お城のデータ
所在地:揖斐郡揖斐川町(藤橋)徳山本郷(旧徳山村) map:https://yahoo.jp/pFnapD
現 状:山林
区 分:山城
築城期:南北期
築城者:徳山氏
遺 構:大堀切・竪堀・曲輪・城跡石碑・現地説明板
標 高:475m 比高差:60m(駐車場からダム湖へ遊歩道下りる)
目標地:本郷望郷広場(標高:423m)
駐車場:本郷望郷広場の駐車、遊歩道を10分 map:https://yahoo.jp/H4BIJQ
訪城日:2017.10.28徳山城遠望(遊歩道より)
お城の概要
かつて、本郷の秋葉神社(城山)には、「城が存在した、集落から比高30mに足りない。下流の美濃側から外敵の侵入に備えた監視砦」狼煙アキバの神を奉斎するものか?
低い土地にある城やは物見や見張りの役割をなし集落住民が常に当番で集落防衛を担った。旧徳山村本郷を囲む揖斐川は集落の三方を囲む前掘(外堀)の役をになったか?
旧徳山村の徳山城は築城期は南北期に徳山金吾貞信が『徳山家系図』に「濃州徳山之城主」とあり、15段の段曲輪からなってようです。
本郷望郷広場の駐車、遊歩道を10分ほど進むと、二ノ郭には樹齢600年の一本杉(しろびや杉)がある、
一本杉の背後の尾根に階段がある、登ると四ノ曲輪に白山神社?城跡碑が建つ、七ノ曲輪が虎口を伴った主郭。その背後は一段高く、虎口伴う主郭・主郭の北側は矢倉台。
織豊期に、改築されたか、主郭背後すぐ大堀切・竪堀があり、見応えある。
大堀切の北側の尾根上部に、織豊期の特徴である、(大堀切・竪堀・)土塁を伴った曲輪があるようですが、
この日は、台風の雨で危険なため見学は、講師判断で中止となった。
お城の歴史
徳山氏は清和源氏土岐氏、あるいは東漢姓(やまとのあやうじ)坂上氏(坂上田村麻呂)の庶流で、美濃国大野群徳山の土豪であった。
はじめ斉藤氏に属したと思われ、後に織田信長に臣従し、柴田勝家の与力となる。一向一揆など北陸地方の平定に尽力し、加賀国松任城4万石の主となる。信長死後も勝家に従い、天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いでは佐久間盛政隊の先鋒として奮戦した。戦後、羽柴秀吉に赦され、丹羽長秀に仕えた。その後、主君・丹羽長重が減封された時に召し放たれて前田利家に仕え、天正13年(1585)に末森城の戦いに従軍して佐々成政と戦った。早くから徳川家康に通じ、慶長5年(1600)の関ケ原の戦い直前に前田家を出奔し、家康に仕えて5,000石を領した。
徳山則秀は(とくやま のりひで、天文13年(1544)~慶長11年11月22日(1606/12/21)は、通称は孫三郎、五兵衛。父は少左衛門(貞孝)。子孫は旗本として明治期まで続いた。『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より』
信長公記には、
巻八 天正三年 7、血河行 越前御進発、賀越両国仰付けらるるの事
・・・金森長近と原彦次郎長頼は美濃口から根尾・徳山を越えて大野郡へ侵入し、付近に散在する一揆方の小城を落として敵勢数多を斬り捨て・・・
水没前の徳山村
徳山城跡見学会資料より『作図:長谷川博美氏』
・帰りに、主郭址にスズメ蜂の巣があました。長谷川博美氏に向こう木の根元に!
大堀切 見応えあります!
・雨天と急傾斜の危険性から、大堀切に降りないで下さいと注意したのに無視された方がいましたね。
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参考資料:徳山城見学会の資料、城郭研究家・探訪家の諸先生のwebサイト、徳山会館の展示品、『ウィキペディア(Wikipedia)』、『信長公記』
本日の訪問ありがとうございす!!