城郭探訪

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景清道 近江国(安土)

2018年04月23日 | 番外編

景清道

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/grid?lst=100004577532882%3A100004577532882%3A1552802155

観音寺山麓の景清道伝説によると景清道は、 

平景清が平氏再興の祈願をするため尾張国より京都の清水寺へ通った道とも
寄寓していた近江八幡の旅庵寺より桑実寺の薬師如来に眼病平癒のために日参した道ともいわれている。

景清道は 近年 ルートの調査がされましたが全てがはっきりとわかっていませんが信長の下街道建設以前から中仙道(東山道)の間道として使われていたようです。
湖東地方に古くから「景清道」と言う道があり、古来より多くの人々が往来してきた。「景清道」は道の名称であるが、源平時代の武将名が道の名に定着している。景清道は、人里離れた山の中や、田の畦のようなところをくねくねと走っているのは、景清が関所を通過せずに、通行しようとして作ったためといわれている。

(中近世古道調査報告書 朝鮮人街道 滋賀県教育委員会)画像に含まれている可能性があるもの:屋外画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、植物、屋外、自然

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、屋外、自然

本日の訪問ありがとうございす。


水口岡山城跡 調査報告書を販売

2016年12月21日 | 番外編

報知新聞■平成28年12月21日(水) 第17685号

=甲賀市史編さん室=

◇甲賀
 甲賀市史編さん室は、水口岡山城跡の調査成果をまとめた「水口岡山城跡総合調査報告書」=写真=の販売をはじめた。
 水口岡山城跡の総合調査は、詳細地形測量調査、遺構確認発掘調査、文献資料調査、絵図資料調査を総合的に行い、全容解明に迫ったもの。
 報告書は三百二十四ページで、価格は一冊三千円。郵送の場合は別途、送料がかかる。販売部数は三百部。問い合わせは甲賀市史編さん室(TEL0748―86―8026)へ。
 国の文化審議会は十一月、水口岡山城跡を国史跡に指定するよう答申した。同城は、豊臣秀吉が東国ににらみを利かせるため、天正十三年(一五八五年)、中村一氏に命じて築城したもの。
 古城山(二百八十三メートル)の山頂に天守、本丸、二の丸、三の丸、西の丸が並んでいたとされ、発掘調査で石垣や瓦などが確認されている。

 

   


井伊直虎、実は「男」? 江戸時代の新史料発見

2016年12月16日 | 番外編

井伊直虎、実は「男」? 江戸時代の新史料発見

井伊家が拠点としていた井伊谷を今川家の家臣の子に与えたと伝える「雑秘説写記」。指さし部分は井伊谷を表す「井の谷」と記されている

 戦国時代を舞台にした来年のNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」の主人公、井伊直虎とみられる人物について記した江戸時代の新史料が見つかったと、井伊美術館(京都市)が十四日、発表した。従来の史料と併せて検討した結果、直虎は女性ではなく、今川家の重臣の息子だったと判明したと説明している。

 直虎は史料が少なく謎の多い人物。「次郎直虎」と書かれた戦国時代の連署状や、井伊家当主の娘が「次郎法師」と名付けられ地頭となったと伝える史料などがある。これらを結びつけ、女性の次郎法師が後に直虎を名乗ったと考えられている。

 同美術館によると、新史料は、井伊家が従っていた今川家の武将、新野親矩(にいのちかのり)の娘らから、彦根藩(井伊家)の家老が寛永十七(一六四〇)年に聞き書きし、家老の子孫が約百年後にまとめた「雑秘説写記(ざつひせつしゃき)」(縦約二十七センチ、横二十一センチ)。

 戦国期に井伊家が拠点とした井伊谷(いいのや)(現在の浜松市北区)について「(今川家が重臣の)関口越後守(氏経)の子を井伊次郎とし、井伊谷の知行を与えた」と伝えている。この息子が永禄六(一五六三)年か翌年ごろに領主となったと推測される。息子は新野のおいで「次郎法師」のいとこに当たることも分かり、後に氏経と親子で「次郎直虎」の連署状を出したと考えられるという。

