城郭探訪

yamaziro

探訪【賤ヶ岳砦・古戦場】 2012.10.26

2012年10月27日 | 戦国山城

  

柳ケ瀬へ
滋賀県側への道はつづら折で下っていく。急峻である。この道で朝倉義景軍は織田信長軍に追いつかれ、さんざんに打ち破られた。夏草にほとんど覆われている。下山すると、近江国最初の宿場町、余呉町柳ケ瀬集落、北国街道(国道365線)沿いにある。北国街道はしばらく北陸自動車道に沿って、ほぼ直線の緩やかな下り坂(廃線跡の道)で南下する。余呉湖に向かう道だが、右手に連なる山々に柴田軍の各将が砦を築き、籠もった。行市山には猛将佐久間盛政、別所山は前田利家、金森長近、柴田勝正等も陣取った。

余呉湖
激戦地余呉湖に着いた。余呉湖は西北に新明山、東に大岩山、そして南は賎ヶ岳、周囲をそれらの山にかこまれている。静かなたたずまいを見せている。
羽柴秀吉軍はこれらの山々に布陣していた。これらの布陣から賎ヶ岳は羽柴軍の戦略ポイントとなる。賎ヶ岳攻略をめぐって余呉湖畔で激しい戦いが行われた。殆どの激戦、局地戦はこの湖畔で行われたことから、「余呉の庄の戦い」と敢えて名づけるむきもある。

木之本・賎ケ岳
余呉湖の南東には、羽柴秀吉本陣、弟羽柴秀長の陣のあった木之本町がある。木之本町から北陸道(国道8号線)を西に、琵琶湖方面に向かうと賎ケ岳の南側麓に着く。そこから、リフトで一気に賎ヶ岳山頂に登れる。ケーブルを利用せず登山道を歩く。峻険な山肌をつづら折りで登る。鬱蒼とした杉木立から冷風が送り込まれて来る。もし、柴田軍がこの賎ケ岳を攻略していたなら、木之本、琵琶湖北岸、西浅井郡を扼することができた。この峻険な道がそれを想わせる。

賎ケ岳の攻防
佐久間玄蕃政盛は大岩山攻略の後、賎ケ岳を攻めようとしたが、琵琶湖大音から丹羽長秀が来援して阻まれた。その間、信じられない時間(同日夜)に羽柴軍本隊の美濃からの大返しがあった。賎ケ岳の死守は勝利のポイントとなった。

 

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   賎ケ岳より琵琶湖
丹羽長秀この方面から賎ケ岳を守る

ファイル:Battle of Shizugatake pic in Mount Shizu 2009-02-08.jpg

布陣

3月12日(5月3日)、勝家は前田利家、佐久間盛政ら3万の軍勢を率いて近江国柳ヶ瀬に到着し、布陣を完了させた。

一益が篭る長島城を包囲していた秀吉は織田信雄と蒲生氏郷の1万強の軍勢を伊勢に残し、3月19日(5月10日)には5万といわれる兵力を率いて木ノ本に布陣した。

双方直ちに攻撃に打って出ることはせず、しばらくは陣地や砦を盛んに構築した(遺構がある程度現在も残る)。また丹羽長秀も勝家の西進に備え海津と敦賀に兵を出した為、戦線は膠着し、3月27日(5月18日)秀吉は一部の軍勢を率いて長浜城へ帰還し、伊勢と近江の2方面に備えた。

賎ケ岳より余呉湖・・・柴田陣vs羽柴陣

美濃返し

4月16日(6月6日)、一度は秀吉に降伏していた織田信孝が伊勢の一益と結び再び挙兵、岐阜城下へ進出した。

ここに来て近江、伊勢、美濃の3方面作戦を強いられた秀吉は翌4月17日(6月7日)美濃に進軍するも、揖斐川の氾濫により大垣城に入った。                秀吉の軍勢の多くが近江から離れたのを好機と見た勝家は部将・佐久間盛政の意見具申もあり、4月19日(6月9日)、盛政に直ちに大岩山砦を攻撃させた。

大岩山砦を守っていたのは中川清秀であったが、耐え切れず陥落、中川は討死、さらに岩崎山に陣取っていた高山右近を攻撃、右近も支えきれずに退却し、木ノ本の羽柴秀長の陣所に逃れた。

この成果を得て勝家は盛政に撤退の命令を下したが、再三の命令にもかかわらず盛政はこれを拒否、大岩山などに軍勢を置き続けた。

4月20日(6月10日)、劣勢であると判断した賤ヶ岳砦の守将、桑山重晴も撤退を開始する。

これにより盛政が賤ヶ岳砦を占拠するのも時間の問題かと思われた。しかしその頃、時を同じくして船によって琵琶湖を渡っていた丹羽長秀が「一度坂本に戻るべし」という部下の反対にあうも機は今を置いて他に無いと判断し、進路を変更して海津への上陸を敢行した事で戦局は一変。                            

長秀率いる2000の軍勢は撤退を開始していた桑山重晴の軍勢とちょうど鉢合わせする形となるとそれと合流し、そのまま賤ヶ岳周辺の盛政の軍勢を撃破し間一髪の所で賤ヶ岳砦の確保に成功する。

更に同日、大垣城にいた秀吉は大岩山砦等の陣所の落城を知り、直ちに軍を返した。14時に大垣を出た秀吉軍は木ノ本までの丘陵地帯を含む52kmを僅か5時間で移動した

この急激な行軍速度を成功させた理由については諸説あるが、あらかじめ沿道に松明を点け、さらに食事の補給個所も用意もさせていたという。僅かな時間で帰還した秀吉の大軍に驚いた佐久間盛政は同深夜に撤退を開始するものの、翌日の未明に秀吉らの大軍に強襲された。

