城郭探訪

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八相山城 近江国(虎姫)

2016年01月16日 | 陣城

八相山砦八相山

お城のデータ

別 称:成道山城

所在地:滋賀県東浅井郡虎姫町中野八相山 map:http://yahoo.jp/3E17uH

現 状:公園・社地・平地+山地・山林

区 分:丘陵城(砦・陣城) 遺 構:曲郭・堀切・物見廓

築陣期:織豊期

築陣者:織田信長軍(蜂谷氏・多賀氏)

陣 守:多賀貞能・蜂屋頼隆

標高:140m 比高差:50m

目標地:三川の時游館・中野の矢合神社

駐車場:矢合神社下の駐車場

発掘調査:遺物概要県報(5世紀-鏡+剣+刀子+短甲)。 発掘概要教育キャンプ場整備事業。 

訪城日:2016.1.10 

 

お城の概要

虎御前山砦と同じ丘陵の南側を八相山砦「中野山とも呼び)多賀貞能と蜂屋頼隆の陣城は残る。これで虎御前山の西にある月ヶ瀬城に対する備えとして位置している。

矢合神社えを挟んで、多賀氏・蜂谷氏の陣城として、公園整備されている。ハイキングコースや自動車道も整備され、顕著会のよって整備され、観光と城郭跡や説明板・石碑の建ち非常に解り易いが、虎御前山砦として一体化され、八相山砦の区分は、現地では判別されていない。

歴 史

『太平記 巻三十』に「八相山城 虎姫町」

観応2年9月7日の条・・・「同九月七日近江国へ打出、八相山ニ陣ヲ取ル」と記す

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虎御前山の尾根にあり、見晴らしが良い。「矢合」と音が通じる八相(やあい)山に鎭座し、旧称八相大明神と称した。

元亀元年(1570)までは古来の神殿があつた。元亀・天正の兵火で焼失。明治に矢合神社と改称

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‐‐‐信長公記 巻五 元亀三年  3、戦野  奇妙様御具足初に虎後前山御要害の

この虎御前山から後方の横山までは三里の距離があり、やや遠かった。このため途中の八相山と宮部郷(虎姫町宮部)にも連絡用の砦が築かれた。宮部郷には宮部善祥坊継潤が入り、また虎御前山から宮部郷までは悪路が続いて通行が不便だったため、信長公は道路の改修を命じて道(軍道)幅を三間半にまで広げさせ、敵地側の道路脇には五十町の距離にわたり高さ一丈の築地を築かせ、(水攻め)川水を堰入れさせた・・云々

軍道・築地・・・予想図

 八相山砦―東浅井郡虎姫町中野

虎御前山砦と同じ丘陵の南側を八相山(中野山とも呼び)砦を多賀貞能と蜂屋頼隆が守りについた。これで虎御前山の西にある月ヶ瀬城に対する備えが出来た。信長は次に宮部城との兵員や物資の移動が容易に行えるよう軍用道路の普請を命じた。道幅が3間半(約6.3メートル)距離が50町(約5.5キロ)の道で敵からの攻撃を避けるために1丈(約3メートル)の築地が設けられた。
11月3日この軍用道路を破壊しようと大将朝倉景鏡が出陣してきた。同時に浅井井規が宮部城を包囲した。これを見て秀吉は虎御前山砦から浅井軍の背後を突こうと出撃した。秀吉軍の梶原勝兵衛、弓衆中野又兵衛一安、毛屋猪介、富田弥六、信長から譴責を受けて湖北に残された馬廻衆滝川彦右衛門らの猛攻をみて景鏡も戦いに加わり大乱戦となった。そこへ継潤が城から討って出御前山(中野山、八相山)は、日本の歴史上で2度の大きな戦場として登場します。

・虎御前山・八相山(中野山)は、日本の歴史上で2度の大きな戦場として登場します。

  • 室町時代の初め、将軍の足利尊氏と弟の足利直義が戦った八相山(はっそうざん)の合戦。
  • 織田信長が小谷山の浅井長政を攻めたときで、尾根上には信長をはじめ木下秀吉、柴田勝家、堀秀政、滝川一益、丹羽長秀などの陣地跡。
  • 近江国浅井郡宮部村(現在の滋賀県長浜市宮部町)の小豪族を出自にもち、もとは比叡山の山法師であったと伝わる。宮部善祥坊清潤の養子となって比叡山で修行をしたのち僧侶となったが、故郷宮部に戻り、近江の戦国大名・浅井長政の家臣として仕えるようになる。武勇に優れた一面もあり、長政に従って織田信長との戦いで活躍し、横山城の城将であった羽柴秀吉と対峙したが、元亀3年(1572)10月、秀吉の調略に応じてその与力となった(『浅井三代記』)。寝返りの証として浅井側の国友城を攻めた際、銃撃を受け負傷している。
  • 『信長公記』にはこれより少し早い8〜9月に、信長によって宮部村の要害を守るよう命じられたとある。

虎御前山城の遺構

虎御前山の遺構は、一部破壊されている部分もあるが、比較的良好に 残されている。
山の最高所に位置する「く」の字形の曲輪(くるわ)(伝織田信長陣)は、北・東・西の三方を高い切岸で防御されており、ここを中心に南側の砦(伝堀秀政陣・滝川一益陣)は堀切と竪堀を使った防御がなされる。 また、最も小谷城に近接する伝木下秀吉陣は、三角形の曲輪を中心に、周囲に帯曲輪が巡らされるなど、ここが最前線であったことを窺わせる。

虎御前山城図

天正元年(1573)8月、小谷城総攻撃が仕掛けられ、9月1日に長政が自刃して浅井氏は滅亡、小谷城攻略戦に終止符が打たれ、虎御前山城は廃城となった

矢会(やあい)神社は延喜式神名帳に近江国浅井郡十四座ノ一と記され、古くは八相社又は八相大明神と云へり、鎮座するこの一帯の山を八相山と云ふ。八相を“やわい”と訓読す。けだし当神社には往古より弓矢の神事ありて村民盛んに射的を神前で行ひ多くの矢が行き合うことにより、矢合の文字を以て社名とせり。
祭神の葦那陀迦神は葦の生じ易き水辺を司どり給ふ神なり。この地古くより水利の便意の如くならざりしかばこの神を祭る。世にいふ世々開長者の“せせらぎ”は水の湧き出ずる状を表す語にして村民篤く敬仰す。

天正年間信長の小谷城攻撃の際、戦火に遇い多くの古文書逸散したるも、現社殿は天明年間の作なり。境内に現存する鐘楼は戦火をまぬがれし道成寺のものを移築したものなり。

中野にある矢合神社に注目される。同名の神社は式内社の論社として、同じ長浜市域の西浅井町岩熊にもあって、そこには、「浅井姫命と気吹雄命が争った時、気吹雄命が浅井岡を襲い、浅井姫命は当地まで退き、防矢を射た」という伝承があるから、浅井姫と矢に関係深いことが分かる。倭建命西征には美濃の弟彦公が弓矢に優れた者とともに従軍したと『日本書紀』景行段に記され、矢道には弟彦公の古墳とみられる長塚古墳もあり、三角縁神獣鏡が出土した。丁野にある式内社岡本神社の祭神も食糧神ヲカ神たる保食神とみられるが、「保食神=罔象女神」でもあったから、これも浅井姫に関係がある。坂田郡には式内社の岡神社もある。 土塁

多賀氏陣所

 駐車場の石仏

参考資料: 滋賀県中世城郭分布調査、『日本城郭大系』11。『信長公記』巻三(元亀元年)、『浅井三代文書集』、虎姫時游館展示品 

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宮部城(宮部砦) 近江国(虎姫)

2016年01月11日 | 陣城

平成28年新春『城歩会』無料特別企画

『信長公記』の現場を行く宮部合戦ウオーク
 
 
 
 
滝川陣屋跡(江戸期)のち宮部学校
 

お城のデータ

別 称:宮部砦

所在地:長浜市宮部町(旧・東浅井郡虎姫町宮部) map:http://yahoo.jp/5FYhjIこの地図のURL

現 状:社地(宮部神社)・宅地

区 分:陣城(砦)

築城期:戦国期

築城者:宮部善祥坊継潤

廃 城:天正9年頃

遺 構:城跡碑・土塁・堀

目標地:宮部集落の宮根神社

駐車場:宮部集落の宮根神社(駐車場)

訪城日:2016.1.10

お城の概要

元亀の争乱で、虎御前山城と横山城の繋ぎ城とされ、小谷城からわずか5㎞程南、宮部集落の西側に宮部神社があり、そこが宮部城跡。

土塁・堀・供養塔が残る。神社境内に、見落としそうな位置に「伝宮部城址」の碑や宮部継潤、田中吉政の供養碑が建てられている。

城址には、住宅が建たないというが、ここも例外ではなかった。

歴 史

ーーー信長公記 巻五 元亀三年  3、戦野  奇妙様御具足初に虎後前山御要害の

この虎御前山から後方の横山までは三里の距離があり、やや遠かった。このため途中の八相山と宮部郷(虎姫町宮部)にも連絡用の砦が築かれた。宮部郷には宮部善祥坊継潤が入り、八相山は城番の人数が守った。また虎御前山から宮部郷までは悪路が続いて通行が不便だったため、信長公は道路の改修を命じて道(軍道)幅を三間半にまで広げさせ、敵地側の道路脇には五十町の距離にわたり高さ一丈の築地を築かせ、(水攻め)川水を堰入れさせた。

