城郭探訪

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東野山砦と堀秀政の生涯『講座と現地見学』 近江国(余呉)

2018年05月25日 | 陣城

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信長の側近

天文22年(1553)、堀秀重の長男として美濃国で生まれる。幼い頃は一向宗の僧となっていた伯父・堀掃部太夫の元で従兄の奥田直政(後の堀直政)と共に育てられたという。

最初、大津長昌、次いで木下秀吉に仕え、永禄8年(1565年)に13歳の若さで織田信長の小姓・側近として取り立てられた(顔が美形だったためとも言われる)。16歳で、室町幕府15代将軍足利義昭の仮住まいの本圀寺普請奉行を担うなど、各種の奉行職を務め、側近としての地位を確立する。信長の側近には秀政のほかに、菅屋長頼福富秀勝・大津長昌・矢部家定長谷川秀一万見重元らがいる。

秀政は次第に奉行職だけでなく戦場でも活躍するようになる。織田軍の主要な合戦である天正3年(1575年)の越前一向一揆討伐に参加。天正5年(1577年)の紀伊雑賀討伐戦では信長本陣から離れ、佐久間信盛・羽柴秀吉らとともに一隊を率いる。翌年の有岡城の戦いでは、万見・菅屋らと鉄砲隊を率いる。天正7年(1579年)の安土宗論のとき菅屋・長谷川らと奉行を務める。翌・天正8年(1580年)、バテレン屋敷の造営奉行を菅屋・長谷川らと務める。同年、信長の蜂須賀正勝宛の書状に副状を出す、などがある。

また、叔父である蓮照寺住職に育てられた関係で、本願寺との交渉にあたり、石山本願寺との和睦と紀州鷺森への退城を促し、交渉に奮闘していたことも想像される。後に秀政は、本願寺顕如から釋道哲の法名をいただいている。(蓮照寺文書)

天正9年(1581年)の第二次天正伊賀の乱において信楽口からの部隊を率い、比自山城の戦いなどを戦い抜いている。この功績ならびに荒木村重討伐、越前一向宗制圧の功績により、この年、織田信長から長浜城主2万5,000石を与えられた。

天正10年(1582年)の甲州征伐では信長に従って甲信に入るが、既に織田信忠武田氏を滅ぼした後だったため戦闘には参加しなかった。本能寺の変の直前には、明智光秀徳川家康の接待役を外されたあと、丹羽長秀と共にこれを務めており、この接待を終えた後、備中の秀吉の下へ向かっている。

織田信長の弔い合戦でもあった山崎の合戦で、明智軍と戦い勝利を得た。それによって秀吉から羽柴姓を与えられた。天正11年の戦いでも武功をあげ、近江佐和山城を拝領し、9万国の城主となる。天正13年(1585年)には、越前北ノ庄城の城主となり、18万石の大名へとのしあがった。それほど秀吉の信任を得ていたことがうかがえる。

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東野山砦見学会

 お城のデータ

所在地:伊香郡余呉町東野  map:http://yahoo.jp/2sIxM6

別 名:実山砦,左禰山砦

築城者:東野備前守一族 

改築者:堀久太郎秀政

初城主:東野備前守一族

陣 将:堀久太郎秀政

区 分:陣城・砦

遺 構 :土塁,横堀,虎口,竪堀

城  域:250m×150m

標 高:407m    比高差260m

市指定史跡

訪城日:2018.5.24

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お城の概要

 

東野山砦は天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いに際して、羽柴秀吉軍の堀秀政が布陣した砦である。

 

 この東野山砦は羽柴秀吉軍の最前線に位置し、谷を挟んで北には今市上砦、北国街道を挟んで西側には佐久間盛政の行市山砦と対峙する。

 

 天正11年(1583)4月20日、行市山砦の佐久間盛政は中川清秀の大岩山砦を急襲し、“中入り”を成功させた。翌21日早朝、大垣からとって返した羽柴秀吉が大岩山砦を攻撃した時、玄蕃尾城から出陣して北国街道を南下してきた柴田勝家を北国街道の狐塚に釘付けにしたのが、この東野山砦に布陣した堀秀政軍である。

 東野山砦へは余呉小学校の南側から林道・東野中之郷線を車で約10分ほど登ると砦横に着く。訪れた時は砦一帯の下草が刈られており、下草の多い時期にも関わらず、状態良く残された遺構を見ることができた。地元の方々に感謝!

 東野山砦の縄張りは複雑で、賤ヶ岳の戦いで築城された陣城の中にあっては玄蕃尾城とこの東野山砦は双璧である。虎口は東西南北の四方に設けられており、いずれの虎口も折れを入れか、横矢掛けが考慮されており、土塁を石垣に替えれば、まさに近世城郭の縄張りである。

 中央部に主曲輪を置き、主曲輪の東西と南側に曲輪を配置し、北側は斜面を利用する形で築城されている。主曲輪を除いた3つの曲輪に虎口が設けられているが、主曲輪の東(背後)の曲輪には南北2つの虎口がある。つまり南側の秀吉陣側と北側の勝家陣側に虎口を設けており、この曲輪が守備と迎撃の中心的な役割を担っていたことが想定される。
 また、主曲輪の北側には物見台と考えられる高台があり、ここからは佐久間盛政や前田利家が陣取った行市山、別所山を真正面に望むことができる。

 滋賀県中世城郭分布調査資料によると、更に北側には尾根を断ち切る形で堀切・土橋が設けられていたようだが、現在では林道建設に伴い破壊されてしまっている。

 

 南側には竪堀が麓まで続いているのだが・・・・。

 余呉町には賤ヶ岳の戦いに伴い、20を越える陣城が作られているが、ここ東野山砦や玄蕃尾城は、天正年間における築城技術(縄張り)の粋が凝らされており、織豊系城郭の築城技術の発達を観る上で非常に貴重な遺構である。

 

