城郭探訪

yamaziro

千種街道を往く・・・ 2011.4.29

2011年04月30日 | ウォーキング

千草街道を往く 2011.4.29 前半

平成23年4月29日(金)「わがまち探訪FieldWork 
   2011年千草街道を往く」が実施されました
参加者:110名 (消防署の方とスタッフ含む)

受付後出発式が行われ西澤東近江市長、田中まちづくり協議会会長の挨拶その他注意事項のあと、
今年はストレッチ体操も行われました。その後バス2台に分乗し産業振興会館を7時25分に出発

参加者110名が8班(4隊)に分かれ予定より少し遅れて7時50分に岩谷林道入り口を出発
名所、旧跡で5分程度の休憩を取りながら、この日の最高地点杉峠(1042m)を目指しました

杉峠付近は沢山の雪が残っており、気温も低く、記念撮影もそこそこに次の休憩地御池鉱山旧跡に向かいました。

御池鉱山旧跡では昼食の後、同行していただいた消防署の方に応急処置講習をしていただきました

昼食後12時過ぎには御池鉱山旧跡を出発、増水していた神崎川源流、コクイ谷出会い、上水晶谷では
甲津畑町の有志の方が整備してくださった木の橋のおかげで、靴を濡らすことなく根の平峠に着くことができました

根の平峠で2回目の班別の記念撮影を行い、予定より早く14時前には下る一方伊勢谷渓谷から最終ゴール地点の朝明キャンプ場を目指し
15時過ぎには一人の落伍者もなく全員ゴールの朝明キャンプ場に着くことができました

最後にキャンプ場では菰野町の関係者、千草街道の整備をしてくださった甲津畑町の有志の方の紹介がありました

その後2台のバスに分乗し、3月末に開通した石槫トンネルを通って16時50分に産業振興会館に着きました

到着後は参加者全員満開の「エイゲンジサクラ」の下で、暖かい豚汁ときな粉団子をいただきました ありがとうございました

当日の行程は以下のようになりました 写真のスライドショーをお楽しみ下さい

ポイント 通過及び着・出時間
受付開始 6時40分  
出発式 7時00分  
  7時15分
ストレッチ体操 7時15分  
  7時25分
バスに乗り込み 7時25分 バスで移動
バス出発 7時30分
岩谷林道入り口着 7時50分
1隊出発 7時52分
善住坊の隠れ岩着 8時18分 隠れ岩見学
善住坊の隠れ岩出 8時21分
サクラ地蔵尊通過 8時45分
古屋敷着 8時50分 休憩
古屋敷出 9時00分
蓮如上人旧跡着 9時30分 休憩
蓮如上人旧跡出 9時38分
大シデ 9時40分 大シデ通過
シデの並木 9時57分 シデの並木通過
一反ぼうそう着 10時25分 休憩
一反ぼうそう出 10時30分
かいしんの杉 10時34分 かいしんの杉通過
杉峠着 10時45分 班別記念撮影
杉峠出 11時00分
金山神社跡 11時15分 金山神社跡通過
御池鉱山旧跡着 11時18分 昼食・応急処置講習
御池鉱山旧跡出 12時10分
神崎川源流 12時35分 神崎川源流
コクイ谷出会い着 12時52分 休憩
コクイ谷出会い出 13時07分
上水晶谷 13時20分 上水晶谷通過
根の平峠手前着 13時40分 休憩
根の平峠手前出 13時50分
根ノ平峠着 14時02分 班別記念撮影
根ノ平峠出 14時06分
伊勢谷渓谷着 14時30分 休憩
伊勢谷渓谷出 14時40分
朝明キャンプ場ゴール 15時10分 甲津畑有志・菰野町関係者紹介
朝明キャンプ場出 15時42分
石槫トンネル通過 16時23分 バスで移動
産業振興会館着 16時50分

千草街道を往く・・・1 2011.4.29

千草街道を往く・・・2 2011.4.29

      今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました


千草街道を往く 2011.4.29

2011年04月30日 | ウォーキング

平成23年4月29日(金)「わがまち探訪FieldWork 
   2011年千草街道を往く」が実施されました
参加者:110名 (消防署の方とスタッフ含む)