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軍道・築地・・・予想図

 元亀3(1572)年信長は嫡男織田信忠の初陣に小谷城攻めを選んだ。7月19日に岐阜を出発した信長・信忠父子は赤坂、横山城を経て、21日小谷城下へ到着した。前回と同じく雲雀山と虎御前山を前線基地に佐久間信盛・柴田勝家・木下藤吉郎・丹羽長秀・蜂屋頼隆が清水谷から水の手まで攻め込み、城下に柴田勝家・稲葉一鉄・氏家直通・安藤守就らが陣を張った。翌日秀吉が阿閉貞征の山本山城下へ放火、それを阻止しようとした城兵と戦いになったが退けた。織田軍は23日北進して地蔵坊を、24日夜には大吉寺を焼討して僧侶、建造物は灰燼に帰した。

さらに琵琶湖湖上では打下城の林与次左衛門が明智光秀・猪飼野甚介・山岡景猶・馬場孫次郎・居初又二郎らと海津浦・塩津浦・余呉の入海・竹生島を攻撃した。27日から虎御前山砦の建築が始まった。織田軍に好き放題に自領を荒らし回られても手出しができなかった浅井長政は威信低下を恐れて朝倉義景に信長を倒せるチャンス到来と偽情報を流してついに義景を動かした。29日小谷城へやってきた義景は愕然とした。織田軍は悠々と小谷城前に砦を築き、城下には織田軍の兵が溢れていた。義景は率いた1万5千の兵と大嶽城に篭ってしまった。 間もなく虎御前山砦は完成した。信長はこの砦と横山城の連絡を確保するために八相山にも砦を築き宮部城を改修させ9月16日秀吉を虎御前山砦の守将に任じ信忠と横山城へ戻った。

 これほどに雄大な陣地構築は前代未聞であり、この陣地群の前にはもはや前方に展開する朝倉勢もさしたる脅威ではなかった。そのため信長公は横山へ軍勢を納めようと考え(武田信玄の動きに備えるため。このときの信長をとりまく情勢は、ここに書かれるほど余裕のあるものではなかった。)、その前に朝倉勢へ使者を向かわせた。使者は堀久太郎秀政であった。堀は朝倉の陣に着くと、「朝倉殿には折角の御出馬である。ついては日時を定め、一戦を致さん」という信長公の言葉を伝えたが、朝倉勢からの返答はなかった。すると霜月3日浅井・朝倉勢が軍勢を繰り出し、虎御前山から宮部に到る道に築かれた築地を破壊しようとしてきた。先鋒は浅井七郎であった。この動きに対し、秀吉はすぐさま応戦の人数を出して一戦に及んだ。戦は梶原勝兵衛・毛屋猪介・富田弥六・中野又兵衛・滝川彦右衛門らの先懸け衆が奮闘して敵を追い崩し、各々功名を挙げた。このうち滝川彦右衛門は元々信長公の近習をつとめていた者であったが、今回の江北出兵で背に大指物を差して出陣しながら大した武功も挙げられず、信長公の勘気をこうむって虎御前山に居残っていた。そのためこの戦では発奮して目のさめるような働きをし、その功によりふたたび御前に召し出された。滝川は大いに面目を施した。ーーーーー

  宮部継潤は、天文9年(1540)9歳の時、比叡山に上り西堂の行栄坊で修行、剃髪して継潤と称した。その後、20歳になって宮部に帰り、湯次神社の社僧善浄坊清潤の養子となり跡を継いだと云われる。やがて、湯次神社の近くに鎮座する宮部神社を修築して城塞化、土豪として自立した。そして、江北の戦国大名浅井長政に仕えた。
 元亀2年(1571)横山城の木下藤吉郎に勧められて織田方に転じ3千石を領し、以後宮部城は天正元年(1573)8月の小谷城落城に至るまで、織田軍の重要拠点となり、宮部から虎御前山には軍道が開かれたと伝えられる。
 継潤はその後も秀吉の与力として中国遠征などに同行し、天正9年(1581)因幡鳥取城攻めでの戦功により、但馬国豊岡城二万石ついで因幡国鳥取城五万石の大名となった。その後宮部城は廃城となった。 

 宮部の北東にある湯次神社の善祥坊清潤の養子になった、坂田郡醒ケ井の国人土肥真舜の子孫八は9歳から比叡山で修行し20歳になって継潤と名を改め湯次に戻ってきた。

 その後宮部を押領して西暦200年前後からある井守保利社(宮部神社)を改修、城砦化して土豪化し宮部氏を名乗り湖北の他の土豪と同じく戦国大名となった浅井氏に従った。湖北の国人、土豪衆は元は独立しており、京極氏の一被官だった浅井氏が抜きん出た存在になったのでそれを中心に取りあえずまとまったのが浅井家臣団である。だから浅井氏が信長に押され気味になると保身のため浅井氏を見限るものが出る。

 秀吉の懐柔策に姉川合戦後最初に寝返ったのが継潤だった。秀吉は継潤を信任していた証拠に長浜城主になると4番目に多い知行を与えた。また甥秀次を人質として継潤の養子とした。継潤もその期待に応え、因幡鳥取城主にまで登りつめた。継潤は小谷城に人質で居る妻を救おうと家臣の友田近右ェ門に暗号を持たせ小谷城へ遣わした。その暗号が分かった妻は城から無事脱出した。また継順の妻と共に城内にいた友田の父も暗号に気づいて城から逃げる事が出来た

 近江国浅井郡宮部村(現在の滋賀県長浜市宮部町)の小豪族を出自にもち、もとは比叡山の山法師であったと伝わる。宮部善祥坊清潤の養子となって比叡山で修行をしたのち僧侶となったが、故郷宮部に戻り、近江の戦国大名・浅井長政の家臣として仕えるようになる。武勇に優れた一面もあり、長政に従って織田信長との戦いで活躍し、横山城の城将であった羽柴秀吉と対峙したが、元亀3年(1572)10月、秀吉の調略に応じてその与力となった(『浅井三代記』)。寝返りの証として浅井側の国友城を攻めた際、銃撃を受け負傷している。

虎御前山城の遺構

虎御前山の遺構は、一部破壊されている部分もあるが、比較的良好に 残されている。
山の最高所に位置する「く」の字形の曲輪(くるわ)(伝織田信長陣)は、北・東・西の三方を高い切岸で防御されており、ここを中心に南側の砦(伝堀秀政陣・滝川一益陣)は堀切と竪堀を使った防御がなされる。 また、最も小谷城に近接する伝木下秀吉陣は、三角形の曲輪を中心に、周囲に帯曲輪が巡らされるなど、ここが最前線であったことを窺わせる。

虎御前山城図

天正元年(1573)8月、小谷城総攻撃が仕掛けられ、9月1日に長政が自刃して浅井氏は滅亡、小谷城攻略戦に終止符が打たれ、虎御前山城は廃城となった。

 ここから、『宮部城(砦)』
 
 土塁(竹藪に)
ここまで、『宮部城(砦)』
 
 
宮部会館
 花火打ち上げの技術と伝統を誇っていた宮部町に、花火打ち上げの司令所や見物席として「花火の陣屋」が昭和初期まで設営されていました。
同町には「花火陣屋三基」他木製大筒・花火玉制作用の木型・火薬調合用の「薬研」などが保存されています。歴史的には鉄砲生産で有名な国友町の鉄砲鍛冶が受注減となった江戸後期から鉄砲火薬製造の技術を応用し花火製造・打ち上げを仕事に変えていき、「花火陣屋」などを構えたといい、国友を中心とした周辺地域一体に広がりました。
 
 
『宮部史談会』歴史講演 講師長谷川博美氏 『歴史に残る宮部城の戦い』
滋賀県長浜市宮部町1437−2 宮部会館
 
本日の歩行数 15,130歩 歩行距離 11.3km
 
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、信長公記、淡海の城、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

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平成28年1月10日『城歩会』歩き初め 新春ウォーキング。
Eメール連絡先  wwmy29831@maia.eonet.ne.jp 長谷川博美
先導 宮本優子事務局 講師現地解説 長谷川博美氏
 

佐久間玄蕃盛政の行市山陣城と前田利家の別所山城の見学会

2015年11月29日 | 陣城

 

佐久間玄蕃盛政の行市山陣城と前田利家の別所山城の見学会

 

 2015/11/28は時雨ました。
少し暗い気分でウッデイパル余呉の森林文化センターに到着すると多数の城郭愛好家様が、東京、愛知、三重、兵庫、大阪、和歌山など次々集合。
 県内は長浜市、彦根市、米原市、東近江市、近江八幡市、大津市から、ぞくぞく到着冬なのに余呉は異様な熱気。
 私達は先ず別所山城と行市山城を濃霧の中を登山して是次々に見学攻略。
行市山頂で講師は立ったまま、賎ヶ岳合戦弁当を食べる。
参加者様の体温を保つ為に早速下山。行市山城、別所山城を再度見学。
 ロープで足場も確保講師は此処で機転の利く中村様に相談。
 徒歩下山しながら橡谷(くぬぎだに)山城、中谷山城などの柴田勝家陣営の陣城も併せて、県内外の人々にスペシャルプライスとして是を付加見学結局は、行市山城、別所山城、橡谷山城、中谷山城などの4城を次々に見学攻略して毛受兄弟の墓も見学する、なんと五段構えの見学33人の陣容で、行市山麓に無事到着。