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参考資料:Wikipedia、講演会資料、現地説明板

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来栖舘 近江国(多賀)

2018年05月22日 | 居館

栗栖館

 
時代
中世細分不明 
所在地
滋賀県犬上郡多賀町栗栖 
緯度経度
35.240417, 136.312028 
遺構概要
城郭分布調査1、城館。

お城の歴史
『淡海国木間攫』には、「犬上郡 来栖村 往古此所ニ久徳兵庫ト士居住スト云記ニ出ル、久徳左近兵衛ガ一族ナルベシ、古城跡今ニアリ」、又栗沢治右衛門、堀平左衛門等居住セリ云、是又古城跡今ニ有シト云、」と記す。

参考資料:城郭分布調査1、地図番号15。『日本城郭大系』11。 


三尾城(みおのき) 近江国(古代山城)

2018年05月22日 | 山城

三尾城(みおのき)は、近江国にあった日本の古代山城。城跡の所在地は不明で、現在の高島市付近に推定される。

『日本書紀』天武天皇元年(672)7月条によれば、天智天皇の死後に大海人皇子(のち天武天皇)・大友皇子の間で起こった争乱(壬申の乱)の際、大海人皇子方は大和国・近江国の2方面に各数万人の軍勢を配して進攻したが、そのうち近江方面軍はさらに湖北(湖西)方面軍・湖東方面軍に分かれ、湖北方面軍においては将軍の出雲臣狛・羽田公矢国らが北陸路を押さえたのちに7月22日に「三尾城」を攻め落としたという。

三尾城が記録に見えるのは、上記記事のみになる。

城名の「三尾」は地名で、『和名類聚抄』にも近江国高島郡に「三尾郷」と見えており、現在は滋賀県高島市安曇川町三尾里を遺称地とする。

同地は天智天皇・大友皇子の営んだ大津宮の北方に位置することから、三尾城は大津宮の北面防衛目的で築造された城であったと推測される。築城時期は定かでないが、天智天皇の時代には白村江の戦い(663)の敗北を契機として西日本の各地に古代山城(いわゆる朝鮮式山城や神籠石)が築城されており、三尾城も同様の背景による築城とする説が有力視される。

具体的な城の所在地は、現在も明らかでない。比定地には諸説あるが、特に白鬚神社(高島市鵜川)北側の長法寺山に比定する説が有力視される。同地では長法寺跡(伝・嘉祥2年(849)創建)や中世山城跡が重複することもあって、確実な遺構は明らかでないが、1982年(昭和57年)の調査では山中において7キロメートル以上に及ぶ長大な石塁などの存在が認められている。これを江戸時代のシシ垣(動物よけ)とする伝承もあるが、長大さ・水門などシシ垣にはそぐわない点も見られることから、(後世にシシ垣に転用されたとしても元々は)古代山城の遺構である可能性が指摘される。

なお三尾の地では、継体天皇の出自と関わる古代豪族の三尾氏が割拠したことが知られる。この三尾氏は朝鮮文化の影響を強く受けた氏族であることから、三尾城の築城主体に三尾氏を推定する説があるほか、実際の壬申の乱での三尾城主将に三尾氏を仮定する説もある。また、『日本書紀』天武天皇元年(672)5月是月条では「自近江京至于倭京、処処置候」として、道々には候(うかみ、斥候・監視所)が置かれたことが知られるため、三尾城は城郭ではなくこのような監視所であったとする説もある。

 


岩尾山城跡 近江国(甲賀)

2018年05月22日 | 山城

所在地:滋賀県甲賀市甲南町新田岩尾山 

緯度経度:34.888250, 136.127417 
遺構概要:城跡 
お城の概要
甲賀市甲南町域南西部、三重県境にそびえる岩尾山は、その名のとおり岩で覆われた標高471mの霊山です。平安時代初期に最澄が開山しました。
修験者、忍者の修練山で、中腹には屏風岩などの奇岩が点在しています。馬の形をした「おうま岩」、扇を開いたような「扇岩」や、たたくと木魚の音がする「木魚岩」など、その名もユニークです。
また、頂上からの眺めは360度の大パノラマ。眼下には杣川沿いに平野が広がり、遠くには鈴鹿山系を見渡すことができます。
 岩尾山の麓には、明治年間に農業かんがい用としてつくられた岩尾池が広がっています。この辺りは山と大自然の美を巧に取り入れた名勝地で、紅葉の季節は特に山々が真っ赤に色づき、とてもきれいです。
参考資料:遺跡ウォーカーの比定地、びわこビュロー

井口(いのぐち)城(弾正屋敷)  近江国(長浜市高月町井口)

2018年05月22日 | 居城

 

お城のデータ
所在地: 滋賀県長浜市高月町井口168 map:https://yahoo.jp/8kOIx9
別 称:弾正屋敷 
現 状: (学校・宅地)富永小学校
築城年:室町期 
築城者: 井口氏
区 分: 平城 (居城)

遺 構:石碑。現地説明板

目標地: 富永小学校

駐車場: 富永小学校来客用駐車場

訪城日: 2018.5.20 

お城の概要

井口城は 井口集落は高時川の水路が集落内を巡る。「高時川上流には井口氏が管理していた井関が今も残り、取水された用水が村々の水路をとうとうと流れ、中世以来の水利遺産」。

 高時川の中流、長浜市高月町井口が阿古(浅井長政の母)の故郷。阿古の父である井口弾正経元(つねもと)は、浅井家に仕える武将で、現在の富永小学校一帯に屋敷を構え、近くの真言宗豊山派の寺、理覚院は井口氏の菩提寺である。理覚院庭園は江戸初期の庭園で小堀遠州作とも言われているようです。

経元は浅井家の忠臣でした。長政の祖父・亮政の代のときにあった箕浦の合戦で、経元は亮政の身代わりとなって討ち死にしたと伝わっています。浅井家ではその忠義に応え、亮政の子であり、のちに長政の父となる久政のもとへ阿古を嫁がせたそうです」。

