城郭探訪

yamaziro

池庄館  近江国(湖東)

2014年08月31日 | 居館

お城のデータ

所在地:東近江市(旧愛知郡湖東町)池庄町    map:http://yahoo.jp/Rb4NEh

現 状:神社・集落(空地・民家・畑地)

遺 構:

区 分:居館

築城期:室町期 

築城者:

城 主:最上氏

目標地:八幡宮

駐車場:草の根集会場(公民館)無料駐車場

訪城日:2014.8.31

 

歴 史

近江蒲生郡志には、

池荘村(愛知郡)は、江戸期に玉緒村下大森の地に「大森陣屋最上氏」の采地。最上氏5000石近江三郡に亘、上大森村・下大森村・尻無村・稲垂村・石原村・小御門村・野口村・市之瀬村(甲賀郡)・上野村(甲賀郡)・・・とある。

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布、淡海の城、

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佐々木六角家臣団

2014年08月30日 | 武将

六角家臣団

近江守護 六角氏(佐々木判官家・佐々木備中家・佐々木近江家)、

六角一族 河端(八幡山)氏、愛智氏、山内氏、鯰江(毛利)氏、種村氏、野村氏、池田(村井)氏、駒井氏、高宮氏、坂田氏、

大原一族 大原氏(佐々木備中家)、春照氏、白井氏、

高島一族 高島氏(佐々木越中家)、朽木氏(佐々木出羽家)、平井氏、横山氏、田中氏、永田氏、谷氏、

馬淵一族 馬淵氏、青地氏、堀部(森川)氏、岡氏、青木氏、

井上一族 伊庭氏、井上氏、

愛智一族 楢崎氏、永原氏、山崎氏、池田氏、平井氏、高野瀬氏、

佐々木一族 葛岡氏、木村氏、落合氏、乾氏、竹腰氏、田付氏、

六角被官 目賀田氏、三井氏、建部氏、三上氏、梅戸氏、後藤氏、進藤氏、宮城氏、蒲生氏、音羽氏、小倉氏、九里氏、大津氏、山岡氏、今村氏、寺西氏、

甲賀衆 三雲氏、山中氏、美濃部氏、水原氏、望月氏、和田氏、多羅尾氏、山口氏、

河内衆 若江氏、

京極家

上杉家(加地氏)

織田家(佐々氏)

大覚寺統(関氏)

近江守護 

佐々木広綱-佐々木広綱-佐々木信綱-佐々木泰綱-六角頼綱-六角時信-六角氏頼-京極高氏-六角氏頼-山内信詮-六角義信-六角氏頼-六角高経(京極高詮)-六角満高-青木持通-六角満高-六角満綱-六角持綱-六角久頼-六角政頼-六角政堯-六角政頼-六角政堯-京極持清-京極孫童子-六角政堯-六角虎夜叉丸-京極政経-六角高頼-六角高貞?-結城尚豊-京極政経-細川政元-高島頼泰-山内就綱-六角高頼-六角氏綱-京極高清-六角氏綱-六角定頼-六角義賢

六角氏は佐々木氏の惣領でしたが、庶流の京極氏が南北朝時代に大躍進したため、近江一国にも満たない勢力となってしまいました。

武士団としての佐々木氏は大雑把に

佐々木定綱から始まり、近江中心に活躍した六角、京極、大原、高島、馬淵らと、

佐々木盛綱から始まり、備前・越後中心に活躍した加地、飽浦、新発田、竹俣らと、

佐々木義清から始まり、出雲・隠岐中心に活躍した隠岐、富士名、塩冶、富田らの3つに分けられます。


六角氏は佐々木惣領として近江に居続けますが、北伊勢にも勢力を持っていたので、尾張の織田氏とは境界を接していました。

そのせいか織田家臣には近江関係者を名乗る武士(佐々、森川、青木など)がかなりいます。

特に尾張南部に勢力を持っていた勝幡織田氏(信長の家)は河内長島を挟んで六角氏と向かい合っていたので、

美濃斎藤氏よりも六角氏と関係が深かったのではないでしょうか?