盛政の軍は奮闘、更に柴田勝政の救援もあり撤収に成功、その為、秀吉は柴田勝政に攻撃対象を変更、この勝政の軍に盛政が逆に救援し、両軍は激戦となった。

ところがこの最中、茂山に布陣していた柴田側の前田利家の軍勢が突如戦線離脱した。                                                理由は諸説あるが、秀吉とは信長の部下時代からの親友であったが、勝家とは主従関係にあったこと、この相関関係に耐えきれなかったことが一番有力な説である。                                                                                                                        このため利家と対峙していた軍勢が柴田勢への攻撃に加わった。さらに柴田側の不破勝光・金森長近の軍勢も退却したため、佐久間盛政の軍を撃破した秀吉の軍勢は柴田勝家本隊に殺到した。多勢に無勢の状況を支えきれず勝家の軍勢は総崩れし、ついに勝家は越前・北ノ庄城に向けて退却した。

賤ヶ岳山頂で記念撮影(遠足中の中学生と)

   

    

   

   

本日の歩数 20,144歩   3時間25分    14.1km

消費カロリー 558.9kcal    脂肪消費量 79.8g

 

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


JRふれあいハイキング「万葉ロマンの船岡山」・・・観光ボランティアガイド20121027

2012年10月27日 | 観光ボランティアガイド

JRふれあいハイキング・・・・

毎週土曜日10:30近江鉄道 市辺駅。

東近江市八日市観光ボランティアガイド、がお待ちしています。

八日市観光ボランティアガイドが、無料でご案内。

市辺駅→船岡山(万葉歌碑=額田王と大海人皇子=後の天武天皇との相聞歌)→金柱宮址→太郎坊宮→太郎坊宮駅

 

市辺駅で、ラッピング列車「のぼうの城」11月2日公開 500兵vs20,000兵の戦

市辺駅で、ラッピング列車

万葉の森 船岡山への案内版

暗渠の下の「丁石地蔵」を歩道と車道の境に祀られてます。                                                       後方のお山が「太郎坊宮 阿賀神社」

太郎坊宮駅の改札上・・・占め縄の下に太郎坊山が見えるのです

この駅で、お見送りして・・・本日ガイド終了

  お疲れ様でした。

本日の歩数 15,200歩   2時間32分    10.6km

消費カロリー 416.2kcal    脂肪消費量 58.4g

 

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


安土城天主 信長の館

2012年10月23日 | 番外編

信長の館には1992年に開催されたスペイン・セビリア万博へ出展された原寸大の安土城天主(5・6階)が展示されています。内部には当時信長が狩野永徳を中心に描かせた「金碧障壁画」、金箔10万枚を使用した外壁、金の鯱をのせた大屋根など絢燗豪華な安土城がここに復元されています。


「北庄と橘屋―橘家文書の世界―」展

2012年10月21日 | 城郭・イベント情報

「北庄と橘屋―橘家文書の世界―」展

 
福井市で戦国時代に調合薬商を営んでいた「橘屋」にスポットを当て、
織田信長の朱印状をはじめ、橘屋に関する貴重な古文書などを紹介する企画展、
「北庄と橘屋―橘家文書の世界―」が福井県立歴史博物館にて開催されている。
10月23日(火)まで。
 
 
 

織田信長定書
 
 
現在の福井市中心部が北庄(きたのしょう)と呼ばれていた戦国時代。
その地に、調合薬商を家業とする橘屋という有力な商人がいた。
県立歴史博物館が所蔵する橘家文書は、
この橘屋の子孫の橘家に伝来したもので、
戦国時代の北庄の様子を知る上での一級史料として知られている。
 
 
そこで今回の企画展では、橘家文書の一部を特別に公開し、
これまで一般にはあまり知られていなかった橘屋を通して、
北庄の商人の活動や信仰、文化といった側面について紹介していく。
 
 
 

織田信長定書 朱印部分
 
 
 
「北庄と橘屋―橘家文書の世界―」展
 
会期  平成24年10月7日(日)~10月23日(火)
 
会場  県立歴史博物館(福井市大宮2-19-15)1階 オープン収蔵庫
 
開館時間  午前9時から午後5時まで(入館は午後4時半まで)
 
観覧料   一般 100円、 高校生以下・70歳以上 無料
       ※30名以上の団体 2割引 ※常設展もご覧になれます。
 
おもな展示資料
 
天正2年織田信長定書(天正2年(1574))
  
織田信長による「天下布武」の朱印状。
 
太鼓胴(室町後期)  
  
観世家より送られた太鼓。現在は胴のみとなっている。
 
 
 
お問い合わせ
 
福井県立歴史博物館
 
電話:0776-22-4675
公式サイト:http://www.pref.fukui.jp/muse

箕作屋敷 近江国(五個荘)

2012年10月19日 | 居館

所在地:東近江市五個荘山本町 (旧神崎郡五個荘町山本) map:http://yahoo.jp/u5nmTR

区 分:山城

築城者:佐々木六角政堯

築城期:豊職期

改築者:佐々木六角定頼

現 城:山林

標 高:325m(清水山山頂) 比高差:225m

遺構等:石垣・土塁目標地:神崎病院

訪城日:2012.10.18

お城の概要

本丸付近には、わずかに石垣が残る。

登城路(城道)には、館跡の石垣が多数残る

歴史

箕作城(みつくりじょう)は、現在の滋賀県東近江市五個荘山本町清水山の山上に築かれた六角氏の城館。

  • 応仁の乱で六角高頼の観音寺城に対抗して六角政堯が築城。
  • 天文19年(1550年)頃、六角定頼が改修。
  • 永禄11年(1568年)、織田信長の攻撃で落城し以後は廃城となった(観音寺城の戦い)。

