城郭探訪

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西円寺砦  近江国(近江)

2016年03月28日 | 

お城のデータ

所在地:米原市(旧坂田郡近江町)西円寺 map:http://yahoo.jp/48imAY

区 分:平山城

現 状:山林・山頂

築城期:室町期

築城者:今井氏

遺 構:土塁、空堀

標 高:190m  比高差:80m

城 域:東西100m×南北300m

駐車場:西円寺駐車場

訪城日:2016.3.27

 

お城の概要

「淡海のお城」には竪堀などの遺構が残っていることが記載されているので、南側のピーク一帯(西円寺の裏手の山)が城域である。

西円寺の南西に張り出た尾根から登ると楽に主尾根筋に出られる。

 京極氏、浅井氏に従った箕浦城を本拠とする今井氏の砦とされます。今井氏菩提寺の黄檗宗西円寺の裏山一帯が砦址と推測されます。

西円寺地区の八幡神社境内横の山道から直登すると砦の北端。

道は途中でなくなるが、ら直登する岩場があり、この岩場を利用して砦を造ることも可能。尾根にでると南北に走る尾根道があり、北へ(右手)の道を辿る。この間、削平地らしきところが幾つかあるが、遺構は見られないまま、北側ピーク(丸山)に着く、北側斜面を降りる。斜面は急であるが、あちこちにこのルートでは砦の北端。
堀切?

現在は、西円寺地区にある八幡神社・西円寺館と南の山を越した米原高等学校を結ぶ道が通っています。切通しとなっていて、堀切のようにも見えます。

土塁の上から西円寺

集落奥の奇抜な山門のある黄檗宗西円寺周辺が舘跡とみられ、その背後の山や寺の東西に張り出す尾根に構えられたのが砦と思われる。
しかし、東西に張り出た尾根を除き、山上に山城らしき遺構は見当たらない。
中世城郭分布調査の城郭分布図に西円寺砦と示される寺の西189.7mの山頂まで登ったが、頂上や尾根上には城郭遺構らしきものは見つからなかった。強いて上げれば堀切?(切り通し)が2ヶ所と頂部から南に下った東斜面に畝状竪堀らしきものが見られたが、遺構ではないように思われる。

お城の歴史

『佐々木南北諸氏帳』には、「坂田郡 西園寺大谷 住 今井備前守 ・住 今井駿河守 ・住 今井権平」と記す。

『淡海木間攫』には、西園寺村 「当所二古ノ城塁跡残レリ、是箕浦ニ居住セシ今井肥後守頼弘ノ末子今井権六住スル所ナリ、故アッテ父及家嫡ノ者劒ニ伏テ死ス、ソノ事新庄ノ部ニ載スルヲ以テ略ス、其時父ノ棒禄三分一ヲ以テ末子権六ニ与ヘ居住ノ地ヲカヘラレ、其替地ナリト見ユ、件ノ権六後孫ハ今ハ垣籠村ノ医師ト成テ居住ス」と記す

 西円寺の一帯は、京極氏根本被官であった今井氏の奥城跡で菩提寺でもある。境内の南西に張り出した舌状尾根に今井権六三代の墓が残されている。
今井氏14代今井権六秀俊は享禄元年(1528)の内保河原の戦いで六角方が敗れたため、浅井方に従ったが天文2年(1533)に浅井亮政に進退を疑われ神照寺で切腹させられた。
15代今井権六備中守定清は浅井方に属し、永禄4年(1561)太尾山城の夜襲で敵と見誤った味方の槍で背後から刺されて討死し、また、子の今井権六丸(秀形)は秀吉に従っていたが天正11年(1583)に伊勢にて討死し、この三代が菩提寺である西円寺に葬られたとされる。

西円寺館

 

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』6「旧坂田郡の城 1989.3)、 淡海の城、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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沓掛南砦 近江国(西浅井・沓掛)

2016年03月25日 | 

お城のデータ

所在地:長浜市西浅井町沓掛(旧西浅井郡西浅井町沓掛)

区 分:山城

築城期:室町期   

改築期:織豊期(天正11年期の賎ヶ合戦)

築城者:熊谷氏   

改築者:丹羽五郎左衛門尉長秀

城 主:熊谷下野守直房

陣 主:丹羽五郎左衛門尉秀長

標 高:176.5m 比高差:40m

遺 構:櫓台、堀切、土橋、

目標地:集福寺バス停

駐車場:集福寺バス停の横空き地

訪城日:2016.3.23

お城の概要

下沓掛バス停を過ぎた左手側に八幡神社が鎮座している。その一つ南東側の細尾根上が城跡。

獣除けの柵で、城山に入れない。集福寺若山城から大川沿いに登城、帰りの獣除けの柵、大川沿いを集福寺若山城へ

日計山の北東斜面の端部で南から北方向に伸びる細尾根上に約100mの細長い削平地が二段設けられている。

下段の先端は、南奥を片堀切とし、東側が土橋になっており、先端部は約30m四方の北面に櫓台を備えた独立性の強い郭となっている。

塩津海道の監視を意識した砦である。城域の南端は、日計山に向け斜度がきつくなる所で堀切を設け、遮断している。

獣除けの柵で、城山に入れない

お城の歴史

弘治元年(1555)の師走の12月26日には、塩津の熊谷平治郎は三千騎を率いて、疋田城を攻撃した」・・とあるように、熊谷氏が或る時期に隣国で隣接の越前の疋田氏と敵対関係にあった事。その事が塩津街道の周辺に構築された諸砦の存在と関連付けらる。

また、甫庵太閤記巻第六:丹羽五郎左衛門尉長秀志津嶽之城へ籠入事長秀其比は若州并江州之内志賀高嶋両郡を領し、坂本を居城とし有しにより、北国勢を押へん為、勢を分敦賀表に三千、塩津海津に七千賦り置、江北を静めける処に ・・・云々

塩津海津に七千騎もの、雑兵を入れるのは、塩津街道(塩津浜~沓掛)沿いには、この砦しか無い!

 

集福寺若山城から大川沿いに沓掛南砦へ

上の城域

国道8号線へ

帰りの獣除けの柵、大川沿いを集福寺若山城へ

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査 

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沓掛(くつかけ)西砦(集福寺北城)  近江国(西浅井・沓掛)

2016年03月24日 | 
主郭

お城のデータ

別 称:集福寺北城

所在地 : 長浜市(旧・伊香郡)西浅井町沓掛 map:http://yahoo.jp/c96eDh

  遺跡ウォーカーの比定地:map:http://yahoo.jp/15bxhW

こちらの比定地(沓掛バス停の西山頂)は、後日確認することする。

現 状:山林

区 分:砦

築城年:

築城期:

