城郭探訪

yamaziro

平柳城 近江国(湖東)

2013年08月31日 | 平城

所在地:東近江市平柳町  (旧:愛知郡湖東町平柳) maphttp://yahoo.jp/FN39J9

目標地:平柳公民館

区 分:平城

現 状:集落

遺 構:

築城期:戦国期

築城者:平柳氏

城主:中戸権五郎、平柳勘助

訪城日:2013.8.31

歴史

淡海木間擭等地誌に中戸権五郎なる武士居住すとあり、

また平柳勘助なる武士あり戦国時代佐々木六角氏に属し近江商人の他國商人との争論生ずる時等交渉の任務負ひしこと今掘日吉神社文書に見ゆれば商事にかかわる奉行人たるを知る。

殿屋敷は即ち平柳氏の邸阯に非んば同地に住ませる名門国領氏宗家の邸阯にや。(近江愛知郡史 参巻)

伝承では、小字「ヤブ平柳」に小殿」、「ヤブの殿さん」と通称されているところがある。ヤブは”養父”で奈良時代の荘園名である。

 南川の旧街道と今はないが横堀川(古老より聞き取りで)の存在を確かめてみると、城館の周囲堀で囲んだ・・・南川を称して・・・単郭も城館。

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布図(愛知郡・犬上郡)、近江愛知郡史

 本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!!


平松城 近江国(愛智郡・湖東)

2013年08月31日 | 平城

戒光寺

お城のデータ

所在地:東近江市平松 (旧愛知郡湖東町平松)   map:http://yahoo.jp/vBHhp5

現 状::集落(戒光寺付近が城屋敷)

遺 構:

区 分:平城

築城期:南北期建久3年(1192)

築城者:中井氏

城 主:中井新之丞、日根野氏

戦 い:野良田の合戦 永禄3年(1560) 〇 浅井長政  VS ● 六角定頼

目標地:平松自治会館

駐車場:平松自治会館無料駐車場

訪城日:2013.8.31

お城の概要

 

 高野街道沿いの築城された城郭であるが、集落の東側は川を堀として防衛、集落内も狭い、Z形路地で固めている。

城跡は現戒光寺である。が、平之社のほうが城郭を造るにはに向いているように思えるのだが・・・・・・・・・。

 

歴 史

佐々木の将中井新之丞が在城し、永緑3年野良田合戦の時、中井新之丞は浅井長政に攻められ戦死。

この後、信長の将として日根野織部正高吉が入城したとしている。(愛智郡志)

近江愛智郡志には、永禄三年八月野良田の合戦の勝に乗せし浅井長政黨の高野瀬秀隆、八町の城主赤田信濃守定興等は平井氏攻めんとし途杉立石見守を矢守に攻む。苅間館満島孫市は平松城主中井氏と共に出て杉立氏を授(たす)けしに戦敗れて孫市死す

新開略記には、高宮三河守の臣馬場惣佐衛門 満島を打ち取り浅井長政より感状得たり見ゆ。

 遺構についても、同志は「平松に八字城跡と称する所あり堀土手を巡らせしも明治2年の頃土手を壊ち堀あて旧形を失ふ」としている。

 「湖国百選・城」によると、平松城は現在の戒光寺の建つと所だとあり、この辺りは「城屋敷」と呼ばれているとか。

 戒光寺との関係についても、日根野織部正高吉の妹信頭が尼僧となって円通庵と称し住んだのが、戒光寺の開基と伝えられている

日根野氏 今川も徳川に敵わず同年中に掛川城は降伏・開城し、日根野一族はまたしても浪人となった。今川没落後は西上し近江へと向かい、近江の土豪の今井秀形・島秀安らと誼を通じていたが、やがて浅井長政に仕えた。しかし、元亀3年(1572年)冬には浅井家を去り、長島一向一揆に参加し岐阜にほど近い新砦の守備にあたっている。また、弘就は大湊に船を出させて足弱衆(女や子供)などを運ばせていたが、天正元年(1573年)9月20日付けの塙直政の書状では「日根野が足弱を送ってきた船の件は曲事であるので船主共を必ず成敗すること」を信長御意の事として大湊に通達しており、後に日根野の協力者であると割れた山田三方の福島親子が処刑された。

天正2年(1574)9月29日の織田軍の総攻撃をもって長島の一向一揆は壊滅したが、日根野一族は長島を脱出し、しばらく後に、長年対抗し続けてきた信長の元に降った。なお、時期は不明であるが近江を活動拠点とした頃より平松(滋賀県東近江市平松町)の地に在所と城を得ていて、そこに在住していたという。。

平之社

平松自治会館

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、近江愛智郡志、近江の城郭、淡海の城、

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連続講座 【第1回織田信長決死の脱出行~朽木城跡】 2013.8.24

2013年08月25日 | 平城

 元亀元年(1570)4月、越前の朝倉義景を討つため敦賀まで出陣していた信長のもとに浅井長政離反の知らせが届きます。浅井・朝倉によって挟み撃ちにされる絶体絶命の危機に陥った信長は、急いで陣を引き払い京都へと脱出を図ります。この時信長が通ったルートが朽木を越える若狭街
道であり、朽木の領主朽木元綱がこれを案内しました。
朽木は湖西の山深い集落ですが、京都と若狭湾を結ぶ若狭街道が通る交通の要衝です。領主朽木氏は近江源氏佐々木氏の一族で、鎌倉時代から明治維新まで朽木を支配し続けました。信長以外にも室町幕府第12代将軍足利義晴や13代将軍足利義輝が朽木氏を頼り、朽木を訪れています。
今回の講座では、朽木に残る城跡等をたどり、多くの武将たちが通った朽木の姿を地元の専門家の案内で。

