比良連峰に静かに眠る、謎多き城郭寺院跡
お城のデータ
所在地:大津市北比良 出会橋map:http://yahoo.jp/MWI1fb
現 状:雑木林・寺坊址
築城期:平安期
築城者:延暦寺
城 域:150m×550m(比良山系最大)
遺 構:石垣、坊址、庭園
廃 城:元亀年間
目 標:比良山登り口・出会橋・バス停イン谷口
駐車場:あり
訪城日:2014.6.28
お城の概要
比良山中に眠る謎の城郭。山岳寺院の一部が城塞化したとみられる。石垣による虎口で守られた館跡には、庭園の遺構が良好に残る。
ダンダ坊遺跡は、比良川が支流を集める出会橋の北側に、幅約150m、奥行約550mの範囲で広がる、比良山中最大の寺院遺構。
遺跡は大きく4つに分れ、寺院部は石垣で区画された広い伽藍の中に、山門跡・本坊跡・他の跡などが明瞭に残っている。また館跡は。番、谷奥にあり、人目にはますがたこぐち枡形虎口を配し、寺院とは異なった景観を見せている。さらに山中の寺院には珍しい庭園の遺構が、ほぽ完全に残り、この遺跡
の謎を一層、深めている。
歴 史
この遺跡の歴史的な経緯はいまだ不明だが、平安時代に始まり、天台僧の修行の場として、今も石垣で区画された伽藍が残っています。三尊石を置いた庭園もあり、元亀年間に近江で繰り広げられた信長と連合軍との対抗勢力との抗争「志賀の陣」で、延暦寺と共に破壊され忘れ去られた寺院。
・・・・・・・・・・・・・・・・信長公記 三巻・・・・・・・・・・・・・・・・・・
志賀の陣 志賀御陣の事
9月16日、越前朝倉氏と浅井長政の連合軍約三万が近江を南下し、坂本口へ押し寄せてきた。この報に接した宇佐山城将の森可成は軍勢を率いて宇佐山の坂を駆け下り、坂本の町はずれで敵と接触した。双方足軽を出しての小戦闘になったが、森勢は敵首少々を得て勝利を収めた。
しかし大勢は動かず、19日になって陣立てを終えた朝倉・浅井勢は二手に分かれて再び坂本口へ殺到した。森勢は町を破らせまいとして坂本の町口で敵を支えたが、二手より攻め寄せた敵の大軍の挟撃を受けて重囲に陥ってしまった。それでも森勢は勇を奮って戦い、敵味方火花を散らしての激戦となった。しかし敵の猛勢の前に森勢もついに崩れ立ち、森可成・織田九郎信治・青地茂綱・尾藤源内・尾藤又八以下多くの将領が討死した。
このとき森勢の中に、尾張国守山の住人で道家清十郎・助十郎という名の兄弟がいた。先年武田勢が東美濃高野口③へ侵入した際、森可成は肥田玄蕃とともに先陣に立って防戦につとめたが、この時の戦闘で兄弟は二人で三つの敵首を挙げた。これを聞いた信長公は大いに喜び、兄弟が指していた白の指物を召し寄せ、それへ「天下一の勇士なり」と直筆して与えた。侍としてこれに過ぎた栄誉はなく、兄弟は名誉の仁とうらやまれた。今度の戦でも兄弟はその指物を背に立てて戦場に立ち、森可成とともに勇戦して討死を遂げた。
森勢を打ち砕いた浅井・朝倉勢は余勢を駆って宇佐山まで攻め上り、出城へ火を放ったが、城内に残っていた武藤五郎右衛門・肥田彦左衛門の奮闘により城はなんとか持ちこたえた。しかし翌20日、敵は大津に出て馬場・松本へ放火し、21日には逢坂を越えて醍醐・山科を焼き払った。
敵軍は、すでに都の目と鼻の先までせまっていた。22日、その事実は摂津国中島の陣所へもたらされた。
注進を聞いた信長公は、敵を都へ入れては元も子もなしと考え、23日和田惟政・柴田勝家の両人を殿に残して野田・福島の陣所を引き払った。そしてみずからは中島に出て江口の渡し④へ向かった。
江口川は宇治川・淀川の支流で、水量は多く、水勢もすさまじい有様で、昔から舟で渡るのが普通であった。この地まで猛烈な勢いで行軍してきた織田勢であったが、ここにはすでに一揆が蜂起しており、渡河のための船は彼らによってことごとく隠されてしまっていた。その上で一揆勢は、竹槍を手に対岸の大坂堤添いへ稲麻竹葦のごとくむらがり、対岸の織田勢へ向かって口々に嬌声を投げかけてきた。
