史

『信長公記』巻六 元亀四年

異見十七ヶ条 公方様御謀叛 

 公方様は和談の交渉に対するに、兵をもって報いた。近江堅田の山岡光浄院景友・磯貝新右衛門と渡辺党へ内々に命を下し、かれらに兵を挙げさせたのである。かれらは今堅田に人数を入れ、一向一揆と結んで石山に足懸かりの砦を築いた。これに対し、信長公はすぐさま柴田勝家・明智光秀・丹羽長秀・蜂屋頼隆の四人を鎮圧に向かわせた。 

石山・今堅田攻められ候事の条

 軍勢は2月20日に出立し、24日には瀬田を渡って石山の砦へ取りかかった。砦には山岡光浄院が伊賀・甲賀の衆を率いて在城していたが、砦が普請半ばで守りがたく、26日には降伏して石山を退散した。砦は即刻破却された。 今堅田の攻略は29日朝から開始された。東の湖上からは明智光秀が軍船をそろえて城西方へ攻め寄せ、陸からは丹羽長秀・蜂屋頼隆の両名が城南を攻め立てた。そして午刻頃に明智勢が攻め口を破って城内へ押し入り、敵兵数多を斬り捨てて砦は落ちた。これによって志賀郡の過半は相鎮まり、明智光秀が坂本に入城した。柴田・蜂屋・丹羽の三将は岐阜へ帰陣した。

山岡景友 天文9年(1540年)、守護六角氏家臣の山岡景之の四男として生まれる。はじめは領内にあった三井寺光浄院の住持となり、暹慶(せんけい)と号した。義昭の命で還俗し山岡景友と名乗り、幕府より山城半国の守護に任じられた(翌年には義昭と織田信長の関係が決裂した)。

 

 信長包囲網が敷かれ信長と義昭の戦いが始まると、他の兄弟が織田氏方に付くなか、景友は義昭に従い近江・石山城に立て籠もって抗戦した。しかし、元亀4年(1573)2月26日に織田家臣の柴田勝家に攻められ、織田方に付いた兄・景隆の説得を受けて降伏・開城した。織田家へ仕官後は兄らとともに佐久間信盛の与力となったが、佐久間信盛追放後に高野山へ信盛を訪ねている。

 

1572年(元亀3年)信長は足利義昭に十七条の意見書を送りつけます。その内容については激しく義昭を叱責するものでした。今までは表面的には友好関係を保っていた二人でしたが、ここで対立は決定的となります。しかし、この時期信長は浅井・朝倉・武田・松永などの包囲網に苦しんでおり、窮地に陥った信長は義昭と講和を結ぼうとします。

 

  村井貞勝・島田秀満・日乗などを遣わしますが、信長を滅ぼせるチャンスを掴んだ義昭はこの要求を突っぱね、近江の石山に砦を作り兵を入れ、また今堅田の砦にも兵を入れます。1573年(元亀4年)2月20日、信長は柴田勝家・明智光秀・丹羽長秀・蜂屋頼降らに攻撃を命じます。2月24日まず山岡景友の守る石山砦を攻撃します。この砦はまだ完成しておらず、すぐに陥落してしまいます。この際廃城となったようです。
またこの城は存続し続け、1582年(天正10年)山岡景猶は兄・景隆とともに、本能寺の変を起こした明智軍と戦闘し、この城は灰燼に帰し廃城となったという説もあります。

 

  信長は1576年(天正4年)11月21日内大臣に昇任します。その後石山寺の塔頭世尊院に行き、山岡美作守(景隆)・玉林(景猶)の接待を受け二日間鷹狩りをしています。また、1577年(天正5年)7月12日近衛前久の子である信基の元服式が信長の京での館である二条御新造で行われ、信長は元服式の後、安土城へと帰る途中の13日また山岡美作守(景隆)の所に立ち寄り一泊しています。

 

 

 

頂部の公園から、戻る(駐車場へ戻りの写真)スマホで現在地駐車スペースは、100台位可

石山砦・・・遠望(月見橋から)

羅漢山公園への侵入口http://yahoo.jp/RupCFa

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、信長公記、ウィキペディア、レファレンス事例詳細(Detail of reference example)

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織田信長が好んで行わさせた「竹相撲の絵馬」新宮大社で除幕

2015年12月24日 | 番外編

「信長公記」  巻三 元亀元年

 1、相撲見物  常楽寺にて相撲の事

  信長公は常楽寺にしばらく滞在し、3月3日近江国中から力士を集めてこの地で相撲見物をした。

 集められた力士は百済寺の鹿・百済寺の小鹿・深尾又次郎・鯰江又一郎・青地与右衛門といった面々であったが、会場には他にも腕自慢の相撲取りたちが我もわれもと詰めかけ、数をも知れないありさまとなった。
 さて木瀬蔵春庵の行事のもと取組は進み、最後に鯰江又一郎・青地与右衛門が勝ち残った。信長公は両人を御前に召し寄せ、褒賞としてのし付きの大小を与え、さらに両人を家臣に加えて相撲奉行に任じた。両人とも面目の至りであった。また見事な相撲を見せた深尾又次郎には信長公から衣服が贈られた。
 相撲ののち信長公は京へ向かい、5日①に入京して半井驢庵邸に宿泊した。京には畿内隣国の諸侯や三河の徳川家康もすでに到着しており、挨拶の者たちで門前は市をなすがごとき情景となった。
 

