城郭探訪

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景清道

2015年09月22日 | 歴史講座・フォーラム

 滋賀県東近江市内の景清道

平氏再興の祈願の為、尾張国(名古屋市)より、遥か京都の清水寺の薬師如来へ参詣のために通った道と言われており、又、眼病平癒のために通った道であると言い伝えられている.
歴史的には、かなり古い道筋らしいが、田舎の畦畔の小径、人里離れた山道、湖辺など通り、特に屈曲が多く狭くて人目を避け近道となっている点、世を憚る特定な人物が往来して居たのでないかと思われる。
資料によると一説には、当時は各地の通行の取調べが厳しい時代からすれば、関所の公道を避け、ひそかに通った間道「陰道」・「かげ京道」の転音化したものとする説が有力である。

平家に仕えて戦い、都落ちに従ったため俗に平姓で平景清とも呼ばれているが、藤原秀郷の子孫の伊勢藤原氏(伊藤氏)で、伊藤景清ともいう。通称、上総七郎(上総介忠清の七男であるため)。信濃守(1180年)、兵衛尉。「悪七兵衛」(あくしちびょうえ)の異名を持つほど勇猛であった。

平安末期における治承・寿永の乱(源平合戦)において活躍した。『平家物語』巻十一「弓流」において、源氏方の美尾屋十郎の錣を素手で引きちぎったという「錣引き」が特に有名である。壇ノ浦の戦いで敗れた後に捕られ、一説には預けられた八田知家の邸で絶食し果てたといわれる。

「悪七兵衛」の「悪」は悪人という意味ではなく、「悪党」と同様に勇猛さを指すものとされるが、壇ノ浦の敗戦後に自分を匿った叔父の大日房能忍を疑心暗鬼にかられて殺害してしまったためにそう呼ばれるようになったとの伝承もある。ただし近年は能忍の死因は病死または事故死とする説が有力。

実在したとはいえ生涯に謎の多い人物であるため、いわゆる平家の落人として扱われる事は少ないが、各地に様々な伝説が残されている。このためか各種の創作において主人公としてよく取り上げられている。

『吾妻鏡』の記述によれば、景清には兄がいて、上総五郎兵衛尉忠光といい、鎌倉二階堂の永福寺の造営中、源頼朝を暗殺しようと土工にまぎれこむも、怪しまれて捕まっている。

歴史書

天敵・・義経

源氏・・・頼朝

景清物

 

古典芸能において、「景清」または「何某誰々実ハ景清」が登場する作品を、一括して景清物(かげきよ もの)と呼ぶ。

各地の景清伝説

桑実寺の「景清の背比べ石」(滋賀県近江八幡市)

景清道(近江八幡市慈恩寺町)景清眼洗いの井戸(滋賀県彦根市)

歴史的には、かなり古い道筋らしいが、田舎の畦畔の小径、人里離れた山道、湖辺など通り、特に屈曲が多く狭くて人目を避け近道となっている点、世を憚る特定な人物が往来して居たのでないかと思われる。
資料によると一説には、当時は各地の通行の取調べが厳しい時代からすれば、関所の公道を避け、ひそかに通った間道「陰道」・「かげ京道」の転音化したものとする説が有力である。
「景清道」は、遠き尾張国の熱田より北国路に向い、大垣過ぎで中山道に入り関ケ原より近江に来ており、柏原から醒井から息郷・番場を通り、鳥居本より彦根に至り、ここより景清道らしき古道が現存し、伝承されている。
近年の土地開発で、陰道を偲ぶ箇所は一部に過ぎないが、地域に根付いている事は確かである。現在の地図では明確でないが、通説によれば、彦根より宇尾、堀、極楽寺、楡(にれ)、安食中、三津、肥田、百々、長野西、長野東の旧道を通り、愛知川の御幸橋に至っているようである。

愛知川は、御幸橋付近で渡し舟で五個荘町簗瀬に着き、宮荘の五個神社の横に出て、景清も参詣したであろう、入口に清水が湧き出る荘厳な行願禅寺を通り過ぎ、

大城神社の森を目指して真直ぐに自転車道が伸びているのが「景清道」である。

五個荘小学校前の、通学道路を横切り、金堂に菅原道真公を祀る立派な大城神社横の、いかにも景清道らしい細い小径を経て石塚に至り、繖山の麓の清水谷を経て、安土町石寺(栢尾)に入り、有名な蓮池を通る。

ここより景清道、山中に向い紅葉で名高い近江の名園教林坊を通り過ぎ、山林道を西にとり、険しい鳥打越にさしかかり、峠を過ぎるとすぐ近江八幡市と安土町が一望出来て、今と変わらぬこの風景に、景清は遠い都に心を馳せ、そうして遠望出来る鶴翼山麓の旅庵寺に思いを寄せたことであろう。
ここから山手に行けば、瓢箪山古墳近くを通り、桑實寺参道入口に至る。桑實寺よりは、真直ぐに農道が伸びている。上豊浦に至ると、景清ゆかりの袈裟切地蔵堂を拝し、小中の行者堂前を西に向い、沙々貴神社街道(安土・西生来線)を横切り、小路と思われる道を、ちはし地蔵堂前を経て、浄厳院裏の慈恩寺を通り過ぎ、山本川の新橋「景清橋」を渡り近江八幡市に入る。景清道は、長田町にある農協カントリー前の田園の中を直線に鷹飼町に伸びており、その問には、県立八幡工業高校のグランドの傍らを通っている。

繖山麓の景清道http://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/4b0ad77d2fbe5b9f71e4a11ee679e701

景清道ウオークと観音寺御屋形 近江国(安土)http://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/31404453e37fef4643e95d9df439aeec

参考資料:ウィキペディア

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


近江 「近世城下の誕生と形成) 2015.3.1

2015年03月02日 | 歴史講座・フォーラム

 城郭博物館三館連携の講演会のパンフ

 県立安土城考古博物館、長浜市長浜城歴史博物館、彦根城博物館の城郭博物館三館が連携した講演会「近世城下町の誕生と形成」が、三月一日午後一時半から長浜文化芸術会館た。入場無料。

 全国的にも知られた安土、長浜、彦根の三つの城下に築かれた城下町をテーマに、その形成や形態、役割などについて三館の学芸員が、講演とてい談で解説する。

 いずれも戦国時代と深く関わる城で、日本の国が大きく揺らいだ天下統一の波が近江に集中した歴史的意義が深く、それぞれの城が果たした役割は大きい。

 そうした時代背景の中で、それぞれの城下町はどのようにして形成されたのか、また、どんな都市機能が備わり、そこに暮らす人々はどんな生活を送っていたのかなど、これまでの研究成果を紹介しながら、三つの城下町の特徴を解き明かす。

 講演のテーマは、「安土城と信長の城下町」高木叙子学芸員(安土城考古博物館)、「長浜城と秀吉の城下町」太田浩司学芸員(長浜城歴史博物館)、「彦根城と井伊家の城下町」野田浩子学芸員(彦根城博物館)。


講師:中井均県立大教授 講座「東近江市域を中心とした中世の山城について」

2014年05月25日 | 歴史講座・フォーラム

八日市郷土文化研究会会長挨拶

講座テーマ

講師紹介(八日市郷土文化研究会会長」

 

熱弁の講師は中井均県立大教授

講師紹介

 講師は「近江の山城―ベスト五十を歩く」や「日本の城」など多数の著者であり、近江を中心とした山城の実地調査や現地説明会を開催するといった幅広い活動に取り組んでいる、中世の山城研究の第一人者である中井均滋賀県立大学教授。

 

https://www.facebook.com/photo.php?v=296928727136376&saved

 

はじめに

・今、お城は面白い⇒大地に刻まれた歴史遺産【戦国時代が体感できる】

・中世の城とは、「土」かた「成」るもの【土木施設:普請】⇒曲郭、切岸、土塁、堀切といった防御施設

・滋賀県では、1981年から10年間にわたって県内に所在する中世城館跡の悉皆調査を実施⇒県内「に約1300ヶ所もの城館跡の存在することが明らかになった【近江は湖国であるとともに「城の国」でもある】

◆戦国時代最大の城「観音寺城」・・・(詳細略)

◆土豪たちの山城

・布施山城

・大森山城

・雪野山城

 後藤屋敷

◆軍事的最前線の城

・佐生城

・井元城

◆おわりに

・近江の城を語らずして、日本の城は語れず

・城跡は親しみやすい遺跡⇒各地で整備がさかん【まちづくりの核】

・郷土への誇り、愛着、自信」へ【歴史あるあるまちは、魅力あるまち】

・滋賀県に残された1300もの城跡のストーリー

  中世の山城跡が多くあることで全国的にも有名な近江の中でも、東近江市域には観音寺城など多数の城跡がある。

講演では、城跡の現状と歴史的背景がわかりやすく解説された。

参考資料:講座レジュメより

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!