橡谷(くぬぎたに)山砦 近江国(余呉)

2015年11月29日 | 陣城

賤ヶ岳合戦で柴田方の金森長近の陣城

お城のデータ

城名: 橡谷山(くぬぎたにやま)城

所在地:長浜市余呉町小谷・池原(旧伊香郡余呉町小谷・池原)map:http://yahoo.jp/ioGbEO

現 状: 山林
標 高:368m   比高差:210m

築城期: 織豊期 天正11年(1583)
築城者: 金森長近
守 将:徳山秀現・金森長近

区 分:陣城(砦)
遺 構:土塁・曲郭・軍道、堀切、櫓台、竪堀
訪城日:2015.11.28

お城の概要

 橡谷山砦は行市山から東へ派生した尾根の標高368.4mの山頂一帯に築かれている。 ここで紹介している橡谷山砦は「滋賀県中世城館調査報告」による仮称で、としているので注意要。同書による「中谷山砦」はここから南東の尾根にあり、ここには現地標柱もないため、表記は「滋賀県中世城館調査報告」に従っている。

 橡谷山砦は東西に伸びた尾根の西端と東端に土壇があり、曲輪となっている。 西側の曲輪は薮化して遺構がはっきりしない部分が多い。東の曲輪は先の標柱が建っており、多角形の曲輪で周囲に低い土塁が巡り、西側に大堀切がある。切岸の外側に犬走の通路が設けられ、南に虎口らしき開口部が残る。

歴 史

天正11年(1583年)賎ヶ岳合戦で勝家方の砦として築かれた。 城将は金森長近あるいは原長頼という。

原彦次郎は、織田信長に仕へ越前大野郡に2万石を与えられ、勝家の与力として付属されていたことから、この地に従軍することになった。先鋒及び敗走時には殿を勤めたが、敗戦濃厚となり最後には羽柴秀吉に下ったとされる。
なお、現地標柱は「中ノ谷山砦」となっているが「滋賀県中世城郭分布調査7」では「橡谷山砦(仮称)」とされ、守将を徳山秀現・金森長近としている。

登城案内

余呉町新堂にある毛受兄弟墓より行市山山頂へ登る登山道の途中にある。橡谷山砦の前は「中谷山砦、後は別所山砦の写真を参照。

 

現地標柱は「中ノ谷山砦」となっているが「滋賀県中世城郭分布調査7」では「橡谷山砦」

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査7、城覚フォーラム資料

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別所山砦 近江国(余呉)

2015年11月29日 | 陣城

別所山砦・行市山砦の秘蔵イラスト(講師:城郭研究家の長谷川博美氏)を披露

お城のデータ

 所在地:長浜市(旧伊香郡)余呉町小谷 map:http://yahoo.jp/fRWTcW

区 分:山城(陣城・砦)

標 高:448m   比高差:46m(林道より)

築城期:織豊期(天正11年(1583年)賎ヶ岳合戦)    

築城者:前田利家・利長

初城主:前田利家・利長

遺 構:土塁、空堀、現地説明板

 市指定史跡

訪城日:2015.11.28

林道を標高402mまで、研修会車で

お城の概要

「別所山砦」は行市山山頂から南東へ派生した尾根の頂部、標高447m一帯に築かれている。

 主郭は方形に近い形状で南東隅を入隅にして横矢掛けとしている。 周囲には土塁が巡り、東側と西側に横堀が付いている。南辺中央に土塁の開口部があり、ここが虎口とされる。主郭から東尾根を降ると谷間に土塁が付いた地形が残り、さらに降っていくと大きな堀とそこから南東尾根に伸びる巨大な土塁が付いた堀底道がある。この尾根の下方には山寺山砦があり、そこに繋がっている軍道がある。

歴 史



一説に当所を佐久間盛政の与力、排郷五左衛門の山寺山の陣とする説もあるが、越前府中城主・前田利長の陣所は中谷山砦と著者は軍記類の記述から推測しているが、北国軍の行市連峰の諸将の陣所の記録は、諸書、錯綜しており行市山の他は砦の主を完全に確定が出来ないのが現状であり、従って当陣所城も伝前田利家の陣城と表現したい。

天正11年(1583年)賎ヶ岳合戦で柴田勝家方の砦として築かれた。 城将は前田利家・利長父子あるいは拝郷五左衛門家嘉と伝えられる。

賎ヶ岳合戦のとき、前田利家は能登国小丸山城主、前田利長は越前国府中城主であった。前田父子は賎ヶ岳合戦の最中に戦線を離脱して越前へ引き上げている。拝郷家嘉は加賀国大聖寺城主であった。

前田利家隊に関する良質の史料は無いが、その次に、別所山砦に配置された。『近江輿地志略』この別所山は、かつて万福寺があり、織田信長の浅井氏攻めの際に灰燼に帰したままであったが、整備して城砦を築いた。『戦国佐久間一族』

主郭下の陣小屋

主郭

参加者の集合写真+シャッターマン(小生)

別所山砦に戻り再見学

  

別所山陣城から行市山陣城(遠望)…比高差:200m

 

 林道から20m程下りると、山寺山砦の大土塁遺

 

 

賤ヶ岳合戦

 ようやく春がきた1583年2月末(新暦4月)勝家軍は越前をでる。

 府中(現武生市)城主の前田利家の長男利長を先陣に、勝家の甥佐久間盛政、前田利家らが次々と出陣、勝家も3月9日に北庄をでた。利長ら先発隊は、勝家が近江からのメーン道路として整備した、今庄から現在の北国街道(国道365号線)を通り近江に出る栃木峠から椿坂へ下る道を通ったと見られる。しかしこの年はまだ雪が多く、かき分けながらの道中に苦労したことから、後発隊は木の芽峠から敦賀を通って県境の柳ケ瀬に出る道を通りほぼ同時に着いたと言われる。

 先発隊はいったん木之本まで進出し、周辺や北国街道沿い、さらには関ヶ原まで進出してに火を放った。その後羽柴勢が前進基地の砦を置いた天神山を囲むため戻り、結局余呉湖の北側、北国街道の西側の山々に陣を敷いた。

 柴田の近江侵入を聞き秀吉は伊勢攻めの兵力の大半を近江に向かわせる。佐和山を経て、17日には勝家勢の退いた木之本まで進出。弟秀長が木之本に近い田上山に羽柴秀長、さらに柳ケ瀬に近い中ノ郷を見下ろす左祢山に掘秀政を置き、北国街道の東側を押さえた。木之本北側の賤ヶ岳、余呉湖に中川清秀、高山右近らの兵を置き、余呉湖の北の天神山に木村隼人正の陣を置いた。

 

 ~前田利家の背反~

 佐久間盛政の深追いによって佐久間(鬼の玄蕃)隊が賤ヶ岳に破れ、本陣(行市山)へ戻るところ、もしくは、権現坂砦で防御を試みるところを秀吉隊が追撃するに至り、茂山砦にあった利家は、その陣地を放棄して移動を開始した。

 それは、佐久間隊の背後を遮って、峰越えに移り、塩津谷に下り、敦賀方面へ脱出したのだという(『江州余吾庄合戦覚書』)。
また、塩津越えをして匹田に出て、木ノ目峠を経て府中城に逃れたともいう(『加賀藩歴譜』)。

 この退却の際に、小塚藤右衛門、木村三蔵ら5、6名が討死した(『村井重頼覚書』)。
横山長隆、富田景勝らの譜代衆、殿軍を受け持った長連竜も戦死したという(『三州志』『北藩秘鑑』)から、相当な激戦であったとも思われるし、利家自身にも危険が及んだものと推察される(岩沢愿彦氏)。

 この前田隊の退却は、佐久間隊からは後陣の崩れに見え、後陣からは佐久間隊の崩れに見えたことから、ひろく戦意を失って、戦場を脱する者が続出した(『江州余吾庄合戦覚書』『賤ヶ岳合戦記』)。

利家はわずかの兵で府中城に帰陣すると、直ちに城の守備を整えさせ、城下町から鉄砲を徴発した。そして二十一日夜から翌日にかけて追撃軍との銃撃戦と市街戦があって、再び戦死者が出たらしい(『小川忠左衛門覚書』『亜相公御夜話』)。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、城郭フォーラム資料、前田利家と賤ヶ岳の戦い

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山寺山砦  近江国(余呉)

2015年11月29日 | 陣城

林道

林道から、山寺山砦・橡(くぬぎ)山砦・中谷山砦・林谷砦・毛受(めんじょう)兄弟墓へ

20m程下りると、山寺山砦の大土塁遺構

 

別所山砦と山寺山砦

お城のデータ

所在地:長浜市(旧伊香郡)余呉町小谷    map:http://yahoo.jp/lDZwBm

現 状:森林

築城年:織豊期 

築城者:柴田軍方 

区 分:陣城 

標 高:367m 

遺  構:土塁、空堀、堀切

 城位置:別所山砦の下

 訪城日:2015.11.28

お城の概要

山寺山砦は別所山砦から南西方向に下った尾根上に位置する。山寺山という名称は万福寺が山寺と称していたから山寺山と、別所山の俗称寺山と言われるといい、別所山・寺山・山寺山という名称は若干混乱しているようだが。寺院と城郭は直接繋がらないが、寺院廃絶後、寺院遺構を砦として改筑したようだ。

