秀吉家族の逃避行、原本発見 本能寺の変直後、恩賞約束
- 発見された「羽柴秀吉・秀勝連署宛行状 広瀬兵庫助宛」(長浜城歴史博物館提供)
滋賀県長浜市の長浜城歴史博物館は29日、本能寺の変(1582年)の際、羽柴(豊臣)秀吉の居城だった長浜城にいた母なか(大政所)や正室ねね(北政所)らが逃避行したことを記した文書「羽柴秀吉・秀勝連署宛行状(あてがいじょう) 広瀬兵庫助宛」の原本が見つかったと発表した。
文書の写しは複数存在し、ねねらの逃避行は史実として知られるが、原本は長く所在不明だった。同館は「文書の確認で史実がさらに裏付けられた」としている。
文書は、逃避行を手助けした美濃国広瀬村(現岐阜県揖斐川町)の地侍、広瀬兵庫助の子孫という東京都在住の男性が所持していた。縦17・1センチ、横48・6センチで、1927(昭和2)年に編さんされた「東浅井郡志」に掲載された「甲津原区有文書」などと同じく、秀吉が兵庫助へ「母や妻らのために尽力してくれたことは喜ばしい。恩賞として五百石を与える」と書き送った内容。
男性が同博物館に寄託することになり、同館で鑑定した結果、紙質が当時のコウゾであることや同時代の秀吉の花押と字体が同じであることなどから原本と断定した。
本能寺の変の際、中国地方を攻めていた秀吉は長浜城に不在だった。城に本能寺の変の知らせが届いたのは翌日とされ、ねねらは明智光秀勢の攻撃を受ける危険があった。竹中半兵衛の子、重門が秀吉について記した「豊鑑(とよかがみ)」では、兵庫助が先導して自身の本拠地へ避難させたとある。
同博物館の太田浩司館長は「リアルな史料が今回、見つかったことで、なかやねねの逃避行の事実や兵庫助が関わっていたことが明確になった」と話している。文書は11月11日から同30日まで同博物館で展示される。
■秀吉の生涯研究でも貴重な史料
小和田哲男・静岡大名誉教授(日本中世史)の話 本能寺の変に際しての逃避行については史実としてよく知られていたが、この文書の発見により、広瀬兵庫助という地侍が関わっていたことが確実となった。秀吉の生涯研究においても貴重な史料の発見といえるだろう。
京都新聞2015.10.30
本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!