城郭探訪

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敦賀陣屋(鞠山陣屋) 越前国(敦賀)

2016年12月29日 | 陣屋

 

 

お城のデータ

所在地:福井県敦賀市鞠山 map:http://yahoo.jp/rsA2OY

別 称:鞠山陣屋

現 状:空き地〈元リコーの保養所〉

区 分:陣屋

築城期:江戸期(天和2年)

築城者:酒井忠稠

遺 構:なし(鞠山神社の由緒書)

目標地:敦賀市鞠山

訪城日:2016.12.18

お城の概要

敦賀陣屋は、リコーの保養所があった地に築かれていた。 現在は保養所も取り壊され更地となり、陣屋の面影すら無い。 ただ、隣接してある鞠山神社があり、稲荷神社に藩祖忠稠を合祀している。

陣屋跡は企業の保養所も遺構もないが、陣屋稲荷が旧位置に残っている。

お城の歴史

貞享4年(1687年)酒井忠稠によって築かれた。 小浜藩主酒井忠直が没すると遺言によって次男忠稠に敦賀郡内と近江国高島郡内あわせて一万石が分地され敦賀藩が立藩した。 はじめ定府大名として領地支配は小浜藩が執り行っていた。 文久元年(1861年)忠稠は若年寄を勤めた功によって千八百石を加増され城主格となった。
明治になり鞠山藩と改名されたが小浜藩に併合され廃藩となった。

陣屋跡地

光照寺

鞠山(遠景)

参考資料:鞠山神社由緒書


堅田陣屋 近江国(大津)

2016年11月09日 | 陣屋

お城のデータ

所在地:大津市本堅田1  map:http://yahoo.jp/I9WqCn

現 状:宅地・駐車場

区 分:陣屋

築城期:江戸初期

築城者:堀田氏

歴代城主:堀田正高・堀田正峯・堀田正永・堀田正賓・堀田正富・堀田正敦

遺 構:石垣・現地説明板

駐車場:拝観者用駐車場利用

訪城日:2013.4.4・2016.11.6

nobusan(中世の自治都市・堅田) より

お城の概要

堅田陣屋は景勝地である浮御堂満月寺の北側一帯に築かれていた。 ちょうど伊豆神社の東側一帯が「御陣屋」と呼ばれ陣屋跡であった。 伊豆神社の東側にある舟入遺構の所に案内板が設置されている。

お城の歴史

堅田藩(かただはん)は、近江国滋賀郡・高島郡(現在の大津市堅田)に存在した藩。藩庁は堅田陣屋。

元禄11年(1698年)堀田正高によって築かれた。 堀田正高が下野国佐野から一万石で入封し、堅田に陣屋を構えたのが堅田藩の始まりである。

文化3年(1806年)堀田正敦のとき一万三千石に加封され、文政9年(1626年)に一万六千石で再び下野国佐野に転封となり、堅田藩は消滅し天領となった。

戦国時代、堅田は堅田水軍と呼ばれる水軍衆がおり、安土城を本拠として天下布武を狙う織田信長にとっては、堅田は重要拠点と見なされていた。また、堅田は水運の要衝としても大いに栄えた。

中でも堅田は、織田信長や豊臣秀吉が重用した堅田水軍の根拠地であって、中世から江戸時代にかけては、水路権を握った堅田衆と呼ばれた人々によって、琵琶湖最大の自治都市を築いていた。この程度の知識は持ち合わせていたが、堅田に「湖族の郷(こぞくのさと)」が、

西イ港この程度の知識は持ち合わせていたが、堅田に「湖族の郷(こぞくのさと)」

近世には、元禄11年(1698年)3月7日、下野国佐野藩主であった堀田正高が1万石で堅田に移封されたことにより、堅田藩が立藩した。藩政の基礎は初代藩主・正高から第3代藩主・堀田正永の頃にかけて固められた。第6代藩主・堀田正敦は陸奥国仙台藩主・伊達宗村の八男であり、その経緯から若年寄、湯島聖堂再建の副奉行、『寛政重修諸家譜』などの編纂を務めるなど文教政策に携わっている。文化3年(1806年)には3,000石を加増され、1万3,000石の所領を領することとなった。なお、正敦は仙台藩の藩主に若年藩主が相次いだため、その補佐役も務めている。藩政においても5ヵ年に及ぶ倹約令を発し、藩財政再建に努めた。

正敦は文政8年(1825年)4月に城主格に任じられたが、翌年10月10日に再び佐野へ移封となったため、堅田藩はここに廃藩となった。

堅田の所領のうち、滋賀郡領は佐野藩の飛び地として幕末期まで受け継がれることとなった。

 

堀田 正高(ほった まさたか)は、下野佐野藩主、のち近江堅田藩の初代藩主。

徳川綱吉に仕え大老を務めた堀田正俊の三男。母は稲葉正則の娘。名は正有正在とも。

貞享元年(1684年)、父が暗殺されたときに1万石を分与され、佐野藩主となった。

元禄11年(1698年)3月7日、近江堅田に移封されて、堅田藩主となる。

享保7年(1722年)5月9日、七男・正峯に家督を譲って隠居し、

享保13年(1728年)5月29日に62歳で死去した。

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、『ウィキペディア(Wikipedia)』・現地説明板・nobusan(中世の自治都市・堅田)

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


朝日山陣屋 近江国(湖北)

2016年09月16日 | 陣屋

お城のデータ

所在地: 長浜市(旧東浅井郡)湖北町山本(朝日小学校) map:https://yahoo.jp/ugeuqV

区 分:陣屋

現状:朝日小学校付近 

築城期:明治期(明治3年(1870)

築城者:水野忠弘

遺 構:堀痕(水路)・道路より50cm程の微高地?

目標地:朝日小学校・朝日山神社

駐車場:朝日小学校の職員駐車場(朝日山神社駐車場)

訪城日:2016.9.9

お城の歴史

明治3年(1870年)水野忠弘によって築かれた。

明治3年(1870年)出羽国山形藩水野忠弘は奥羽越列藩同盟に参加し新政府軍と交戦したが降伏、近江国浅井郡で五万石を領して転封となった。
明治4年(1871年)には廃藩置県で朝日山県となり存続期間は僅か1年であった。

朝日山神社 御由緒
明治5年朝日山の山頂に鎮座されていた白山宮と中腹に鎮座の八幡宮を合祀し、且つ古殿地に古くから奉祀していた綏靖、安寧、懿徳の3帝をも合せ祀り、明治41年村社となった。山本山を背にした朝日郷は古くから開け開化天皇の皇子彦坐命の4世の孫が当地に住せられた時祭神の3帝を祀られたと伝承されている。平安期に僧最澄が山頂に白山比売神を勧請し、山本源氏義定同義経が中腹に源氏の守護神である八幡宮を奉斎したといわれる。あった。現社殿は天永年間の建造と伝えている。当社には古くから放生会という祭儀が伝えられており9月15日の例祭に行なわれる。朝日山は山本山ともいゝ、近江高天原の一説がある。
 
【山本源氏山本義定義経のよろいかけの松】が残る。

お城の概要  

現在は長浜市立「朝日小学校」となり遺構は?。

  

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、史跡ウォーカー、朝日山神社の由緒

本日の訪問ありがとうございす!!