 井伊美術館の井伊達夫館長が約五十年前、滋賀県彦根市の古道具店で今回の史料を購入。今年八月に記述を見つけた。

 来年の大河ドラマの時代考証を務める小和田哲男静岡大名誉教授(戦国史)は「面白い史料かもしれないが、聞き書きという二次史料で『次郎直虎』という表記は出てこない。直虎が女性であることを否定するものではない」と指摘している。

 

井伊直虎、実は男?大河の次期主人公に別人説

戦国時代を舞台にした来年のNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」の主人公、井伊直虎とみられる人物について記した江戸時代の新史料が見つかったと、井伊美術館(京都市)が14日、発表した。従来の史料と併せて検討した結果、直虎は女性ではなく、今川家の重臣の息子だったと判明したと説明している。

 直虎は史料が少なく謎の多い人物。「次郎直虎」と書かれた戦国時代の連署状や、井伊家当主の娘が「次郎法師」と名付けられ地頭となったと伝える史料などがある。これらを結びつけ、女性の次郎法師が後に直虎を名乗ったと考えられている。

(共同)

 井伊家が拠点としていた井伊谷を今川家の家臣の子に与えたと伝える「雑秘説写記」


井伊直虎:遠江・井伊氏お家断絶の危機を救った女領主

2016年12月16日 | 番外編

2017年(平成29年)の大河ドラマは 龍潭寺ゆかりの井伊家の当主、
井伊直虎の生涯を描く 「おんな城主 直虎」です

http://www.nhk.or.jp/dramatopics-blog/2000/225827.html

         
 遠江・井伊氏お家断絶の危機を救った女領主

井伊直虎(いいなおとら) <次郎法師(じろうほうし)>

次郎法師
「次郎法師と虎松」 ©光山房

◆父:井伊家22代 井伊盛(なおもり)
母:新野左馬助親矩妹(にいのさまのすけちかのりいもうと)(祐椿尼・松岳院)

 井伊直虎(次郎法師)は、井伊家第22代当主・直盛の一人娘。
直盛には男子がなく早くより娘の許婚(いいなずけ)として従弟(いとこ)の井伊直親に家督(かとく)を継がせる予定であった。
ところが直親の父が今川氏に殺され、直親(9歳)自身も命を狙われたため、信州へ身を隠すことに。
直虎は直親が亡くなったと思い、龍潭寺で出家し次郎法師を名乗る。
 11年後、井伊谷に戻った直親は、直盛の養子となり奥山家の娘と結婚し、虎松(24代直政)が生まれる。
 1560年(永禄3年)、桶狭間の戦いで直虎の父・22代直盛戦死。井伊家の家臣多数死亡し、大きな損失を被る。
 1562年(永禄5年)、23代直親が謀殺されると井伊家は存続の危機に。
翌年、20代直平死去。井伊の名を継ぐ男子は、直親の遺児、幼い虎松ただ一人となり、1565年(永禄8年) 龍潭寺南渓和尚の計らいで次郎法師はその後見人として井伊直虎と名乗り、女領主として井伊家を支えた。
井伊谷徳政令にみられる政治手腕は優れており、歴代当主に記名はないが
井伊家受難の時代を救った女領主として後世に語り継がれる人物である。
身を隠していた直政を1575年(天正3年)浜松城主 徳川家康公に仕えさせ、出世を見届けた直虎は、1582年(天正10年)8月26日、激動の人生に幕をとじる。 

 戒名「妙雲院殿月船祐圓大姉(みょううんいんでんげっせんゆうえんだいし)」(南渓過去帳には「月泉祐圓禅定尼(げっせんゆうえんぜんじょうに) 」と記載)   

 龍潭寺には井伊家墓所があり、直虎は生前結ばれることのなかった直親の隣に祀られている。


  直虎をめぐる井伊家 家系図

 


井伊直虎(次郎法師)(右側)と
井伊直親(左側)のお墓



 井伊家御霊屋にある
 井伊直虎(次郎法師) と母の
 お位牌
 
 