お城の歴史

『江州佐々木南北諸氏帳』には、

「伊香郡 井ノ口 住 佐々木隋兵 井ノ口宮内少輔 同 井ノ口仙蔵 同 黒田末 小寺重蔵 同 寺田半之助」名を記す。

井口氏は、近江佐々木氏の一族とも、崇峻天皇の後裔と云う近江中原氏の一族とも伝えられ、中世以来、高時川の「井預り」として湖北地方の水利権を掌握し、「湖北四家(磯野氏、赤尾氏、雨森氏、井口氏)」に数えられた。

 織豊期に浅井亮政からの姻戚関係を受け入れ、浅井氏の重臣に列するようになった。享禄4年(1531)の六角定頼との「箕浦の戦い」で、井口弾正経元は主君の浅井亮政の身代わりとなって討死し、亮政はこれに報いるため、経元の嫡男・経親を重用するとともに、経元の娘阿古を亮政の子・久政の室に迎え、阿古御料は長政を産んだ。    その長政は、織田信長の妹・お市を室とし、お茶々(後の淀殿)、お初、お江の三姉妹をもうけ、末娘のお江は二代将軍徳川秀忠の正室となり、その子の家光は三代将軍に、和子は天皇家へと嫁している。
阿古御料は、小谷城落城後に信長に捕らえられ、十指を毎日1本ずつ切断され殺されたという悲惨な記録が残る。

井口氏によって築かれたと云われる。高時川の「井預り」として水利権を掌握し、湖北四家の一つに数えられた。

浅井長政の母は「阿古(あこ)」という。江ら三姉妹の祖母である。高時川の中流井口が阿古の故郷だ。阿古の父である井口弾正経元は、浅井家に仕える武将で、現在の富永小学校一帯に屋敷を構え、近くの真言宗豊山派の寺、理覚院は井口氏の菩提寺である。
 「経元は浅井家の忠臣でした。長政の祖父・亮政の代のときにあった箕浦の合戦で、経元は亮政の身代わりとなって討ち死にしたと伝わっています。浅井家ではその忠義に応え、亮政の子であり、のちに長政の父となる久政のもとへ阿古を嫁がせたそうです。井口氏は代々、湖北を流れる高時川の水利権を統括する「井関預かり」であったことから、浅井家は自領への水利権を優位にするため、久政と阿古の婚姻を進めたとも考えられている。
 小谷城が落城する際、阿古は捕らえられ、信長の怒りによって指を数日に分けて切り落とされた後、殺害されたという記録が『嶋記録』という文書にある。信長にしてみれば、長政の母ということでの憎しみが相当あったのでしょう。久政は戦争を好まず、六角氏との争いを避けていたため無能と思われがちだが水利件を得ることで、領地に富をもたらした。
 井口弾正邸の石碑

井口弾正のお墓

井口弾正の菩提寺「理覚院 地蔵堂」

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、現地説明板

本日の訪問ありがとうございす。


雨森(あめのもり)城  近江国(高月町雨森)

2018年05月22日 | 居城

画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外

お城のデータ

所在地:長浜市高月町雨森 map:https://yahoo.jp/OMz0-B
区 分:平城  

現 状:宅地(雨森芳洲庵・雨森神社)
遺 構:郭・土塁・堀
築城期:室町期

築城者:雨森氏

城 主:雨森弥兵衛清貞
目標地:雨森芳洲庵
駐車場:雨森芳洲庵横に路上駐車
訪城日:2018.5.20

お城の概要

雨森氏によって築かれたと云われる。 湖北四家の一つに数えられた。

 雨森集落は高時川の西側在り雨森治兵衛尉清秀の居館。雨森集落の東にある雨森芳洲庵(東アジア交流センター)が城館跡、土塁が巡り、東側の土塁は高さもあり、雨森集落、井口集落は水路が集落内を巡り、高時川の水引かれいます。

 雨森芳洲庵がある。雨森芳州はこの地の生まれ。対馬藩の朝鮮方佐役という一種の外交官を務め、朝鮮通信使に通訳として江戸へ随行した。門をくぐると見える美しい庭は誰でも無料で拝観することができる。

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、空、屋外

お城の歴史

 北近江雨森氏

  藤原高藤の末裔、藤原高良の三男良高を祖とする。磯野氏、赤尾氏、井口氏とあわせて湖北の四家として知られ、室町期初頭には足利義満の命で後小松天皇の武者所となる。京極氏が守護職として赴任すると、これに仕えるようになる。

 その後、室町期後期から戦国時代には近江浅井氏に従う。浅井家にあって、雨森清貞は海北綱親、赤尾清綱とあわせて海赤雨の三将と呼ばれた。浅井氏滅亡後は各地に離散している。

 良高の末裔には、「雨森芳州家」、「出雲雨森氏」、「土佐雨森氏」、「雨森良意家」などがある。

雨森 弥兵衛尉

雨森氏は伊香郡雨森を本拠とした国人領主で、磯野氏、赤尾氏、井口氏とともに湖北の四家と称される。

 弥兵衛尉は亮政・久政に仕えて奏者をつとめる側近の一人だった。また、赤尾氏・海北氏と並んで「海赤雨の三将」とよばれる勇将で、浅井氏の一方の旗頭であった。京極高広と浅井久政が戦ったとき、海北善右衛門と雨森弥兵衛が戦死したことが「島記録」に記されている。長政の代になると雨森次右衛門、藤六の兄弟が活躍、元亀元年の姉川の合戦において奮戦したことが記録に残っている。

  戦国時代には雨森弥兵衛清貞がおり、海北綱親・赤尾清綱とあわせて「海赤雨の三士」と賞された。雨森氏は浅井氏が滅亡すると阿閉氏に従っていたが、阿閉氏も明智光秀に荷担して山崎合戦で滅亡し、雨森清次は渡岸寺村に蟄居した。