標 高:230m 比高差:93m

遺 構:土塁・堀切・竪掘

目標地:八幡神社

駐車場:八幡神社の集落側に下りた所の空き地

訪城日:2015.12.12

南東尾根の土塁

お城の概要

 沓掛集落の西側は、大川が南流し、並行して国道8号が走り、その国道より西には山地がせまっている。

沓掛西砦は、国道8同線沿い山裾の八幡神社に向け、南から北方向に張り出した尾根の先端部に築かれている。

自然の鞍部を活かし堀切で尾根続きを遮断し、城内側に土塁を伴った南北約30m×東西約20mの主郭を構えている。

主郭から南東に伸びる支尾根には、細長い三段の削平地が続き、上二段の北面には土塁が築かれている。
なお、堀切の城外側も細長い削平地が見られる。

西山から北東方向にに張出した尾根先に構築されてあり、南に向かって太い土塁となって続くが、その土塁と城砦の主要あたりで、堀切によって分断されている。この堀切による分断は天正期の賤々岳の合戦の時の作業ではないだろうか。

 

お城の歴史

 著書『賤嶽史蹟伝説』に於いて、「天正期の賤ヶ岳合戦の時、羽柴藤吉郎秀吉方の「沓掛山砦・明石与四郎則實五百人」とあるのが、この砦に該当するのではと推測されている。

沓掛集落には2つ(西砦と北砦)の城砦がある。西砦はその集落から見て西の砦となる。

城歴の詳細不明

 「弘治元年(1555)の師走の12月26日には、塩津の熊谷平治郎は三千騎を率いて、疋田城を攻撃した」・・・とあるように、熊谷氏が或る時期に隣国で隣接の越前の疋田氏と敵対関係にあった事。その事が塩津街道の周辺に構築された諸砦の存在と関連付けらる。

案 内

国道8号の沓掛バス停の左手側に八幡神社の背後の丘陵上が城跡。神社の背後の谷筋登り、尾根の国道方面に戻る。

本殿の裏から

沓掛西城概要図(登城した歩行痕) 

ここから城跡

戻り道

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、

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沓掛北砦 近江国(西浅井・沓掛)

2016年03月24日 | 

大川の橋上

駐車場スペース  登城路(関電鉄塔管理道)

水源山地整備事業碑

自然の谷川がⅤに、また木橋。その比先は比高2mの段差

お城のデータ

所在地 : 長浜市(旧伊香郡)西浅井町沓掛 map:http://yahoo.jp/PGhj0y

現 状:山林・山頂

区 分:砦

築城期:ー

築城者:ー

遺  構 :廓・土塁・箱堀(水田・足入り)、土橋、堀切、

標 高:358m 比高差:190m

目標地:八幡神社の北へ約400m

駐車場:国道8号線添い空地

訪城日:2016.3.23

お城の概要

 尾根先の標高358mの頂部から南東方向に並行して二本の支尾根が伸びている。この頂部と支尾根が城域。
頂部が北郭で北東端を堀切で遮断し、北西と南西側は谷へ落ちる急斜面で、南東側は箱堀で主郭と隔てられている。

 主郭は27m×18mの削平台状地と南側の腰郭から成り、その周囲は箱堀で、北東側と南東側は足入り状の箱堀。主郭南西側の箱堀を介した支尾根も削平。
砦は、自然地形を利用した堅固な防備を固めた縄張りだが、こんな奥まった山頂から、街道監視の役割(街道が見えたのか?)か疑問。

しかし仮説だが、登城路の途中に削平地が多数残る・・ここなら監視も可能だが?。山頂部は詰め城か?頂部は狼煙台か?

また、滋賀県中世城郭分布調査の沓掛北砦の説明には「敦賀と塩津浜間の街道を挟んで、沓掛北砦(城)との対面の西の山中にには、街道を東西の高地から監視する「殿山の遺構」があるようだが、風化激しくブッシュが酷く踏査・測量は困難のようだ。」

お城の歴史

築城期・築城者や詳細は不明

 「弘治元年(1555)の師走の12月26日には、塩津の熊谷平治郎は三千騎を率いて、疋田城を攻撃した」・・・とあるように、熊谷氏が或る時期に隣国で隣接の越前の疋田氏と敵対関係にあった事。その事が塩津街道の周辺に構築された諸砦の存在と関連付けらる。

北の廓(狼煙台・物見櫓か?)

 

北廓の東の箱掘主郭の土塁土塁主郭土塁sy

主郭部手前の桝方状の登城道、曲がると北廓の鉄塔が見える、その東側上部が主郭土塁 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、

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多羅尾砦 近江国(甲賀・信楽)

2016年02月06日 | 

お城のデータ

所在地 :甲賀市(旧・甲賀郡)信楽町多羅尾字千茗ヶ谷、和泉垣外 map:http://yahoo.jp/m5CR3A

現 状:森林

区 分:丘城砦

築城期:室町期

築城者:多羅尾氏

遺 構:土塁、虎口、井戸

標 高:520m      比高差:30m

駐車場:多羅尾代官屋敷跡駐車場

訪城日:2016.2.3

お城の概要

お城の概要信楽町多羅尾のうち、上出集落の南方、南から北にのびた丘陵の先端に築かれている。

尾根上を南北に50m程削平し長い曲輪があり、東面の南隅に虎口が開口し、その北に12m程(南と西側は土塁ではなく、内側を削平して削り残したもので、外側は自然地形)土塁を掘り残しいる。丘陵先端部に二段の郭を付帯している。南端のみコの字状に土塁が付いている。階段状に小段が続いている。

西側20m程下方の谷筋に水場が設けられている。 南東隅が開口している。南東へ伸びる尾根は浅い堀切が一条ある。

上出組集会所の南側にある丘陵が城址。南西側の谷間と北側に入口がある。

南西の谷から、直登した。

歴 史

城主は不明であるが、多羅尾氏に関係した城館と考えられている。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査・甲賀の城・ウィキペディア・江州佐々木南北諸氏帳・

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石山砦 近江国(大津)

2015年12月25日 | 

公園化され、瀬田城・瀬田川と膳所城・粟津・石山への見張り。羅漢山の中腹に未完成の砦(詰め城)が残る。

お城のデータ

所在地:大津市石山寺1丁目 map:http://yahoo.jp/MGiwvy

区 分:砦(羅漢山の中腹に未完成の砦(詰め城)が残る。)

現 状:公園・森林

遺 構:築城途中の土塁・平削地・竪堀

築城期:織豊期

築城者:山岡景友(山岡光浄院)

城 主:山岡景友(山岡光浄院)

標 高:190m  100m

目標地:羅漢山公園

駐車場:羅漢山公園駐車場

訪城日:2015.12.24

お城の概要

石山寺の背後の羅漢山頂の北側に羅漢山公園がある。羅漢山から尾根続の北頂部は歩道・階段・公園化され平削地(頂部遺構)は破壊さているが、歩道(ハイキングコース)添いには、曲郭跡や土塁が残る。頂部の平削された公園部から、更に北へ下りる平削地・竪堀・堀切の一部が残る。破壊されたか、普請途中の遺構明確に確認できる。

頂部の平削地(公園)

北東へ下りる

歴 史

『信長公記』巻六 元亀四年

異見十七ヶ条 公方様御謀叛 

 公方様は和談の交渉に対するに、兵をもって報いた。近江堅田の山岡光浄院景友・磯貝新右衛門と渡辺党へ内々に命を下し、かれらに兵を挙げさせたのである。かれらは今堅田に人数を入れ、一向一揆と結んで石山に足懸かりの砦を築いた。これに対し、信長公はすぐさま柴田勝家・明智光秀・丹羽長秀・蜂屋頼隆の四人を鎮圧に向かわせた。 