 ▼「井伊直虎(次郎法師)」関連書籍

 *「遠江井伊氏物語」武藤 全裕(著)
 * 「井伊直虎~戦国井伊一族と東国動乱史~ 」小和田 哲男(著)
 *「湖(あわうみ)の雄 井伊氏~浜名湖北から近江へ、井伊一族の実像~」
   公益財団法人 静岡県文化財団
 * 「井伊直虎物語」浜松歴女探検隊
  
※上記4つは龍潭寺内売店でも販売しております


 *「井の国物語」谷 光洋(著)
 *「女(おなご)にこそあれ次郎法師」梓澤 要(著)
 *「剣と紅」高殿 円(著)
 * 「文明・自然・アジール~女領主井伊直虎と遠江の歴史~」夏目 琢史(著)
  「井伊直虎 女領主・山の民・悪党 (講談社現代新書)」夏目 琢史(著)
 * 「女城主・井伊直虎」楠戸 義昭(著)
  他


井伊直虎と謎の超名門『井伊家』

2016年12月04日 | 番外編

来年大河ドラマの予習本!「井伊直虎と謎の超名門『井伊家』」

=歴史作家の第一人者迫る=

◇全県
 「浅井三姉妹の戦国日記」がかつて話題となった八幡和郎・衣代夫妻の共著で来年のNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」を題材にした「井伊直虎と謎の超名門『井伊家』」(講談社+α文庫)=本体七百八十円=が刊行された。
 どうして、有力戦国大名でも三河以来の徳川譜代でもない井伊家が、重んじられたかは、謎となっている。その謎を解く鍵のひとつが、藩祖で徳川四天王の一人である井伊直政の養母というべき井伊直虎(次郎法師)で、NHKの大河ドラマ(2017年)の主人公。
 直虎は、信長・秀吉・家康とほぼ同世代の女性で、亡くなったのは、井伊直政が徳川四天王の一人として頭角を現したのを見届けたのち、本能寺の変の直後である。

 このため、彦根がドラマの舞台として出てくることはないようだが、井伊直弼が登場して先祖である直虎のことを語るというような噂もあり、いろんな形で彦根藩主としての井伊家も登場しそうだ。

 本書では、井伊家の発祥、直虎のこと、そして彦根藩についての全体像を様々な視点から紹介している。
 内容は、

▽「井伊直虎は信長・秀吉と同世代人」

▽「井伊家は徳川家より名門か」

▽「次郎法師直虎と井伊直政の時代~青春篇」

▽「築山殿は井伊家出身か?」

▽「井伊直政とその養母としての直虎」

▽「『小さな政府』でまずまずの善政」

▽「幕府に井伊大老の仕事を否定され新政府側に」

▽「日本一の城下町彦根と彦根藩領だった世田谷区」など。

■滋賀報知新聞 平成28年12月1日(木) 第17668号

古き宿駅「野路駅」の名残り

2016年09月21日 | 番外編

古き宿駅「野路駅」の名残り

萩の玉川

 源頼朝などが宿泊した中世の宿駅、野路宿は近年の発掘調査により、南草津駅の西側一帯の地にあったことが明らかになってきましたが、その故地には、宿駅を偲ぶ何らの遺構はない。

その中で、野路町の旧東海道沿いに復元された萩の玉川跡は、日本六玉川の一つ、野路の玉川の故事来歴を伝える唯一の名所であります。

その跡地には「あすもこむ野路の玉川萩こえて 色なる波に月やどりけり」と詠った源俊頼の歌碑が残されています。

    

「野路の玉川」旧跡 (草津市野路四丁目)