 

 

東近江市の中世山城 八日市郷土文化研究会

=講師は中井均県立大教授 25日 八日市コミセンで=

◇東近江
 八日市郷土文化研究会は、講演会「東近江市域を中心とした中世野の山城について」を二十五日午後二時から八日市コミュニティセンターで開催する。
 中世の山城跡が多くあることで全国的にも有名な近江の中でも、東近江市域には観音寺城など多数の城跡がある。講演では、城跡の現状と歴史的背景がわかりやすく解説される。
 講師は「近江の山城―ベスト五十を歩く」や「日本の城」など多数の著者であり、近江を中心とした山城の実地調査や現地説明会を開催するといった幅広い活動に取り組んでいる、中世の山城研究の第一人者である中井均滋賀県立大学教授。
 参加費は三百円(資料代)。問い合わせは、同研究会藤本長蔵さん(0748―56―1087)まで。

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講座「明智光秀の故地は近江か」講師:長谷川博美氏・丸山竜平氏

2014年05月18日 | 歴史講座・フォーラム

 「坂本城を考える会」主催
の「近江出身伝説考察と坂本城天守幻想」の記念講演があり、参加してきました。

毎年、「坂本城を考える会」では、坂本城や明智光秀に関する講演をされているようです。地域住民が郷土の歴史を学び、史跡を守り、後世に伝えて行
く活動をされてことに敬意を表したいと思います。

今回の講師は、中世城郭研究家 長谷川博美氏と丸山竜平氏。

長谷川氏の詳細なレジュメ

明智光秀の出生地が何処か。良質の文献が残っていないのでやはり伝説になってしまいます。 
その中で、新たに多賀町佐目が上がってきました。ここには、明智十兵衛屋敷の伝説があり、明智につながっているようです。

■日本各地の明智三秀出世伝説

・「美濃国諸旧記」巻11・・・土岐氏一族(岐阜県可児市)

・「明智軍記」に美濃国明智城とある(岐阜県恵那郡明智町)

・伝承・・・「美濃誌」に土岐四朗基頼と豪族中洞源右衛門の娘の間に光秀誕生、後可児の明智氏に養子(岐阜 県山形郡美山町)

・「明智一族宮城家相伝系図」「大日本史科第11編之1」明智光秀は1528年8月17日石津郡多羅に生、多羅は進士家居城、母は明智家当主「明智光綱」の妹・・・後、養子として明智城に入る(大垣市上石津多良)

・若狭国「若州観跡禄」「若狭守護代年数」では、若狭国遠敷郡小浜の鍛冶職人・冬広の次男。家業を嫌い近江佐々木六角に士官とある

・「校合雑記」は、丹波国桑田郡明石(京都市右京区京北)に出生、明智を名乗り丹波国守護細川家に士官・

・滋賀県犬上郡多賀町佐目「近江興地史略」「淡海温故禄」「佐々木木間攫」に伝承記録

明智光秀伝説の城「腰越の城:仮称」を探訪するに参加して

  中世の城郭を研究、ここにお城があったらしい、あってもおかしくはないと地道に研究、現地を調査。そして複数の出城の存在を発見確認されている方の現地見学会と現地講演が開催されたので出かけました。 その研究家は長谷川博美氏です。

「淡海温故録」に犬上郡多賀町佐目に明智光秀伝説の存在が記されている。また、佐目集落の南東端に位置する十二相神社の正面に明智屋敷(通称:十兵衛屋敷)の伝承地がある。これらの伝説に関連する中世城郭と推測されるが、詳細は不明である。

腰越の城(こしごえのしろ)

所在地 : 多賀町佐目

形  式 : 山城(標高423.1m)

 

 

丸山先生もコメントで「そうであってほしいなー。」と話され、是非行ってみたい!

「坂本城天守幻想」のお話です。縄張り図から坂本城天守閣の隣に「小字城」という一回り小さくした【小天守】があったようです。

 光秀は、ここで戦の合間に湖上高く上がる月を見ながらひと時のやすらぎと、次の戦略を・・・・!

今日は、数十名の参加者が1時間半余り、講演に聞き入りました。

 

講演会終了後 

長谷川博美氏 山脇山城(現地測量図)ネット記事スクープ

山脇山城「明智陣伝承」明智光秀の巨大図面 5/11本邦初披露。畳一枚分あり。

     

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三成の戦2〜今、なぜ三成なのか?

2014年03月16日 | 歴史講座・フォーラム

3月15日(土)開催


【講演ほか】三成の戦2〜今、なぜ三成なのか?

主催:びわ湖・近江路観光圏協議会
TEL:0749-27-5501(夢京橋あかり館)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
◆日時:平成26年3月15日(土)10:00〜15:30
◆場所:清涼寺(彦根市古沢町100)
◆日程(一般参加は10:00から)
10:00〜 三成餅ふるまい
10:40〜 三成会議 彦根市・米原市・長浜市共同宣言式
10:50〜 近江猿楽多賀座三宅風太鼓による出陣太鼓
11:10〜 鼎談「石田三成に恋をしよう。」 
     鍋島壽夫さん、田附清子さん、クリス・グレンさん
12:00〜 昼食・佐和山城跡武将隊の演武
    「特製・三成牛飯」(千成亭)1000円もあります
13:30〜「石田三成—出頭人の素顔と自負」桐野作人さん
14:30〜鼎談「石田三成と歩いていこう。」  
    桐野作人さん、鍋島壽夫さん、クリス・グレンさん
15:30 終了予定
※清凉寺の特別拝観あり

三成ゆかりの3市スクラム 長浜・米原・彦根、全国に魅力発信

 

三成の魅力を全国に発信しようとスクラムを組んだ(左から)長浜市の藤井市長、彦根市の大久保市長、米原市の平尾市長=彦根市・清凉寺
三成の魅力を全国に発信しようとスクラムを組んだ(左から)長浜市の藤井市長、彦根市の大久保市長、米原市の平尾市長=彦根市・清凉寺

 戦国武将石田三成の魅力を全国に発信しようと、ゆかりのある長浜、米原、彦根の3市がスクラムを組んで「三成会議」を15日、立ち上げた。彦根市古沢町の清凉寺で第1回の会議を開き、3市長が「石田三成に逢(あ)えるまちづくり宣言」に署名した。関ケ原合戦で「敗軍の将」となり、ゆがめられた三成の歴史的評価の誤解を解くとともに、全国のゆかりの地に三成会議への参加を呼び掛ける。

 初回の会議には、3市と各市の経済や観光などの計26団体の代表が参加した。各代表の紹介と6団体の取り組みが紹介されたあと、藤井勇治長浜市長、平尾道雄米原市長、大久保貴彦根市長が宣言に署名した。大久保市長はあいさつで、「全国に三成を理解してもらい、観光にもつなげたい」と話した。

 宣言は、「豊臣秀吉を支えた三成公の卓越した行政手腕を評価し、歴史によってゆがめられた姿を正しく評価し直し、三成公の魅力を全国に発信する」としている。会議は年に1、2回開き、事務局は長浜市に置く。

 会場では、観光イベント「三成の戦2」も催され、歴史作家桐野作人さんの講演などがあった。


 http://search.jword.jp/cns.dll?type=lk&fm=109&agent=9&partner=BIGLOBE&name=%B5%FE%C5%D4%BF%B7%CA%B9&lang=euc&prop=495&bypass=3&dispconfig

本日も訪問、ありがとうございました


連続講座「近江の城郭」 第4回 【元亀争乱を歩く~坂本・穴太】

2014年02月23日 | 歴史講座・フォーラム

元亀元年(1570)9月、大坂本願寺を攻撃している織田信長の隙をついて浅井・朝倉連合軍が湖西路を坂本まで南下し、信長の背後をうかがいました。一方信長も、これに対応するように京を経て坂本に進軍します。反撃された浅井・朝倉軍は比叡の山々に立て籠もり、信長軍は山麓の要所に陣所を構え、両軍のにらみ合いが続きました。信長最大の危機、志賀の陣です。両軍の対峙は三ヶ月近くにおよび、この年の暮れ、将軍足利義昭の仲介で講和して両軍とも引き上げました。またこのとき延暦寺が浅井・朝倉軍を受け入れたことが、翌年の延暦寺焼き討ちにつながります。

今回の講座では、坂本から穴太にかけて点在する織田軍の陣所跡と合わせ、中世に大いに繁栄した坂本の町について、地元大津市の文化財専門職員の案内で御覧いただきます。

 

1.日時 平成26年2月22日(土) 10:30~16:30

○集合:京阪電車坂本線坂本駅 ※JR湖西線比叡山坂本駅から徒歩約12分

○解散:京阪電車坂本線穴太駅

2.行程 坂本駅→坂本の町並み→公人屋敷(旧岡本邸)→大津市坂本市民センター(昼食・講義)→無動寺口→盛安寺→高穴穂神社→穴太駅・唐崎駅 全行程約4km(平坦道)

       ルート地図はこちら

3.内容 講義「元亀争乱を歩く」 講師:仲川靖(滋賀県教育委員会文化財保護課)

                     会場:大津市坂本市民センター

現地探訪 坂本の町並み・織田軍陣所跡 解説:大津市教育委員会文化財専門職員

4.主催 滋賀県教育委員会 5.協力 大津市教育委員会

6.定員60名参加・・・96名

7.参加費 400円(保険料・拝観料等実費分 )

8.持ち物 健康保険証、弁当、水筒、タオル、ウォーキングに適した服装・靴

9.その他

(1)講座資料(A4 8頁程度)を無料で配布します。

(2)単独回のみの参加も可能です。

(3)受講された方には修了証を発行します。

10.参加申込・問い合わせ

 滋賀県教育委員会事務局文化財保護課城郭調査担当

 〒521-1311 滋賀県近江八幡市安土町下豊浦6678 城郭調査事務所

  TEL0748-46-6144 FAX0748-46-6145 E-mail ma16@pref.shiga.lg.jp

 

講義「元亀争乱を歩く」 講師:仲川靖(滋賀県教育委員会文化財保護課) 会場:大津市坂本市民センター

光秀の供養塔穴太積みの石垣

足利義晴の供養塔

 ノルディックウォーキングで坂本駅へ

本日も訪問、ありがとうございました。

第5回 徳川幕府西国支配の要~彦根城跡(彦根市)

 日時:平成26年3月22日(土)10:20~15:30

 場所:彦根城跡(現地探訪)

     大学サテライトプラザ彦根(講義)

 講義:関ヶ原合戦と近江 上垣幸徳(滋賀県文化財保護課)


六角氏最後の戦い~「鯰江城跡・井元城跡」現地見学会 近江国(愛東)

