城郭探訪

yamaziro

八幡ノ岡 陣城 近江国(湖北)

2016年02月24日 | 陣城


滋賀県城郭分布調査より『東浅井郡志』(丁野山古砦図)

お城のデータ

住所地:長浜市(旧・東浅井郡湖北町)小谷丁野町 map:http://yahoo.jp/Vvei_V

区 分:丘陵城

現 状:墓地

築城期:織豊期

築城者:朝倉太郎左衛門

標 高:130m 比高:20m 

遺 構:

駐車場:駐車場(日本硝子独身寮の)に!

訪城日:2016.2.20

お城の概要

丁野山城の北東の丘陵(岡)に築かれた陣城で、浅井の加勢に来た朝倉軍の副将:朝倉太郎左衛門が陣取ったが、今は墓地に改変された。

丁野山城の虎口手前から、

お城の歴史

丁野山城  近江国(高月)

天正元年(1573年)の織田信長の小谷城攻略時に、ここには丁野山城に浅井氏を加勢に来た越前朝倉氏が立て籠もり朝倉太郎左衛門は、副将として「八幡の岡」に陣城に入りました。織田勢に攻められ落城しました。

 駐車場超しの遠景

----信長公記 巻六 元亀四年 12、追撃  大筒・丁野攻破らるるの事------

 信長公に通じた浅見対馬は、8月12日みずからが守る大嶽下の焼尾へ信長公の人数を引き入れた。その夜はことのほか風雨が激しかったが、信長公は虎御前山の本陣に嫡男信忠殿を残し、みずから馬廻を率いて大雨の中をずぶ濡れになりながら大嶽へ攻め上がった。大嶽には斎藤・小林・西方院らの越前衆五百ばかりが番手として籠っていたが、信長公直々の攻撃の前にたまらず降伏した。

 降伏した越前兵は、すべて討ち果たされて当然のところであった。しかし夜の闇に加えて折からの風雨が敵方の視界をさえぎり、当の朝倉義景がこの大嶽陥落を気付いていないおそれがあった。そこで信長公は降兵たちの命を助けて朝倉本陣へ向かわせ、彼らに大嶽が落去してもはや戦勢を支えがたくなった事実を知らせさせた。このとき信長公は、このまま一挙に朝倉義景の陣所を抜く考えを固めていた。

 信長公は大嶽に塚本小大膳・不破光治・同直光・丸毛長照・同兼利らを置くと、すぐさま丁野山(長浜市湖北町丁野)の攻撃にかかったここには越前平泉寺の玉泉坊が籠っていたが、これもまたたく間に降伏して退散した。

 大嶽丁野の要害が落ちた今、信長公は朝倉勢が今夜のうちにも越前へ退却を始めると読んだ。そして先手の諸将へその旨を伝え、敵勢退却のときを逃さぬよう覚悟せよと再三にわたって命じた。しかしそれでも信長公は焦りと苛立ちを抑えきれず、13日夜ついにみずから先駈けをして越前衆陣所へ攻め入った。

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、信長公記

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講座:湖北の古墳 研修会

2016年02月24日 | 講座

無料 一般参加 OK

虎御前山古墳と中世城郭保全顕彰会総会及び研修会  

主催  『虎御前山古墳と中世城郭保全顕彰会』

日時  2016(平成28)年2月20日(土) 9:30開会

会場  虎姫 時遊館 滋賀県長浜市三川町1635−2

研修会 10:15〜11:45

    「虎姫の古墳」 無料 一般参加 OK

安土城考古博物館学芸課長 細川修平 氏

 


丁野山城  近江国(湖北)

2016年02月23日 | 山城


滋賀県城郭分布調査より『東浅井郡志』(丁野山古砦図)

お城のデータ

住所地:長浜市(旧・東浅井郡湖北町)小谷丁野町 map:http://yahoo.jp/bbxo8l

区 分:山城

現 状:山林

築城期:織豊期

築城者:浅井備前守亮政

標 高:170m 比高:60m 

遺 構:曲廓・土塁・堀・堀切・竪堀・説明板

駐車場:駐車場(日本硝子独身寮の)に!

訪城日:2016.2.20

お城の概要

 この山は低い山で丁野山城まででも比高は60m程度です。5分で尾根の鞍部に出て、右側のピークが中島城、左のピークが丁野山城です。 木々が伐採され、大変見学しやすくなっています。おまけに時期的に下草も無く城郭遺構も見学し易い。城址は岡山山頂にあり、大嶽城を小型にした印象です。主郭は20m四方ほどで主郭周囲に 堀が巡り、南北双方に副郭のピークとその先に堀切、それに続く竪堀があります。 城は丁野山の山頂に南北に築かれ、最高所に南北20.5m、東西19.5mの方形の曲輪を削りだし、主曲輪とするが周囲には土塁がなく、一段くだった外側に横堀をめぐらし土塁が築かれている。土塁の周囲には帯曲輪がある。

 主曲輪の北側には横堀を挟んで4等三角点のある北曲輪、さらに堀切があって曲輪がある。主曲輪の南側にも
同様に横堀を経て曲輪、さらに堀切がある、連郭式の曲輪配置となっている。 南の堀切に続いて、竪堀も残っている。

 小谷山の西約1kmの位置に築かれている。

丁野山城は主曲輪を中心として南側と北側に袖曲輪といった連郭式(段廓)の曲輪配置で、主曲輪は約30m×25mで曲輪の周囲は横堀を巡らし、南側尾根と北側尾根には堀切を配している。

 北側の曲輪からは北国脇往還道を挟んで小谷山は目前で、小谷城の支城として築城されたことが容易に推定できる。

お城の歴史

丁野は小谷城浅井氏の発祥の地と言われています。丁野山城も永正十五年(1518年)に浅井備前守亮政によって築城とされます。天正元年(1573年)の織田信長の小谷城攻略時に、ここには浅井氏を加勢に来た越前朝倉氏が立て籠もりましたが、織田勢に攻められ落城しました。 <現地案内板より>

----信長公記 巻六 元亀四年 12、追撃  大筒・丁野攻破らるるの事------

 信長公に通じた浅見対馬は、8月12日みずからが守る大嶽下の焼尾へ信長公の人数を引き入れた。その夜はことのほか風雨が激しかったが、信長公は虎御前山の本陣に嫡男信忠殿を残し、みずから馬廻を率いて大雨の中をずぶ濡れになりながら大嶽へ攻め上がった。大嶽には斎藤・小林・西方院らの越前衆五百ばかりが番手として籠っていたが、信長公直々の攻撃の前にたまらず降伏した。

 降伏した越前兵は、すべて討ち果たされて当然のところであった。しかし夜の闇に加えて折からの風雨が敵方の視界をさえぎり、当の朝倉義景がこの大嶽陥落を気付いていないおそれがあった。そこで信長公は降兵たちの命を助けて朝倉本陣へ向かわせ、彼らに大嶽が落去してもはや戦勢を支えがたくなった事実を知らせさせた。このとき信長公は、このまま一挙に朝倉義景の陣所を抜く考えを固めていた。

 信長公は大嶽に塚本小大膳・不破光治・同直光・丸毛長照・同兼利らを置くと、すぐさま丁野山(長浜市湖北町丁野)の攻撃にかかった。ここには越前平泉寺の玉泉坊が籠っていたが、これもまたたく間に降伏して退散した。

 大嶽・丁野の要害が落ちた今、信長公は朝倉勢が今夜のうちにも越前へ退却を始めると読んだ。そして先手の諸将へその旨を伝え、敵勢退却のときを逃さぬよう覚悟せよと再三にわたって命じた。しかしそれでも信長公は焦りと苛立ちを抑えきれず、13日夜ついにみずから先駈けをして越前衆陣所へ攻め入った。

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、信長公記

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中島城   近江国(湖北)

2016年02月22日 | 平城

お城のデータ

所在地 : 長浜市(旧・東浅井郡)湖北町丁野 map:http://yahoo.jp/lNAo

築城期:織豊期・ 元亀3年(1572)

築城者:中島宗右衛門直親

区 分 : 平山城

標 高:133.2m 比高差20m

遺  構 :主郭・副廓・囲い土塁、横堀、虎口、堀切、土橋 

訪城日:2016.2.20

駐車場:(日本硝子独身寮の)に!

お城の概要

 一般的に連郭式城郭の曲輪配置は、主曲輪を中心にして前後に曲輪を配していく。ところが曲輪が2つの小振りな城の場合、主曲輪の前面に副曲輪を置くのが常識である。これは主曲輪が直接敵の攻撃にさらされないことを配慮する当然の措置である。

 この常識からすれば中島城は副曲輪(Bの曲輪)のある西側に敵を想定して築城されているのだが、西方には丁野山城が位置している。つまり、中島城は西方の丁野山城を敵方としていたことになる。 

お城の歴史

 丁野山城一帯は元亀4年の織田軍による小谷城攻め以降は、軍事的な緊張、および戦いはない。湖北では、唯一天正11年(1583)に賤ヶ岳の戦いがおこなわれているが、賤ヶ岳の戦いは余呉湖周辺の局地戦であるため、この中島城の遺構は元亀4年当時のものであると断定しても間違いはない。
だとすれば、丁野山城に立て籠もった朝倉氏に対して、中島城は織田軍が改修し丁野山城に対する付城として機能していたということになる。


 付城といえば、元亀元年(1570)に姉川の戦いで敗れた浅井氏家臣の磯野員昌が佐和山城に籠城した時、織田軍が4つの付城を築いている。

また、天正6年(1578)高天神城の武田軍に対し、徳川家康が獅子ヶ鼻砦や小笠山砦、火ヶ峰砦など6つの付城を築いているが、いずれの場合も付城は1~3kmほどの距離で、丁野山城に対する付城・中島城の距離は異常に近い。
これは元亀4年当時、織田軍が浅井・朝倉軍に対して軍事的に極めて優勢であったことを物語っているのではないだろうか。
 こう考えると、元亀4年8月12日に織田軍によって大嶽城を落とされただけで、田上山に陣取っていた朝倉義景が夜半に越前に向けて撤退した疑問も解ける。