  雨森清貞は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。浅井氏の家臣。通称である弥兵衛の名で知られる。近江国伊香郡雨森城主。

 浅井久政の代から浅井氏に仕え、奏者として国政に参与し、各地の合戦で活躍していたようだが、清貞に関する資料が少なく詳しい事績はよくわかっていない。また、この清貞の名も確定的なものではなく、本当に「清貞」と名乗っていたかは不明である。

 雨森氏の事績に関しては、元亀元年(1570)の姉川の戦いにおいて、雨森一族の雨森清良がこの戦いで討死すると、生き残った弟・清次が家督を継承した。天正元年(1573)の小谷城の戦いで主家・浅井氏が滅亡すると、織田信長に降った阿閉貞征に属したが、天正10年(1582)の山崎の戦いで阿閉氏が滅びると清次は渡岸寺村[1]に蟄居した。清次の子・清広はその後松江藩に仕えた。雨森氏の末裔に江戸時代の儒学者雨森芳洲がいる。

雨森芳洲家(対馬藩)
 朱子学者、木角十哲の一人、雨森芳洲が出た家。朱子学者であった芳州は朝鮮ひいきであったため、望んで朝鮮半島の窓口である対馬藩の側用人となる。芳洲は、寛文八年(1668)生れで、一族の子孫であり、この雨森で生まれたとされますが、父は京都で医者をしていたこともあり、京都で生まれたという可能性もあるようです。
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参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、Wikipedia、

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馬上(まけ)城 近江国(高月町馬下)

2018年05月22日 | 居城

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お城のデータ

所在地:長浜市高月馬上 map:https://yahoo.jp/zWND5D

現 状:集落・宅地

区 分:平城

築城期:室町期

築城者:伊吹氏

遺 構:?

目標地:走落神社

駐車場:走落神社前路上駐車場

訪城日:2018.5.20

お城の概要

国道365号線の山田川の阿弥陀橋を渡り、ここはすぐ国道から離れて右手の道をとる。この先は水路が流れる風情ある馬上(まけ)の集落が続く。右手の奥に走落神社がある。式内社で由緒があるが、旧堂は山の上にあり、明治の台風で崩壊、改築で現地に移転してきた。
 神社を過ぎた先の三叉路の所に指先付の「左北国きのもと道」の道標が立っている。道標に従いここを左折して国道と合流する。  

お城の歴史

走落神社の由緒

Hashiriochi shrine.jpg

北国脇往還路として武門武将の往来繁く、この鳥居を通過の際は、必ず下馬拝礼した後に乗馬したと伝え、今もこの鳥居の近くに馬乗場という地名も現存する。天正11年賤蛾ヶ岳の合戦に際し豊臣秀吉美濃国より乗馬で来た折に、この鳥居の手前にて下車し戦勝を祈願したと伝える

Wikipediaには、、走落神社 (長浜市高月町馬上)

 天正11年(1583)賤ヶ岳の戦いに向かう豊臣秀吉は、当神社の鳥居の前で下馬し、必勝を祈願したと伝わっている。

高月町馬上の歴史

戦国時代に近江南部を治めた織田信長の軍団が、越前朝倉を攻める際、馬上の村に宿営したと伝えられている。

 『江州佐々木南北諸氏帳』には、「浅井郡 馬上 住 伊吹源十郎」の名を記す。高月町馬上集落には、伊吹氏館が存在した。

『ウィキペディア』には、「戦国時代に近江南部を治めた織田信長の軍団が、越前朝倉を攻める際、馬上の村に宿営したと伝えられている。」織田軍の佐久間信盛、柴田勝家らが布陣し、朝倉勢の援軍を阻止するために設けられ戦場です

これにより朝倉の援軍は小谷城に近づけず引き返すことになります。家臣の寝返りもあり、小谷城攻略の重要なところ。

信長公記 巻六 元亀四年

11、決壊  阿閉謀叛の事

 8月8日になり、江北の土豪阿閉淡路守貞征が信長公へ内通してきた。すると信長公は夜中にもかかわらず岐阜を出陣し、そのまま敵城月ヶ瀬城①へ攻め寄せ、翌晩までに開城させてしまった。そして10日には旗下の諸勢を大嶽北方の山田山②に集結させ、越前への主通路を遮断した。このため越前から出陣してきた朝倉義景の二万の援軍は小谷に近付くことができず、余呉・木之本・田部山③方面に布陣しなければならなかった。 また近年になって浅井久政は大嶽山麓の焼尾という地に砦を築いて浅見対馬に守らせていたが、この浅見も阿閉貞征にならって信長公へ通じた。  ①現滋賀県虎姫町月ヶ瀬 ②現湖北町下山田 ③現余呉町~木之本町

12、追撃  大筒・丁野攻破らるるの事

 信長公に通じた浅見対馬は、8月12日みずからが守る大嶽下の焼尾へ信長公の人数を引き入れた。その夜はことのほか風雨が激しかったが、信長公は虎御前山の本陣に嫡男信忠殿を残し、みずから馬廻を率いて大雨の中をずぶ濡れになりながら大嶽へ攻め上がった。大嶽には斎藤・小林・西方院らの越前衆五百ばかりが番手として籠っていたが、信長公直々の攻撃の前にたまらず降伏した。

 降伏した越前兵は、すべて討ち果たされて当然のところであった。しかし夜の闇に加えて折からの風雨が敵方の視界をさえぎり、当の朝倉義景がこの大嶽陥落を気付いていないおそれがあった。そこで信長公は降兵たちの命を助けて朝倉本陣へ向かわせ、彼らに大嶽が落去してもはや戦勢を支えがたくなった事実を知らせさせた。このとき信長公は、このまま一挙に朝倉義景の陣所を抜く考えを固めていた。