 


永原御殿 近江国(野洲)

2016年09月15日 | 陣屋

お城のデータ

所在地:野洲市(旧野洲郡野洲町、)永原 map:http://yahoo.jp/nK6-06

築城期:織豊期

築城者:徳川氏

区 分:御茶屋御殿(平城)

遺 構:土塁、堀、石垣、門(浄専寺に移築された永原御殿の移築門)

城 域:200m×200m

目標地:野洲北中学校

駐車場:永原御殿前駐車場

訪城日:2012.12.14・2015.3.28、2016.9.14

お城の概要

本丸は竹林となっている。 本丸を取り囲む水堀の一部と民家の畑の土台として石積の一部が残っている。

 城域は永原御殿一帯から野洲北中学あたりまでが城域とされます。

永原城として紹介されている。城址は御殿跡一帯から野洲北中学あたりまでが城域とされます。

 永原御殿は、慶長6年(1601)に徳川家康が最初に宿泊した。

永原御殿の歴史

 永原氏が室町中期に永原城(上永原城)を築城し、文明12(1480)年頃には永原越前守重秀が、筑前守重頼が活躍をした。佐々木六角氏の氏族永原氏の居城。 佐々木六角氏が織田信長に滅ぼされると、永原氏は永禄11(1568)年の織田信長近江侵略に、六角氏と共に永原氏も衰退した。永原氏は野洲・栗東・甲賀の一部にまで勢力を持っていた。元亀元(1570)年には織田信長の重臣・佐久間信盛がこの永原城に入城する、のち永原氏は信長に許しを得て復活。

 永原城廃城後、天正14(1586)年に信長後天下を支配した豊臣秀吉が、徳川家康に永原のこの地を与え、後の「大坂冬の陣(1614)」・「夏の陣(1615)」などで家康、秀忠らが利用した。徳川将軍の宿泊地として永原御殿が築城された。

江戸時代には将軍が上洛するおりの宿舎として「永原御殿」が築かれた寛永11年(1634)年に徳川三代将軍家光が上洛するにあたり6倍の規模に大改修を行うも、徳川将軍が上洛の必要が無くなり、家光が最後に幕命で、貞享3年(1686年)廃城となった。

・・・その後現在に至る。

 

 なお、永原御殿の移築門は、野洲市北町の「浄専寺」移築されている。 

 

移築門

永原御殿の移築門は、野洲市北町の「浄専寺」移築されている。

永原御殿の概要

永原御殿は御茶屋御殿の遺構です。御茶屋御殿(おちゃやごてん)とは徳川将軍が上洛(じょうらく)の際に整備した宿泊所を指し、近江には東海道に水口城が、中山道に柏原(かしわばら)御殿、朝鮮人街道に伊庭(いば)御殿が、そして中仙道と朝鮮人街道の近くに、この永原御殿が整備されました。1国(旧国)に4ヶ所も御茶屋御殿が整備されたのは近江だけです。これは近江が京都に近く、朝廷を牽制(けんせい)するのに最も適した所だったためでしょう。永原御殿を始め各御殿は、いずれも石垣や土塁(どるい)を用いた城郭の構造を示しており、御殿が、単なる将軍の宿泊施設だけではなく、有事に備えた軍事施設の性格を併せ持っていたことを示しています。幕藩体制(ばくはんたいせい)が確立した三代将軍以降、将軍上洛の必要性がなくなり、これらの御殿は役目を終え、廃されることになります。

永原御殿の特徴

 永原御殿(永原城)は、慶長6年(1601)に徳川家康が最初に宿泊し、以後、家康が6回、二代秀忠2回、三代家光が寛永11年(1634)に泊まったのを最後として、計10回利用されました。
 現在は、石垣の一部と塀の一部と地割が残るだけですが、「御茶屋御殿指図」(おちゃやごてんさしず)が残され、堀・土居・塀・石垣に囲まれた郭の四隅に矢倉を設け、本丸、二ノ丸、三ノ丸がありその広さは約1万459坪に及んだことがわかります。

1634年(寛永11年)には徳川家光の上洛に備え、大規模な整備が行われています。永原御殿の施設としては、    草津市の史跡芦浦観音寺の中にある、重要文化財の書院が、ここから移されたものであるとの記録があります。
 また、御殿の復原模型が野洲市歴史民俗博物館に展示されています。

遺跡名:永原御殿跡(ながはらごてんあと)所在地:野洲市永原

 

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、遺跡ウォーカー、現地説明板

  今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました!!


朽木和泉守陣屋跡   近江国(近江八幡)

2016年08月21日 | 陣屋

お城のデータ

所在地:近江八幡市北ノ庄町 map:http://yahoo.jp/qRyzCC

区 分:陣屋跡

現 状:山林・山腹

築城期:江戸期

築城者:朽木和泉守

遺 構:石垣・・・

目標地:近江兄弟社霊園(近江八幡市北之庄町613)

駐車場:大江観音堂の前駐車場

訪城日:2016.6.18

 

お城の概要

朽木和泉守陣屋跡は、近江兄弟社霊園の山腹が、遺跡ウォーカーの比定地。

    近江八幡市北ノ庄町 map:http://yahoo.jp/qRyzCC

福知山藩・朽木氏庶流の代官所で 天保年間、朽木綱常に築城。

 朽木氏に与えられていた代官地が天領となったことによる代替のため、同郡内の木村および下小房村に新たな代官地が与えられた。 以降、明治維新まで朽木氏の領地となる。

北之庄村の山腹・山麓に代官所が構えられたとされる。

お城の歴史

 朽木氏は、旗本として江戸芝の西久保に屋敷を構えていたので、陣屋では代官が政務を司っていた。文政8年(1825)綱弘の子綱常の時に陣屋のあった八幡の中心地は天領となり、その代償として郡内木村及び下小房村を与えられ、旧陣屋(朽木主膳の陣屋)は信楽代官所に引き渡された。

 宝永五年から文教九年まで全市が朽木領となった。朽木綱常は天保年間(1830-43)、同じ八幡町内の北ノ庄村に新たに朽木和泉守陣屋を築き、陣屋に代官を配置し明治に至った。

 

『蒲生郡郡志 巻八』三一一頁 朽木陣屋跡 

 「朽木和泉守の陣屋跡は同(宇津呂)村北ノ庄の北郊外に在り、元禄十二年より朽木氏の領する所となりしが、始め陣屋は南津田村に在りしに天保二年に此地に移し明治二年まで継続せり、今畑地となれども石垣等現存する。」記すが、比定地は山林・山腹のようです。

 

近江兄弟社霊園

参考資料:遺跡ウォーカー、蒲生郡志、滋賀県中世城郭分布調査、

              本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!!  


