城郭探訪

yamaziro

枝折本城  近江国(米原・枝折)

2017年12月19日 | 山城

仮称)枝折本城・・新発見の城

写真の説明はありません。

お城のデータ

所座地:米原市枝折地区 小字長尾 孫字 本城 map:https://yahoo.jp/8_E1qe

区 分:山城

現 状:森林

築城期:織豊期末期

築城者:土肥吉左衛門か?

城 主:土肥六郎衛の三男 吉左衛門

遺 構:曲輪・登り土塁・箱掘・堀切・竪堀

標 高:212m  比高差20m(林道より)

目標地:枝折地区の流星火薬庫

駐車場:林道脇の流星火薬庫の空地

訪城日:2107.12.10

写真集:https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/960356477460261

    https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/960358140793428

お城の概要

米原市枝折集落の「天神社の湧水」を抜け、南西に進む林道がある。林道脇の流星火薬庫の空地に駐車して林道進むと明るくなった所が、両側の城跡である。

 林道で分断された、谷側は比高差5m位の曲輪5であるが日当たり良くて雑草で遺構は解かりずらい。反対側から曲輪4に入ると人口林で、遺構は確認出来きた。箱掘・曲輪・登り土塁・畝状竪堀・等素晴らしい城郭遺構が残る。

『滋賀県中世城郭分布調査6 旧坂田郡の城』のにも、掲載されていない新発見の城郭遺構です

『近江坂田郡志』『滋賀県中世城郭分布調査』に「米原町枝折地区 小字長尾 孫字 本城」を記す。枝折地区の小字城戸口から孫字本城へ。2010年6月16日、長谷川博美氏・田畑喜久雄氏で【新発見した】。その後長谷川博美氏・田畑喜久雄氏が現地を踏査・作図:長谷川博美氏がした。

・旧米原町枝折地区 城郭関係地名『滋賀県中世城郭分布調査6 旧坂田郡の城 P115・P300』

51ー屋敷 52ー元城 53ー城戸口 54ー殿ノ上 55ー本城

旧米原町下丹生地区 城郭関係地名 57-元城画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、木、屋外、自然

写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人、立ってる、植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然

石田三成の恭兵屯勢伝説のある、米原市下丹生坂口の「石田の森」の上にある森林に2009年『戦乱の空間8号』で、慶長期と推測される「狼煙穴数か所」確認されている。

お城の歴史

城主や築城者・築城期を確定する文献資料は残念ながら存在しがない。『村の由来と村の発展』米原町史編纂委員会の資料に「戦いに敗れた名のある武将が枝折に陰棲しようした、平内の四方助けなるものが、更に東の山深い谷間その落人を案内したとある」。当地は小字平内のはるか山影にある城である。『改訂近江坂田郡志』は、「関ケ原に石田方として参陣した枝折城主・土肥六郎衛の長男 市太郎・次男 市次郎は戦死し、土肥六郎衛の三男 吉左衛門は陰棲し慶長18(1613)年に当地で他界した」とあり、当城は土肥六郎衛の三男 吉左衛門は陰棲した隠れ城の可能性推測される。

土肥六郎左衛門実勝とされ、源頼朝の家臣土肥次郎実遠の末葉で、足利尊氏の世に近江・美濃の野武士を平定して功があり。

 箕浦庄の地頭として下向した御家人とされ、番場・多和田・醒井に分住し、箕浦庄の三土肥と称した。

 『土肥八人衆・土肥八軒衆』は、醒井(醒飼)氏・野瀬氏・江籐氏・野勢氏・池田氏・ニ国氏・籾居氏・堀氏の八軒を云う。 

駐車場・・・ここから林道登ります。

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、屋外、自然登り土塁画像に含まれている可能性があるもの:立ってる(複数の人)、木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、空、屋外、自然枝折城(山城)方面

写真の説明はありません。枝折本城・・著作権🄫踏査・作図:長谷川博美氏

参考資料:城歩会 枝折城見学会資料(2006年 長谷川博美氏・田畑喜久雄の新発見の枝折本城)。『村の由来と村の発展』米原町史編纂委員会

本日の訪問ありがとうございす!!