現地見学の出発式(参加者70名・スタッフ10名)

現地探訪石田敏氏(高島市文化財保護審議会委員・元朽木村史編集委員長)

朽木城(江戸期は朽木陣屋)の石積朽木城(江戸期は朽木陣屋)

朽木元綱

元亀元年(1570年)の朝倉攻めにおいては松永久秀の説得を受けて織田信長の京都撤退(朽木越え)を助け、後に信長に仕え信長麾下として磯野員昌、その追放後は津田信澄に配されているが、天正7年(1579年)には代官を罷免されているので、信長からは厚遇されていなかったようである。

信長の死後は豊臣秀吉に仕え、伊勢安濃郡・高島郡内の蔵入地の代官に任ぜられ、小田原征伐にも参加、朽木谷2万石を安堵されている。

朽木資料館・朽木城跡→朽木市場→高島市文化交流施設やまびこ館(昼食・講義)→岩神館遺跡・旧秀隣寺庭園→朽木学校前

鯖街道・朽木市場

ヴォーリス建築

8/24は地頭盆のお供え

元亀元年(1570)4月、越前の朝倉義景を討つため敦賀まで出陣していた信長のもとに浅井長政
離反の知らせが届きます。浅井・朝倉によって挟み撃ちにされる絶体絶命の危機に陥った信長は、急いで陣を引き払い京都へと脱出を図ります。この時信長が通ったルートが朽木を越える若狭街道であり、朽木の領主朽木元綱がこれを案内しました。

朽木は湖西の山深い集落ですが、京都と若狭湾を結ぶ若狭街道が通る交通の要衝です。領主朽木氏は近江源氏佐々木氏の一族で、鎌倉時代から明治維新まで朽木を支配し続けました。信長以外にも室町幕府第12代将軍足利義晴や13代将軍足利義輝が朽木氏を頼り、朽木を訪れていま
す。


今回の講座では、朽木に残る城跡等をたどり、多くの武将たちが通った朽木の姿を地元の専門家の案内でした。

高島市文化交流施設やまびこ館(昼食・講義)

講義「朽木を訪れた武将たち」松下浩(滋賀県教育委員会文化財保護課)

元亀元年(1570年)、織田信長の朝倉攻めで浅井長政が裏切った時、信長は浅井の領地である湖東を避けて朽木村経由で帰郷しようとした時も元綱は信長を助け、後に家臣に取り立てられた。

地頭盆

興聖寺 金の鯱鉾・四ツ目結

名勝旧秀隣寺庭園

朽木氏は鎌倉時代から江戸時代に掛けて朽木庄を支配していて、室町幕府の奉公衆でもあった縁で天文22年(1553年)に朽木元綱は13代将軍足利義輝・細川晴元らを朽木村に匿っている。

マグダレナ墓

幕府では父・義晴と管領の細川晴元が対立し、義晴はそのたびに敗れて近江坂本に逃れ、菊童丸もそれにたびたび従った。その後も父と共に京への復帰と近江坂本・朽木への脱出を繰り返した。

天文15年(1546年)12月、菊童丸はわずか11歳にして、父から将軍職を譲られる。このときの将軍就任式は亡命先である近江坂本の日吉神社(現日吉大社)祠官樹下成保の第で行われ、六角定頼を烏帽子親として元服し、義藤(よしふじ)と名乗った。同17年(1548年)、義晴は晴元と和睦して京に戻った。このとき晴元も義藤の将軍就任を承諾している。

・岩神館遺跡

正面は山上に、西山城・野尻砦、山麓に朽木城(江戸期は朽木陣屋)


金ヶ崎の戦い(金ヶ崎崩れとも呼ばれ、戦国史上有名な織田信長の撤退である)

2013年08月25日 | 遺蹟

金ヶ崎の戦い(かねがさきのたたかい)は1570年(元亀元年戦国時代)に起きた、織田信長朝倉義景との戦闘のひとつ。金ヶ崎の退き口(かねがさきのたちのきくち)または金ヶ崎崩れとも呼ばれ、戦国史上有名な織田信長の撤退である

 

織田信長が越前(福井県)の朝倉義景を攻撃したところ、同盟関係にあった妹婿の小谷城(琵琶湖東岸)の浅井家の裏切りにあい、挟撃の危機に瀕したため、木下藤吉郎と信長の同盟軍の徳川家康が後衛(家康の後衛に疑問をもつ向きもある)となって、信長本隊が信長勢力地まで帰還するのを援護した戦い。

敦賀口における金ヶ崎城(敦賀市)攻略自体は既に成功していたが、浅井家離反の情報を受けて、おおよそこの地で信長軍の撤退が始まり、木下藤吉郎の殿軍は最初にこの地を拠点にして撤退戦を行なった。