万木(ゆるぎ)陣屋(東万木城)     近江国(安曇川)

2016年05月18日 | 陣屋

万木陣屋

お城のデータ
所在地:高島市(旧:高島郡)安曇川町青柳(旧:東万木)   map:http://yahoo.jp/l9tcaq
別 称:東万木城
現 状:集落・宅地
区 分:陣屋・平城
築城期:織豊期
築城者:万木能登守高成
遺 構:不明
目標地:日吉神社
駐車場:日吉神社横に駐車
訪城日:2016.5.15
お城の概要
安曇川町万木は西万木と東万木(現:青柳)の2つ集落で形成する。
  万木陣屋は東万木(現青柳)での聞き取り調査の結果、牢を伴なった施設があったとか、代官屋敷があったとかの口伝もみ、中世城郭の資料は無く、詳細不明。 
 万木は、現在安曇川町大字西万木と大字青柳(旧:東万木)にあたる。西万木には、中世城郭と関係する可能性の小字名「今城」「備後城」「殿馬場」などがあるが、地名以外に資料は無く詳細不明。また、東万木「現青柳」には、「城ノ腰」の地名が残る
お城の歴史
『佐々木南北諸氏帳』には、「高島郡 東万木城主 佐々木高島末 万木能登守高成」と記す。
高島硯「高島の地元に残る伝承では、天正年間、信長の比叡山焼打ち(元亀2年(1571)の際、万木(ゆるぎ)に逃れた万木城主能登守高成の末孫五郎右衛門貞次が阿弥陀山で中国製硯の原石に類似した粘板岩をみつけ硯にしたのがはじまりとされている」と、記されていた

なお、青柳(東万木)の徳正寺は『高島郡志』によれば、開基は、中村五良左衛門は、万木城主能登守高城の末裔で朽木氏仕え、天正の兵乱に本願寺蓮如に帰依し同寺を創建したいう。(滋賀県中世城郭分布調査8(高島の城)の解説)

 與呂伎神社の由緒には、東西の万木は、往古はことごとく森であり、清少納言の枕草紙に、「よろづになつかしからねとゆるぎの森にひとりは寝じとあらそふらんこそおかしけれ」と書くのも、ここの森のこと。鶯の森とも呼ばれていたようだ。 現在も社叢にはその森のイメージが残っているように見える。濃い。
   
    
  • 境内社
    • 秋葉神社(祭神…火結神)
    • 天満神社(祭神…菅原道真公)
    • 稲荷神社(祭神…忠茂大神、武丸大神)
  • 境外社
    • 太田神社…祭神は太田神、宇須賣命。かつては「新宮」と称した。式内社論社。
    • 與呂伎神社…祭神は子守神、勝手神。かつては「古守社」と称した。式内社論社。
    • 八幡神社…祭神は誉田別命、厄神、玉垂神、香椎神。建治3年(1277)の創建という。
    
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査8(高島郡の城)、 遺跡ウォーカー、與呂伎神社の由緒、一乗学アカデミー
 本日の訪問ありがとうございす!!

中山陣屋 近江国(日野)

2016年03月30日 | 陣屋

お城のデータ 

所在地:蒲生郡日野町中山西谷 比定地 map:http://yahoo.jp/YkvebM

現 状:宅地

遺 構:

区 分:陣屋

築城期:江戸期

領 主:関氏

目標地:光明院・中山西会議所

駐車場:中山西会議所に駐車

訪城日:2016.3.28

お城の概要

比定地は、個人宅の前の畑地で中山西会議所の向かいである。

比定地の近くの光明院は、元金剛定寺一院の一つであったが文明年間(1469-1487)真宗に改宗・ 光明永正年間(1504-1521)に中興。

お城の歴史

蒲生氏郷は、・・・その後は清州会議で優位に立ち、信長の統一事業を引き継いだ羽柴秀吉に従い、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは羽柴秀長の下、峰城をはじめとする滝川一益の北伊勢諸城の攻略にあたった。戦後、亀山城を与えられるが、氏郷自身は入城せず、家臣の関盛信を置いた

蒲生氏の家臣 関一政 (?~1625年)

 関盛信の子。天正十年末、蒲生氏郷は布施忠兵衛に嫁いでいた妹を離縁させ、関一政に嫁がせた。天正十一年、伊勢亀山城主。天正十二年、織田信雄と戦う。同年、蒲生氏郷から一万石を賜る。天正十八年、韮山城攻めに参加。同年十月、白河城四万八千石。文禄四年、豊臣秀吉から蒲生秀行の補佐を命じられる。慶長三年、蒲生家から独立し、信州川中島三万石。慶長五年、関ヶ原合戦で西軍に属し、竹中重門と共に東軍の犬山城を攻める。竹中重門が東軍に寝返る際、その説得を受けて共に寝返る。慶長十五年七月、伯耆黒坂五万石。慶長十九年、大坂冬の陣に参戦。

家臣同士の争いが起きた事から改易される甥氏盛が跡を継

関氏盛 (?~1674年)

  関盛吉の子。伯父一政の跡を継ぐ。安芸守。近江蒲生郡五千石。幕府寄合衆となる

 

中山西集落

光明院参道

蒲生氏の墓石

中山西会議所に駐車遺跡ウォーカーの比定地

旗本札

 ==== 近江国 ====
近江国における旗本札発行旗本の特徴としては、[交代寄合]または[旗本寄合席・寄合]といった大身旗本が発行元となっている点が挙げられる。

[高島郡 (滋賀県)朽木(現・滋賀県高島市朽木野尻)の[朽木氏](交代寄合表御礼衆)は[福知山藩]朽木家の本家筋で、足利将軍家が有事の際にしばしば頼った名家である。