 

歴 史

別所山砦は、柴田軍の最前線の陣城として前田利家・利長によって築かれた。秀吉軍に対峙する最前線の砦として防御を重視して築かれいる。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、近江の戦国 新視点・山寺から山城へ(第四回山城サミット)

        本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


行市山砦 近江国(余呉)

2015年11月29日 | 陣城

 

お城のデータ

所在地:長浜市余呉町小谷(旧伊香郡余呉町小谷) map:http://yahoo.jp/EHj390

区 分 :山城(砦)

築城者:東野行一

砦 期:織豊期(天正11年(1583)の賤ヶ岳の合戦時の佐久間盛政の陣)

陣 主:佐久間盛政

遺 構 :堀切,曲輪

標 高:645m 比高差:200m(別所山砦より)

城 域:南北約44.16m×東西約17.3m

目標値:行市山頂

訪城日:2015.11.28

お城の概要

行市山砦は天正11年(1583)の賤ヶ岳の合戦時に柴田勝家軍の佐久間盛政が陣を構えた所で、勝家の本陣である玄蕃尾城からは直線距離にして約5km。
行市山に砦を構えたのは京極・浅井時代に、東野行一(行市)とされており、京極・浅井氏がここに砦を構えた理由は、現地に立ってみると頷ける。

 行市山からは余呉町,木之本町を走る北国街道が手に取るように判るが、660mの高所で、東野行一が砦を構えた当時は監視目的ではないか!

 遺構は別所山砦からの尾根筋に堀切が2本と山頂の曲輪跡が残っている。土塁なども残っているようではあるが、クマ笹が生い茂り確認出来ない。

行市山砦は、行市山山頂(標高659.7m)から南へ派生した尾根の先端付近に築かれている。

この日は、雲の中(霧の中)、砦のクマ笹で全体確認できず、登山道からの堀・土塁の確認のみ!!

 単郭の小さな砦で、周囲を土塁が巡り南に虎口を開く。虎口は内側を遮断する土塁の外側に堀を設け、その外側にさらに土塁を回しているが、現状薮化しており全く地形が把握できない。北尾根は堀切によって遮断している。

 

堀から土塁へ

1970年の踏査・測量(長谷川銀蔵・博美氏)の写真(提供:長谷川博美氏)

 

行市山頂で「賤ヶ岳合戦 七本屋弁当 

行市山頂(三角点)横に【佐久間玄蕃盛政の砦】の標柱・・・砦は南西15m下

比高差:200mも雨・霧の中軍道を登ったが、「賤ヶ岳弁当」を雨の降る中食べただけ!

雨・霧で、景色は見えない!砦の全体の確認もクマ笹で掴めない!

 

小雨で霧(幸い風がないので)・・・行市山砦・別所山砦にを戻

道案内

  • 余呉町新堂にある毛受兄弟墓より整備された登山道がある。登山道入口から中谷山砦、橡谷山砦、別所山砦を散策しながら登って約2時間30分。
  • 林道池原小谷線で標高約402mまで車で上がれる。
  • ここから登山道で別所山砦(標高約448m)を経て約45分で行市山山頂に着く。
  • その間の木之本町,余呉町の眺望は素晴らしい。

林道を402mまで、研修会車で

歴 史

東野氏の祖とも伝えられる東野行一(行市)が砦を築いていたとも伝えられ、行市山の名はこの行市から云われるが詳らかではない。

天正11年(1583年)賎ヶ岳合戦で柴田勝家方の砦として築かれた。 城将は佐久間盛政であった。

天正11年(1583)、余呉湖周辺に布陣した柴田勝家軍と羽柴秀吉軍は2月初旬から4月までの2ヶ月間に及ぶ対陣が続いた。
 4月にはいり、木之本地蔵(浄信寺)に本陣を置いていた秀吉は岐阜城の織田信孝を攻撃。この隙を狙って行市山の佐久間盛政は4月20日に大岩山砦を急襲、大岩山砦に布陣していた秀吉配下の中川清秀は自刃。
 「柴田軍動く」との知らせを聞いた秀吉は、意表を突く早さで大垣から引き返し、大岩山砦の佐久間盛政に反撃を開始。

 この佐久間盛政の大岩山砦の攻撃に端を発して戦局は動き、前田利家の離反もあって柴田軍は敗走、北庄城に逃れた勝家も4月24日に北庄城の落城と共に自刃して、賤ヶ岳の戦いは秀吉軍の勝利に終わった。

 佐久間盛政は賎ヶ岳合戦のとき加賀国尾山城主であった。秀吉が賤ヶ岳の陣を抜けだして美濃の岐阜城主織田信孝を攻めにいったとき、盛政は秀吉方の大岩山砦と岩崎山砦を急襲して攻め落とし、中川清秀を討ち取った。さらに賎ヶ岳砦を攻め取ろうとしたが、丹羽長秀の援軍もあって攻め落とせず、急を聞きつけて秀吉の大軍が美濃から戻ると逆に攻め立てられた。そのうち勝家方であった前田利家・利長父子が戦線を離脱して越前へ引き上げると均衡が破れ、勝家方は総崩れとなり、佐久間盛政は加賀へ引き上げる途中に捕縛され斬首となった。


 賤ヶ岳の戦いで、なぜ佐久間盛政が秀吉軍・桑山重晴等が布陣する賤ヶ岳砦を迂回して、大岩山砦を攻撃したのか、その経緯が太閤記の1節「山路将監進中入欲遂宿意企之事」に書かれている。 ただ、太閤記というのは秀吉が天下を取ってから書かれたもので、あくまでも「勝利者・秀吉」からみた賤ヶ岳の戦いである。


---------------- 山路将監進中入欲遂宿意企之事
「同十九日之早朝に、将監佐久間玄蕃允に云やうは、羽柴筑前守一昨日濃州至って発向せしむる由候。
 其意趣は三七殿今度勝家を救はんと思召、秀吉に対し敵之色を立させられ、氏家稲葉が分領放火し給ふに依て信孝を退治せんとの儀なりとかや、然ば信孝御心ざしの程を救ひ給はでは、叶わざる叶はざる事にておはさんか。
 いかゞ思ひ給ふぞやと云ければ、尤助成申度事は飛立計なりと云ども、大山を隔て、大敵其間にあれば、了簡及不事共なり。
何とぞ救ひ奉らん行(てだて)もあらば承度こそ候へと云し時、山路さゝやきけるは、上方より北国勢をおさへ置し取出共の普請は、何も丈夫におはしまし候。余語之海の外なる、中川瀬兵衛尉が有し要害は、多くの取出之城共を隔て、敵あひの遠さを頼みとし、普請請以下かた計にこしらへ候しなり。
 是をうたんなどとは、上方勢思ひもよらざる所に候。然ば不意討に同じ。不意討に利のなき事は稀なる事に候。秀吉卿濃州出勢は折を得たる幸候。いざさせ給へと、ありあり重ねてすめければ、玄蕃いとど進みたき折ふしなれば、即同心し、さらば取出之城々おさへの勢を、勝家へ間奉り定めんとて、同日午刻匠作之陣所へ玄蕃久右衛門兄弟同参して、其旨相議あり。運のつきなん験しかや。

 勝家もいかゞあらんと思惟に及不、行の事共を聞届、宜しがらんと同じ給へり。西の方二ケ所の城のおさへには、前田又左衛門尉利家子息孫四郎利長、志津嶽の押へには原彦次郎、安井左近大夫、堀久太郎取手をば勝家おさへおくべき之条、心安く働き候へ。帰陣には海道を直に退候へ。必宿陣すべからず。今日中に引取候べしとて、廿日之早朝に蝦乞有しが、是ぞ最期の暇乞とは成にける。先陣は不破彦三、徳山五兵衛尉、佐久間久右衛門尉、大将は玄蕃允都合其勢一万余騎余語之入海をつたひ山路たどりたどり急しかば、・・・・・
----------------ココマデ

山路将監:天神山砦に布陣していた山路正国、佐久間玄蕃允:佐久間盛政

 

賤ヶ岳合戦

 ようやく春がきた1583年2月末(新暦4月)勝家軍は越前をでる。

 府中(現武生市)城主の前田利家の長男利長を先陣に、勝家の甥佐久間盛政、前田利家らが次々と出陣、勝家も3月9日に北庄をでた。利長ら先発隊は、勝家が近江からのメーン道路として整備した、今庄から現在の北国街道(国道365号線)を通り近江に出る栃木峠から椿坂へ下る道を通ったと見られる。しかしこの年はまだ雪が多く、かき分けながらの道中に苦労したことから、後発隊は木の芽峠から敦賀を通って県境の柳ケ瀬に出る道を通りほぼ同時に着いたと言われる。

 先発隊はいったん木之本まで進出し、周辺や北国街道沿い、さらには関ヶ原まで進出してに火を放った。その後羽柴勢が前進基地の砦を置いた天神山を囲むため戻り、結局余呉湖の北側、北国街道の西側の山々に陣を敷いた。