戦いの詳細

開戦前

  • 文中の( )は西暦・ユリウス暦、月日は全て和暦、宣明暦の長暦による。

元亀元年4月20日(1570年5月24日)、織田信長・徳川家康連合軍は3万の軍(『言継卿記』)を率いて京を出陣。織田軍の武将のほか池田勝正・松永久秀といった近畿の武将、公家である飛鳥井雅敦・日野輝資も従軍している。

結果から言えば越前遠征に向かったわけだが、「越前へ手遣い」(『多門院日記』)とする文面のほか、「若州へ罷り越す」(『言継卿記』4月20日)と言う史料もあり、信長から毛利元就に宛てた書状(『毛利家文書』)にも「若狭国・武藤を成敗する」という文意の行りがあることからみても、出陣の口実は若狭攻めであった。

経過

4月25日(5月29日)、越前の朝倉義景領に侵攻した織田徳川連合軍は、同日の手筒山城を皮切りに敦賀郡の朝倉氏側の城に攻撃をかけ、翌日には金ヶ崎城の朝倉景恒を下す。これに対し、朝倉軍は敦賀郡を半ば放棄するように戦線が狭く防御に向いた地形である木ノ芽峠一帯を強化し、防衛体制を整える。これには、敦賀郡の郡司で一門衆筆頭であった朝倉景恒と、本家である朝倉義景や、同じ一門衆である朝倉景鏡・朝倉景健らとの序列争いが背景にあり、景恒への援軍を故意に遅らせたとする説もある。

このように当初は織田方が優勢に合戦を進めていたが、信長の義弟である盟友北近江の浅井長政が裏切ったという情報が入った。はじめ信長は虚報だろうと思っていたが、次々に入る知らせに事実と認めざるをえなくなり、撤退を決意した。織田・徳川軍は越前と北近江からの挟撃を受ける危機にみまわれたからである。織田軍が長政の裏切りを察知した理由については、近江・若狭方面の外交・諜報を行っていた松永久秀が浅井方の不審な動きに気づいて通報したと『朝倉記』には記載があるが、信憑性に疑問が持たれており実際には不明。お市の方が、両端を紐で結んだ小豆袋を信長に送り長政の裏切りを知らせたと言う逸話が知られているが、俗説というのが有力である。

撤退するにあたって、信長は金ヶ崎城に木下秀吉を入れておくことにした。通説ではこの時、秀吉が殿軍に自ら名乗りをあげたと言われているが、『武家雲箋』などによると、殿軍には他に摂津守護の池田勝正や明智光秀がいたため、秀吉が殿軍の大将を務めたという説には疑問が残る。また、「寛永諸家系図伝」「徳川実紀」などでは徳川家康もこれらに加わったとしているが、一次史料には家康の名は見られない。

織田信長が撤退した後の織田諸将の行動は非常に統率のとれたものであり、朝倉軍につけいる隙を与えず撤退時の被害を最小限に食い止めた。織田軍の被害については、「人数崩れけれども宗徒の者ども恙(つつが)なし」(「朝倉家記」)から、「人数二千余も損歟ノ由」という伝聞(「多聞院日記」)まで諸説ある。

戦後

信長は近江豪族の朽木元綱の協力もあり、越前敦賀から朽木を越えて(朽木越え)、京へ逃げ延びた。京への到着は4月30日(6月3日)。信長の供はわずか十人程度であったという(『継芥記』)。池田勝正率いる織田本隊も撤退に成功し、京へとたどり着いた。信長は論功行賞で秀吉の貢献を称えて黄金数十枚を与えた(他の武将の恩賞については伝わっていない)。

なお、朽木は当初信長を殺すつもりでいたが、松永久秀が朽木を必死の決意で説得したためやっとの事で京に帰還できたと『朝倉記』にはある。


岩神館(秀隣寺庭園)   近江国「朽木」

2013年08月24日 | 館跡

名勝旧秀隣寺庭園

お城のデータ

所在地:高島市朽木岩瀬 (旧高島郡朽木村岩瀬)   map:http://yahoo.jp/Th3t_4

別 名:秀隣寺庭園

現 状:興聖寺

遺 構:石垣・空堀・土塁・屋敷跡・庭園、説明板

区 分:平山城

標 高:190m  比高差20m

築城期:室町期(永久3年 (1221)

築城者:佐々木信綱

城 主:足利義晴

目標地:興聖寺

駐車場: 興聖寺無料駐車場

国史跡

訪城日:2013.8.24

お城の概要

朽木氏は鎌倉時代から江戸時代に掛けて朽木庄を支配していて、室町幕府の奉公衆でもあった縁で天文22年(1553年)に朽木元綱は13代将軍足利義輝・細川晴元らを朽木村に匿っている。

享禄元年(1528)に朽木植綱が都より逃れた将軍足利義晴のために建てた館です。

慶長11年(1606)に朽木宣綱が亡き妻のためにこの館跡に秀隣寺を建て、後に秀隣寺は移転し、興聖寺が建てられました。<現地案内板>

マグダレナ墓

歴 史

幕府では父・義晴と管領の細川晴元が対立し、義晴はそのたびに敗れて近江坂本に逃れ、菊童丸もそれにたびたび従った。その後も父と共に京への復帰と近江坂本・朽木への脱出を繰り返した。

天文15年(1546年)12月、菊童丸はわずか11歳にして、父から将軍職を譲られる。このときの将軍就任式は亡命先である近江坂本の日吉神社(現日吉大社)祠官樹下成保の第で行われ、六角定頼を烏帽子親として元服し、義藤(よしふじ)と名乗った。同17年(1548年)、義晴は晴元と和睦して京に戻った。このとき晴元も義藤の将軍就任を承諾している。