南北朝時代に庶流の京極氏が、義清流佐々木氏が持っていた出雲・隠岐守護職を手に入れ、それを京極庶流の尼子氏が奪います。

 

参考資料:http://www.geocities.jp/kawabemasatake/sasaki.html


葛巻(かずらまき)城  近江国(蒲生)

2014年08月29日 | 平城

お城のデータ 

所在地: 東近江市葛巻町   (蒲生郡蒲生町葛巻)      map:http://yahoo.jp/ybvSZY

現 状:葛巻集落   

遺 構:

区 分:平城

築城期:室町期

築城者:葛巻隼人正

城 主:葛巻隼人正

目標地:葛巻草の根集会場

駐車場:無料駐車場

訪城日:2014.8.28

 

お城の概要

現在の雪野山付近(滋賀県蒲生郡竜王町川守)一帯は、川守城址(吉田城址)であり、川守には「吉田出雲守重賢居宅跡」江戸時代の文献に記された小祠城八幡があります。

吉田 重氏(よしだ しげうじ、永禄5年(1562年) - 寛永15年(1638年4月17日))は、戦国時代から江戸時代前期の武将。日置流印西派の始祖。源八郎、旧姓は葛巻、号は一水軒、法名は印西。弟に定勝、貞氏。

 

近江国蒲生郡葛巻村出身。日置流弓術を学び、当主吉田重綱の娘を娶り吉田家に入るが、後に養父重綱と不仲になり、彼の弟である吉田業茂に師事する。のち自ら印西派を興した。

 

豊臣秀次、結城秀康、松平忠昌に仕え、大坂の陣後は徳川氏に召抱えられ、家康、秀忠、家光の3代将軍に従った。嫡子重信は家光の旗本兼将軍家弓術指南役を務めた。

 

 また東南に位置する葛巻(かずらまき)は、吉田重高の嫡子重綱の娘婿・吉田源八郎重氏(旧姓:葛巻)徳川将軍家弓道指南役・日置流印西派(日置當流)の流祖・一水軒印西輩出の地であると伝えられています

 南の宮川は、重賢の隠れ場所のあったところで、雪荷派(せっか)の祖吉田重勝が二十五、六歳のころ祖父に秘伝を教えられた地であるとも言われています。 そのほか、弓に関する地名では、「弓削(ゆげ)」という字が残っています。

氷見神社 

氷見神社の西に地蔵堂が

歴 史

近江の國、蒲生郡河森・川守城(野寺城)(現在の滋賀県竜王町川守)の城主であった吉田氏は、近江源氏・六角佐々木氏に仕え、代々弓馬の武功に名高い一族でした。

 その十一代目の吉田出雲守重賢は(将軍足利義晴弓術指南役)。吉田重賢が生まれる前のこと。 彼の母親は、彼が生まれるとき、三日月が自分の胸に入っていく夢を見ました。 三日月の形からの暗示か、彼女は「この子はきっと弓道の名誉を得るに違いない」と確信し、 重賢の弓術修行にたいへん熱心でした。母の思ったとおり、重賢は年若いうちから才能を発揮し、その技は妙域に達したそうです。

 

吉田重高の嫡子重綱の娘婿吉田源八郎重氏(旧姓:葛巻)、(徳川将軍家の弓道指南役)

日本の弓道史において重要な人物を多く輩出し、近代弓術確立の場となった竜王町。
現在の雪野山付近には、代々の弓の名手たちにまつわる遺跡が多く残っています。

  室町中期までの弓術は、武田・小笠原流などの「古流」といわれる流儀が主流でしたが、 これは技そのものよりも、弓馬諸式の儀礼的故実様式として大成されたものでした。

 しかし戦乱の世となり、もっと実戦的な威力を示す弓術の必要性を感じ、新しい射術の改良工夫を行ったのが日置弾正(へきだんじょう)正次でした。 彼は愛田村(現在の三重県伊賀町)生まれと言われ、若いころから弓術に秀で、数々の勇名を馳せています。
彼は弓術を極めるために諸国を遊歴し、苦労の末、飛・貫・中の奥義を身につけ、彼独自の新射術を開発しました。また近江の六角佐々木氏に従い、その新しい弓術で大いに奮戦したと伝えられています。

 やがて彼が壮年になって、吉田八幡宮に参籠したときのこと、満願の暁に白髪の老人から一本の矢を与えられる夢を見ます。 不思議に思いつつもさらに修行を積んでいると、その翌年、齢五十余りの老人が突然現れ、重賢に弓術の奥義をことごとく伝授しました。
この老人が日置弾正(へきだんじょう) であると言われています。
こうして重賢と、その嫡子の重政(しげまさ)は、七年の間彼のもとで日夜親しく従学し、 重賢は、その教えに自分なりの工夫を加え、ついに「日置吉田流」(へきよしだりゅう)「日置流」を完成させます。この流儀は「新派」と呼ばれ、以後近代弓術の基礎として多くの弓の名手を輩出し発展していきました。 また重賢は、日置弾正正次なる人物を自分の上に創造し、弓術の全ての奥義を伝授したとすることにより「日置流」流儀の重み付けを図ったとも言われています。