箕作城 (遠景)


日吉大社(東本宮殿のご修復・コンテリクラマゴケ) 2012/10/17

2012年10月18日 | 文化財

 

 http://hiyoshitaisha.jp/restoration/

県教育委員会は、全国有数(第四位)の重要文化財などの優れた価値、魅力を県内外に広く発信する近江の仏教美術等再生事業の一環として、国宝・日吉大社東本宮本殿(大津市)の修理現場を一般公開する。普段見ることのできない修理現場に、見学用通路を設け、伝統的な屋根葺き替え作業を見学してもらうもの。
 期間はいずれも九月一日から来年二月中旬までの午前九時~午後四時の間、見学通路から一階屋根を間近に見ることができる。修理現場の見学は無料だが、境内の入苑協賛料または拝観料が必要。
 このほか、文化財職員の説明、檜皮葺職人の指導による檜皮葺体験会が行われる。参加は無料(入苑協賛料または拝観料は必要)。定員は各回三十人。日吉大社東本宮本殿は十一月十八日午前九時半から午後四時まで。http://www.shigahochi.co.jp/info.php?type=article&id=A0010990

 

 

 

光の加減によって葉がエメラルドグリーンや紺色に照り輝いて見えるコンテリクラマゴケ(大津市坂本・日吉大社)

コンテリクラマゴケコンテリクラマゴケ

光の加減によって葉がエメラルドグリーンや紺色に照り輝いて見えるシダ植物の一種「コンテリクラマゴケ」が大津市坂本の日吉大社で見ごろを迎えている。特に朝や夕方は美しく、神秘的な雰囲気を醸し出している。

 多年生常緑シダのイワヒバ科の一種。中国原産で、明治時代に園芸用として持ち込まれ、各地で自生するようになった。日吉大社では約10年前から自然に増え始めたといい、東本宮と西本宮の間の参道沿い約200平方メートルで葉を茂らせている。

 名前の通り紺色に照り輝く美しさがあり、同大社は「今のところ急激に繁殖する訳でもなく、自然に任せて見守っている。10月中ごろまでは光沢を保ち、見ごろが続くのでは」としている。問い合わせは同大社TEL077(578)0009へ。

http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20121005000047


宝巌寺の宝物を公開

2012年10月16日 | 歴史講座・フォーラム

宝巌寺の宝物を公開 「竹生島文書」重文指定を記念

天下布武の朱印が押された織田信長朱印状
天下布武の朱印が押された織田信長朱印状

 滋賀県長浜市、竹生島の宝巌寺(ほうごんじ)に伝わる「竹生島文書」が国の重要文化財に指定されたのを記念した名宝展が同寺宝物殿で開催されている。織田信長や地元の戦国武将、浅井氏に関する同文書9点や仏像など計23点が展示されている。

 指定された竹生島文書は鎌倉時代から明治時代にかけて書かれ、312通ある。武家の文書が豊富なほか、竹生島信仰に関する勧進状などがある。政治・宗教史料として学術的評価が高く、9月に重文指定された。

http://www.kyoto-np.co.jp/shiga/article/20121016000037


探訪「近江水の宝」~近江上布の織りてと商人の里を歩く・・・愛荘・豊郷~

2012年10月16日 | 探訪「近江水の宝」

「近江水の宝」は、琵琶湖や水にかかわる文化遺産のうち、特に優れたものとして滋賀県教育委員会が64件を選定し、地域資源として魅力を発信して、その価値の定着化をはかっています。

上布とは麻を素材とした織物で、近江上布の生産は鎌倉時代に京都から職人が移り住んだことに起源するといわれています。室町時代にはすでに高島(高島市)や高宮(彦根市)の上布が名産品として知られ、江戸時代には彦根藩の奨励策もあって、豊かな湧水に恵まれた湖東地域一帯の村々でさかんに生産されました。そして、これらは中山道高宮宿に集められて旅人へ販売されるとともに、近江商人によって全国に持ち運ばれたことから、高宮布と呼ばれて名声を博し、彦根藩から将軍家への献上品としても用いられました。

現在も愛荘町では、宇曽川や愛知川の豊かな伏流水の恵みを受けて、高宮布から受け継いだ伝統の技で近江上布を作り続けています。また、豊郷町は、こうした高宮布を江戸時代に商った偉大なる近江商人のふるさとです。

今回の探訪では、県の文化財専門職員および、愛荘町や豊郷町の観光ボランティアガイドのみなさんが同行案内し、近江上布の織手と商人の里を、中山道に沿って詳しく訪ねます。

てんびん鞠資料館 http://plaza.rakuten.co.jp/t036kkk/diary/201210080001/

探訪「近江水の宝」~近江上布の織りてと商人の里を歩く・・・愛荘・豊郷~20121014

旧愛知川役場

近江の麻(近江上布伝統産業会館 見学)

 近江上布は、京都の職人が宇曽川沿いで農業をするかたわら教えたのが始まりと伝えられ、永禄元年(1558)には犬上、愛知、神崎、蒲生などで生産されたものが近江商人によって諸国に売りに出されたといわれています。江戸時代には彦根藩は、国産方により、彦根藩の副業対策として麻布の振興を計り、着尺地、蚊帳地を増産し、文明年間には板締や櫛押による絣模様が開発されました。天保2年(1831)には、近江麻布蚊帳改会所を設立し、良品の生産に努め、近代になると、羽根巻による型紙捺染法を工夫し、絵羽調の縮絣が人気を呼ぶようになります。昭和52年3月には伝統的工芸品として国の指定を受けるにいたります。

中山道愛知川宿~中仙道を東へ下る

むちんばし絵図

 

愛知川宿北入口の道標

更に、中山道を北へ・・・商人屋敷や神社仏閣が続きます。

 

歌詰橋…愛知川宿から、宇曽川を超える橋

愛知川ボランティアカイドさんの案内は、ここまで!