2014年01月28日 | 歴史講座・フォーラム

連続講座「近江の城郭」 第3回 六角氏最後の戦い~鯰江城跡・井元城跡

 鯰江城は愛知川右岸の河岸段丘を利用して築かれた城で、六角承禎・義治父子が信長によって観音寺城を追われた後、元亀争乱の頃に地元の土豪鯰江氏を頼ってここに籠もりました。天正元年4月、織田信長は佐久間信盛らに命じて鯰江城を包囲し、同年9月籠城していた六角義治は降伏して城を出ました。織田信長と近江の諸勢力が戦った元亀争乱はここに終わりを告げます。この鯰江城の約1km東にあるのが井元城です。織田軍が鯰江城を包囲するために築いた付城で、城の入り口部分に馬出しと呼ばれる空間を二重に設けた「重ね馬出し」という珍しい構造を持つことで知られています。

 今回の講座では、現地に残された鯰江城跡・井元城跡の遺構を、地元東近江市の文化財専門職員の案内

日時 平成26年1月26日(日) 10:30~14:15

     ○鯰江町自治会館集合(東近江市鯰江町1296 ちょこっとバス鯰江下車徒歩5分)

       ※鯰江町自治会館の地図はこちら

○滋賀県平和祈念館解散(東近江市下中野町431 ちょこっとバス愛東支所・診療所前下車すぐ)

※平和祈念館は解散後自由見学(入館無料)

※ちょこっとバス愛東線北回り 愛東支所・診療所前14:59発→近江鉄道八日市駅15:22着

       ※ちょこっとバス愛東線の時刻表はこちら

場所 講義:鯰江町自治会館

現地見学:鯰江城跡・井元城跡(東近江市鯰江町・妹町)

行程 鯰江町自治会館(講義→昼食)→鯰江城跡→井元城跡→滋賀県平和祈念館 約4km(平坦道)

主催 滋賀県教育委員会

協力 東近江市教育委員会 東近江市鯰江町自治会

講師 講義「元亀争乱の終焉」 松下浩(滋賀県教育委員会事務局文化財保護課)
    現地探訪 東近江市教育委員会文化財専門職員

定員 60名(事前申込制) 参加費 150円(保険料等実費分)

講座 

 鯰江城は、愛知川右岸の段丘崖上に築かれ、軍事的には八風街道・高野街道を押さえる要衝の地にある。

 元亀元年(1570)朝倉攻めを開始した織田信長が手筒山城、疋壇城を落とし、金ヶ崎城をも落とさんとした時、妹婿の浅井長政の離反によって、朽木越えで京へ逃げ帰った。
 その頃、信長によって観音寺城を追われた六角承禎は鯰江城を居城としており、美濃へ帰国し軍の立て直しを図らんとする信長に対し、六角承禎は八風街道を押さえるこの城を拠点に信長の美濃帰国を妨害した。
 八風街道を使えなかった信長は、御在所岳の麓を通る千種街道を通って帰国することになるが、この時杉谷善住坊に狙撃される。

 城郭遺構としては、昭和初期まで空堀なども残っていたとされるが、現在では土塁が字内に数ヶ所残されているだけである。
 なお字内には “おとぐち” という地名が残っている。この “おとぐち” は大手口が訛ったものものであろう。

 

『佐々木南北諸氏帳』には、「愛知郡 鯰江城主 佐々木箕作義賢男 佐々木右衛門督義弼の名が見える。

 永禄11年(1568)、観音寺城を信長によって落とされた六角承禎・義粥父子は、鯰江満介、貞景,三雲新左衛門等、六角旧臣と謀り、堀を深くし、土塁を高くするなど修築を加えた。
 この時、空堀に愛知川の水を引くため “備前堀” と称する堀を掘ったとされるが完成までには至らず、天正元年(1573)9月、信長方の佐久間盛政,蒲生賢秀,丹羽長秀、および柴田勝家らに攻められ落城した

\\\\\\\信長公記 巻六 元亀四年 15、小谷落城 浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事\\\\ 

 8月27日夜、羽柴秀吉は小谷城京極丸を攻略して浅井久政・長政父子を分断し、その上で父久政の籠る小谷城小丸を攻め取った。これにより浅井久政は切腹して果てた。久政の介錯をつとめたのは日頃久政から目をかけられていた鶴松大夫という舞の名手であったが、この鶴松大夫も久政介錯ののち追腹を切って死んだ。この死により、鶴松大夫は後世に名誉を残した。

  久政の首は羽柴秀吉の手に渡り、虎御前山の本陣に運ばれて信長公の実検を受けた。

  翌日、信長公はみずから兵を指揮して京極丸へ攻め上がり、最期の抵抗をつづける浅井長政・赤尾美作守を死に追い込んだ。

  小谷城は陥ちた。落城後、浅井父子の首は京に後送されて獄門にかけられ、十歳になる長政嫡男も捕らえ出されて関ヶ原で磔にかけられた。元亀以来というもの浅井氏に苦汁を舐めさせられつづけてきた信長公は、ここに年来の鬱憤を晴らしたのであった。
 戦後、江北の浅井氏遺領は羽柴秀吉に一職進退の朱印状が下された。秀吉は年来の武功を認められ、名誉の至りであった。

  9月4日、信長公は佐和山に入り、柴田勝家に六角義治の籠る鯰江城の攻略を命じた。柴田はすぐさま兵を寄せて鯰江を囲み、義治を降伏させた。

こうして各所の平定に成功した信長公は、9月6日晴れて濃州岐阜へ凱旋を果たした。

-----------信長公記 千種峠にて鉄炮打ち申すの事
日野蒲生右兵衛門大輔、布施籐九郎、香津畑の菅六左衛門馳走申し、千種越えにて御下なされ候。左候ところ、杉谷善寺坊と申す者、佐々木左京太夫承禎に憑まれ、千種・山中道筋に鉄砲を相構へ、情なく十二、三日隔て、信長公を差し付け、二つ玉にて打ち申し候。されども、天道照覧にて、御身に少しづゝ打ちかすり、鰐の口を御遁れ候て、目出たく五月廿一日濃州岐阜御帰陣。
-----------ここまで

歴史
 鯰江氏が、いつごろこの他に定住し、居を構えたのかは不明であるが、鯰江の地名は荘園名として文永5年(1268)よりその名が見え、興福寺領の被官となってこの地を治めていたとされる。

 永禄11年(1568)、観音寺城を信長によって落とされた六角承禎・義粥父子は、鯰江満介、貞景,三雲新左衛門等、六角旧臣と謀り、堀を深くし、土塁を高くするなど修築を加えた。
 この時、空堀に愛知川の水を引くため “備前堀” と称する堀を掘ったとされるが完成までには至らず、天正元年(1573)9月、信長方の佐久間盛政,蒲生賢秀,丹羽長秀、および柴田勝家らに攻められ落城した。

発掘調査から

【鯰江城遺跡から石積み遺構と門跡が見つかる・2001年5月8日追記】
 室町時代の鯰江城遺跡を発掘調査していた愛東町教育委員会は土塁(高さ1.7m、幅6m)を仕切る基底部に石積みのあることを確認した。

 調査は約180m2を対象に行われた。土塁の仕切り幅は約1.8mあり、両基底部に石積みが施されている。残りのよい片方は3段(高さ0.75m ・ 幅6m)積み上げている。石材は砂岩系の自然石で横方向に長く置いている。
 石積みに接して礎石と思われる平らな石と釘が見つかっており、土塁の仕切りは門跡と考えられ、本丸郭の通用門の可能性がある。また、石積みの北西部分で長さ1.5m、幅0.25m、深さ0.2mの排水遺構も検出されている。
 さらに内部からは焼土が検出されている。遺物としては土師器、瀬戸美濃陶器が少量出土している。

 安土城(1567~1582)以前の城は土塁を築き、石積みは観音寺城小谷城など限られた城郭でしか確認されていなかったが、鯰江城でも観音寺城などと同じ様に石積みが採用されていることが判明した。そこに、六角氏の意向が強く反映していたことが伺える城郭といえる。

 

 

 

 

鯰江バス停の石碑・説明板

鯰江町自治会館の地割図・説明板

所在地:東近江市鯰江町http://yahoo.jp/nsrKCn                                                                     築城期:室町後期
初城主:土豪 鯰江氏

改築期:織豊期

改築者:佐々木右衛門督義弼

区 分:平城

現状:集落・宅地
遺 構:土塁・石垣
城 域:400m×250m
戦 い :元亀の乱・・・終焉
 元亀4年(1573) ◎織田信長VS ●六角義治

  

 

専修寺境内土塁

http://yahoo.jp/qQmiPp

 

愛知川よりの物見櫓http://yahoo.jp/lUsrjv

大手門の土塁http://yahoo.jp/EBmDKL

大手口横にあり、虎口を形成していた西側土塁。

大手口横にあり、虎口を形成していた東側土塁。

本丸土塁(高さ1.7m、幅6m)を仕切る基底部に石積みのあることを確認した。

鯰江城本丸跡(公民観南側の民家裏手にあり、高さ1~2m)

鯰江氏の墓石・五綸の塔

井元城

井元城跡縄張図(滋賀県文化財学習シートより)重ね馬出

お城のデータ

所在地:東近江市(旧愛知郡愛東町)妹町 map:http://yahoo.jp/zdVPWR

現 状:鎮守の森(春日神社)

遺 構:曲輪、重ね馬、土塁、空堀、 

区 分:段丘城(陣城)

築城者: 柴田勝家

築城期:織豊期 永禄11年頃

目標地:春日神社

お城の概要

 愛知川北岸の河岸段丘上に位置する城郭です。文献資料にも記載が無く、城主や築城時期などは不明ですが、滋賀県の中世城郭分布調査で初めて発見され、地元の愛東町教育委員会(現東近江市教育委員会)による発掘調査で堀や土塁などが検出されています。
 城の構造は方形の区画を土塁と空堀で囲んだ簡単なものですが、注目すべきは虎口部分です。虎口(こぐち)の外側をコの字形に堀と土塁をめぐらせたいわゆる角馬出(かくうまだし)がありますが、さらにその外側にもう一つの角馬出が設けられた「重ね馬出」となっているのです。重ね馬出の類例は全国でも珍しく、虎口の形態としてはもっとも発達したものです。そうしたことから、単に一在地土豪の手によるものではなく、大きな権力が関わっている可能性が高いと考えられます。