[蒲生郡 大森(現・東近江市大森町)の[最上氏]は、[出羽国]の名族で山形城主であった最上氏が御家騒動により減知のうえ転封し、のち更に減知により国主格のままで交代寄合表御礼衆となった。

[神崎郡 (滋賀県)伊庭(現・東近江市伊庭町)の三枝氏は、甲斐国の名族で[武田氏]の重臣であった家である。

[蒲生郡]中山(現・蒲生郡日野町中山)の[関氏]は、[伊勢国]亀山城主や[伯耆国]黒坂城主を歴任した大名であったが、御家騒動により領地を没収され、養子が改めて旗本として取り立てられて成立した家である。

[蒲生郡 老蘇(現・近江八幡市安土町東老蘇)の[根来氏]は、[紀伊国]の[根来寺]に所属して[豊臣秀吉]の根来寺攻撃に抵抗し、のちに徳川家に属した成真院盛重の後裔である。

近江国の旗本札の特徴としては、銀建て、銭建ての札で、紙幣として使用されることが前提のものでありながら、朽木氏の炭切手、伊庭三枝氏の種切手、中山関氏の豆切手、老蘇根来氏の豆手形、大森最上氏の茶切手というように、いずれも商品切手[商品券]の名目をとっている点がある。近江国では、[彦根藩]、[膳所藩]、[水口藩]、[大溝藩]など、江戸期に発行された同国諸藩の藩札も同様の特徴を有している場合が多い。

 老蘇根来氏は、陣屋を構えていた老蘇のほかに、[大和国 [宇智郡]の知行地においても札面が類似した様式の紙幣を発行した。

参考資料:関氏 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、滋賀県中世城郭分布調査1、『日本城郭大系』11、蒲生の家臣団

    本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


山口陣屋(山口館) 近江国(甲賀・信楽)

2016年02月07日 | 陣屋

陣屋跡に『山口陣屋跡』碑建つ

お城のデータ

所在地:甲賀市(旧甲賀郡)信楽町下朝宮小字西堂坊 map:http://yahoo.jp/q2QKhA

別 称:山口館

区 分:陣屋

現 状:果樹畑

築城期:江戸期

築城者:山口氏

標 高:300m  比高差:ー

遺 構:基壇・空堀・切岸・腰巻石垣・曲廓・城跡碑

目 標:国道307号線沿い八坂神社

駐車場:国道307号線沿い八坂神社

訪城日:2016.2.5

お城の概要

 山口陣屋は山口氏の菩提寺である徳源寺の北西100m程の所に築かれていた。 現状は畑となっており、遺構には碑建つ、一段高く方形の土壇があり前方に小段が付いている。国道の反対側にある八坂神社は、寛永11年(1634年)に山口佐平太が社殿を創始し、元禄13年(1700年)に山口藤左衛門が社殿を再建の碑ある。

信楽町下朝宮集落の北、経塚山の山麓に位置している。
遺構は、山麓部を削り込んで台地とし造成した25m四方の区画を設け山側以外の三方を切岸とし、裾部に高さ1~2mの石垣を積み補強している。北西側には巾7mの谷状地形が認められ空堀跡とされる。陣屋の周辺には、山口氏の菩提寺である徳源寺や寛永11年(1634)に光正が社殿を創建した八坂神社が現存し、陣屋を中心に形成された集落形態が今も覗える。

歴 史

初代山口籐左衛門光英源助は朝宮城主として以来8代まで陣屋として存在していた。山口家が朝宮城領主として8代目まで陣屋として存在していた。多羅尾氏と親族である旗本山口氏の陣屋跡である。

天正10年(1582)光広の時、いわゆる「神君伊賀越え」に功があったとして、江戸時代に柞原下村、朝宮下村で各250石の500石余を与えられた。旗本として明治維新まで存続した。

 本能寺の変に先立って信長に招かれ安土で響応を受けた徳川家康は、変の時、和泉国堺界隈を遊覧しているところであった。信長死去のことを聞いた家康は、ただちに京師に馬を進めんて光秀を征伐せんとした。しかし、家臣らは寡兵の故もあって家康を押し止め、まずは本国三河に帰って兵を整えることを説いた。しかしこのときすでに、海道筋は明智方が押さえるところとなり、家康主従は長谷川秀一を先導として大和路より山川を経て漸く近江路へと落ちていった。
 ちなみに、家康と同じく信長に招かれていた穴山梅雪は、事変当時、家康とともに和泉方面にあったが、家康主従と別行動をとり、結局野伏に殺害されている。いいかえれば、家康もまた非常に危険な状況に身をおいていたのである。
 長谷川秀一は、以前より交流のあった田原の住人山口藤左衛門光広の邸に一行を案内した。光広は多羅尾光俊の五男で、山口家を嗣いだものであった。光広は家康一行を迎え入れ、このことを父光俊に急報した。光俊は嗣子光太とともに、光広の邸に急行し、家康に拝謁して改めて信楽の居宅に家康主従を迎え入れた。光俊は嗣子光太、三男光雅、山口光広らに従者五十人、さらに甲賀の士百五十余人をそへて家康を護衛、伊賀路を誘導した。そして、伊勢国白子の浜まで家康主従を無事送り届けることに功をなした。
菩提寺 徳源寺

やまいの看板の見える、畦道正面が陣屋跡

信楽川の八坂橋

八坂神社

滋賀県甲賀市信楽町下朝宮341

由緒書

八坂神社前の駐車可

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、武家家伝多羅尾氏、信楽の狸物語 狸宗苑のHP「山口陣屋跡と狸 (下朝宮)」

       本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


多羅尾代官陣屋跡(信楽(しがらき)陣屋) 近江国(甲賀・信楽)

2016年02月04日 | 陣屋

 

お城のデータ 

所在地:甲賀市(旧甲賀郡)信楽町多羅尾小字古殿 map:http://yahoo.jp/58wuAU

別 称:多羅尾代官所・設楽(しがらき)陣屋・設楽役所

区 分:陣屋

築城期:江戸期…寛永15年(1638年)

築城者:多羅尾光好 多羅尾家1500石(天領世襲代官)