 

歌詰橋を渡れば、豊郷町!

橋をわたり豊郷へ

豊郷町ボランティアガイドさんに交代 

パンフレットより

 

江州音頭http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E5%B7%9E%E9%9F%B3%E9%A0%AD

      http://go-shu.biwako-visitors.jp/index.html

滋賀県には近江商人の町と呼ばれるところがいくつかあります。豊郷町もそのひとつです。

豊郷出身の豪商

又十・・・藤野家屋敷(天平の飢饉普請の屋敷)

北海道の松前で、「はごろも缶詰」創業、

 

 

現在の大手商社の伊藤忠・丸紅の創始者で近江商人の筆頭とあげられる伊藤忠兵衛は、1842年に繊維品の小売業を営む「紅長」の家に生まれました。現在、伊藤忠兵衛の本家は記念館として開放されており、「見越しの松に黒い塀」と呼ばれた堂々とした造りで、中山道に面してひときわ目をひきます。

 

総合商社の伊藤忠、丸紅の創業者である伊藤忠兵衛の出身地も豊郷町です。伊藤忠兵衛に仕え、後に丸紅商店(現、丸紅)の専務となったのが古川鉄治郎という人です。古川鉄治郎の出身地も豊郷町。

 

 

近江商人を表わす言葉に「三方よし」というものがあります。商売においては、売り手よし、買い手よし、世間よしの三方がよくなければならないとする経営理念です。三方よしの実践者であった伊藤忠兵衛の意思を忠実に受けついた古川鉄治朗は、世間よしとするための事業を行ないました。

それが旧豊郷小学校の建設。旧豊郷小学校を目の前にしたとき、近江商人の地域社会に貢献したいという、心意気に圧倒されるます。

 

アニメ殿堂【旧豊郷小学校】「聖地巡礼」としてファンが訪れているhttp://plaza.rakuten.co.jp/t036kkk/diary/201210160004/ 

旧豊郷小学校の校舎は、今からおよそ70年前に建設されました。当時としてはめずらしい鉄筋コンクリートのヴォーリス建築。                            写真でも分かるように、横に長い建物で、その趣のある様はとても小学校とは思えません。                                                          当時のお金で60万円の費用、古川鉄治郎は私財を費やして小学校を建設し、寄贈。                                                 故郷に充実した教育設備をもった小学校をつくりたいとする思いが、この事業を導いたのです。

しかし、建設から70年を経た現在、この校舎は使用されていません。                                                                     老朽化による、強度不足で、安全が確保できないとの理由がら、一時は解体の危機に遭遇しました。                                                     地域住民からの反対運動で何とか今現在は解体されずに残っています。                                                          新校舎も建設されました。

近江商人の三方よしのなかで、世間よし実践の証として記念碑的に残すのがいいのかどうか、保存のための費用など、まだまだ検討すべきことがらは多くあるように思います。

 

 

 那須城は旧中山道沿いにあって、豊郷町の八幡神社一帯とされ、八幡神社の境内に石碑が建てられている。
豊郷小学校の南に土塁が残されていたといい、その規模は一辺が50m~100mはあったことになる。
 また、付近には「門根」という一画があり、城門があったという伝承もある。


 八幡神社前には、昔は豊郷町役場前にあったとされる土饅頭型の一里塚が再現されており、このような一里塚もあったのかと認識を新たにした。

 那須城の隣に「弘誓山称名寺」

那須城は治承・寿永の乱(源平の争乱)において、元暦2年(1185年)の屋島の戦いで平氏方の軍船に掲げられた扇の的を射落とした那須与一宗高の次男・砂田民部大輔宗伝が城を築いたと伝えられるが、定かではない。

近江七弘誓寺:中興の祖は源平の合戦のときの「扇の的」で有名な源氏の武士那須与一宗高の二男である願名坊宗信です。              那須与一は東国下野国から近江の国に封ぜられ石畑建部領主となり発願して建てた寺

・・・豊郷駅へ

~近江上布の織りてと商人の里を歩く・・・愛荘・豊郷~充実した、探訪ウォークでした

 

本日の歩数 18,336歩   2時間56分    12.8km

消費カロリー 791.9kcal    脂肪消費量 113.1g

 

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


探訪「水茎岡山城」 (頭山)

2012年10月16日 | 戦国山城

水茎岡山城(滋賀県近江八幡市牧町) 別 名:岡山城

遺 構:土塁、石垣、堀切、竪堀   山城(標高187.7m、比高102m)                                                           築 城 者:九里備前守信隆      築 城 年:永正5年(1508)頃

八幡山から見た水茎岡山城。

 頭山の麓に建つ城址碑

城跡の石碑がありこれで満足とするしかない。背面側が大きな山の方である。出張後なので杖もなく(杖があれば地面を掻き分けマムシをよけれる)藪に入る気がしない。

岡山の全景左側が大山、右側が頭山

岡山の全景右側が大山、左側が頭山

頭山に

立ち入り禁止の、林道がきれいに除草されてる、狼煙リレーの準備かも?

 11月の狼煙リレーの狼煙台?