重ね馬出の土塁と空堀

 そうしたことを踏まえて考えると、井元城付近が大きな権力の動きに巻き込まれた事件としては、元亀4年(1573)の織田信長による鯰江城攻めがあります。観音寺城を逐われた六角義治は鯰江城に拠って蜂起します。これに対し信長は四方に付城を構築して攻撃します。位置関係からみて、井元城はこの付城の一つである可能性が高いのではないでしょうか。発掘調査で16世紀の遺物が出土していることも、そうした推測を裏付けます。

\\\\\\\信長公記 巻六 元亀四年 15、小谷落城 浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事\\\\ 

  8月27日夜、羽柴秀吉は小谷城京極丸を攻略して浅井久政・長政父子を分断し、その上で父久政の籠る小谷城小丸を攻め取った。これにより浅井久政は切腹して果てた。久政の介錯をつとめたのは日頃久政から目をかけられていた鶴松大夫という舞の名手であったが、この鶴松大夫も久政介錯ののち追腹を切って死んだ。この死により、鶴松大夫は後世に名誉を残した。

   久政の首は羽柴秀吉の手に渡り、虎御前山の本陣に運ばれて信長公の実検を受けた。 翌日公はみずから兵を指揮して京極丸へ攻め上がり、最期の抵抗をつづける浅井長政・赤尾美作守を死に追い込んだ。

  小谷城は陥ちた。落城後、浅井父子の首は京に後送されて獄門にかけられ、十歳になる長政嫡男も捕らえ出されて関ヶ原で磔にかけられた。元亀以来というもの浅井氏に苦汁を舐めさせられつづけてきた信長公は、ここに年来の鬱憤を晴らしたのであった。
 戦後、江北の浅井氏遺領は羽柴秀吉に一職進退の朱印状が下された。秀吉は年来の武功を認められ、名誉の至りであった。

  9月4日、信長公は佐和山に入り、柴田勝家に六角義治の籠る鯰江城の攻略を命じた。柴田はすぐさま兵を寄せて鯰江を囲み、義治を降伏させた。こうして各所の平定に成功した信長公は、9月6日晴れて濃州岐阜へ凱旋を果たした。 

 \\\\\\\信長公記 三巻  遭難行路  千草峠にて鉄砲打ち申すの事\\\\\\\\

   5月19日、浅井長政は鯰江城(東近江市・愛東鯰江)に軍勢を入れ、同時に市原(旧永源寺町)に一揆を蜂起させて岐阜へ下る信長公の行く手を阻んだこれにより信長公は近江路を断念せざるをえなくなり、日野の蒲生賢秀・布施藤九郎・香津畑(旧永源寺町甲津畑)の菅六左衛門の尽力を得て経路を千草越え(近江から伊勢へ抜ける経路)に変更した。
 そこへ刺客が放たれた。六角承禎に雇われた杉谷善住坊という者であった。杉谷は鉄砲を携えて千草山中の道筋に潜み、山道を通過する信長公の行列を待った。やがて杉谷の前に行列が現れ、その中の信長公が十二、三間の距離(約22~24mほど)まで近付いたとき、杉谷の手から轟然と鉄砲が発射された。
 しかし天道は信長公に味方した。玉はわずかに体をかすめただけで外れ、信長公は危地を脱したのであった。
 5月21日、信長公は無事岐阜に帰りついた。

 

 \\\\\\\信長公記 巻六  復讐  杉谷善住坊成敗の事\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\

  杉谷善住坊という鉄砲の名手がいた。先年(元亀元年1570年)、信長公が千草峠を通行した際、六角承禎に依頼されて信長公をわずかに十二、三間の距離から鉄砲二玉で狙撃した者である。このときは天運あって玉は信長公の身を少しかすめただけで終わり、信長公は虎口を逃れて無事岐阜へ帰り着くことができた。
 その後善住坊は鯰江香竹を頼って高島に隠居していたが、このほど磯野員昌に捕らえられて9月10日岐阜へ護送されてきた。

   岐阜では菅谷長頼と祝弥三郎が奉行となって厳しい詮議をおこない、善住坊から千草山中での一件を余さず尋ね出した。これにより善住坊は路傍に立て埋めにされ、通行人に首を鋸で引かれる鋸引きの刑に処された。

 

  信長公は復讐を果たし、年来の憤りを鎮めた。上下の満足はこれに過ぎたるものはなかった

 \\\\\\\\\\\\\\\『信長公記』巻六-五、表裏の果て  百済寺伽藍御放火の事\\\\

  守山を出た信長公は百済寺(近江・愛東)に入り、ここに2、3日滞在した。近在の鯰江城(近江・愛東)に佐々木右衛門督六角義治が籠っており、これを攻略しようとしたのである。信長公は佐久間信盛・蒲生賢秀・丹羽長秀・柴田勝家らに攻撃を命じ、四方より囲んで付城を築かせた。 このとき、近年になって百済寺が鯰江城をひそかに支援し、一揆に同調しているという諜報が信長公の耳にとどいた。それを知った信長公は激怒して4月11日寺に放火し、百済寺の堂塔伽藍は灰燼に帰してしまった。焼け跡は目も当てられない有様であった。 同日、信長公は岐阜へ馬を収めた。

 公方様が憤りを静めるはずはなく、いずれ再び天下に敵するであろうことは疑いなかった。そして、その際には織田勢の足を止めるため湖境の瀬田付近を封鎖してくるに違いなかった。信長公はその時に備え、大船を建造して五千・三千の兵でも一挙に湖上を移動できるようにしておくよう命じた。

\\\\『信長公記』巻六-五、百済寺伽藍御放火の事\\\\\

◆元亀4年(天正元年、1573)
「是より直に百済寺へ御出で、二三日逗留これあり。江の城に佐々木右衛門督盾籠らる。攻衆人数、佐久間右衛門尉・蒲生右兵衛大輔・丹羽五郎左衛門尉・柴田修理亮、仰付けられ、四方より取詰め付城させられ候近年鯰江の城百済寺より持続け、一揆同意たるの由聞食し及ばれ、四月十一日、百済寺当塔伽藍坊舎仏閣悉く灰燼となる。哀れなる様目も当てられず。其日岐阜に至って御馬納れられ候き。公儀右の御憤を休められず、終に天下御敵たるの上、定て湖境として相塞がるべし。其時のために大船を拵え、五千も三千も一度に推付け越さるべきの由候て―」

 

参考資料:信長公記、愛東の歴史ダイジェスト版、現地説明板、東近江市文化財専門委員の説明

本日も訪問、ありがとうございました。


木炭墓の歴史講座 2013.9.15

2013年09月15日 | 歴史講座・フォーラム

チラシ 多賀 彦根 講演.docx;

多賀博物館で木炭墓の講座。
講師は丸山竜平先生。
世話人は田畑様「受講料無料」
 

平安の木炭墓群、有力者を埋葬? 滋賀・多賀で講演会(朝日新聞2013.9.18)

写真:発見された平安時代の和鏡「八稜鏡」の断片=長谷川博美さん提供拡大発見された平安時代の和鏡「八稜鏡」の断片=長谷川博美さん提供

 

 多賀町で5月に発見された平安時代の木炭墓群をテーマにした、NPO法人「自然と歴史ロマンの会」主催の講演会が15日、多賀町四手の町立博物館であり、考古学者の丸山竜平・元名古屋女子大教授(69)が被葬者像と、出土した鉄板について解説した。現場近くで見つかった平安時代の八稜(はちりょう)鏡についても報…

続きを読む  この記事の続きをお読みいただくには、会この記事の続きをお読みいただくには、会員登録が必要です。http://www.asahi.com/area/shiga/articles/OSK201309170156.html

平安後期の「木炭墓」11基出土 多賀の大谷遺跡 滋賀  (産経ニュース)2013.7.1

鉄板などが出土した大谷遺跡の「木炭墓」の一つ=多賀町富之尾

鉄板などが出土した大谷遺跡の「木炭墓」の一つ=多賀町富之尾

 ■有力者一族の墓所か

 埋葬した木棺の周囲が木炭で覆われた「木炭墓」とみられる平安時代後期(11世紀頃)の墳墓跡が多賀町富之尾の大谷遺跡から11基まとまってみつかり、町立文化財センターが発表した。墓地の取得や被葬者などについて記した「墓誌」や「買地券」とみられる鉄製の板も4点出土し、同センターは「この地方を支配した有力者一族の墓所だった」とみている。

 大谷遺跡は今年5月下旬、町道工事の際に大量の木炭が露出したため同センターが発掘調査し、遺跡として位置づけられた。これまでに400平方メートルの調査地内から、木炭墓とみられる遺構を11基検出した。大きいもので一辺1・2メートル、深さ1・3メートル程度の方形。このうち、4基から鉄板がみつかった。

 木炭は吸湿性に富むことから、埋葬した遺骨や副葬品などの状態を維持するのに使われたと考えられる。鉄板に文字が書かれていたかどうかはエックス線調査でも判明しなかったが、同センターは「中国から伝わった埋葬の習慣である買地券だとすれば、中国文化に精通していた一族の墓所だったのではないか」としている。

 元興寺文化財研究所(奈良市)の狭川真一研究部長は「立派な木炭墓が群をなし、複数の墓に買地券が納められた可能性があるなど、例えば犬上氏のようなこの地方に君臨した有力者の墓所だったと考えられる」と話している。

 
 
2013/9/15 午後13時~14時20分
彦根市民会館で考古学と城郭の講座を開催します。
講師は丸山竜平先生。高島の銅剣鋳型について。

上御殿遺跡記者発表(2013年8月)資料

これまで、古墳時代前期の竪穴住居、古墳時代前期の石釧、奈良時代後半から平安時代初めにかけての建物・倉庫群、旧河道から奈良時代から平安時代の人形代、馬形代、斎串、陽物代などの木製祭祀具、「守君舩人(もりのきみのふなひと)」と書かれた墨書人名土器など興味深い資料が出土しており、これらの内容については、資料の提供、公開を行ってきました。
今年度 4,000 ㎡を対象とした調査で、国内初となる双環柄頭短剣(そうかんつかがしらたんけん)の鋳型が出土しました。双環柄頭短剣の鋳型は、全国的に類例がなく、さらに銅剣の出土の少ない近畿地方北部での鋳型の発見は、弥生時代から古墳時代初めにかけての青銅器生産の一端を明らかにする興味深い資料と言えます。

