城郭探訪

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「大谷吉継の首塚と石田三成関連の遺跡を訪ねて」

2016年10月28日 | 探訪「近江水の宝」

【近江歴史探訪】戦国武将ゆかりの地をたずねよう!
「大谷吉継の首塚と石田三成関連の遺跡を訪ねて」

大河ドラマ「真田丸」で話題の石田三成をはじめ、多くの戦国武将を輩出した近江。
9月からは戦国武将ゆかりの地を訪ねるシリーズを始めています。

第2弾は、米原市内に伝わる大谷吉継の首塚と石田三成が自ら植えたと伝わる藤が残る春日神社を訪ねます。
これら吉継・三成ゆかりの地のほかにも数多く残る米原市内の文化財を、県文化財保護課職員がご案内します。

名称

【近江歴史探訪】戦国武将ゆかりの地をたずねよう!
「大谷吉継の首塚と石田三成関連の遺跡を訪ねて」

日時 平成28年10月15日(土曜日)
10時00分 ~ 15時00分頃(受付開始9時30分~)

集合 JR米原駅西口(滋賀県米原市米原)

解散 JR坂田駅東口(滋賀県米原市宇賀野)

行程 

JR米原駅西口 → 大谷吉継の首塚 → 願浄寺 → 薬師堂 → 天野川ヤナ漁跡 → 公園 → 朝妻神社 → 中島神社と筑摩城 → 朝妻湊(昼 食) → 蛭子神社 → 浄念寺 → 春日神社(石田三成公お手植えの藤)→ 山内一豊の母(法秀院)墓 → 宇賀野城館 → 蓮成寺 → 坂田神明宮 → JR坂田駅東口(「なでしこ像」)

費用 無料

定員 70名 ※先着順・定員になり次第受付終了。

対象 一般(歩行距離約8.5km、ほぼ平坦)

持物

健康保険証(コピー推奨)、弁当、水筒、歩きやすい服装等
※熱中症対策を万全にお願いします。

問い合わせ・申し込み先

滋賀県教育委員会事務局文化財保護課 記念物係 

主催:滋賀県教育委員会 協力:米原市教育委員会

大谷吉継の首塚

 

 

 

朝妻神社

朝妻城

朝妻湊

三成お手植えの藤

 米原市宇賀野の法秀院の墓

 

 

坂田駅前

本日の訪問ありがとうございす!! 


百間堤(南比良)

2016年04月20日 | 探訪「近江水の宝」

地元住民による案内板

四ツ子川の「百間堤」(大津市大物地先)

見学日:2016.4.20

 JR湖西線志賀駅から線路に沿う道を高島市方向に1kmほど進むと、大物(だいもつ)の集落に入ります。集落内の道を山手(西側)に進んで国道161号を越え、湖西道路志賀バイパスの下をくぐり抜けます。山手の別荘地帯には進まず、右折して志賀バイパスの側道を高島市方向に進み、左折して山に向かう林道に入ります。坂道をしばらく登ると突然左手に巨大な石塁群が姿を現します。この石塁が四ツ子川の百間堤(ひゃっけんつつみ)です。

 「大物区有文書」や『近江国滋賀郡誌』(宇野健一1979)・『志賀町むかし話』(志賀町教育委員会1985)などによると、四ツ子川が嘉永5年(1852)7月22日卯刻(現在の暦でいうと9月6日朝6時頃)に暴風雨で大規模に氾濫し、下流の田畑や人家数戸が流失する被害が出ました。四ツ子川は集落の上側(西側)で左折して流れているため、それまでも暴風雨や大雨でしばしば洪水を起こしていて、下流の集落や田畑に被害をもたらしていました。そのため、住民は藩への上納米の減額をたびたび役所に願い出ていました。

 そこで、当時大物村を治めていた宮川藩(現在の長浜市宮司町に所在)の藩主堀田正誠は、水害防止のために一大石積み工事を起こすことにしました。若狭国から石積み名人の「佐吉」を呼び寄せて棟梁とし、人夫は近郷の百姓の男女に日当として男米1升、女米5合で出仕させました。1m前後の巨石を用いて長さ百間(約180m、ただし実測では約200mあります)、天場幅十間(約18m)、高さ五~三間(5.5~9m)の大堤を、5年8ヵ月の歳月をかけて完成させました。

 

集落用の用水路

 百間堤は崩壊することなく現在でも当時の姿をとどめ、その迫力には驚かされます。また、下流の生活用水や水田の水源用に堤を横断して造られた水路は、石造建築の強さと優しさが表れています。百間堤に続く下流部の堤は女堤(おなごつつみ)とよばれ、女性でも運べる程度の石で造られています

 平成25年(2013)10月15・16日に滋賀県を通過した台風26号は、県内各地に多くの被害をもたらしました。大津市北小松の北比良山系から楊梅滝(第116回)を経て流れ下る滝川も、JR湖西線の鉄橋付近で氾濫し、周辺の別荘地は床下まで浸水しました。JR湖西線蓬莱駅付近から北小松駅付近にかけては、比良山系と琵琶湖に挟まれた狭隘な地形で、山地から流れ出る大小の河川が小規模で急な扇状地を形成しています。過去に幾多の被害に見舞われた集落は、扇状地の扇頂部の斜面と湖岸に沿った平坦地に集まっています。こういった洪水や干ばつ被害から集落を守った江戸時代の大規模な治水工事の歴史遺産を、訪ねてみることにしましょう。

参考資料:滋賀県文化財保護協会

本日の訪問ありがとうございす!!