石山・今堅田攻められ候事の条

 軍勢は2月20日に出立し、24日には瀬田を渡って石山の砦へ取りかかった。砦には山岡光浄院が伊賀・甲賀の衆を率いて在城していたが、砦が普請半ばで守りがたく、26日には降伏して石山を退散した。砦は即刻破却された。 今堅田の攻略は29日朝から開始された。東の湖上からは明智光秀が軍船をそろえて城西方へ攻め寄せ、陸からは丹羽長秀・蜂屋頼隆の両名が城南を攻め立てた。そして午刻頃に明智勢が攻め口を破って城内へ押し入り、敵兵数多を斬り捨てて砦は落ちた。これによって志賀郡の過半は相鎮まり、明智光秀が坂本に入城した。柴田・蜂屋・丹羽の三将は岐阜へ帰陣した。

山岡景友 天文9年(1540年)、守護六角氏家臣の山岡景之の四男として生まれる。はじめは領内にあった三井寺光浄院の住持となり、暹慶(せんけい)と号した。義昭の命で還俗し山岡景友と名乗り、幕府より山城半国の守護に任じられた(翌年には義昭と織田信長の関係が決裂した)。

 

 信長包囲網が敷かれ信長と義昭の戦いが始まると、他の兄弟が織田氏方に付くなか、景友は義昭に従い近江・石山城に立て籠もって抗戦した。しかし、元亀4年(1573)2月26日に織田家臣の柴田勝家に攻められ、織田方に付いた兄・景隆の説得を受けて降伏・開城した。織田家へ仕官後は兄らとともに佐久間信盛の与力となったが、佐久間信盛追放後に高野山へ信盛を訪ねている。

 

1572年(元亀3年)信長は足利義昭に十七条の意見書を送りつけます。その内容については激しく義昭を叱責するものでした。今までは表面的には友好関係を保っていた二人でしたが、ここで対立は決定的となります。しかし、この時期信長は浅井・朝倉・武田・松永などの包囲網に苦しんでおり、窮地に陥った信長は義昭と講和を結ぼうとします。

 

  村井貞勝・島田秀満・日乗などを遣わしますが、信長を滅ぼせるチャンスを掴んだ義昭はこの要求を突っぱね、近江の石山に砦を作り兵を入れ、また今堅田の砦にも兵を入れます。1573年(元亀4年)2月20日、信長は柴田勝家・明智光秀・丹羽長秀・蜂屋頼降らに攻撃を命じます。2月24日まず山岡景友の守る石山砦を攻撃します。この砦はまだ完成しておらず、すぐに陥落してしまいます。この際廃城となったようです。
またこの城は存続し続け、1582年(天正10年)山岡景猶は兄・景隆とともに、本能寺の変を起こした明智軍と戦闘し、この城は灰燼に帰し廃城となったという説もあります。

 

  信長は1576年(天正4年)11月21日内大臣に昇任します。その後石山寺の塔頭世尊院に行き、山岡美作守(景隆)・玉林(景猶)の接待を受け二日間鷹狩りをしています。また、1577年(天正5年)7月12日近衛前久の子である信基の元服式が信長の京での館である二条御新造で行われ、信長は元服式の後、安土城へと帰る途中の13日また山岡美作守(景隆)の所に立ち寄り一泊しています。

 

 

 

頂部の公園から、戻る(駐車場へ戻りの写真)スマホで現在地駐車スペースは、100台位可

石山砦・・・遠望(月見橋から)

羅漢山公園への侵入口http://yahoo.jp/RupCFa

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、信長公記、ウィキペディア、レファレンス事例詳細(Detail of reference example)

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月出坂砦・月出浜砦 近江国(西浅井)

2015年07月10日 | 

新発見!月出坂砦・月出浜砦

賤ヶ岳合戦・・・・丹羽長秀は?

清洲会議で長秀は池田恒興と共に秀吉が信長の後継者に推す信長の嫡孫三法師を支持。結果として、諸将が秀吉の織田家の事業継続を認める形となった。秀吉と勝家とが天下を争った一戦である天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでも秀吉を援護し

 

太閤記巻第六

〇丹羽五郎左衛門尉長秀志津嶽之城へ籠入事

長秀其比は若州幷江州之内志賀高嶋両郡を領し、坂本を居城とし有しにより、北国勢を押へん為、勢を分敦賀表に3千、塩津海津の7千賦り置、江北を静めける処に、卯月十七日、秀吉濃州表出張之由に付て、柴田に対し在取出之城々無心元存、小姓馬廻千余人、組頭二三輩召連、船五六艘に取乗、同廿日出船有。漸汀近く成に随て、鉄砲の音夥く鳴出したり。渚を見れば、旗さし物多く立さはぎぬ。

長秀察しけるは、敵志津嵩を攻落し、其勢溢出かくや有。船を急汀へ着けよとぞ怒りける。坂井与右衛門尉江口三朗右衛門尉も、げに左もあるべしと覚え奉る。然 即引返し、坂本之城を堅固に守 給ひ宜しく候はんと諌ければ、いやとよ、弓矢取身の図をはづし義を汚せば、必 終りが無物と云いつゝ、はし舟をおろし海津は遣し勢を分、三分二、急志津嵩へ可相越旨、書状を調へもどしけり。望月曰五里漕もどって勢を催し、五里来たらん。其勢何として、此急難の用に申候はんや。長秀曰、それは狭き存分なり。物は期の延る事おほく有物ぞかし。志津嵩之城加勢とし・・・云々

海津城に3000・・・疋壇の城(敦賀表)の3000、西岡城に4000・・・  

秀吉は、広範囲に警備を行い丹羽長秀を愛発方面(敦賀疋田方面)よりの敵に備えると共に、付近の舟を懲発して海津から長浜にかけての湖岸を監視し、丹羽秀長の子丹羽鍋丸(長重)えお3千騎を敦賀表まで出しこの方面を監視に当てた。

細川忠興を丹後国に帰し、丹後の水軍を越前沿岸に廻し港湾に火を放ち北軍(柴田軍)の後方を撹乱した。

 

月出集落前の汀

西浅井町月出集落

称福寺の兵糧運搬伝承

秀吉は、賤ヶ岳合戦の長期戦に備え西浅井から遠くは敦賀方面まで米、麦、豆等食糧を買い入れ、各々の砦に蓄えた。食糧運搬にも、黙々と協力した一向宗徒。

西浅井町月出に称福寺という寺院がある。十世香栄和尚は、父長崎和尚とともに、里人を引き連れ、ご糧米運送に協力。敦賀方面から運ばれてくる糧食や塩など、舟運を使い海津から飯ノ浦や山梨、塩津等に陸揚げ、賤ヶ岳城や明神山城に運ばせた。と伝承される。秀吉から大いに感謝された。