 ①入京した日付は5日ではなく2月30日が正しいとされる。したがって相撲見物も3月3日ではない。

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=信長が名付けた東家、西家が奉納=

 
除幕後、絵馬を見上げる神社関係者と地元の子どもたち

◇近江八幡     滋賀報知新聞■平成27年12月24日(木) 第17380号
 織田信長が好んで行わさせた「竹相撲」発祥の地と伝えられる新宮大社(近江八幡市安土町下豊浦)の拝殿に二十日、竹相撲のようすを描いた絵馬が奉納された。

相撲発祥の歴史を後世に

 竹相撲は太い竹を用いた力比べで、力自慢の男二人がとりあったが決着が付かず、信長の采配で引き分けとなり、健闘の褒美として信長から二人に「東」と「西」の名字を与えたと伝えられている。
 今年の信長祭りでは、同神社境内で地元有志による竹相撲が再現され、相撲発祥の地としての歴史文化に思いを馳せた。十一月二日には、信長と竹相撲の歴史を伝える記念碑が境内に建立された。
 竹相撲を実際にどのように行われたかがわかる図画が残されていないため、東家と西家が地元出身の画家・塩谷榮一氏(京都市在住)に作画を依頼し、絵馬に描きあげられた。


力強く描かれた竹相撲の歴史を伝える絵馬

 奉納された絵馬は、縦一メートル二〇センチ横二メートル一〇センチの大きさでヒノキの額縁に納められている。いかにも強そうな男二人が両手で太い竹をもち、相撲を取りあう緊迫した闘いのようすが力強く描かれている。
 塩谷氏(74)は「国会図書館や相撲博物館などに足を運び、信長の竹相撲に関する文献や資料を探して調べ、安土城が完成した時に兵士を集めるために競わせたと伝わる竹相撲をイメージし、四か月かけて描きあげた。私は地元との関わりが深く、こうした郷土の歴史を伝えていく思いを大切にしていきたい」と話していた。
 また、絵馬を寄贈した両家の代表で東家四十四代目当主の東康彦さん(67)は「竹相撲が行われたことにより、信長から名字を頂いた歴史を大切にしていきたい。名字にゆかりの深い竹相撲の絵馬が奉納できたことは両家の誉れでもあり、大変うれしく思う」と話した。
 除幕式には、両家や神社関係者、塩谷氏、地元の子たちが参加した。ヨシ葺き屋根の拝殿の天井下のベールが取り払われた大きな絵馬は、相撲発祥の安土の歴史を伝えている。


展示・講演会 「古地図から郷土を知る」

2015年12月22日 | 講座
松井コレクション   展示・講演会 「古地図から郷土を知る」
古地図から郷土を知る
◎古地図展示  
    戦国時代、武将が兜にしのばせた地図の写しや、江戸時代以降の
    「近江国図」など、滋賀県、東近江市ゆかりの古地図を展示。
    郷土の歴史・文化発展の姿を、古地図から見つけてみてください。

と き:2015年12月5日(土)から12月20日(日)まで
    ところ:八日市図書館2階 ギャラリー・集会室(入場無料)
 
 
◎講演会
         
 「古地図から読み解く近江」 松井善和氏(元長浜高等学校長)
会期中に展示している古地図について、分かりやすく
    解説していただきます。初心者の方でも楽しんでもらえる内容です。

        と き:12月13日(日)午後2:00~午後3:30
        ところ:八日市図書館 集会室
        定 員:40人

時代を浮き彫りにする 松井さんの古地図コレクション

 

=八日市図書館 13日に講演会=

当時に引き込まれる古地図の数々

◇東近江      滋賀報知新聞■平成27年12月11日(金) 第17369号
 記された内容から当時の社会が浮かび上がる古地図にスポットを当てた展示「古地図から郷土を知る」が、東近江市立八日市図書館で開かれている。
 元長浜高校長の松井善和さんのコレクションから、戦国時代、合戦時に兜(かぶと)に忍ばせた「戦国期要路絵図」、越前敦賀郡や若狭圏が滋賀県だった明治十一年の「滋賀縣管内地理書譯圖」、江戸時代中期の「近江国全図」や亨保十九年の「近江國繪圖」、日本が勢力を拡大していた昭和八年の「最新大日本地圖」、東海道本線建設で外国人技師のために詳細な地形図や数値が英語で記された明治二十年頃の「京都―米原間鉄道路線断面図」、明治・大正・昭和・平成で比較できる「国土地理院地形図」、朝鮮人街道が繋がる「朝鮮人道見取絵図」など、滋賀県や東近江地域ゆかりの古地図三十四点を展示している。
 会場では、来場者が思わず古地図に顔を近づけて、熱心に見入っている。
 十三日午後二時からは、松井さんによる講演会「古地図から読み解く近江」も開かれる。定員は四十人。申し込みと問い合わせは、八日市図書館(0748―24―1515)へ。月曜日休館。