あわせて現地説明会配布資料もごらんください。

ピックアップ

  • 講師は長谷川博美氏。速水大隅守居城に関して。
参加費200円 
主催者 NPO法人 自然と歴史ロマンの会
 
 
 

講座 3/3【小谷落城と浅井長政の決断】 

2013年08月05日 | 歴史講座・フォーラム

 

小谷城の最後の数日を追体験する~水の手道から京極丸へ~

正元年(1573 年)8 月27 日夜、信長軍の先鋒木下藤吉郎(秀吉)は、水の手道から京極丸に取り上り、まずは小丸に楯籠もる久政を切腹させました。ついで翌日、今度は信長自身が京極丸に取り上り、本丸に楯籠もる長政を攻め立て、9 月1 日に至ってついに赤尾美作守とともに長政を自害させました。これをもって、北近江に三代の繁栄をほこった浅井氏は滅亡したのです。
 今回の探訪では、小谷城を熟知した地元ガイドとともに、今やほとんど忘れ去られた水の手道から京極丸に取り上り、小谷城最後の数日を追体験します


講座 2/3【小谷落城と浅井長政の決断】 

2013年08月05日 | 歴史講座・フォーラム

 

探訪 【小谷城の最後の数日を追体験する~水の手道から京極丸へ~】2013.8.3

 

正元年(1573 年)8 月27 日夜、信長軍の先鋒木下藤吉郎(秀吉)は、水の手道から京極丸に取り上り、まずは小丸に楯籠もる久政を切腹させました。ついで翌日、今度は信長自身が京極丸に取り上り、本丸に楯籠もる長政を攻め立て、9 月1 日に至ってついに赤尾美作守とともに長政を自害させました。これをもって、北近江に三代の繁栄をほこった浅井氏は滅亡したのです。
 今回の探訪では、小谷城を熟知した地元ガイドとともに、今やほとんど忘れ去られた水の手道から京極丸に取り上り、小谷城最後の数日を追体験します。

虎御前山の要害はほどなくして無事完成した。

城郭は巧妙かつ堅牢に設計され、山上からは四方をはるか遠くまで見渡すことができ、その風光は素晴らしいものであった。ひとびとは、「かように見事な要害は見たことがない」と耳目を驚かせた。
 この要害の座敷から北を望めば浅井・朝倉勢が大嶽の山上にあって苦慮しているさまが見え、西を見ればおだやかな湖面の向こうに比叡の山並みを見渡すことができた。その比叡山はかつては尊い霊場であったが、先年山門の宗徒が逆心を企て、その自業自得により山上山下ともが灰燼に帰した。信長公が積年の憤りを散じ、存分のままに罰を下した場所であった。
 また南には志賀・唐崎⑨・石山寺⑩の社寺が見えた。この石山寺の本尊は遠く唐にまでその霊験を知られた観世音菩薩であり、その昔紫式部もこの寺に参詣して所願をかなえ、その礼として源氏物語の巻を納めたと伝えられる仏である。このほか東には伊吹の高山や荒れ果てて残る不破の関も見え、砦のさえぎるもの一つとてない景観と頑丈なる構えは筆舌に尽くしがたいものであった。

 この虎御前山から後方の横山までは三里の距離があり、やや遠かった。このため途中の八相山と宮部郷⑪にも連絡用の砦が築かれた。宮部郷には宮部善祥坊継潤が入り、八相山は城番の人数が守った。また虎御前山から宮部郷までは悪路が続いて通行が不便だったため、信長公は道路の改修を命じて道幅を三間半にまで広げさせ、敵地側の道路脇には五十町の距離にわたり高さ一丈の築地を築かせ、川水を堰入れさせた。

 これほどに雄大な陣地構築は前代未聞であり、この陣地群の前にはもはや前方に展開する朝倉勢もさしたる脅威ではなかった。そのため信長公は横山へ軍勢を納めようと考え⑫、その前に朝倉勢へ使者を向かわせた。使者は堀久太郎秀政であった。堀は朝倉の陣に着くと、「朝倉殿には折角の御出馬である。ついては日時を定め、一戦を致さん」という信長公の言葉を伝えたが、朝倉勢からの返答はなかった。

 

戦野  奇妙様御具足初に虎後前山御要害の事

 7月19日、信長公は嫡男奇妙殿の具足初めにともない、父子そろって江北表へ出兵した。初日は赤坂に宿陣。

 27日からは小谷攻囲のため虎御前山に要害が築かれはじめた。すると焦慮した浅井氏は、越前朝倉氏へ向かい「このたび河内長島の一揆が蜂起して尾濃の通路を閉ざし、信長を大いに難儀させている。この機会に朝倉殿が江北表へ出馬すれば、尾濃の人数を悉く討ち果たすことは容易である」と偽りの情報を送り、出兵を促した。

 朝倉氏ではこの偽情報を信じ、当主朝倉義景みずからが一万五千の兵を引き連れて出馬してきた。そして29日には小谷に参着したが、そこでようやく江北の戦況が聞き及んでいた情報とはまったく異なることに気付いた。

一気に消沈した朝倉勢は、大嶽⑧の高地へのぼって滞陣してしまった。
 このさまを目にした信長公は、足軽を使って朝倉勢を小当てに攻めさせることを命じた。すると陣中の若武者たちはそれを聞いて勇躍し、旗指物を外して山に分け入り、日ごとに二つ三つと首を取ってきた。信長公は彼らに対し、その功名の軽重に応じて十分な褒賞を与えてやったため、彼らはますます発奮して首取りに励んだ。

 そのようにして対陣が続いていたところ、8月8日になって越前勢から前波九郎兵衛吉継父子が内通してきた。

信長公はこれを聞いて大いに喜び、父子へ小袖・馬および馬具一式を与えた。                                                      翌日にはさらに富田弥六長繁・戸田与次・毛屋猪介らも投降し、各々信長公より褒賞が下された。

 すると霜月3日浅井・朝倉勢が軍勢を繰り出し、虎御前山から宮部に到る道に築かれた築地を破壊しようとしてきた。先鋒は浅井七郎であった。この動きに対し、秀吉はすぐさま応戦の人数を出して一戦に及んだ。戦は梶原勝兵衛・毛屋猪介・富田弥六・中野又兵衛・滝川彦右衛門らの先懸け衆が奮闘して敵を追い崩し、各々功名を挙げた。このうち滝川彦右衛門は元々信長公の近習をつとめていた者であったが、今回の江北出兵で背に大指物を差して出陣しながら大した武功も挙げられず、信長公の勘気をこうむって虎御前山に居残っていた。そのためこの戦では発奮して目のさめるような働きをし、その功によりふたたび御前に召し出された。滝川は大いに面目を施した。

 ①現滋賀県木之本町の浄信寺 ②現浅井町草野川渓谷 ③現高島町打下 ④⑤⑥それぞれ琵琶湖北の湖岸 ⑦琵琶湖北辺の島 ⑧浅井町・湖北町間の山、原文「大づく」 ⑨現大津市下坂本町の唐崎神社 ⑩現大津市石山寺辺町 ⑪現虎姫町宮部 ⑫武田信玄の動きに備えるため。このときの信長をとりまく情勢は、ここに書かれるほど余裕のあるものではなかった。 ⑬秀吉について、原文ではここから羽柴姓で称されている。

翌日横山に至

 21日浅井氏居城小谷まで押し寄せて雲雀(ひばり)」・虎御前山へ軍勢を上げた。

 

 次日には阿閉淡路守の籠る山本山城へ木下藤吉郎が遣わされ、山麓へ放火をはたらいた。すると城内から百余りの足軽が討って出、放火を阻止しようとしてきた。藤吉郎はあわてず、頃合を見計らって敵勢へ一斉に切りかかり、打ち崩して五十余の首を挙げた。これにより藤吉郎は信長公から多大な褒賞を受けた。

翌23日は与呉・木本にも兵を遣わし、地蔵坊①をはじめ堂塔伽藍・名所旧跡にいたるまで一切を余さず焼き払った。
 また翌24日には草野の谷②へ放火した。この草野近くの高山の上には大吉寺という五十余りの坊をもつ大寺があり、ここに近郷の一揆百姓が立てこもっていた。信長公はこれを攻略しようとし、日中にまず険峻な正面口を避けて山麓付近を襲わせた。そして夜になってから木下藤吉郎勢・丹羽長秀勢を後方に迂回させ、背後の山づたいに寺へ攻め上らせた。山頂に上がった織田勢は、一揆・僧俗数多を切り捨てた。

 

 この間琵琶湖上には打下③の土豪林与次左衛門・明智光秀・猪飼野甚介・山岡景猶・馬場孫次郎・居初又二郎らが兵船を浮かべ、海津浦④・塩津浦⑤・与呉の入海⑥に出没して敵岸を焼き払っていた。

また竹生島⑦にも船を寄せ、火矢と大筒・鉄砲をもって攻めたてた。

 これら一連の行動により、一揆というそれまで江北にはあまり例のなかった企てを起こして蜂起していた輩は、風に木の葉の散るごとくに一掃された。そして一揆勢が散り、また猛勢の織田勢が自領の田畑を薙いでゆくのをみすみす見逃してしまった浅井氏の勢力は、次第に手薄なものとなっていった。

小谷落城  浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事

  9月4日、信長公は佐和山に入り、柴田勝家に六角義治の籠る鯰江城の攻略を命じた。柴田はすぐさま兵を寄せて鯰江を囲み、義治を降伏させた。こうして各所の平定に成功した信長公は、9月6日晴れて濃州岐阜へ凱旋を果たした。