元亀元年(1570)浅井氏が姉川合戦に敗れ、織田信長方に包囲されはじめると、小谷城の西に点々と分布する独立の山丘は、小谷城攻防にとって重要なものとなった。
 織田信長は、元亀3年(1572)の小谷城攻めにおいて、小谷城根小屋のある清水谷の正面に位置する虎御前山に陣を築かせた。
 浅井・朝倉軍は、虎御前山の北北西にある山丘の丁野山(岡山)および東に伸びる支尾根に城砦を構え、織田軍と対峙したと考えられる。
この山丘に構えられたのが丁野山城で、東に伸びる支尾根に築かれたのが中島城でる。浅井氏家臣の中島宗右衛門直親が守備したとされる。
 天正元年(1573)4月12日武田信玄が信濃国駒場の陣中で亡くなると、信長は小谷城攻略を本格化させ、同年8月8日山本山城を開城させ、12日に大嶽城を、13日には丁野山城を落とした。
中島城も丁野山城とともに落城し、守将の中島宗右衛門は木之本の田部山城に退いたとされる。 

 中島城は小谷城を守る支城のひとつで、浅井氏の家臣である中島直親の居城であった。いつ頃築かれたのかは明らかとなっていないが、元亀3年(1572)には織田氏の侵攻に対して浅井長政と朝倉義景が合議し、中島城の守りを固めた上で尾根続きの岡山にある丁野山城を修築して朝倉勢を迎え入れている。

 天正元年(1573)8月に織田勢は小谷城を包囲し、支城の大嶽城を落城させた勢いで中島城と丁野山城を攻めた。十倍程の敵に包囲された両城は攻め手の勧降を受け入れ、中島直親は織田勢に投降し、両城には火が放たれたという。

虎御前山城

主郭土塁へ

 

元亀4年(1573)織田信長の小谷城攻めの時に、中島宗右衛門直親が守備していたと伝えられている。

長谷川博美先生に、現地案内・説明して頂きました。

 

中島城・・・(遠景)駐車場より

元亀4年当時の丁野山城、および朝倉義景が撤退したことについて、「信長公記」の元亀4年の条に記述がある。 

信長公記の内容を要約すれば

 8月12日に浅見対馬守の手引きで大嶽城の下にある焼尾砦に入り、大嶽城へ攻め入った。大嶽城には朝倉勢の斉藤・小林・西法院を大将として五百人ほどが立て籠もっていたが降参してきた。信長公は、本来なら打ち首にするところであるが、夜中の風雨のこととて朝倉義景は大嶽城が落ちたことを知るよしもないので、敵陣に送り返し大嶽城が落ちたことを知らしめよと下知された。

 信長公は、朝倉義景は疋壇城,手筒山城、金ヶ崎城を頼りに退却するであろうから、疋壇口に伏兵を置いておけと指示された。

大嶽城が落ちたとの知らせを受けた朝倉義景は、手勢を北国街道の河内方面から越前に向かわせ、義景自身は馬廻り衆だけを従えて刀根街道から敦賀へ逃れるところを織田軍は刀根峠にて追いつき、敦賀までの11里の間に3,000人余りを討ち果たした。

 こうして8月12日に織田軍が落とした城の数は、大嶽城、焼尾砦、月ケ瀬城、丁野山城、田部山城、義景の本陣・田上山城、疋壇城、手筒山城、金ヶ崎城、賤ヶ岳砦、若狭栗屋越中守の居城・国吉城への付城など、併せると10城となった。

 

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、信長公記

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高野館  近江国(高月)

2016年02月21日 | 城郭寺院

お城のデータ

所在地:長浜市(旧・伊香郡)高月町高野map:http://yahoo.jp/2UVOXO

現 状:寺社地、宅地

区 分:居館

築城期:弘安6年(1283年)

築城者:高野の臣

遺 構:土塁・空堀・石垣?

標 高:145m  高差:-

駐車場:高野神社前駐車場スペース

目標地:満願寺(高野神社)

訪城日:2016.2.20

お城の概要

比定地は高野集落の背後の山裾に位置す、高野神社。

滋賀県中世城郭分布調査に記録が無く、遺跡ウォーカーや長浜市の遺跡リストに丸山城遺跡と検索できる。

高野神社に観音堂・満願寺が同居する、集落側は石積みで、両脇・背後は土塁で囲む。

お城の歴史

城郭の歴史は不詳ながら、寺院や神社の歴史・由緒は明確に残

長谷川博美先生に現地説明頂きました。参加者も吃驚!大満足!

寺院・神社の由緒

満願寺の伝・伝教大師坐像、像内に墨書があり、これによると鎌倉時代、弘安6年(1283)仏師院信によって造像されたことが判明し、国の重要文化財に指定されている。良源は観音菩薩の化身といわれ、鎌倉時代には「法華経」に説く観音三十三応現身の数にちなんで、33あるいはその倍数66の大師像が盛んに造像された。頭部は前後に三材を寄せ、内刳りを施し玉眼を嵌入。体部は左右に各一材を、さらにその両脇に一材を寄せ内刳りを施すなど、細かく寄木している。朱唇・衲衣の黒色などがわずかに残り、頭髪・顎髭の毛筆を写実的に描くなど洗練された手法が認められる。

高野観音堂

大師堂に安置されている像は、天台宗の開祖・伝教大師(最澄)の肖像と伝えますが、そのお姿から比叡山中興の祖・慈恵大師良源(元三大師)を表しているとみられます。弘安6年(1283年)仏師院信によって作られたことが判明し、国の重要文化財に指定されました。

木造伝教大師坐像 
  高月町高野・高野神社(大師堂安置)
  一躯 鎌倉時代 弘安6年(1283)院信作

  檜材 寄木造  彩色 玉眼  像高75.8cm
伝教大師最澄像と伝えるが、鋭く前方を凝視し、右手に独鈷杵、左手に念珠を執る姿から「叡山中興の祖」と称された慈恵大師良源(元三大師)の肖像と考えられる。
頭部は前後に三材を寄せ、内刳りを施し玉眼を嵌入。体部は左右に各一材を、さらにその両脇に一材を寄せ内刳りを施すなど、細かく寄木している。朱唇・衲衣の黒色などがわずかに残り、頭髪・顎髭の毛跡を写実的に描くなど洗練された手法が認められる。
像内に墨書があり、弘安6年(1283)仏師院信によって造像されたことがわかる。
良源は観音菩薩の化身といわれ、鎌倉時代には『法華経』に説く観音三十三応現身の数にちなんで、33あるいはその倍数66の大師像が盛んに造像された。伊香郡最古の寺院が己高山諸寺であり、境内には関係の己高山満願寺と称する薬師堂がある。

社伝によると、高野の臣が始祖大名草彦命を祀ったのを始めとする。伊香郡最古の寺院が己高山諸寺であり、境内には関係の己高山満願寺と称する薬師堂がある。己高山諸寺とは己高山五箇寺として法華寺、石道寺、観音寺、高尾寺、安楽寺、観音寺別院として飯福寺、鶏足寺、圓満寺などがあり、鶏足寺の末寺が己高山満願寺である。

  高野神社 滋賀県長浜市高月町高野297 

「高野の祝」が、その始祖大名草彦命を奉祀するという。
この地は伊香郡最古の寺院、己高山諸寺(五ヶ寺)であり、境内には関係の己高山満願寺と称する薬師堂がある。
飛地境内地に式内天比々伎命神社がある。

薬師堂と社叢

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

祭神  大名草彦命、大山咋命

 

鳥居と拝殿

由緒

 『近江伊香郡志』によると、「神亀元年(724)創建、式内、往昔高野の臣此の土地を開拓し祖神大名草彦命を奉祀す。」とある。『新撰姓氏録』の和泉国神別によると、大名草彦命之後也として高野がある。紀の国造の紀直と同じ祖。
 社伝によると、「高野の祝」が、その祖大名草彦命を奉祀するによってその始めとしている。
 後、この地は伊香郡最古の寺院と認められる己高山諸寺が存していた。現在、境内に己高山満願寺と称する薬師堂がある。己高山諸寺に含まれる観音別院の鶏足寺の末寺が己高山満願寺にあたる。行基菩薩がこの地で薬師の像を刻み一堂を立てたと言う。
 また最澄が薬師如来に詣で、百日の参籠をなし、願満ちて薬師堂を建立し、満願成就に因み、己高山満願寺と号したと伝えられる。この時、最澄が天台の守護神である大山咋命を合わせ祀ったと寺伝、社伝で伝えている。

本殿 間口五尺・奥行き五尺の流れ造。天保年間(1830~)再建。

お姿
 道路の正面には薬師堂が建っている。西向き。南側が神社の境内だが、神社の正面は釣り鐘、その北側に池があり、石組みが整っている。
 背後は山林。

 高野の集落に入る所に「野大神」が鎮座している。

神池と釣り鐘堂

 

 

 

 

 

 

 

参考資料:遺跡ウォーカー、203 - 001 43 妙覚院遺跡 神前町 寺院跡 その他 平地 社地 203 - 002 、高野神社・満願寺HP

  本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


油日館 近江国(甲賀・甲賀)

2016年02月20日 | 居館

神社参道右手にある『油日館』石碑の裏(南側)に築かれていました。

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町油日字金剛寺 (旧甲賀郡甲賀町油日字金剛寺)    map:http://yahoo.jp/1zNWfN

現 状:竹林

遺 構:土塁、堀

区 分:居館

築城期:室町期?