 信長公は大嶽に塚本小大膳・不破光治・同直光・丸毛長照・同兼利らを置くと、すぐさま丁野山①の攻撃にかかった。ここには越前平泉寺の玉泉坊が籠っていたが、これもまたたく間に降伏して退散した。

 大嶽・丁野の要害が落ちた今、信長公は朝倉勢が今夜のうちにも越前へ退却を始めると読んだ。そして先手の諸将へその旨を伝え、敵勢退却のときを逃さぬよう覚悟せよと再三にわたって命じた。しかしそれでも信長公は焦りと苛立ちを抑えきれず、13日夜ついにみずから先駈けをして越前衆陣所へ攻め入った。

 このとき先手として越前勢に近く布陣していたのは、佐久間信盛・柴田勝家・滝川一益・蜂屋頼隆・羽柴秀吉・丹羽長秀・氏家直通・安藤守就・稲葉一鉄・稲葉貞通・稲葉典通・蒲生賢秀・蒲生氏郷・永原筑前・進藤山城守・永田刑部少輔・多賀新左衛門・弓徳左近・阿閉貞征・阿閉孫五郎・山岡景隆・山岡景宗・山岡景猶ら歴々の諸将であったが、信長公よりの度々の下命にもかかわらず油断しきっていた。そこへ信長公先駈けの報が伝わってきたため、彼らはあわててその後を追った。そして地蔵山①でようやく信長公に追いつき、神妙な顔で御前に並んだ。信長公は「数度も申し含めたにもかかわらず懈怠するとは、なんたる曲事か。この比興者どもめが」と彼らを激しく叱責した。  

①現滋賀県木之本町内

画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、空、家、屋外

天正11年賤蛾ヶ岳の合戦に際し豊臣秀吉美濃国より乗馬で来た折に、この鳥居の手前にて下車し戦勝を祈願したと伝える。

画像に含まれている可能性があるもの:屋外画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外画像に含まれている可能性があるもの:屋外

 江戸期には、近江彦根藩の武士に、140石取りの都筑弥次右衛門家という武士の家がある彦根藩は平士以上は知行50石以上(江戸時代初期は35石)であり、馬上が許されました。直参の知行取の人数は時代によって異なりますが、明治元年の「侍中由緒帳」(彦根藩井伊家文書)による

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、Wikipedia(高月町馬上)、走落神社の社伝、『江州佐々木南北諸氏帳』

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箕作城(箕作山城・清水山城)近江国(五箇荘)

2018年05月19日 | 山城

 

お城のデータ

所在地:東近江市(旧神崎郡の)五個荘山本町  map:http://yahoo.jp/8eDKEd 

別 称:清水山城

区 分:山城

現 況:山林  

築城期:鎌倉期

築城者:六角政尭

遺 構:石垣・土塁・城跡碑・案内板:

標 高:325m 比高差:200m

目標地:貴船神社

駐車場:山本自治会館か・路上駐車

訪城日:2016.11.5

お城の概要

箕作城は、観音寺城と中山道を挟んだ南側に2つある山のうち、北側の峰上にあります。こちらの山を通常清水山と呼び、南箕作山と地元住民は呼び。すなわち、箕作(山)城は箕作山の上の箕作城には数千人を収容できるほどの規模はないため、南の箕作山には小脇山城がある。

城跡へは、北麓の貴船神社脇が大手であろう。南東麓の建部神社脇からは、近年地元住民が登城路を整備、西の主郭から、北西麓の清水鼻へ搦め手道か?

 今回は貴船神社参道脇から登下山した。尾根筋に出てすぐに、箕作城址石碑(大正期)が建つ。縄張り図によっては、ここも城内に含まれているのですが、石碑や鉄塔の建設によって地形が改変されいる。また比高差200mの急斜の尾根上で土塁は低土塁で

 主城域は、大きく分けて東西2つの曲輪からなっる。東側の曲輪が清水山山頂(城石碑建つ)にあたり、西の主郭には、石垣がわずか残る。両曲輪とも、城外側に虎口跡と石垣の痕跡が見受けられます。また、両曲輪とも樹木が伐採されていて、眺望絶景となって中山道のいます。、鉄塔建て替え工事に伴うものだ。新調された鉄塔の脇には、土塁跡

箕作城は、石垣や虎口を備えてはいるものの、両曲廓の尾根道脇は、5mの規模で、とても3千人が籠城。城内だけでなく清水山全体に陣取っていた。。

お城の歴史 

 応仁の乱の後、六角高頼に対抗するため、幕府が送り込んだ佐々木政尭が清水城を築いて籠城したといい、これが箕作城の前身とも云われる。 

永禄11年(1568年)織田信長が六角氏の観音寺城を攻めたとき、六角氏は箕作山城に建部源八郎と吉田出雲を入れて守りを固めた。しかし、佐久間盛信や木下藤吉郎などが攻めかかって城は落城、六角父子は夜陰に紛れて甲賀へ逃れたと云われる。

箕作城 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

箕作城(みつくりじょう)は、現在の滋賀県東近江市五個荘山本町箕作山の山上に築かれた六角氏の城館。

本丸の石垣がわずかに残る。

  • 応仁の乱で六角高頼の観音寺城に対抗して佐々木政尭(まさたか)が築城。

  • 天文19年(1550)頃、佐々木六角高頼が改修。
  • 永禄11年(1568)、織田信長の攻撃で落城し以後は廃城となった(観音寺城の戦い=箕作城の戦い}。

観音寺城の支城です。六角定頼が天文十九年(1550年)に改築城しましたが、永禄十一年(1568年)に織田信長の侵攻で落城しました

 

信長公記 巻一

4、上洛  信長入洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるるの事

 永禄11(1568)年9月7日、信長公は義昭殿の元へ参上し、出陣の挨拶を述べた。

「江州をひと呑みに討ち果たし、お迎え申し上げる」
そうして信長公は濃尾勢三(信長所領の兵に家康の援軍も加え、総勢四万~六万と伝えられる。)四州の軍兵を率い、同日岐阜を出立した。