城 主:多羅尾光好・多羅尾光忠・多羅尾光頭・多羅尾光豊・多羅尾光雄・多羅尾光崇・多羅尾氏純・多羅尾純門・多羅尾光弼

遺 構:内桝形虎口、石垣、屋形跡、家臣屋敷跡・井戸・・・現地説明板

標 高:485m 比高差:5m

目標地:多羅尾小学校

駐車城:多羅尾陣屋跡駐車場

訪城日:2016.2.3

お城の概要

多羅尾代官陣屋は上出集落の川の西側にある高台に築かれている。現在の地元で整備中で、概況は非常把握易い。公開日があるようで、この日は勝手に見学させて頂いた、

「表門」と呼ばれる橋の入口に案内板が設置されている。天空の郷 多羅尾ガイドブックも準備されている。

当時の建物は現存していないが、石垣や庭園が残っている。

歴 史

 多羅尾家は天正10年(1582)の本能寺の変に際して堺から伊勢湾へ帰途を急いだ徳川家康の「伊賀越え命からがら本領の三河へ戻る家康を、多羅尾光俊・光太父子が守護した恩に報いたものといわれる。

 寛永15年(1638年)多羅尾光好によって築かれた。 多羅尾氏は近衛経平の庶子高山師俊を祖とし、小川城を居城として設楽(しがらき)一帯に勢力を持った一族である。

 

多羅尾光太の娘が豊臣秀次に嫁いでいたことから、文禄4年(1595年)に秀次に連座して改易された。その後に徳川家康に召し出されて旗本となった。

 

慶長元年(1596)多羅尾光太の時、1500石拝領。子の光好が寛永15年(1638)に代官を命じられた。そして屋敷内に「代官信楽御陣屋」を設け、天保10年(1839)の支配地と支配高は近江・伊勢・播磨で55千石であった。家臣は江戸詰9人、信楽詰22人、四日市出張陣屋詰2人。 

菩提寺の小川の大光寺 

 

 

多羅尾代官屋敷跡

 多羅尾に「多羅尾」氏が生まれたのは、正應4年(1291)当時、信楽が藤原氏の一族・近衛氏の荘園だったころに始まります。この地には信楽荘という藤原氏の一族の近衛氏の隠居所があり、当時、左大臣・近衛経平が病弱なため職を辞してこの地に住み、この近衛経平と多羅尾の地侍の娘との間に生まれた男の子・高山太郎が、嘉元元(1303)年、母の里である多羅尾の地名を姓として、多羅尾師俊として改名し武士となり多羅尾家が始まったのです。

その後、この多羅尾家で歴史上名を現したのが多羅尾家14代目の光俊です。光俊は永正11(1514)年多羅尾に生まれ、佐々木六角高頼の配下であったのですが、高頼が死んでからは織田信長に仕えました。
そして家康との出会いは、記載にある「泉州を発したまひ、大和路より宇治を経て、江州信楽に入らせたまふ。」という、いわゆる本能寺の変の際の家康が「伊賀越えの難」にあったときです。
家康は本能寺の変で自分の身が危ないと察し、堺から急遽三河に急ぎ戻ろうとしたところ、何度も山賊や野武士に襲われ、やっとのことで宇治田原(現在の京都府綴喜郡)までたどり着いたのです。
宇治田原城主であった山田甚助の養子・藤左衛門父子は家康一行を厚くもてなす一方、実家の父・多羅尾城主に連絡し、光俊は二男の光太、三男・光定を迎えに出し、藤左衛門とともに多羅尾城に出迎えたのでした。
その後家康は多羅尾家一行に守られ無事伊勢白子浜に到着し、三河に帰ったのでした。

こうして光俊は天正14年頃には8000石の大豪族となり、秀吉の姉「とも」の長男で、豊臣家の世継ぎになっていた関白大政大臣秀次に光俊の孫娘「お万」が見初められ、秀次に「お万」を側室として差し出したのでした。
こうした中、秀次の素行が荒れだし謀反との噂の中、秀吉はついに秀次に切腹を命じ、四人の若君と一人の姫君、それに側室として仕えていたお万の方を含む34人、計39人を処刑したのでした。
そして光俊はじめ多羅尾家一族は秀次との関係から、本領、領地すべてを没収され伊賀国に隠れるような生活を強いられたのでした。

秀吉が亡くなり家康の天下となると、家康は早速光俊をはじめ一族の者を信楽に呼び戻し、当座の手当てとしてニ百人扶持を与え、光太を徳川家の旗本として取り立て、関東・上杉討伐に参戦、関が原の合戦で戦功のあった光太に、かつての多羅尾家の領地信楽7000石余を与え、弟の光定、山口藤左衛門なども旗本に取り立て、さらに光俊には隠居料として小川の800石を与え、昔の伊賀越えの難での恩に報いたのでした。
そして時代は下って寛永15年、江戸幕府は多羅尾家16代光好を代官に任命し、信楽・多羅尾村にある光好の屋敷内に代官信楽御陣屋という近畿地方の天領を治める役所を設けさせ、これが明治まで続いた多羅尾代官所の始まりとなったのです。
こうして歴史を追ってみると、多羅尾家がそもそも朝廷に近い近衛家の親類だったことで、「勝軍地蔵尊」像が多羅尾家に存在し、「伊賀越えの難」の際に守り神として家康に渡ったものであろうということが理解できるわけです。

「勝軍地蔵尊」が解決した次の謎であった梅の由緒もわかりましたね。曲垣平九郎盛澄が手折った梅だったのですね。「出世の石段」については後ほど見た後にしておきましょう。

  甲賀(こうか)市の西南端・旧信楽町内の南端の山間を多羅尾地区。 南側は三重県上野市と同県阿山郡島ヶ原村に、西側は京都府相楽郡山城町に接する山また山に囲まれた山村の集落である。
 そんな山の中に、江戸幕府は寛永6年(1629)土地の豪族・多羅尾家の16代城主・光好に、近畿地方の天領を治める「代官信楽御陣屋」(直轄代官)を命じた。 以来、明治維新(1868)まで約240年、支配地を信楽のほか近江甲賀、神崎、蒲生三郡と美濃、山城、河内の国々の天領にも広げ、最盛期には11万石、全国42の代官所中の首席となった。 このため最初10人程度の役人の数が40人にも増え、これらの人々が代官所周辺に屋敷を建て、その家来達も近くに住むようになって村は年々家、屋敷が増え、 それに江戸をはじめ各地から来る人達の宿屋や雑貨屋、酒店、魚屋のほか多くの牛馬も飼われ、鍛冶屋も出来るなど城下町らしい賑わいをみせていた。 それが明治維新で代官所の取り壊しとともに、各種の建物も無くなり、昔の山村に戻ってしまった。
 古い歴史の村を訪れる人達の“呼び水”ともなっている。“幻の城下町”ともいわれる多羅尾地区。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、遺跡ウォーカー、甲賀の城

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水口城(碧水城・水口御殿) 近江国(甲賀)

2016年01月19日 | 陣屋

 水口城跡(水口城資料館) 