受付後出発式が行われ西澤東近江市長、田中まちづくり協議会会長の挨拶その他注意事項のあと、
今年はストレッチ体操も行われました。その後バス2台に分乗し産業振興会館を7時25分に出発

参加者110名が8班(4隊)に分かれ予定より少し遅れて7時50分に岩谷林道入り口を出発
名所、旧跡で5分程度の休憩を取りながら、この日の最高地点杉峠(1042m)を目指しました

杉峠付近は沢山の雪が残っており、気温も低く、記念撮影もそこそこに次の休憩地御池鉱山旧跡に向かいました。

御池鉱山旧跡では昼食の後、同行していただいた消防署の方に応急処置講習をしていただきました

昼食後12時過ぎには御池鉱山旧跡を出発、増水していた神崎川源流、コクイ谷出会い、上水晶谷では
甲津畑町の有志の方が整備してくださった木の橋のおかげで、靴を濡らすことなく根の平峠に着くことができました

根の平峠で2回目の班別の記念撮影を行い、予定より早く14時前には下る一方伊勢谷渓谷から最終ゴール地点の朝明キャンプ場を目指し
15時過ぎには一人の落伍者もなく全員ゴールの朝明キャンプ場に着くことができました

最後にキャンプ場では菰野町の関係者、千草街道の整備をしてくださった甲津畑町の有志の方の紹介がありました

その後2台のバスに分乗し、3月末に開通した石槫トンネルを通って16時50分に産業振興会館に着きました

到着後は参加者全員満開の「エイゲンジサクラ」の下で、暖かい豚汁ときな粉団子をいただきました ありがとうございました

当日の行程は以下のようになりました 写真のスライドショーをお楽しみ下さい

ポイント 通過及び着・出時間
受付開始 6時40分  
出発式 7時00分  
  7時15分
ストレッチ体操 7時15分  
  7時25分
バスに乗り込み 7時25分 バスで移動
バス出発 7時30分
岩谷林道入り口着 7時50分
1隊出発 7時52分
善住坊の隠れ岩着 8時18分 隠れ岩見学
善住坊の隠れ岩出 8時21分
サクラ地蔵尊通過 8時45分
古屋敷着 8時50分 休憩
古屋敷出 9時00分
蓮如上人旧跡着 9時30分 休憩
蓮如上人旧跡出 9時38分
大シデ 9時40分 大シデ通過
シデの並木 9時57分 シデの並木通過
一反ぼうそう着 10時25分 休憩
一反ぼうそう出 10時30分
かいしんの杉 10時34分 かいしんの杉通過
杉峠着 10時45分 班別記念撮影
杉峠出 11時00分
金山神社跡 11時15分 金山神社跡通過
御池鉱山旧跡着 11時18分 昼食・応急処置講習
御池鉱山旧跡出 12時10分
神崎川源流 12時35分 神崎川源流
コクイ谷出会い着 12時52分 休憩
コクイ谷出会い出 13時07分
上水晶谷 13時20分 上水晶谷通過
根の平峠手前着 13時40分 休憩
根の平峠手前出 13時50分
根ノ平峠着 14時02分 班別記念撮影
根ノ平峠出 14時06分
伊勢谷渓谷着 14時30分 休憩
伊勢谷渓谷出 14時40分
朝明キャンプ場ゴール 15時10分 甲津畑有志・菰野町関係者紹介
朝明キャンプ場出 15時42分
石槫トンネル通過 16時23分 バスで移動
産業振興会館着 16時50分

千草街道を往く・・・1 2011.4.29

千草街道を往く・・・2 2011.4.29

 

     

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


被災地へ、私が支えに NPO、県産間伐材で杖作り

2011年04月30日 | 震災ボランティア

 