仮称)小町谷城 近江国(米原・枝折/上丹生)

2017年12月12日 | 山城

新発見の城 仮称)小町谷城

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上

仮称)小町谷城】の城位置

『滋賀県中世城郭分布調査6 旧坂田郡の城 P115・P300』画像に含まれている可能性があるもの:スケッチ

 旧米原町下丹生地区 城郭関係地名 57-元城 滋賀県中世城郭分布調査

画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然

お城のデータ

所在地:米原市下丹生町小字元城 map:https://yahoo.jp/y5csFc

現 状:山頂(森林)

区 分:山城

築城期:南北朝期

築城者:土肥氏?江籐氏?

遺 構:段築廓(帯廓)・堀切・竪堀・犬張り

標 高:318m  比高差:150m

目標地:下丹生古墳

駐車場:県道・林道添いの空地

訪城日:2017.12.2・2017.12.10

写真集:https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/962524510576791

    https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/962525340576708

お城の概要

小町谷城は、滋賀県中世城郭分布調査にも掲載されていない新発見の城。仮称)小町谷城とする。

枝折城の範疇とされていますが、枝折城とは全く異なる遺構や距離が隔絶している。泉良之氏と長谷川博美氏が平成22年に新城郭を踏査調査・確認し、実質的な平面構造解明は田畑喜久雄氏も加わり・踏査図を作成された。また、元滋賀県中世城郭分布調査事務局(元名古屋女子大教授)の丸山竜平博士も視察された。

 枝折城から直線で350mあり、別の城郭遺構であろう。1は標高:318mもあり一段高い建物基壇と思しき城内の中核を認める。檀築には横矢等の微細な縄張技巧を認め、1から南へ同心円状、あるいは階段状に帯廓を2段~5段明確に築く。頂部1曲郭と南2曲郭の段築遺構を持つ。

また、北面は頂部1曲輪~8曲輪まで階段状んぼ帯廓や9の腰廓が残存する。9郭は出撃施設「馬出し機能」の可能性を持つ。9郭の西面は緩やか、しかし岩盤や自然石を立石のように配した細尾根が存在するが、詳細に観察すると要所要所に段築を加え要害地形と造作されている。

南4の帯廓には堀切・竪堀へとなって遮断、空堀の残存している。

お城の歴史

詳細不明ながら、土肥六郎左衛門実勝とされ、源頼朝の家臣土肥次郎実遠の末葉で、足利尊氏の世に近江・美濃の野武士を平定して功があり。

 箕浦庄の地頭として下向した御家人とされ、番場・多和田・醒井に分住し、箕浦庄の三土肥と称した。

土肥八人衆・土肥八軒衆』は、醒井(醒飼)氏・野瀬氏・江籐氏・野勢氏・池田氏・ニ国氏・籾居氏・堀氏の八軒を云う。

・江戸期彦根藩の御鷹餌割奉行 塩野義棟の編纂した地志『淡海国小間攫』寛政4年(1792)甥田中信精が序を有している。同署には「枝折村往古土肥譜代の臣、池田氏、江籐氏、野瀬氏の姓名コレアリト聞」とある。

・『江州佐々木南北諸氏帳』には番場、醒井、多和田にそれぞれ土肥氏が割拠したとある。

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上【仮称)小町谷城】の城域

写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然下丹生地区から谷筋を北の尾根まで急斜を登ると、既に小町谷城の西端の岩場が続く。

小町谷城の西尾根遺構

画像に含まれている可能性があるもの:木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然

画像に含まれている可能性があるもの:木、屋外、自然南3廓の巨岩

画像に含まれている可能性があるもの:空、屋外、自然米原市下丹生に県道17号沿いから、枝折城、小町谷城尾根遺構を遠望

参考資料:城歩会見学会資料、『淡海国小間攫』『江州佐々木南北諸氏帳』

本日の訪問ありがとうございす!!


枝折城 近江国(米原・枝折)

2017年12月03日 | 山城

下丹生から見学会開始 谷筋を尾根まで直登です。

やっと尾根まで!