岩神館の土塁と空堀

    

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭

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朽木城(江戸期は朽木陣屋) 近江国(朽木)

2013年08月23日 | 居城

お城のデータ 

所在地:高島市朽本村野尻市  (旧高島郡朽本村野尻)   map:http://yahoo.jp/9FrpOP

別名:朽木陣屋

区 分:平城

城 域 :500m×180m

築城期:室町期

築城者:佐々木信綱・朽木五郎

城 主:佐々木信綱・朽木五郎・朽木元綱

遺 構:曲輪 ・土塁・井戸・

城 域:500m×180m

目標地:朽木資料館

駐車場:朽木資料館駐車場

訪城日:2013.8.23

朽木城(江戸期は朽木陣屋)の石積

お城の概要

 朽木郷土資料館横の史跡公園に、わずかな石垣と共に土塁、井戸が、また県道横には堀跡が残っていたが駐車場に。

当時は約10万平方メートルの敷地に本丸をはじめ、二の丸、三の丸、御殿,侍所,剣術道場、および馬場などがあったされる。

 この朽木陣屋(朽木氏城)は、安曇川本流と支流の北川が合流する野尻に位置している。この地は若狭や越前などと京都を結ぶ朽木街道に面し、軍事上、政治的、および経済的にも交通の要衝である。

歴 史

 朽木陣屋は佐々木氏の庶流である朽木氏の館跡に建てられたもので、江戸時代に陣屋へと変遷を遂げたと推定されている。

 朽木氏は、承久3年(1221年)の承久の乱の後、佐々木信綱が朽木荘地頭職を得て、その子孫・義綱が朽木五郎と称したのに始まり、代々室町幕府の奉公衆を務め、天文22年(1553)三好長慶に京を追われた将軍足利義晴、義輝父子を匿うなど室町幕府を補佐した。

 元亀元年(1570)織田信長の朝倉攻めが浅井長政の離反で失敗した際、信長の朽木越えを助けた。その後は織田信長、豊臣秀吉に仕え、朽木谷2万石を領有した。

 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、当初は大谷吉継に従って西軍に属したものの、小早川秀秋に呼応して脇坂安治や小川祐忠、赤座直保らとともに東軍に寝返った。
戦後、寝返り理由を明らかにしなかったとの理由により厳封されたが、以後準大名格でこの地を領有し、明治維新を迎えた

朽木元綱

元亀元年(1570年)の朝倉攻めにおいては松永久秀の説得を受けて織田信長の京都撤退(朽木越え)を助け、後に信長に仕え信長麾下として磯野員昌、その追放後は津田信澄に配されているが、天正7年(1579年)には代官を罷免されているので、信長からは厚遇されていなかったようである。

信長の死後は豊臣秀吉に仕え、伊勢安濃郡・高島郡内の蔵入地の代官に任ぜられ、小田原征伐にも参加、朽木谷2万石を安堵されている。

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、甲賀の城、

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花沢城(別名:丹治屋敷) 近江国(湖東)

2013年08月23日 | 館跡

 

 

 

 

 

 

 

 

お城のデータ

所在地 :東近江市南花沢町      (旧愛知郡湖東町花沢)http://yahoo.jp/lWn1YW

別 名:丹治屋敷

現 状:畑地

遺構:

区分:平城

築城者:花沢次郎兵衛

駐車場:南花沢町農業者集会所の無料駐車場を利用(道路の向かい)

 訪城日:2013.8.21

南花沢農業者集会所の右斜め前)北側畑地付近

お城の概要

「花沢城」は別名丹治屋敷。

百済寺と鯰江城を結ぶ、百済街道の中間点に位置する。花沢次郎兵衛の居城といわれている。百済寺が要塞化していき、池尻館や湯屋城と共に支城的役割を担ったと考えられている。

歴 史

「佐々木南北諸士帳」に南花沢 住 佐々木随兵 花沢次郎兵衛の名が見える。

ハナノキの八幡神社。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

 

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横溝城 近江国(湖東)

2013年08月23日 | 平城

候補地は、2ヶ所

・「神屋敷」というところに南に土塁があったという。神屋敷は2間四方の土塁で囲われていたという・・・これは鎮守社の祭礼の関係所で除外!

・字「山城」で、付近に「馬渡」・「椿原」があり、椿原微高地で周囲を川や土塁で囲われていたという。

遠望の林:善明寺

小池集落

遠望:鹿島神社

お城のデータ

所在地:滋賀県東近江市横溝町。http://yahoo.jp/hSi9Tv

遺構:なし

区分:平城(居館)

築城者:佐々木六角の家臣 横溝氏

築城期:1222年頃

訪城日:2013.8.21 

 

吾妻鏡に【吾妻鏡入門】

貞應元年(1222)七月小三日己酉。讃岐中將。於大倉亭。被始百日小笠懸。毎日日出以前。若属晩凉。可會合之由。數輩成約諾。先今日射手結城七郎朝廣。駿河次郎泰村。同四郎家村。小笠原六郎時長。佐々木太郎兵衛尉重綱。同八郎信朝。伊東六郎兵衛尉。嶋津三郎兵衛尉忠義。原左衛門尉忠康。岡邊左衛門尉時綱。横溝五郎。同六郎。伊具右馬太郎盛重。