ここで信長公は、みずから馬を駆けまわして川の流れを調べた。そして河中へざぶりと馬を打ち入れると、軍勢へ向かい「渡るべし」と下知した。
命令一下、織田勢は一斉に川へ入った。すると水深は思いのほか浅く、雑兵たちも徒歩でらくらくと渡河することができた。信長公は同日のうちに公方様に供奉して帰洛を果たした。ところがこの翌日から江口の渡しは急に水深が増し、徒歩での渡河は困難になってしまった。江口近辺の者達は、ふしぎなることよと皆ささやき合った。
9月24日、信長公は上京本能寺を立ち、逢坂を越えて越前衆の攻撃に向かった。しかし下坂本に布陣していた越前勢は、信長公の旗印を見るやたちまち敗軍の体を見せて比叡山へ逃げ上がってしまった。山へ上がった越前勢は、蜂が峰・青山・局笠山⑤に陣を取った。
このとき信長公は延暦寺の僧十人ばかりを呼び寄せ、「信長に味方するならば、分国中の山門領を元通りに還付する」と金打⑥して約束し、かさねて「出家の道理により片方への贔屓なりがたし、と申すならば、せめて敵味方とも見除せよ」といって説得し、その旨を稲葉一鉄に申し付けて朱印状にしたためさせた。その上で信長公は、「このこと違背するならば、根本中堂・三王二十一社を始め諸堂ことごとく焼き払う」と宣告した。しかし山門の僧衆はこの勧告を聞き入れず、情勢を見て浅井・朝倉に味方し、魚・鳥・女人を山に上げて悪逆をほしいままにした。
信長公は下坂本に陣を取り、25日になって叡山を囲んだ。
織田勢はまず麓の香取屋敷を補強して平手監物・長谷川丹後守・山田三左衛門・不破光治・丸毛長照・浅井新八・丹羽源六が入り、穴太⑦にも砦が築かれて簗田広正・河尻秀隆・佐々成政・塚本小大膳・明智光秀・苗木久兵衛・村井貞勝・佐久間信盛ら十六将が入れ置かれた。
田中には柴田勝家・氏家ト全・安藤守就・稲葉一鉄が布陣し、唐崎⑨の砦にも佐治八郎・津田太郎左衛門が入った。そして信長公自身は志賀の宇佐山城に陣を取った。
叡山西麓の将軍地蔵山の古城跡には織田信広・三好康長・香西越後守に公方衆を加えた兵二千余りが布陣した。また八瀬・大原口⑪には山本対馬守と高野蓮養坊が足がかりの陣地を築き、地理に詳しい両人はここから夜中山上に忍び入っては谷々へ放火してまわり、寺側を大いに悩ませた。
10月20日、信長公は朝倉勢へ菅谷長頼を使者に遣わし、「いらざる時を費やすをやめ、一戦をもって勝敗を決さん。日時を定めて出で候え」と申し述べさせた。しかし朝倉勢からの返答はなかった。そののち朝倉勢は交戦を中止して講和を申し入れてきたが、信長公は是が非にも決戦して鬱憤を散らすべしとして、これを蹴った。
信長公が叡山に釘付けとなっている間、三好三人衆は野田・福島の砦を補修し、諸牢人を集めて河内・摂津の各地で示威行動をとった。しかし高屋城の畠山殿・若江城の三好義継・交野の安見右近および伊丹・塩河・茨木・高槻の各城がいずれも堅固に構え、和田惟政率いる畿内衆も各地に陣所を構えて守備を固めていたため、京方面へ進むことはできなかった。
江南では六角承禎親子がふたたび起こり、甲賀口の三雲氏居城菩提寺城⑬まで寄せてきたが、人数が少なく戦の体にならなかった。また江州の本願寺門徒も蜂起し、濃尾方面への通路を閉ざそうとしたが、百姓のことゆえ人数は多くとも脅威にはならなかった。
木下藤吉郎と丹羽長秀の両名は、江南の各地を転戦してこれらの騒擾を鎮めた。そして小谷城付城の横山城と佐和山城付砦の百々屋敷に十分な守備兵を残し、みずからは志賀へ参陣すべく西上した。途中の建部⑭には一揆勢が砦を構え、近隣の箕作山・観音寺山と連携して通路を塞いでいたが、両人は一戦してこれを蹴散らし、難なくまかり通った。