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信長の竹相撲

2015年12月21日 | 番外編

信長の竹相撲、絵馬に 滋賀・新宮神社に奉納

奉納された「竹相撲」の絵馬(近江八幡市安土町下豊浦・新宮神社)
奉納された「竹相撲」の絵馬(近江八幡市安土町下豊浦・新宮神社)

 滋賀県近江八幡市安土町下豊浦の新宮神社で20日、織田信長が城下の力自慢を集めて行ったとされる「竹相撲」の様子を描いた絵馬を氏子らが奉納した。

 竹相撲は1本の竹の両端を押し引きして勝敗を決める形式で、引き分けの好勝負をした2人に、信長は「東」と「西」の姓を授けたという。今年6月の「あづち信長まつり」で氏子らが初めて再現したことを機に、相撲の様子を後世に伝えようと絵馬を奉納した。

 絵馬は横2・1メートル、縦1・2メートルで、地元出身の画家塩谷栄一さん(74)=京都市上京区=が描いた。

 この日は東西両家の子孫や氏子ら約30人が出席し、神事に続いて絵馬が除幕された。両家を代表してあいさつした氏子総代の東康彦さん(67)は「すばらしい出来栄えの絵馬を奉納でき、両家にとって大変な誉れ。先祖の名に恥じぬよう伝えたい」と話していた。

京都新聞2015.12.21


山室砦(名越ごえの山城) 近江国(山東) 

2015年12月20日 | 戦国山城

 南郭跡で発見された石臼

お城のデータ 

別 称:名越ごえの山城

所在地:米原市山東町山室/長浜市布勢町・名越町 map:http://yahoo.jp/fo9cTP

区 分:山城

標 高:277m 比高差:150m

築城期:室町期

築城者:子足備後守

遺 構:曲郭、土塁、堀切、二重堀切、土橋、竪堀 

目標地:長浜市名越町 後鳥羽神社

駐車場:後鳥羽神社の駐車場

訪城日:2015.12.14

お城の概要

名越ごえの山城は、長浜市名越町・布勢町と旧山東町(現米原市)山室の境界をなす横山連峰の尾根筋上および山室集落に向かって下る支尾根上に、南北約400m、東西約150mに亘って築かれている。この横山連峰の尾根筋上には、鳥羽上城や横山城も築かれている。

遺構は、三つのピークを利用し、南端の標高275mのピークに主郭(南北約80m、東西約43m)が置かれ、琵琶のバチの形をしている。主郭の南側下方には堀底を石塁で2重構造にした堀切に、さらに外方に土橋を付属させた堀切を設け、尾根続きの南側を厳重に防禦している。

主郭の東側は急斜面を下った所に堀切を、その先45m間に廊下状の郭と削平の不十分な郭を設け山室側より直登する尾根筋を防備している。
主郭の北側は、虎口部で東西面に土塁を伴う傾斜地となっており、その先端鞍部は堀切(切通し)で画されている。それより北へ40m程登った標高277mのピークを東西約25m、南北約30mの不整形な郭としている。

ここから西へ下ると布施へ、北西へ下れば名越へ通じ、要の郭である。更に北方に、一段下がって廊下状通路が約45m続き、先端部が15m×18mの不整形な郭になっている。

 その北面、段築の痕跡を残す急斜面を下った所には、中央と北側に土塁を伴う二重の堀切を配し、北からの侵入を防いでいる

堀切外側は緩やかな鞍部を隔て廊下状の尾根道となり、90m先の西面には浅い堀切が見られ、最北端の外郭と考えられている。

郭を取り巻く土塁もなく、削平も不完全で、自然地形に大きく制約されており、古い形式の山城と思われる。

お城の歴史

名越ごえの山城に関する直接史料は見つかっていないが、縄張りが北・東・南の三方に対して防備されているのに対し、西方は手薄なことから、長浜市側の勢力による築城と考えられる。

湖北の坂田郡という地域は,南北につらなる 横山丘陵を囲むように東山道・北国街道・北国脇往還の三街道が通り,戦略的にも重要な交通の要路である。三街道が形成する三角形の中心地区に,いつの頃からかはわからないが,(おそらく室町時代後期には,)小足郷(村)もあった。

『大洞弁天当国古城主名札』に名越館に京極氏の家臣・小足備前守が在城していたとあり、同氏の「詰城」の可能性が高いとされている。

また、『淡海国小間攫』にも、「名越村小足備前守此地ヲ領スル由、古記ニノス」とあり。

名越ごえの切り通し(堀切)

東側の郭

東郭跡で発見された石臼

277m

東端の二重堀切

登り口に下山

和尚谷地蔵堂

背後の郭址堀切堀切

後鳥羽神社

 

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、近江の城、淡海の城、『大洞弁天当国古城主名札』『淡海国小間攫』

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