 軍勢は平尾村(現岐阜県垂井)で夜を明かして翌8日江州高宮(現滋賀県彦根市)まで進み、この地に二日間滞在して人馬の息を休めた。11日になって休息を終えた軍勢は愛知川近辺まで進軍して野陣を張った。ここから馬を駆けまわして付近の敵状を探索した信長公は、沿道に散在する敵城には目をくれずに進軍し、六角承禎親子が立てこもる観音寺城(現・安土町)に近接する箕作城(現五箇荘)へ向かった。翌12日、信長公の命を受けた佐久間信盛・木下藤吉郎秀吉・丹羽長秀・浅井新八らによって箕作城の攻撃が開始された。攻撃は申刻(午後3時過ぎ)より始まり、夜半に城は落ちた。

 信長公の所領となってまもない美濃の将士は、この戦ではさだめし先手として追い使われることになろうと覚悟していた。しかしいざ戦が始まってみると、信長公は美濃衆などに構わず馬廻りだけで攻撃を開始してしまった。この思いもよらない戦の仕方に、美濃三人衆などはただ驚くばかりであったという。

 落城後、信長公は箕作山に陣を据え、翌日にも六角氏の本拠観音寺城を攻める勢いを示した。ところが箕作の陥落をみた承禎親子は抵抗は不可能とみて城を捨てて逃亡してしまった。翌日織田勢はやすやすと観音寺城へ入城を果たした。観音寺落城によって付近の六角残党が軒並みに降伏してきたため、信長公は人質を差し出させた上で彼らの所領を安堵してやり、一国を支配下に収めた。盟約通り江南を平定した信長公は、14日不破光治を迎えの使者に立てて美濃立正寺へ向かわせた。・・・云々

箕作(みつくり)城の戦い

  箕作山は標高3百メートル余の小山であったが、城へ通じる道は急斜面に一筋しかなく、大樹に覆われた要害であった。守将は剛勇で知られた吉田重光・建部秀明・狛修理亮・吉田新助などで3千余人が防備にあたり、徹底抗戦の構えを見せていた。

  これに対して織田軍は東口から丹羽長秀隊3千余人、北口から羽柴秀吉隊2千3百余人が攻め立てた。しかし城方の守備は堅固で、日没まで陥落させることができなかった。そこで秀吉は蜂須賀正勝の夜襲案を採用することにした。

 1メートルほどの大松明を数百本用意し、箕作山の麓から中腹まで50箇所ほどに積み重ねておき、頃合いを見て一斉に点火し、いわゆる火攻めを行うというものだった。それと同時に秀吉隊も手に松明をかざして一斉攻撃を展開したために城兵たちも防ぎきれず、2百余人の犠牲者を出して退散してしまったのである。

 この箕作城の陥落を知った和田山城では一戦も交えることなく全員が逃亡し、観音寺城の義賢も完全に戦意を失い、夜陰に紛れて甲賀郡へと落ち延びていった。翌日になって義賢父子が逃亡したことがわかると六角氏重臣の平井定武・後藤高治らもことごとく信長に降った。

  最後まで抵抗の姿勢を示した日野城主の蒲生賢秀(氏郷の父)も、神戸友盛の説得によって降伏した。

 観音寺城の戦いは、永禄11年(1568年)9月12日、足利義昭を奉じて上洛の途にあった織田信長と近江守護である六角義賢・義治父子との間で行なわれた戦い。支城の箕作城(みつくりじょう)が主戦場だったため、別名「箕作城の戦い」とも云われている。

 しかし信長の行動はその裏をかいた格好となった。

 9月12日早朝、織田軍は愛知川を渡河すると、3隊に分かれた。稲葉良通が率いる第1隊が和田山城へ、柴田勝家と森可成が率いる第2隊は観音寺城へ信長、滝川一益、丹羽長秀、木下秀吉(後の豊臣秀吉)らの第3隊が箕作城に向かった

 戦端は箕作城でひらかれた。木下隊2千3百が北の口から、丹羽隊3千が東の口から攻撃を開始した。この箕作城というのは急坂や大木が覆う堅城で、吉田出雲守隊の守りも固く、午後五時前後には逆に追い崩されてしまった。

 木下隊では評議を行い、夜襲を決行することになる。木下秀吉は策をめぐらし、3尺の松明を数百本用意させ、中腹まで50箇所に配置し一斉に火をつけ、これを合図に一挙に攻め上った。7時間以上戦ったその日のうちに夜襲を仕掛けてくるとは考えてもいなかったのか箕作城兵は驚き、必死に防戦したが支えきれず、夜明けを待たずに落城してしまった。かなりの激戦だったらしく、200以上の首級が上がった。箕作城の落城を知った和田山の城兵は、戦わずに逃亡してしまった。

 長期戦を想定していた六角義治は、戦端が開かれてから1日も立たずに箕作城と和田山城が落ちたことに落胆し、観音寺城の防備が弱いことを悟ったのか、古来の例にならい夜陰に紛れて甲賀へ落ち延びていった。当主を失った18の支城は、1つを除き次々と織田軍に降り、ここに大勢が決した。この戦いの織田軍の損害は1500人ほどだと『フロイス日本史』に記載されている。

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査・『ウィキペディア(Wikipedia)』・『信長公記』