読下し                 

貞應元年(1222)七月小三日己酉。讃岐中將、大倉亭に於て、百日の小笠懸を始め被る。

毎日、日出以前に、若しくは晩凉に属し、會合す可し之由、數輩約諾を成す。

先ず今日の射手 結城七郎朝廣、 駿河次郎泰村、同じき四郎家村、 小笠原六郎時長、 佐々木太郎兵衛尉重綱、

同じき八郎信朝、 伊東六郎兵衛尉、 嶋津三郎兵衛尉忠義、  原左衛門尉忠康、 岡邊左衛門尉時綱、

横溝五郎、同じく六郎、 伊具右馬太郎盛重。

現代語

承久四年(1222)七月小三日己酉。讃岐中将一条実雅は、大倉の屋敷で百日間の小笠懸を始めました。毎日、日の出前に、又は夕方の涼しくなってから集まるように、数人の連中と約束しました。まず今日の射手は、結城七郎朝広・駿河次郎三浦泰村・同じ三浦四郎家村・小笠原六郎時長・佐々木太郎兵衛尉重綱・おなじ佐々木八郎信朝・伊東六郎兵衛尉祐長・島津三郎兵衛尉忠義・原左衛門尉忠康・岡部左衛門尉時綱・横溝五郎資重・同じ横溝六郎義行・伊具右馬太郎盛重です。

参考小笠懸は、笠懸(遠矢)と違い馬手(めて)の足元の的を射る。参考横溝五郎資重・横溝六郎義行は、近江国横溝で滋賀県東近江市横溝町。得宗被官。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

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大清水(おおしゅず)城 近江国(湖東) 

2013年08月22日 | 平城

お城のデータ

所在地:東近江市大清水町   (旧愛知郡湖東町大清水)     map:http://yahoo.jp/xiQFOh

現 状:民家・県道・畑地

遺 構:土塁

区 分:平城

築城期:室町期

築城者:長原氏

城 主:長原彌右衛門

目標地:大山神社

駐車場: 大山神社の横に駐車

訪城日:2013.8.21

 大山神社の土塁

お城の概要

小字里中(通称城藪)・屋敷田という。県道が出来るまでは、3m程の土塁があったが・・・。

当時の小道を復元してみると城館を遠うまきに屈曲している。

虎口は西側(大山神社側)、方形の単郭であった。東側は早くから水田に。

歴 史

「大洞弁天当国古城主名札」には、大清水城主として長原彌右衛門の名が見える。
「鎌倉時代から戦国時代まで近江守護職佐々木氏の家臣が居城し、戦乱記には観音寺城を守る支城として機能していたと思われる。

遠景に・・箕作山(太郎坊)・山頂付近に小脇山城

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭、近江愛智郡志

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東円堂城 近江国(愛知川)

2013年08月22日 | 平城

お城のデータ

所在地:愛知郡愛荘町東円堂      (旧愛知郡愛知川町)   map:http://yahoo.jp/B0M1eO

現 状:集落

遺 構:土塁・石碑

区 分:平城

築城期:南北期

築城者:

城 主:

廃 城:

目標地:東円堂公民館

駐車場:東円堂公民館無料駐車場

訪城日:2013.8.21

 

お城の概要

東円堂城は、東円堂地区の中心部にある東円堂公民館の東側にある住宅地一帯に築かれていた。 公民館の東側道路はかつての堀跡だ。

 この道路がぐるりと長方形の区画の住宅地を囲繞している。 住宅地は中程で括れたようになっていて、ここで南北二つの曲輪が分かれていたようだ。 区画の西南角に城石碑があり、かつての土塁を利用した生け垣があった。

東円堂城は愛知川の右岸にあって、東円堂地区の住宅地の中に石碑が建てられている。

石碑の建てられている辺りは周囲の地形よりも低く、窪地状態である。愛知川のすぐ横だけに、低い場所に城が築かれるとは考えにくい。
 石碑は、「東円堂城は、概ねこの辺り」といった感覚で建てられているのではないか。

明治の「地取巻調総絵図」には周囲に堀が確認されるという。また、同城は複郭の城であるともいう。

 一帯を見て廻った感想では、豊国運動公園辺りが微高地で、その可能性を示唆しているように思えた。

歴 史

東円堂城主は、文献でも「名字不知」としており、詳細不明で、廃城となったのは比較的早いものと思われる。

 

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭

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朽木城と信長の隠れ岩 近江国(朽木)

2013年08月22日 | 平城

朽木城(江戸期は朽木陣屋)の石積

朽木城(江戸期は朽木陣屋)

朽木元綱

元亀元年(1570年)の朝倉攻めにおいては松永久秀の説得を受けて織田信長の京都撤退(朽木越え)を助け、後に信長に仕え信長麾下として磯野員昌、その追放後は津田信澄に配されているが、天正7年(1579年)には代官を罷免されているので、信長からは厚遇されていなかったようである。

信長の死後は豊臣秀吉に仕え、伊勢安濃郡・高島郡内の蔵入地の代官に任ぜられ、小田原征伐にも参加、朽木谷2万石を安堵されている。

 