◆被災地へ、私が支えに NPO、県産間伐材で杖作り
(asahi.com 2011年4月25日 MY TOWN滋賀)
http://mytown.asahi.com/areanews/shiga/OSK201104240060.html
「東日本大震災で被災し、各地の避難所で生活している足の不自由な高齢者や障害者らのため、滋賀県産の間伐材で杖をつくる運動を長浜市余呉町の整体師斎藤邦雄さん(68)らが始めた。米原市で里山保全に取り組むNPO法人「やまんばの会」や草津市のガールスカウトのメンバーらも協力し、これまでに約200本を被災地へ送ったという。
 斎藤さんは阪神大震災があった1995年1月、神戸市東灘区のマンションで被災した。自宅にある施術所を訪れた客の話からあることに気づいた。「他人に迷惑をかけたくない」という思いからか、高齢者は移動や外出を控え、次第に動かなくなる傾向にあった。
 現在、旅行会社と協力し、健康と観光が結びついた「ヘルスツーリズム」の普及に取り組む斎藤さんは今回の地震を目の当たりにして「健康維持のためにも体を動かなさいといけない」という思いを強くした。
 がれきで埋まった道も杖があれば心強いだろうと、3月末に知人3人に声をかけて杖づくりを始めた。斎藤さんの自宅を作業場に、木の皮をはいでヤスリをかけ、滑り止めのゴムを付けた後、穴を開けてひもを通した。すべて手作業で出来上がった杖には「私が支えになりますよ」「あなたの一歩が日本の一歩」などとメッセージを書き添え、仙台市の被災者に届けられた。
 「共に歩んでいこうという思いがこもっている杖です」と斎藤さん。杖づくりに賛同してくれる仲間を募っている。問い合わせは斎藤さん(090・3708・3777、kunikuni@zc.ztv.ne.jp)へ。(浅野有美)」(全文)

 

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました


「一本の杖を送る会」・・チーム虎姫時遊館

2011年04月28日 | 震災ボランティア

旧虎姫町の元虎姫町長と藤田時遊館長は立ち上げた!

「一本の杖を送る会」・・チーム虎姫時遊館

 「一本の杖を送る会」・・チーム虎姫時遊館

前日雨降る中、有志と共に共有林から切り出し、早速見本杖も出来ていた!

有志・賛同者は参集して、もくもくと杖づくりを・・・!

手で持つ所はすべり止にと皮を剝かず、杖の先にはゴムスベリ止め!

激励のメッセージは、愛情あふれる言葉が・・・・!

時遊館でイベント「織田信長の虎御前山城探訪」の参加の皆さん

http://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/a15538b79ef851dc2b9b3eb9d06b050c

虎御前山城の里山整備もパネル展示・・・

            今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました


【一本の杖を送る会」 朝日新聞に掲載

2011年04月27日 | 震災ボランティア

被災地へ、私が支えに NPO、県産間伐材で杖作り

2011年4月25日

写真

被災者のために手作業で木のつえを作る斎藤さん(左端)ら=長浜市余呉町上丹生

 東日本大震災で被災し、各地の避難所で生活している足の不自由な高齢者や障害者らのため、滋賀県産の間伐材で杖をつくる運動を長浜市余呉町の整体師斎藤邦雄さん(68)らが始めた。米原市で里山保全に取り組むNPO法人「やまんばの会」や草津市のガールスカウトのメンバーらも協力し、これまでに約200本を被災地へ送ったという。

 斎藤さんは阪神大震災があった1995年1月、神戸市東灘区のマンションで被災した。自宅にある施術所を訪れた客の話からあることに気づいた。「他人に迷惑をかけたくない」という思いからか、高齢者は移動や外出を控え、次第に動かなくなる傾向にあった。

 現在、旅行会社と協力し、健康と観光が結びついた「ヘルスツーリズム」の普及に取り組む斎藤さんは今回の地震を目の当たりにして「健康維持のためにも体を動かなさいといけない」という思いを強くした。

 がれきで埋まった道も杖があれば心強いだろうと、3月末に知人3人に声をかけて杖づくりを始めた。斎藤さんの自宅を作業場に、木の皮をはいでヤスリをかけ、滑り止めのゴムを付けた後、穴を開けてひもを通した。すべて手作業で出来上がった杖には「私が支えになりますよ」「あなたの一歩が日本の一歩」などとメッセージを書き添え、仙台市の被災者に届けられた。

 「共に歩んでいこうという思いがこもっている杖です」と斎藤さん。杖づくりに賛同してくれる仲間を募っている。問い合わせは斎藤さん(090・3708・3777、kunikuni@zc.ztv.ne.jp)へ。(浅野有美)

    今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました


雨の横山 春の山菜ピクニック

2011年04月23日 | 大好き森林

 

横山はらっぱ倶楽部の・・・。

雨の横山 春の山菜ピクニック

散策は雨・・・・!木々・・花木は「い

きいき」喜んでます!