此処から【枝折城】の城域

写真の説明はありません。

滋賀県中世城郭分布調査【枝折城】

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然

お城のデータ

所在地:米原市(旧坂田郡米原町)枝折町 map:http://yahoo.jp/dpAd_x

別 名:土肥城

現 状:山林

区 分:山城

築城期:室町期

築城者:土肥氏

城 主:土肥六郎左衛門実勝土肥次郎

遺 構:土塁・櫓台・長土橋・堀切・竪土塁・竪堀、

標 高:263.8m   比高差:130m

城 域:150m×50m

訪城日:2017.12.2・2017.12.10

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/962522943910281

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/951981181631124

お城の概要

 南東尾根から見学会の資料を手に尾根上部から、尾根を削り取り、幅1m弱、長さ25m程の長土橋が残る(尾根筋に厳重な防御)。

城外に大きな堀切2つ・小さな堀切1つ。標高263.8m・比高130mの尾根先端に位置する。

主郭の規模は45m×15mで南と東側に土塁を、南端は一段高く櫓台。主郭の西側及び南東側は尾根続きで、堀切で切断。

主郭の北側は削平地を巨大な堀切で切断。この堀切より北側は自然地形が30m程続いて、2段の削平地。下段の削平地は土塁で囲む。
城跡の立地が集落の背後の山に立地し、構造が極めて小規模山城で、典型的な在地領主の詰城か?。小規模な城郭であるが、防御機能の強い城。

お城の歴史

 土肥六郎左衛門実勝の居城。

源頼朝の家臣土肥次郎実遠の末葉で、足利尊氏の世に近江・美濃の野武士を平定して功があり、

箕浦庄の地頭として下向した御家人とされ、番場・多和田・醒井に分住し、箕浦庄の三土肥と称した。

このうち醒井殿と称する系統が枝折に住しており、枝折城の城主であったとか。

『淡海国木間攫』には、「坂田郡 枝折村 往古土肥次郎居城セシ事有ト云、其譜代ノ臣池田氏・江龍氏・能勢氏ノ姓名ノコレリト聞、」と記す。

滋賀県中世城郭分布調査・【枝折城】鳥瞰図:作図:長谷川博美氏

写真の説明はありません。長谷川博美氏作図

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、屋外、自然最初の堀切(50cmの堆積)紅白の鉄筋で測っかて!

画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然櫓台東下の堀切(30㎝の堆積)画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然南下を西側に回り

画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然主郭部へ登り

画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然土塁

画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然櫓台です

画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然5段曲輪が

画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然東側に土塁

画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外、自然虎口(炭釜に使用され壊されていますが)

画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然

 

2月10日再訪

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、植物、屋外、自然

虎口

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査6 旧坂田郡の城』、『見学会資料(城歩会:長谷川博美氏作成)』、遺跡ウォーカー(枝折城/土肥城)、『淡海国木間攫』

本日の訪問ありがとうございす!!


金山城 越前国(敦賀・金山)

2017年11月28日 | 山城

 写真の説明はありません。

お城のデータ

所在地:敦賀市金山 map:https://yahoo.jp/z1RXjG

区 分:山城

現 状:山林(山頂)

築城期:織豊期前期

築城者:徳萬紡・朝倉義景

遺 構:曲輪、土塁、横堀、竪堀

標 高:168m   比高差:113m

目標地:関入口バス停・畑関リサイクルセンター

駐車場:県道225号線沿いの空地

訪城日:2017.11.25

写真集:https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/966002483562327

    https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/966003516895557

    https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/966008700228372

           https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/966009116894997

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、屋外、自然

お城の概要

 金山城は、越前と若狭の国境にある関峠を押さえる位置にある丘陵に築かれている。 

関町の県道沿いにある「畑関リサイクルセンター」の背後の山が金山城で、県道沿いの空地から緩やかな尾根筋を登る。

 金山城の縄張りは、山頂部に土塁が囲繞した主郭と二の曲輪が配され、主郭北側と二の丸東側には内桝形の虎口が設けられている。朝倉の支援で浅井が築いた「近江・長比城」に非常によく似た縄張。主郭の北側に一段低く三の曲輪と四の曲輪があり、主郭部よりは削平は祠が建ち、城跡碑(無彫刻)のある。周囲に土塁を巡し、その内側に横堀。主郭部に入るに内桝形虎口の山城遺構が残存する。画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外、自然 

お城の歴史

この城は『疋田記』に、一向衆徒の徳萬紡が朝倉義景に味方して、信長の越前侵攻に対して金山に築城して戦った、と記しています。若狭守護武田氏の被官美浜国吉城主粟屋氏、朝倉氏との戦いに関連付けられている山城とされる。詳細は不明の城。

 元亀元年(1570)に信長が越前攻め時、浅井長政の謀反に遭い、急ぎ越前を退去しますが、このとき殿(しんがり)の秀吉は国吉城、又徳川家康はこの金山に立て籠もったとの記録がある。(金山は、越前敦賀・金山城と若狭土井山・金山城ある)http://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/784f20b1754915309b947ec5ec531ed8

 永禄年間に朝倉氏が若狭に侵攻して国吉城など若狭守護武田氏を攻めているが、この頃には若狭と越前との国境に位置する金山城が朝倉方の城として文献に記載されている。画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、植物、屋外、自然

画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、植物、屋外、自然

画像に含まれている可能性があるもの:5人、立ってる(複数の人)、屋外

参考資料:金山城見学会資料・『疋田記』

本日の訪問ありがとうございす!!