大名庭園と竹生島を訪ねて【竹生島編】

2015年11月22日 | 探訪「近江水の宝」

【近江歴史探訪】11/21(土)「大名庭園と竹生島を訪ねて」

ちらし(大名庭園と竹生島).pdf (326.6 KB) ダウンロード
【近江歴史探訪】大名庭園と竹生島を訪ねて
彦根観光ボランティアガイド協会のガイドの案内で、日本を代表する大名庭園である「名勝玄宮楽々園」「名勝旧彦根藩松原下屋敷(お浜御殿)庭園」と、「名勝史跡竹生島」を詳しく訪ねます。
旧彦根藩松原下屋敷(お浜御殿庭園)はふだん見ることはできませんが、探訪会当日は、秋の特別公開初日にあたります。
なお、玄宮楽々園では夜間ライトアップも実施されていますので、探訪会終了後にご参加いただくことが可能です。
【日時】平成27年11月21日(土)10時 〜 16時頃 ※小雨決行

JR彦根駅西口 → 玄宮楽々園 旧彦根藩松原下屋敷(お浜御殿)庭園 →  彦根港 →(航路)→ 竹生島 →(航路)→ 彦根港 → 夢京橋あかり館≪解散≫

大名庭園と竹生島を訪ねて【彦根城・大名庭園編】

竹生島へ


水にまつわる伝説の地 醒井宿を訪ねて

2015年10月03日 | 探訪「近江水の宝」

10 月3 日(土)開催 近江歴史探訪

  151003_samegai.pdf (266.2 KB)

水にまつわる伝説の地 醒井宿を訪ねて
山の湧水を水源とする地蔵川に沿って形成された中山道の宿場町、醒井宿。江戸時代にここを
通過する大名や役人に人速や馬を提供した施設が今も残されています。
宿場の中を地蔵川が流れ、川面に浮かぶ梅花藻(6 月~9 月)などの自然と、多くの文化財が
散在する歴史を楽しめる町並みとが融和し、独特の景観を作り出しています。
ヤマトタケルが傷を癒した「居醒泉」(いざめのいずみ)伝説、西行が旅の途中に茶を飲み、子
を宿らせた伝説、水源である霊仙山の水神と参詣者の仏縁を結んでいたという伝説など、水にま
つわる伝説に彩られた地でもあります。
 
JR 醒ヶ井駅 →(出発)→
明治時代の醒井小学校玄関(昭和36年名神高速道路の建設で・・・移築)
 旧醒井郵便局(ヴォーリス建築) → 
 
地蔵川の地蔵橋
十王水 →
了徳寺のオハツキイチョウ→
地蔵川のバイガモ
醒井城は、旧中山道醒井集落のほぼ中央付近にあった。醒ヶ井は宿場町の町並みと、中山道沿いを流れる清流地蔵川に生息する「梅花藻(バイカモ)」が有名であるが、その中心地付近、南側の小さな山付近が城跡だとされている。

醒井集落は、南背後に名神が走り、城山は名神開通に伴い南方の山系から分断さている。

問屋場跡→
廣重の醒井宿
地蔵堂 →
居醒の清水 →
 
cafe
お茶壺本陣→
 西行水 →
中山道道標
三大寺遺跡 →
天神水 →
六軒茶屋 →
醒ヶ井駅前 松尾寺政所 →
→  JR 醒ヶ井駅(解散)

今回の探訪は、米原観光ボランティアガイド協会のガイドの案内で、水にまつわる伝説の地、
醒井宿を詳しく訪ねます。
★開催要項
◇日時:平成27 年10 月3 日(土)13 時15 分 ~ 16 時頃
◇距離:約6km(標高差約70m)
◇持物:健康保険証(コピー推奨)、弁当、水筒、まち歩きができる服装と靴等
◇集合:JR 醒ヶ井駅13 時15 分
◇定員:60 名(20 名×3 班)※先着順・定員になり次第受付終了
◇費用:50 円(ガイド料等)
     本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!
本日の歩数  10,971 歩
歩行距離     8.2km
歩行時間     1:50
消費カロリー  341.9kcal
脂肪燃焼量   48.8g
 

発掘調査で明らかに 古代塩津港は小都市だった

2015年07月17日 | 探訪「近江水の宝」

=埋め立ては湖側へ27メートル以上=

平安時代末期(12世紀)の塩津港のイメージ図

◇長浜・・・滋賀報知新聞

 古代から中世にかけ日本海・敦賀から京への中継港として栄えた、琵琶湖最北端の塩津港(長浜市)が、小都市として活況を呈していたと、県文化財保護協会などの発掘調査で明らかになった。

 この発掘調査は、国道8号バイパス工事に伴い、平成二十四年から実施されているもの。今回の調査では、十二世紀ごろに造ったとみられる、船が着岸するための高さ一メートルほどの垂直護岸、幅一・二メートルの桟橋(さんばし)、石を張り込んだ傾斜護岸などがみつかった。

 これらの埋め立て工事は、十二世紀前半から約六十年間だけでも、七回以上繰り返され、港の施設は琵琶湖に向かって二十七メートル以上も拡張されていた。

 また、出土した遺物は、京をしのぐほどの濃密さで、塩津港がいかに繁栄していたかうかがえる。琵琶湖の水位が上昇して水没したため遺跡の保存状態はよく、土器類だけでなく、木製品や骨角器、金属製品などが豊富にみつかった。

 県文化財保護協会は「これまで不明だった同港の姿を伝えるとともに、当時の物流、信仰、土木技術、造船技術など歴史資料が残され、海洋国日本の歴史を知る上で重要な遺跡といえる」としている。

塩津海道あぢかまの里  http://www.kkr.mlit.go.jp/road/michi_no_eki/contents/eki/s15_adikama/

【交流の場】 「水の駅交流館」

 

「ランチパック」で昼食!