 柴田の近江侵入を聞き秀吉は伊勢攻めの兵力の大半を近江に向かわせる。佐和山を経て、17日には勝家勢の退いた木之本まで進出。弟秀長が木之本に近い田上山に羽柴秀長、さらに柳ケ瀬に近い中ノ郷を見下ろす左祢山に掘秀政を置き、北国街道の東側を押さえた。木之本北側の賤ヶ岳、余呉湖に中川清秀、高山右近らの兵を置き、余呉湖の北の天神山に木村隼人正の陣を置いた。

 

 ~前田利家の背反~

 佐久間盛政の深追いによって佐久間(鬼の玄蕃)隊が賤ヶ岳に破れ、本陣(行市山)へ戻るところ、もしくは、権現坂砦で防御を試みるところを秀吉隊が追撃するに至り、茂山砦にあった利家は、その陣地を放棄して移動を開始した。

 それは、佐久間隊の背後を遮って、峰越えに移り、塩津谷に下り、敦賀方面へ脱出したのだという(『江州余吾庄合戦覚書』)。
また、塩津越えをして匹田に出て、木ノ目峠を経て府中城に逃れたともいう(『加賀藩歴譜』)。

 この退却の際に、小塚藤右衛門、木村三蔵ら5、6名が討死した(『村井重頼覚書』)。
横山長隆、富田景勝らの譜代衆、殿軍を受け持った長連竜も戦死したという(『三州志』『北藩秘鑑』)から、相当な激戦であったとも思われるし、利家自身にも危険が及んだものと推察される(岩沢愿彦氏)。

 この前田隊の退却は、佐久間隊からは後陣の崩れに見え、後陣からは佐久間隊の崩れに見えたことから、ひろく戦意を失って、戦場を脱する者が続出した(『江州余吾庄合戦覚書』『賤ヶ岳合戦記』)。

利家はわずかの兵で府中城に帰陣すると、直ちに城の守備を整えさせ、城下町から鉄砲を徴発した。そして二十一日夜から翌日にかけて追撃軍との銃撃戦と市街戦があって、再び戦死者が出たらしい(『小川忠左衛門覚書』『亜相公御夜話』)。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、城郭フォーラム資料、前田利家と賤ヶ岳の戦い、近江の城郭

         本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


中谷山砦 近江国(余呉)

2015年11月28日 | 陣城

お城のデータ

所在地 : 伊香郡余呉町池原・小谷 map:http://yahoo.jp/oWhj9mこの地図のURL

区 分:山城(柴田軍陣城)

標 高:310m 比高差:150m 

築城年 : 天正11年(1583)

遺  構 : 土塁、横堀、櫓台、竪土塁

訪城日 : 2013.5.14、2015.11.28

お城の概要

中谷山砦は橡谷山砦の南東の尾根先と、南へ伸びた尾根に築かれている。 ここで紹介している中谷山砦は「滋賀県中世城館調査報告」による名称で、現地には標柱がない。

(中之谷山 原彦次郎長頼」の標柱は橡谷山砦に建っているので要注意)。

中谷山砦は東へ伸びた尾根先の曲輪と、その西側から南へ伸びた尾根に築かれた曲輪群がある。

 東へ伸びた尾根先の曲輪は登山道の途中にあり、堀底道へと出た所にある。

中谷山砦は、橡谷山砦と林谷山砦の中間の南に位置し、主尾根と主尾根から南に派生する尾根上の2箇所に遺構が残る。

主尾根上の砦は、南と東に土塁が廻り、南土塁裾に犬走りが、東土塁外に横堀が掘られ、東土塁の中央付近に食い違い虎口が設けられている。

 横堀から東中央の虎口を入り尾根筋を登る堀底道状の通路が尾根中央を東西に貫通しているが、発達した虎口や郭配置が見られる織豊系城郭としては、不自然な通路構造に思われる。また、下方側に明瞭な遺構が残るが、上方側には堀切や土塁などの防御施設が見当たらないのも不思議?

南尾根上の砦は、100m程の間に不明瞭な段築が連なり、先端部はクランク状になった比較的明瞭な土塁が残っている。東側に途切れ途切れの不明瞭な土塁があり、その東側を犬走り通路が走り、段郭からの虎口が設けられている。

滋賀県中世城郭分布調査では、

中谷山砦の位置を2箇所に明示する城郭分布図が掲載されている、縄張図とその城郭分布図を見比べ橡谷山砦と林谷山砦のほぼ中間やや南に位置しすると見当を付け、毛受兄弟の墓から尾根伝いに山道を登ったが、通り過ぎてしまい橡谷山砦まで行き着いてしまった。

2度目の訪城なので、見逃さないよう注意深く下山して、主尾根上の砦を見つけた。主尾根上の砦から少し上方にある小さなピークから南に派生する尾根にある砦跡は大変に見つけ難く、案内板があれば助かるのだが。砦は東へ伸びた尾根先の曲輪と、その西側から南へ伸びた尾根に築かれた曲輪群がある。

東へ伸びた尾根先の曲輪は登山道の途中にあり、堀底道へと出た所にある。 曲輪は東と南に土塁が付いていおり、東側には堀底道が南尾根から続いて曲輪の北側へと通っている。

南尾根の曲輪群は、先の曲輪から少し西へ進んだ所から南へ伸びた尾根にあり、少し段になっている部分があるものの大半は自然地形に近い地形である。南端部分に鈎状に屈折した土塁があり、虎口か。

歴史

天正11年(1583)の賎ケ岳合戦において、別所山は柴田勝家方の陣地として、七尾城主であった前田利家と府中の城主であった前田利長父子が僅か2ケ月余で砦を構築したところである。柴田勝家の玄蕃尾城の本陣より、行市山頂を経て別所山・中谷山・大池山・林谷山の各陣地は、尾根を人馬によって駆け抜けられる道によって結ばれた強力な陣地として構築された。

しかし、柴田方はこれら強固な陣に依って戦うことは一度もなく、余呉湖畔で敗北する結果となった。

林谷山砦から南西の方角へ

登ること約20~30分。

中谷山砦跡。

主郭は削平されず、陣膜が貼られていたのか。

きく堀切は、正面の高い土塁に圧倒される。

裏手に廻ると50~60cm程の高さで土塁が認められる。 

中谷山砦 近江国(余呉) 2013.5.14

 

遠望

賎ヶ岳合戦古戦場の中谷山砦見学・・・講師長谷川博美氏(城郭研究家)

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました!!感謝!!


佐久間玄蕃(行市山城) 前田利家(別所山城)見学会

2015年11月28日 | 陣城

 城郭フオーラム   壮大『賎ヶ岳城塞群』の見学会

 *観光・レジャーではありません!真面目な勉強・学習会です。

 賎ヶ岳城塞群 行市山城と別所山城 見学会

講師 城郭研究家 長谷川博美氏
日 時 2015年11月28日(土)10
時05
分〜16時
 

11/28土(現地見学会) 佐久間玄蕃の行市山城 前田利家の別所山城見学会

林道を402mまで、研修会車で!

別所山砦・行市山砦の秘蔵イラスト(講師:城郭研究家の長谷川博美氏)を披露

別所山砦へ

参加者の集合写真+シャッターマン(小生)

行市山城(佐久間砦)へ

軍道を比高差200m

行市山砦

行市山頂で「賤ヶ岳合戦 七本屋弁当」

小雨で霧(幸い風がないので)・・・行市山砦・別所山砦に軍道を戻る

別所山砦に戻り再見学

林道から、橡(くぬぎ)山砦・中谷山砦・林谷砦・毛受(めんじょう)兄弟墓へ

20m程下りると、山寺山砦の大土塁遺構

橡(くぬぎ)山砦…中乃谷山 原彦次郎

中谷山砦

金森

林谷山砦

に戻り

毛受兄弟墓の「登り口」へ

 【毛受兄弟の墓】

柴田勝家の身代わりとなり、最後まで支えた毛受勝助家照と兄の茂左衛門兄弟を地元住民は今なお手厚く供養し、忠義義勇の士として語り継いでいる。

 

城郭フォーラム:参加費:2700円 (弁当/研修バス/講師代)現地見学

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査7、城覚フォーラム資料

本日の歩数  16,404歩

 

         本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


神明山陣城(大杉山砦)   近江国(余呉)

2015年10月26日 | 陣城
賎ヶ岳城塞群 神明山城と堂木山城 見学会に参加した
講師  愛知城郭研究会 長谷川博美氏
日 時 2015年10月24日(土)10
:05
〜16:00
 
先ずは、森林センターの研修室にてレジュメで概要講義!