牧水泳場から、急な階段が整備・除草されていた。

階段を上がり、そのままブッシュの山上を目指す。

「削岩のノミ跡」がはっきり三つ。

山上の平削地、びわこの湖上監視

 水茎岡山城は近江八幡城の西方、琵琶湖に面した頭山に築かれた山城である。伝によれば、南北朝時代に六角氏の湖上警備の城として築かれ、戦国時代最中の永正五年(1508)ころより本格的な築城が行われたようだ。                                      かつては琵琶湖に浮かぶ水城であったが、戦後の干拓事業によって周囲が埋め立てられてしまい、戦国時代に「湖中の浮城」といわれた風情はない。戦国時代の城主は、六角氏の被官九里氏であった。
 水茎岡山城が戦国史に大きな足跡を刻んだのは、幕府内における抗争に敗れた十二代将軍足利義澄をかくまったことである。当時、幕府は管領細川氏の内部抗争が続き、将軍はまったく政争の具ともいえる傀儡状態であった。義澄は細川澄元にかつがれて将軍職にあったが、細川高国と大内義興のかつぐ前将軍足利義尹(のち義稙)に京を追われ、近江に逃れて岡山城に入り再起を期したのである。しかし、京への復帰はならず、永正八年(1511年)、むなしくこの城で病没した。その後、六角氏と伊庭氏との間で抗争が起こると、九里氏は伊庭氏に与して活躍したが、敗れて岡山城は廃城となった。

 

  •  城址は南の大山と北側の頭山にあったが、内湖の埋め立て事業、さざなみ道路の敷設などにより遺構は少なからぬ破壊を受けたようだ。とくに頭山側は、造成工事によってほとんど破壊されたようである。大山山上の城址へはさざなみ道路側にある「水茎岡山城址」の石碑が目印となり、そこから山腹の貯水場まで溜息が出る急な階段が設けられている。
    貯水場から細い山道を登りきると、そこはすでに城址東端の大土塁である。大土塁の南側に帯曲輪があり、そのまま城址の南側をまくように曲輪は続いている。東の大土塁と主郭切岸は、そのまま堀切を形成し、北側にも帯曲輪が取り巻き、帯曲輪の北側には土塁が築かれている。主郭は中央の大堀切で東と西に区画され、それぞれ居住するうえで十分な広さをもっている。遺構の保存状態は悪くなく、堀切・土塁・切岸・帯曲輪などなど戦国山城の醍醐味を堪能できる城址だ。
    山上の曲輪群のほかに、山腹にも曲輪が設けられ、山麓には日常の居館があった。発掘調査によって居館址からは石垣が検出されたといい、将軍をかくまった城にふさわしい結構を持った城址である
  • 岡山城は、南北朝期に、佐々木六角氏により、琵琶湖警護の支城として築かれたのが始めとされる。
    本格的な築城は、永正5年(1508)に、室町11代将軍・足利義澄が、前将軍・足利義材(よしき)の入京によって近江に逃れ、伊庭氏、九里氏を頼って岡山城に入った頃と、考えられている。
  • 永正7年(1510)、将軍に返り咲いた足利義材改め義稙(よしたね)の命により、細川高国、大内義興が岡山城を攻めるが、撃退する。
  • 永正8年(1511)、足利義澄の嫡男・亀王丸(後の第12代将軍・義晴)が、城内で誕生する。同年、足利義澄は、京に攻め上るが、敗走して城に戻った後、8月、本城で死去する。
  • 永正17年(1520)、伊庭貞説(じょうせつ)・九里浄椿(じょうちん)と、六角氏の間に不和が起り、六角高頼と細川高国の軍に攻められ、40日の籠城の後、開城する。
  • 大栄5年(1525)、伊庭・九里氏の残党が城に立て籠もるが、黒橋(近江八幡市西の庄町黒橋川の河原)の戦いで六角氏に破れ、以後廃城となる。
 

 

  • 岡山城は、大山(標高187.7m)と頭山(標高147.7m)とに跨って築城され、主郭は大山の山頂部に設けられている。戦後、水茎内湖が埋め立てられるまで、内湖に囲まれており、湖中の浮き城となっていた。また水茎の岡として、歌にも詠まれる景勝地であった。
    大山山頂部に、曲輪の遺構が良好に残存するらしいが、生い茂る藪や潅木により到達することができず、未確認。大山と頭山の間の鞍部は、湖岸道路を通すために崩され、二つの山は切り離されている。
  • そのとき、一見したところ小さな山であり、将軍をかくまった城というには小さすぎる感をいだいた。今回、登ってみて意外にも大きくな縄張で、土塁、曲輪、切岸、堀切などの保存状態もよく、「なるほど!これなら…」と納得させられる素晴らしさであった。
  •  
    政争に敗れてこの城で没した義澄はの子で十二代将軍となった義晴はここ岡山城で生まれた。義晴もまた細川氏の抗争に翻弄され、勝ったり負けたりを繰り返して京と近江を往来した。そして、足利幕府は確実に衰退、義晴の子義輝は下剋上によって殺害されるという最期を迎えた。
    そんな足利幕府の興亡史に名を刻んだ岡山城、世の栄枯盛衰を惻惻と感じざるにはいられないところである。今回は、山上界隈だけの探訪で時間切れとなったため、義澄が澄んだであろう山麓の居館址をたずねることができなかったのは心残りであった。山腹の曲輪群探索と併せて、近いうちに再訪したいところである。