探訪【近江水の宝】龍神の里をゆく—御澤神社・龍王寺—

2014年12月20日 | 探訪「近江水の宝」
龍王寺(県史跡 雪野寺跡)
 
その昔、美男として名高い小野時兼(おののときかね)の妻が実は平木沢の大蛇で、妻から形見としてもらった箱を開けると出てきたのがこの梵鐘であるというものです。
大蛇の住む平木沢は、東近江市上平木の御澤神社の白水池で、境内から湧き出る名水を汲みに訪れる人が今も後を絶えません。
木造十二神将立像(甲冑姿)・・・ご住職の好意で本堂の立像を拝見(写真は×)
興福寺の木造十二神将立像(甲冑姿)http://www.kohfukuji.com/property/cultural/098.html
 
妻から形見としてもらった箱を開けると出てきたのがこの梵鐘=重要文化財(川守・龍王寺)
上帯・下帯に文様の鋳出がなく、乳は五列四段で簡素につくり、懸垂装置の竜頭は二頭の竜首がたてがみを立てています。
銘記はありませんが、奈良時代に鋳造されたと推定されています。
また、小野時兼という侍と大蛇の姿になった美しい女性の“妹背”にまつわる悲しい説話が残っています。
 
 
大蛇の姿絵(川守・龍王寺)
 
龍王寺の梵鐘に残る悲しい伝説
 
雪野山の山麓にある龍王寺の梵鐘には、妹背にまつわる悲しい伝説が残っています。
小野時兼(おののときかね)という侍のもとへ、有る日、美しい女性が妻にしてくれと現れます。
二人はとても幸せに暮らしていましたが、その三年後「私は平木(八日市)の沢の主です。あなたに恋い焦がれてここまでやってきましたが、やはり帰らなくてはなりません。私に会いたければ百日後に平木の池に来て下さい」と言い、形見に玉手箱を渡して姿を消してしまいます。

 時兼(ときかね)は寂しさに耐えかねて九十九日目に会いに行くと、妻は大きな蛇の姿になって現れました。彼が驚いて家に帰り、玉手箱を開けると、そこから大きな鐘が出てきました。時兼はこの鐘を龍王寺に寄進したということです。この鐘にまつわる歌は数多く、代表的なものとして
暮れにきと 告ぐるぞ待たで 降りはるる 雪野の寺の 入相いの鐘 和泉式部
鐘暗き 野寺の松の 木陰より 山ほととぎす 声ど落ちくる 柿本人麻呂
昨日観し 花のあたりに 夜は更けて 野寺の鐘の 声ぞ聞こゆる 藤原定家
 
 
 
 
暮れにきと 告ぐるぞ待たで 降りはるる 雪野の寺の 入相いの鐘 和泉式部
 赤穂浪士墓
 
後藤館跡(県指定史跡)    map:http://yahoo.jp/01KJAM
 

後藤館跡(滋賀県東近江市中羽田町)は、近江守護・佐々木六角氏の重臣・後藤氏の在地居館跡である。

 後藤氏の名は室町時代前期にあらわれ、六角氏の家老の位置にあった。

十六世紀中頃、後藤但馬守賢豊は六角義賢の信望を受けて権勢をふるったが、永禄六年(1563)義賢の子・義弼に謀殺された。
これが観音寺騒動の発端となり、六角氏は家臣団の信望を失い、やがて織田信長に滅ぼされる
(『現地案内板』)。

 後藤氏館跡は、周囲に基底幅約11m、高さ約3mの土塁を築き、その外に堀を穿った単郭構造の館跡で、東西幅、東辺の長さ約100m、西辺の長さ約120mの変形四辺形プランを呈し、西辺土塁の中央部に正門が存した(『現地案内板』)。

 当時の在地領主の館は、非常時に備えて土塁、板塀などの防御施設が設けられ、敷地内には主屋、納屋、蔵、厩などの建物が存した。当館跡の建物配置は定かでないが、昭和五十六年の発掘調査で井戸跡、厠跡、柵跡などが検出され、その位置から主要な建物は敷地内北部中央付近に存したと推定される(『現地案内板』)。

六角重臣の居館跡ということだが、水田にぽつんと石垣と土塁が残るのみである。しかし、大規模な遺構で、観音寺城と類似する貴重な史跡である。

 
 
 
 
御澤神社
 
 
東近江市上平木の御澤神社の白水池
 
東近江市上平木の御澤神社の白水池
 
横山 時兼、仁平3年(1153年) - 建暦3年5月4日(1213年5月25日))は、平安時代末期、鎌倉時代前期の横山氏の武将。横山氏は元は小野姓だったため、小野 時兼とも言う。

略歴

武蔵国多摩郡(現東京都八王子市)横山荘を中心に、勢力を持っていた武蔵七党のひとつ横山党の嫡男として生まれる。父は時広。

石橋山の合戦の頃から頼朝に仕えていた。寿永元年(1182年)8月、頼朝の誕生日を祝して梶原景時や畠山重忠と共に御護刀を頼朝に献上した有力御家人七名に名を連ねており、「吾妻鏡」ではこの記述が時兼の初見とされる。

父の後を受け、正治2年(1200年)より淡路国の守護となる。叔母が鎌倉幕府侍所別当の和田義盛の妻であり、時兼の妹が義盛の長男常盛の妻であった。

 このように和田氏一族とつながりが深かったため、建暦3年(1213年)に義盛と執権北条義時との対立による和田合戦では、和田氏側に荷担した。

乱は将軍源実朝を擁する義時側の勝利に終わり、時兼は和田常盛や甲斐国都留郡の武士古郡氏とともに都留郡波加利荘へ落ち延びたが、その地で常盛ともども自殺して果てた。享年61。時兼の首は固瀬河辺に晒されたという。所領の横山荘も没収され、横山一族は凋落した。

 
   本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!
 