木下・丹羽勢は志賀へ到着し、瀬田へ入った。これを志賀の城から遠望した信長公は、瀬田城の山岡景隆が六角勢を引き入れて謀叛したものかと疑ったが、飛脚の報によって藤吉郎・五郎左衛門が参陣したものとわかり、不審を解いて大いに機嫌を良くした。これにより在陣諸兵の士気も上がった。11月16日、信長公は丹羽長秀に命じて鉄綱をもって瀬田に舟橋を架けさせ、村井新四郎・埴原新右衛門に警固させて人馬の往還を助けた。
このころ尾張では、信長公の御舎弟彦七信興殿が小木江に城を構えて居城としていた。そこへ信長公が志賀で手詰まりとなっている様子を見た一揆勢が長島で蜂起し、小木江にも押し寄せてきた。一揆勢の攻撃は日を追って激しくなり、21日ついに城内へも突入してきた。これを見た信興殿は、一揆勢の手にかかって果てては無念と思い、天守櫓へのぼって腹を召された。是非なき次第であった。
11月22日、六角承禎との和睦が成立して三雲・三上氏が志賀へ出仕し、上下ともひとまず胸をなでおろした。また25日には堅田⑯の猪飼野甚介・馬場孫次郎・居初又次郎の三名が織田方へ内通を申し合わせ、坂井政尚・安藤右衛門・桑原平兵衛へその旨を打診してきた。坂井らは信長公の許しを得て猪飼野らから人質を受取り、夜のうちに人数千ばかりを率いて堅田へ入った。しかし堅田が織田勢の手に渡ることを嫌った越前勢はまもなくして大軍をもって堅田へ返し、多勢にものを言わせて諸口から攻め寄せてきた。
重囲の中にあって織田勢は奮戦し、前波藤右衛門や義景右筆の中村木工丞らを討ち取る活躍を見せた。しかし敵の大軍の前にあるいは負傷し、あるいは討死して次第にその数を減じ、ついに敗軍した。乱軍の中坂井政尚と浦野源八親子は一騎当千の働きを見せ、比類なき高名をあげたのち見事討死を遂げた。
季節は、すでに冬にさしかかっていた。
寒天と降雪で北国への通路は閉ざされようとしていた。そのため朝倉勢は公方様へ言上し、織田勢との休戦を申し入れてきた。信長公ははじめ休戦に応じようとしなかったが、30日に三井寺に入った公方様から重ねて休戦の上意があったため、信長公もこれを無視しがたくついに休戦に同意した⑰。
12月13日、織田と浅井・朝倉との間に講和が成立し、織田勢は湖水を越えて瀬田まで退き、なおかつ浅井・朝倉勢が高島郡に到着するまで人質を出して行路の安全を保証することが決まった。翌14日、信長公はこの約定に従い瀬田の山岡景隆居城まで軍勢を退かせた。これを見た敵勢も15日早朝から叡山を降り、北国へ引き上げていった。
しかしながら、この戦はまことに前代未聞の栄誉ある一戦であった。信長公は大雪の中を行軍して16日に佐和山山麓の磯の郷へ宿陣し、翌12月17日久方ぶりに岐阜へ帰陣した。
駐車場・・・元比良スキー場へ 期間限定バス停
道案内
161号(湖西)バイパス終点を左に折れ比良山中に入ると、出会橋があります。さらに川沿いに進むと昔の比良リフトの乗り場となり、この一帯がダンダ坊です。数多くの石垣が残り「比良七百坊」を彷彿させます。
また、ここからは比良山への登山口にあたり、落差81mある神爾滝を見に行っても良いかもしれません。
そして、帰りには天然温泉「比良とぴあ」によって、疲れをとってリラックスするのもよいかも。
織田勢が攻め寄せる中、ダンダ坊に詰めていた僧兵たちは敵陣めがけて一気にこの坂を駆け下ったのであろう坂。
駆け降りる僧兵たちの目には、琵琶湖最大の島「沖島」が映っていたでしょう。ここから見える景色は、沖島が向かって右側を頭と見立て、仏陀が横になる涅槃の姿を映しているという。沖島に仏の姿を見立てて、その御加護を信じ敵陣へ突進していった僧兵たちが駆け降りた坂、これが「ダンダ坊の落とし」です。
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、大津の城郭
本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!