龍原山城(竜円山城) 近江国(多賀町)

2017年11月16日 | 山城

 

お城のデータ

所在地 : 多賀町敏満寺  map:https://yahoo.jp/xomd1u

区 分:山城

現 状:山林

築城期:室町期?

築城者:沢田氏

遺 構: (曲輪・堀切、土塁、竪掘)=浦白シダで確認できない櫓台(315m)

標 高:285m  比高差100m

目標地:多賀敏満寺 斎場「紫雲苑」

駐車場:林道(ハイキングコース)入口の空地

訪城日:2017.11.5

お城の概要

●新発見「竜円山城」(2010年)見学会が行われた。
 日 時 2010年3月14日(日)10時~16時頃解散
 講 師  長谷川博美氏  進 行  泉 良之氏
 客員講師 池田誠氏 東京都在住 中世城郭研究会 戦乱の空間主宰

 (長谷川博美氏 城郭研究家 滋賀民俗学会理事)

龍原山城と竜円山城は同じ城址考えられる。

 新発見の竜円山城は多賀町敏満寺の青龍山の東に舌状に延びる尾根上に位置する。(国道307号線から東側中腹にある斎場「紫雲苑」へ道添いにあり、斎場の手前の山麓に林道(ハイキングコース)の入口に駐車(標高:180m)出来る。城址は斎場の南背後の尾根上に位置する。

新発見の山城で、郭遺構は(浦白シダで)確認出来ないが、尾根上は狭く急斜面の段郭らしく確認できるが、砦・山城として機能したのか?

遺構は、尾根に上郭・堀切・西に郭があるようだが?、西の郭は尾根続きと?(浦白シダで)確認出来ない。櫓台は約6m四方は確認出来る。

写真の説明はありません。作図:長谷川博美氏

お城の歴史

『江州佐々木南北諸氏帳』には、「犬上郡 龍原山城主 佐々木末籏頭 〇沢田武蔵守秀忠

滋賀県中世城郭分布調査5 旧愛知・犬上郡』には、「犬上郡多賀町 竜円山城 不明」と記す

龍原山城と竜円山城は同じ城址考えられる。

沢田氏は、観音寺城の最上部(繖山の三角点近く)沢田丸(山上曲輪)を持つ。

江源武鑑現代語訳』        巻第十五巻上

元亀元年(庚午) 永禄十三年を改めて元亀と号す

一日 本日から五日まで天気晴。観音寺城出仕の様子は例年通りであり、記すに及ばない。

六日 屋形が佐々木神社に参詣され、国中の旗頭等が残らず供奉する。今年は青山内膳正信兼が調度掛を務める。本来和田権守がこの役であったが病気のため青山が務めることになる。

八日 屋形が江州の八幡宮に参詣される。午の刻に雪が降る。

十一日 御旗の祝のため国中の旗頭等が観音寺城に出仕する。                                                今年は澤田武蔵守秀忠が御旗の櫃を承って御国の間の床に立てる。                                                    堀伊賀守信武が毎年この役を務めてきたが、去年勢州大河内の合戦にて負傷し十二月二十九日に死去したため今年は澤田武蔵守に仰せ付けられる。この役は内容が多いので特に務める者を選ばれる。・・・・云々。と名記す。

 ・『江源武鑑』とは・・・近江守護佐々木六角氏の末期四代の時代を日記形式で描いた書物。

 全十八巻、二十冊より構成されている。
 江戸時代に五回の出版が確認されており、元和七年(1621年)版本、寛永四年(1627年)写本、
 明暦二年(1656年)版本、延享五年(1748年)版本、刊行年不明版本が現存します。
 著者は佐々木氏郷とも、その名を騙った沢田源内とも言われますが実際のところは不明です。
 ちなみに「江源(こうげん)」とは「近江源氏」の略です。 

 

此処から城域、虎口か?

 

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然物見櫓台か?(310m)画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:立ってる(複数の人)、木、空、植物、屋外、自然、水画像に含まれている可能性があるもの:木、空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然西側の上段の曲輪へ画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/940945542734688

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、空、草、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:立ってる(複数の人)、山、空、木、植物、屋外、自然

参考資料:『江州佐々木南北諸氏帳』『滋賀県中世城郭分布調査5旧愛知・犬上郡』『江源武鑑現代語訳』

 本日の訪問ありがとうございす!!