 

①浅井長政の守る本丸と久政の守る小丸との間に位置する曲輪

日夜、羽柴秀吉は小谷城京極丸①を攻略して浅井久政・長政父子を分断し、その上で父久政の籠る小谷城小丸を攻め取った。これにより浅井久政は切腹して果てた。

これにより浅井久政は切腹して果てた。久政の介錯を①浅井長政の守る本丸と久政の守るつとめたのは日頃久政から目をかけられていた鶴松大夫という舞の名手であったが、

この鶴松大夫も久政介錯ののち追腹を切って死んだ。この死により、鶴松大夫は後世に名誉を残した。

久政の首は羽柴秀吉の手に渡り、虎御前山の本陣に運ばれて信長公の実検を受けた。

 翌日、信長公はみずから兵を指揮して京極丸へ攻め上がり、最期の抵抗をつづける浅井長政・赤尾美作守を死に追い込んだ。

最期の抵抗をつづける浅井長政・赤尾美作守を死に追い込んだ。

小谷城は陥ちた。落城後、浅井父子の首は京に後送されて獄門にかけられ、

十歳になる長政嫡男も捕らえ出されて関ヶ原で磔にかけられた。元亀以来というもの浅井氏に苦汁を舐めさせられつづけてきた信長公は、ここに年来の鬱憤を晴らしたのであった。
 戦後、江北の浅井氏遺領は羽柴秀吉に一職進退の朱印状が下された。秀吉は年来の武功を認められ、名誉の至りであった。

 講座 3/3【小谷落城と浅井長政の決断】 2013.8.3 へ続く


講座 1/3【小谷落城と浅井長政の決断】

2013年08月05日 | 歴史講座・フォーラム

探訪 【小谷城の最後の数日を追体験する~水の手道から京極丸へ~】2013.8.3

正元年(1573 年)8 月27 日夜、信長軍の先鋒木下藤吉郎(秀吉)は、水の手道から京極丸に取り上り、まずは小丸に楯籠もる久政を切腹させました。ついで翌日、今度は信長自身が京極丸に取り上り、本丸に楯籠もる長政を攻め立て、9 月1 日に至ってついに赤尾美作守とともに長政を自害させました。これをもって、北近江に三代の繁栄をほこった浅井氏は滅亡したのです。
 今回の探訪では、小谷城を熟知した地元ガイドとともに、今やほとんど忘れ去られた水の手道から京極丸に取り上り、小谷城最後の数日を追体験します

講師:北村圭弘氏 レジュメ

参考文献:信長公記

金ヶ崎  越前手筒山攻落されの事

 25日、信長公は越前の地へ足を踏み入れた。敦賀まで進んだ信長公は馬を懸け回して付近の地勢を検分し、手筒山城①を標的に定めるとすぐさま旗下の将士に攻撃を命じた。手筒山は金ヶ崎南東に屏風のごとくそびえ立つ高山であったが、将士たちは信長公の命が下るや一命を顧みずに坂を駆けのぼり、千三百あまりの首を挙げて一気に城を陥れた。
 手筒山に近接する金ヶ崎城②には朝倉中務大輔景恒が籠っていた。手筒山を落とした翌日、信長公はこの城にも攻撃の手を向けた。刃向かう敵は殲滅する勢いで攻め寄せた織田勢の前に城衆は戦意を失い、まもなくして降伏した。
 つづいて疋田城③も開城した。信長公は滝川彦右衛門・山田左衛門尉の両人を疋田に遣わし、塀を倒し櫓を降ろさせ、城を破却した。ここまではまさに破竹の勢いであった。

 しかしそこから木目峠を越え、あすには越前国内へなだれ込もうというとき、軍中に最悪の飛報が届いた。江北の浅井備前守長政が掌を返し、敵方についたという報であった。
 信長公ははじめこの情報を信じなかった。浅井は歴とした織田家の縁者であり、さらには江北一円を申し付けてもいる。不足のあろうはずがなく、虚説に違いなし、というのである。しかし信長公のもとへはその後も諸方から続々と同様の注進が届き、もはや浅井離反が事実であることは疑いようがなくなった。
 運命は、突如として変転した。信長公はただ一言、是非に及ばず」と、つぶやいた。
 4月28日、信長公は撤退を開始した。

木下藤吉郎を殿軍として金ヶ崎の城に残し、みずからは駆けに駆けて30日には近江に出、地元の豪族朽木信濃守元綱の先導で朽木越え④をして京都への撤退に成功した。両名は5月6日針畑越えの道をとって京へ戻り、信長公へ復命した。
 このとき稲葉一鉄親子と斎藤内蔵助利三は江州守山に駐屯し、近江路の警固にあたっていた。そこへ一揆がむらがり起こってへそ村⑥に火の手をあげ、守山にも焼き討ちをしかけてきた。しかし稲葉は町の諸口を支えて逆に敵を追い崩し、数多の敵を討ち取った。比類なき働きであった。

 岐阜へ下っていった。途中志賀⑦・宇佐山⑧の城に森可成を残し、12日⑨に永原まで出てこの地に佐久間信盛を置き、長光寺⑩には柴田勝家を入れた。安土にも中川八郎右衛門が残された。かくのごとく城塞ごとに兵が入り、近江回廊は厳戒態勢がしかれた。

 ①現福井県敦賀市内 ②現敦賀市金ヶ崎町 ③現敦賀市疋田 ④現滋賀県朽木村から京都北郊に出る道 ⑤武藤友益は若狭の将で、織田勢の若狭侵入に対抗していた。 ⑦⑧現大津市内 ⑨正しくは13日 ⑩現近江八幡市長光寺町

 

遭難行路  千草峠にて鉄砲打ち申すの事

 5月19日、浅井長政は鯰江城①に軍勢を入れ、同時に市原②に一揆を蜂起させて岐阜へ下る信長公の行く手を阻んだ。これにより信長公は近江路を断念せざるをえなくなり、日野の蒲生賢秀・布施藤九郎・香津畑③の菅六左衛門の尽力を得て経路を千草越え④に変更した。
 そこへ刺客が放たれた。六角承禎に雇われた杉谷善住坊という者であった。杉谷は鉄砲を携えて千草山中の道筋に潜み、山道を通過する信長公の行列を待った。やがて杉谷の前に行列が現れ、その中の信長公が十二、三間の距離⑤まで近付いたとき、杉谷の手から轟然と鉄砲が発射された。
 しかし天道は信長公に味方した。玉はわずかに体をかすめただけで外れ、信長公は危地を脱したのであった。
 5月21日、信長公は無事岐阜に帰りついた。

 ①現滋賀県愛東村 ②現永源寺町市原野 ③現永源寺町甲津畑 ④前出。近江から伊勢へ抜ける経路。 ⑤約22~24mほど

死地へ  たけくらべかりやす取出の事

 越前朝倉氏の後援を得た浅井長政は、長比①・苅安②の地に要害を構えていた。この両砦に対し信長公は地元の豪族堀秀村と樋口直房を調略し、かれらに内応を約させることで砦の無力化をはかった。そうして6月19日、信長公は浅井氏を討つべく大兵を率いて岐阜を発ち、手始めとして長比・苅安両砦の攻略に向かった。しかし織田勢の来攻と堀の謀叛を知った城兵はたちどころに士気を萎えさせ、取るものも取り敢えず退散してしまった。信長公は難なく長比に入り、この地に二日間滞在した。

 6月21日、長比を出た信長公は浅井の本拠小谷まで攻め寄せた。織田勢のうち森可成・坂井政尚・斎藤新五・市橋長利・佐藤六左衛門・塚本小大膳・不破光治・丸毛長照は雲雀山③へのぼり、山麓の町を焼き払った。信長公はその他の諸勢を引き連れて虎御前山④に陣を据え、柴田勝家・佐久間信盛・蜂屋頼隆・木下藤吉郎・丹羽長秀および江州衆に命じて近在の諸所へ余すところなく火を放たせた。

 翌22日、小谷を前に信長公は一旦兵を後退させることを決意し⑤、殿軍に鉄砲五百挺と弓衆三十余りを据え、簗田左衛門太郎広正・中条将監・佐々成政の三名を奉行として指揮を命じた。

 すると、総軍の後退に気づいた敵足軽が攻め寄せてきた。殿軍のうち簗田広正は中軍より少し左手を後退していたが、肉薄してきた敵勢を引きつけて応戦し、散々に打ち合った。このとき簗田勢の太田孫左衛門は敵首を挙げて引き揚げ、信長公より多大な褒賞にあずかった。また佐々成政は八相山⑥の矢合神社前で敵に捕捉されたが、これも見事な武功を挙げて無事撤収に成功した。
 さらに中条将監は八相山下の橋上で敵と衝突したが、将監は敵勢の攻撃により負傷してしまった。また中条又兵衛も橋上で敵ともみ合いになり、双方とも橋から落ちた。しかし又兵衛はひるまず、橋の下でさらに戦ったのち見事その敵の首を挙げた。比類なき高名であった。信長公はこれら後衛の奮戦によって無事後退することができ、その日は八島に陣を取った。

 小谷城に近接する横山城⑦には高坂・三田村および野村肥後の勢が籠っていた。24日になって織田勢はこの城に取り寄せて城を四方より囲んだ。そして信長公自身は竜が鼻⑧に陣を取り、小谷を見据えた。

 ①現滋賀県米原市山東町内。「たけくらべ」と読む ②現米原市伊吹町内 ③現長浜湖北町伊部、小谷城南 ④現湖北町虎姫山 ⑤戦線整理または浅井勢を誘導して野戦に持ち込むため ⑥虎御前山南の中野山 ⑦現長浜市石田町内。交通の要衝 ⑧現長浜市内