 滋賀県甲賀市水口町本丸4-80

お城のデータ

所在地:甲賀市水口町水口字中邸(本丸部分) (旧甲賀郡水口町水口字中邸(本丸部分))    map:http://yahoo.jp/hjPmgf

別 名:碧水城

現 状:水口高校グランド

遺 構:出丸・本丸跡、水堀、土塁、石垣、移築門、説明板

 移築遺構:水口町・蓮華寺の本堂に水口城の玄関が大岡山(水口岡山城のある古城山)の麓の大岡寺に茶室が移築されている

 区 分:水口御殿

 築城期:江戸期 寛永9年(1632)

 築城者:徳川幕府

 城 主:初城主:坪内玄蕃(城代)

 城 域:360m×360m

 目標地:水口城、水口城資料館 

 駐車場:水口城資料館・体育館無料駐車場

 県指定史跡

 訪城日:2016.1.17

お城の概要

水口城は明治維新後廃城となり、建物や石垣の大半は撤去されたが、本丸跡地のみ保存され、水口高校のグランドとして使用されている。

 グランドの周囲には
今なお土塁が残り、その外周には水堀が巡り、北西角には乾櫓の櫓台が良好な状で残っている。

堀の水は湧水を利用しているといわれ、水深は15mもある薬研堀であるという。なお、水口城が碧水城とよばれる所以は涌水だけを使用していたためとされ、現在でも湧水の取り口や排水口は不明である。

 御成門付近の石垣と乾櫓の石垣は、中村一氏が築城した岡山城(水口古城)から運んだ石で積まれているとされる。

 大手門口の出丸部には、平成3年(1991)に模擬櫓(水口城資料館)が建てられている
 なお、水口町蓮華寺の本堂に水口城の玄関が大岡山(水口岡山城のある古城山)の麓の大岡寺に茶室が移築されている

北西角には乾櫓の櫓台

 

参加者全員23名

ドリル砕石の痕が残る。残念!

 

歴 史

 水口は京から伊勢へ通じる交通の要所にあり、中世後期にはすでに町並が形成されていたとされる。天正13年(1585)羽柴秀吉の命により水口岡山城が築かれ、その城下町として発展を見せた。

  関ケ原合戦後、この地を幕府直轄地とした徳川家康は、水口を東海道の宿駅に指定し、家康自身もしばしばこの地を通行し、宿内の大徳寺などに宿泊している。
   寛永11年(1634)三代将軍家光は上洛に先立ち、道中となる水口に専用の宿館を築かせたのが水口城である。近江には、柏原御殿、伊庭御殿、永原御殿がある。

 水口城の築城は幕府の直轄で行われ、その作事奉行には建築や造園、茶道などで知られる小堀遠江守政一(小堀遠州)があてられた。
延べ10万人の大工が動員され、本丸は京都二条城を小型にしたものと云われている。

しかし、その後家光は上洛することなく、幕府の管理下で城番が置かれた。なお、水口城は居館式城郭で本丸と二の丸曲輪だけで構成されていた

その後、天和2年(1682)加藤明友が入封して水口藩2万5千石の居城となり、別名「碧水城」といわれた城。

  

駐車場:水口城資料館・体育館無料駐車場

【水口藩 加藤家文書】

 江戸時代、水口には水口藩が置かれました。それは天和2(1682)年に、石見国吉永(現島根県大田市)から加藤明友が、1万石加増の2万石で就封したことに始まります。加藤家は「賤ヶ岳の七本鎗」の一人として有名な加藤嘉明を祖とする外様大名で、明友を初代藩主として、明英・嘉矩(以後2万5千石)・明経・明熙・明堯・明陳・明允・明邦・明軌・明実と幕末まで藩主をつとめました(ただし藩主としては明英と嘉矩の間に譜代大名の鳥居忠英が一代入り、明英以降は譜代格となります)。

水口藩は小藩とはいえ、甲賀地域に城を構える唯一の大名であり、甲賀の歴史に大きな足跡を残していますが、家臣団の構成や藩政機構、明治維新期の動向など、藩政の実態は史料の不足から不明な点が多く残されていました。

 老中奉書老中奉書(天和3年に水口城の門の立替えを許可する内容)

 
辞令
辞令(写)(明治2年に加藤明実を水口藩知事に任じる)

しかし、近年水口町内に大量の古文書が残されていることが分かり、その寄贈を受けたのを契機として、平成18(2006)年から4年をかけて詳細な調査を実施した結果、近世初期~大正期の総点数1万3983点にも及ぶ古文書群であることが判明しました。

「水口藩加藤家文書」と名付けられたこの古文書群には、実に多様な史料が含まれています。近世のものとしては、加藤嘉明へあてた豊臣秀吉・秀頼の朱印状をはじめ、徳川家康・秀忠以降家茂まで歴代江戸幕府将軍からの「御内書」(献上への礼状)約640通、水口藩の成立などを示す「老中奉書」約400通、幕府役人や他大名などからの書状約200通、加藤家が勤めた大坂加番などの軍役関係史料約180点、江戸藩邸でまとめられた藩日記、水口藩領の村絵図などがあります。

また近代以降のものとしては、王政復古の頃の水口藩知事任命書や、廃藩置県にともなう明治政府からの一連の通達類など、近代水口藩から華族加藤家への移行期に関するもの、また加藤家のみならず、華族全体の動向を知ることもできる書状・廻達文・記録などがあり、これらは、近世のものと合わせて、全国的にも貴重な古文書群であることが判明し、その成果は平成22年3月に甲賀市教育委員会が刊行した『水口藩加藤家文書調査報告書』にまとめられました。

 参考資料;滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭、甲賀市誌7巻甲賀の

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滝川陣屋(滝川氏館) 近江国(虎姫)

2016年01月16日 | 陣屋

お城のデータ

所在地:長浜市宮部町(旧東浅井郡虎姫町宮部) map:http://yahoo.jp/0NCYoz

現 状:公園・宅地

区 分:平城

遺 構:城跡碑、堀(用水路)

築城期:江戸期

築城者:滝川一明

目標地:宮部会館・宮部西薬師寺

駐車場:公園の駐車場利用

訪城日:2016.1.10

お城の概要
宮部集落の西部に宮部西薬師堂が現存する、その東側が陣屋跡で、明治期に宮部学校が建てられて現存する。
周囲は、堀跡(用水路)がは巡り、『滝川陣屋跡』の城跡が建つ。周囲は宅地化され、往時の遺構は堀痕だけである。
 