築城者:上野氏

城 主:上野氏

目標地:油日会館、善徳寺

駐車場:油日神社参拝者用の無料駐車場

訪城日:2016.2.14

油日館

お城の概要

油日館は、甲賀郡総社油日神社の境内西側、神社の参拝者用駐車場から神社へと向かう参道右手に油日館の立派な石碑が建てられている。 この石碑の南側一帯に油日館が築かれていた。 県道の坂道脇から竹藪の中を見ると、館の土塁が一部残存しているのが確認することができる。

館は油日神社の前の道と県道131号線の交差点にある。

竹薮の中には土塁が残り、北側に堀跡と思われる窪地が土塁に沿って残っている。この土塁は北端のようで西端はL字に南側へ曲っているが若干残っているのみで大半は削られているようだ。

油日館は、油日神社の西側に位置し土塁囲みの曲Ⅰ・Ⅱで構成される複郭構造です。

歴 史

 油日館は、築城年代や築城者は定かでない。 油日城共々上野氏が城主であったと考えられている。

館は下屋敷、近くの丘陵にある油日城は詰め城、上野氏の館・城です。

 参考資料;滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭、甲賀市誌7巻甲賀の城

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滝川城 近江国(甲賀・甲賀)

2016年02月20日 | 丘陵城

前堀・・・櫟野川 

お城のデータ

別 称:五反田城 

所在地:甲賀市(旧甲賀郡)甲賀町油日~檪野  map:
区 分:丘城 

標 高:   比高差:20m 
現 状:山林

遺 構:曲廓・土塁・説明板
築城期:室町期

築城者:滝川氏 
目標地:檪野寺

駐車場:檪野寺参拝者用駐車場

甲賀市市史跡
訪城日:2016.2.14


お城の概要

 城跡は尾根先端を削り込んで作られ、基本は甲賀の典型的な単郭方形の城ですが、主郭西側の堀切から帯郭状廓、東側のにも副郭のような削平地がある。主郭南側が櫓台になっていたのか高い土塁が残る。この南側土塁下に低い土塁で囲まれた池がある。高い南側土塁の外側は深い堀切が明瞭に残ります。なお、城の西側には滝川西城、北側400m先には滝川支城がある。

山の神

お城の歴史

滝川一益が居城したことから滝川城と呼ばれ、またこの地の名称から五反田城とも伝えられます。滝川一益は甲賀大原庄に生まれ、16才まで在住した後、織田信長の配下に加わりました。石山本願寺攻めや伊勢長島一揆鎮圧などに武勇を上げ、信長四天王のひとりとして数えられました。後には関東一円を支配する管領となりますが、元亀元年(1570年)に信長の近江守護六角氏追討と六角氏支援の甲賀武士を攻める大将とされ、故郷の親類・同胞を攻めることとなり、戦国時代の世の下克上と悲話を物語る城跡です。 <現地案内板より 甲賀町教育委員会>

大原荘の東部、櫟野一帯に蟠踞(ばんきょ)した滝川一族の本拠、『近江與地志略』に「瀧川氏居城の跡なりといふ」と見える。

東側の瀧川城が滝川氏の本城と伝わる。

市指定史跡。

一族から出て織田氏の重臣として活躍した滝川一益(かずます)のゆかりの城としても知られる。織田信長の四天王と称され、特に伊勢平定や関東進出に絶大な貢献をした滝川一益を輩出した滝川氏の本城と伝えられる。瀧川城は檪野川南岸の丘陵に所在し、滝川一益が一時居城したとも、生誕地であるとも伝えられる。

1570年織田氏の六角氏追討戦で一益の同胞の甲賀武士は瀧川城に籠城し、六角氏に味方した為、瀧川一益が甲賀武士を攻める大将として選ばれ、親族同胞と戦い瀧川城を落城させ甲賀武士団を壊滅させた。瀧川城は、戦国の世の習いを語り継ぐ悲話の城である。

  

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城、日本城郭体系

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牧村城(牧館)  近江国(近江八幡)

2016年02月19日 | 平城

お城のデータ

所在地:滋賀県近江八幡市牧町 http://yahoo.jp/X9roqe

別 称:牧館

現 状:集落、宅地

区 分:居館

築城期:南北朝期(明応七年(一四九八年)

築城者:九之里三郎右衛門高雄が伊賀守形部少

遺 構:

標 高:87m  比高差:-

目標地:五社神社・牧町バス停

駐車場:五社神社前駐車場スペース

訪城日:2016.2.18

お城の概要

 蒲生郡牧村は琵琶湖岸にある岡山はかつて水茎内湖の湖中に浮かぶ島だった。昭和19年に干拓が始まるまでは、内湖はほぼ絵図のままであった。岡山の南東1kmの位置し、小さい集落に五つもの寺院がある。歴史の重ねた集落。

お城の歴史

蒲生郡牧村は琵琶湖岸にある岡山はかつて水茎内湖の湖中に浮かぶ島だった。ここに南北朝時代建武3年足利尊氏が六角時信に湖上交通の監視所を儲けさせて以来、織田信長の近江侵入まで、島全体が佐々木六角氏の支城であった。

九里」という名称は古く鎌倉時代から、当地(現・近江八幡市金剛寺町)に住んでいた豪族で九里氏より付けられたと言われています

九里(くのり)氏は藤原氏の流れと伝えられ享徳二年(一四五二年)東大寺文書に記録では伊庭氏の又代官九里冶任の名が残っています

明応七年(一四九八年)金剛寺居館の佐々木六角の臣九之里三郎右衛門高雄が伊賀守形部少輔と名乗り岡山村牧の岡に移封されたが当地の館はそのまま所領となる

大永三年(一五二三年)牧の岡城にいた伊庭九里の両氏は佐々木氏反抗同年十二月二十日佐々木の居城である観音寺城に進まんとしたが城兵が黒橋に出て防ぎ両軍血戦の結果、伊庭氏九里氏(九里三重朗)は戦死いたが九里村が残りました。

牧村を含む一帯は六角氏の重臣伊庭氏の支配地、明応8年(1499)伊庭氏の被官九里氏が、新封地として入部し牧館(牧村城)を築いた。

永正5年(1508)京を追われた足利11第将軍義澄は伊庭氏と九里氏を頼り、これを迎えるために岡山城の本格的築城がなされた。城主は九里氏(城番だったか?)この城で足利12第義春は産まれ、善澄は病死した。伊庭氏の反乱などいろいろ絡み伊庭・九里連合軍は何度か戦い、ついに滅びた。

牧村周辺での「浅井」の記録

 江北では、天文年間に佐々木京極氏から実質的支配権を奪った浅井亮政は江南の六角と対立していた。浅井軍は大永5年(1525)伊庭氏の要請で船路旧伊庭領に進出し六角軍を挟撃を謀ったがならなかった。浅井軍は島村に上陸した。

島村長命寺の「殻屋寺」(天台宗)は1547年頃春庭市慈尼の開山(浅井亮政の姉妹)で、浅井長政の三女小督が徳川秀忠室だった縁で徳川幕府との関わりも深かった。

牧村の位置は、現・牧町の位置と同じかが不明だ。近江国は今まで何度か大地震と大水害に襲われている。文禄5年(1596)の大地震で琵琶湖水位は1.5mも上昇し、生活面も移動したかも?。津田内湖この際に形成された。

 野洲川宮が偲ばれる五社神社

下照姫命と思兼命を祀る五社神社~かつて「野洲之宮」と呼ばれる宮があった!

  • 今から160万年前、野洲川周辺に「野洲の宮」と呼ばれた宮があったという。  昼子姫(稚姫君神・下照姫)が夫の思兼命とともに天之忍穂耳尊の養育にあたられた場所である。
     同時に『秀真伝(ほつまつたゑ)』でいう天之誓約が昼子姫と素盞鳴命の間でなされた場所である。
     天之誓約の場所には2ヶ所ある。
     神が人体をもって現れる前の天之誓約の場所と、人体をもって現れたあとの天之誓約の場所だ。
     五社神社を「野洲の宮」というには野洲川から位置的に離れていると思うが、「下照姫命と思兼命」を祀っているところを見ると、五社神社の創祀に神代の記憶が想起されてきているのかもしれない。
     遠い神代の記憶を偲ぶ姿勢に霊線が通るものだと思う。

比定地は畑が営まれている


水茎岡山城 近江八幡市牧町 187m

 当地域は万葉集にも謳われる景勝地で古くから多くの人々を魅了してきたところです。
室町幕府の将軍争いにより、都を後にした11代将軍の足利義澄(よしずみ)が地方の武士であった九里浄椿(くのりじょうちん)に助けを求めたことから、当地に城が築かれることになりました。
現在は干拓され陸続きとなっていますが、以前は周囲が湖に囲まれていたため浮城でした。琵琶湖を知り尽くした彼らは、数に勝る幕府軍の攻撃を撃退し、逆に京都へ攻め上がる計画を立てていましたが、義澄の急逝などの不運もあり和議を結びましたが、後に、奇襲攻撃に遭い篭城の末、落城しました。
命を救われた九里でしたが、落城から2年後、当地で生れた亀王丸(足利義晴「よしはる」)が12代の将軍に就いたことを知り、思い残すことはないと自刃しました。
将軍に忠誠を誓い戦国の世に散った悲運の武士の舞台となった岡山城は、歴史的にはわずか13年の短い城でした。昭和57年に地元有志により供養塔などが設置されました。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、近江八幡市の牧町の歴史、遺跡ウォーカー 

 本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


舟木城 近江国(近江八幡)