 この町ほど紀行文や歴史書の中に多くその名をとどめているところはなく、「野路の篠原」として和歌などにも数多く詠まれています。
近江路や 野路の篠原 夕ゆけば 志賀よりかえる笹波の風(捨玉集)は、代表的なもので、このような歌が数多く詠まれるようになったのは、この地に野路の宿がおかれにぎわったことに起源します。
 都から東下りの旅人が、逢坂山をこえ瀬田の唐橋を渡って、一里山のだらだら坂経て野路の玉川に達すると、そこは今までとちがった広々とした野原の一本道となりますから、野路という実感を持ったことと思います。
 ことに都から離れ、東国への長い旅路を思うとき、はるか左手にかすむ琵琶湖の面、紫に煙る比叡、比良の山並みを望み、言い知れぬ思いに胸を打たれたことが想像されます。そのような哀愁を帯びたほとんどの歌が、野路の篠原という言葉の中に、含まれていると思われます。このような土地がらが、やがて地名となって野路と呼ばれたものでしょう。
 この地にまつわるお話も悲話が多く、たとえば平宗清(平宗盛の子)の最後の地である話であるとか、佐々木高綱の馬子切りの話などがあります。また、源平以後の争乱に多くの人家が戦災をうけたことはもとより、幾百人の人たちがその犠牲になったものか、今も町のあらゆるところに石仏の埋まっていることも、この土地の歴史上の位置を示しているように思われます。

            


国宝重文11城、耐震遅れる。補強完了は姫路だけ

2016年07月03日 | 番外編

国宝重文11城、耐震遅れる。補強完了は姫路だけ   

                            京都新聞2016.7.3

 姫路城=兵庫県姫路市

 江戸時代以前に築城され、天守が現存する全国12の城のうち、震度5強の地震への耐震補強を済ませたのは「平成の修理」を実施した姫路城(兵庫県姫路市)だけであることが2日、共同通信の取材で分かった。12城は全て国宝か重要文化財に指定され、多くの観光客を集める人気施設だが、11城は地震への備えが遅れている。工事の費用負担や工期中の観光客減少への懸念が壁になっている。

 4月の熊本地震で、熊本城(熊本市)の1960年復元の天守が傾き、重要文化財の櫓が倒壊するなど大規模な被害が出たばかり。文化庁は「早急な対策が必要だ」と危機感を強めている。


さよなら アル・プラ大津 駅隣接 42年 歴史に幕

2016年06月21日 | 番外編

大勢の買い物客らに見守られ、最後の営業日を終えたアル・プラザ大津(20日午後8時、大津市春日町)

さよなら アル・プラ大津 駅隣接 42年 歴史に幕

 大津市のJR大津駅に隣接する平和堂(本社・滋賀県彦根市)の商業施設「アル・プラザ大津」が20日閉店し、前身の平和堂大津店時代を含め計42年間の営業を終えた。最終日は「普段の4倍」(同店)の買い物客が訪れ、慣れ親しんだ店や店員との別れを惜しんだ。跡地には2019年度完成予定のマンション計画があり、平和堂は1階に食料品販売中心の店舗を出店する。

 同店は1974年に平和堂大津店として開店。6階にレストラン街を備え、2階でJR大津駅に直結していた。ピークの80年代には年間40億円超を売り上げたが、店舗の老朽化や郊外型店舗との競合激化などで2013年に閉店を決定。1、2階と地下1階のみの営業に縮小していた。

 この日午後8時の閉店前には中井秀男店長(57)らが正面入り口前に並び、買い物客を見送った。なじみの店員と互いに涙を浮かべながら握手を交わす人の姿も見られた。店舗前で中井店長が「明日から皆さんの顔が見られないのは寂しいが、3年後に店は戻ってきます」とあいさつすると、見守った客や駅利用者ら約100人から大きな拍手が送られた。開店時から利用してきたという主婦中尾高子さん(83)=大津市逢坂2丁目=は「駅に近く、日常品を買うのに便利だった。閉店は寂しい」としんみり話した。

 閉店に伴い、平和堂は23日から大津駅周辺から石山店(同市松原町)への無料送迎バスを木・日曜に運行する。同市中心部の西友大津店跡地(同市長等2丁目)にも来年夏に食料品中心の店のオープンを予定している。