12/13( 土)探訪【近江水の宝】龍神の里をゆく—御澤神社・龍王寺—
◇問い合わせ先:
滋賀県教育委員会事務局文化財保護課記念物担当
TEL:077-528-4674
FAX:077-528-4956
E-mail:outan@pref.shiga.lg.jp
◆日時:平成26年12月13日(土)13時45分 〜 16時頃

◆集合:近江鉄道バス八幡竜王線 川守バス停 13時45分
※近江八幡駅南口バス停13時20分発→川守バス停13時34分着でご来場ください。
(乗車時間14分、運賃450円)
※バスは1時間に1本です。指定のバスは混雑する可能性もありますので、早めに来ていただき、1km西に離れた「苗村神社(竜王町綾戸467)」をご見学いただくのもおススメです。

◆解散:近江鉄道 平田駅 16時頃
※集合場所と解散場所が異なりますので、公共交通機関でご来場ください。

◆距離:約8.2km(標高差約70m・途中で丘陵越えあり)

◆持物:健康保険証(コピー推奨)、ウォーキングできる服装等、水筒

◆行程:
近江鉄道バス八幡竜王線
川守バス停
 ↓
龍王寺(県史跡 雪野寺跡)
 ↓
女坂(丘陵越えです)
 ↓
赤穂浪士墓
 ↓
県史跡 後藤館跡
 ↓
御澤神社
 ↓
近江鉄道平田駅(東近江市平田町)

◆定員:40名

◆費用:500円(拝観料等)

◆その他:
1.悪天候により中止する場合は、平成26年12月12日(金)17時までに参加申込者あて連絡します。
2.当日の気象条件等により、コース・時間等を変更する場合があります。

◆詳細:

竜王町川守の龍王寺の梵鐘(重要文化財)には、次のような説話が伝わります。
その昔、美男として名高い小野時兼(おののときかね)の妻が実は平木沢の大蛇で、妻から形見としてもらった箱を開けると出てきたのがこの梵鐘であるというものです。大蛇の住む平木沢は、東近江市上平木の御澤神社の白水池で、境内から湧き出る名水を汲みに訪れる人が今も後を絶えません。
今回の探訪は、東近江市観光ボランティアガイドと県の文化財専門職員が同行案内し、龍神伝説にまつわる龍王寺から御澤神社周辺の文化財を詳しく訪ねます。

 


探訪【近江 水の宝】犬上川の源流をゆく―大瀧神社― 歩いてまいろう「多賀三社まいり」

2014年12月04日 | 探訪「近江水の宝」

犬上川の上流には、奇岩が折り重なる中を水がしぶきとともに流れ落ちる「大蛇が淵」があります。

ここに鎮座する大瀧神社は、江戸時代には瀧宮(たきのみや)と呼ばれ、犬上郡内の水田を潤す犬上川の水源をつかさどり、五穀豊穣をもたらす神として大いに信仰を集めていました。

多賀大社の奥宮として現存する大瀧神社本殿(県指定有形文化財)は、寛永15年(1627)に徳川家光の下知によって造営されたものです。

多賀大社、胡宮神社本殿もほぼ同時期に造営されたことが判明しています。

多賀町大瀧神社・胡宮神社・多賀大社の三社を歩いてめぐる今回の探訪では、多賀観光ボランティアガイドと県文化財専門職員が同行案内し、多賀三社および周辺の文化財を詳しく訪ねます。

近江鉄道 多賀大社駅

敏満寺城

胡宮神社

大門池

勝楽寺城(遠景)

犬上川

楢崎古墳

勝楽寺城(遠景)

高源寺

佐和山城より移築門(馬が駆け抜けるられるように、敷居がない)

勝楽寺城(遠景)

大滝神社へ 

大蛇ヶ原

皇帝ダリア

国道307添いのSL公園

多賀大社門前:絵馬通り

多賀大社

村山たか

村山 たか(むらやま たか、文化6年(1809年) - 明治9年(1876年)9月30日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代初期に活躍した女性で、舟橋聖一著の『花の生涯』のヒロインとして知られる。別名村山加寿江(かずえ、可寿江とも)。

生涯

1809年(文化6年)、近江国犬上郡多賀町で、多賀大社にあった寺坊尊勝院の娘として生まれる。生後すぐに寺侍村山氏に預けられ、18歳の時に当時の藩主である井伊直亮の侍女となる。

20歳になり京都に上って、祇園で芸妓となり、その際男子をもうけるが、私生児であった為に自らが引き取り、生まれ故郷の彦根に戻る。その際彦根城下で蟄居生活を過ごしていた井伊直弼と出会って情交を結び、またその数年後に直弼を通じて出会った長野主膳とも深い関係になったとされる。やがて直弼が大老となり、江戸に移った後二人は別れたとされるが、安政の大獄の際には京都にいる倒幕派の情報を江戸に送るスパイとなり大獄に大きく加担した。日本の政権に属した女性工作員としては、史上初めて名をとどめる存在である。

