観音寺城の「奥の城」「隠れ城とも云える城
お城のデータ
所在地:湖南市吉永字城山(旧甲賀郡甲西町吉永字城山)map:http://yahoo.jp/cF63nT
別 名:吉永城
区 分:山城
遺 構:土塁,堀切,空堀,枡形,土橋,石垣,井戸
築城期:長享元年(1487年)
築城者:三雲典膳
初城主:三雲典膳(佐々木六角)
標 高:314m 比高差:140m
城 域 :300m×200m
訪城日:2012.1.24
探訪 三雲城・・・観音寺城の「奥の城」とも云える城
お城の概要
青少年自然道場手前の道路際に車を置いて、舗装された林道を歩くこと約20分で三雲城址の石碑が建つ登城道に着く。
城道は北尾根を登る、桝柄虎口までは、後世の砂防石垣。
山腹には巨石による枡形虎口が設けられ、「ミニ観音寺城」といった観がある。山頂の主曲輪は25m×15m程度で、主曲輪の西に堀切を挟んで15m×15m程度の砲弾型の曲輪(2の曲輪としておく)があり、曲輪西側には土塁が確認できる。
この尾根の東斜面は傾斜が緩やかだが、土塁・馬の背道~六角の家紋岩・八丈岩(見張台)。
2の曲輪から西へ延びる尾根は「馬の背」状に細くなり、この尾根を4条の堀切で処理している。
しかし帰路は三雲城址の石碑から谷を下りる。
の谷筋を通っても石垣が積まれている。後世の砂防石垣。
佐々木六角氏の家紋(目結紋「平四つ目」)」
佐々木の城「観音寺城・小堤城山城・三雲城」の特徴点
・主郭に庭園を備え
・山頂部に物見曲郭・狼煙台
・主郭を取り巻く石垣を多用した曲郭。「信長以前の城は土の城」
二の丸の枡形虎口です。
枡形の上段にある平坦地の二の丸には、井戸が残っています。これも築城当時のものと云われています。井戸があるということは、この場所で生活をしていたという証拠になります。
井戸を覗いてみましたが、石で側面を作ったしっかりしたものでした。井戸には危険防止の柵が。
主郭部分は、整備が進んでいません
石碑のある登り口から整備された階段状の城道を登ると、すぐ左側に石積みが何段にも続く(後世の砂防石積)。少し登ると右側に削平地があり小さな石を積んだ石垣がある。これらは後世の砂防石積。
歴 史
・・・・・信長公記 三巻10月20日の条・・・・・
江南では六角承禎親子がふたたび起こり、甲賀口の三雲氏居城・菩提寺城まで寄せてきたが、人数が少なく戦の体にならなかった。また江州の本願寺門徒も蜂起し、濃尾方面への通路を閉ざそうとしたが、百姓のことゆえ人数は多くとも脅威にはならなかった。云々・・・・
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三雲城は1487年に六角高頼が三雲典膳によって築城。
足利義尚・義材の六角討伐の野洲川の戦いに備え、築城された城郭群 ・・・・・三雲城・菩提寺城・小堤城山城・夕日ケ丘城・上永原城・市三宅城・・・・
三雲氏は、室町将軍による六角氏征伐である長享・延徳の乱で、六角氏の命令によって観音寺城の出城として三雲城を築いた。
三雲氏は甲賀郡の名族伴氏の一族で、鎌倉期には佐々木秀義の五男隠岐佐々木義清の次男泰清が三雲(見雲)氏を名乗ったとも伝えられ(沙沙貴神社所蔵佐々木系図)、源氏を称することもある。
長享・延徳の乱では甲賀に積極的に逃亡した高頼を甲賀二十一家が支えた。そのひとりが三雲新蔵人である。
近江守護六角氏の重臣として、三雲氏累代の居城であった。
この城は、観音寺城の「奥の城」とも云える城で、六角氏は居城が危機を迎えると、必ずとこの城に逃げ込んでいる。
永禄11年、織田信長によって観音寺城を攻められた時も、六角義賢・義弼父子がこの城に逃れ再起を図った。
三雲成持は、六角氏滅亡後織田信雄・蒲生氏郷に仕え、江戸時代には1,000石の旗本として続いた。
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査・淡海の城・Wikipedia
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