鯖街道

古くから、若狭国小浜と京都を短絡する道、俗にいう鯖街道が縦断し、街道筋として栄えた。現在は国道367号となっている。また、「朽木の杣」と呼ばれ、京への木材の供給地でもあった。

朽木氏は鎌倉時代から江戸時代に掛けて朽木庄を支配していて、室町幕府の奉公衆でもあった縁で天文22年(1553年)に朽木元綱は13代将軍足利義輝・細川晴元らを朽木村に匿っている。

 

朽木は近江の西部に位置し、福井県・京都府に接する山深い集落です。集落内を京都から若狭へと抜ける若狭街道(朽木街道・鯖街道)が通ります。鎌倉時代以降、明治維新にいたるまでこの地を支配したのは、近江源氏佐々木氏の一族である朽木氏です。朽木氏は、近江守護六角氏や江北の実力者浅井氏とは一定度の距離を保って自立した存在でした。それは山間の地という朽木の地理的特性とともに、朽木氏が幕府との間に直接的な関係を取り結んでいたことによります。

元亀元年(1570年)、織田信長の朝倉攻めで浅井長政が裏切った時、信長は浅井の領地である湖東を避けて朽木村経由で帰郷しようとした時も元綱は信長を助け、後に家臣に取り立てられた。

信長の隠れ岩

元亀元年(1570)4月、越前の朝倉義景を討つため敦賀まで出陣していた信長のもとに浅井長政離反の知らせが届きます。浅井・朝倉によって挟み撃ちにされる絶体絶命の危機に陥った信長は、急いで陣を引き払い京都へと脱出を図ります。この時信長が通ったルートが朽木を越える若狭街道であり、朽木の領主朽木元綱がこれを案内しました。

この岩に通じる遊歩道を、地元のまちおこしグループがこのほど、新たに整備した。グループは「朽木の新たな観光名所に」と期待している。

高島市朽木に「信長の隠れ岩」と呼ばれる大岩がある。                                                                               戦国大名・織田信長が越前の朝倉氏を攻めた際、同盟を結ぶ浅井長政の裏切りで撤退を余儀なくされ、京へ戻る途中に一時身を隠したと伝わる。

 信長は1570年、羽柴秀吉や徳川家康らを率いて朝倉氏攻めに赴いた。しかし、妹のお市の婿で同盟関係にあった浅井長政が朝倉氏方に寝返り一転窮地に。現在の高島市今津町保坂から朽木街道を抜けて、京都に逃げ戻った。「信長の朽木越え」として知られる。

 この撤退途中、地元領主の朽木元綱に敵意がないことを、同行の家臣が確かめるまで信長が身を潜めたとされる岩くつが「隠れ岩」。朽木市場の通称三ツ石地先、国道367号の東側斜面の上にある。

 数個の巨岩が重なり全周は約300メートルにも及ぶ。組み合わさったところに大きなすき間があり、洞くつ状に。最大幅3メートル、最大高2・1メートル、奥行き6・6メートルの岩穴の奥に、最大幅4メートル、最大高3・5メートル、奥行き14メートルの空間が広がる二重構造の洞くつとなっている。

 しかし、岩へ至る道も案内板もなく、地元でも知る人は少ないという。朽木でも歴史上大きな出来事があったことを、より多くの人が知って訪れてほしいと、地元のまちおこしグループ「朽木・群(むら)・ひとネットワーク」が整備に乗り出した。

 斜面下から隠れ岩に至る全長190メートルの遊歩道を新たに整備し、階段と手すりも設置。由来や位置を示す案内板も3カ所に立てた。

 岩の東方には、朽木氏が築城した西山城ののろし台の遺構などもあり、隠れ岩から道をさらに伸ばして「歴史街道として将来ルート化できれば」と、夢を描く。

元亀元年(1570)、越前朝倉氏の攻撃中の織田信長は、浅井長政の裏切りにあって窮地に陥り、京へ戻る途中、一時ここに身を隠したと伝わる。                                                                                                   

 永禄11年(1568)の織田信長近江侵攻は近江国内の諸勢力にとって大きな転機となったが、朽木家にとってもそれは例外ではなかった。

元亀元年(1570)、織田信長が越前朝倉氏を攻撃中に浅井氏の裏切りにあい、湖西路を京都へと撤退する途中、朽木谷を通過するが、元綱はこれを容認するだけでなく、手厚く迎えている。高島七頭ら湖西の在地領主たちが浅井・朝倉に従う中、元綱は信長に対し、敵対的な態度を見せておらず、元亀2年(1571)には信長に使者を送って臣従の意を伝えている。

朽木谷

鯖街道 

安曇川の上流に位置する山村で、鯖街道若狭路の要衝として、また朽木盆や朽木椀と呼ばれる器の木地を生産する木地師の村として知られている。近江を守護した佐々木氏の一族であった、朽木氏がこの一帯を治めていた。

朽木、それらは皆骨董屋さんの呼名だからあてにならないが、近江の朽木谷には古くから、木工を専門とする集団がいて、このような食器を大量に生産していた。
白洲正子が愛した近江「かくれ里』より

住所: 滋賀県高島市朽木

問合せ先:教育委員会事務局 文化財

 

参考資料:パンフレット各種・現地説明板・専門員のガイド説明・PCホームページ/blog 等々

本日も、訪問ありがとう御座いました!