      本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


高島市「大溝の水辺景観」国の重要文化的景観に選定

2014年11月28日 | 探訪「近江水の宝」

=中近世の城下町と巧みな水利用=                                  

 乙女池(左)周辺地域と琵琶湖

◇高島
 中・近世に遡る大溝城及びその城下町のたたずまいを残す「大溝の水辺景観」(高島市)が、国の重要文化的景観に選定された。今回の選定により県内の重要文化的景観は六件となる。
 大溝は琵琶湖北西岸にある集落で、集落南部には湖岸砂州によって琵琶湖と隔てられる内湖・乙女が池が広がる。景観を構成する主な要素は、(1)城の内堀や水とともに暮らす生活習慣を今も伝える乙女が池と打下(うちおろし)集落(2)織田信長の甥・信澄によって築かれ、その後廃城となった大溝城跡(3)旧城下地区の道路中央を流れる「町割り水路」(4)大溝藩主・分部氏の陣屋の総門―の四点。

 

陣屋があった大溝城跡

 大溝城は天正六年(一五七八)の築城。天守は早い段階で移築され、現在は天守台の石垣のみ残る。安土城や長浜城と同様、内湖を堀として利用し、現在でも水堀の景観を残しているのは、大溝城跡のみである。さらに信澄は城下町を建設するほか、乙女が池東側の砂州上に立地する打下地区に水軍を配置した。
 徳川時代の元和五年(一六一九)、大溝藩主として入った分部氏は、陣屋を城跡に置くとともに、かつての城下町に武家地と町人地を整備し、境界に総門を設けた。町人地の通り中央には、町割り水路が設けられ、かつては洗い場など生活用水として利用された。
 また、城下町では古式上水道が今も利用され、乙女が池と琵琶湖に挟まれた砂州上にある打下地区では、高波・浸水防止のため築かれた石垣が独自の景観を形成し、水とともに暮らす生活を今に伝える。

 町割り水路が残る城下町

滋賀報知新聞

 


探訪【近江水の宝】杣(そま)の里をゆく—矢川神社・矢川津—

2014年09月28日 | 探訪「近江水の宝」

◆日時:平成26年9月27日(土)   13時〜16時15分頃

◆詳細:
古代から甲賀の地域支配の拠点として、また物流の集積地として重要な役割を果たしていたのが、杣川の水運と矢川津です。
川の名前となっている「杣(そま)」は、古代には樹木を製材し平城京や東大寺などに供給する杣山として利用されていた事に由来します。切り出された木材は、現在の甲南町矢川橋付近の川辺にあったとされる「矢川津」と呼ばれる川津に運ばれ、そこから川伝いに琵琶湖に一旦流され、後に瀬田川を下らせて奈良へと運ばれました。山から川、川から湖、そして再び湖から川へ。まさに近江水の宝にふさわしい情景といえます。
今回の探訪では、忍びの里こうなん・観光ボランティアガイド部のガイドと県文化財専門職員が同行案内し、甲南駅周辺の文化財を詳しく訪ねます。

◆集合:JR甲南駅13時(受付開始12時45分〜)

◆距離:約8km(アップダウンあり・実標高差50m・延べ標高差390m)

◆持物:健康保険証(コピー推奨)、水筒、ウォーキングできる服装とトレッキングシューズ等(暑さ対策を万全にお願いします)

◆行程:
甲南駅⇒浄福寺⇒甲南ふれあいの館⇒地蔵堂⇒矢川神社⇒矢川津(写真なし)⇒地蔵堂⇒古代の埋もれ木⇒新宮神社表門⇒甲賀郡中惣遺跡群(新宮城)⇒
伊賀街道常夜燈⇒湖南支所⇒甲南駅

◆定員:80名

◆費用:50円(ガイド料)

県教育委員会専門員本日のガイドさん

ありがとうございました! 

本日の歩行数 14,415歩

歩行距離    10.8km

実歩行時間  2:17:28

消費カロリー 449.7kcal

脂肪燃焼量  64.2g

  本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!! 


探訪【近江水の宝】天井川の里をゆく—大沙川隧道と横田渡—

2014年09月15日 | 探訪「近江水の宝」



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◆日時:平成26年9月13日(土)
 A班13:30〜16:10頃
 B班14:00〜16:40頃

◆集合:JR三雲駅
 A班13:30 B班14:00

◆距離:約8km(ほぼ平坦なコース・一部坂あり)

◆持物:健康保険証(コピー推奨)、水筒、ウォーキングできる服装等(暑さ対策を万全にお願いします)

◆行程:三雲駅 → 横田渡常夜灯(水口側)→ 横田渡常夜灯(三雲側)→ 天保義民碑 → 大沙川隧道・弘法杉 → 夏見立場跡・一里塚跡 → 由良谷川隧道 → 甲西駅

◆定員:80名
(A1班20名・A2班20名、B1班20名・B2班20名)

◆費用:50円(ガイド料)

 天保検地

 ご褒美!

ガイドさん。ありがとうございました! 

本日の歩行数 18,928歩

歩行距離    14.1km

実歩行時間  2:59:45

消費カロリー 577.3kcal

脂肪燃焼量  82.4g

  本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!! 