【水茎岡山城の縄張り】

縄張り図【頭山に本丸。大山に二の丸。亀山に三の丸

水城(昭和24年頃)・・・戦争の引揚者の為に干拓

発掘調査の遺構図

 岡山城は琵琶湖の東岸に位置する標高187mの岡山に築かれた城です。岡山は古来和歌に「水茎の岡(みずぐき
のおか)」として詠まれた名勝の地で、城は別名水茎岡山城(すいけいおかやまじょう)とも呼ばれています。
岡山城は、南北朝期に近江守護佐々木氏が湖上の監視所として築いたとされていますが、室町期には在地領主九
里氏の居城となっています。永正5年(1508)、将軍足利義澄が京都を逐われ、近江に逃亡しました。坂本から長命
寺をへて、最終的に岡山城に入ります。応仁の乱の後、足利将軍家も分裂し、将軍が京都を逐われる事態がしばし
ばおこります。この時は周防の大内氏のもとに身を寄せていた前将軍足利義尹が、京都で権力を握っていた細川高
国と結んで軍勢を率いて上洛しようとしており、高国と敵対する細川澄元と結んでいた義澄は六角氏を頼って近江
へと逃れたのでした。その3年後、足利義澄は岡山城中に没します。一方、六角氏と対立を深めていた守護代伊庭
氏は九里氏と結んでおり、永正15年(1518)六角氏と結んだ細川高国によって岡山城は攻撃を受けます。永正17年(1
520)岡山城は陥落し、伊庭氏・九里氏は退城しましたが、その後も戦いは続き、最終的には大永5年(1525)、六角
氏の江北出陣の隙を突いて挙兵した伊庭氏・九里氏の残党が、観音寺城の留守居であった後藤氏と戦った黒橋の戦
いに敗れ、伊庭氏は歴史の表舞台から姿を消します。岡山城もこの段階で廃城したとされています。
岡山は三つの小丘陵が連なってできて山です。琵琶湖に近い方から頭山(標高147m)・尾山(標高187m)・後山(標高113
m)と呼ばれていますが、このうち頭山・尾山に城の遺構が見られます。また現在は干拓によって失われていますが、かつて
は城の南面に内湖が広がり、湖上の浮城のような城でした。頭山は城の本丸といわれていますが、山頂部は造成工事によって
城の遺構は破壊されており、わずかに山復部に帯郭状の平坦部が見られるだけです。一方、尾山山頂部には城の遺構が良好に
残されています。山頂部に二つの郭が並んで築かれ、両者は土橋でつながっています。また郭の周囲を帯郭が取り巻き、琵琶
湖側の外周には土塁が巡っています。南斜面には山麓へと延びる竪堀があります。

頭山と尾山との間の鞍部は現在湖岸道路が通っていますが、道路建設に伴う発掘調査で建物礎石と石垣が発見されました。永正5年に岡山城に入った足利義澄の御殿跡ではないかといわれています。
岡山城へは、近江八幡駅より近江鉄道バス野ヶ崎行きで牧町西口下車、湖岸道路までしばらく歩き、湖岸道路を左に折れて老人ホーム水茎の里の前を過ぎると、左手に「名勝水茎岡」とかかれた石標と階段があります。これを登ると、尾山山頂部へといたる山道へとつづいています。頭山へは湖岸道路の琵琶湖側を山の方に進み、山裾の道を琵琶湖方面に進むと山に登る道があります。道は山頂部までは延びていませんが、「高御座のほらす年のよろこ
ひをしるしととめよ水くきの岡」という御歌所長入江為守の和歌を刻んだ石碑と、その下に「水茎岡山城」と墨書された木の看板が置かれた所に行くことができます。(松下)

八幡山から見た岡山(右から頭山・尾山・後山)

 

 

尾山は後日にhttp://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/aa033e165e1a250d6e2e1db0a4d82c15

 

 
本日の歩数 11,570歩   1時間52分    8.0km(本日は、約4,5kmノルディックウォーキング込)

 消費カロリー 270.9kcal    脂肪消費量 38.7g

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歴史講座「信長公ゆかりの地で学ぶ」2012/10/13

2012年10月14日 | 歴史講座・フォーラム

 安土文芸の郷の歴史講座「信長公ゆかりの地で学ぶ」の第一回講座が、10月13日午後1時半から文芸セミナリヨホールで開かれた。(10月13日のみ「安土城信長天主の館」見学付)。

オープニング:パイプオルガン演奏(天正渡歌少年使節の持ちかえりし音楽) 

         曲目♪ジョスカッション・デ・プレ<千々の悲しみ>♪     文芸セミナリヨ専属オルガニスト 城 奈緒美

 講師に安土城跡発掘調査の陣頭指揮をとった元県安土城郭調査研究所長・近藤滋氏を招き

「信長公は、何故安土城だったのか?」をテーマに講演。
 

1.はじめに

①安土築城以前・・・信長年譜 弘治元年(1555)から天正3年(1575)                                                    

             那古野~清州~小牧~岐阜~安土

②信長公の目指したもの → 新たな拠点城郭の形成

  • 領国一円支配と武士集住 → 先制的権力の構築
  • 物流の拠点支配と商工業者の支配 → 経済基盤の確立(津島・熱田・加納)
  • 新たな城下町の形成

2.歴史地理的に見た近江 → 人と物・文化が行きかう琵琶湖

①交通の要衝

  • 畿内・北陸・若狭・山陰の十字路

②肥沃な土地と高い生産性

  • 江戸初期(寛永年間)で常陸に次ぐ石高

③豊かな文化と諸技術の蓄積

  • 天台の地 中世社寺建設の宝庫 石積みや石垣(観音寺・岡山・瓶割・宇佐山)

④五箇商人と四本商人

  • 日本海交易と山越え商人

近江国商業関係図

3.京への最前線 琵琶湖

①城と湖上ネットワークの形成

  • 坂本(京~逢坂越え)、新庄・大溝(若狭・九里半越え)、長浜(北陸・敦賀越え)

 信長・秀吉の近江における主要城郭配置図

 

②堅田衆の掌握と湖上権の支配

 

  • 山城から水城  坂本(元亀2年 1571)、長浜(天正元年 1573)、新庄・大溝(天正2年 1574.1576)

上平寺城古図(京極氏)

 一乗谷概略図(朝倉氏)一乗谷朝倉氏遺跡 全体図

4.安土築城と琵琶湖

①天然の要害、安土山 → 扇の要

昭和25年の安土城跡(戦後西の湖と伊庭内湖の一部を残して干拓された)