 重賢の子、重政は父とともに将軍足利義晴(あしかがよしはる)の弓の師範を務めるなどすばらしい腕の持ち主でした。しかしこの 「日置吉田流弓術」「日置流」は、血統による一子相伝もしくは唯授一人の精神を貫くことを基本としていたため、ひとつの対立が起きました。

 重政の門人で主家の佐々木義賢は、どうしてもその秘伝を伝授してほしいと重政に迫りました。しかし重政は、いくら主家であっても、他家へ渡すことはできないと、一子相伝の掟を守り、 それを許さなかったため、二人の間には不和が生まれ、一時重政は越前一条谷に引きこもってしまいました。結局数年後、朝倉義景(あさくらよしかげ)のとりなしにより、 二人は養子縁組を結び、佐々木義賢は日置吉田流の奥義一切を受け継ぎましたが、後に、佐々木義賢は重政の息子の重高を自分の養子として秘伝を返したと伝えられています。

 この対立が元となり、「日置吉田流弓術」「日置流」は、「出雲派」「雪荷派」に分立することになりました。「出雲派」と呼ばれる、吉田重政から佐々木義賢、そして吉田重高 へという流れは、その後も阿部藩の庇護を受けて明治維新まで発展します。
一方、「雪荷派」は、重政と佐々木義賢の対立から危機感を感じた重賢が、重政の四男の重勝(しげかつ)「雪荷(せっか)」に直接真伝を伝授したことから、 本流とは違った流派として生まれ、蒲生氏郷(がもううじさと)・秀郷親子(ひでさとおやこ)、森刑部(もりぎょうぶ)、羽柴秀長(はしばひでなが)、豊臣秀次(とよとみひでつぐ)、 細川幽斎(ほそかわゆうさい)などの高弟を輩出しました。吉田流の技術的な要素は雪荷派に多く伝えられているとも言われています。
その後、この二つの流派からさらに分立が進み、総じて日置六派もしく七派と呼ばれるようになりました。

 吉田家という一族が、何代にもわたり弓道で名を挙げたことは事実であり、たいへん希有なことだといえるでしょう。

 鉄砲の伝来により、武器としての弓や矢の役割は衰退していきますが、 武士が指導力を持っていた江戸時代には、弓は士気鼓舞のための武士教育に用いられるようになりました。 そして弓の技術を確認するだけでなく武士の力を民衆に誇示するため、京や江戸で三十三間堂の通し矢が盛んになりました。 中でも出雲派の流れをくむ大蔵派の創始者、吉田茂氏(よしだしげうじ)は、前後七回にわたってその技を試み、次々に自己の記録を更新し、天下一の名声を独占しました。
 明治維新以後弓術は、西洋文化を重んじる気風に押されて一時衰退の色を見せましたが、現在では、学校体育にまで取り入れられ、男性のみならず、女性にも愛弓者が増えつつあります。 弓道はただ目標に射当てるだけでなく、何事にも動揺することのない精神性を身につけるスポーツとなりましたが、その根幹に、日置吉田流という大きな流れがあるのです。

  現在の雪野山付近(滋賀県蒲生郡竜王町川守)一帯は、川守城址(吉田城址)であり、川守には「吉田出雲守重賢居宅跡」(よしだいづものかみしげたかきょたくあと)」と江戸時代の文献に記された小祠城八幡があります。 また東南に位置する葛巻(かずらまき)は、吉田重高の嫡子重綱の娘婿・吉田源八郎重氏(旧姓:葛巻)徳川将軍家弓道指南役・日置流印西派(日置當流)の流祖・一水軒印西輩出の地であると伝えられています。 南の宮川は、重賢の隠れ場所のあったところで、雪荷派(せっか)の祖吉田重勝が二十五、六歳のころ祖父に秘伝を教えられた地であるとも言われています。 そのほか、弓に関する地名では、「弓削(ゆげ)」という字が残っています。

伝統行事では、弓道発祥の地であることが伺える、竜王町七里の石部神社の「弓始め神事」と「弓納め神事」が現在も受け継がれています。

 

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭

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林城(赤座城)  近江国(竜王)

2014年08月28日 | 平城

お城のデータ 

所在地:蒲生郡竜王町林      map:http://yahoo.jp/P5I-7j

別 称:赤座城

現 状:林公民館・空地

遺 構:

区 分:平城

築城期:室町期

築城者:村田氏

城 主:村田氏・(赤座(赤佐)隼人?)