探訪【高島市海津・西浜・知内の水辺景観をゆく】2014.6.26

2014年06月30日 | 探訪「近江水の宝」

重要文化的景観 探訪 高島市 海津・西浜・知内も水辺景観をゆく・・・滋賀県教育員会主催

2014.6.28 マキノ駅集合

主催:滋賀県教育委員会
協力:海津・西浜・知内地域文化的景観まちづくり協議会
   マキノまちづくりネットワークセンター
   高島市教育委員会
高木浜サニービーチ〜知内浜〜白鷺橋〜唐崎神社〜知内川のヤナ漁〜湖のテラス〜湖の辺­の道〜西浜の石積み〜魚治〜吉田酒造〜中ノ川河口〜辻子(ヅシ)〜海津の石積み〜湧水­(イケ)〜西内沼〜マキノ東小学校〜海津大崎

https://www.youtube.com/watch?v=cAFJeIGoBlY

湖のテラス

水辺の道

西浜の石垣

海津漁港

魚治

旧海津港

吉田酒造

中ノ川河口

湧水池

マキノ東小学校

西内沼

 

西与一左衛門・蓮光寺 海津の石垣が築造されたのは、江戸期の元禄16年(1703年)です。
 築造前の状況を『大崎寺文書 』(天和2年(1682年))では、次のように語っています。

 「・・最前より御訴訟申し上げ候とおり、浜がわに私どもの住み居り屋敷13 軒は、波除け石垣崩れ少しの風波にも家へ水が入り、難儀に仕り儀にご座候ゆえ、ご慈悲に願いの通り、入用銀6貫19匁5分をお貸し下され成され候ハバ、有難く存じます・・ ・・」(読下し文)とあります。
 村人達は、度重なる大波によって石垣が崩れ、被害に苦しみ借財を重ねていました。このような中、元禄14年、西浜村に甲府藩領代官・西与一左衛門が就任しました。 村人達の苦しみに同情した彼は、就任早々に石垣築造の偉業を成し遂げ、しかも、費用を村民の負担による「自普請」でなく、お上が負担する「御普請」であったといいます。 西与一左衛門は、思いやりと実行力のある人物で、西浜・蓮光寺入口の案内板には、次のように書かれて
います。

高木浜サニービーチ琵琶湖で最も美しいと言われている奥びわ湖の湖畔にある知内浜オートキャンプ場はファミリーに大人気のキャンプ場です。
毎年、遠方からたくさんの方々が訪れてくださいます。すぐ近くには知内川や知内漁港があり、釣りを楽しむこともできます。
また、大事な家族の一員、ワンちゃんたちも一緒に楽しく過ごしていただけます。大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」のロケ地ともなった。

荘境川河口で、鮎の投網・・・1投目で20~30匹 

知内川

唐崎神社当地は、知内川(旧大川)、生来川、百瀬川の三本の川が、琵琶湖に流れ入り、東に伊吹山、雲仙岳、竹生島をのぞみ、白砂青松の浜に面する風光の清明なる神域で、祓戸の神々の鎮座地として、禊祓の祭祀を行う、古代の川社(かわやしろ)であった。古い神社は、必ずといっていいほど、清流のわきにあり、当社地も先の三本の川の中に、なお、二つの小川(殿田川、ミソギ川)にはさまれて、川につからないと行けない斎庭になっていた。こうした例は、熊野信仰で知られる、熊野本宮大社のかつての社地「大斎原」(おおゆのはら)もそうであり、伊勢の神宮の五十鈴川も、橋がなかった時代は、徒歩で川を渡り、自然に禊をし、身を清めることができるようになっていたのである。

当社の創始は、周囲に集落のできるはるか以前、久遠にして不詳であるが、天智の朝には既に鎮座し、延喜式内社大川神社は当神社のことであると伝えられている。社号は大川明神、三光明神、川裾大明神、唐崎大明神と尊称され、変遷してきているが、「川裾さん」という通称が最も広く親しまれている。川裾信仰の霊地であり、中昔、神仏習合し、明治にはいって分離された。

天文年間(1532~1555)に当地は兵火にかかり、社傍の大川堂に安置されていた大川神社本地仏は水玄堂に移され無事であったが、古器物は殆どが烏有に帰したと伝えられている。その本地仏は水玄堂の火災(明治26年)により、現在は上知内の安養寺内の観音堂に、唐崎神社奥の院として祀られている。

現在の社殿は明治18年、拝殿は文政10年の再建で、以降、御屋根など数回にわたり大修復されている。正面の鳥居は、正徳元年(1711)木造を石材に換え建立された。また、参道口には、湖東、西湖各千人講奉納(安政年間)による石灯篭があり、湖上交通による参拝も盛んであった。安産、下の病、などの御利益でも知られている。

知内川のヤナ 滋賀県高島市マキノ町を流れる知内川の下流にある小鮎のヤナ漁の様子です。管理されて­いる漁協組合員さんのお話によると、ヤナに入る今年の小鮎は大き­く成長した魚ばかりで、獲れた魚は食用ではなく主に友釣り河川への放流用に出荷してい­るそうです。

本日の歩数   20,984歩

歩行距離    15.7km

歩行時間    3.25時間

消費カロリー  603.3kcal

脂肪燃焼量    86.1g

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


探訪【近江水の宝】大宮人船待ちの里をゆく-唐崎神社-

2013年12月24日 | 探訪「近江水の宝」

「唐崎の夜雨(からさきのやう)」は近江八景のひとつです。笠のように、大きく枝を広げた「唐崎の松」、夜間この松に降りそそぐ雨の情景が主題となっています。「唐崎の松」は唐崎神社のご神木であり、明治初期の由緒書によると、現在の松(昭和4年・1929年植樹)の先代は高さ27 m、幹廻り11 m、枝東西72 m、南北86 mという巨木であった
ことがわかります。