称福寺には「まめ20石、ささげ20石成、合40石両人にくだされ候」と書かれた秀吉の感状やその他賤ヶ岳合戦に使用され秀吉から与えられた品が所蔵されている。

東側:浅井郡真宗 称名寺 僧侶 性慶 天正10年 称名寺城に帰還 天正11年 柳瀬方面の偵察をしていた

西側:浅井郡真宗 称福寺 僧侶 香栄 天正11年 月出砦カ?秀吉に協力して敦賀の兵糧を運搬。

月出山砦・月出浜砦へ

 

水ひねり:船を城塁につなぐために凹形に堀を屈入させ船溜としたもの。

 膳所城の水ひねり                       月出砦の蛇曲がり

 

月出坂砦 新発見 山城 

   

駐車可

月出浜砦 新発見 水城

月出浜砦から、湖岸曲郭へ

近世の石積鬼クルミ月出砦の崩落石垣月出砦の崩落石垣

海津城に3000・・・疋壇の城(敦賀表)の3000、西岡城に4000・・・  

丹羽長秀は、戦後に若狭に加え越前(敦賀郡・南条郡の一部・大野郡の一部を除く)及び加賀二郡(うち一郡は溝口秀勝が領する)を与えられ、約123万石の有数の大々名となった。

 


摺墨越え遺構  近江国(余呉)

2015年05月24日 | 

摺墨越え遺構


摺墨越え遺構の図の踏査図の説明中!講師:長谷川博美氏「城郭研究家」

お城のデータ

所在地:長浜市(旧:伊香郡)余呉町摺墨      map:http://yahoo.jp/egOWHn

築城年:織豊期  天正11年(1583)

築城者:

区 分:砦(山城)

遺 構:土塁・堀切・竪堀

現 状:山林

標 高:460m 

目標地:東野山砦

訪城日:2015.5.23

 
林道を今市上砦へ

講 師 愛知中世城郭研究会 長谷川博美氏

参考資料:城郭フォーラム【今市上砦・天神山城見学会レジュメ】・滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

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天神山砦 近江国(余呉)

2015年05月24日 | 
 
  
 
 
現地の縄張図
東郭の西側堀切・土橋

お城のデータ

所在地:長浜市(旧:伊香郡)余呉町国安・天神前   map:http://yahoo.jp/jAjZwc

築城年:織豊期  天正11年(1583)

築城者:羽柴勝豊(大金藤八郎:山路将監正国、木下半右衛門利久)

区 分:砦(山城)

遺 構:土塁・堀切・桝形虎口・横堀(塹兵壕)・竪堀

現 状:山林

標 高:210m 比高差:60m

目標地:草岡神社

訪城日:2015.5.24

東郭の虎口

お城の概要

天神山砦は北東へ張り出した丘陵の頂部に築かれており、先端に茶臼山砦がある。

天神山砦は東西二郭を中心とした砦で、西郭の方が高所にあり主郭と見られる。

西郭は南北に長い曲輪を土塁が巡り東側に虎口が開く。虎口は平入で主郭の周りを腰曲輪が巡り、北尾根と南尾根に堀切を設けて遮断する。南はさらに小郭があり、その先は深い自然の鞍部となっている。

東郭は一番良く整備されている曲輪で、土塁で囲まれた曲輪の北側に屈折した虎口が開く。南は深い空堀に土橋が架かり、更に小郭と堀切を経て西郭へ続く。東郭の周囲には腰曲輪が巡り、北に虎口があるが、薮が激しく形状は把握し辛い。

天神山砦の北端部は自然地形の緩斜面であるが、この側面に一部三重となった横堀が巡らされており、見所の一つである。

  中央の鞍部で東と西に分かれる。東西の頂部に土塁と腰郭が廻る郭が設けられ、尾根筋は堀切で防御を固めている。
東の主郭と腰郭の虎口は東側に開かれ外枡形を備えている。腰郭の東15m程の所に三日月状の身隠し(塹兵壕)、その10m先にも浅い横堀と低い土塁があり、これも身隠しと考えられる。さらに東に緩やかに傾斜する郭の先端が二重の身隠し。尾根先の南北に竪堀が設けら、その北東が鞍部を隔てて茶臼山砦となる。主郭の南に数段の段郭がある。
西の郭は西側に鞍部を利用した二ヶ所の堀切を穿ち、堀切間に塹壕状の小郭を設けている。北尾根にも一本堀切が入っている。主郭は繭玉状で土塁が廻る。腰郭にも要所に土塁を設けている。虎口は主郭の南、腰郭の南東に開くが平虎口である。
東西の郭を連絡する犬走りが南側に走っている。
この砦は、羽柴軍の最前線基地で北国街道の通る狭い谷筋から盆地へと地形が最初に変化する所で、柴田軍の南下を押さえる絶好の位置にあり、城域も370m×70mで羽柴軍の陣城中では田上山城に次ぐ大きさを持つ砦で、羽柴軍の戦略上重要な位置を占めた砦でることが分かる。

歴史

 天正11年(1583)の賤ヶ岳合戦の際には、前年暮に羽柴秀吉軍に降った長浜城主・柴田勝豊の与力の大金藤八郎や山路将監正国、木下半右衛門利久らに砦を築かせ、丹羽長秀の兵らとともに守備させたが、目前の行市山から林谷山の尾根筋に柴田勝家軍が長期戦に備えた陣を布いたため、天神山砦は高所より圧迫され守備が困難となり、秀吉はこれを放棄し、堂木山・神明山へと最前線を後退させ、東野山砦とともに北国街道封鎖ラインとした。

 前線を下げた秀吉は、大金藤八郎・山路将監正国を神明山に移し木村隼人と同陣させたが、後に浮説により二人を堂木山に移したとされる。東主郭の土塁

羽柴方から見た賎ヶ岳古戦場鳥瞰復元図

草岡神社より、天神山砦へ
神社の鳥居そばに説明板
木陰で暫し休憩、
素晴らしい城郭遺構天神山城の二カ所の陣城を見学。

 神社の背後が砦。神社の西へ獣害フェンスの扉から遊歩道(城道)を登る

道案内        map:http://yahoo.jp/jAjZwc

 木之本から北に国道365号を6.7km程行った片岡郵便局を過ぎた直ぐの信号で左折する。西に道なりに400m程進むと草岡神社に至る。その裏山が砦跡である。神社付近に駐車し、神殿に向かい左背後の山道を10分程登れば砦跡に着く。神社の鳥居そばに説明板がある。

 

講 師 愛知中世城郭研究会 長谷川博美氏

参考資料:城郭フォーラム【今市上砦・天神山城見学会レジュメ】・滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

            本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!!