目標地:林公民館

駐車場:林公民館無料駐車場

訪城日:2014.8.28

お城の概要

林集落の常信寺前の路地を入って道が右にカーブしている箇所の左のお宅(門が奥まってます)の門前に村田氏邸址碑があります。

林城は村田氏館の北側の林公民館周辺と思われます。

公民館前の民家に石仏

日野川堤防

歴 史

村田氏は佐々木六角氏の一族で、この地区の郷士であるようです。

近江国蒲生郡の名族にして赤座隼人・同郡林城の城主なりしという。『近江国與地志略』に見ゆ。 林城は赤座(赤佐)隼人の城と史料にあるようです。

堤防から林城

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭

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村田氏館  近江国(竜王)

2014年08月28日 | 居館


門前に「村田館ノ跡」石碑 

お城のデータ 

所在地:蒲生郡竜王町林      map:http://yahoo.jp/AmVR4O

現 状:個人宅・宅地(集落)

遺 構:石碑

区 分:平城

築城期:室町期

築城者:村田氏

城 主:村田氏

目標地:林公民館

駐車場:林公民館無料駐車場

訪城日:2014.8.28

お城の概要

林集落の常信寺前の路地を入って道が右にカーブしている箇所の左のお宅(門が奥まってます)の門前に城址碑があります。

林城は村田氏館の北側の林公民館周辺と思われます。

  

館の周囲を流れる水路

 

歴 史

村田氏は佐々木六角氏の一族で、この地区の郷士であるようです。

林城は赤座(赤佐)隼人の城と史料にあるようです。

常信寺

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭

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信濃館 近江国(竜王)

2014年08月28日 | 居館

 「赤門」付近が大手か

お城のデータ 

所在地:蒲生郡竜王町信濃      map:http://yahoo.jp/jGGt2f

現 状:畑地・稲荷神社・集落

遺 構:

区 分:平城

築城期:室町期

築城者:信濃氏

城 主:信濃氏

目標地:信濃町消防ポンプ庫

駐車場:信濃町消防ポンプ庫無料駐車場

訪城日:2014.8.28

「赤門」付近が大手か

お城の概要

信濃口のバス停から右手の道に行きます。突き当たりの集落が信濃集落で、集落の北端が館跡です。(安楽寺の北端)

濃館は、信濃地区の北にある稲荷神社境内から北側の水田にかけてが城域であった。 居館の遺構は全く残っておらず、「殿屋敷」・「赤門」等の地名が残るのみ。

安楽寺(表示はないが中に仏道が)地蔵堂と石仏・・・現在は「老人憩いの家」の表示  

東隣の民家に

歴 史

佐々木六角氏の陣代を務めた信濃氏の館と伝わります。

稲荷神社北側に「殿屋敷」と呼ばれる地名を伝える。

信濃町消防ポンプ庫から、北へ50m、稲荷神社と「殿屋敷」

 信濃集落遠望(後方は雪野山)

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭

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地蔵城 近江国(彦根)

2014年08月28日 | 居城

 

お城のデータ 

所在地:彦根市正法寺町      map:http://yahoo.jp/lZ23BK

現 状:田地・宅地

遺 構:不明

区 分:平城

築城期:室町期

築城者:地蔵兵太郎

城 主:地蔵兵太郎

目標地:

駐車場:路上駐車

訪城日:2014.8.27

お城の概要

地蔵城は、中世城郭分布調査によると、中山道沿い東側の商店や民家と田地付近に比定されているが、遺構等は現存しない。地蔵町は中山道の西側で、比定地は正法寺町に属することが気にかかる。

歴 史

「多賀神社文書」に地蔵館として地蔵屁兵太郎の名がみえるが詳細は不明。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭

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土田館  近江国(多賀)

2014年08月27日 | 館跡

お城のデータ

所在地:犬上郡多賀町土田 map:http://yahoo.jp/gl05x3

現 状:集落・田畑

遺 構:曲輪

区 分:居館

築城期:室町期

築城者:土田縫殿助

城 主:土田縫殿助

目標地:土田公民館・正福寺

駐車場:正福寺無料駐車城

訪城日:2014.8.27

集落の北部・・・北土田集落の中に【土塁と曲郭】残存・・・http://yahoo.jp/gl05x3

集落の北部・・・北土田の東端

微高地1.5mの石垣50mと畑地

北端竹薮内には低土塁のような痕跡が残るhttp://yahoo.jp/rVeZg5

 お城の概要

土田館は、芹川南岸の土田集落の北方の一画にあったとされる。

周辺は田園が広がるが、集落の北部の中央に・・・北土田集落の中に【土塁と曲郭】残存・・・http://yahoo.jp/gl05x3

北側から集落を眺めると宅地は見事に微高地なのが判る。

集落北側の微高地は円形に張り出し、北端竹薮内には低土塁のような痕跡が残る。また集落内の路地は「くい違い」「どんつき」の城館特有の通路が雰囲気を留めている。

また、200m北は芹川、集落内は堀川(現在は用水路)、集落全体が微高地の【土塁と曲郭】城館、中央付近の食い違い路、往時が残る。

 