唐崎は、ふるく大津宮(667年~671年)のシンボルともいうべき景勝の地であり、柿本人麻呂は「楽浪(さざなみ)の志賀の唐崎幸くあれど大宮人の船待ちかねつ(万葉集)」と歌い、815年(弘仁6年)嵯峨天皇は当地で船遊びに興じています。平安時代には七瀬之祓(ひちせのはらい)の一所に定められ、朝廷の夏越の祓をはじめ、国家の大事にあたっての祓がおこなわれました。現在も毎年7月28日・29日におこなわれる唐崎神社の「みたらし祭」は、この唐崎祓所の伝統を受け継ぐとされています。

今回の探訪では、唐崎学区文化協会のみなさんや県の文化財専門職員が同行案内し、唐崎神社を中心に唐崎一帯を詳しく訪ねます。

チラシ(PDF:643KB)

JR唐崎駅→唐崎神社→白髭神社道標→メリノールガーデン→穴太廃寺→穴太地蔵・足利義晴供養塔→高穴穂神社→宝光寺→盛安寺→穴太野添古墳群→伝仲哀天皇産湯の泉→(京阪穴太駅)→JR唐崎駅


探訪【近江水の宝】湖中示現の神の里をゆく-兵主大社-2013.11.16

2013年11月17日 | 探訪「近江水の宝」

探訪【近江水の宝】湖中示現の神の里をゆく-兵主大社-

兵主(ひょうず)大社の神様は白蛇となって大亀の甲に乗り、鹿の群れに守護されて琵琶湖を渡って来たといいます。時は養老2年(718)、穴太(あのう・大津市穴太)を出発して、あやめ浜(野洲市菖蒲)に上陸したともいいます。兵主神の湖中示現を物語るこの縁起は、晩秋の頃、大社宮司が御神体とともに菖蒲(あやめ)の浜で湖中に入り、湖水で浄め、琵琶湖の力を迎える八ヶ崎神事として今に伝えられます。境内の名勝庭園もその造形は琵琶湖を強く意識したとされています。

今回の探訪では、野洲市ボランティア観光ガイド協会のガイド、野洲市や県の文化財専門職員が同行案内し、真宗木辺派本山錦織寺、仏性寺の阿弥陀如来坐像(平安時代・重要文化財)など、兵主大社とその周辺の文化財を詳しく訪ねます。

真宗木辺派本山錦織寺

創建は平安時代初期の天安2年(858年)に天台宗の円仁により創建された毘沙門堂に遡る。建長5年(1235年)、

浄土真宗の開祖親鸞が逗留し阿弥陀如来を祀ったとされる。その後、この地の領主石畠氏の援助により寺院として整備され、慈観がこの寺に入り一派を形成した。戦国時代から江戸時代初期にかけては浄土宗に属することとなったが、江戸時代中期には浄土真宗に復帰し、文化11年(1814年)には准門跡に列せられた。

文化財

滋賀県指定文化財
  • 表門
  • 御影堂
  • 絹本着色熊野曼陀羅図

所在地

鐘楼の改築の石積集

由緒
兵主神社所管社二十一社の一。
欽明天皇の代に鎮座。「悪王子神社」と称された。

天神前古墳

兵主神社

兵主大社

 
 
兵主大社
Shiga Hyouzu.jpg
兵主大社本殿
所在地 滋賀県野洲市五条566
   
主祭神 八千矛神
社格等 式内社(名神大)・県社
本殿の様式 一間社切妻造
例祭 5月5日
 

兵主大社(ひょうずたいしゃ)は、滋賀県野洲市にある神社である。式内社(名神大社)で、旧社格は県社。正式名称は兵主神社であるが、普段は「兵主大社」を称している。

八千矛神(やちほこのかみ)(大国主神)を主祭神とし、手名椎神・足名椎神を配祀する。

「兵主」の神を祀る神社は日本全国に約50社あり、延喜式神名帳には19社記載されているが、その中で名神大社は当社と大和国穴師坐兵主神社・壱岐国兵主神社のみである。

名っ名勝 庭園

滋賀県県指定有形文化財
  • 楼門
野洲市指定文化財
  • 本殿

歴史

社伝「兵主大明神縁起」によれば、景行天皇58年、天皇は皇子・稲背入彦命に命じて大和国穴師(奈良県桜井市、現 穴師坐兵主神社)に八千矛神を祀らせ、これを「兵主大神」と称して崇敬した。近江国・高穴穂宮への遷都に伴い、稲背入彦命は宮に近い穴太(滋賀県大津市坂本穴太町)に社地を定め、遷座した。

欽明天皇の時代、播磨別らが琵琶湖を渡って東に移住する際、再び遷座して現在地に社殿を造営し鎮座したと伝え、以降、播磨別の子孫が神職を世襲している。

延喜式神名帳では名神大社に列し、治承4年(1180年)には正一位勲八等兵主大神宮の勅額が贈られている。

歴史

元の穴師坐兵主神社は、垂仁天皇2年に倭姫命が天皇の御膳の守護神として祀ったとも、景行天皇が八千矛神(大国主)を兵主大神として祀ったともいう。旧鎮座地は「弓月岳」であるが、比定地には竜王山・穴師山・巻向山の3つの説がある。祭神の「兵主神」は現在は中殿に祀られ、鏡を神体とする。神社側では兵主神は御食津神であるとしているが、他に天鈿女命、素盞嗚尊、天富貴命、建御名方命、大己貴神の分身の伊豆戈命、大倭大国魂神とする説がある。

巻向坐若御魂神社の祭神「若御魂神」は稲田姫命のことであるとされる。現在は右社に祀られ、勾玉と鈴を神体とする。元は巻向山中にあった。若御魂神については、和久産巣日神のことであるとする説もある。

