城郭探訪

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講座 大谷遺跡発掘調査報告会

2015年09月28日 | 遺蹟

滋賀)多賀町・大谷遺跡、27日に発掘調査報告会

 

多賀町富之尾にある平安時代の墓地・大谷遺跡から出土した鉄板などの分析と調査結果についての報告会が27日、同町四手のあけぼのパーク多賀である。

 大谷遺跡は2013年、町道の建設工事中に木棺を木炭で覆った平安時代後期の墓11基が見つかり、うち4基から1辺約20センチの長方形の鉄板が1枚ずつ出土した。同様に鉄板が出た他の遺跡の例から、被葬者の経歴を記した「墓誌」か、土地を神様から買ったことを示す「買地券(ばいちけん)」とみられる。

 X線や赤外線撮影などでも鉄板に文字は確認できなかったが、縄や鋲(びょう)で木板に取り付けた痕跡が見つかった。一緒に出土した鉄釘の大きさなどから1枚は長方形の木棺の内側に固定され、残る3枚は手に提げて運び入れる正方形の木櫃(ひつ)の外側に取り付けられていたことが推測できるという。

参考資料:朝日新聞・多賀町

 

 

平安の木炭墓群、有力者を埋葬? 滋賀・多賀で講演会(朝日新聞2013.9.18)

写真:発見された平安時代の和鏡「八稜鏡」の断片=長谷川博美さん提供拡大発見された平安時代の和鏡「八稜鏡」の断片=長谷川博美さん提供

 

 多賀町で5月に発見された平安時代の木炭墓群をテーマにした、NPO法人「自然と歴史ロマンの会」主催の講演会が15日、多賀町四手の町立博物館であり、考古学者の丸山竜平・元名古屋女子大教授(69)が被葬者像と、出土した鉄板について解説した。現場近くで見つかった平安時代の八稜(はちりょう)鏡についても報…

平安後期の「木炭墓」11基出土 多賀の大谷遺跡 滋賀  (産経ニュース)2013.7.1

鉄板などが出土した大谷遺跡の「木炭墓」の一つ=多賀町富之尾

鉄板などが出土した大谷遺跡の「木炭墓」の一つ=多賀町富之尾

 ■有力者一族の墓所か

 埋葬した木棺の周囲が木炭で覆われた「木炭墓」とみられる平安時代後期(11世紀頃)の墳墓跡が多賀町富之尾の大谷遺跡から11基まとまってみつかり、町立文化財センターが発表した。墓地の取得や被葬者などについて記した「墓誌」や「買地券」とみられる鉄製の板も4点出土し、同センターは「この地方を支配した有力者一族の墓所だった」とみている。

 大谷遺跡は今年5月下旬、町道工事の際に大量の木炭が露出したため同センターが発掘調査し、遺跡として位置づけられた。これまでに400平方メートルの調査地内から、木炭墓とみられる遺構を11基検出した。大きいもので一辺1・2メートル、深さ1・3メートル程度の方形。このうち、4基から鉄板がみつかった。

 木炭は吸湿性に富むことから、埋葬した遺骨や副葬品などの状態を維持するのに使われたと考えられる。鉄板に文字が書かれていたかどうかはエックス線調査でも判明しなかったが、同センターは「中国から伝わった埋葬の習慣である買地券だとすれば、中国文化に精通していた一族の墓所だったのではないか」としている。

 元興寺文化財研究所(奈良市)の狭川真一研究部長は「立派な木炭墓が群をなし、複数の墓に買地券が納められた可能性があるなど、例えば犬上氏のようなこの地方に君臨した有力者の墓所だったと考えられる」と話している。

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管山寺 近江長浜市余呉坂口

2015年09月28日 | 探訪「大地の遺産」

山上駐車場の説明板(管山寺城の説明はありません)   

          