集落中央付近の食い違い道路
長屋門の住宅

歴 史

 「大洞弁天当国古城主名札」に、土田縫殿助の名がみえる。

土田公民館横

専光寺

正福寺駐車地

集落西出入口に

 土田氏は近江国の出身で

宇多源氏の流れを汲む名門・佐々木六角氏の旗本を務め、土田氏(近江佐々木氏庶流建部氏)は代々「近江守」を称していた。

 4代目の近江守秀定の頃、文明年間(1469年~1486年)に近江国蒲生郡より東美濃木曽川河畔の土田村に移り住んだ。渡り田の大井戸渡しを支配して土田村や下畑や川原田を拓き、開墾領主として当地の土豪へと生長した。

 近江佐々木義詮の末裔が、この地来て明智氏に属して土田に築城し土田と名乗ったのが始まりである。弘治2年(1556年)3代城主土田源太夫の時に明智城が斎藤義龍の命を受けた関城主長井道利に攻められ落城時討死し土田氏の直系は絶えてしまった。

 2代城主泰久の2男勘助は母方の尾張丹羽郡小折城主生駒家広に嫡子がなかったので養子となっていたが、親重と改名し土田・小折城を領した。生駒親重は初め犬山城主織田信清に属していたが信長と信清が手切となり犬山城は落城し親重は土田城で謹慎し後信長に仕えた

 親重の嫡男親正は信長・秀吉に仕え、戦功を重ね天正13年赤穂6万石の大名となり15年には17万石を拝領し四国丸亀目城主となり土田城は廃城となった

美濃・土田城は、標高181mの城山にある規模270m×100mの城。この城はあの織田信長の母、土田御前の出生地である

中世の武士団  東山道近江

  三河伴氏の富永兼網を女婿とし、その子吉弘が頼弘の後 ... 馬杉-中井の諸氏となっており、さらに、頼男の子孫は、代々もと伴氏の庶流ないしは伴部の裔であって、善男との関係は後世の付会に過ぎないであろう。 ... 遺胤が、三河伴氏となったという伝承については前述したつた生駒親正の父親重は、土田氏から出て、生駒氏を継いだのである。 ... 光基の弟澄覚のの子光助は建部大夫に復し、承久の乱で京方に属したため誅殺された

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭

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大堀城 近江国(彦根)

2014年08月27日 | 居城


お城のデータ 

所在地:彦根市大堀町      map:http://yahoo.jp/obtdrr

現 状:宅地

遺 構:

区 分:平城

築城期:室町期 

築城者:大堀弥右衛門

城 主:大堀弥右衛門

目標地:旭森公園・岩清水神社

駐車場:旭森公園の空地に駐車

訪城日:2014.8.27

大堀城址周辺:現況(かごやと井戸跡)。

お城の概要

大堀城は、中世城郭分布調査によると、大堀山のすぐ南側、中山道の沿い東側一帯に比定されている。目印としては水路が流れている南岸付近だが、特に城館らしい区画はない。ただ水路があることにより雰囲気はある。この水路は往時のままなのだろうか。

大堀町は、彦根市街地を流れる芹川の中流にあります。彦根市教育委員会による埋蔵文化財一覧によれば、大堀城遺跡は現在石清水神社の中山道を挟んだ反対側近辺とされています。

芹川と(亀甲(きっこう)山に隣接していますが、要害性は乏しく、東山道に面した在地領主の館なのだと思われます。

亀甲山は、詰め城か?

頂部10m四方西側中腹に墓碑4基

歴 史

「古代地名記」に大堀弥右衛門の屋敷があったとされているが詳細は不明。

中仙道

中仙道北側

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭

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上南(かなみ)城  近江国(蒲生)

2014年08月27日 | 平城

 

お城のデータ

所在地:東近江市上南町  (旧蒲生郡蒲生町上南)     map:http://yahoo.jp/E7h_fA

現 状:集落・畑地

遺 構::曲輪、

区 分:居館

築城期:室町期

築城者:安部井右衛門太夫長弘(後二因幡守秀家氏)

城 主:安部井右衛門太夫長弘(後二因幡守秀家氏)

城再建:安部井秀家

目標地:誓安寺

駐車場: 路上駐車

訪城日:2014.8、28

お城の概要
 川南城は蒲生町上南集落の北側の「学校畑」と呼ばれる畑地一帯で、1901(明治34)年に朝日野西尋常高等小学校が置かれていた所で、それまでは「城山」と呼ばれる山林であったといい、現在も側溝の下から最大高さ3mほどの比高差があり、面影をとどめている。