横山はらっぱ倶楽部の基地(活動拠点?活動小屋!)

カズミザクラの表札が2枚?も・・・。

 

5年の歴史がしっかり・・・と!

三つ葉つづじが満開!

ドウザンツツジも満開!

雨の散策路、手入れがされていて安心して楽しめました。

散策路

シュンランも満開!

「鷹の爪」木の芽・・・天ぷらで美味しい!生でも食べらる?・・・食べてみた。新芽の方が良いよ!(先に言ってヨ!・・・先生たら)

展望台も雨で・・・残念です。

ショウジョウバカマは、花後の新芽がニョキ・ニョキ!

竹の子を1本発見(筍にはしません!)

その後集合地のサイクリングセンターに戻って。

お勉強会、山菜パーティです。

タラの芽、いたどり、姥ユリ、鷹の爪、つばきの花・・・ets!

山菜の先生の山菜教室が始まった。

山菜の先生〇〇さんの山菜教室が始まった。

タラの芽、いたどり、姥ユリ、鷹の爪、つばきの花・・・ets!

収穫した山菜の見本・・・ほとんどは、スタッフ方が「天ぷら」に調理室で・・・!

山菜の盛り付け・・・公平に!

配膳中・・・、お世話になります!

山菜を天ぷらに、いたどりの煮つけ、三つ葉のゴマあえ、しいたけの・・・。

会長さんと名刺交換し、来年もお願いして自宅へと・・・>。

ありがとう、御座いました。

春のお山の恵みを、ご馳走様でした。

   今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました

 


「一本の杖を送る会」

2011年04月22日 | 震災ボランティア

東日本大震災の支援のための活動。「一本の杖を送る会」。

県立森林センター所長に協力依頼、アドバイス受け支援して頂ける代表紹介頂いた。

協力依頼ばかりでは、

自宅の植栽の棒樫を1本(杖サイズ)、花ズオウを1本切りました。

妻の実家の植栽のもみじの枝・・・何本か「高枝ばさみ」に「のこぎり」付けて剪定と言いながら切ってこよう!

 また、作付け放置の田んぼが山の中ある・・・下見行って来た。

2本の杖サイズ切って来たが、

日曜大工用の「のこぎり」では、切るのが大変だ!

レンジャー鋸・・・・枝切り・剪定用のタイプ鋸を買わないと・・・!

Twitterで、協力してを申し出て頂いた、製材所のS氏にもお会いして相談しよう、紹介願おう! 端材や間伐材、山の地主さんに低木(杖サイズ)を切らせてと、お願いしよう!

大工さんや建設業、

森林組合、公園管理業者の方に間伐材・剪定材の提供をお願いしよう。

 協力を増やさないと・・・。

  阪神大震災を経験した斉藤氏の提案・・・東日本大震災の支援の「一本の杖を送る会」

阪神大震災を経験した斉藤氏のメール
〇中様
この件につきましては。昨日からお世話になっています。
〇中さんの行動力で、光がみえている感じですが、
 今、そうした材料と共に、切る、剥ぐ、加工する、この作業を
共にして戴ける方を捜しています。
 作業は簡単です、子供にも出来ます、いまは早く現地へ送り届けたいとの
思いです。人海作戦です。
また、どこででもできますので各所で作業をして戴き
一か所に集めて現地持ち込みとする事も考えています。
 
ただ、現地の状況おもききながらの製作となります、
 
ある程度のストックを持ちながらの対応とするのが現実的と思います。
近次かやまんばの森で作業をして、ある程度のストックの為の作業です。
 
「一本の杖を送る会」、斎藤〇雄 有難う御座います.
        今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました

 


「一本の杖を送る会」チーム斎籐

2011年04月21日 | 震災ボランティア

東日本大震災の支援のための活動。

「一本の杖を送る会」チーム斎籐

 

やまんばの会のメンバーで阪神大震災を経験した斉藤の発案で、被災地につえを送る活動。
阪神では避難所に動かずにいたことで、足が衰えるかたが多かった。

東北の避難所でじっとしておられる方に少しでも歩いていただき、足腰の衰えを予防する為。
里山保全作業で出た細い木や枝は普段はチッパーにかけてしまうのですが、このような形で支援することができれば、やまんばの会らしい支援活動になる。