2016年02月17日 | 平城

比定地旧道添い

お城のデータ

所在地:近江八幡市船木町 http://yahoo.jp/6OrhcE

区 分:平城

現 状:宅地

築城期:室町期

築城者:舟木氏

遺 構:不明

目標地:西願寺

駐車場:西願寺駐車場利用

訪城日:2016.2.18 

お城の概要

  • 近江八幡市の中央部に船木があり、北側に長命寺山、鶴翼山が琵琶湖と隔てています。市の名にもなった日牟礼八幡宮が鎮座、琵琶湖には大島(沖ノ島)があります。大國主命と奧津嶋比賣命を祭る 大島奥津島神社も有名な神社です。
     船木町には青根天満宮が鎮座、菅公以外に訶志古泥命を祭神としています。神社名の青根の「青」に、「多」を感じます。
     小船木町には諏訪神社。 加茂町には加茂神社、山城の上賀茂神社とのかかわりが深い土地柄です。
     
     船木湊は琵琶湖東岸の要港の一、用材を積み出す湊だった。舟木:昔船の用材を集散したところからその名が出たといわれる鍛冶屋町が隣接しています。造船も行われていたのかも。

     八幡神社の多くは山城、石清水八幡宮の勢力の浸透によるもの。 近江商人産出の地。
     縄文時代には湖底だった地域、旧石器遺物や丸木船が出土しています。『滋賀県の地名』によりますと、「湖東は渡来系氏族の本拠地とも言うべき地」としています。朝鮮人街道があり、小船木はこの街道沿いに集落が出来ています。

お城の歴史

『佐々木南北諸氏帳』に「神崎郡(蒲生郡か?) 舟木 住 佐々木末 舟木重兵衛氏信・間宮若狭守信参」と記す。

䕃涼軒日録』に、船木陣所 明応元年10月22日条 「此日在江州舟来之陣所」と記す。

 応仁の乱が始まると、六角政尭は還俗して、京極持清の招きによって東軍に加わった事から、政尭に六角宗家を奪われていた高頼は西軍につく事になり、また政信は、高頼と宗家を争った間でありながら、政尭が父の仇であると憎む気持ちから、政尭に抗して、山名党に与するという事になった。しかし、高頼と政信は、もともと宗家を争う関係であったから、やがて政信は高頼とも袂を分かって、のちには、東軍に転ずるようになっていく。明応元年10月17日 六角高頼、六角政尭と馬淵で戦う。

 六角高頼討伐に従軍して近江に在陣していた明応元年(1492)3月、およそ4000人といわれる六角氏の牢人衆との愛智河原における大合戦に、元信の命で安富筑後守元家の軍に加勢として加わりながら、友軍の織田敏定・浦上則宗らがわずか7800人の軍勢で力戦するのを、なぜか山上に陣取ったまま見物していたと伝えられる逸見弾正の名がみえ(『蔭凉軒日録』同年四月朔日条)、同年9月初めには彼は草津の武田軍陣中でおこった青地某との争闘で手傷を負い、まさに討たれようとしたところを助けられたという(同 同年9月5日条、『後法興院記』同年9月8日条)。これは宗見亡きあとの逸見氏を率いた人物とみられ、おそらく三郎国清その人であろう。

『蔭涼軒日録』(いんりょうけんにちろく)(おんりょうけんにちろく)ともいう。京都相国寺鹿苑院 (ろくおんいん) 内の蔭涼軒主の日記。 61冊。季瓊真蘂 (きけいしんずい) ,益之宗箴 (えきしそうしん) ,亀泉集証 (きせんしゅうしょう) ら3代にわたる公用日記。

西願寺西願寺はヨシぶき屋根が象徴ですが、理由があると伝わります。それは、豊臣秀次公がご失脚の折、本堂が取り壊されないよう豪華な屋根瓦にせず、仮本堂という名目で(ヨシぶき屋根のまま)保存され、災難をまぬがれたと云われます。先人の知恵で現在の美しい景観が残されています。

 比定地付近【宅地化で遺構消失か!

 

 

 

ご参詣・境内のご案内

 

1 本堂屋根の秘密 ~隠れミノだったヨシぶき屋根~

西願寺はヨシぶき屋根が象徴ですが、理由があると伝わります。それは、豊臣秀次公がご失脚の折、本堂が取り壊されないよう豪華な屋根瓦にせず、仮本堂という名目で(ヨシぶき屋根のまま)保存され、災難をまぬがれたと云われます。先人の知恵で現在の美しい景観が残されています。
葦葺き
葦葺き
葦葺き
平成20年 ヨシ変えの風景

 

2 本尊・阿弥陀如来の白毫(びゃくごう)~数珠玉の白毫(びゃくごう)~

仏さまの眉間にあるホクロのようなものは白毫(びゃくごう)と呼ばれ、慈悲を表す毛の塊(かたまり)です。通常、 白毫の部分には専用の水晶玉が用いられますが、西願寺のご本尊は、訳あって透明の数珠玉がはめ込まれています。数珠糸を通す筋を見ることができます。
 
阿弥陀如来の白毫
本尊の白毫
 


阿弥陀如来
本尊・阿弥陀如来像

 

3 二十五菩薩来迎(らいこう)図 ~お1人足りない菩薩さま~

お骨仏の壁画は、二十五菩薩が描かれています。これは、念仏を唱えた者は臨終において25の菩薩によりお迎えを受けるとの故事からなります。しかし、当山の菩薩さまは24名しかいらっしゃいません。この意図は、お参りをされる方が菩薩のお1人と数えるのだと云います。あなたが菩薩様の一員として、故人にお祈りを捧げてください。
 

 


高野山までのマップ
西願寺からみた高野山
 
刺繍 毘沙門天発遣(はっけん)図(刺繍)


5 利剣名号と百万遍数珠 ~浮かびあがるお地蔵さま~

元文年間(江戸時代)に、この地方で疫病が大流行し、多くの住民が亡くなりまし た。当時の住職・薫譽(くんよ)上人は、地蔵菩薩から夢のお告げで、利剣名号(筆先が剣文字の南無阿弥陀仏)の軸と、寺内の木で百万遍数珠を作り、念仏を唱えよと賜りました。この功徳により、病魔を退治したという霊験あらたかな念仏具です。後に、利剣名号の周りには、黒い地蔵菩薩が浮かびあがったと云われ、現在でも見ることができます。今も病気平癒や心願成就の為、数珠繰りをする風習が残っており、天上から吊り下げられた百万遍数珠を心を込めてお回し下さい。ご祈祷も受付ています。

夢に出てこられた地蔵菩薩
 


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利剣名号



数珠
百万遍数珠

祈願風景
祈祷風景
  1
薫譽上人


6 涅槃図(ねはんず)の猫 ~反省する猫~ ※2月1日~5月15日まで公開

涅槃図はお釈迦様がお亡くなりになった場面を表します。十二支にも猫がいないように、通常、涅槃図にもネコを描く風習はありません。一説によると、沙羅双樹にかかる薬をお釈迦様に渡そうとしたネズミを猫が食べてしまったからだと云われます。ネコが描かれる涅槃図は大変珍しく、西願寺涅槃図の猫は心なしか反省しているようにも見えます。

反省猫
大涅槃図

反省ネコ


7 薬師如来の功徳 ~火の玉になったお薬師さま~

薬師堂の開山は不明ですが、延寶4年(1676)正月7日に草譽(そうよ)上人によって再建されたと伝わります。廃仏毀釈で薬師堂は取り壊され、薬師三尊と十二神将は本堂に仮安置されますが、二十九世徹譽(てつよ)上人代に再々興されます。二十九世内室が往生の際、薬師堂より火の玉が飛び出し、西の方角に飛んでいったと近所の方が発見。見ると、金箔の薬師如来は黒くなり、西の方角にある樹木もその部分だけ枯れていたと伝わります。

トンネル
   薬師堂内から見た樹のトンネル
※現在は焦げたと云われる部分は刈り取られています。
 

薬師如来像
トンネル
刈り取る前の樹木(奥は薬師堂)
  トンネル
刈り取り後の樹木(奥は薬師堂)


近江一といわれた松 ~長寿松が観音さま~

その昔、西願寺には近江一といわれた松がありました。これは江戸時代、病魔退散の記念に薫譽上人が植えられた樹齢300年の松だったと伝わります。〔※七不思議の(5)参照〕
現在は跡地に長寿観音(ちょうじゅかんのん)が祀られ、生物の大切さを観音さまの形に変えて教えて下さっています。主に動植物の生命に関わるお仕事の方(獣医、狩猟、漁業等)や、最近ではペットの供養をされる方から厚く信仰されています。ペット供養も受付けています。

 

 
0
長寿観音
松
往年の松
 
松
現在の風景


番外2 仏像の遷座(せんざ) ~西願寺の仏像が他寺の御本尊へ~

江戸時代、この集落のお寺が火災により消失してしまいました。寺院は再建されますが、寛文2年(1662)、 そのお寺の住職・慶良聖人が「御本尊を西願寺から迎えよ」と夢のお告げを受け、当山の檀家・和泉重藏宅を宿として渡されたと伝わります。 その仏像は、西願寺の前身・満願寺時代から伝わる聖徳太子御作の阿弥陀如来立像(御丈(みたけ)2尺4寸)で あったと記録に残っています。




西願寺は拝観寺院ではありませんが、日時が合えば応対させていただきます。ご参詣希望の場合は、必ずご一報下さい。 合掌

 

 

 近くの八幡堀最西端部・・・舟木港はこの近くか?