上記の2社は、『正倉院文書』に天平2年(730年)に神祭を行った記録があり、貞観元年(859年)に従五位上の神階が授けられた。

穴師大兵主神社については鎮座年代は不詳である。祭神の「大兵主神」は現在は左社に祀られ、剣を神体とする。大兵主神の正体については、八千戈命(大国主)、素盞嗚命、天鈿女命、天日槍命という説がある。

中世ごろから、穴師坐兵主神社が穴師上社、穴師大兵主神社が穴師下社と呼ばれるようになった。応仁の乱のときに若御魂神社と穴師上社の社殿が焼失したことから、この2社を穴師下社(大兵主神社)に合祀した。明治6年(1873年)に郷社に列し、昭和3年(1928年)に県社に昇格した。

摂社として、野見宿禰を祀る相撲神社があり、相撲の祖神として信仰されている。

中世には、「兵主」を「つわものぬし」と読むことより、武士の厚い信仰を得た。中でも源頼朝・足利尊氏による神宝の寄進・社殿造営があり、社宝として残されている。また、江戸時代には、徳川将軍家から社領の寄進を受け、厚い保護を受けた。

拝殿横にあり、護岸の石組み・築山の三尊石組みなどは平安時代の遺構。「近江の苔寺」の別名がある。 毎年、紅葉時期にはライトアップが行われる。

名称 兵主神社(大社)庭園 (ヒョウズジンジャ(タイシャ)テイエン)
所在地 〒520-2424 滋賀県野洲五条566 MAP
営業期間 公開 : 9:00~17:00 庭園公開には期間があるので、要確認。
休業 : 年中無休
料金 大人 : 大人:500円
備考 : 中学生以下無料(個人)
その他 : その他:300円 団体(5名以上)
文化財 国指定の名勝
その他情報 築庭年代 :平安時代

重要文化財

  • 白絹包腹巻 1具
    • 鍍銀籠手金具
    • 鍍銀臑当(すねあて)
    • 茜威喉輪(あかねおどしのどわ)
    • 白生絹袷小袖
    • 萌黄地白茶格子生絹袷小袖
    • 緂帯
    • 唐櫃
重要美術品(国認定)
  • 革箙(かわえびら) 
  • 錦包箙
  • 梓弓
  • 伏竹弓
  • 黒漆弓
  • 木造唐鞍神馬
  • 木造神馬

佛性寺

 

参考資料:パンフレット、現地説明板、ウィキペディア(Wikipedia)、


琵琶湖上をゆく【葛籠尾崎湖底遺跡と菅浦】 菅浦 2013.9.21

2013年09月28日 | 探訪「近江水の宝」

大正13年(1924年)の暮れ、尾上(おのえ)の漁師が奥琵琶湖でイサザ網漁をしていたところ、数個の土器を引き上げました。これが葛籠尾湖底遺跡(つづらおざきこていいせき)の発見です。その後、次々と引き上げられた土器等は、縄文時代から平安時代の長期におよび、しかもほぼ完全な形のまま葛籠尾崎の東沖の水深10~70m付近の湖底に沈んでいることが判明しました。世界的に見ても他に類を見ない深さにある水中遺跡であり、遺跡の成因にはいまだ定説がありません。神秘のベールにつつまれた、まさに琵琶湖湖底遺跡の代表と呼ぶべき存在です。

 今回の探訪では、尾上で葛籠尾崎湖底遺跡の出土品等を見学した後、漁船(湖上タクシー)で葛籠尾崎沖へと向かいます。そして、中世史に有名な菅浦(すがうら)へと上陸し、四足門(しそくもん)が出迎える集落内を詳しく訪ねます。
 地元住民のみなさんや長浜市教育委員会、県の文化財専門職員が同行案内いたしますので、是非ご参加くださいますよう、ご案内いたします。

★日時:平成25年9月21日(土)10:00~15:30頃 
★定員:50名(事前申し込み必要、先着順)

旧西浅井町~尾上に戻ります。

幸い、この日は凪で往復快適な湖上タクシーの船旅!

2013.8.16の台風18号で、湖水は濁っているようでした。

正面は竹生島です。

竹生島(旧びわ町)に、小島?岩?がエリ漁のエリ

本日も訪問、ありがとうございました。


琵琶湖上をゆく【葛籠尾崎湖底遺跡と菅浦】 湖上タクシー 2013.9.21

2013年09月27日 | 探訪「近江水の宝」

 大正13年(1924年)の暮れ、尾上(おのえ)の漁師が奥琵琶湖でイサザ網漁をしていたところ、数個の土器を引き上げました。これが葛籠尾湖底遺跡(つづらおざきこていいせき)の発見です。その後、次々と引き上げられた土器等は、縄文時代から平安時代の長期におよび、しかもほぼ完全な形のまま葛籠尾崎の東沖の水深10~70m付近の湖底に沈んでいることが判明しました。世界的に見ても他に類を見ない深さにある水中遺跡であり、遺跡の成因にはいまだ定説がありません。神秘のベールにつつまれた、まさに琵琶湖湖底遺跡の代表と呼ぶべき存在です。

 今回の探訪では、尾上で葛籠尾崎湖底遺跡の出土品等を見学した後、漁船(湖上タクシー)で葛籠尾崎沖へと向かいます。そして、中世史に有名な菅浦(すがうら)へと上陸し、四足門(しそくもん)が出迎える集落内を詳しく訪ねます。
 地元住民のみなさんや長浜市教育委員会、県の文化財専門職員が同行案内いたしますので、是非ご参加くださいますよう、ご案内いたします。

 琵琶湖上をゆく【葛籠尾崎湖底遺跡と菅浦】 菅浦 2013.9.21 へ続く

本日も訪問、ありがとうございました。