姉川  あね川合戦の事

 そのような中、越前より朝倉孫三郎景健率いる八千の援軍が到着し、小谷城の城東に位置する大依山①に陣を張った。待ちわびた援兵の来着を知った浅井長政は、城を出て朝倉勢との合流を果たした。
 朝倉勢八千に五千の浅井勢が加わり、都合一万三千の軍勢となった浅井・朝倉勢は、6月27日払暁大依山の陣を払って行動を開始した。陣を捨てて退却するものとも考えられたが、事実は相違した。出撃のための陣払いであった。

 28日未明、浅井・朝倉勢は姉川手前の野村・三田村の郷に移り、二手に分かれて軍勢を立て備えた。これに対し織田・徳川連合軍②は、西の三田村口に位置した朝倉勢には徳川家康が向かい、東の野村口に展開した浅井勢には信長公直率の将士と美濃三人衆が相対した。
 卯の刻(午前6時)、織田・徳川軍は敵勢ひしめく丑寅の方角へ向かって一斉に駆け出した。敵勢も姉川を越えて突撃し、ここに姉川合戦の火蓋が切られた。戦闘は双方が押しつ押されつの大乱戦となり、戦場には黒煙と土埃が巻き立ち、鍔が割れ槍が交差する音がこだました。そして後世に語り継がれるであろう数々の武功が生まれ、そのたびに名のある武者が命を落としていった。

 数刻にわたる激闘は、最後に織田・徳川軍が浅井勢を追い崩して終わった③。浅井勢は青木所右衛門に討ち取られた真柄十郎左衛門や竹中久作に討ち取られた遠藤喜右衛門をはじめ、前波新八・黒坂備中・浅井雅楽助ら他国まで名の聞こえた将の多くを失った。この戦で織田勢が討ち取った首の数は、面立ったものだけでも千百余にのぼった。

 織田勢は退却してゆく浅井勢を追撃して小谷までの五十町を駆け抜け、小谷では山麓へ火を放った。しかし小谷城そのものは切り立った高山の上に立つ難攻の城であったため、信長公は城攻めまでは無理と見て追撃をそこで打ち切り、横山城の攻囲にまわった。横山城はひとたまりもなく開城した。
 信長公は横山城の城番に木下藤吉郎を入れ、みずからは7月1日磯野丹波守員昌の籠る佐和山城の攻略に向かった。佐和山では四方に鹿垣をめぐらし、城東の百々屋敷に砦を構えて丹羽長秀を置き、北に市橋長利・南に水野信元・西の彦根山に河尻秀隆の各将を配置して諸口を封鎖し、四方より攻撃させた。

 7月6日④、信長公は数騎の馬廻のみを引き連れて京へ入り、公方様へ戦勝の報告をおこなった。京には数日滞在して戦勝参賀の使者の応対などをし、8日に岐阜へ帰還を果たした。

 ①現滋賀県浅井町内 ②徳川家康は24日に来援して織田軍と合流 ③合戦の内容については、織田勢が劣勢だったためか『信長公記』はあまり詳しく触れていない。 ④正しくは7月4日

志賀の陣  志賀御陣の事

 9月16日、越前朝倉氏と浅井長政の連合軍約三万が近江を南下し、坂本口①へ押し寄せてきた。この報に接した宇佐山城将の森可成は軍勢を率いて宇佐山の坂を駆け下り、坂本の町はずれで敵と接触した。双方足軽を出しての小戦闘になったが、森勢は敵首少々を得て勝利を収めた。
 しかし大勢は動かず、19日②になって陣立てを終えた朝倉・浅井勢は二手に分かれて再び坂本口へ殺到した。森勢は町を破らせまいとして坂本の町口で敵を支えたが、二手より攻め寄せた敵の大軍の挟撃を受けて重囲に陥ってしまった。それでも森勢は勇を奮って戦い、敵味方火花を散らしての激戦となった。しかし敵の猛勢の前に森勢もついに崩れ立ち、森可成・織田九郎信治・青地茂綱・尾藤源内・尾藤又八以下多くの将領が討死した。

 このとき森勢の中に、尾張国守山の住人で道家清十郎・助十郎という名の兄弟がいた。先年武田勢が東美濃高野口③へ侵入した際、森可成は肥田玄蕃とともに先陣に立って防戦につとめたが、この時の戦闘で兄弟は二人で三つの敵首を挙げた。これを聞いた信長公は大いに喜び、兄弟が指していた白の指物を召し寄せ、それへ「天下一の勇士なり」と直筆して与えた。侍としてこれに過ぎた栄誉はなく、兄弟は名誉の仁とうらやまれた。今度の戦でも兄弟はその指物を背に立てて戦場に立ち、森可成とともに勇戦して討死を遂げた。

 森勢を打ち砕いた浅井・朝倉勢は余勢を駆って宇佐山まで攻め上り、出城へ火を放ったが、城内に残っていた武藤五郎右衛門・肥田彦左衛門の奮闘により城はなんとか持ちこたえた。しかし翌20日、敵は大津に出て馬場・松本へ放火し、21日には逢坂を越えて醍醐・山科を焼き払った。

 敵軍は、すでに都の目と鼻の先までせまっていた。22日、その事実は摂津国中島の陣所へもたらされた。
 注進を聞いた信長公は、敵を都へ入れては元も子もなしと考え、23日和田惟政・柴田勝家の両人を殿に残して野田・福島の陣所を引き払った。そしてみずからは中島に出て江口の渡し④へ向かった。

 江口川は宇治川・淀川の支流で、水量は多く、水勢もすさまじい有様で、昔から舟で渡るのが普通であった。この地まで猛烈な勢いで行軍してきた織田勢であったが、ここにはすでに一揆が蜂起しており、渡河のための船は彼らによってことごとく隠されてしまっていた。その上で一揆勢は、竹槍を手に対岸の大坂堤添いへ稲麻竹葦のごとくむらがり、対岸の織田勢へ向かって口々に嬌声を投げかけてきた。
 ここで信長公は、みずから馬を駆けまわして川の流れを調べた。そして河中へざぶりと馬を打ち入れると、軍勢へ向かい「渡るべし」と下知した。
 命令一下、織田勢は一斉に川へ入った。すると水深は思いのほか浅く、雑兵たちも徒歩でらくらくと渡河することができた。信長公は同日のうちに公方様に供奉して帰洛を果たした。ところがこの翌日から江口の渡しは急に水深が増し、徒歩での渡河は困難になってしまった。江口近辺の者達は、ふしぎなることよと皆ささやき合った。

 9月24日、信長公は上京本能寺を立ち、逢坂を越えて越前衆の攻撃に向かった。しかし下坂本に布陣していた越前勢は、信長公の旗印を見るやたちまち敗軍の体を見せて比叡山へ逃げ上がってしまった。山へ上がった越前勢は、蜂が峰・青山・局笠山⑤に陣を取った。
 このとき信長公は延暦寺の僧十人ばかりを呼び寄せ、「信長に味方するならば、分国中の山門領を元通りに還付する」と金打⑥して約束し、かさねて「出家の道理により片方への贔屓なりがたし、と申すならば、せめて敵味方とも見除せよ」といって説得し、その旨を稲葉一鉄に申し付けて朱印状にしたためさせた。その上で信長公は、「このこと違背するならば、根本中堂・三王二十一社を始め諸堂ことごとく焼き払う」と宣告した。しかし山門の僧衆はこの勧告を聞き入れず、情勢を見て浅井・朝倉に味方し、魚・鳥・女人を山に上げて悪逆をほしいままにした。

 信長公は下坂本に陣を取り、25日になって叡山を囲んだ。
織田勢はまず麓の香取屋敷を補強して平手監物・長谷川丹後守・山田三左衛門・不破光治・丸毛長照・浅井新八・丹羽源六が入り、穴太⑦にも砦が築かれて簗田広正・河尻秀隆・佐々成政・塚本小大膳・明智光秀・苗木久兵衛・村井貞勝・佐久間信盛ら十六将が入れ置かれた。
 田中⑧には柴田勝家・氏家ト全・安藤守就・稲葉一鉄が布陣し、唐崎⑨の砦にも佐治八郎・津田太郎左衛門が入った。そして信長公自身は志賀の宇佐山城に陣を取った。
 叡山西麓の将軍地蔵山⑩の古城跡には織田信広・三好康長・香西越後守に公方衆を加えた兵二千余りが布陣した。また八瀬・大原口⑪には山本対馬守と高野蓮養坊が足がかりの陣地を築き、地理に詳しい両人はここから夜中山上に忍び入っては谷々へ放火してまわり、寺側を大いに悩ませた。

 10月20日、信長公は朝倉勢へ菅谷長頼を使者に遣わし、「いらざる時を費やすをやめ、一戦をもって勝敗を決さん。日時を定めて出で候え」と申し述べさせた。しかし朝倉勢からの返答はなかった。そののち朝倉勢は交戦を中止して講和を申し入れてきたが、信長公は是が非にも決戦して鬱憤を散らすべしとして、これを蹴った⑫。

 信長公が叡山に釘付けとなっている間、三好三人衆は野田・福島の砦を補修し、諸牢人を集めて河内・摂津の各地で示威行動をとった。しかし高屋城の畠山殿・若江城の三好義継・交野の安見右近および伊丹・塩河・茨木・高槻の各城がいずれも堅固に構え、和田惟政率いる畿内衆も各地に陣所を構えて守備を固めていたため、京方面へ進むことはできなかった。