八幡堀

 近江八幡の城マップ
近江八幡市内の主な城跡
1八幡山城宮内町 12久郷屋敷西宿町 23馬渕城 馬渕町
2浅小井城浅小井町 13倉橋部城 倉橋部町 24牧村城牧町
3宇津呂館 中村町 14小森城中小森町 25円山城円山町
4岡山城(水茎館)牧町 15金剛寺城(金田館)金剛寺町 26安土城下豊浦
5沖島尾山城沖島町 16田中江城 田中江町 27観音寺城(佐々木城)石寺、宮津
6沖島頭山城沖島町 17谷氏館(友定城) 友定町 28香庄館  
7沖島坊谷城沖島町 18 長光寺(瓶割城)長光寺町 29金剛寺城 慈恩寺
8長田城長田町 19西宿城 西宿町 30常楽寺城(木村城)常楽寺
9小田城(高畠氏館)小田町 20野村城野村町 31平井館下豊浦
10北津田城北津田町 21舟木城 船木町  
11北之庄城北之庄 22本郷城(久里城) 金剛寺町  

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、遺跡ウォーカー、淡海の城、近江八幡の城、西願寺HP

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戦国時代の甲賀~油日館・油日神社・滝川城・擽野寺

2016年02月16日 | 丘陵城

連続講座「近江の城郭」第4回 戦国時代の甲賀~上野城・滝川城

 甲賀地方は近江国の南東部に位置し、奥まった場所だったこともあって、守護六角氏の権力からは自立した勢力が展開した地域です。甲賀の人々は甲賀郡中惣と呼ばれる自治集団を組織し、自分たちの暮らす場所を自分たちで守り、経営していました。

こうした甲賀地方には約250ヶ所の城跡が残ります。この数字は、突出した権力が存在せず、人々が連合していたことを示しています。

今回の講座では、甲賀地方の城として上野城跡と滝川城跡を文化財専門職員の案内で御覧いただきます。

油日会館での講座から、参加しました!

講義:油日会館(甲賀市甲賀町油日2522)

現地見学:上野城跡・滝川城跡(甲賀市甲賀町油日・櫟野)

油日館

油日神社見学

滝川城へ

前堀・・・櫟野川山の神

櫟野寺参拝

擽野寺十一面観音坐像パンフレットをコピー

擽野寺如来菩薩坐像パンフレットをコピー

滝川西城

 日時 平成28年2月14日(日) 10:00~16:30

  場所 講義:油日会館(甲賀市甲賀町油日2522)

現地見学:上野城跡・滝川城跡(甲賀市甲賀町油日・櫟野)

3.行程 JR油日駅→上野城跡→油日会館(講義・昼食)→油日神社→滝川城跡→櫟野寺特別拝観→極楽寺→JR油日駅

 全行程約10km ※山登りあり

主催 滋賀県教育委員会 協力 甲賀市教育委員会

講師 講義「戦国時代の甲賀」 畑中英二(滋賀県教育委員会文化財保護課)

      現地探訪 甲賀市教育委員会歴史文化財課専門職員

櫟野寺特別拝観料450円が必要

 滋賀県教育委員会事務局文化財保護課城郭調査係

  〒521-1311 滋賀県近江八幡市安土町下豊浦6678 城郭調査事務所


大田館(赤田氏草野田館) 近江国(浅井・太田)

2016年02月16日 | 居館

 

お城のデータ

所在地 長浜市(東浅井郡浅井町)太田町 map: http://yahoo.jp/4E8NaA 

別 称:赤田氏草野谷館(所有者:個人)

区 分:居館

築城者:江戸初期

築城者:赤田氏

遺 構:櫓台、土塁、切岸、横矢掛かり

目標地:大田バス停

駐車場:路上駐車(空地)

訪城日:2016.2.11

お城の概要

 旧浅井町の東部に位置し、草野川西岸に営まれた集落で、背後には急峻な山地が迫っている。その山地から張出した微高傾斜地を整形し、住居が建ち並び、通路や切岸などで三区に区分されている
光信寺敷地や中段は切岸が発達し、下段の外縁は堀跡と思われる水路が囲繞している。下段の東面中央には両横矢のように西へ半月状に入り込んでいる。中段の北西隅には山地から南東方向に舌状高台が張出し、上部は三段に削平され、最上段の東側には山地から坂土塁が伸び、その外側は急斜面となる。この高台は櫓台で、中段が主郭、下段が外郭の砦と見ることができ、ほぼ集落と重なり「里城」のようである。
地籍図によると、高台に「西屋敷」、中段中央部に南屋敷、中段東側の一画に「中屋敷」の地名が残る。

お城の歴史

 赤田氏の家伝や近江の地誌類から、赤田家はもともと犬上郡曽我村(現在の多賀町木曽)の土豪で、戦国中期に犬上郡八町(現在の豊郷町八町)に移ったと考えられています。

『嶋記録』や『山中文書』によれば、赤田氏は戦国大名浅井氏の家臣として、永禄九年(1566)の六角氏との合戦で活躍しました。

 その時代の当主は信濃守「興」でしたが永禄十一年(1568)に戦死し、その子信濃守「賢」は姉川合戦で活躍しています。浅井氏滅亡後、「賢」の次男に当たる勘兵衛は、八島にあった赤田氏「出張り屋敷」(小谷城下の屋敷)から、領地があった草野田村(現在の太田町)へ移住しましたが、この家系が赤田氏庭園の所在する草野赤田氏の始祖と言われています。

 庭園は西から東へと緩く傾斜する地形に随って造形され、中央に広く池を穿ち、池の西と南に築山を配しています。築山は、西側は切土による法面を利用して山並みをうねらせ、南側は盛土で築き東西の隅をとくに高くしています。家屋側から見た池は、手前が広く左奧に深く続くが、中程右手側に岬状の突出部を設け、その右奧に入江状の部分を設けるなど、構成に工夫を凝らしています。全体に石組を主体とする池泉で、池中には中島と浮石を配し、庭の南西隅より引かれた水が池右奧に滝となって落ちています。現在は庭に落とす水はこの一箇所だけですが、池の北西隅にも導水路があり、以前はここからも水を注いでいたと言われています。池の水は東南隅の築山と石垣の下を潜る水路から表門側の水路へと排水していますが、この葦葺の表門が庭園に趣を添えています。そして、池に対する母屋前には、露石敷を配し右手には手水鉢を設けています。

 庭園の奧に向かって次第に広がる空間構成や、敷地が奧側で狭小な印象となることを回避し、庭園としての広がりを意識させる工夫を見ることができます。

 作庭時期及び作庭者は不明ですが(小堀遠州が若い頃作庭を学んだと)、江戸初期に赤田氏が社会的に地位が高く、経済的にも裕であったこと、また、江戸初期の庭園の特徴である石組を主体とする構成で、要所に立石を配し、全体のバランスも程良く造作されていることなどから、江戸時代前期の作庭と考えられています。
 名勝庭園の多くが寺院の庭であるのに対し、在家の庭として大変貴重です。 

 表門(南側から望む)※表門の左に見える林が庭園

庭園(家屋側(北側)から望む)※庭園の左奥に表門がある。

中段の東面切岸 

赤田氏 草野谷館

下段の南部に所在する草野谷館(犬上郡八町城主赤田氏の浅井領出張屋敷)永禄~天正年間の門

MAP

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、(『広報ながはま』平成27年2月1日号より

 本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


西村館 近江国(浅井)

2016年02月15日 | 居館

西村館の門

お城のデータ

所在地:長浜市(旧東浅井郡浅井町西村町 map

現 状:屋敷跡残存

区 分:居館

築城期:

築城者:

遺 構:屋敷門・曲廓・土塁・石碑

目標地:天満宮・西村バス停

駐車場:天満宮

訪城日:2016.2.11

 

お城の概要

草野川西岸に営まれた集落で、背後には急峻な山が控えている。

山麓に西光寺

 集落内は三段に削平して住居が建ち並び、このうち天満宮・公会堂。現西村家を含む一帯が本郭であったと思われる。

 特に現西村家は門のみ屋敷地の東側は約1,5mを測る比高差をもって落ち込み、その下に水路で遮断している。また、南には幅約1,5m、高さ約1mを測る土塁が設けられている。

西村哲男翁之碑居館の南東隅部

 

 一方、天満宮、公会堂の位置する地区も。傾高地の張り出し部と思われるが、東側は、約2mの落ち込みを見せている。

 集落の北側は河川で遮断された防禦の構えをみせており、堀跡に間違いないであろう。

背後の山尾根には一部切り岸が伴う削平地や土橋状地形が存在するが、西村集落の砦の可能性もある。

天満宮の境内に西村公会堂

 

お城の歴史

中世の城館遺跡であるが、詳細は不明である。

伊香荘(古代〜中世)西村哲尾氏所蔵文書) 