滝川陣屋跡(江戸期)のち宮部学校
歴 史
滝川一積は、天正11年(1583年)誕生。滝川一益の孫にあたる。父・一忠は豊臣秀吉により追放されて浪人であったため、一積もまた関ヶ原の戦い以前の行動は定かではない。旧知であった真田氏の元にいたともいわれ、関ヶ原の戦いの際に石田三成の妻の従兄弟である宇多頼次と離縁していた真田昌幸の娘・於菊を託されたという。

その後、織田長益の推挙によって中村一忠に仕えた。その直後の慶長8年(1603年)に徳川家康の下で2000石を拝領して家臣となっていた叔父・滝川一時が若くして死去し、子の滝川一乗が幼少ということもあって、一乗が15歳になるまでの名代に任じられて家康に仕えた(ほぼ同時期に米子藩では横田騒動が起こったことも理由の一つとしてある)。大坂の陣では、徳川方使番として活躍した。

ところが元和2年(1616)、一乗が15歳となっても所領を譲ろうとしなかったため一乗に訴えられ、その結果、一乗に750石を分与することとなり、一積は1000石の旗本となる(なお、その後この問題については結局うやむやとなった)。また於菊を妻にしていた縁から、討死にした真田信繁の娘を養女に迎え、伊予松山藩家老・蒲生郷喜に嫁がせるなど、たびたび真田氏のために働いた。

しかし寛永9年(1632)になって、幕府から突如としてこれら信繁の娘を養女として他家に嫁がせたことなどを罪状にされ、幕府使番の職を解かれて除封される。

実際には蒲生忠知家の内紛や、幕府内の勢力争いが背景にあったとされるが不明。ただし嫡子の一明は、寛文3年(1663)に再び幕府に300俵で召しだされ、幕臣となっている。 

 
 

参考資料:滋賀県城郭分布調査、淡海の城、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

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多羅尾氏の代官陣屋跡

2015年11月06日 | 陣屋

江戸時代の代官・多羅尾氏に脚光 滋賀信楽、住民が保存会結成

多羅尾代官陣屋入り口の正面石垣奥に明治30年代まであった番小屋跡を示す岩田会長(甲賀市信楽町多羅尾)

 徳川幕府から信楽の代官に任命され、幕末まで続いた多羅尾氏の代官陣屋跡(滋賀県甲賀市信楽町多羅尾)を観光スポットにしようと、地元住民らが保存会を結成し、10月末から一般公開を始めた。市が地権者と活用に関する協定を結んだのを機に、整備に取り組んだ岩田孝之会長(72)は「ボランティアガイドも養成し、村おこしにもつなげたい」と夢を膨らませている。

 多羅尾氏は、1582(天正10)年の「本能寺の変」で窮地に立った徳川家康が岡崎城(愛知県岡崎市)に逃げ帰った「伊賀越え」で、伊賀甲賀の道中警備をしたことで知られる。その功績で旗本に取り立てられ、信楽で代官に任命され、近江、河内、伊勢、大和の幕府直轄領を治めた。

 代官陣屋跡は広さ1・8ヘクタール。建物は残っていないが、精巧な切石積みの石垣や、江戸後期に作られた庭園などがある。主屋正面玄関床下には信楽焼の甕(かめ)二つが埋められており、水琴窟の原理で人が上を歩くと音が聞こえるようにした音響装置とみられる。同様のものは北海道函館市の奉行所跡に確認されているだけという。

 私有地のためこれまで非公開だった。今年4月に住民約80人が同跡保存会をつくり、県や市の補助金を利用して、うっそうと茂っていた雑木や古木を切り、坂道には階段を手作りし、散策できるようにした。陣屋跡の歴史や見どころを書いたガイドブック(A4判、8ページ)も市教委の指導で作成した。

 今後も整備を拡大しながら、春と秋限定の公開を続ける予定。今秋の公開は29日まで。午前9時~午後4時。見学は無料。問い合わせは多羅尾地域市民センターTEL0748(85)0001。

資料提供:京都新聞 2015.11.6


宮川陣屋(宮川氏館) 近江国(長浜)

2015年10月18日 | 陣屋

 

お城のデータ 

所在地:長浜市宮司町 maphttp://yahoo.jp/6VMuJJ

別 名:宮川氏館

区 分:陣屋

遺 構:城跡碑

築城期:江戸期・・・・・元禄11年(1698)

初城主:堀田正休

訪城日:2015.6.27、2015.10.17

お城の概要

日枝神社の前に宮川陣屋跡を示す石碑が建てられている現在は、陣屋跡の碑があるのみである(『名城をゆく(小学館)』)。
宮川陣屋は宮川氏館跡に建てられた。石碑の横には十一川が流れ、宮川氏の館が十一川を利用した形で建てられていたことが窺える。
 なお、一帯は蔵などの古い家並みが残る。

番場堀

お城の歴史

 宮川陣屋は元禄11年(1698)堀田正休が宮川藩の政庁として設けたもので、長浜平野を南北に走る加田街道と東西に走る長浜街道の交差する交通の要所に位置している。元禄十一年(1698)、上野国吉井藩から堀田正休が1万石で入封し、陣屋を構えた。

  宮川藩は寛延元年(1748)には3000石を加増され、その領地は坂田郡16か村のほか、他郡21か村に及んだ。(『名城をゆく(小学館)』)。

城主と見られる宮川氏は、『総持寺文書』中の永享5年(1433)屋敷寄進状に宮河光道等の名が見られるのが初見である。更に、総持寺の文書は、同氏が山門領坂田荘の下司・公公であったことも語ってくれる。

 

その城地として伝えるところはないが、宮司町(宮司は、明治7年宮川と下司が合併して成立)小字古殿が最もふさわしいだろう。この字内には、垣見氏館も含まれるが、元禄11年(1698)堀田正休が宮川藩の政庁として設けた宮川陣屋の跡地も存在する。

 

 この陣屋は宮川氏が田中吉政に従い筑後柳川へ転出した屋敷跡を利用して設けられたと考えることもできるでしょう。

当時の南東端で南川が十一川に合流し、南西端で十一側が分かれており、長浜平野を南北に走る加田街道と東西に走る長浜街道の交差する交通の要所に位置しているが、明治期の地籍図によれば、この二つの道は同字の東端を南北に重複していた事がわかり、宮司町内の元宮川村に属する当字には垣見氏屋敷が知られている。