今市上砦(久太郎小屋) 近江国(余呉)

2015年05月24日 | 

久太郎小屋

文献に登場する黒田官兵衛(久太郎小屋)
 
小字西陣東陣「今市上砦」、黒田官兵衛の久太郎小屋と思われる未知の城に興奮
黒田官兵衛に指示!賤ヶ岳の合戦で、秀吉の文書

官兵衛に指示秀吉の文書

秀吉が賤ケ岳合戦の戦い方を指示した文書

 豊臣秀吉の天下統一の足掛かりとなった賤ケ岳合戦(1583年)で、秀吉が部下の黒田官兵衛らに戦い方を具体的に指示した文書が初めて見つかったと長浜城歴史博物館(滋賀県長浜市)が10日、発表した。同博物館は「秀吉の戦略が垣間見られ、貴重」としている。

賤ケ岳合戦「砦小屋壊し援軍待て」 参戦の事実裏付け

 長浜城にいた秀吉が総攻撃の20日ほど前に前線の弟、秀長へ出した。署名にあたる自身の花押(かおう)もある。

 自陣の砦(とりで)周囲にある小屋の撤去を秀長や官兵衛が手伝うよう指示した上で、壊してできた空き地へ翌日に軍勢を送ると伝え、「味方が着くまで撤退してはならない」と命じている

 
 2015/5/23 前日職員が林道の樹木伐採に奮闘、研修バスは爽やかに新緑の林道を行く。
 
賎ヶ岳合戦 初期第一線陣地、黒田官兵衛の今市上砦の概略説明
 
天正11年の賤ヶ岳の戦いにおける城塞群の中で、秀吉方の砦の内最も北に位置する最戦線が今市上砦。
天神山砦の東、今市と東野の集落に張り出すようにある尾根の標高420mピークに今市上砦はあり、遺構は三ヶ所に分かれている。
上の砦は尾根のピークにあり18×16m四方の単郭で、北東の土塁は最高3mの高さの物見櫓跡南の尾根先約100mの所に堀切があります。
下の砦は、南西方向に90m尾根を下がった斜面にあります。20×13m全周に土塁の痕跡が見られます。北東と南西の角に虎口があります。
東の土塁の外側の溝状のものは山道で、この尾根の上をふもと近くまで続いています。西20mmの所に堀切があります。
砦に入る前に、事前説明
 
ここから、今市上砦域
 
文献に登場する黒田官兵衛の今市上砦(久太郎小屋=武者小屋=宿所)
 
横堀(塹兵壕)塹壕堀に銃座柳ヶ瀬方面へ

お城のデータ

所在地:長浜市余呉町今市小字西陣東陣(伊香郡余呉町今市小字西陣東陣)

      map:http://yahoo.jp/c8bJMeこの地図のURL

築城者:堀久太郎

区 分:砦(山城)

遺 構:土塁・堀切・桝形虎口・横堀(塹兵壕)・竪堀

現 状:山林

標 高:420m 

目標地:東野館

訪城日:2015.4.23

お城の歴史

文献に登場する黒田官兵衛(久太郎小屋跡)
 
小字西陣東陣「今市上砦」に到着、
黒田官兵衛の久太郎小屋と思われる未知の城に興奮
黒田官兵衛に指示!賤ヶ岳の合戦で、秀吉の文書

官兵衛に指示秀吉の文書

秀吉が賤ケ岳合戦の戦い方を指示した文書

 豊臣秀吉の天下統一の足掛かりとなった賤ケ岳合戦(1583年)で、秀吉が部下の黒田官兵衛らに戦い方を具体的に指示した文書が初めて見つかったと長浜城歴史博物館(滋賀県長浜市)が10日、発表した。同博物館は「秀吉の戦略が垣間見られ、貴重」としている。

賤ケ岳合戦「砦小屋壊し援軍待て」 参戦の事実裏付け

 長浜城にいた秀吉が総攻撃の20日ほど前に前線の弟、秀長へ出した。署名にあたる自身の花押(かおう)もある。

 自陣の砦(とりで)周囲にある小屋の撤去を秀長や官兵衛が手伝うよう指示した上で、壊してできた空き地へ翌日に軍勢を送ると伝え、「味方が着くまで撤退してはならない」と命

歴 史
 
勝家は、大岩山攻撃のはじまる以前の4月5日東野山堀久太郎秀政を攻めたことがある。
そのときの状況を秀政秀吉に報告した下書きが残っている。
 「今朝卯の刻より敵の惣人数押出し、柳ヶ瀬川原口に13段、山上に5段に構え、当佐弥山城(東野山)へ取寄せ柴田と相見え、自身金の五幣をふり責め懸りましたので、拙者も若輩ながら御配下に召し加えられた折でもあり、世間体もあり、自分に似合わず、白い釆を振って下知仕益した。鉄砲どもを入れ替え入れ替え撃たせ敵の手負い数百人ありました故、1~2町引き退きました。いよいよ手前の儀は固く守るよう申し付けました。お気遣いなさらないよう尚相変わったことがありましたら追々申し上げます。」
  己刻 卯月5日   久太郎
 
 
ここで名物賎ヶ岳弁当の昼食、特性弁当「賤ヶ岳の合戦 七本槍」

                                                                                                                                    

昼食後、今市上砦 郭南の堀切・土橋へ

 

参加者の見学記念撮影

曲郭2へ

山道を東野山館まで下山

講 師 愛知中世城郭研究会 長谷川博美氏

参考資料:城郭フォーラム【今市上砦・天神山城見学会レジュメ】・滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

           本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!!


賎ヶ岳合戦 初期第一線陣地、黒田官兵衛の今市上砦・勝家の天神山砦

2015年05月24日 | 

事前の予備知識・自習

   本能寺の変後に明智光秀を討った羽柴秀吉は、織田信長の後継者を決める「清州会議」を主導し後継者を信長の嫡孫「三法師」と定めた。 これによって、三男の信孝を推薦した柴田勝家との不和は決定的なものとなった。

天正11年(1583)2月、柴田軍が北近江に侵攻し、勝家は本陣を内中尾城(玄蕃尾城)とし、行市山・林谷山・中谷山・橡谷山・別所山等に陣城を構えた。

一方、秀吉は3月以降、左禰山(東野山)・神明山・堂木山・田上山・賤ケ岳等に陣城を築き対峙した。

羽柴方から見た賎ヶ岳古戦場鳥瞰復元図

両軍の陣形

4月20日、秀吉が大垣城に入った間隙をぬって、柴田方の佐久間盛政・柴田勝政兄弟が、余呉湖の南、賤ケ岳の麓を通り、中川清秀の守る大岩山砦と岩崎山砦を急襲し清秀は討死する。

 大垣でこの変報を聞いた秀吉は、急遽軍を移動させ、50キロの道程を5時間で走り通し、午後9時には木之本に到着した。「秀吉来る」の報に接した佐久間軍は、退却を始めた。

 21日未明、賤ケ岳切通附近で退却する勝政隊に、秀吉は銃撃を加えて動揺させ、馬廻隊が突撃した。 世にいう「賤ケ岳七本槍」はこの時の事で、勝政隊に大打撃を与えた。

そしてこの敗北で、前田利家が陣地を捨てて敦賀方面に脱出し、柴田軍は全軍が動揺し、秀吉軍が全面攻撃に出たので勝家本隊も敗北、勝家は馬印を毛受庄助に渡し、北ノ庄目指して落ちのびた。