 平安期から見える荘園名伊香【いかご】郡のうち余呉【よごの】荘の南、富永荘の北に位置する現在の伊香【いか】郡木之本【きのもと】町西山・大音【おおと】・黒田・木之本・千田・古橋・川合・大見・杉野あたりに比定されている延久2年「弘福寺領近江国荘田注進」(平遺1044)によれば大宝年間以前に斉明天皇の勅施入で成立したものとされているこの注進には荘田として18条4里・5里に10町2反236歩とある弘福寺領伊香荘と連続するかどうかは不明であるが、13世紀から14世紀にかけては皇室御領伊香荘が存在し、一方では六条院領として室町院に相伝され、持明院統の伏見院・花園院に伝領され、一方では浄金剛院領として後嵯峨院―大宮院―亀山院―昭訓門院―昭慶門院と相伝され大覚寺統の所領ともなっていたようである(室町院御領目録・昭慶門院御領目録など)一方、暦仁元年「四条天皇宣旨案」、建治2年「後宇多天皇宣旨案」によると天台座主の相伝の所領のなかに「近江国伊香勅旨」なるものが見えている(鎌遺5346・勝尾寺文書)また、正中2年の「承鎮法親王付属状」には五仏院領として「近江国伊香荘,妙臨寺」が記録されている(三千院文書)さらに南北朝期の文和2年近江北郡に散在する梶井宮門跡領が、山内定詮によって違乱をうけたが、この中にも「伊香庄号五位庄 妙臨寺」の名が見える(菅浦文書771)あるいは建長2年「九条道家惣処分状」には「近江国伊香古庄」とある(鎌遺7250)「荘園志料」は伊香荘を「イカゴ」と記し、「伊香古に作る」としているそこでこれらの諸史料を伊香郡伊香荘であるとすると、鎌倉期には皇室御領として存在するとともに、その間に一部は摂関家領、延暦寺領として相伝されることもあったようであるその後康永元年花園院は伝領した室町院遺領を直仁親王に相伝したが、直仁親王は近江国伊香荘内黒田郷・古橋郷・石作郷等を妙心寺に寄進している妙心寺は応永の乱により寺領を没収されたが、黒田郷等は南禅寺領となった文安元年妙心寺は再興し、黒田郷等は返付されたが、このとき黒田郷等をめぐって南禅寺徳雲院末寺竜雲寺と相論を展開している(妙心寺文書)また黒田郷・古橋郷については「伊香荘内」とある場合と、「近江国中荘内」と記されている場合があり(妙心寺文書)、嘉暦4年「公文、実験使等連署状」には「中庄椙野郷」と見え(横山神社文書)、応永5年「足利義満御判御教書案」には「近江国伊香中庄」とある(佐々木文書)これらを勘案すると伊香荘は伊香中荘・中荘ともいったようである15世紀から16世紀には京極氏の支配するところとなり、続いて国人・土豪勢力の拮抗する状態が続き、

やがて浅井氏の支配下に入るに至ったそしてこの頃には「伊香荘」「中荘」なる文言はあまり見られなくなり,地域を示すにはもっぱら「古橋郷」などという「郷」名が多く用いられており,荘園としての歴史は終焉したようである天正元年浅井氏滅亡後は江北一帯は羽柴秀吉の領するところとなったが,天正13年山内一豊が近江長浜に入り,旧伊香荘の地域では大音33石・黒田130石・古橋440石等々を知行した(山内文書/東浅井郡志4)天正18年には石田三成が佐和山城に入り、以後江北を領したが,この地域はその配下に属したようである(高橋末治郎氏所蔵文書・西村哲尾氏所蔵文書)関ケ原合戦後、慶長7年この地域一帯に小堀新介の検地が実施され、近世の徳川氏の支配体制に組み込まれていった慶長7年検地帳は西山・大音・木之本・千田の地に現存している。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、

    本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


本能寺の変~山崎の戦い

2016年02月15日 | 古戦場

4月3日辛卯(1582年4月25日)

  • 信長、六角次郎を匿ったとして恵林寺を焼き、国師快川和尚を焚殺する。

4月24日壬子(1582年5月16日)

  • 信長、細川藤孝らに備中高山に楯籠る小早川隆景の討伐出勢を命じる。光秀、その旨を伝達する。【明智光秀のすべて】

5月4日辛酉(1582年5月25日)

  • 正親町天皇、勅使を遣わして信長に将軍任官・幕府開設を勧めるが、信長応えず。

5月7日甲子(1582年5月28日)

  • 秀吉、毛利方の清水宗治を高松城に囲む。
  • 信長、神戸信孝に四国出陣を命じ、信孝に讃岐、三好康長に阿波を与えることを約す。

5月14日辛未(1582年6月4日)

  • 先の甲斐征討の論功行賞で家康は駿河を、穴山梅雪は旧領を安堵されたが、その礼を述べるために近江に入った。惟住五郎左衛門(丹羽長秀)が宿舎を準備し接待した。【信長公記(桑田)】(家康の安土伺候は、自らの積極的な意志ではなく、信長の懇請によるものであったとされる
  • 織田信忠が上洛の途中、ばんばに立ち寄り暫く休息した。惟住五郎左衛門が酒肴の接待をする。信忠はその日の内に安土へ出発。【信長公記(桑田)】(信忠は、四国の長宗我部元親討伐のため、大阪に向かう途中)

5月15日壬申(1582年6月5日)

  • 家康一行は安土に到着。【信長公記(桑田)】
  • 信長の指示で、宿舎は大宝坊とし接待のことは惟任日向守(光秀)に仰せつけられた。光秀は京都・堺から珍しい物を取り寄せるなどして、15日から17日までの3日間、非常に念の入った接待であった。【信長公記(桑田)】(主要な家臣が各地に敵を抱えて不在であったため、休暇中の光秀が饗応役を命じられた一説には、家康が光秀を所望したとするが、不明
  • 秀吉は毛利方の将清水宗治の守る備中高松城を囲み、足守川を堰止めて水攻めすることにした。そこへ毛利輝元・吉川元春・小早川隆景の軍勢が高松城援護に駆けつけるという情報がもたらされた。
    信長は「この度、毛利方は間近にまで陣を進めるということである。これは天の計らいであるから、自ら出陣して中国の歴々を討ち果たし、一挙に九州までも平らげる、またとない機会となるであろう」と述べて、堀久太郎を御使として羽柴筑前方へその旨を伝ると共に、惟任日向守・長岡与一郎(細川藤孝)・池田勝三郎・塩河吉大夫・高山右近・中川瀬兵衛は先陣として出勢するよう指示し、すぐさま御暇(現在担当している任務を解くこと)を下された。【信長公記(桑田)】 

5月17日甲戌(1582年6月7日)

  • 光秀は安土より坂本に帰城し、それ以外の面々も帰国して、出陣の用意に取り掛かった。【信長公記(桑田)】(光秀の家康饗応が何日までの予定であったのかが不明で、そのため、「役を終えてから帰城した」「途中で役を免じられた」、という二つの解釈がある。後者は、それが光秀の面目を潰す結果となり、決起の原因となったという説の根拠に挙げられている

5月18日乙亥(1582年6月8日)

  • 光秀、信長から家康供応の内容を叱責され、森乱丸ら小姓に打擲される。【明智軍記】【明智光秀のすべて

5月19日丙子(1582年6月9日)

  • 信長は、家康一行の道中の労をねぎらうために、安土山惣見寺において幸若八郎九郎大夫の舞や丹波猿楽・梅若大夫の能を舞わせることにした。桟敷では近衛・信長・家康・穴山梅雪・長安(楠木政虎)・長雲・友閑・夕庵(武井爾云)、土間では御小姓衆・御馬廻・御年寄衆・家康公の御家臣衆などが見物した。【信長公記(桑田)】
  • 光秀、家康供応役を罷免される。【明智軍記】【明智光秀のすべて】

5月20日丁丑(1582年6月10日)

  • 惟住五郎左衛門・堀久太郎・長谷川竹・菅谷玖右衛門の四人に家康接待の用意を命じた。高雲寺御殿で、家康・穴山梅雪・石河伯耆・酒井左衛門尉、その外家老の衆に食事を出し、忝けないことに信長自らも膳を共にして、敬意を表した。食事が済むと家康と供の人達を残らず安土城に案内して、帷を贈るなど、大変心の籠った接待であった。【信長公記(桑田)】

5月21日戊寅(1582年6月11日)

  • 家康一行、上洛。
  • 信長は、家康が上洛し京都・大阪・奈良・堺をゆっくりと見物できるようにと、長谷川竹を案内役に、大阪での接待を織田七兵衛信澄・惟住五郎左衛門に命じた。このため二人は大阪に到着した。【信長公記(桑田)】(二人はすでに四国出陣のため大阪にあった)
  • 信忠は上洛し、妙覚寺を宿所とした。

     

5月26日癸未(1582年6月16日)

  • 惟任日向守は中国出陣のため坂本城を発ち、丹波亀山城の居城に入った。【信長公記(桑田)】(坂本に入ったのは17日で、この日までの10日間の消息がまったく不明)

5月27日甲申(1582年6月17日)

  • 光秀、愛宕山に参詣し籤を引く。【信長公記(桑田)】 

5月28日乙酉(1582年6月18日)

  • 光秀は西坊で里村紹巴・西坊行祐らと連歌を興行した。発句は惟任日向守。
    【日本古典集成】に依れば、([愛宕百韻])
      ときは今天(あめ)が下しる五月哉 光秀
      水上まさる庭の夏山 西坊
      花落つる池の流れをせきとめて 紹巴
    【信長公記(桑田)】では、
      ときは今あめが下(した)知る五月哉 光秀
      水上まさる庭のまつ山 西坊
      花落つる流れの末を関とめて 紹巴
    であったという。
  • 百韻を神前に納め、光秀は亀山城に帰城。【信長公記(桑田)】

5月29日丙戌(1582年6月19日)

  • 信長が上洛、安土本城の留守番は、津田源十郎・賀藤兵庫頭・野々村又右衛門・遠山新九郎・世木弥左衛門・市橋源八・櫛田中兵衛、二の丸の御番衆は、蒲生右兵衛大輔・木村次郎左衛門・雲林院出羽守・鳴海助右衛門・祖父江五郎右衛門・佐久間与六郎・蓑浦次郎右衛門・福田三河守・千福遠江守・松本為足・丸毛兵庫頭・鵜飼・前波弥五郎・山岡対馬守らに命じ、小姓衆二三十人(百五六十騎【当代記】)を召し列れての上洛であった。「直ちに中国へ向かえるよう用意をして、連絡があり次第出陣せよ」との命令で、そのため今回は供が(小姓衆を除いては)いなかった。【信長公記(桑田)】
  • 吉田神社の神主吉田兼和は信長上洛の迎えに山科まで出向いて数時間待った。午の刻(正午ごろ)から雨が降り出した。そこに森長定が出迎えは無用である旨を知らせて来たので急いで帰った。【信長襲殺】
  • 公家の勧修寺晴豊は信長上洛の迎えに粟田口まで迎えに出たが、出迎えは無用との知らせが入ったので帰った。【信長襲殺】
  • 信長は申の刻上洛した。【信長襲殺】
  • 長谷川秀一は家康一行の堺遊覧に同行していた。
  • 松井友閑が堺での家康一行接待の分担を決め手配した。家康一行は津田宗及宅で昼茶席の接待を受け、松井友閑宅に泊った。【宗及】【信長襲殺】 