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遠藤嘉右衛門(直経)の墓

2018年05月16日 | 武将

画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、空、草、屋外、自然

遠藤塚の位置 map:https://yahoo.jp/Oja3cw

お城の歴史

『江州佐々木南北諸氏帳』には、「坂田郡 須川 住浅井隋兵 遠藤主膳 遠藤喜右衛門(直経)」と記す。

遠藤直経(えんどう-なおつね)は、近江の須川城主・遠藤主膳の子として1531年に生まれました。通称は遠藤喜右衛門。

藤家の先祖は近江に所領を得た鎌倉武士で、まだ浅井家が京極家の被官に過ぎなかった頃からの、浅井家における譜代の家臣でした。

要するに浅井家は京極家の家臣だったのですが、浅井亮政が主家の衰退に乗じて下剋上を成し遂げて、小谷城主として独立し、朝倉家の支援を得て戦国大名となります。
すると、遠藤家は小谷城下にある清水谷に屋敷を与えられた重臣となっていました。

他の写真 https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1308429692652936

画像に含まれている可能性があるもの:植物、草、木、屋外、自然

遠藤直経は浅井家随一の智将写真の説明はありません。

ウィキペディアは、直経は近江国坂田郡(現・滋賀県米原市)の柏原庄の出身。代々須川山一帯をおさめ須川城を居とした。

赤尾氏などと同様、浅井氏が京極氏被官であった頃以来の譜代の家臣であった。遠藤直経が討ち死にしたと伝わる地に遠藤塚があったが、現在は取り壊され、移転された場所に直経の墓がある(滋賀県長浜市)

遠藤直経

遠藤 直経(えんどう なおつね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将浅井長政の家臣で、知勇兼備の謀将として知られる。通称は喜右衛門(きえもん)。は直経であるが、史料・講談等では遠藤喜右衛門の名で登場する。

 
 
遠藤直経
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「太平記英勇傳・遠藤儀右衛門政忠(歌川国芳作)」
時代 戦国時代
生誕 享禄4年(1531年[1]
死没 元亀元年6月28日1570年8月9日
別名 通称:喜右衛門または喜右衛門尉
主君 浅井久政長政
氏族 遠藤氏
父母 父:遠藤主膳
孫作、喜三郎[2]仁兵衛

生涯

遠藤氏の先祖は、鎌倉武士の出身といわれ鎌倉時代に近江に所領を得て下向したとされている。直経は近江国坂田郡(現・滋賀県米原市)の柏原庄の出身。代々須川山一帯をおさめ須川城を居とした。赤尾氏などと同様、浅井氏が京極氏被官であった頃以来の譜代の家臣であった。

小谷城下の清水谷に居館を持つことを許されており、直経自身は子に居城を任せ館に在番していた。直経は浅井長政の傅役的存在で長政が幼い頃から相談役を務めてきた。そのため長政からの信頼が厚く、長政が六角氏攻めを決意するに当たり真っ先に相談をしたのが直経と浅井玄蕃だった。


早くから織田信長の底知れぬ才能を見抜き、永禄11年(1568年)、まだ浅井家と織田家が同盟関係にあった時、近江佐和山城を訪れた信長の接待役を命じられていた直経は、信長暗殺計画を長政に進言した。しかし、長政(または久政)は毒殺は信義に反するとしてそれを受け入れず、直経も主君の命に背くわけにはいかずに、結局暗殺計画は未遂に終わった。

朝倉氏と織田氏との関係が悪化すると朝倉との旧縁を重んじるべきか、織田との婚姻関係を重んじるべきかの決断を迫られていた際、直経は織田側につくべきであると強硬に主張した。これには朝倉家当主の朝倉義景の優柔不断な対応に直経が愛想を尽かしていたことに加え、浅井側の重臣として信長と接するうちに信長の内政外交の手腕を高く評価するようになったという事情があった。結果的に長政の父・久政らの朝倉側につくべきとする意見を長政が採用したことから、またも直経の進言はいれられなかった。[要出典]

元亀元年(1570年)の姉川の戦いで、浅井軍総崩れとなって大敗が濃厚となった後、直経は味方武将三田村左衛門の首級を掲げて織田の武将に成りすまして敵陣に入り、信長の暗殺を謀った。しかし本陣の信長まで手前数十メートルのところで竹中重治の弟・竹中久作(重矩)またはその後見として参加していた不破矢足に見抜かれてしまい、捕らえられ斬首され、その首は竹中久作の手柄となった。竹中兄弟は以前美濃国斎藤家を離れた後、客分として浅井家中にあった時期があり、浅井家の重臣である直経の風貌を知っていたためといわれている。

odani84-s小谷城下の遠藤屋敷址(滋賀県長浜市)

画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、空、草、屋外、自然遠藤直経が討ち死にしたと伝わる地に遠藤塚があったが、現在は取り壊され、移転された場所に直経の墓がある(滋賀県長浜市)

参考資料:現地説明板・ウィキペディア 

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総山城 近江国(長浜 垣籠/米原山東 村井田)

2018年05月15日 | 陣城

画像に含まれている可能性があるもの:屋外

お城のデータ

所在地:長浜市垣籠/米原市山東町村居田   map:https://yahoo.jp/iSGREu

現 状:山林・山頂(古道)

区 分:山城砦

築城期:織豊期

築城者:織田軍(氏家直元か)

遺 構:土塁・堀切・堀割・曲輪

標 高:229m 比高差:100m

城 域:100m✖250m

目標地:長浜垣籠 天満神社

駐車場:天満神社鳥居横駐車場

訪城日:2018.5.11

お城の概要

 長浜市垣篭町と山東町村井田の境界の臥竜の尾根に、横山城から見れば尾根伝いに北の地点、龍ヶ崎砦の中間に、横山連峰の北の端も最高所。

 総山城は標高229mに郭があり、尾根伝いに北に115mの間に6箇所の郭を段城に配し、南に130mの間にも1条の堀切と5箇所の郭を設けており、姉川の古戦場を見渡せる。

最南端は峠道が掘割(高約10m×幅約10m)。これは尾根道を遮断する為に、本来の峠道を”姉川の合戦”の時にさらに掘り下げたか?