 当時の城域は60m×60m(滋賀県教育委員会の調査では東西75m、南北80m)ほどで方形館であったとされ、周囲に6mほどの堀があったというが、現在では埋められ田圃になっている。以前は堀のまま田圃として使われていて、「堀田」と呼ばれていたともいう。

 

歴 史

 近江蒲生郡志に、安部井氏の條

安部井氏は蒲生舊跡記に丹波氏にして後宇多源氏に改むと記す佐々木氏の臣なり、安部井氏(西桜川村)に住し因て氏となす佐々木氏亡びて蒲生氏仕ふ。安土浄厳院過去帳に天正十年十二月二十六日安部井武右衛門女中とあり、吉田兼卿記天正十二年正月十六日の條に安江井彌左衛門と見ゆる日野人は安部井氏の誤ならん氏郷が會津を領するに及び行て所領を得しもの一族八人あり安部井武右衛門は八百石を領し、清左衛門六百石、」孫右衛門は五百石、久右衛門は四百石、数馬助、三之助、宗右衛門、新之允の四人は各三百石つゝを食あり。

川南城の東250mにある浄土宗誓安寺には「道場掟」が保存され、天文14(1545)年には「城主右衛門太夫長弘後二因幡守秀家」と見え、元禄12(1699)年の記録にも「安部井因幡守秀家」と見えることから、安部井氏の館城だと考えられている。田園の中に建つ誓安寺は小さなお寺であるが、地域の人々に護持されているお寺の典型であろう。

東近江市の旧蒲生町にある誓安寺は、995年頃花山法皇によって開創されたと伝わる。
1492年六角征伐の兵火によって焼失したが、1545年上南城主の安部井秀家一族によって再興され、安部井氏の菩提寺となった。

 

 市子殿の観音寺にも「平井城主安部井因幡守秀家」の位牌があるという。http://yahoo.jp/gxtWt5

また城跡の北100mの八幡神社http://yahoo.jp/eXrAvaは、文和4(1355)年に平井長秀が勧請し、明応2(1493)には安部井因幡守綱重が再建したともいわれる。

 八幡神社の東の立善寺http://yahoo.jp/XG9Ssz

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、近江蒲生郡志、淡海の城、近江の城郭

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中川館 近江国(彦根)

2014年08月25日 | 平城

お城のデータ

所在地:彦根市下岡部町 map:http://yahoo.jp/Th3t_4

現 状:東福寺・集落

遺 構:

区 分:居館 (集落)

築城期:室町期

築城者:

城 主:

駐車場: 

訪城日:2014.8.23

 お城の概要

中川館は、中世城郭分布調査によると、東福寺を含む下岡部町集落一帯にあったとされる。

この付近は南方路地が半月状の曲線を描き、北側路地は虎口跡のような形状をしている。また北西の田地から集落を望むと、丘陵のように高まっているのがわかる。

下岡部の集落は大きく分けて荒神山山麓と村域南西の平野部に存在している。また、前者は村下岡部枝卿とされた山之脇村である。水田部分には条里地割が見られ、当村の北西部と南東部の境界は条理地割に沿った直線となっている。

昔、旧愛知川本流がこの村の南境を流れ、文禄川が北を流れていたことから、それにはさまれた当集落は、中川と呼ばれていた。今日でも集落の8割が中川姓である。

村域の南端部付近を流れ、舟運路として重んじられてきた文禄川は、愛知川旧河道の一支流を再整備したものである。そのため以前より水系には恵まれており、水飢饉などを除いては安定して水は供給された。

ここより約300m西方には下西川館、南方約300m先には上西川館が比定されている。

歴 史

 不明

 

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭

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岡村館 近江国(彦根)

2014年08月24日 | 居館

お城のデータ

所在地:彦根市岡町町 map:http://yahoo.jp/Th3t_4

現 状:新神社鳥居・車道・宅地

遺 構:

区 分:居館 (集落)

築城期:室町期

築城者:岡氏

城 主:岡隼人佐貞吉・岡世之助(天文年間)

目標地:新神社

駐車場: 新神社無料駐車場

訪城日:2014.8.23

お城の概要

岡村館は、中世城郭分布調査によると、雨壺山(平田山)の南麓、新神社の前面鳥居や車道を含む一帯に比定されている。

現在は宅地化や自動車教習所の改変のため城館の面影はない。また、この比定地は発掘調査等なく信憑性はない。
新神社は付近約14町もの氏神である。

歴 史

多賀神社文書」に岡隼人佐貞吉の名があり、「彦根旧記集成」に天文年間には岡世之助が居住したとされている。

東光寺

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭

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薩摩館  近江国(彦根)