賎ヶ岳合戦 初期第一線陣地、黒田官兵衛の今市上砦・勝家の天神山見学会

久太郎小屋の銃座柴田方軍(柳ケ瀬方面)へ
天神山城は、一城二郭・・寄り切り
久太郎小屋探索 天神山城見学会
 2015/5/23 前日職員が林道の樹木伐採に奮闘、研修バスは爽やかに新緑の林道を行く。
 
先ず和歌山から来られた方の為に東野山城を特別見学
虎口
次に摺墨越え遺構。
摺墨越え遺構の説明
賎ヶ岳合戦 初期第一線陣地、黒田官兵衛の今市上砦の概略説明
 
 
 
文献に登場する黒田官兵衛(久太郎小屋跡見学)
 
小字西陣東陣「今市上砦」に到着、
黒田官兵衛の久太郎小屋と思われる未知の城に興奮
黒田官兵衛に指示!賤ヶ岳の合戦で、秀吉の文書

官兵衛に指示秀吉の文書

秀吉が賤ケ岳合戦の戦い方を指示した文書

 豊臣秀吉の天下統一の足掛かりとなった賤ケ岳合戦(1583年)で、秀吉が部下の黒田官兵衛らに戦い方を具体的に指示した文書が初めて見つかったと長浜城歴史博物館(滋賀県長浜市)が10日、発表した。同博物館は「秀吉の戦略が垣間見られ、貴重」としている。

賤ケ岳合戦「砦小屋壊し援軍待て」 参戦の事実裏付け

 長浜城にいた秀吉が総攻撃の20日ほど前に前線の弟、秀長へ出した。署名にあたる自身の花押(かおう)もある。

 自陣の砦(とりで)周囲にある小屋の撤去を秀長や官兵衛が手伝うよう指示した上で、壊してできた空き地へ翌日に軍勢を送ると伝え、「味方が着くまで撤退してはならない」と命じている

塹壕堀に銃座柳ヶ瀬方面へ
 
勝家は、大岩山攻撃のはじまる以前の4月5日東野山堀久太郎秀政を攻めたことがある。
そのときの状況を秀政秀吉に報告した下書きが残っている。
 「今朝卯の刻より敵の惣人数押出し、柳ヶ瀬川原口に13段、山上に5段に構え、当佐弥山城(東野山)へ取寄せ柴田と相見え、自身金の五幣をふり責め懸りましたので、拙者も若輩ながら御配下に召し加えられた折でもあり、世間体もあり、自分に似合わず、白い釆を振って下知仕益した。鉄砲どもを入れ替え入れ替え撃たせ敵の手負い数百人ありました故、1~2町引き退きました。いよいよ手前の儀は固く守るよう申し付けました。お気遣いなさらないよう尚相変わったことがありましたら追々申し上げます。」
  己刻 卯月5日   久太郎
 
 
ここで名物賎ヶ岳弁当の昼食、特性弁当「賤ヶ岳の合戦 七本槍」

                                                                                                                                    

昼食後、今市上砦 郭南の堀切・土橋へ

 

参加者の見学記念撮影

曲郭2へ

山道を東野山館まで下山、
東野豊前守の墓八幡神社八幡神社
 
 
 
研修修バスで草岡神社に至り、
木陰で暫し休憩、
素晴らしい城郭遺構天神山城の二カ所の陣城を見学。

 

講 師 愛知中世城郭研究会 長谷川博美氏

参考資料:城郭フォーラム【今市上砦・天神山城見学会レジュメ】・滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

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松原内湖遺跡の発掘調査現地説明会

2015年01月25日 | 

信長の佐和山城包囲網

の一翼を担った。

佐和山城から内湖への逃亡の監視砦か!

 彦根市の松原内湖遺跡の発掘では、織田信長が一五七〇年、佐和山城攻めの際、敵の逃走や侵入を防ぐため尾根を削った「堀切」「竪堀(たてぼり)」などの城郭遺構が見つかった。
 これは、浅井長政の猛将、磯野員昌(かずまさ)の籠る佐和山城を包囲するため構築したもの。尾根を分断する堀切跡は、佐和山城跡から北北西約一・六キロの尾根に築かれ、東西十三・五メートル、南北の七~九メートル、最深三メートルだった。また、斜面に沿って縦方向に掘削した竪堀は、幅七・五メートル、深さ三メートル、長さ十四メートルを確認した。
 発掘に当たった県文化財保護協会は、攻め手の被害が大きいとされる城攻めにおいて、土塁による頑強な包囲網を築造し、味方の消耗を防いだ戦い方をしたとみている。

信長の防御施設 彦根の遺跡で発見

2015年01月25日()│カテゴリ :BBC: 文化・芸能

彦根市の松原内湖遺跡から、戦国時代に織田信長が、浅井長政と戦ったときに造ったとみられる防御施設の跡が発見されました。松原内湖遺跡では25日午後、現地説明会が開かれました。今回、見つかったのは、「堀切」と呼ばれる尾根を伝って侵入する敵を足止めする施設や「竪堀」という、斜面を伝って侵入する敵を足止めする堀などです。これらは、16世紀以前に築かれたものと推定され、文献から、1570年に織田信長が、佐和山城に立てこもった浅井長政の家臣を包囲したときに造ったものとみられています。

  県文化財保護協会では、信長は、兵力を消耗するよりも包囲線を築く労力を選んで、相手の降伏を待つ戦法を得意としていて、この佐和山城攻めの跡は、信長の包囲戦の先駆的な事例の発見だと話しています。

松原内湖遺跡の発掘調査現地説明会

投稿日: 作成者: 滋賀県文化財保護協会

公益財団法人滋賀県文化財保護協会では、国土交通省滋賀国道事務所からの依頼により、滋賀県教育委員会を調査主体とし、国道8号米原バイパス事業に伴う松原内湖遺跡の発掘調査を、平成26年4月から6,900㎡を対象に実施しています。先だっては、鎌倉時代末の年号を持つ巻数板の出土について、発表・公開したところです。
今回、丘陵部において、戦国時代の城郭施設(堀切〔ほりきり〕・竪堀〔たてぼり〕など)を発見しました。これらは、南方に位置する砦を防御するために尾根を分断したものであり、従来存在が知られていなかったものです。付近には佐和山城(さわやまじょう)や物生山城(むしやまじょう)といった戦国時代の山城・砦跡が構築されており、今回発見した城郭施設も、要害の地に築かれたこれらの山城等と関連するものと考えられます。つきましては、下記の日程で現地説明会を開催いたしますので、ご案内申し上げます。

(1) 日  程  平成27年1月25日(日) 13時30分から

(2) 開催場所  松原内湖遺跡(彦根市松原町地先、滋賀県北部浄化センター北側)

(3) 内  容  現地調査担当者の解説のもと、実際に発掘調査現場を見学いただき、出土した遺物も合わせてご覧いただきます。

(4) そ の 他  
*1 調査地内は未舗装ですので、一部足下の悪い場所があります。動きやすい服装と運動靴等の着用をおすすめいたします。
*2 駐車場が限られておりますので、徒歩または自転車等でお越しいただきますようお願いします。なお、JR彦根駅西口にレンタサイクルがあります。