 最高頂は曲輪跡、南端の掘割の北側ピークは「犬飼古墳」であり、本来の古墳地形に防禦を加えたか?。垣篭町一帯には多くの古墳が散在する。

お城の歴史

 姉川の合戦における浅井家の被害は甚大で、長政が信頼していたと言われている重臣遠藤直経や長政の実弟浅井政之をはじめ、浅井正澄、弓削家澄、今井氏直ら浅井家で中心的役割を果たしていた武将が戦死した。

朝倉氏では真柄直隆、真柄直澄、真柄隆基らが討死した。両軍は戦場からの撤退戦で多くの戦死者を出した。一方、初期戦闘で苦戦した織田方では坂井政尚の嫡子である尚経らが戦死している。横山城は降伏、信長は木下秀吉を城主にした。

 城郭資料は不明で、姉川戦いで織田軍の陣城として急造されたか?。規模と築城技術から推測される。画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外犬飼坂を登る。

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然堀切として、掘下げられた峠道

画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外、自然長陵への参道

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然山城へのハイキング道を北へ

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然南端の犬飼古墳の石碑

画像に含まれている可能性があるもの:植物、草、屋外、自然古代文字刻印石碑

他の写真

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1318668001629105

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1318668561629049

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査・現地古墳説明板・ウィキペディア

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木尾城 近江国(長浜市浅井町木尾)

2018年05月15日 | 丘陵城

 写真の説明はありません。

お城のデータ

所座地:長浜市木尾 map:https://yahoo.jp/CFa3Ss

通 称:城山

区 分:平山城

現 状:森林(自然林)

築城期:

築城者:

遺 構:曲輪・櫓台・坂虎口

標 高:127m  比高差:20m

目標地:あねがわ温泉(を500m北上北側急陵)

駐車場:南側の城址空地に駐車

訪城日:2018.5.11 

お城の概要

現状、平山で自然林で矢竹の密集で、藪漕ぎして頂部を目指したが、遺構の見学は断念した。

北側の麓に、滋賀県教育委員会の「文化財を大切にしよう」の石柱が二本立っている。

城山の周囲は、農地整備が進み「城山」だけ残るが、その城山に重機で破壊されされ初めている。

お城の歴史

城山(木尾城)について・・・『木尾のいまむかし』・・・(1995年4月 佐治寛一著『喜寿の春』)

『木尾のいまむかし』には、「慶長七年検地帳に地名として掲載され「じようやま」と称しその他古書に散見される。

城山は、壬申の乱の戦跡にして当時近江軍が拠守せし塁砦であり、西北東の三方に城の腰・白渕・古淵の地名が有る様に、川や沼に囲まれた一大要害であった。

麓より弥生時代の石棒が出土(県の博物館に保管されている)、又麓には横穴式の登り釜や八嶋持等跡ある。此の一帯は古くより開かれ重要な位置を占めてた。

アセビ林道に多くの古墳と城郭あるが、この城山を起点してるもようである。調査の結果、中央に大きな古墳が二基ある。

北側には、小谷城へ通じる主要道ある。おそらく中世の烽火(のろし)場であり、小谷城・横山城との烽火の中継点であった思われる。

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、空、草、屋外、自然

他の写真https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1318666204962618

参考資料:滋賀県城郭分布調査、長谷川博美氏の資料、『木尾のいまむかし』、遺跡ウォーカー

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木尾館  近江国(浅井 木尾)

2018年05月15日 | 居館

画像に含まれている可能性があるもの:屋外木尾町公民館前

お城のデータ

所座地:長浜市木尾町 map:https://yahoo.jp/6bNUoJ http://www.isekiwalker.com/iseki/244276/

現 状:木尾集落宅地

区 分:平城

築城期:室町期

築城者:早水(速水)大隅守

目標地:木尾町公民館

駐車場:木尾町公民館

訪城日:2018.5.11、2018.5.20

写真の説明はありません。

お城の歴史

『淡海国木間攫』には、「木ノ尾村 枝郷大滝村。野田村ノ南ニアリ。枝郷大滝村ハ北ノ方ノ別住ス。昔早水(速水)大隅守ト云武士居住ス。宅地跡残レリ。当所ニ田根ノ沼云テ二ケ所アリ。民族相伝云」


他の写真https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1318666771629228

木尾館遺跡 第5次調査-建物の柱や溝の跡が見つかりました-(木尾町)http://www.city.nagahama.lg.jp/0000000386.html

 木尾館遺跡第5次調査 全景木尾館(きおやかた)遺跡は木尾町にある中世の城館跡として知られています。天守閣などが建っていたような城ではなく、中世の武士が住んでいた居館の跡です。

木尾館遺跡第5次調査は、個人住宅建築にともなう発掘調査です。調査では柱穴や土坑(柱以外の穴など)がたくさん見つかりました。時代は中世で、掘立柱建物(ほったてばしらたてもの=地面に穴を掘って柱を立てた建物)などからなる集落の跡と考えられます。

 

木尾館遺跡第5次調査 柱出土状況出土品は土師器皿※1や陶器※2、の破片などが見つかりました。中には、縁の部分が焼けこげており、燈明皿(とうみょうざら※3)として使用した跡が残る土師器皿の破片もありました。

柱穴には柱の根元が残っていました(写真中)。柱は立てられたままの状態で出土しました。上の方は腐ってしまっていましたが、残っているものには運ぶ時に引張るためのひもなどを通すための穴が加工されているものもありました。

溝では土が崩れないように板と杭を用いて土を留めた板柵土留がされていました。(写真下)

木尾館遺跡溝第5次調査 板柵土留

 ※1 土師器 素焼きの焼き物 ※2 陶器 窯で焼かれた硬質の焼き物 ※3 燈明皿 電気の無かった時代に、明かり用に皿の中に油を入れ、ひもをつけ、火をつけたもの

(平成25年7月10日発行)

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、『淡海国木間攫』、発掘調査報告書

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