2014年08月24日 | 居館

 

お城のデータ

所在地:彦根市薩摩町     map:http://yahoo.jp/ATgDyz

現 状::集落・稲村神社

遺 構:集落全体が微高、堀跡と思われる巾広道路、南側が横矢掛り状に膨らんでいる

区 分:居館 (集落)

築城期:室町期

築城者:中村氏

城 主:中村氏

目標地:無量寺

駐車場: 路上駐車

訪城日:2014.8.20

無量寺 稲村神社御旅所

お城の概要

薩摩館は、琵琶湖沿岸に営まれる薩摩町集落内に比定される城館。中世城郭分布調査によると、無量寺と稲村神社に挟まれた付近一帯とされる。

南方から集落を見ると一段高くなっていて、綺麗に碁盤状に区画された集落内にあって、比定地だけは南側が横矢掛り状に膨らんでいる。また北側の旧湖岸道路は、比定地付近だけ道幅が拡がっているのは堀などの遺構の名残りだろう。

稲村神社前には五輪塔がポツリ建っていた。
旧愛知川流路は薩摩館前を流れていたとされる。薩摩町と隣りの柳川町、どちらも九州の地名なのは?

歴 史

近江愛智郡志には、住す

 坂田武士今井家の重臣島新右衛門の室は薩摩中村娘、福原太郎左衛門女房の姉也と「島記録」に見え、新右衛門秀淳の三男三郎右衛門が母家中村氏に養子となり、後年島氏を称す【島記録】

薩摩館に関する詳細は不明である。
薩摩町は薩摩出身者か薩摩守を名乗った者が住したため、詳細不明。ただ古来より、この地は近畿隼人(隼人司や左右衛門府に仕えて御所を守り、色々な行事等の先導役や警護役として活躍した)のうちの近江国の隼人の居住地とされるところで、「薩摩隼人」と関連性があるのかも

 またこの地は、秀吉時代には直轄領とされたほどの要港であった。
江戸時代には、北海道松前までも商圏を保有する商人の町で、薩摩町とその隣りの柳川両町の商人はまとめて「両浜商人」と呼ばれ、近江商人の一翼を担っていた。

無量寺印東

南側から集落を見ると一段高くなっている

旧愛知川流路は薩摩館前を流れていたとされる。薩摩町と隣りの柳川町、どちらも九州の地名なのは、琵琶湖や旧愛知川の商人港・運輸業

参考資料:新修彦根市史、滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭、近江愛智郡志

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朽木主膳陣屋   近江国(近江八幡)

2014年08月24日 | 陣屋

お城のデータ 

所在地:近江八幡市玉木町2丁目     map:http://yahoo.jp/DRtBAL

現 状:民家

遺 構:

区 分:陣屋(代官所)

築城期:江戸期 元禄11年(1698)以降

築城者:朽木主膳

城 主:朽木則綱・直綱・紀綱・長綱・綱弘

城 域:南北約70m×東西約50m四方

目標地:玉木バス停

駐車場: 路上駐車場

訪城日:2014.8.20

お城の概要

名門朽木氏一族、旗本の代官所。朽木主膳陣屋は、江戸中期に置かれた旗本の代官所である

秀次の城下町(玉木町)に、江戸期に飛び地の陣屋が置かれ、現在は民家が建替えの工事中、遺構や街並みも更新される。

場所は玉木バス停西側の一画で、規模は南北約70m×東西約50m四方と考えられている

福知山藩朽木氏庶流の代官所。
1698年、朽木則綱が近江国内に6千石の代官地を与えられ、その頃の築城と考えられる。
則綱以降、歴代の領主である直綱・紀綱・長綱・綱弘は代々「朽木主膳」を名乗った。

1825年に同地一帯が天領となったため、廃城となる。

城域は、現在の玉木町バス停付近とされる。 南北約70m×東西約50mの規模があったと考

歴 史 

朽木主膳陣屋は、福知山城主朽木氏から派生した分流朽木氏が旗本として代官所を構えた地である。

朽木氏は、近江守護佐々木氏から六角氏や京極氏と共に分かれた高島氏から、更に派生した高島七頭の1つに数えられ、朽木庄を本拠として代々将軍家に仕えた。

戦国末期には朽木元綱が信長・秀吉・家康の三英傑に従い朽木藩を維持した。元綱の死後の遺領は3子に分知されたため、朽木宗家を継いだ嫡男宣綱は大名の資格を失ったが、交代寄合の旗本として6470石で朽木庄を継いだ。