さしあたって宮城県仙台市の健康福祉局に申し出たところ、ぜひお願いしますとのことで、杖つくりにとりかかりました。

この日は、冷たい風が吹いていたのですが、やまんばの会に興味をもってくれた若い方や支援をしたいと申し出ていただいた方々で和気あいあいとした雰囲気で作業に参加してくれました。

 

持ち手のところにはカラフルなヒモをつけ、足先には滑り止めのゴムをつけました

 

阪神大震災を経験した斉藤

そして、「日本はひとつ みんな一緒だよ」など、各自思い思いのメッセージを入れました。

 

 

米原市日光寺町 やまんばの会HP http://yamanba-diary.blog.eonet.jp/default/の支援活動

 

 

twitterで全国の「一本の杖を送る会」 の立ち上げを・・・・!!とつぶやく琵琶湖沖島フィットチン

今、私たちに出来る事、阪神震災の体験者の被災者目線で、東北被災者支援活動を!

「一本の杖を送る会」斎藤さんからのメッセージ
 
琵琶湖沖島フィットチン行動力で、光がみえている感じですが、
 今、そうした材料と共に、切る、剥ぐ、加工する、この作業を共にして戴ける方を捜しています。
作業は簡単です、子供にも出来ます、いまは早く現地へ送り届けたいとの思いです。人海作戦です。             また、どこででもできますので各所で作業をして戴き一か所に集めて現地持ち込みとする事も考えています。
ただ、現地の状況おもききながらの製作となります、ある程度のストックを持ちながらの対応とするのが現実的と思います。
近々、「やまんばの森」で作業をして、ある程度のストックの為の作業です。
 
             2011.4.21「一本の杖を送る会」斎
          今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました

横山城  近江国(長浜)

2011年04月20日 | 戦国山城

 

観音寺

観音寺絵図

お城のデータ

所在地:長浜市堀部町 map:http://yahoo.jp/O7GUVG

築城期:鎌倉期

改築期:織豊期・・永禄4年(1561)

築城者:京極氏

者初城:浅井賢政(長政)・織田氏

城 守:三田村氏・木下藤吉郎
区 分:山城
遺 構:土塁,曲輪跡,竪堀
城 域:500m×500m
標 高:312m 比高差:200m

訪城日:2011.4.19

戦 い:

   永正14年(1517) ○浅井亮政 VS ●京極高清
   元亀元年(1570)  ○織田信長 VS ●浅井長政・朝倉景建
   元亀3年(1572)  ○織田信長 VS ●浅井長政

お城の概要

 横山城は、長浜市東部の丘陵上に造られ、東に伊吹山、西に琵琶湖、北に小谷城を見、眼下には北国脇往還を見下ろす軍事・交通の要衝に位置しています。東西南北に延びる尾根や谷沿いに、城の縄張を構成する郭や多数の砦が残っています。

標高311.9mの山頂に北城、その南の頂部に南城を構える。 南城は主郭の東西に低土塁を残し井戸跡があり、北に虎口を開いている。主郭の西側と北側には竪堀がある。

北城は頂部が削平され北に伸びる尾根に二段の曲輪があるが、縦走路以外は薮に覆われている。 西に伸びる尾根には四段の曲輪があり、途中に二重堀切がある。

お城の歴史

築城年代は定かではないが、京極氏の支城であった横山城は、

永正14年(1517年)に浅井亮政に攻め落とされ、浅井氏の所有になってからは、小谷城を守るための出城の役目があった。

元亀元年(1570年)姉川合戦に際して、織田信長は、丘陵突端の龍ケ鼻(たつがはな)に本陣を置きました。

浅井・朝倉連合軍を破った織田信長はすぐに横山城の攻略に着手し、時の城主三田村氏は降伏し、落城しました。
姉川合戦の後、小谷城攻めの際は織田信長軍の拠点となりました。

横山城跡ウォーキング 米原・近江長岡

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、横山城 (近江国)出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 
 
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横山城
(滋賀県)
横山城趾 本曲輪
横山城趾 本曲輪
城郭構造 山城
築城主 浅井長政
築城年 1561年
主な城主 浅井井演、木下秀吉
廃城年 1573年
指定文化財 なし