     京都新聞【 2016年06月20日 22時21分 】


=家康最大のピンチ救った功労者=

2016年05月01日 | 番外編

=家康最大のピンチ救った功労者= 

複数伝わる「神君甲賀伊賀越え」ルートを見入る研究会のメンバー。左端が会長の辻さん

◇甲賀
 徳川家康最大の危機は、本能寺の変後、堺から本拠地・三河(愛知県)への逃避行。俗に「神君(家康)伊賀越え」と吹聴され、服部半蔵ら伊賀忍者の活躍がクローズアップされがちだが、近年は甲賀忍者(衆)の貢献度の大きさや、その勢力圏を通過したことから、「神君甲賀伊賀越え」とする見方が注目される。今年は家康の没後四百年。地元の甲賀忍術研究会(辻邦夫会長)はこれを機に甲賀忍者の面目躍如を図ろうと、六月十一日、家康から直系十九代目の徳川家広氏を招いて、実際に逃避行のルートをたどるツアーを実施する。当日は甲賀忍者の子孫が「護衛」し、新進気鋭の歴史学者、磯田道史氏も同行する。【高山周治】

徳川宗家19代目家広氏迎え 地元研究会「神君甲賀伊賀越え」ツアー

 定説のルートは、多羅尾氏の本拠だった小川(甲賀市信楽町小川)から御斎峠(伊賀市)へ向かい、柘植(同)から加太峠(同)を越えて、伊勢湾の白子浜(三重県鈴鹿市)から海路で三河へ向かったとされるが、実は小川~柘植間のルートについては確かな裏付けはない。
 これについて甲賀忍術研究会の辻会長は、信長が伊賀国に侵攻した天正伊賀の乱(一五八一)が前年に勃発したばかりだったこともあって、「伊賀越えは最も危険なルートで現実的でない。伊賀衆の残党にとって、信長の同盟者である家康は敵の一人で、命を奪おうとするものが多くいただろう。しかし、伊賀越えルートが定着したのは、あえて死地を突破することで、神君(家康)の箔(はく)をつけようとしたのでは」とみる。

複数伝わる「神君甲賀伊賀越え」ルートを見入る研究会のメンバー。左端が会長の辻さん

 一方、「神君甲賀伊賀越え」とされるルートは、甲賀市信楽町小川→同神山→伊賀市槙山(まきやま)→同玉瀧→同湯舟→同小杉→同柘植に至るもので、「伊賀越えと比較すれば、より安全で自然」と支持する。
 このうち、槙山以下は国境ぎりぎりで伊賀国に入るが、信長が伊賀を平定したのち、旧伊賀領を甲賀衆の多羅尾氏や和田氏に与えており、事実上の近江領といえそうだ。
 このほかにも、「家康の一行数十人の宿泊所を確保するには、戦火で荒廃していた伊賀よりも、寺院の多い甲賀の方が有利」と、甲賀越えを補強する。
 なお、神君甲賀伊賀越えをたどるツアーは六月十一日に実施される。参加費は三千円(バス代、軽食代など含む)。定員二十人(参加多数の場合は抽選)。
 当日は午前八時半に甲賀市甲南支所に集合、出発し、JR京都駅で徳川・磯田の両氏を迎え、家康が宿泊、休憩したとされる旧跡付近を散策したり、徳川四代の位牌が伝わる明王寺(甲賀市甲南町)で家康の四百年忌法要に参列する。
 また、翌十二日の忍者検定は、忍の里プララ(甲賀市甲南町)で実施される。午前は初級、中級、上級の各検定。午後は徳川家広氏と磯田道史氏が対談する。受検料二千円。対談は無料。
 


近江 旗本札

2016年02月15日 | 番外編

旗本札(はたもとさつ)は、

    江戸時代に知行地を持つ旗本が自領内において独自に発行した紙幣である。

近江国

近江国における旗本札発行旗本の特徴としては、交代寄合または寄合といった大身旗本が発行元となっている点が挙げられる。

高島郡朽木(現・滋賀県高島市朽木野尻)の朽木氏(交代寄合表御礼衆)は福知山藩朽木家の本家筋で、足利将軍家が有事の際にしばしば頼った名家である。

蒲生郡大森(現・東近江市大森町)の最上氏は、出羽国の名族で山形城主であった最上氏が御家騒動により減知のうえ転封し、のち更に減知により国主格のままで交代寄合表御礼衆となった。