歴代住職の墓

余呉湖の東にあり、菅山寺が350m付近にある。余呉町のウッディーパル余呉から林道が延びて終点に駐車場がある。

 菅山寺への案内板がある。ここは尾根の最高部であって、アカマツとブナが混生した珍しい景色である。西の余呉町坂口から表参道が上がってきて合流する。不思議なことにここから参道は東中腹に向けて下っていく。参道に坂口から始まる四国八十八ヶ所巡りの石仏が並んでいる。石仏はやや小さく頭が壊されたものが多く無惨である。

 分岐があり直進すれば菅山寺である


 菅山寺は天平宝字8年(764)僧照檀開基し、寛平元年(889)道真中興と伝え、盛時には3院49坊があった。
 建治3年(1277)銘の梵鐘(国重)には、道真が寺院を建立し不動明王を安置したと彫られている。そして、このときから龍頭山大箕寺から大箕山菅山寺となった。賤が岳の戦いで焼失したが、再興された。現建物は江戸時代の建築である、と説明してある。

 都で政治の中心にいた菅原道真が、寂しい山中の寺院を再建している。これには次のような伝説がある。
 余呉湖には天女伝説がいくつかある。湖畔に住む漁師桐畑太夫は天女と恋に落ち一子をもうけた。天女が去って子はやむなく菅山寺に預けられた。やがてここを訪れた菅原是善の養子となり、後に道真となった。
 美しい湖がこうした伝説を生んだのだろうか。なお案内看板にも道真は余呉湖畔川並の生まれと書いてある。
 本堂背後に五輪塔や無縫塔、墓碑がたくさん並べられている。墓であろうが、整理されて明るくて、石造品の展示場のようである。山門も残っているようだが回らず、最初の分岐のところに戻る。
 一帯はブナ林がよく残っている。菅山寺は暗く陰鬱な印象を受けなかったのは、芽吹きを始めたブナのせいだと気が付いた。これがもっと葉を茂らせて暗くなる夏の頃であれば違った印象を受けるはずである。いい時期に来たと喜ぶ。
 尾根道に中部自然歩道の標識があり、田上山へ長い歩道がある。田上山はこれから登るつもりだが、距離が長いので一旦下り、下から登ることにする。散策に訪れる人がある。

ケヤキ門

大箕(だいき)山中にある、真言宗豊山派の古刹。奈良時代、孝謙天皇の勅を受けた照檀上人が開山、龍頭大箕寺と称し、平安前期に菅原道真が宇多天皇の勅使として入山、3院49坊を建てて大箕山菅山寺と改名しました。

 江戸時代になって徳川家康の強い要望により、鎌倉の中期に専暁上人が唐から持ち帰った教典約7000巻(国宝)のうち、5714巻を芝の増上寺に譲ったことから、徳川幕府から50石の寺領が与えられました。

 明治以降は衰退し無住となったが、大正元年(1912)に保勝会が組織され、残る堂宇の改修と保存がなされています。山門の左右には、菅原道真御手植えと伝えられる樹齢千三00年の欅がそびえ、ヒシの自生する池やブナの原生林などの自然に固まれています。鬱蒼と茂る樹林の間に本堂、護摩堂、経堂、鐘楼などが建ち並び、鎌倉中期の作銘を持つ銅鐘は大正15年(1926)国の重要文化財に指定されています。他にも、本尊の不動明王や十一面観音、木造の狛犬、石灯籠など寺宝は多くあります。

護摩堂

『管山寺』

山号は大箕山。
近江湖北二十七名刹巡礼第一番札所。
管山寺は当初、龍頭山大箕寺と呼ばれ、天平宝字8年(764年)に照檀上人が孝謙天皇の勅命を受けて建立されたと伝わる。当時は法相宗だったが、のちに真言宗となり今に至っている(真言宗豊山派)。
その後、菅原道真により中興した。道真公は余呉湖辺の川並村に生まれ、6歳から11歳まで本寺で勉学し、寛平元年(889年)から3院49坊の寺院に復興、名も管公の一字を採り大箕山管山寺と改められたと伝えられている。藤原時代から鎌倉時代に最も栄え、僧房105末寺70余の極めて大きな寺であった。