東隣には元宮川山王と称した楞厳院荘の総社日枝神社があり、地名を姓にもつ宮川氏の屋敷が有ったものと思われる。

 宮川氏には永享5年総持寺文書の宮川光道や同11年長浜八幡宮塔供養の宮川又次郎らがいて、上坂に分家した宮川源六は上坂内蔵介に仕えている。

また、古殿の東半分は近世宮川藩の陣屋であったところで、十一川を隔てて満立寺がある。


元禄十一年(1698)、上野国吉井藩から堀田正休が1万石で入封し、陣屋を構えた。

宮川藩は寛延元年(1748)には3000石を加増され、その領地は坂田郡16か村のほか、他郡21か村に及んだ。現在は、陣屋跡の碑があるのみである(『名城をゆく(小学館)』)。 明治4年の廃藩置県により宮川藩は廃された。なお、同町小字古殿内には垣見氏屋敷があったとされている。

 宮川藩は元禄11年(1698年)に堀田正休が、上野吉井から近江国甲賀、坂田、蒲生、愛知4郡内に領地を移され、坂田郡宮川に陣屋を構えて成立した藩である。
 宮川藩堀田氏は堀田の宗家にあたり、先々代正盛は家光の寵臣として下総佐倉11万石にまで登りつめたが家光に殉死し、二代正信は無断帰国をして除封された。
正信は狂疾とされ、堀田家は正盛の忠義によって家名存続が認められ、正休に上野国吉井でで1万石が与えられ、さらに宮川に移された。
三代正陳は、延享2年(1745年)7月に若年寄、寛延元年(1748年)10月に西の丸若年寄となって近江国野洲郡、滋賀郡内で3千石を加増された。
最後の藩主正養は出羽亀田藩主岩城隆喜の子で堀田家に養子に入り、戊辰戦争では他の近江の小藩同様彦根藩の影響を強く受けて、新政府軍側に立った。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

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永原御殿 近江国(野洲)

2015年03月29日 | 陣屋

お城のデータ

所在地:野洲市永原 map:http://yahoo.jp/nK6-06

別 名:永原御殿

築城期:江戸期

初城主:徳川氏

区 分:御茶屋御殿

遺 構:土塁、堀、石垣、門(浄専寺に移築された永原御殿の移築門)

城 域:200m×200m

目標地:野洲北中学校

駐車場:永原御殿前駐車場

訪城日:2012.12.14・2015.3.28

お城の概要

 江部の交差点を西(琵琶湖方面)に約300m入ると、住宅地の中を抜けると、竹林がある。ここが永原御殿跡である。

地元の人たちはボランティアで竹を刈りたいと役所に申し入れたそうだが、御殿跡を保管管理する手前、許可されない。
御殿跡の西側には石積みが残り、御殿の門が同町の浄専寺に移築されているが、管理状態はあまり良いとはいえない。
また、草津の芦浦観音寺に貞享2年(1685)に移建された一棟が観音寺書院(重要文化財)として残されいる。

(野洲市歴史博物館)

お城の歴史

 永原御殿は、江戸期に将軍が上洛する際の宿舎として造られたもので、近江国内では永原御殿以外に柏原御殿伊庭御殿・水口御殿(水口城)がある。将軍家が中山道を通って上洛する場合、永原御殿の次の宿舎は京都二条城であった。
この永原御殿も、貞享3年(1686)、幕府の命によって廃城となった。

 近江守護の観音寺城主佐々木六角氏の重臣で、野洲、栗太、甲賀にまで勢力を拡げていた永原氏が築いた永原城がその前身で、その築城年代は定かではないが、室町時代中期といわれる。永原城は永禄11年(1568)、織田信長の近江侵攻の際に攻められており、元亀元年(1570)には信長の重臣、佐久間信盛が入城しており、その後、豊臣政権下の文禄年間(1592~96)に廃城となった。
 関ヶ原合戦後に家康公が権力を掌握すると、中山道と朝鮮人街道の近くにある永原城の跡地を利用して将軍上洛時の宿泊施設としての永原御殿が築かれた。永原御殿は慶長 6年(1601)、家康公が利用したのをはじめとして、その後、家康公が 6回、2代将軍秀忠が 2回利用し、寛永11年(1634)、3代将軍家光が上洛にあたり利用したが、これが10回目の、最後の利用となった。この後は徳川幕府の権力が磐石なものとなったことから将軍が上洛することはなくなり、各地の御殿と同じく、必要性のなくなった永原御殿は、貞享 2年(1685)に廃止された。尚、御殿の建物は芦浦観音寺(草津市芦浦町)に書院として移築されており、国の重要文化財に指定されている。又、浄専寺(野洲市北)には門が移築され、現在も残されている。

御殿跡の西側には石積み

浄専寺に移築された永原御殿の移築門

浄専寺に移築された永原御殿の移築門 (野洲市歴史博物館)

 永原御殿は御茶屋御殿の遺構。

御茶屋御殿とは徳川将軍が上洛の際に整備した宿泊所を指し、近江には東海道に水口城が、 中山道に柏原御殿、朝鮮人街道に伊庭御殿が、そして中仙道と朝鮮人街道の近くに、この永原御殿が整備されました。
1国に4ヶ所も御茶屋御殿が整備されたのは近江だけです

これは近江が京都に近く、朝廷を牽制するのに最も適した所だったため。

 (野洲市歴史博物館)

復元模型(野洲市歴史博物館)
永原御殿を始め各御殿は、いずれも石垣や土塁を用いた城郭の構造を示しており、御殿が、単なる将軍の宿泊施設だけではなく、 有事に備えた軍事施設の性格を併せ持っていたことを示しています。

幕藩体制が確立した三代将軍以降、将軍上洛の必要性がなくなり、これらの御殿は役目を終え、廃されることになります。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査・淡海の城・Wikipedia

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塩野陣屋   近江国(甲南)

2014年10月01日 | 陣屋

側溝の中に『塩野陣屋』

お城のデータ 

 所在地:甲賀市(旧甲賀郡)甲南町塩野字塩野172-1)   map:http://yahoo.jp/bhiY0K

 現 状:個人宅(民家)

 区 分:陣屋

築城期:江戸期

築城者:

城 主:三家の旗本が知行

遺 構:石碑

目標地:塩野温泉・草の根ハウス 

駐車場:路上駐車

訪城日:2014.9.30

お城の概要

 塩野陣屋(仮称)は、塩野集落のうち、中央東寄りの田畑の中に建つ民家付近に設けられていた近世陣屋跡である。

現在遺構は石碑のみ。なぜか民家の北側を流れる水路の中に「陣屋地」の石碑が残る



南方約100m地点には、中世の塩野城と詰め城 近江国(甲賀)所在する。

歴 史

江戸期の陣屋があった。

塩野には江戸期に、三家の旗本が知行していた記録があり、いずれかの陣屋が置かれていたと思われる。

詳細不明

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、お城のとびら

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