まさに、天然の要害、安土山 → 扇の要

②水陸交通の結節点、常楽寺港

左上・・・常楽寺港、観音寺城・士官屋敷・中山道略図 

③大津・草津・堺はすでに直轄化

5.まとめ

  • 永楽11年(1568)観音寺城後略
  • 元亀元年 (1570)常楽寺逗留・相撲興業
  • 元亀2年 (1571)常楽寺逗留
  • その後天正年間に2回上陸・通過
  • 天正4年(1576)築城着手 → 背面の脅威の激減と全面の掌握(石山本願寺等以外)

 

 

 

 

続いての第二部では

「安土城の過去、現在、未来」をテーマに石橋正嗣氏(安土図書館事務長)、仲川靖氏(県教委文化財保護課主幹)松下浩氏(同副主幹)の三人をパネラーにパネルディスカッションする。近藤氏はコーディネーター。

 パネラーは、安土城跡の発掘調査に直接携わったり、研究者としても知られ、安土城に最も身近な立場でその実態を知る人々。ディスカッションでは発掘調査の秘話など自由に安土城や信長に対する見識を披露してもらう放談とし、会場からの質疑応答の場も設ける。

 

安土城跡の発掘調査・秘話など自由に安土城や信長に対する見識を披露してもらう放談

 

県道2号線は、外堀と内掘の間を

 

 

 第二回講座は十一月十日。瓦研究でも知られる近藤氏を講師に第一部「瓦から学ぶ安土城」、第二部「近藤先生と瓦見学」を行う。定員三十人程度。講座参加料三百円参加申し込みと問い合わせは、文芸セミナリヨ(0748-46-6507)へ。

 

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました


腰越~箕作山~太郎坊のルート確認

2012年10月13日 | 歴史講座・フォーラム

出発 伊野部建部神社~古道~ 腰越峠   ルート探し

舗装の林道を無理やり侵入(松茸の止山だが!)

最初の「火の用心」の立札から古道に

ここを登れば、舗装の林道に出ました。

腰越峠です。東方面伊野部、愛知川、鈴鹿山脈・・・唯一のビューポイントでした!

2つ目の「火の用心」の立札から箕作山への入り口

2つ目の「火の用心」の立札から箕作山への入り口

小脇城跡のルートのようです。

 

清水山の箕作城跡への尾根ルート、探索

ルート確認出来ず、引き返す(松茸の止山です、長居は禁物)

林道を、戻ります

セイダカアワダチソウ(最近少なくなりましたが。)

根性ススキ、舗装を割って

オトコシエ

開花中花後の結実

萩の花が沢山咲いてます

山山椒!

漆の紅葉ハゼの紅葉つた?の紅葉の始まってます

 

アキアカネ蝶ですが、名が?

石垣・石積み(砂防)発見

 

小脇城跡左が小脇城跡凹が腰越峠

北側、鉄塔の下に箕作城跡・石垣が残っています鉄塔の下に箕作城跡・石垣が残っています

 

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました


探訪【越前山續忍道」から月所丸と大嶽城址・福寿丸・山崎丸をめざす~朝倉氏の小谷来援ルート】を体感する

2012年10月11日 | 戦国山城

「越前山續忍道」から月所丸と大嶽をめざす~朝倉氏の小谷来援ルートを体感する

日 時 平成24年10月7日(土) 10時~16時 参加者29名」
「越前山續忍道」から月所丸と大嶽をめざす
-朝倉氏の小谷来援ルートを体感する-

集合は、JR北陸線河毛駅東口(長浜市)です。
《参加申込み必要》 小谷城戦国歴史資料館

 電話:0749-78-2320     【E-mail】odanijou-s@maia.eonet.ne.jp

 

所在地 滋賀県長浜市湖北町郡上
【アクセス】
福寿丸へは、小谷城の西側尾根先端部麓にある清水神社のところから、山崎丸経由で登城することも出来るが、折角なので、東側尾根の小谷城から登り、小谷城頂部の山王丸の奥を一旦下りて、六坊跡経由で大嶽城→福寿丸→山崎丸をめぐって下山することをお薦めする。

 
  

月所丸は小谷城の最北端に築かれた、訪れる人も少ない秘境です。「越前山續忍道」
は月所丸を経て北へと続く山道で、小谷城絵図にその名が記されています。浅井氏が織
田信長と戦った元亀争乱期には、越前との連絡をはかる間道として、また朝倉氏の小谷
来援ルートとして機能したことから、信長軍はこの道の制圧をはかっています。
 今回の探訪会では、小谷山北端の茂坂峠から「越前山續忍道」に入り月所丸、六坊を
通って、朝倉軍が守備した大嶽・福寿丸・山崎丸を訪れます。朝倉氏の小谷来援ルート
体感してみませんか。みなさまのご参加をお待ちいたしております。

 

 

探訪:「越前山續忍道」から月所丸と大嶽城址・福寿丸・山崎丸をめざす

 

 

 

大嶽城 (ィキペディア)

山王丸から大嶽城方向を撮影
小谷城の復元模型

山王丸から谷筋へ下り、さらに山道を登った所に大嶽城があり、小谷城の支城の一つとして機能していた。ここは小谷城の主郭部からは100メートル以上高く、小谷山の頂上もここにある(海抜495メートル)。現在は元亀年間に朝倉軍が駐留した際に築かれたと考えられる、曲輪・横堀群などが残されている。これらの遺構は直角に成型されており、小谷城の主郭部より高度な技術がうかがわれる。

浅井亮政の築城当初は、小谷城はこの大嶽にあったとの説もある。考古学的に裏付けるものはないが、六角氏の天文年間の文書には、確かに「大嶽」の単語がいくつか見られる。

福寿丸・山崎丸

大嶽城から見ると南に二本尾根が分かれている。うち東側の一本が小谷城の主郭部であるが、西側のもう一本にも小規模ながら城郭の遺構が残されている。これらは大嶽城と同じく元亀年間に朝倉軍が築いたものと考えられ、江戸時代の地誌などから「福寿丸」「山崎丸」と現在では呼んでいる。これらの遺構は、長方形に成形され、当時としてはとても高度なものである。

小谷城跡絵図/小谷城址保勝会蔵

大嶽城跡で、まず昼食(友人の少年城郭研究家のお弁当!)