楢崎(ならさき)山城(楢崎城)  近江国(多賀) 

2017年11月06日 | 山城

 写真の説明はありません。林道ゲイト脇の説明板(現在地)

画像に含まれている可能性があるもの:屋外林道ゲイトは施錠されて、入れない画像に含まれている可能性があるもの:スケッチ

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然主郭部虎口の石垣

遺跡ウォーカーの楢崎城比定地:http://www.isekiwalker.com/iseki/336224/

お城のデータ

所在地:滋賀県犬上郡多賀町楢崎 map:https://yahoo.jp/L_lJb3
別 称:楢崎城
区 分:山城
立 地:山地中腹
現 況:山林
築城期:鎌倉期
築城者:楢崎氏
目標地:楢崎 八幡神社
駐車場:八幡神社
訪城日:2017.11.6

お城の概要
 遺跡ウォーカーの楢崎城は、高源寺の背後の山腹に位置する。
背後の楢崎城へは、獣害ヘンスで入れない!楢崎八幡神社の背後の獣害ヘンス沿いに高源寺の裏庭の山麓にゲイトあった。
獣害ヘンスを入ると「管理道=植林道」が明確にのこる、取りあえず頂部へ進むと林道の終点に出た。木製の階段登ると東屋と「環境防災林」の説明板の上からが、楢崎城域のようだ。
直ぐに、約標高180m付近の曲輪・櫓台遺構が、さらに進むと自然地形だろうが「土橋・竪掘」2つを渡り、旧斜面を登ると主郭部の虎口の出る、虎口にも石垣を認め、東側下は石垣が残る。
更に主郭と思われる部は、左右の大きな凹穴がある(石取場か?)

お城の歴
楢崎氏は観音寺城の繖山の三角点近くに山上屋敷がある。
『江州佐々木南北諸氏帳』には、「犬上郡 楢崎城主 住 佐々木旗頭 〇楢崎内蔵介 同 楢崎太郎左衛門弼高」の名を記す。 
 樽崎氏は、楢崎を拠点に鎌倉時代より六角氏の下で軍事部門において活躍した一族で、南北朝時代の軍記物「太平記」にも記されている。
樽崎氏は、楢崎を拠点に鎌倉時代より六角氏の下で軍事部門において活躍した一族で、南北朝時代の軍記物「太平記」にもその名が記されている。
永禄11年(1568)足利義昭を奉じて上洛する織田信長に攻められた主君の六角承貞が甲賀郡三雲に逃れると、楢崎氏も楢崎の地を離れ蒲生郡へと移り、館は放棄され、領地は織田信長に没収された。これにより同地にあった楢崎氏の菩提寺の十福寺も廃寺となった。画像に含まれている可能性があるもの:屋外画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、空、屋外、自然

林道の頂部
画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、空、屋外、自然東屋
写真の説明はありません。mapの背後
画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然此処から城域・山腹大曲輪か?
画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、空、屋外、自然
画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然最初の自然地形の土橋状
画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然左右の竪堀城画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:スケッチ画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然
画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然小曲輪か?画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然
画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:スケッチ画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人、木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然主郭部画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然
画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然主郭の虎口か?画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外、自然
画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然主郭部虎口の東側下石垣画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然
山麓の八幡神社画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:空、屋外
写真集:https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/935870053242237 
    https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/935873606575215
           https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/935872823241960
 参考資料:遺跡ウォーカー・「旧愛知・犬上郡の城」(『滋賀県中世城郭分布調査』5 県教委1987.3)
本日の訪問ありがとうございす!!

徳山城 美濃国(揖斐川町)

2017年10月30日 | 山城

画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:屋外

お城のデータ

所在地:揖斐郡揖斐川町(藤橋)徳山本郷(旧徳山村) map:https://yahoo.jp/pFnapD

現 状:山林

区 分:山城  

築城期:南北期

築城者:徳山氏

遺 構:大堀切・竪堀・曲輪・城跡石碑・現地説明板

標 高:475m 比高差:60m(駐車場からダム湖へ遊歩道下りる)

目標地:本郷望郷広場(標高:423m)

駐車場:本郷望郷広場の駐車、遊歩道を10分 map:https://yahoo.jp/H4BIJQ

訪城日:2017.10.28画像に含まれている可能性があるもの:木、草、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:空、木、植物、山、屋外、自然、水徳山城遠望(遊歩道より)画像に含まれている可能性があるもの:木、空、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、空、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、空、屋外、自然

お城の概要

 かつて、本郷の秋葉神社(城山)には、「城が存在した、集落から比高30mに足りない。下流の美濃側から外敵の侵入に備えた監視砦」狼煙アキバの神を奉斎するものか?