城郭研究家の長谷川博美氏から「堂木山陣城・神明山陣城の縄張り図」について説明があり、郭・虎口・堀切などの位置を詳しく解説。
両陣城とも賤ヶ岳合戦の羽柴秀吉軍の陣城で、羽柴秀吉軍の最前線で、柴田勝家軍とにらみ合った古戦場。

堂木山陣城・明山陣城見学会 2015.10.24

神明山陣城(遠景・・研修バスの中から)

当日見学会、一緒の近江ノ国米ちゃんのWEBブログの【見学ルートをGPSトラックで取った図】をお借りしました


画像

 

旧余呉町火葬場跡地に車を駐車。

火葬場前の農道を約100m西進し山裾脇に神明山砦・堂木山砦の登城口があり、小さな案内看板がある。
獣除柵沿いに登って行き、獣除柵の扉を開け入ること2回、神明山砦と堂木山砦の分かれ道にある堀切に着く。

獣除柵沿いに登って行き、神明山砦と堂木山砦の分かれ道にある堀切に着く。

 左側の神明山砦に向かう。

神明山陣城へ

急な坂を登ってすぐに獣除柵の扉を開け、鉄塔のある丘を越えて尾根伝いに西進、途中に陣地跡のような盛り上がった台地を越え、約15分で土塁前に着く。土塁を越えると主郭東側斜面の郭で北側のも土塁が施されている。斜面を登ったところが主郭で一段高く、土塁に囲まれた削平地で中央に縄張図付の説明板がある。北側と南側に犬走りがあり、西側下にも郭がある。西側郭土塁を越えてすぐに2条の堀切が見られる。

お城の概要

 神明山砦は余呉湖の北岸にあり、北東へ伸びた丘陵の頂部、標高294.5mの山頂に築かれている。同じ尾根の北東先端には堂木山砦、南西には茂山砦がある。

 神明山砦は山頂の主郭を中心に東西尾根に曲輪を配している。主郭は山頂にあり、中央が土壇となって一段小高く周囲を土塁が巡り南東側に虎口を開く。この土壇を取り巻くようにさらに土塁が周囲を巡り主郭を成す。西尾根は二条の堀切で遮断し、さらに西へ行くと西郭があり、堀と切岸による小郭となる。

主郭の東下には斜面の周囲に土塁を巡らせ、その内部に段々の削平地を設けた曲輪がある。東端の土塁下には浅いが堀切があり尾根を遮断している。

この東郭からさらに堂木山砦のほうに向かうと、切岸加工された土壇があり、

西端は尾根を遮断する空堀・窪地となる。

お城のデータ

 別 称:大杉山砦

所在地:長浜市余呉町八戸(旧伊香郡余呉町八戸) map:http://yahoo.jp/FPcKAEこの地図のURL

現 状:山林

築城期:織豊期  天正11年(1583)

築城者: 羽柴秀吉

区 分:陣城(砦)

遺 構:主郭・郭・土塁・堀切・犬走り

標 高: 295m 比高差:160m

駐車場:旧余呉町火葬場

訪城日:2015.10.24

歴 史

天正11年(1583年)賎ヶ岳合戦で羽柴秀吉方の砦として築かれた。城将は蜂須賀彦右衛門尉家政と木村小隼人重茲。

尾根道を進むと小高い【古墳】に

いよいよ、神明山砦

 

主郭

三角点

主郭の西の堀切

西側下にも郭がある。西側郭土塁を越えてすぐに2条の堀切。

主郭へ方向、東へ戻る

参加者記念撮影(近江ノ国 米ちゃん撮影)

参考資料:城郭フォーラムレジュメ・現地縄張り図(長谷川博美氏 作図)、近江ノ国 米ちゃんのルート図

     本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


堂木山陣城 近江国(余呉)

2015年10月26日 | 陣城
菖蒲谷砦賎ヶ岳城塞群 神明山城と堂木山城 見学会に参加した
講師  愛知城郭研究会 長谷川博美氏
日 時 2015年10月24日(土)10
:05
〜16:00
 
先ずは、森林センターの研修室にてレジュメで概要講義!

城郭研究家の長谷川博美氏から「堂木山陣城・神明山陣城の縄張り図」について説明があり、郭・虎口・堀切などの位置を詳しく解説。
両陣城とも賤ヶ岳合戦の羽柴秀吉軍の陣城で、羽柴秀吉軍の最前線で、柴田勝家軍とにらみ合った古戦場。

お城のデータ

別 名: 堂木山砦 

所在地: 滋賀県長浜市余呉町東野 map:http://yahoo.jp/N0YpPdこの地図のURL

現 状:山林

築城期:鎌倉期 改築:織豊期 天正11年(1583)

築城者:東野越前守道義

改 築: 羽柴秀吉

初城主:東野道義  合戦時城将:山路正国,木下半右衛門

区 分:山城・陣城(砦)

遺 構: 主郭・出郭・虎口・土塁・横堀・堀切 

標 高:283m 比高差:130m

駐車場:旧余呉町火葬場に駐車

訪城日: 2015.10.24

堂木山陣城・明神山陣城見学会 2015.10.24

 当日見学会、一緒の近江ノ国米ちゃんのWEBブログの【見学ルートをGPSトラックで取った図】をお借りしました

 画像

 堂木山陣城(遠景)

東野山陣城・今市上砦(久太郎小屋)菖蒲谷砦東野山砦(遠景)

旧余呉町火葬場跡地に車を駐車。

火葬場前の農道を約100m西進し山裾脇に神明山砦・堂木山砦の登城口があり、小さな案内看板がある。
獣除柵沿いに登って行き、獣除柵の扉を開け入ること2回、神明山砦と堂木山砦の分かれ道にある堀切に着く。獣除柵沿いに登って行き、
堂木山城概要図

お城の概要

神明山砦と堂木山砦の分かれ堀切を、右側に登ったってすぐに小さな出郭があり、尾根伝いに進むと土塁に上がる。

堂木山砦は余呉湖の北岸にあり、北東へ伸びた丘陵の先端頂部、標高238mの山頂に築かれている。同じ尾根の南東部には新明山砦、茂山砦がある。

堂木山砦は北東から南西に伸びた山頂に南北に二郭を設けている。主郭は北側で、土塁が巡る南北二つの曲輪があり南北両端に空堀を配して遮断する。内部は食い違い虎口によって繋がって南北二つの曲輪となり、南側の曲輪は中央部東側、北側の曲輪は北東部と南西部にそれぞれ虎口を開いている。この主郭部は西側に犬走があり、南の二郭から主郭部の外の犬走を通って北曲輪の虎口より入るようになり、この虎口は南北両側から横矢が掛かるようになっている。

南の二郭は削平状態は良くないが、周囲には土塁が巡らされ、東西二段となり、西下の段は南西尾根に堀切と土塁を設けている。

 

神明山砦と堂木山砦の分かれ道にある堀切に着く。

歴 史 

浅井氏の家臣で在地の土豪であった東野越前守道義の居城であった。この「堂木」の名称も「道義」からきたものだとか。

天正11年(1583年)賎ヶ岳合戦で羽柴秀吉方の砦として築かれた。調略によって秀吉方に寝返った長浜城主:柴田勝豊(病床の為)の代理の重臣で長浜衆と呼ばれた山路正国、大金藤八郎らが堂木山砦に布陣していた、山路正国は砦を脱走して柴田方へ走った為、その後には木下半右衛門が入った。

先ず、堂木山砦に向かう。

急坂を登り、尾根道を進むと【出郭の土塁】に着く

小堀切に土橋

西郭の土塁

主郭

主郭喰違い虎口(写真では、分かりにくい)

昼食【賤ヶ岳弁当】

昼食後、明神山陣城へ

明神山陣城へ

参考資料:城郭フォーラムレジュメ・現地縄張り図(長谷川博美氏 作図)、近江ノ国 米ちゃんのルート図

      本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


茂山陣所・権現坂   近江国(余呉)

2015年04月26日 | 陣城

事前予習【賤ヶ岳合戦 柴田軍 前田利家・利長隊の軍行】

余呉町観光協会絵図

 柴田勝家と羽柴秀吉が対決した賤ヶ岳の戦いが行われたのは、天正十一年(1583)4月19~20日(新暦6月9~10日)のことであった。

 前年の冬、領有する北陸からの行動が雪で制限された勝家は、一時の休戦を欲した。
そこで、天正十年十一月、勝家は、前田利家、不破勝光、金森長近を宝寺(山崎城)に派遣して秀吉と会わせ、和平の承諾を得た。

 利家は交渉が成功したものと思い込み、京都の織田信長の墓(大徳寺)に詣で、和平が成ったと信じて帰国し、勝家も油断したという(『太閤記』)。
また、この時に、すでに内応の約束がなされていたといわれている(高柳光寿氏)。

 しかし、秀吉の言は表面上のもので、着々と勝家討伐の軍を編成していた。これを察知した勝家は決戦に臨む。

 利家は京都からいったん能登に引き上げ、三月四日頃勝家本隊に所属して北ノ庄を出陣し、その時に勝家に人質を差し出した。(『前田家譜』『古今消息集』『土佐国蠧簡集』)。 

三月十二日、柴田軍は、北国街道の要衝である柳ヶ瀬を中心に布陣し、しばらく前田利家は勝家本陣の玄蕃尾城(長浜城主 柴田勝豊(勝家の甥)が事前築城していた)にいた(『富田文書』)。

 前田利家隊その後に、別所山砦に配置された(『近江輿地志略』)。

別所山は遠く鎌倉の頃より天台宗の別所山・万福寺のあったところであるが、織田信長の浅井氏攻めの際に灰燼に帰したままであったが、整備して城砦を築いたという(楠戸義昭氏『戦国佐久間一族』)。

 天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いにおいて、別所山砦には勝家方の七尾城城主・前田利家と府中城城主・前田利長父子が砦を構築し、天正11年(1583)2月初旬から4月20日の戦いに至るまでの約2ヶ月間布陣したしたところである。