小八木館 近江国(湖東)

2013年08月21日 | 館跡

調査資料に掲載されています。中世の館跡です。

 滋賀県中世城郭分布調査 5 (旧愛知・犬上郡の城) 滋賀県教育委員会

所在地:滋賀県東近江市小八木http://yahoo.jp/rWUgoZ

区分:平城

春日神社の周辺が居館跡か、詳細不明

古老の話では、現春日神社の南側にかなりの範囲の竹藪があり、井戸が4つあったとの証言がある。

 

鳥居の横に【平和の鐘】


銅剣鋳型:滋賀で出土 国内例なく、中国式に類似

2013年08月19日 | 遺蹟

銅剣鋳型:滋賀で出土 国内例なく、中国式に類似

毎日新聞 2013年08月08日 21時17分(最終更新 08月09日 23時39分)

上御殿遺跡から出土した双環柄頭短剣の鋳型=滋賀県高島市で2013年8月6日、山崎一輝撮影
上御殿遺跡から出土した双環柄頭短剣の鋳型=滋賀県高島市で2013年8月6日、山崎一輝撮影

 鋳型は、これまでに国内で見つかっている弥生時代の銅剣とは違い、剣身から柄頭までを一体で鋳造する方式だ。小田木治太郎・天理大准教授(中国考古学)は「作り方は当時の日本の常識外。国内で生み出された可能性は考えにくく、弥生人がオルドス式をヒントにしたのではないか」とみる。一方で柄には、銅鐸などの国産品にもよくみられる「鋸歯文」(のこぎりの歯が重なった文様)が細い線で丁寧に刻まれた。大陸の技法で製造し、弥生人が慣れ親しんだ文様で装飾したハイブリッド短剣だ。

 鋳型の彫り込みから完成品を推定すると、剣身は厚さ2〜3ミリとぺらぺら。しかも、中央と端の刃の部分の厚さに違いがない。柄頭の双環だけは5ミリと分厚く、アンバランスだ。

 宮本一夫・九州大教授(東アジア考古学)は「双環の部分は竹の管のようなものを回転させて彫っている。縄文時代から耳飾りを作る技法だ。青銅器生産が始まったころ、他地域にないものを作ろうとしたのではないか」と話している。【花澤茂人、矢追健介】

 ◇解説 朝鮮半島にもないタイプ

 琵琶湖西側の上御殿遺跡で出土した短剣鋳型は、弥生時代の日本列島で分立していたとされる地域の小国が、競って大陸文化を取り入れようとしていた様子をほうふつさせる。

 日本列島では弥生中期ごろから中国・朝鮮半島の影響を受けて祭祀(さいし)用の青銅器が作られた。中国の歴史書「漢書(かんじょ)地理志」に倭(わ)(古代日本)が「百余国」に分かれていたと書かれた紀元前1世紀ごろを中心に、銅鐸、銅剣、銅矛(どうほこ)、銅戈(どうか)などが作られた。

 いずれも朝鮮半島から九州に伝わったものが波及して、それぞれの地域で独自の発展をした。政治勢力や文化の違いによって、祭祀の在り方も異なっていたと考えられる。

 これらの青銅器が姿を消すのは「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に卑弥呼(ひみこ)が女王として君臨したと書かれた3世紀ごろ。それまで九州や日本海沿岸などの地域勢力がそれぞれ大陸、朝鮮半島と交渉し、文物を入手していたと考えられる。

 今回の鋳型の短剣は、国内はおろか朝鮮半島にも類例がない。今まであまり注目されていなかった琵琶湖西側の弥生の「国」が、どのようにして中国北方の文物を入手したのか。

 朝鮮半島南部を経由して九州北部、あるいは山陰から北陸にかけての日本海沿岸に至るルートだけでなく、7〜10世紀に外交ルートとなった朝鮮半島北方から中国にかけての地域から直接、日本海沿岸に渡るルートなども視野に入れて弥生時代の海外交流を再考する必要が出てきた。【専門編集委員・佐々木泰造】

関連写真特集

  • 上御殿遺跡から出土した双環柄頭短剣の鋳型=滋賀県高島市で2013年8月6日、山崎一輝撮影 上御殿遺跡から出土した双環柄頭短剣の鋳型=滋賀県高島市で2013年8月6日、山崎一輝撮影 上御殿遺跡から出土した双環柄頭短剣の鋳型(左と中央)と復元した短剣=滋賀県高島市で2013年8月6日、山崎一輝撮影 双環柄頭短剣の鋳型から復元した短剣をかざす中村健二・滋賀県文化財保護協会企画調査課副主幹=同県高島市で2013年8月6日、山崎一輝撮影

 

 

 
 

 

 
 
 

真野城 近江国(大津)

2013年08月17日 | 平城

 昌法寺の背後にある墓地一帯が城跡と云わている。

お城のデータ

所在地:大津市真野6丁目  map:http://yahoo.jp/YJYPxB

現 状:雑木林・昌法寺墓地

築城期:室町期

築城者:真野元貞

廃城年 : 元亀元年(1570年)

区 分:平城

遺 構:曲輪(墓地の平削地)・土塁(竹藪・墓地内)・・(宅地開発で削散)