管山寺に現存する建物は全て江戸時代の建造物である。現存の本堂は元禄5年(1692年)の建立。天正10年(1582年)の大地震、賤ヶ岳の戦い等で大破したが、一山の衆徒の手厚い志により再建された。

明治以降は衰退し、現在まで無住となっているが、大正元年(1912)に保勝会が組織され、残る堂宇の改修と保存がなされている。

宝物は・官山寺 弘善館(里坊)

本堂

やがて神秘的な池に着く。折から小学生数十人が遠足でやってくる。それがなければ怖いようなところである。
 池畔は広がり近江天満宮の鳥居と社がある。菅山寺守護神で、菅原道真を祀る。道真は菅山寺を中興したとされている。
 五所権現を過ぎて池を半周すると、苔むした僧坊跡の石垣が続き、菅山寺への真っ直ぐな参道となる。堂々とした本堂と鐘楼がある。少し上に如法経堂がある。

        近江天満宮    

この寺の伝承では、天女が産んだ男子を寺で養育していましたが、それが菅原道真その人であるといい、境内の近江天満宮には、道真の自作と伝わる像が祀られています。

  

  

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過去1週間の閲覧数・訪問者数とランキング(日別)

2015年09月28日 | 番外編

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kkkk_015 さんのブログの先週(9月20日9月26日)のアクセス数をハイライトでお届けします。
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菅山寺城 近江国(余呉)

2015年09月25日 | 城郭寺院

菅山寺城

管山寺城 (寺院城郭・山砦) 
     北近江戦国史を塗り返る異形の中世城郭、菅山寺城

所在地:長浜市(旧伊香郡)余呉町坂口  http://yahoo.jp/UZirqx
 
築城期:室町期
 
築城者:佐々木京極高清 
戦 い:坂田京極高清 × 犬上京極政軽との合戦のため城郭普請

区 分:山城(砦)  未完成城

遺 構:土塁・堀切・竪堀・郭跡

現 状:寺院・・山林

標高:460m  比高差:190m

訪城日:2015.9.25

歴 史

・近江国余呉荘は交通の要害のため、文和元年(1352)、将軍足利義詮は、佐々木京極道誉を地頭職に補任(任命)「佐々木文書」

・京極高詮は、応永元年(1396)足利義満より余呉荘を安堵「佐々木文書」

・京極氏の余呉支配は六代将軍足利義教の時(1428~1441)に断絶。永亨七年(1435)まで、能登守護 畠山満慶が余呉荘の地頭職に。

・余呉荘、応仁・文明の乱時、文明年間(1469~1487)に将軍足利義政は比叡山延暦寺に寄進。「佐々木文書」

・足利義政の指示で、畠山氏から京極氏『京極持清』に与えられた。

『近江名所図会』には、木之本北に管山寺城と記されて、佐々木道譽の城と書かれている。

『日本城郭体系』に、伊香郡木之本北 佐々木佐渡判官入道阿弥(アミ)=京極道誉の居城と。『近江名所図会』を引用

 城郭研究家:長谷川博美氏が1990年(平成2年=25年前)『滋賀県中世城郭分布調査7 伊香郡・東浅井郡 P46』。

その後、踏査し古城塞を確認した

城郭フォーラム(余呉城郭研究会主催)で2012年6月17日に発表、解説された。

今回2015年9月25日見学会に参加。

近江名所図会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
 近江名所図会(おうみめいしょずえ)は、江戸時代に近江国を紹介した案内記(ガイドブック)である。

1815年(文化12年)の刊行。秦石田と秋里籬島が編集、蔀関月と西村中和が画を担当したとされているが、実際は、『木曽路名所図会』『伊勢参宮名所図会』『二十四輩順拝図会』から近江関係の記事を抜粋してまとめたもの。全4巻。別名として「琵琶湖勝概全覧図会」とある。

当時の習俗・風俗が詳細されており、民俗学・歴史地理学の格好の資料である。

山上駐車場から、ブナ林の山道を進む

堀切

小土塁

管山寺の南側標高:459mhttp://yahoo.jp/UZirqx

南第3堀切

南第2堀切

南第2堀切

南第1大堀切の岩盤

南大1大堀切の岩盤

現地で解説:長谷川講師(城郭研究家)

南第大堀切の土橋

管山寺超え遺構

標高460m地点には、低土塁を伴う二重堀切と二重木戸を設けてる。

重要な管山寺の閑門を監視や物見台の役割果たしていた。

二重木戸は南北の稜線を南から北に向かう兵力をするために作られた砦!