6月1日丁亥(1582年6月20日)

  • 権大納言甘露寺経元・勧修寺晴豊は、正親町天皇と皇太子誠仁親王の勅使として、信長の上洛を賀すために本能寺に出かける。その他の公家衆も各自挨拶に出向き村井貞勝を通じて信長に対面するが、進物は受け取らないということで出さなかった。【信長襲殺】(この日、40人ほどの公家・僧侶が揃って本能寺を訪れている。そこで、信長秘蔵の茶器が披露されたという)(名物茶器を京都まで運んだのは、・・・家康をはじめ諸大や公卿を対象とした大茶会を催し、その場で名物茶器を披露せんとしたと考えざるをえない。【信長安土】)
  • 夜に入り、丹波国亀山にて、惟任日向守光秀、逆心を企て、明智左馬助・明智次右衛門・藤田伝五・斎藤内蔵佐、是れ等として、談合を相究め、信長を討ち果たし、天下の主となるべき調議を究め、亀山から中国へは三草(山)越えを仕り候ところを、引き返し、東向きに馬の首を並べ、老の山へ上り、山崎より摂津の国の地を出勢すべきの旨、諸卒に申し触れ、談合の者ども(明智左馬助・明智次右衛門・藤田伝五・斎藤内蔵佐)に先手を申しつく。【信長公記(桑田)】

6月2日戊子(1582年6月21日)

    (本能寺の変)
  • 老の山へ上り、右へ行く道は山崎天神馬場、攝津国の皆道(街道)なり。左へ下れば、京へ出ずる道なり。爰(ここ)を左へ下り、桂川打ち越え、漸く夜も明け方に罷りなり候。既に、信長公御座所、本能寺取り巻き、勢衆、四方より乱れ入るなり。【信長公記(桑田)】
  • 信長も、御小姓衆も、当座の喧嘩を下々の者ども仕出し候と、おぼしめされ候のところ、一向さはなく、ときの声を上げ、御殿へ鉄砲を打ち(撃ち)入れ候。【信長公記(桑田)】
  • 是は謀叛か、如何なる者の企てぞと、御諚のところ、森乱(森長定)申す様に、明智が者と見え申し候と、言上候へば、是非に及ばずと、上意候。【信長公記(桑田)】
  • 隙もなく直ちに御殿へ乗り入れ御面堂の御番衆も御殿へ一手になられ候て御馬屋より、矢代勝介、伴太郎左衛門、伴正林、村田吉五が切って出て討死。【信長公記(桑田)】
  • 小河愛平、高松虎松、金森義入、魚住藤七、武田喜太郎、大塚又一郎、菅屋角蔵、狩野又九郎、蒲田余五郎、今川孫二郎、落合小八郎、伊藤彦作、久々利亀、種田亀、針阿弥、飯河宮松、山口弥太郎、祖父江孫、柏原鍋兄弟、平尾久助、大塚孫三、湯浅甚介、小倉松壽らの御小姓衆掛かり合い、懸かり合い討死候なり。この外、厩仲間衆の藤九郎・藤八・岩新六・彦一・弥六・熊・小駒若・虎若・その倅の小虎若を初めとし二十四人が揃って御馬屋にて討死した。【信長公記(桑田)】
  • 御殿の内にて討死された衆、森乱丸、力丸、坊丸の三兄弟。【信長公記(桑田)】
  • 織田信忠、一旦は妙覚寺を出て本能寺に向かうが、下御所(二条城)に移り討死。【信長公記(桑田)】
  • 朝、家康一行は信長に合うため堺を出たが、「変」を知らせるため堺に向かった京の豪商茶屋四郎次郎と遭い、一旦帰国することを決意。宇治田原に向かう。
  • 午後4時、瀬田城主山岡景隆は、光秀の安土進軍を阻止しようとして、瀬田の大橋を焼き払う。【明智光秀(高柳)】
  • 夕、光秀は坂本城に入った。【明智光秀(高柳)】
  • 備中に向かっていた細川藤孝・忠興父子は、但馬竹田(兵庫県朝来郡和田山町)で変報に接し、すぐに引き返した

6月3日己丑(1582年6月22日)

  • 光秀は近江・美濃の諸将に降誘を勧める。【明智光秀(高柳)】
  • 細川父子は丹後に戻り、忠興の妻であり、光秀の娘であった玉を、丹波三戸野の茶屋に移した。(既にこの時、細川父子は秀吉に対して、光秀の求めには応じないことを伝えていたようである)
  • 安土城の守将蒲生賢秀は、変報を聞き、信長の側室らを日野に移す。
  • 信楽で一宿した家康一行は、伊賀越えで伊勢に向かった。同行していた穴山梅雪は、家康一行に遅れて出発、途中、伊賀の一揆に殺される。
  • 柴田勝家、上杉方の魚津城を落とす。
  • 夜、光秀から小早川隆景に宛てた密書が奪われ、秀吉は、本能寺で信長が倒れたことを知る。(【武功夜話】には、細川藤孝からの密書によって、秀吉が「変」を知ったとある)
  • 深夜、秀吉、安国寺恵瓊を呼び、高松城主清水宗治の切腹と毛利領備中・美作・伯耆の譲渡を和睦の条件として提示し、信長の死を秘しながら、和睦を急ぐよう指示する。 

6月4日庚寅(1582年6月23日)

  • 光秀、近江・美濃の大半を平定する。【兼見卿記】【明智光秀(高柳)】【明智光秀のすべて】
  • 大和筒井順慶、光秀の援軍を山城に派遣する。【多聞院日記】【明智光秀のすべて】
  • 高松城主清水宗治が切腹、秀吉と毛利の和睦が成る。【明智光秀(高柳)】
  • 柴田勝家、「変」を知る。
  • 家康、伊勢の白子から船で三河大浜に上陸し岡崎城に入る。【明智光秀(高柳)】
  • 上杉景勝、「変」の報を聞き、退却する柴田・佐々・森らの手から川中島や魚津城を取り返し、信長に応じた新発田重家を攻める。
  • 筒井順慶、光秀に援軍を送る

6月5日辛卯(1582年6月24日)

  • 光秀、安土城を占領し、財宝を部下や新たに従属した諸将に分け与る。【兼見卿記】【明智光秀(高柳)】【明智光秀のすべて】
  • 更に、阿閉貞征に長浜を、武田元明に佐和山城を攻略させ、占領する。【明智光秀(高柳)】
  • 光秀の軍に筒井順慶の援軍が合流する。【多聞院日記】【明智光秀のすべて】
  • 織田信澄は織田信孝・丹羽長秀・蜂屋頼隆らに攻められ自殺する。
  • 2:00pm、秀吉は暴風雨の中東上を開始。

6月6日壬辰(1582年6月25日)

  • 吉、備中高松から姫路城に到着(7日未明或いは8日早朝の誤りか)。【明智光秀(高柳)】
  • 光秀、安土城に入り、上杉景勝に使者を送って後援を依頼する。 

6月7日癸巳(1582年6月26日)

  • 光秀、安土に勅使吉田兼見と面会する。【兼見卿記】【明智光秀(高柳)】【明智光秀のすべて】
  • 光秀、摂津河辺郡開連寺に禁制を出す。【渡辺重雄文書】【明智光秀のすべて】
  • 秀吉、未明に姫路城に到着(或いは8日早朝)。 

6月8日甲午(1582年6月27日)

  • 光秀、安土より坂本に入る。【明智光秀(高柳)】
  • 光秀、摂津攻略のため安土を出発。先勢大津・山科に着陣。また、禁裏の使者派遣を受ける。【兼見卿記】【明智光秀のすべて】
  • 光秀、上京し、銀子を禁中・諸寺に献ず。次いで、鳥羽に出陣する。【明智光秀(高柳)】
  • 光秀、細川藤孝・忠興父子に書を与えて参加を望むが、父子応ぜず。【明智光秀(高柳)】 

6月9日乙未(1582年6月28日)

  • 光秀、未(2:00pm)に上洛し、使者派遣の礼として、銀子を禁中及び諸寺に献じ、京都市中の地子免除を布告する。【兼見卿記】【明智光秀のすべて】
  • 光秀、配備の手配後、夕方、下鳥羽に出陣する。【明智光秀のすべて】
  • 光秀、丹後国宮津城にいた細川藤孝・忠興父子に手紙を送り、改めて助勢を依頼する。【細川文書】
    「御父子もとゆい御払候よし、もっとも余儀なく候。一旦我らも腹立ち候へども、思案候ほど、かようにあるべきと存じ候。然りといへども、此の上は大身を出だされ候て、御入魂希ふところに候事(一部)」【明智光秀(高柳)】
  • 筒井順慶は、秀吉上洛の情報を得て、河内出陣を中止し、居城大和郡山城に米・塩を入れ、籠城の準備を始めた。
  • 秀吉、浅井長吉を留守居役とし、一部を淡路洲本攻略に向かわせ、姫路を発し播磨明石に着陣する。

6月10日丙申(1582年6月29日)

  • 光秀、河内に出兵す。【兼見卿記】【明智光秀(高柳)】【明智光秀のすべて】
  • 光秀、藤田伝五を筒井順慶のもとに派遣する。洞が峠に陣し順慶の参会を待つが、順慶は、同心できない旨を伝え、引き上げてしまった。【多聞院日記】【明智光秀(高柳)】【明智光秀のすべて】 