神崎郡伊庭(現・東近江市伊庭町)の三枝氏は、甲斐国の名族で武田氏の重臣であった家である。

蒲生郡中山(現・蒲生郡日野町中山)の関氏は、伊勢国亀山城主や伯耆国黒坂城主を歴任した大名であったが、御家騒動により領地を没収され、養子が改めて旗本として取り立てられて成立した家である。

蒲生郡老蘇(現・近江八幡市安土町東老蘇)の根来氏は、紀伊国の根来寺に所属して豊臣秀吉の根来寺攻撃に抵抗し、のちに徳川家に属した成真院盛重の後裔である。

 近江国の旗本札の特徴としては、銀建て、銭建ての札で、紙幣として使用されることが前提のものでありながら、朽木氏の炭切手伊庭三枝氏の種切手中山関氏の豆切手老蘇根来氏の豆手形大森最上氏の茶切手というように、いずれも商品切手(商品券)の名目をとっている点がある。

近江国では、彦根藩、、膳所藩、水口藩、大溝藩など、江戸期に発行された同国諸藩の藩札も同様の特徴を有している場合が多い。

老蘇根来氏は、陣屋を構えていた老蘇のほかに、大和国宇智郡の知行地においても札面が類似した様式の紙幣を発行した。

参考資料:ウィキペディア

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鯰江城落城の「餅なし正月」消える風習 滋賀など局地的に伝わる

2016年01月28日 | 番外編

「餅なし正月」消える風習 滋賀など局地的に伝わる お雑煮の餅。正月にあえて餅を食べない「餅なし正月」の風習は薄れてきている(京都市内)

正月に餅を食べない「餅なし正月」という、ちょっと変わった風習が全国各地で局所的に残っている。京都府内では伝承が確認されていないようだが、滋賀県では受け継ぐ地域がある。餅を食べない理由は地域によってさまざまというこの風習は、核家族化の進行に伴い、消えかかっている。

信長の時代から

 東近江市鯰江(なまずえ)町に住む鈴村重史さん(66)宅では例年、元日から3日まで餅を食べず、イモが入ったみそ汁を出す。「昔からうちではこうです。代々、ずっと続けています」

 なぜ正月に餅を食べないのだろうか。

 鈴村さんが住む鯰江町にかつてあった鯰江城が織田信長勢に攻められ、落城した。「その死者を追悼するために始まったと父から聞いています」

 鯰江町では多くの家が「餅なし正月」の風習を受け継いできたが、近年は失われつつあるという。「70軒ほどありますが、今も受け継いでいるのは10軒ほどではないでしょうか」と鈴村さんは話す。

 「餅なし正月」を研究する民俗学者の金田久璋さん(72)=福井県美浜町=によると、滋賀県内でこの風習を受け継ぐのは鯰江町と、その近くの東近江市青山町、湖南に位置する栗東市出庭の3地域が確認されている。

 京都では伝承や事例が報告されていないことについて、金田さんは「かつてはあったかもしれないが、長く都が置かれた地で、文化がめまぐるしく変化する中で消えたのではないか」と推測する。

 栗東市の出庭地域の風習などを記録した「出庭の民俗」によると、出庭では五つの家で餅を食べない風習が伝えられていた。理由は各家で異なり、「敵の急襲に備えて、のどを詰まらせないようにする」「貧しくて食べられなかった」がある。

 餅なし正月の由来として、稲作文化の象徴といえる餅を畑作文化が拒んだとする説がある。しかし、滋賀県内の3地域はいずれも山地と琵琶湖の間に広がる扇状地の平野部に位置する豊かな水田地帯で、必ずしも畑作文化と稲作文化の対立とは結論づけにくいようだ。

