近江の目賀田氏の一族としての三井氏
「三井系図」は、御堂関白藤原道長の子の長家から系を始めるが、その概要をまず説明すると、「長家-忠家-基忠-信忠」と続き、ここまでは『尊卑分脈』にも見えて問題がない。なお、基忠の弟の俊忠の系統が歌人を輩出した御子左家で、俊成-定家と続いて公家堂上の冷泉家につながる。
さて、信忠は実は三条源氏の小一条院敦明親王の孫から養子になったと『尊卑分脈』に見えるが、その子孫は藤原氏にも三条源氏にも記事が見えない。一方、「三井系図」は信忠の後も続いて、その曾孫の右衛門尉信俊が鎌倉前期の仁治二年(1241)死去したもので近江国目賀田庄に居住したと記し、その子に信成・信長・定信の三人をあげて、定信の孫に目賀田弾正忠定義・三井蔵人信堯兄弟をあげる。ここに見るように、近江の三井氏は、室町期に近江佐々木氏の重臣であった目賀田氏の一族ということで、この辺からの検討が必要となるわけである。
目賀田氏の系図はいま殆ど伝わらない。一伝に、藤原道長の兄・右大将道綱の次男中将道忠が京から近江に移り目賀田山を拓いて住し、道忠の後は道信、信忠と続き、信忠が初めて目賀田を称したといもいうが、こうした系図は『尊卑分脈』に見えないから、明らかに仮冒である。しかも、同じ藤原北家流とはいえ、先祖を道綱として所伝に差異があり、系譜のいい加減さが分かる。
そこで、どこに系図仮冒があるかを探ると、目賀田庄に居住したという右衛門尉信俊に疑問があり、同人は後に定俊に改めたというから、おそらく、原型では信俊と定俊とは別人であって、「三井系図」は、①藤原氏の右衛門尉信俊その子信成・信長という系図に、②目賀田氏の定俊その子定信という系図を接合させたとみられる。そうすると、鎌倉前期の目賀田定俊が同氏の初出ということになる。
目加田氏は南北朝期ごろから『太平記』などの史料にその活動が見えており、『歯長寺縁起』の元弘三年(1333)七月に明石で佐々木の郎頭目賀田が進み出て云ったと見える。
この辺が史料の初出で、南北朝争乱のなかで目賀田五郎兵衛信職(入道玄向)・同五郎兵衛信音父子や道誉入道の頃の佐々木家人の藤原(目賀多か三井)信良があげられ、後者は「作者部類」の六位ノ部に見える。目賀田信職父子は「三井系図」に見えないが、三井信良は同系図には上記三井蔵人信堯の子にあげられる。また、目賀田弾正忠信良が『参考太平記』の貞和三年(1347)九月に見え、同六年に弾正忠入道玄仙が佐々木氏頼の命で守護使らの竹生島での濫妨を停止させ、永和二年には近江守護代を務めている。この信良は二郎左衛門、弾正忠、玄仙などの名前からいうと、目賀田弾正忠定義の子で五郎兵衛信職(玄向)の兄か。
さて、目賀田氏は蒲生郡目賀田に起ったとされ、後年、織田信長が築いた安土城の地が「目賀田山」といったというから、この辺りが目賀田の苗字の地とみられる。目賀田城は箕作城・和田山城と共に、佐々木六角氏の居城観音寺城の重要な支城を構成したが、六角氏が滅び、さらに浅井長政が信長に滅ぼされた後は、目賀田氏は信長に属し、天正四年(1576)に信長の安土築城の際に愛智郡光明寺野に移住して新たに目賀田城を築き、この辺りが目賀田村といわれ、現在の目加田(現愛知郡愛荘町の大字)となっている。
目賀田氏の後裔は江戸期に旗本になり、その一族から明治に男爵となった目賀田種太郎(勝海舟の女婿。大蔵省主税局長、東京弁護士会長、専修大学の創設者)が出ている。また、山陰の尼子氏の重臣にも目加田氏があり、これは尼子氏に随従して近江から移住したとみられる。
話を少し戻して、目賀田五郎兵衛信職(入道玄向)は、元弘三年(1333)、足利尊氏の六波羅攻めに従軍して戦功があり、建徳元年(1370)には神郷(東近江市東部の神郷町)の地頭職を子に譲っている。
信職はまた近江八幡市の日牟礼八幡宮の神主も務めたという。信職の後継者の五郎信音は、佐々木氏のもとで近江守護代に任じられ、禁裏の警護役を務め、応永元年(1394)時には日牟礼八幡宮神主であった。
明徳三年(1392)の京都相国寺供養の際には、近江守護佐々木氏も参列し、その家人のなかに目賀田六郎左衛門尉頼景、目賀田次郎左衛門尉源兼遠の名が見える。このことから、目賀田氏は藤原姓のほかに源姓を称する家があったことが分かる(兼遠は二郎左衛門信良の子孫で、目賀田嫡宗か。おそらく遠江守と見える者、山城守護代でもあったか)。