横山城(よこやまじょう)は近江国坂田郡(長浜市堀部町・石田町)にあった日本の城。山城。

 元亀年間(1570年 - 1573年)の織田信長と浅井長政の激しい戦いの拠点であり、信長の部将であった木下秀吉(後の豊臣秀吉)が城番として守備していたことで知られる。

歴史

横山城は近江北部の浅井郡と坂田郡とを分ける姉川の南岸の山の峰続きに永禄4年(1561年)、浅井長政が対六角氏用の防衛拠点として築城させた。城主には一門の浅井井演を任命した。

その後浅井氏は勢力を伸張して坂田郡から犬上郡まで勢力を広げるが、元亀元年(1570年)、織田信長と交戦状態になり、再び横山城の重要性が高まった。横山城は美濃の関ヶ原から浅井氏の本拠地である小谷城(滋賀県湖北町)の西側を通る北陸脇往還街道のすぐ脇に立地するうえに、小谷城から6-7kmほどの距離しかないため、信長は重要な前線基地として横山城の攻略を目指した。同6月28日、姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を破った信長はすぐさま横山城の攻略に着手、時の城主三田村国定、野村直隆、大野木秀俊らは降伏し、落城した。

信長は城番として木下秀吉を任命。秀吉はここを拠点として浅井氏攻略を行った。

天正元年(1573年)9月に浅井氏が滅亡すると、秀吉は浅井郡・坂田郡の支配権を与えられ、本拠地として長浜城を築城。

これに前後して横山城は廃城となったと考えられている。

    今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました


瓶割山城(長光寺城) 近江国(近江八幡)

2011年04月12日 | 戦国山城

瓶割山城を独り占め!

4月7日・・・桜やモクレンが咲き、うぐいすの声を聴きながら。

ちょっと時間が出来たので、瓶割り柴田で有名な・・・

瓶割山城跡を独り占め!

 いつも車で通るのに気付かなかった!

長光寺城(別名瓶割城)

   

お城のデータ 

所在地:近江八幡市長光寺町    map:

別 名:長光寺城

現 状:山林

築 城:鎌倉時代中期

築城者:佐々木四郎政堯

初城主:佐々木四郎政堯

区 分:山城

遺 構:一の丸・二の丸・米倉・井戸・石垣・堀切・土橋

城 域:150mx150m

標 高:234,5m      比高差:120m

目標地:日吉神社

駐車場:日吉神社近く公園内に駐車

戦 い : 応仁2年(1468)  ○六角高頼(西軍)  VS  ●六角政堯(東軍)

      元亀元年(1570)  ○織田信長     VS   ●六角承禎 

お城の概要

長光寺城は標高234mの瓶割山の山頂付近に築かれ、北側眼下をはしる中山道が八風街道と交わる武佐までは直線距離にして約1km。東近江における要衝の地にある。

登り口は妙経寺横の不二滝、若しくは長福寺町の公民館前にある。どちらも山頂までは約25分程度。道はハイキングコースとなっており、案内板が立てられ判りやすくなっている。

不二滝から登ると主曲輪西側の堀切に出る。堀切横の石垣は、高さ6mを越え城内最大のものである。長光寺城は15世紀中期に佐々木四郎政堯によって築かれたのを創築とし、その後は六角氏が入り、元亀年間には織田信長の家臣・柴田勝家が入っているが、この石垣は斜度をもたせて積んでいることから、後年の柴田勝家時代のものではないかと思われる。

堀切の左(東)は主曲輪、右(西)は二の曲輪で、堀切に渡した土橋が非常に状態良く残っている。主曲輪は東西50~60m、南北30mほどで、東尾根に三の曲輪を配置した連郭式の曲輪配置である。二の曲輪は主曲輪と同程度の広さと推定されるが、雑木が生い茂り広さを読み切れない。曲輪西側の尾根筋は堀切で処理し、虎口部は石垣が積まれている。主曲輪東側の三の曲輪は南側斜面に3~4段の帯曲輪を配している。東尾根は堀切で処理されておらず、城域ラインは不明。この長光寺城は主曲輪以外の二の曲輪、三の曲輪にも石垣、石積みが見られる。特に主曲輪と三の曲輪の境界部分(井戸跡下)には一辺が50~60cm、大きなものは一辺が1mを越える石が散乱しており、主曲輪の西虎口に見られるような石積みがされていたことを予感させるが、現地では確証がとれなかった。おそらく廃城の際に徹底して破壊されたのではないだろうか。信長公記には信長が安土城を築城する際、観音寺山(繖山),長命寺山,長光寺山,伊場山から石を集めたと記述されており、長光寺城の破城が暗示されている。

訪城日:2011.4.12

 

 北に>>>観音寺城址の繖山==観音正寺が頂上近くに!