 柴田勝家の玄蕃尾城の本陣より行市山頂を経て別所山・中之谷山・林谷山の各陣地は、尾根を人馬によって駆け抜けられる道によって結ばれた強力な陣地として構築された。
 しかし、4月20日未明に佐久間盛政の大岩山砦の急襲から始まった戦いは、前田利家父子の離反により柴田勝家軍は敗走することとなった。

佐久間盛政進路・前田利家進路

前田利家進撃路利家退却路

 佐久間盛政の深追いによって佐久間隊が賤ヶ岳に破れ、権現坂砦で防御を試みるところを秀吉隊が追撃するに至り、茂山砦にあった利家は、その陣地を放棄して移動を開始した。

佐久間隊の背後を遮って、峰越えに移り、塩津谷に下り、敦賀方面へ脱出したのだという(『江州余吾庄合戦覚書』)。
塩津越えをして匹田に出て、木ノ目峠を経て府中城に逃れたともいう(『加賀藩歴譜』)。

この退却の際に、小塚藤右衛門、木村三蔵ら5、6名が討死した(『村井重頼覚書』)。
横山長隆、富田景勝らの譜代衆、殿軍を受け持った長連竜も戦死したという(『三州志』『北藩秘鑑』)から、相当な激戦であったとも思われるし、利家自身にも危険が及んだものと推察される(岩沢愿彦氏)。

この前田隊の退却は、後陣からは佐久間隊の崩れに見えたことから、ひろく戦意を失って、戦場を脱する者が続出した(『江州余吾庄合戦覚書』『賤ヶ岳合戦記』)。

利家はわずかの兵で府中城(武生)に帰陣すると、直ちに城の守備を整えさせ、城下町から鉄砲を徴発した。そして二十一日夜から翌日にかけて追撃軍との銃撃戦と市街戦があって、再び戦死者が出たらしい(『小川忠左衛門覚書』『亜相公御夜話』)。

 

城郭フォーラム『前田利家の茂山陣・交通の要衝権現坂』

『茂山陣所と権現坂を探る。』

秋葉砦(遠望)・・・研修バスをここで降り

長谷川講師の挨拶・ウォキングアップ・自己紹介・・・・・。

茂山砦は柴田軍の最前線・・・明神山砦・堂木山砦の尾根続き

茂山砦(しげやまとりで)

茂山に陣する前田勢・・・・賤ヶ岳合戦絵図より

 鍾馗に金軍配団扇の馬印、その周辺には梅鉢文の旗がなびき、茂山に陣した前田利家の陣であることがわかるが、利家は描かれていない。利家が二千余の軍勢を二段に備えたという記述は、甫庵『太閤記』による。

 体勢を整えた佐久間盛政が秀吉方と激戦をくりひろげている最中、前田勢は突然退却をはじめ、柴田方総崩れの直接的原因を作った。『川角太閤記』では、秀吉と利家の間で、利家が直接戦闘に加わらないという密約があったという

 利家と勝家の関係は、天正三年(一五七五)勝家が信長から越前の支配を委ねられた際、不破光治・佐々成政とともに柴田目付とされたことにはじまり、直接的な主従関係はない。

敗北して北ノ庄城へ逃れる途中、勝家は越前・府中城の利家のもとに立ち寄り、労をねぎらっている。

鶴翼の陣立て

近江ノ国米ちゃんblogより【今日の見学ルート図】

林道(登山口)から茂山砦の西群に

武者控え(野営宿所小屋)

茂山砦 東群

 

http://yahoo.jp/7HQek9

 茂山砦は、急拵えの砦(塹壕/伏兵や銃座/見隠土塁)であろう。

頂部に土塁と思しき遺構が見られる程度で、それ以外は塹壕遺構が多く残る。
別所山の前田利家・利長は、佐久間盛政による4月20日未明の大岩山への中入り攻撃を助けるため、神明、堂木の上方に位置する茂山に移動した。
前田父子が茂山に陣を構えたのは、ほんの数時間だけであり、陣城遺構は銃座/身隠土塁・塹壕のみ、当然のことか?

銃座・塹壕銃座・塹壕塹壕や窪みが南斜面の余呉湖に向かって銃座/見隠土塁。頂部標高350m~300m(余呉湖・標高140m)より比高160mまで下る

ここで、昼食・・

特製弁当「賤ヶ岳の合戦 七本槍」

昼食後、再び頂部布陣の方へ登って、午後から利家の退却路へ。布陣跡から午前中に来た道を戻り比高100m程で林道へ降りる。

塹壕・銃座を再度確認しながら頂部~西群~林道へ

林道に戻り、地蔵堂(たるみ坂)の両側に堀があり、一方は余呉町川並へ下りていくルート。

研学バスで来ない場合は、ここまで(標高300m程)歩いて登って来なくてはならない。今回は塩津から林道を見学バスでした。

東側の堀切1は浅い地蔵堂は、櫓台跡に祀られ(林道整備や改修で半分以下に)堀切2「小字おかお」岡尾と文室でよばれる

「たるみ坂」・足海/川並側遺構には、峠は関門機能を持つ切所(せっしょ)で要害地形。江戸期に何度か改修されいる

=『茂山砦西遺構』

茂山砦西遺構は、なだらかな山道で、たるみと呼ばれ、佐久間隊・前田隊・羽柴隊の通過軍道。

塹壕~土橋の両側は止め土塁

権現峠へ

権現峠

秋葉権現

権現峠~利家が塩津方面へ撤退した退路

参加者20名で記念撮影(見学会人数)

ここで、講師:長谷川博美氏より、再踏査図の説明会

 『余呉町秋葉城』城郭遺構の再踏査図

余呉・文室へ

深山イカリソウ

林道脇の旧秋葉神社跡

文室集落に下山!

見学バスで、森林センターへ

鳥居扁額

集落内の北野神社 

境内社の足前神社に関して。

かつて、余呉湖の西に足坂という坂があり、権現神が祀られていたという。
足坂は、足前の変化であると考え、式内社・足前神社の古跡であるという。
そこに祀られていた蔵王権現の石像を北野神社境内へ移して祀ったものが、この足前神社。

見学バスで、森林センターへ

参考資料:城郭フォーラムレジュメ・余呉観光協会・賤ヶ岳合戦記・ウィキペディア

  本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!

本日歩数    12,027歩

歩行距離     9.0km

実歩行時間    2:17

消費カロリー 249.1kcal

脂肪燃焼量  35.5g


菖蒲谷砦  近江国(余呉)

2014年12月02日 | 陣城

堀切・土橋

お城のデータ

所在地:伊香郡余呉町東野  map:http://yahoo.jp/lY63_M

築城期:天正11年(1583)

築城者:堀久太郎秀政

陣 将:堀久太郎秀政

区 分 :陣城

遺 構:土塁・曲郭・虎口・竪堀・土橋・説明板

城  域:30m×20m

標 高:270m    比高差70m

訪城日:2014.11.29

お城の概要

 菖蒲谷砦は東野山砦と堂木山砦を結ぶ線上にあって、東野山の麓の標高270mほどの山を中心にして2つの尾根筋先端に曲輪を配してる。

 林道から比高差30mほどを登ると山の斜面を切出した20m×30mほどの曲輪に出る。この曲輪が南尾根先端の曲輪である。更に20mほどの比高差を登ると低土塁で囲まれた曲輪に出る。
 主郭部は更に30mほど登った位置にあり、切出しの曲輪と土塁で囲まれた2つの曲輪からなり、背後には斜度のきつい斜面にもかかわらず堅堀を入れている

歴 史

 天正11年(1583)賤ヶ岳の戦いで秀吉軍が布陣した砦で、秀吉軍の砦の中でも低い山に築かれている上、北国街道にも近く対柴田軍との最前線にある。

 

菖蒲谷砦

 

堀切・土橋

参考資料:城郭フォーラム資料、滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

      本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!