これでますます目賀田氏の系譜が混乱するが、その出自は近江古族の末裔で、神郷から安土城、日牟礼八幡宮あたりにかけての蒲生郡地域に勢力をもった氏族とみられる。日牟礼八幡宮の神主職は、はじめ市井(櫟井)氏が務め、十四世紀以降は目賀田氏に相伝されたから、目賀田氏も櫟井の同族とするのが自然である。徳治三年(1308)八月二六日付け近江比牟礼八幡神社文書に「目賀田女房」に所領譲渡の件が見える(『鎌倉遺文』23362)。
日牟礼八幡宮は蒲生郡式内の奥津嶋神社・大嶋神社の系譜を引くものとみられ、これらは大国主神・宗像女神を祀るから、海神族の流れを汲む和珥氏族の櫟井臣というのが目賀田氏の本来の出自か(こう考えれば、メカタは目形ないし目加手の意で、「安曇目」という海神族独特の風習で目の縁の入れ墨に由来したものか。海神族には胸形〔宗像〕という装飾もあった)。上記の地域には、市井・間野(真野)・八木・船木・長田・安土(安曇)・住吉といった海神族ゆかりの地名が多く見える事情にもある。
3 近江の三井氏の系図
目賀田氏について詳しく見たが、三井氏もなかなか有力で、戦国期の三井新三郎安隆が拠った小脇城は箕作山南麓の重要拠点であった。応永二三年(1416)には守護の佐々木六角四郎満高のもとで近江守護代三井と見える(『空華日用工夫略集』)。そうした事情のもと、三井信良の五世孫(-定良-定道-義堯-定乗-乗定)にあたる出羽守乗定の養嗣(女婿)に、佐々木六角本宗の大膳大夫満綱(満高の子)の子の六郎・備中守高久(高昌)が入り、その子が三井出羽守実忠、その子が上記新三郎安隆とされるが、この系のうち、高久以降には疑問も残る。また、備中守高久は愛智郡鯰江城を築いて鯰江とも号し、その子が同地に居して鯰江左近将監高昌(尚昌、高治)といった。その四世孫には豊後佐伯藩祖となった毛利(森)勘八郎高政が出たともいうが、毛利高政の系には疑問がある。
出羽守乗定の孫という備中守乗高(実は高久同人か?)の子弟の定条の三世孫には貞虎が出たといい(三井出羽守乗綱の子という)、藤堂氏の養子に入って藤堂源助を名乗ったが、これが伊勢津藩祖の藤堂高虎の父になる。藤堂高虎の系には諸伝あり、佐々木六角本宗から出た備中守高久の子孫とするもの(定条を高久の子弟ともいう)もある。実のところ、この辺の高久周辺の人物には、多大な混乱がみられ、戦国期の三井氏の系図も確定しがたい。
三井氏は氏祖の蔵人信堯が住んだ滋賀郡三井郷の地名に因むといい、信堯は辛崎合戦(志賀唐崎)で討死したと「三井系図」に見えるが、三井氏が一貫して蒲生郡にあることから見て、疑問がないでもない。三井氏の一族は越中や三河に分かれたと同系図に見えており、常徳院(将軍足利義尚)の「江州動座着到」に越中の三井左京亮が見える。越中の三井氏は、信堯の孫の豊前守信則が越中森尻地頭と見え、その子に左京亮信房が見えるから、将軍義尚に随従した三井左京亮とは信房本人かその子にあたるとみられる。こうした記事から見ても、「三井系図」はかなり信頼性があるように思われる。
三河の三井氏は、家康に仕え、その後は紀州藩に属したという形で六代を続けるから、同系図では三井系統のなかでは最も後世まで系を伝えたことになる。具体的には、出羽守乗定の弟の九郎左衛門尉乗春が三州八幡村に遷り、その子氏春-光時-光忠と続いて、この孫左衛門光忠が家康に仕え、その子の孫左衛門光正が大坂役に参陣し紀州家に属し、その子の勘左衛門高栄の代で系が終わっている。
一方、江戸期の旗本三井氏は、豪商三井家と同じく祖を越後守高安とし、江州鯰江から来て源姓だと『寛政譜』にいうから、源姓佐々木氏から入った備中守高久の子孫ということ(主張?)であろう。この系が正しければ、備中守高久の孫くらいの位置に越後守高安の祖父という越後守高重があたるのかもしれないが、この辺は明確ではない。また、三井五郎高重という者が応永八年の近江守護京極民部少輔高光のもとで「進士文書」に見えており、越後守高重との関係も不明である。
以上のように見ていくと、とりあえずの結論としては、『諸氏本系帳』所収の「三井系図」は、紀州藩士三井氏に伝わる系図を基にして、これに先祖が明確ではない伊勢出身の豪商三井家の系図を、鈴木真年翁が同家の系図編纂時に接合させたものとみられる(三井家も有力三家が男爵を授かり華族に列したから、系図を整える必要性があったとみられる)。そのせいか、近江の三井本宗にあたる新太郎安隆に豪商家祖の高安をつなぐものの、実際の安隆の子孫(石見守時高などか)の記載がないという事情にもある。