北東に箕作山城址

南に雪野山

東に布引山城

北西の、手前は八幡山城址、後ろは長命寺山

西は水茎岡山城(戦後干拓されて陸続きに!)水茎岡山城址・右が八幡山城址

   一の郭(本丸)を一人占め!

 最大の石垣です

 二の郭の石垣

 一の郭と二の郭の土橋です

瓶割山から下りて、近江八幡市西宿に佐々木氏の重臣伊庭氏の末裔・・「伊庭貞剛邸」跡看板が???。

また、「伊庭貞剛邸阯」北に西宿城の遺構も残る。

長光寺城の戦いと瓶割り柴田

野洲河原の戦いに先立ち、柴田勝家の守る長光寺城で戦いがあったともいい、このときのエピソードが「瓶割り柴田」の名の由来となっている。しかし、この話は『武家事記』が初出であり、事実ではないと見られている。

『武家事紀』によると、元亀元年(1570年)6月に六角義賢父子は長光寺城を囲んだ。義賢は郷民から長光寺城内は水が出ず後ろの谷から掛け樋で引いていると聞き、平井甚助に水源を止めさせた。勝家は残った水を入れた瓶を三つ並べ、このままでは渇して死ぬのは疑いなく、力のあるうちに必死の戦いをしようと言うと、皆が賛成した。そこで三つの瓶を打ち割り捨て、翌16日に城外へ打って出て六角の旗本を切り崩し、野洲河原で三雲・高野瀬・水原の六角勢を討ち取ったという。ここでは、これより勝家を俗に「ツボワリ柴田」、「鬼柴田」と呼ぶようになったとする。

この話は次第に尾ひれがつき、『常山紀談』では、六角側が水源を絶った後、平井甚助が和平の使者に立って城内に入った。対面の後手水を請うと、勝家は缸(かめ)に水を入れて小姓二人で担いで来させ、甚助が手洗いを済ませると、残った水を庭に捨てさせた。甚助が帰って城内には水が豊富だと報告し、六角側は困惑。勝家は最後の宴をして水を皆に飲ませると、缸を眉尖刀(なぎなた)の石突で砕き、夜明けに六角側を急襲して大敗させ、800余の首を上げた。信長は勝家に感状を与え、これより勝家を世に「缸砕り(かめわり)柴田」と称したとなっている。

「絵本太閤記」の瓶割り柴田

『絵本太閤記』になると、元亀元年5月21日(1570年6月24日)に六角軍は兵800余人の籠城した長光寺城を攻撃するが落ちず、六角側に多数の死者がでた。義賢は家老三雲新左衛門と図り、城中への水源を止めた。義賢は平井甚助を使者とし勝家に士卒の助命を条件に降伏勧告を行うが、勝家はこれを拒絶した。甚助が部屋を出ると、多数の兵が庭で沐浴していた。甚助は帰って城中には水が充分にあると報告した。一方、勝家は残った水瓶三つを庭に置き、これから討ち死にしようと思うが、老父母や幼子のいる者は城を出て落ち延びよと言うと、誰も逃げる者はいなかった。勝家は皆に思う存分水を飲ませると、もはや蓄えは無用と長刀の石突きで瓶を砕いた。6月3日早朝、勝家は敵が油断しているところへ打って出て、300余人を討ち取り、義賢は石部城へ落ち延びた。信長は勝家を称えて手ずから感状を与え、これより世人は勝家を「瓶割り柴田」と呼んだとする。鯰江城落城もその年で、実際には佐久間盛正・蒲生賢秀・丹羽秀長・柴田勝家によって落城。

シリーズ「淡海の城」(19)より

瓶割山城(かめわりやまじょう)(近江八幡市長光寺町・長福寺町・武佐町、東近江市上平木町)