管山寺城(出構え・山砦)

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景清道

2015年09月22日 | 歴史講座・フォーラム

 滋賀県東近江市内の景清道

平氏再興の祈願の為、尾張国(名古屋市)より、遥か京都の清水寺の薬師如来へ参詣のために通った道と言われており、又、眼病平癒のために通った道であると言い伝えられている.
歴史的には、かなり古い道筋らしいが、田舎の畦畔の小径、人里離れた山道、湖辺など通り、特に屈曲が多く狭くて人目を避け近道となっている点、世を憚る特定な人物が往来して居たのでないかと思われる。
資料によると一説には、当時は各地の通行の取調べが厳しい時代からすれば、関所の公道を避け、ひそかに通った間道「陰道」・「かげ京道」の転音化したものとする説が有力である。

平家に仕えて戦い、都落ちに従ったため俗に平姓で平景清とも呼ばれているが、藤原秀郷の子孫の伊勢藤原氏(伊藤氏)で、伊藤景清ともいう。通称、上総七郎(上総介忠清の七男であるため)。信濃守(1180年)、兵衛尉。「悪七兵衛」(あくしちびょうえ)の異名を持つほど勇猛であった。

平安末期における治承・寿永の乱(源平合戦)において活躍した。『平家物語』巻十一「弓流」において、源氏方の美尾屋十郎の錣を素手で引きちぎったという「錣引き」が特に有名である。壇ノ浦の戦いで敗れた後に捕られ、一説には預けられた八田知家の邸で絶食し果てたといわれる。

「悪七兵衛」の「悪」は悪人という意味ではなく、「悪党」と同様に勇猛さを指すものとされるが、壇ノ浦の敗戦後に自分を匿った叔父の大日房能忍を疑心暗鬼にかられて殺害してしまったためにそう呼ばれるようになったとの伝承もある。ただし近年は能忍の死因は病死または事故死とする説が有力。

実在したとはいえ生涯に謎の多い人物であるため、いわゆる平家の落人として扱われる事は少ないが、各地に様々な伝説が残されている。このためか各種の創作において主人公としてよく取り上げられている。

『吾妻鏡』の記述によれば、景清には兄がいて、上総五郎兵衛尉忠光といい、鎌倉二階堂の永福寺の造営中、源頼朝を暗殺しようと土工にまぎれこむも、怪しまれて捕まっている。

歴史書

天敵・・義経

源氏・・・頼朝

景清物

 

古典芸能において、「景清」または「何某誰々実ハ景清」が登場する作品を、一括して景清物(かげきよ もの)と呼ぶ。

各地の景清伝説

桑実寺の「景清の背比べ石」(滋賀県近江八幡市)

景清道(近江八幡市慈恩寺町)景清眼洗いの井戸(滋賀県彦根市)

歴史的には、かなり古い道筋らしいが、田舎の畦畔の小径、人里離れた山道、湖辺など通り、特に屈曲が多く狭くて人目を避け近道となっている点、世を憚る特定な人物が往来して居たのでないかと思われる。
資料によると一説には、当時は各地の通行の取調べが厳しい時代からすれば、関所の公道を避け、ひそかに通った間道「陰道」・「かげ京道」の転音化したものとする説が有力である。
「景清道」は、遠き尾張国の熱田より北国路に向い、大垣過ぎで中山道に入り関ケ原より近江に来ており、柏原から醒井から息郷・番場を通り、鳥居本より彦根に至り、ここより景清道らしき古道が現存し、伝承されている。
近年の土地開発で、陰道を偲ぶ箇所は一部に過ぎないが、地域に根付いている事は確かである。現在の地図では明確でないが、通説によれば、彦根より宇尾、堀、極楽寺、楡(にれ)、安食中、三津、肥田、百々、長野西、長野東の旧道を通り、愛知川の御幸橋に至っているようである。