そのうち3男稙綱には1100石余が与えられたが、のちに将軍家光に重用されて、下野鹿沼藩や常陸土浦藩を与えられ宗家を上回る大名に取り立てられた。
稙綱の子稙昌の時、福知山32000石に移封された。

稙昌の死後、遺領の一部である3000石が次男則綱に分与され、則綱は将軍家綱・綱吉に仕えて元禄11年(1698)近江国蒲生・栗太・野洲3郡内に6000石を与えられた。

朽木主膳陣屋が築かれた時期は定かではないが、則綱ののち直綱・紀綱・長綱・綱弘は代々主膳を名乗っている。また代々朽木氏は、旗本として江戸芝の西久保に屋敷を構えていたので、陣屋では代官が政務を司っていた。

文政8年(1825)綱弘の子綱常の時に陣屋のあった八幡町の中心地は天領となり、その代償として郡内木村及び下小房村を与えられ、陣屋は信楽代官所に引き渡された。

宝永五年から文教九年まで全市が朽木領となった

朽木綱常は天保年間(1830-43)、同じ八幡町内の北ノ庄村に新たに朽木和泉守陣屋を築き、陣屋に代官を配置し明治に至った。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭、日本城郭体系11

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日夏城(泉城・泉古屋敷)  近江国(彦根)

2014年08月24日 | 平城

日夏城の平時の居館

妙楽寺古屋敷遺跡の現地看板・説明板

お城のデータ

所在地:彦根市日夏町 map:http://yahoo.jp/bz5C4O

別 名:泉城・泉古屋敷

現 状:荒神山公園

遺 構:案内板 (地割溝・掘建柱建物等出土)

区 分:居館 (集落)

築城期:室町期

築城者:日夏氏

城 主:日夏越前守

廃 城:元亀4年の近江侵攻で、信長の安土城下へ強制的移動で廃城(新・彦根市史第一巻)

目標地:荒神山公園

駐車場: 荒神山公園に第4駐車場

訪城日:2014.8.20

  

お城の概要

泉古屋敷は、荒神山東側を山裾に沿って流れる宇曽川と荒神山に挟まれた一画にあった泉村という集落跡。「荒神山公園」南端付近。

  現在は荒神山公園となっている南端付近で、公園整備以前の昭和60年(1985)に発掘調査が実施、中世商業集落遺構の一部が発見された。各屋敷ごとに石組み溝や道路・土塁などによって大小に区画されており、掘立柱建物やカマド・井戸、方形石組み、川に面した2ヶ所には石段(城郭遺構)が確認された。

調査から日夏8ヶ村の一つ、妙楽寺の古屋敷があったところと伝承されていました。調査の結果、16世紀中頃の商業集落跡が現れた。石組み溝(堀)や道路などによって区画され、掘立柱建物やかまど、方形石組み施設などが城郭遺構発見された。

歴 史

日夏の地を本拠て あったと推測されますが、 土豪化し、城を築いて戦国大名に従化し、戦国大名に従 うよになったのでしょう。

『 江州佐々木 南北 諸士帳』 には 、「日夏庄泉城主  佐々木随兵 日夏越前守」と記されて ます。

地元に残る古文書は、 永禄2年(1559)の「 肥田城水攻め」や、翌年野良田表合戦」に勝利した浅井長政の重臣 磯野員昌が、その勢いで六角方日夏氏を攻めました首尾よく抗戦して難を逃れたこと。その後、 浅井長政配下なった。日夏氏は元亀4年(1573)の織田信長による小谷城総攻撃により、浅井一族ともに討死しやがて日夏城没落たこなどが記されいる。

泉古屋敷は、荒神山の北尾根上にあった日夏城の城下に築かれた平時の下屋敷であったと考えられる。日夏城は、江南守護六角氏の分流日夏氏が代々城を構えて六角氏に仕えた。

説明板で、発掘調査の成果、遺跡の図面や調査時のカラー写真。

後に見える山は、日夏城です。

 遺跡の場所は、荒神山北東の麓にあり、子どもセンターがある公園の南の端。

遺跡の調査は昭和60年に実施。彦根犬上広域廃棄物投棄場に伴うものでした。

 妙楽寺のご先祖が住んでいた場所、この地を訪れた方が、妙楽寺古屋敷のことに気付いて。村の跡に設置されたこの投棄場、その代償として提供された経費で、日夏の人たちが苦労して建てたヴォーリズ建築である日夏村役場の建物を保存活用するのでなく不要として放棄し、新しい町民会館を建設しようとされているそうだ。

遠景:荒神山城(荒神山古墳) 

参考資料:彦根市教育委員会文化財課、滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭

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