(5)問い合わせ先
公益財団法人滋賀県文化財保護協会
〒520-2122 大津市瀬田南大萱町1732-2
(電話)077-548-9780

 新聞報道

毎日新聞2015年1月23日(金)13:06

 彦根市松原町の「松原内湖遺跡」で見つかった堀は、織田信長が佐和山城に籠城(ろうじょう)する浅井長政の重臣、磯野員昌(かずまさ)を包囲するために造ったと考えられる。磯野を主人公にした歴史小説「光秀の影武者」(祥伝社)の著者で、作家の矢的(やまと)竜さん(66)=彦根市=と一緒に遺跡を訪ね、印象を聞いた。【西村浩一】

 磯野は、信長・徳川家康の連合軍が、浅井・朝倉義景(よしかげ)の連合軍を破った「姉川の戦い」で、浅井の先鋒(せんぽう)を務めた猛将だ。この際、信長軍の十三段の備えを十一段まで破ったとも伝わる。

 この戦いの後、磯野は居城の佐和山城に立て籠もった。城を包囲するために信長が築いたのが今回の堀だ。磯野の兵は200~300人とみられるのに、堀は幅7メートル、深さ4メートルと巨大で、信長の磯野に対する警戒心が見てとれる。

 堀には、北の小谷城(長浜市湖北町)にいた浅井軍との連携を断つ狙いもあっただろう。実際、磯野は8カ月近く籠城したものの、浅井の支援が得られず、最後は降伏する。

戦国時代といえば、刀や槍(やり)を振り回す合戦を想像するが、土木技術がいかに重要だったかを、堀は示している。同時に、信長の細心と、それが故の周到さ、非情さも生々しく物語っている。

信長の城攻め時の堀切、竪堀など出土 滋賀・彦根の松原内湖遺跡

中央奥が尾根を削り取って造られた「堀切」。縦方向に溝のように見えるのが斜面にある竪堀(彦根市松原町・松原内湖遺跡)中央奥が尾根を削り取って造られた「堀切」。縦方向に溝のように見えるのが斜面にある竪堀(彦根市松原町・松原内湖遺跡)

 滋賀県文化財保護協会は22日、彦根市松原町の松原内湖遺跡から、織田信長が1570(元亀元)年の佐和山城攻めの際、敵の逃走や侵入を防ぐため尾根を削った「堀切(ほりきり)」などの城郭遺構が出土した、と発表した。堀切は1970年代の城郭調査で南東約0・5キロ離れた別の尾根で1カ所見つかっており2カ所目。「信長公記」に書かれている、佐和山城を四方から囲んだ包囲網の「鹿垣(ししがき)」の一部とみている。

 出土した堀切は、佐和山城跡から北北西に約1・6キロ離れた尾根を削り取っており、幅7・5メートル~5メートル。長さは13・5メートルで最深部は4メートル。堀切の末端から東斜面に敵を足止めする竪(たて)堀(幅7メートル、深さ1メートル、長さ14メートル)も確認でき、大規模な包囲網があったと推定できる、としている。江戸時代(17世紀)以降の平瓦や天目碗(わん)が出土したため、造築は16世紀以前で、立地や構造から信長が佐和山城攻めで築いた可能性が最も高いという。

 堀切がある尾根(標高114メートル前後)は、当時の松原内湖湖岸の北端東側にあたり、南約150メートル離れた尾根上が琵琶湖や内湖を監視する櫓(やぐら)を建てるのに最適地であるため、北からの敵の侵入を防ぎ、佐和山城からの逃走を阻止するのが目的らしい。

 佐和山城には当時、姉川の戦いで信長を苦しめた浅井長政の家臣で城主だった磯野員昌(かずまさ)が籠城し、信長の包囲網により約8カ月後に降伏した。

 県文化財保護協会の小島孝修主任は「兵士となった農民が死なないように、短期間で攻めることをせず、相手の降伏を待つ戦法をとって、堀切を突貫工事で造ったと思われる」と話す。

 中井均滋賀県立大教授(日本城郭史)は「城の包囲網は柵と堀切から1572年の小谷城攻め以降、土塁へと発達する。信長が天下統一に向け始めた攻城戦で包囲網の初期の姿を示す貴重な遺構。自軍の兵力を維持しようとした戦い方を考える上で重要な例になる」と話した

 現地説明会は25日午後1時半から。問い合わせは同協会TEL077(548)9780。

信長建築の城郭遺構か、竪堀など発見 彦根・松原内湖遺跡

県文化財保護協会は二十二日、彦根市松原町の松原内湖遺跡で、戦国時代に築かれたとされる堀切(ほりきり)や竪堀(たてぼり)などの城郭遺構の一部が見つかったと発表した。構築年代を示す遺物の出土はないが、協会は「構造や立地などから織田信長が一五七〇(元亀元)年の佐和山城攻めに際して築いた可能生が高い」とみている。 

 見つかった城郭遺構は、尾根を伝って侵入する敵を足止めさせる堀切、同じく斜面を伝う敵に対する竪堀が主体。佐和山城跡の北北西約一・六キロ付近の丘陵地にあり、南北方向の尾根を分断するように掘られていた。

 堀切の幅は最上部で七・五メートル、基底部で五メートル。長さは一三・五メートルで、最深部は四メートルだった。表土付近から江戸時代(十七世紀)以降とされるいぶされた平瓦二点も出土した。

 竪堀は堀切の端から始まり、尾根東側斜面に形成。幅七メートル、深さ一メートルの規模で、長さ十四メートル分を確認できた。表土付近からは江戸以降の天目茶わんが出土。発掘調査対象地外だが、尾根西側斜面でも竪堀が確認できたという。

 周辺からは、斜め方向の堀(幅三メートル、深さ二メートル)やハの字状に掘り込まれた溝(幅〇・五メートル、深さ〇・三メートル)も見つかった。

 堀切と竪堀について、同協会は「現状では佐和山城攻めに際して築いたとするのが最も妥当。信長が敵兵の進入を阻むために築いた包囲網の一部と考えられる」とする。

 県立大人間文化学部の中井均教授(日本城郭史)は「信長、(豊臣)秀吉の天下統一への足跡が見えてくる貴重な発見で、両者が統一過程で繰り広げた城攻めの初期的な姿を明らかにできた遺構として注目できる」と話している。

 国道バイパス整備事業に伴い、同協会が二〇一二年度から実施。本年度は遺跡内の八千平方メートルを対象に調査している。二十五日午後一時半から現地説明会を開く。(問)同協会=077(548)9780

 (曽田晋太郎)

 
 2015/1/23 11:15
浅井攻めた信長の堀切跡、滋賀 包囲戦術裏付け

 

 松原内湖遺跡で見つかった、織田信長が佐和山城攻略の際に築いたとみられる堀切跡=滋賀県彦根市(滋賀県文化財保護協会提供)
 
 松原内湖遺跡で見つかった、織田信長が佐和山城攻略の際に築いたとみられる堀切跡=滋賀県彦根市(滋賀県文化財保護協会提供)

 滋賀県彦根市の松原内湖遺跡で、1570年に織田信長が浅井長政と戦った佐和山城攻略の際に築いたとみられる堀切跡が見つかり、同県文化財保護協会が23日までに明らかにした。