愛知川は、御幸橋付近で渡し舟で五個荘町簗瀬に着き、宮荘の五個神社の横に出て、景清も参詣したであろう、入口に清水が湧き出る荘厳な行願禅寺を通り過ぎ、

大城神社の森を目指して真直ぐに自転車道が伸びているのが「景清道」である。

五個荘小学校前の、通学道路を横切り、金堂に菅原道真公を祀る立派な大城神社横の、いかにも景清道らしい細い小径を経て石塚に至り、繖山の麓の清水谷を経て、安土町石寺(栢尾)に入り、有名な蓮池を通る。

ここより景清道、山中に向い紅葉で名高い近江の名園教林坊を通り過ぎ、山林道を西にとり、険しい鳥打越にさしかかり、峠を過ぎるとすぐ近江八幡市と安土町が一望出来て、今と変わらぬこの風景に、景清は遠い都に心を馳せ、そうして遠望出来る鶴翼山麓の旅庵寺に思いを寄せたことであろう。
ここから山手に行けば、瓢箪山古墳近くを通り、桑實寺参道入口に至る。桑實寺よりは、真直ぐに農道が伸びている。上豊浦に至ると、景清ゆかりの袈裟切地蔵堂を拝し、小中の行者堂前を西に向い、沙々貴神社街道(安土・西生来線)を横切り、小路と思われる道を、ちはし地蔵堂前を経て、浄厳院裏の慈恩寺を通り過ぎ、山本川の新橋「景清橋」を渡り近江八幡市に入る。景清道は、長田町にある農協カントリー前の田園の中を直線に鷹飼町に伸びており、その問には、県立八幡工業高校のグランドの傍らを通っている。

繖山麓の景清道http://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/4b0ad77d2fbe5b9f71e4a11ee679e701

景清道ウオークと観音寺御屋形 近江国(安土)http://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/31404453e37fef4643e95d9df439aeec

参考資料:ウィキペディア

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・官山寺 弘善館(里坊)2013.9.6

2015年09月19日 | 探訪「大地の遺産」

・官山寺 弘善館(里坊)

2013年09月06日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

 

管山寺参道へ

 大箕(だいき)山中にある、真言宗豊山派の古刹。奈良時代、孝謙天皇の勅を受けた照檀上人が開山、龍頭大箕寺と称し、平安前期に菅原道真が宇多天皇の勅使として入山、3院49坊を建てて大箕山菅山寺と改名しました。

 江戸時代になって徳川家康の強い要望により、鎌倉の中期に専暁上人が唐から持ち帰った教典約7000巻(国宝)のうち、5714巻を芝の増上寺に譲ったことから、徳川幕府から50石の寺領が与えられました。

 明治以降は衰退し無住となったが、大正元年(1912)に保勝会が組織され、残る堂宇の改修と保存がなされています。山門の左右には、菅原道真御手植えと伝えられる樹齢千余年の欅がそびえ、ヒシの自生する池やブナの原生林などの自然に固まれています。鬱蒼と茂る樹林の間に本堂、護摩堂、経堂、鐘楼などが建ち並び、鎌倉中期の作銘を持つ銅鐘は大正15年(1926)国の重要文化財に指定されています。他にも、本尊の不動明王や十一面観音、木造の狛犬、石灯籠など寺宝は多くあります。

 この寺の伝承では、天女が産んだ男子を寺で養育していましたが、それが菅原道真その人であるといい、境内の近江天満宮には、道真の自作と伝わる像が祀られています。

 

里坊【弘善館】に寺宝

 

 

 

 

 

 管山寺山門・・・ケヤキは道真公お手植え

参考資料:パンフレット各種・現地説明板・専門員のガイド説明・PCホームページ・blog 等々

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