標高495mと494.5mの2枚表記(友人に質問=4捨5入とか)

 対織田軍に備えて朝倉軍が改造して守備した城郭

近江 福寿丸(長浜市湖北町)福寿丸東側虎口前に立つ石碑と説明板

福寿丸東側虎口前に立つ石碑と説明板

 

下山後、参加者で記念撮影(少年探訪者4名)

ブルーのユニホームの語り部の皆さんとkさん、案内・説明をありがとうございました。

本日の歩数 13,980歩   2時間25分    9.7km

消費カロリー 301.6kcal    脂肪消費量 70.8g

 

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


安土城をCGで望む モバイルで見るバーチャル画像

2012年10月09日 | 城郭・イベント情報

=5カ所のビューポイント完成 30日午後2時から試験公開=

ビューポイントから見られる安土城天主のVR画像

◇近江八幡
 近江八幡市が花園大学および大阪大学とで共同研究を進めてきた「VR安土城プロジェクト」の一部が出来上がった。
 指定された地点(ビューポイント)からコンピュータグラフィック(CG)による風景や建物などの映像をスマートフォンやタブレットに表示させるVR(バーチャルリアリティー)技術を利用して作りあげた。三十日午後二時から一般対象の試験公開を行う。

 

http://shigahochi.co.jp/info.php?type=article&id=A0011313


知将三成

2012年10月09日 | 歴史講座・フォーラム

知将三成、彦根で盛り上げ 映画公開でイベント続々

 

野外イベント「三成の戦」のチラシ(彦根市役所)野外イベント「三成の戦」のチラシ(彦根市役所)

 近江出身の戦国武将・石田三成にちなんだ地域イベントが今秋、滋賀県彦根市内で相次ぎ催されている。知将三成が描かれた映画の11月公開を追い風に、居城があった佐和山周辺で三成の人物像に迫るトークライブなどの野外イベントが開かれ、近江鉄道(彦根市)も映画ラッピング電車を走らせて盛り上げる。

 映画「のぼうの城」は、小田原攻めで天下統一を狙う豊臣方の三成と関東の地方城主との攻防を描いている。市は「これまで悪役の印象が強かった三成を再評価し、魅力を発信したい」として市民グループ「彦根を映画で盛り上げる会」と協力し、14日午前10時から佐和山周辺の4会場で野外イベント「三成の戦」を開く。

 長浜城博物館の太田浩司さんや映画の脚本を手がけた和田竜さんが知将の人物像に迫るトークライブを開催。龍潭寺(古沢町)で通常は非公開の三成の肖像画を展示する。

 一方、近江鉄道は映画公開記念として出演者らの姿を車体に描いたラッピング電車の運行を10月から開始。映画の撮影風景などの写真も展示される。また、人気の塩麴(こうじ)を使い、三成をイメージした料理のレシピも募集中。20日までに電子メール(kanko@ohmitetudo.co.jp)などで。最優秀のレシピは11月2日から年末まで北陸自動車道賤ケ岳サービスエリア下り線のレストランで販売する。

http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20121008000040


静御前の鼓にされた両親に会いたい一心で子ギツネが家臣に化ける物語

2012年10月09日 | 歴史講座・フォーラム

「義経千本桜」後輩児童受け継ぐ 米原曳山まつり

総代たちが見守る中、舞台上の動きを練習する子ども役者たち(米原市米原・旧米原小)
総代たちが見守る中、舞台上の動きを練習する子ども役者たち(米原市米原・旧米原小)

 滋賀県米原市で6日から始まる米原曳山(ひきやま)まつりで、今年の出番山「松翁山(しょうおうざん)」が子ども歌舞伎の演目として9年ぶりに「義経千本桜」の一場面を披露する。前回出演し、再び舞台に立とうと闘病中に亡くなった子の親らが再演を支え、後輩が受け継ぐ。

 上演する「河連法眼館(かわつらほうげんやかた)の場」は、曳山上の舞台に仕掛けを凝らし、演者が現れたり消える演出で前回好評を博した。松翁山組総代の県職員宮川忠士さん(46)の長男忠大君は小学1年だった2003年に源義経の家来役で出演。稽古を通じて友達が増え、この演目が大好きだったという。

 だが翌年に白血病が再発。「もう一度、舞台に出たい」と闘病しながら毎年の舞台を楽しみに見ていたが4年前に12歳で他界した。

 宮川さんら今年の総代5人は9年前に共演した役者の親たちで、忠大君の思いを継ごうと指導役の歌舞伎役者市川団四郎さん(72)=北海道函館市=とともに再演を決めた。

 今年演じるのは小学2~6年の地元児童ら6人。8月下旬からせりふ練習を始め、2週間前から連日、見せ場の入れ替わりや振りを稽古してきた。親らも仕掛け作りで支えた。

 この場面は静御前の鼓にされた両親に会いたい一心で子ギツネが家臣に化ける物語で親子の情愛が描かれる。忠士さんは「忠大の生きる力となった舞台を見てほしい」と語る。

 本楽の7日昼に湯谷神社(米原)に奉納するのをはじめ、6~8日まで3日間に市内各所で計11回上演される。

http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20121006000042