朽木城(江戸期は朽木陣屋)の石積
朽木城(江戸期は朽木陣屋)
朽木元綱
元亀元年(1570年)の朝倉攻めにおいては松永久秀の説得を受けて織田信長の京都撤退(朽木越え)を助け、後に信長に仕え信長麾下として磯野員昌、その追放後は津田信澄に配されているが、天正7年(1579年)には代官を罷免されているので、信長からは厚遇されていなかったようである。
信長の死後は豊臣秀吉に仕え、伊勢安濃郡・高島郡内の蔵入地の代官に任ぜられ、小田原征伐にも参加、朽木谷2万石を安堵されている。
鯖街道
古くから、若狭国小浜と京都を短絡する道、俗にいう鯖街道が縦断し、街道筋として栄えた。現在は国道367号となっている。また、「朽木の杣」と呼ばれ、京への木材の供給地でもあった。
朽木氏は鎌倉時代から江戸時代に掛けて朽木庄を支配していて、室町幕府の奉公衆でもあった縁で天文22年(1553年)に朽木元綱は13代将軍足利義輝・細川晴元らを朽木村に匿っている。
朽木は近江の西部に位置し、福井県・京都府に接する山深い集落です。集落内を京都から若狭へと抜ける若狭街道(朽木街道・鯖街道)が通ります。鎌倉時代以降、明治維新にいたるまでこの地を支配したのは、近江源氏佐々木氏の一族である朽木氏です。朽木氏は、近江守護六角氏や江北の実力者浅井氏とは一定度の距離を保って自立した存在でした。それは山間の地という朽木の地理的特性とともに、朽木氏が幕府との間に直接的な関係を取り結んでいたことによります。
元亀元年(1570年)、織田信長の朝倉攻めで浅井長政が裏切った時、信長は浅井の領地である湖東を避けて朽木村経由で帰郷しようとした時も元綱は信長を助け、後に家臣に取り立てられた。
信長の隠れ岩
元亀元年(1570)4月、越前の朝倉義景を討つため敦賀まで出陣していた信長のもとに浅井長政離反の知らせが届きます。浅井・朝倉によって挟み撃ちにされる絶体絶命の危機に陥った信長は、急いで陣を引き払い京都へと脱出を図ります。この時信長が通ったルートが朽木を越える若狭街道であり、朽木の領主朽木元綱がこれを案内しました。
この岩に通じる遊歩道を、地元のまちおこしグループがこのほど、新たに整備した。グループは「朽木の新たな観光名所に」と期待している。
高島市朽木に「信長の隠れ岩」と呼ばれる大岩がある。 戦国大名・織田信長が越前の朝倉氏を攻めた際、同盟を結ぶ浅井長政の裏切りで撤退を余儀なくされ、京へ戻る途中に一時身を隠したと伝わる。
信長は1570年、羽柴秀吉や徳川家康らを率いて朝倉氏攻めに赴いた。しかし、妹のお市の婿で同盟関係にあった浅井長政が朝倉氏方に寝返り一転窮地に。現在の高島市今津町保坂から朽木街道を抜けて、京都に逃げ戻った。「信長の朽木越え」として知られる。
この撤退途中、地元領主の朽木元綱に敵意がないことを、同行の家臣が確かめるまで信長が身を潜めたとされる岩くつが「隠れ岩」。朽木市場の通称三ツ石地先、国道367号の東側斜面の上にある。
数個の巨岩が重なり全周は約300メートルにも及ぶ。組み合わさったところに大きなすき間があり、洞くつ状に。最大幅3メートル、最大高2・1メートル、奥行き6・6メートルの岩穴の奥に、最大幅4メートル、最大高3・5メートル、奥行き14メートルの空間が広がる二重構造の洞くつとなっている。
しかし、岩へ至る道も案内板もなく、地元でも知る人は少ないという。朽木でも歴史上大きな出来事があったことを、より多くの人が知って訪れてほしいと、地元のまちおこしグループ「朽木・群(むら)・ひとネットワーク」が整備に乗り出した。
斜面下から隠れ岩に至る全長190メートルの遊歩道を新たに整備し、階段と手すりも設置。由来や位置を示す案内板も3カ所に立てた。
岩の東方には、朽木氏が築城した西山城ののろし台の遺構などもあり、隠れ岩から道をさらに伸ばして「歴史街道として将来ルート化できれば」と、夢を描く。
元亀元年(1570)、越前朝倉氏の攻撃中の織田信長は、浅井長政の裏切りにあって窮地に陥り、京へ戻る途中、一時ここに身を隠したと伝わる。
永禄11年(1568)の織田信長近江侵攻は近江国内の諸勢力にとって大きな転機となったが、朽木家にとってもそれは例外ではなかった。
元亀元年(1570)、織田信長が越前朝倉氏を攻撃中に浅井氏の裏切りにあい、湖西路を京都へと撤退する途中、朽木谷を通過するが、元綱はこれを容認するだけでなく、手厚く迎えている。高島七頭ら湖西の在地領主たちが浅井・朝倉に従う中、元綱は信長に対し、敵対的な態度を見せておらず、元亀2年(1571)には信長に使者を送って臣従の意を伝えている。
朽木谷
鯖街道
安曇川の上流に位置する山村で、鯖街道若狭路の要衝として、また朽木盆や朽木椀と呼ばれる器の木地を生産する木地師の村として知られている。近江を守護した佐々木氏の一族であった、朽木氏がこの一帯を治めていた。
朽木、それらは皆骨董屋さんの呼名だからあてにならないが、近江の朽木谷には古くから、木工を専門とする集団がいて、このような食器を大量に生産していた。
白洲正子が愛した近江「かくれ里』より
住所: 滋賀県高島市朽木
問合せ先:教育委員会事務局 文化財
参考資料:パンフレット各種・現地説明板・専門員のガイド説明・PCホームページ/blog 等々
本日も、訪問ありがとう御座いました!