 そして栗東でもこの風習は薄れているようだ。栗東歴史民俗博物館に問い合わせたところ、5家のうち複数が今は餅を食べていると答えたという。

 そもそも昨今は、正月に餅を食べたり、おせち料理を食べたりといった食の伝統が薄れつつある。まるで餅が伸びるように連綿と受け継がれてきた「餅なし正月」の風習が断絶の危機にあるのも時流なのかもしれない。

 <餅なし正月>「日本民俗大辞典」(吉川弘文館)によると、元日を中心に、餅をつかず、食べず、供えずという禁忌を継承すること。その伝承は全国各地で確認されており、餅なし正月研究の第一人者である故坪井洋文氏の研究によると、最北端は宮城県で、最南端は鹿児島県という。

【京都新聞 2016年01月27日 17時04分 】

 

 


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なぜ信長は本拠を近江に

2016年01月03日 | 番外編

なぜ信長は本拠を近江に? 元安土城博副館長がガイド本

織田信長の歩みをたどるように県内の史跡を紹介する旅の本を出版した大沼さん(大津市瀬田南大萱町)

 安土城考古博物館元副館長で滋賀県文化財保護協会普及専門員の大沼芳幸さん(61)が、織田信長の県内での足跡をたどる旅行者向けのガイド本「信長が見た近江」を出版した。信長が築城や接収した城跡などを紹介し、華麗な天主と伝わる安土城築城の真意なども考察。「信長は戦うことよりも、視覚的に権威を示すことに重きを置いて天下取りを描いた。なぜ近江に本拠を置いたのか、人物像に少しでも迫れれば」と話している。

 大沼さんは琵琶湖文化史が専門。県教委文化財専門職員として、安土城の発掘調査や県内の文化財保存に長く携わってきた。

 書籍はオールカラーのA5判で136ページ。信長に仕えた太田牛一(おおたぎゅういち)が記した「信長公記(しんちょうこうき)」の記録に沿って、現代に残る城跡や古戦場、巨木などを巡る構成になっている。上洛途中に初めて信長が琵琶湖を見た1559年から始まり、物流と情報の拠点としての近江と琵琶湖の支配、安土城天主が完成した1579年ごろまでの湖国での足跡を追いながら、各史跡の歴史上の位置づけを記している。

 安土城については信長が自身を神格化するための「究極の装置」と紹介。「天皇という農耕神に対抗するため、信長はより神威の高い水と太陽をつかさどる神を目指した」などとし、金箔(きんぱく)張りの絢爛(けんらん)豪華な天主は神殿的な役割を担ったと解説している。

 山形県出身の大沼さんは「滋賀の人は信長に『侵略者』のイメージを持つ人が多いが、信長は天下取りの拠点として近江を重要視し琵琶湖にも大きく感化されたと思う。自分なりの物語を重ねながら史跡巡りを楽しんでほしい」と話している。

 2000円(税別)。サンライズ出版TEL0749(22)0627。

京都新聞2016年01月02日 09時10分


織田信長が好んで行わさせた「竹相撲の絵馬」新宮大社で除幕

2015年12月24日 | 番外編

「信長公記」  巻三 元亀元年

 1、相撲見物  常楽寺にて相撲の事

  信長公は常楽寺にしばらく滞在し、3月3日近江国中から力士を集めてこの地で相撲見物をした。

 集められた力士は百済寺の鹿・百済寺の小鹿・深尾又次郎・鯰江又一郎・青地与右衛門といった面々であったが、会場には他にも腕自慢の相撲取りたちが我もわれもと詰めかけ、数をも知れないありさまとなった。
 さて木瀬蔵春庵の行事のもと取組は進み、最後に鯰江又一郎・青地与右衛門が勝ち残った。信長公は両人を御前に召し寄せ、褒賞としてのし付きの大小を与え、さらに両人を家臣に加えて相撲奉行に任じた。両人とも面目の至りであった。また見事な相撲を見せた深尾又次郎には信長公から衣服が贈られた。
 相撲ののち信長公は京へ向かい、5日①に入京して半井驢庵邸に宿泊した。京には畿内隣国の諸侯や三河の徳川家康もすでに到着しており、挨拶の者たちで門前は市をなすがごとき情景となった。
 