6月11日丁酉(1582年6月30日)

  • 光秀、下鳥羽に移る。筒井順慶の説得を諦める。急遽、淀城の修理・普請に掛かった。【兼見卿記】【明智光秀(高柳)】【明智光秀のすべて】
  • 筒井順慶は、秀吉に応じることを使者を以って伝える。
  • 秀吉、摂津尼ケ崎に到着。大坂にあった織田信孝・丹羽長秀や、光秀の寄騎伊丹城主池田恒興・茨木城主中川清秀・高槻城主高山右近らに参陣を求める
  • 秀吉軍の一部は、山崎付近にまで出ており、勝竜寺で足軽同士が衝突、鉄砲の打ち合いがあった。
  • 岡崎の家康は、大雨のため出陣を延期する

6月12日戊戌(1582年7月1日)

  • 秀吉は池田恒興らと協議し、高山重友・中川清秀を先鋒とし、使者を大阪城に遣わして織田信孝・丹羽長秀の参陣を求める。秀吉、摂津富田に着陣。
  • 秀吉、摂津に攻め上り山崎付近に兵を出し、勝竜寺付近を焼き払う。【多聞院日記】【明智光秀のすべて】
  • 光秀は、秀吉の東上を知り、急ぎ山崎に集結し、天王山を占領しようとするが、既に、秀吉方の先鋒中川隊によって占拠されていた。止むなく、勝竜寺城に入り、守備を固める
  • 光秀、八幡・山崎より淀に引き退く。【多聞院日記】【明智光秀のすべて】

6月13日己亥(1582年7月2日)(山崎の戦い)

  • 光秀軍は勝竜寺城を出、桂川支流の円明寺川に沿って布陣。総勢1万6千。
  • 秀吉軍に、昼頃、織田信孝らがに合流。山手(天王山側)を羽柴秀長・黒田孝高らの主力部隊、街道筋を高山重友・中川清秀・堀秀政ら、河手(桂川沿い)を池田恒興ら、予備(中央後詰め)は秀吉・信孝を配する。総勢3万5千から4万。
  • 申(4:00pm)頃、光秀軍山手先鋒の並河・松田隊が、天王山麓の先鋒中川隊を攻撃、戦端は開かれた。中川隊が防戦する間に、羽柴秀長・黒田孝高らが援護、並河・松田隊は敗れた。
  • 中央の高山隊に光秀軍の斉藤利三・阿閉貞征隊が猛攻をかける。このため高山隊は窮地に立たされるが、中川・堀隊が左翼から池田隊が右翼から明智軍の戦闘部隊を攻撃、斉藤・阿閉隊は後退する
  • 光秀軍予備の伊勢貞興・藤田伝五隊が右翼から、津田・村上隊が左翼から秀吉軍中央に向かい、一進一退の激しい攻防戦となった
  • 羽柴軍の後続部隊が戦闘に加入し、次第に戦力的な差が生まれ光秀軍は壊滅状態となり、7:00pm頃、光秀は退却を決意。光秀は勝龍寺城に兵7百余を引き連れ退いた。【兼見卿記】【明智光秀(高柳)】【明智光秀のすべて】
  • 秀吉軍は敗走する明智勢を追撃・掃蕩し、大軍を以って勝龍寺城を包囲。
  • 光秀は、再起を図るべく溝尾勝兵衛ら少数の近臣と共に勝龍寺城を抜け出し、坂本城に戻る途中、小栗栖(醍醐)で土民に襲われ自殺する。【兼見卿記】【明智光秀(高柳)】【明智光秀のすべて】

6月

  • 細川藤孝、剃髪し名を幽斎に改める。

6月14日庚子(1582年7月3日)

  • 勝龍寺城は秀吉軍の攻撃を支えられず落城。
  • 明智秀満は、山崎の敗報を聞いて安土城を放棄、坂本城に移る
  • 秀吉軍の先鋒は丹波亀山に入り、亀山城を落とした。
  • 秀吉本隊は、光秀を追って近江に入り三井寺に陣取る
  • 家康、尾張鳴海に到着。先鋒の酒井忠次は津島に到着。

6月15日辛丑(1582年7月4日)

  • 秀吉軍の堀隊が明智秀満の入った坂本城を包囲。
  • 秀満は、国行の刀・吉光の脇差・虚堂の墨跡を蒲団に包み、目録を添えて寄手に呼びかけ、「此道具は私ならぬ事、天下の道具なれば、是にて滅し候事は、弥兵次傍若無人と思召すべく候間、相渡し申候」とて、送り届けさせたという。(名茶器平蜘蛛を壊して自殺した松永久秀とは全く反対のしわざである。【日本の歴史】)
  • その後秀満は、光秀の妻子及び妻(光秀の娘)を刺殺し、城に火を掛けて自殺する。

6月16日壬寅(1582年7月5日)

  • 秀吉・織田信孝らが安土に着陣。安土城は何者かの手によって焼け落ちていた。次いで秀吉は長浜に入る。丹羽長秀が佐和山城を陥れる。
  • 光秀の屍、本能寺に晒される。【兼見卿記】【明智光秀のすべて】

6月17日癸卯(1582年7月6日)

  • 秀吉ら、光秀の首を本能寺に梟す

6月19日乙巳(1582年7月8日)

  • 家康は、秀吉の使者から叛乱軍平定の報告を受け、岡崎に戻る。

6月27日癸丑(1582年7月16日)

  • 柴田勝家・秀吉ら織田の宿老が尾張清洲城に会し、後継を秀吉の推す三法師(秀信)と定める。

7月11日丁卯(1582年7月30日)

  • 秀吉、細川幽斎に宛て「変」の際の態度を誉め、丹後国内の旧明智領を細川忠興に与える。

7月17日癸酉(1582年8月5日)

  • 秀吉、毛利輝元に山城山崎の築城のため、信長の葬儀を延引する旨報ずる。

9月12日丁卯(1582年9月28日)

  • 羽柴秀勝、信長の百日忌法会を山城大徳寺に行う。

10月3日戊子(1582年10月29日)

  • 正親町天皇、秀吉に綸旨を与え従五位下・左近衛権少将に叙任する。

10月15日庚子(1582年11月10日)

  • 秀吉、於次丸(信長の四男で秀吉の猶子)を喪主として山城大徳寺に信長の葬儀を行う。

11月2日丁巳(1582年11月27日)

  • 柴田勝家、前田利家を山崎城に派遣し、秀吉と講和する。

参考資料:【本能寺の変】年表 「天正十年~天正二十年」


馬淵城 近江国(近江八幡)

2016年02月15日 | 居館

京都新聞2016.2.14より

お城のデータ

所在地:近江八幡市馬淵 マップ:http://yahoo.jp/0G7nMp

区 分:居館

築城期:鎌倉時代中期

築城者:佐々木広定

遺 構:なし・・・真光寺に墓碑

訪城日:2014.1.2

お城の概要

 馬淵城の詳細は不明であるが、近くを流れる白鳥川を何らかの形で利用していたであろうことは容易に想像される。
 白鳥川に関しては、現在馬淵地区の東を流れているが、これは昭和40年頃の圃場整備に伴って川筋が変えられたもので、当初は馬淵地区の西を流れていた。
 この川筋の名残が現在も馬淵地区を流れる細い水路と考えられ、馬淵城は白鳥川が大きく蛇行し、三方を白鳥川で囲まれた地形に築城されていたと推定される。

 馬淵地区にある真光寺は馬淵氏の菩提寺で、墓地には馬淵一族の墓とされる五輪石塔群がある。
また、馬淵は岩倉山から良石を産出することもあって、馬淵衆や岩倉衆などの石工集団の発祥の地としても知られている。

集落には城屋敷・一ッ堀・蔵の町・籔雨田(流鏑馬田か)の地名という字名が残っていて、城は集落の北東部にあったと推察されているようです。ただ、城を示すような遺構は何も残っていないようで、真光寺に馬淵氏の墓はある。法要のときに子孫が集まるのみだとの事。

歴 史

『日本城郭体系 11』によりますと、「建保六年(1218)に佐々木弘綱が将軍実朝より賞賜された馬淵庄を、その弟広定が受け継いで馬淵氏の祖とし居館をおいた。

永禄・元亀年間(1558-73)の間、佐々木氏の没落後もここにその居を置いていたものと思われ、同町真光寺墓地に左記の銘を有する五輪石塔(市指定物件)があって、そのことを裏付けているのではなかろうか。

真光寺

馬真光寺は馬淵氏の菩提寺で、墓地には馬淵一族の墓とされる五輪石塔群がある。

東に観音寺城

まぶちうじ【馬淵氏】 

中世の武家。近江国蒲生郡馬淵(滋賀県近江八幡市)より起こる。佐々木氏一族。佐々木氏系図によれば定綱の後裔である広定が初めて馬淵氏を称した。

代々近江の守護・戦国大名六角氏の有力家臣で、南北朝時代の初めから室町時代前半にかけては,守護六角氏の守護代として活躍した。とくに広定の曾孫にあたる義綱は、延文・貞治年間(1356‐68)に活躍の跡が顕著であり、六角氏の領国政治を支えた重臣であったことがうかがえる。

 馬淵広定は佐々木定綱の五男で、蒲生郡馬淵庄を領して馬淵を称したのに始まる。この広定の四男基綱が青地右馬助の養子となり、青地氏を継いだという。その時期は鎌倉時代の中ごろと考えられている。青地庄は経済的にも交通的にも重要な位置を占めており、江南地方に勢力の拡張を目指す馬淵氏や、その背後にある佐々木氏にとって青地庄に一族の者を配置することは有効であったために、基綱を青地氏の養子として青地氏を佐々木氏の一族化したものだろう。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、武家家伝、日本城郭体系、淡海の城、京都新聞

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