 敵の逃亡や侵入を防ぐためとみられる。これまで文献には記されていたが、具体的な遺構が見つかるのは珍しく、同協会の担当者は「信長が得意とした包囲戦の初期の様子がうかがえる」と話している。

 堀切跡は佐和山城跡の北西約1・6キロで見つかり、長さ13・5メートル、最大幅7・5メートル、深さ4メートルにわたり、尾根を切断していた。出土した天目わんや瓦から、16世紀以前に築かれたと推定される。


染谷砦  近江国(甲賀・甲南上馬杉)

2014年12月13日 | 

 背後の堀切

お城のデータ

所在地:甲賀市甲南町上馬杉小字岡ノ下 (旧甲賀郡甲南町上馬杉小字岡ノ下) map;http://yahoo.jp/cGURUU

現 状:山林

築城期:室町期

築城者:

城 主:

遺 構:曲輪・堀切

区 分:砦・丘城

標 高:230m   比高差:30m

目標地:上馬杉油日神社・岡ノ下池

駐車場:東側に路上駐車

訪城日:2014.12.5

 

お城の概要

染田砦は南西に向かって伸びた尾根の先端に築かれている。

染田砦は最高所から一段下がった尾根の山腹から南西に向かって階段状に削平地を連ねる。

最高所の削平地の背後は自然地形の尾根であるが、少し北側に浅い堀切が残っている。

南西の尾根先から入れそうなのだが薮化している。東側の個人宅への斜道を登り、南へ、畑から入城した。

歴 史  

染田砦・・・・は、詳細不明であるが、在地土豪の馬杉氏に関係する城か。

路上駐車位置、入城の個人宅の斜道

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、日本城郭大系 、 甲賀の城  

   本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


市原Ⅱ城  近江国(甲南)

2014年09月29日 | 

 

お城のデータ 

所在地:甲賀市甲南町市原字中垣外  (旧甲賀市甲南町市原字中垣外)   map:http://yahoo.jp/9wlTHC

現 状:宅地

区 分:平城

築城期:15世紀頃

築城者:

城 主:

遺 構:

目標地:「市原会議所」南東の民家(甲南町市原714宅)

駐車場:市原会議所駐車場

訪城日:2014.9.27

城域内の遺構か

 

お城の概要

甲南町市原には3つの城館が分布しているが、市原Ⅱ城と仮称された当城は市原集落内北東寄りに所在する。遺構は個人宅敷地内の南西側に近年まで土塁の一部が残存していたが、平成13年(2001)の新築建設に伴い完全に消滅した。ただその際に町教委による発掘調査が行われ、15世紀代の遺物が出土した。
また地元の伝承によると、かつて土塁の外側には「ソウボリ」と呼ばれる堀や、北東辺に土塁が存在していたようだ。このことから土塁と堀に囲まれた約60m四方の単郭方形の城館であったと推測される。

 歴 史

 「南山巡狩録」には、正平15年(1360)9月、石堂利部頼房は仁木三朗義任を総大将に率いる伊勢・伊賀の軍勢2000余騎が近江国に打越、甲賀郡葛木山に陣をとる。佐々木大夫判官高頼の籠もる市原城を攻撃したことが見える。

 佐々木方は目加田・楢崎・儀俄・平井・池田赤一揆を一手とし、青地・馬淵・伊庭・三井・三上黄一揆を一手とし左手の河原に陣を・・・佐々木は吉田・隠岐・黒田・鈴村を初として宗徒の者を馬廻にひかへて備えたり・・・云々

「太平記」延文五年(1360)、佐々木高秀方が守る。


ただこの市原城が、市原地区に所在する市原Ⅱ城や古屋敷館の可能性もある。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、甲賀の城 、 日本城郭大系

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尾末山砦  近江国(彦根)

2014年08月21日 | 

 砦山が消失してしまった、まぼろしの城

  

お城のデータ

所在地:彦根市尾末町    map:http://yahoo.jp/ZRJAfX

別 名:尾末山城

現 状:宅地・池田屋敷

遺 構:彦根城築城で消失

区 分:砦・平山城

築城期:織豊期

築城者:織田氏

城 主:河尻与兵衛

廃 城:江戸期・・・彦根城築城時

目標地:池田屋敷・彦根市立図書館

駐車場: 彦根市立図書館前無料駐車場

訪城日:2014.8.20

城下町の景観 尾末町

お城の概要

尾末山砦は、現在の彦根城中堀の外側沿い池田屋敷の北側付近にあったとされる。

彦根城築城以前は当所に尾末山と呼ばれた小山があり、砦が築かれていたというのだが、彦根城築城に際して尾末山は跡形もなく切り崩された。往時の彦根は多くの湿地帯が広がっていたとされるので、城下町建設に尾末山の土は大いに貢献したのであろう。

復元された佐和口門続多聞櫓の向こうに見える一帯が尾末山砦跡という。地形そのものが失われているため遺構はないが、旧彦根藩の武家屋敷である池田屋敷が残っている。

歴 史

 元亀元年(1570)に織田信長は姉川の戦いで浅井長政と朝倉義景の連合軍を打ち破ったが、敗れた浅井氏の残党は磯野員昌の居城である佐和山城へと逃げ込んだ。信長はこのときに佐和山城を包囲して周辺の小山に砦を構築させて家臣を配置したが、その中にある西彦根山(尾末山砦)。

『信長公記』には「七月朔日、佐和山へ御馬を寄せられ、取詰め、鹿垣結はせられ、東百々屋敷(丸山砦)御取出仰付けられ、丹羽五郎左衛門置かれ、北の山(物生山砦)に市橋九郎右衛門、南の山(里根山砦)に水野下野、西彦根山(尾末山)に河尻与兵衛、四方より取詰めさせ、諸口の通路をとめ、…」と・・・『信長公記』に加筆、信長の佐和山城包囲網である。

織田信長の佐和山城攻め時の陣城

 信長公記には佐和山城に対する付城について以下の記述がある。
----------------------------  【信長公記】 (巻三 元亀元庚午)
「木下籐吉郎定番として横山に入置かれ、夫より佐和山の城、磯野丹波守楯籠り相□候キ、直に信長公。七月  日、佐和山へ御馬を寄せられ、取詰め、鹿垣結はされ、東百々屋敷御取出仰付けられ、丹波五郎左衛門置かれ、北の山に市橋九郎右衛門、南の山に水野下野、西彦根山に河尻与兵衛、四方より取詰めさせ、諸  の通路をとめ。七月六日、御馬廻ばかり召列れられ御上洛。」
----------------------------
 上記、記述の「西彦根山」が、この尾末山である。

 江戸時代になり井伊家が彦根築城になって、尾末山を切り崩して、家臣屋敷(池田屋敷が残っている)に使用し、現在は尾末町集落・宅地。

城下町の景観 尾末町彦根城の中濠に面する佐和口多聞櫓は水面に美しく映え、行く人々に安らぎを与えてくれます。
 

参考資料:彦根市教育委員会文化財課、滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭

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