目標地:昌法寺

駐車場:昌法寺駐車場

訪城日:2013.8.17

昌法寺の背後にある墓地一帯が城跡と云わている。  

お城の概要

城跡は、ローズタウン東側の低丘陵地(真野6丁目36番街区付近)にありますが、真野から堅田、更に対岸まで一望でき、城に適した位置にあることがうなづけます。

大規模団地開発ローズタウンと墓地で、往時の城郭を偲ぶ事は出来ません。

背後にある一帯が城跡と云わている。真野城は南へ張り出した丘陵に築かれていた。

お城の歴史

真野元貞の室町時代の城と言われています。

築城年代は定かではない。城主は真野氏で、湖東の豪族近江源氏佐々木経方の六男行範が(乾六郎行範)、乾氏の始祖となり蒲生郡北ノ庄に本拠おいた。その子孫乾氏の分流が真野郷を領して真野氏を称したという。

永正15年(1518年)の城主は真野土佐守信重で、小谷城主浅井備前守亮政に攻められ落城した。

『浅井三代記』は、永正15年(1518)浅井亮政が赤尾駿河守に3,500余騎を与えて、8月15日に高島玄蕃の大溝城を攻略させ、さらに伊黒城、深溝城、小松城、真野城を降伏させて、8月26日小谷に帰陣させたと記すが、浅井氏が高島郡を征服したのは、朽木氏が浅井氏と和した永禄11年(1568)とすべきと指摘している。 浅井氏の高島郡支配時には、家臣の海津氏や林氏が城主であったが、その期間は織田信長が高島郡を攻略する天正年間初頭までの5~6年であった。

元亀元年(1570年)の城主は真野十郎左衛門元貞で、佐々木六角氏に従って織田信長と対立したが落城した。                                         城を脱した元貞はその後、出家して西養坊宗誉れと号し、その子孫は旗本神保氏の代官を勤めたという。

真野城は南へ張り出した丘陵に築かれていたという。

現在山上の北側は新興住宅地となって開発されている。その中にある小公園に真野古墳の案内板とともに石室が展示されている。南側の墓地部分は現在遺跡発掘中で、昌法寺の背後にある墓地一帯が城跡と云われ、それに伴うものであろうか。墓地も一部が削平地が拡がるだけのようだ。

 

 南東隅に唯一残る遺構の土塁か?

昔は高架線路から右に20~30mまでが琵琶湖だったとか。なるほど眺めがよく、城にはもってこいの場所。
 
真野元貞の室町時代の城と言われています。城跡は、ローズタウン東側の低丘陵地(真野6丁目)にありますが、真野から堅田、更に対岸まで一望でき、城に適した位置にあることがうなづけます。

 

 春日山の麓の琵琶湖を見渡す場所に造られた真野古墳がもし春日皇子の墓なのであれば、真野城跡には67世紀には春日皇子の宮があり、妹子はここで生まれたと思われます。妹子が生まれ育ったのは、「草深い田舎」ではなく、当時は先端文化が都より先に入ってくる国際都市だったのです

 真野川の合戦

 真野川周辺で起こった歴史上の合戦について、時代別に記録してみよう。

平 安時代の末ごろ、平治元年(1159年)平治の乱がおこり、源義朝(みなもとのよしとも)が京都で破れ 真野川近くで合戦する。平清盛の追手のために兵を多数失い、この地より船を出して東国に逃れる。寿永三年 (1184年)、木曾義仲、平家の軍を真野周辺で追撃し、京都に入る。のち、瀬田・粟津の戦いで破れ死ぬ。 このころ、源義経、京都鞍馬からこの地を通り、鏡山で元服する。南北朝時代、延元三年(1336年)、 新田義貞一行、北陸に落ちる。

室町時代、戦国の世、文明十一年(1479年)、佐々木六角の武将、多 賀高忠、真野川をはさんで合戦に及び敗走する。永禄十一年(1568年)、真野城主真野十左衛門元貞、 この地で浅井・朝倉の軍と戦い破れ、真野城焼失する。真野の多くの民家も焼ける。元亀二年(1571年)、織田信長、 比叡山延暦寺を攻め、そり堂塔をことごとく焼くに至る。真野川周辺の天台宗系の寺社、大野坊、普門 坊なども続いて焼き払う。この時、真野坊焼き払いのため、古文書、寺宝の多くを焼失する。天正元年(1573年)、 足利義昭、織田信長に反し、真野川水域に立てこもる。このとき、織田信長の先軍は、陸路羽柴秀吉、 海路明智光秀であった。義昭は真野川南流をうまく利用し、水城を作って防戦したが破れ、真野から途 中に至り宇治に逃げる。そして死ぬ。足利幕府が亡んだわけである。天正十年(1582年)、豊臣秀吉、 明智光秀の軍、天王山で戦い、明智治政ノ湖西に軍馬が動く。その後、

江戸時代にいたって真野川一帯は 合戦なく現在に至る。この真野川周辺の歴史もまた、近江真野の歴史であった。平安時代から鎌倉、南北朝、 室町にかけて日本歴史が物語っているような戦乱の歴史であった。まして、京都に近く、その影響もかな り受けている。しかし、真野川周辺に住んでいた真野の人たちは、古代から中世、近世にかけて、先祖の遺 産を守るために田畑の営みに努力するのであった。

参考資料: 滋賀県中世城郭分布調査3、 県年報(縄文-土坑・落込み/古墳-横穴式石室1+掘立柱建物+溝)、大津かんきょう宝箱、浅井三代記

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。