 江南では六角承禎親子がふたたび起こり、甲賀口の三雲氏居城菩提寺城⑬まで寄せてきたが、人数が少なく戦の体にならなかった。また江州の本願寺門徒も蜂起し、濃尾方面への通路を閉ざそうとしたが、百姓のことゆえ人数は多くとも脅威にはならなかった。
 木下藤吉郎と丹羽長秀の両名は、江南の各地を転戦してこれらの騒擾を鎮めた。そして小谷城付城の横山城と佐和山城付砦の百々屋敷に十分な守備兵を残し、みずからは志賀へ参陣すべく西上した。途中の建部⑭には一揆勢が砦を構え、近隣の箕作山・観音寺山と連携して通路を塞いでいたが、両人は一戦してこれを蹴散らし、難なくまかり通った。
 木下・丹羽勢は志賀へ到着し、瀬田へ入った。これを志賀の城から遠望した信長公は、瀬田城の山岡景隆が六角勢を引き入れて謀叛したものかと疑ったが、飛脚の報によって藤吉郎・五郎左衛門が参陣したものとわかり、不審を解いて大いに機嫌を良くした。これにより在陣諸兵の士気も上がった。11月16日、信長公は丹羽長秀に命じて鉄綱をもって瀬田に舟橋を架けさせ、村井新四郎・埴原新右衛門に警固させて人馬の往還を助けた。

 このころ尾張では、信長公の御舎弟彦七信興殿が小木江⑮に城を構えて居城としていた。そこへ信長公が志賀で手詰まりとなっている様子を見た一揆勢が長島で蜂起し、小木江にも押し寄せてきた。一揆勢の攻撃は日を追って激しくなり、21日ついに城内へも突入してきた。これを見た信興殿は、一揆勢の手にかかって果てては無念と思い、天守櫓へのぼって腹を召された。是非なき次第であった。

 11月22日、六角承禎との和睦が成立して三雲・三上氏が志賀へ出仕し、上下ともひとまず胸をなでおろした。また25日には堅田⑯の猪飼野甚介・馬場孫次郎・居初又次郎の三名が織田方へ内通を申し合わせ、坂井政尚・安藤右衛門・桑原平兵衛へその旨を打診してきた。坂井らは信長公の許しを得て猪飼野らから人質を受取り、夜のうちに人数千ばかりを率いて堅田へ入った。しかし堅田が織田勢の手に渡ることを嫌った越前勢はまもなくして大軍をもって堅田へ返し、多勢にものを言わせて諸口から攻め寄せてきた。
 重囲の中にあって織田勢は奮戦し、前波藤右衛門や義景右筆の中村木工丞らを討ち取る活躍を見せた。しかし敵の大軍の前にあるいは負傷し、あるいは討死して次第にその数を減じ、ついに敗軍した。乱軍の中坂井政尚と浦野源八親子は一騎当千の働きを見せ、比類なき高名をあげたのち見事討死を遂げた。

 季節は、すでに冬にさしかかっていた。
寒天と降雪で北国への通路は閉ざされようとしていた。そのため朝倉勢は公方様へ言上し、織田勢との休戦を申し入れてきた。信長公ははじめ休戦に応じようとしなかったが、30日に三井寺に入った公方様から重ねて休戦の上意があったため、信長公もこれを無視しがたくついに休戦に同意した⑰。

 12月13日、織田と浅井・朝倉との間に講和が成立し、織田勢は湖水を越えて瀬田まで退き、なおかつ浅井・朝倉勢が高島郡に到着するまで人質を出して行路の安全を保証することが決まった。翌14日、信長公はこの約定に従い瀬田の山岡景隆居城まで軍勢を退かせた。これを見た敵勢も15日早朝から叡山を降り、北国へ引き上げていった。
しかしながら、この戦はまことに前代未聞の栄誉ある一戦であった。信長公は大雪の中を行軍して16日に佐和山山麓の磯の郷⑱へ宿陣し、翌12月17日久方ぶりに岐阜へ帰陣した。

 ①現滋賀県大津市の下坂本 ②正しくは20日 ③現岐阜県瑞浪市内 ④現大阪市東淀川区内 ⑤いずれも叡山の諸峰 ⑥刀の鍔を打ち鳴らすこと ⑦現大津市坂本穴太町 ⑧⑨いずれも現下坂本町内 ⑩現京都市左京区の瓜生山 ⑪現京都市の八瀬と大原 ⑫朝倉側が講和を申し入れたとは考えにくく、この記述には疑問がもたれている。 ⑬現滋賀県石部町 ⑭現八日市市内 ⑮現愛知県弥富町 ⑯現大津市本堅田町 ⑰実際には、信長から朝廷・将軍へ講和をはたらきかけた。 ⑱現滋賀県米原町

 

この年の正月、信長公は濃州岐阜にあって諸将の参賀を受けた。

佐和山降る  佐和山城渡し進上の事

 2月24日、佐和山城に籠っていた磯野員昌が降伏し、城を明け渡して高島郡へ退去した。後には城代として丹羽長秀が入れ置かれた。

信長公は江北へ出馬し、18日横山に陣を取った。なおこの在陣中の20日夜横山に大風が吹き、城の塀櫓を吹き落としてしまった。

 小谷城とその西に位置する要所山本山④との間は五十町ほどの距離があり、その中ほどに中島という郷があった。26日信長公はここに一夜陣を据え、そこから与語⑤・木本⑥方面に足軽を放って各所を放火してまわらせた。そして27日になって横山へ軍勢を返した。
 その翌日の28日、信長公は佐和山に出て丹羽長秀の在所に宿泊した。そのころ織田勢の先手は、一向一揆が立てこもる小川村・志村の郷⑦を囲んで近在を焼き払っていた。

  ④現滋賀県湖北町と高月町の境に位置する山 ⑤⑥それぞれ現余呉村・木之本町 ⑦ともに現能登川町内

六天魔王  叡山御退治の事

 元亀2年9月12日。
この日、織田勢は近江国比叡山の山麓にひしめいていた。

 先年織田勢が野田・福島を攻囲して落城寸前にまで追い詰めたとき、朝倉・浅井勢が近江を南下して坂本口へ襲いかかった。この軍事行動に対し、信長公は都へ敵の乱入を許しては一大事と考え、野田・福島の陣を払って東へ急行した。そして逢坂を越えて越北衆に懸け向かい、これを局笠山に追い上げて干し殺しにしようとした。このとき信長公は自陣に山門の衆徒を召し出し、織田勢への協力を求め、味方した際には分国中の山門領を元のごとく還付する旨を金打と朱印状をもってかたく誓約した。さらに出家の道理により一方への贔屓がなしがたい場合にはせめて中立を保つよう、事をわけて説得した。その上でもしこれに違背して朝倉・浅井に肩入れした場合には、根本中堂・山王二十一社ことごとく焼き払うと宣告していた。

 それから一年が経ち、その時が到来したのである。この頃、山門山下の僧衆は王城鎮守の重責を負いながら修行を怠り、天下の嘲弄を恥じず、天道を恐れず、淫乱と肉食をほしいままにしていた。あまつさえ先年は金銀に目をくらませて浅井・朝倉に味方し、暴慢なるはたらきさえした。
 信長公は彼らに対するに、まず容赦をくわえて見逃した。しかし彼らは改めなかった。そこで信長公は、このたび残念ながらも聖域に馬を打ち入れることを決めたのである。

 信長公は心中にこもる彼らへの憤りを散じようと、軍勢を山にのぼらせて根本中堂・山王二十一社をはじめ霊仏・霊社・経巻のことごとく、一宇も残すところなく焼き払わせた。これにより叡山は一日にして灰燼の地と化してしまった。一方山下では老若男女が徒歩はだしで逃げまどい、取る物も取り敢えず八王寺山にのぼり、日吉大社奥宮の社内に逃げこんだ。しかし織田勢はこれを逃さず、四方より鬨の声をあげながら社内になだれ込んでこれを殺戮した。

 鎮護国家の大道場は、叫喚のるつぼと化した。織田勢は僧俗・児童・智者・上人の別を問わずことごとく首をはね、信長公の御前に差し出した。また山上では名僧・貴僧の呼び声高い高僧たちとともに美女・小童のたぐいが数をも知れず捕らえられ、御前に引き出されてきた。かれらは口々に「悪僧を誅伐なさるにおいては是非もなし。しかしわれらは助け候え」と哀願したが、信長公は聞き入れず、彼らはすべて首を打ち落とされた。まことに目も当てられぬありさまであった。

 焼き討ちは完遂され、信長公は胸中のしこりをとりはらった。

信長公の怒りに触れた比叡山の山麓には数千の屍が散らばり、この世のものとも思えぬ情景が広がっていた。哀れなことであった①。
 焼き討ちののち志賀郡は明智光秀に与えられ、坂本に城が築かれた。

 9月20日、信長公は岐阜に帰陣した。そして翌21日、河尻秀隆と丹羽長秀に命じて佐和山城に高宮右京亮の一党をおびき出し、これを誅殺させた。高宮党は危険を察知して切って出たが、別段の支障なく成敗されてしまった。高宮は先年の野田・福島陣のおり、大坂方に内通して一揆を扇動し、自身も天満の森の陣地を出て大坂に駆け入っていた。そのため今回誅戮の憂き目にあったのである。

 ①焼き討ちの事実は当時の公家の日記等にも大きく記されているが、近年になって山上の建物は焼き討ちされなかったのではないかとする見解も出されている。

  次日には阿閉淡路守の籠る山本山城へ木下藤吉郎が遣わされ、山麓へ放火をはたらいた。すると城内から百余りの足軽が討って出、放火を阻止しようとしてきた。藤吉郎はあわてず、頃合を見計らって敵勢へ一斉に切りかかり、打ち崩して五十余の首を挙げた。これにより藤吉郎は信長公から多大な褒賞を受けた。
翌23日は与呉・木本にも兵を遣わし、地蔵坊①をはじめ堂塔伽藍・名所旧跡にいたるまで一切を余さず焼き払った。
 また翌24日には草野の谷②へ放火した。この草野近くの高山の上には大吉寺という五十余りの坊をもつ大寺があり、ここに近郷の一揆百姓が立てこもっていた。信長公はこれを攻略しようとし、日中にまず険峻な正面口を避けて山麓付近を襲わせた。そして夜になってから木下藤吉郎勢・丹羽長秀勢を後方に迂回させ、背後の山づたいに寺へ攻め上らせた。山頂に上がった織田勢は、一揆・僧俗数多を切り捨てた。

 

講座 2/3【小谷落城と浅井長政の決断】  へ続く