 ①入京した日付は5日ではなく2月30日が正しいとされる。したがって相撲見物も3月3日ではない。

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=信長が名付けた東家、西家が奉納=

 
除幕後、絵馬を見上げる神社関係者と地元の子どもたち

◇近江八幡     滋賀報知新聞■平成27年12月24日(木) 第17380号
 織田信長が好んで行わさせた「竹相撲」発祥の地と伝えられる新宮大社(近江八幡市安土町下豊浦)の拝殿に二十日、竹相撲のようすを描いた絵馬が奉納された。

相撲発祥の歴史を後世に

 竹相撲は太い竹を用いた力比べで、力自慢の男二人がとりあったが決着が付かず、信長の采配で引き分けとなり、健闘の褒美として信長から二人に「東」と「西」の名字を与えたと伝えられている。
 今年の信長祭りでは、同神社境内で地元有志による竹相撲が再現され、相撲発祥の地としての歴史文化に思いを馳せた。十一月二日には、信長と竹相撲の歴史を伝える記念碑が境内に建立された。
 竹相撲を実際にどのように行われたかがわかる図画が残されていないため、東家と西家が地元出身の画家・塩谷榮一氏(京都市在住)に作画を依頼し、絵馬に描きあげられた。


力強く描かれた竹相撲の歴史を伝える絵馬

 奉納された絵馬は、縦一メートル二〇センチ横二メートル一〇センチの大きさでヒノキの額縁に納められている。いかにも強そうな男二人が両手で太い竹をもち、相撲を取りあう緊迫した闘いのようすが力強く描かれている。
 塩谷氏(74)は「国会図書館や相撲博物館などに足を運び、信長の竹相撲に関する文献や資料を探して調べ、安土城が完成した時に兵士を集めるために競わせたと伝わる竹相撲をイメージし、四か月かけて描きあげた。私は地元との関わりが深く、こうした郷土の歴史を伝えていく思いを大切にしていきたい」と話していた。
 また、絵馬を寄贈した両家の代表で東家四十四代目当主の東康彦さん(67)は「竹相撲が行われたことにより、信長から名字を頂いた歴史を大切にしていきたい。名字にゆかりの深い竹相撲の絵馬が奉納できたことは両家の誉れでもあり、大変うれしく思う」と話した。
 除幕式には、両家や神社関係者、塩谷氏、地元の子たちが参加した。ヨシ葺き屋根の拝殿の天井下のベールが取り払われた大きな絵馬は、相撲発祥の安土の歴史を伝えている。


信長の竹相撲

2015年12月21日 | 番外編

信長の竹相撲、絵馬に 滋賀・新宮神社に奉納

奉納された「竹相撲」の絵馬(近江八幡市安土町下豊浦・新宮神社)
奉納された「竹相撲」の絵馬(近江八幡市安土町下豊浦・新宮神社)

 滋賀県近江八幡市安土町下豊浦の新宮神社で20日、織田信長が城下の力自慢を集めて行ったとされる「竹相撲」の様子を描いた絵馬を氏子らが奉納した。

 竹相撲は1本の竹の両端を押し引きして勝敗を決める形式で、引き分けの好勝負をした2人に、信長は「東」と「西」の姓を授けたという。今年6月の「あづち信長まつり」で氏子らが初めて再現したことを機に、相撲の様子を後世に伝えようと絵馬を奉納した。

 絵馬は横2・1メートル、縦1・2メートルで、地元出身の画家塩谷栄一さん(74)=京都市上京区=が描いた。

 この日は東西両家の子孫や氏子ら約30人が出席し、神事に続いて絵馬が除幕された。両家を代表してあいさつした氏子総代の東康彦さん(67)は「すばらしい出来栄えの絵馬を奉納でき、両家にとって大変な誉れ。先祖の名に恥じぬよう伝えたい」と話していた。

京都新聞2015.12.21