 


東野山砦=陣城(実山砦=左禰山砦) 近江国(余呉)

2014年11月30日 | 陣城

東野山陣城 現地見学会(ウッデイパル城郭フオーラム)

日 時   2014年11月29日(土)見学時間帯10:00〜16:00
内 容   菖蒲谷陣城 東野山陣城見学                                                              

講 師   長谷川博美氏 (愛知中世城郭研究会)

 

森林文化センターで、解説・講義

 

特製弁当で昼食

 城郭フオーラムリポート                                                                                                                                               

名人掘久太郎秀政の東野山は天正11年賎ケ岳合戦で羽柴秀吉の先方を守る優秀なエリート青年武将でした。あの猛将柴田勝家の南下を防いだ。城郭史において特筆されるべき、平面構造を備えた高度な縄張です。午前中は森林文化センターで講演の後に特性弁当を食べ、フォーラムらしい学習会を展開。

午後にはは雨が止んで、見事な東野山城、菖蒲谷城を見学する事が出来ました。

特に女性の方が熱心に勉強されて素晴らしい躍進です。草刈り作業の方々のお陰で見事な構造の城址を見学出来ました。     講師 長谷川博美

 

東野地区にある体育館裏手より山に向かって伸びる林道を進んだ先に東野山砦へ

バスで、現地(頂上近くまで)

お城のデータ

所在地:伊香郡余呉町東野  map:http://yahoo.jp/2sIxM6

別 名:実山砦,左禰山砦

築城者:東野備前守一族 

改築者:堀久太郎秀政

初城主:東野備前守一族

陣 将:堀久太郎秀政

区 分 :山城

遺 構 :土塁,横堀,虎口,竪堀

城  域:250m×150m

標 高:407m    比高差260m

市指定史跡

訪城日:2014.11.29

お城の概要

東野山砦は天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いに際して、羽柴秀吉軍の堀秀政が布陣した砦である。

 この東野山砦は羽柴秀吉軍の最前線に位置し、谷を挟んで北には今市上砦、北国街道を挟んで西側には佐久間盛政の行市山砦と対峙する。

 天正11年(1583)4月20日、行市山砦の佐久間盛政は中川清秀の大岩山砦を急襲し、“中入り”を成功させた。翌21日早朝、大垣からとって返した羽柴秀吉が大岩山砦を攻撃した時、玄蕃尾城から出陣して北国街道を南下してきた柴田勝家を北国街道の狐塚に釘付けにしたのが、この東野山砦に布陣した堀秀政軍である。

 東野山砦へは余呉小学校の南側から林道・東野中之郷線を車で約10分ほど登ると砦横に着く。訪れた時は砦一帯の下草が刈られており、下草の多い時期にも関わらず、状態良く残された遺構を見ることができた。地元の方々に感謝!

 東野山砦の縄張りは複雑で、賤ヶ岳の戦いで築城された陣城の中にあっては玄蕃尾城とこの東野山砦は双璧である。虎口は東西南北の四方に設けられており、いずれの虎口も折れを入れか、横矢掛けが考慮されており、土塁を石垣に替えれば、まさに近世城郭の縄張りである。

 中央部に主曲輪を置き、主曲輪の東西と南側に曲輪を配置し、北側は斜面を利用する形で築城されている。主曲輪を除いた3つの曲輪に虎口が設けられているが、主曲輪の東(背後)の曲輪には南北2つの虎口がある。つまり南側の秀吉陣側と北側の勝家陣側に虎口を設けており、この曲輪が守備と迎撃の中心的な役割を担っていたことが想定される。
 また、主曲輪の北側には物見台と考えられる高台があり、ここからは佐久間盛政や前田利家が陣取った行市山、別所山を真正面に望むことができる。

 滋賀県中世城郭分布調査資料によると、更に北側には尾根を断ち切る形で堀切・土橋が設けられていたようだが、現在では林道建設に伴い破壊されてしまっている。

 南側には竪堀が麓まで続いているのだが・・・・。

 余呉町には賤ヶ岳の戦いに伴い、20を越える陣城が作られているが、ここ東野山砦や玄蕃尾城は、天正年間における築城技術(縄張り)の粋が凝らされており、織豊系城郭の築城技術の発達を観る上で非常に貴重な遺構である。

  

黒田官兵衛に指示!賤ヶ岳の合戦で、秀吉の文書「長浜城歴史博物館蔵」

賤ケ岳合戦「砦小屋壊し援軍待て」 参戦の事実裏付け

 長浜城にいた秀吉が総攻撃の20日ほど前に前線の弟、秀長へ出した。署名にあたる自身の花押(かおう)もある。

 自陣の砦(とりで)周囲にある小屋の撤去を秀長や官兵衛が手伝うよう指示した上で、壊してできた空き地へ翌日に軍勢を送ると伝え、「味方が着くまで撤退してはならない」と命じている。同博物館が京都市内の古美術商から購入した。

 賤ケ岳合戦は長浜市北部の余呉湖周辺で展開され、秀吉が同じ織田信長家臣の柴田勝家を破って天下人へ踏み出した戦い。秀吉の7人の部下「七本槍(やり)」の活躍で知られる。

 

お城の歴史

黒田官兵衛も謫陣していた。

東野山砦は別名実山砦(さねやまとりで)とも称し、京極氏や浅井氏が湖北に君臨していた頃より、その支配下にあった豪族東野備前守一族の居城のあったところである。

 天正 11年(1583)の賤ヶ岳の合戦には、羽柴秀吉方の勇将で佐和山城主であった堀秀政がここに砦を築き、行市山に陣する柴田勝家方の佐久間盛政と対陣した。

堀秀政は、ここを拠点として北国街道を南下しようとする柴田勝家軍を牽制することで秀吉軍の勝利に貢献した。

  現在残っている遺構は、豪族東野氏の構築したものではなく、賤ヶ岳合戦に堀秀政が改築したものと考えられる。

 

菖蒲谷砦

堀切・土橋

下山・・・林道へ

北陸自動車道の陸橋上に、迎えのバスが  

 参考資料:城郭フォーラムレジュメ、現地説明板

本日も訪問、ありがとうございました。


飯道寺城 近江国(甲賀・信楽)

2014年10月12日 | 陣城

 山頂虎口

お城のデータ

所在地:山頂虎口甲賀市信楽町宮町(旧甲賀郡信楽町宮町) map:http://yahoo.jp/4WtQBr

区 分:砦

現 状:飯道山寺跡

築城期:南北朝期

築城者:佐々木義秀・應碁上人

城 主:佐々木義秀・應碁上人

遺 構:曲輪・土塁・堀切・石垣

標 高:598m  比高差:300m

  664m(飯道山頂)南側直下 -66m     

城 域:400m×300m

目標地:飯道山頂

訪城日:2014.10.11

お城の概要

「飯道山」は湖南市・甲賀市水口町・信楽町の境にあり、標高は664メートル。金勝山・太神山ともに修験道を修める信仰の山で、山岳信仰の拠点です。甲賀忍者の修練場であったといわれています。山頂には、奈良時代建立の飯道寺跡があり、付近にはのぞき岩、不動明分け岩、蟻の塔渡し胎内くぐりなどとよばれる奇石・怪石が散在します。山頂に立つと、信楽の山々を隔てて金勝・田上、遠くは京都の鷲峰山や湖水のかなたの比叡・比良の山々を望むことができます。この景勝の地。

飯道山寺 絵図

歴 史

『甲賀郡志』のよると、南北朝の争乱の際、延元2年に柏木源蔵人が南朝方として「飯道寺城」に籠ったとある。(山中文書)

『甲賀の城』に、・・・当国於飯道寺城柏木源蔵人相共致軍忠候了、同日信楽調子(現:勅旨)郷内於岩倉城数尅合戦仕候処・・・(山中道敏文書)

南北朝の動乱

 元弘の変に際して、上洛してきた幕府軍は鈴鹿を避けて美濃を通って京に入っている。このことから、山中氏が反幕府的であったことをうかがわれ、建武の新政がなると後醍醐天皇から鈴鹿警固役を沙汰する旨の綸旨を賜っている。しかし、足利尊氏の謀反によって新政が崩壊すると、山中氏は美濃部氏、小佐治氏らとともに守護佐々木氏に属して尊氏に味方した。
 建武四年(1337)、甲賀の南朝方頓宮氏が五辻宮を奉じて信楽で挙兵、飯道寺城と勅使の岩倉城に立て籠った。

これに対して中山四郎右衛門尉、小佐治基氏らが、信楽に攻め込み、夜を徹して激戦がおこなわれた。翌年、五辻宮を奉じた南朝軍が蜂起、北朝方の山中道俊・頼俊および小佐治基氏は激戦のすえに南朝方を伊勢に奔らせている。
 その後、山中氏は観応の擾乱に際して南朝方に転じたこともあったが、南北朝の動乱期を北朝方として行動した。やがて動乱は北朝方の優勢となり、明徳三年(1392)、足利義満によって南北朝の合一がなった。かくして、足利将軍を頂点とする中央集権体制=足利(室町)幕府が確立されたのである。そして、近江国の北守護は佐々木京極氏、南守護は佐々木六角氏が任じられた。
 足利義満は室町幕府全盛時代を現出したが、義満の死後、幕府政治は次第に衰退兆候をみせるようになった。嘉吉元年(1441)、足利義教が赤松満祐に殺害されると、幕府の権威を大きく揺らいだ。以後、幕府政治は混乱の度を深め、将軍家、有力守護家の家督争いが引き金となって、応仁元年(1467)、応仁の乱が勃発した。乱に際して、江北の京極氏は東軍に、江南の六角氏は西軍に属して対立した。文明年間になると六角と京極の抗争が激化し、文明二年(1470)、蒲生郡黒橋で激戦が行われ甲賀武士は六角方として奮戦した。

『信長公記』 天正九年 11、伊賀下向  伊賀国信長御発向の事

 10月9日、信長公は中将信忠殿と織田信澄を同道させ、伊賀国の検分に向かった。そしてその日は飯道寺(現:甲賀市信楽町/水口町)の山に上り、そこから国内の様子を一望したのち同地に宿泊した。

 織田信長が国見をしたと伝えられています。

 

 飯道山山頂到着:標高664m

絶景 湖南・・・三上山・比叡山まで、湖東・・・水口・鈴鹿まで

三角点でmy poleの登頂記念写真

下ります、飯道山寺遺跡へ

飯道山城・・・・(飯道山遺跡)

木道階段をおります

参考資料:甲賀郡志、甲賀市観光ガイド、新視点・山寺」から山城へー近江の戦国時代ー

   本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!