 瓶割山城(長光寺城)は湖東平野に存在する独立丘陵である瓶割山(長光寺山)に位置する城郭遺跡です。山の名は元亀元年の六角勢の攻勢の折、この城に立て篭もった織田家の家臣、柴田勝家が城の中に備えた水瓶を割って士気を鼓舞し城を出て、戦いに勝利を収めたという故事に由来しています。勝家はこの戦いの後、「瓶割柴田」の異名をとったと言われていますが、実際にこのような戦いが起こったどうかは記録に残っていません。ただし、『信長公記』には「長光寺に柴田修理亮在城。」という記述があるので、実際に布陣はしていたと考えられます。

 発掘調査が行われていないため詳しい状況は判明していませんが、現在のところ山上部には、帯郭が周囲に構築された最大規模の郭(『蒲生郡誌』の図で本丸と命名)を中心として大小多くの郭が残存しています。「本丸」から北および東に延びる尾根上には郭が連接して郭が構築されています。北側の尾根上には縁辺に土塁が構築されている郭があります。東側に延びる尾根にも本丸よりも少し規模の小さい郭が北側尾根と同様に連接して構築されています。

 瓶割山城縄張図(振角卓哉氏作成)

 一方、南西へ伸びる尾根上では2箇所大規模な郭が構築されています。これらの郭は大規模な堀切によって区画されており、本丸と隣接する郭の間(『蒲生郡誌』では「二ノ丸」)は土橋で連絡されています。また、山上部の郭の各所には竪堀が配されています。山上部の郭には複数の石垣が構築されています。最も大規模なものは、本丸南西部に位置するもので比高差約6mを測ります。城内に見られる石垣は埋もれている部分が多く、『蒲生郡誌』に掲載された平面図には現在では確認できない石垣が書き込まれていることから、実際には石垣が他にも存在しているものと考えられます。この山上部に残る遺構以外に瓶割山山中には郭と考えられる遺構が残存しています。山麓東側には根小屋とされる土塁で区画された遺構が残ることから、瓶割山全体が城郭として使用されたものと考えられます。

 瓶割山城縄張図(振角卓哉氏作成)

二ノ丸南側の堀切・土橋

  本丸南西部の高石垣

 応仁の乱の際に「長光寺」に城を築いたという記録があることから、この時期に瓶割山城の歴史は始まったと考えられていますが、現在山上部に残る遺構は郭に高石垣が構築されていること、本丸、二ノ丸の南西部に枡形虎口とも解釈できる部分を持つことから柴田勝家の布陣によって構築されたものではないかと考えられます。もともとの長光寺城の遺構も取り込まれているかもしれませんが、はっきりしません。また、東に延びる尾根の南斜面には連続して小規模な郭が構築されている部分があり、城郭としては珍しい構造となっています。この付近には石仏・一石五輪塔が散在していること、山や麓の集落の「長光寺」という地名から、寺院に関連した遺構の可能性もあります。

 瓶割山城へは麓の近江八幡市長福寺町、東近江市上平木町から山頂に向かう山道があります。自動車利用の場合、近江八幡市長福寺町の登山口へは国道8号線六枚橋交差点から県道14号線を八日市方面に向かい、コンビニエンスストアのある交差点を左折し登山口の日吉神社へ向かいます。ただし、登山口付近に駐車場はありません。東近江市側へは県道41号線から左折し、山麓へ向かうと鳴谷団地北側、御澤神社近くにある草の根広場付近に登山口があり、説明板が設置されています。草の根広場横に数台駐車可能な場所があります。山内には林道が通じていますが、一般車両は進入できません。

 公共交通機関の場合、近江鉄道平田駅からは約20分で東近江市側の登山口、JR近江八幡駅からのバスを利用すると、長福寺停留所で近江八幡市側の、鳴谷、平木の各停留所からは東近江市側の登山口にそれぞれ徒歩20分程度で向かえます。

 瓶割山城では、平成20年度に東近江市側で里山森林と遺跡整備を兼ねた事業が実施され、山麓から山上部の遺構へ向かう通路・案内看板が整えられました。また、山上部での周囲の見通しがきくようになり、郭の形状や石垣も捉えやすくなり、見学し易くなりました。平成21年度は近江八幡市域で同様の事業が実施される予定です。(上垣)

注)山および城の名称は「長光寺「瓶割」の両方が用いられていますが、今回は行政上用いられる名称に拠りました。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、Wikipedia

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