低い土地にある城やは物見や見張りの役割をなし集落住民が常に当番で集落防衛を担った。旧徳山村本郷を囲む揖斐川は集落の三方を囲む前掘(外堀)の役をになったか?

 旧徳山村の徳山城は築城期は南北期に徳山金吾貞信が『徳山家系図』に「濃州徳山之城主」とあり、15段の段曲輪からなってようです。

本郷望郷広場の駐車、遊歩道を10分ほど進むと、二ノ郭には樹齢600年の一本杉(しろびや杉)がある、

一本杉の背後の尾根に階段がある、登ると四ノ曲輪に白山神社?城跡碑が建つ、七ノ曲輪が虎口を伴った主郭。その背後は一段高く、虎口伴う主郭・主郭の北側は矢倉台。

織豊期に、改築されたか、主郭背後すぐ大堀切・竪堀があり、見応えある。

 大堀切の北側の尾根上部に、織豊期の特徴である、(大堀切・竪堀・)土塁を伴った曲輪があるようですが、

この日は、台風の雨で危険なため見学は、講師判断で中止となった。

お城の歴史

徳山氏は清和源氏土岐氏、あるいは東漢姓(やまとのあやうじ)坂上氏(坂上田村麻呂)の庶流で、美濃国大野群徳山の土豪であった。

はじめ斉藤氏に属したと思われ、後に織田信長に臣従し、柴田勝家の与力となる。一向一揆など北陸地方の平定に尽力し、加賀国松任城4万石の主となる。信長死後も勝家に従い、天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いでは佐久間盛政隊の先鋒として奮戦した。戦後、羽柴秀吉に赦され、丹羽長秀に仕えた。その後、主君・丹羽長重が減封された時に召し放たれて前田利家に仕え、天正13年(1585)に末森城の戦いに従軍して佐々成政と戦った。早くから徳川家康に通じ、慶長5年(1600)の関ケ原の戦い直前に前田家を出奔し、家康に仕えて5,000石を領した。 

徳山則秀は(とくやま のりひで、天文13年(1544)~慶長11年11月22日(1606/12/21)は、通称は孫三郎、五兵衛。父は少左衛門(貞孝)。子孫は旗本として明治期まで続いた。『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より』

 画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、木、空、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:座ってる(複数の人)、植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然

信長公記には、

巻八 天正三年 7、血河行  越前御進発、賀越両国仰付けらるるの事

 ・・・金森長近と原彦次郎長頼は美濃口から根尾・徳山を越えて大野郡へ侵入し、付近に散在する一揆方の小城を落として敵勢数多を斬り捨て・・・

画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然

写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:屋外水没前の徳山村画像に含まれている可能性があるもの:木、屋外画像に含まれている可能性があるもの:テキスト、屋外

写真の説明はありません。徳山城跡見学会資料より『作図:長谷川博美氏』写真の説明はありません。写真の説明はありません。

画像に含まれている可能性があるもの:木、屋外

 

・帰りに、主郭址にスズメ蜂の巣があました。長谷川博美氏に向こう木の根元に!

 


大堀切 見応えあります!画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然・雨天と急傾斜の危険性から、大堀切に降りないで下さいと注意したのに無視された方がいましたね。

画像に含まれている可能性があるもの:テキスト写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:8人、余田 幸美さんを含む、、スマイル、立ってる(複数の人)、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:4人、屋外

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/931259147036661

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/931262243703018

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/93120651370859

参考資料:徳山城見学会の資料、城郭研究家・探訪家の諸先生のwebサイト、徳山会館の展示品、『ウィキペディア(Wikipedia)』、『信長公記』

本日の訪問ありがとうございす!!


田上山城(砦) 近江国(木之本)

2017年10月19日 | 山城

 自動代替テキストはありません。画像に含まれている可能性があるもの:屋外

お城のデータ

所在地:長浜市(旧伊香郡)木之本町大字黒田   map:http://yahoo.jp/ITJx2G                                                                                

別  名:木之本城

区   分:山城(砦)

築城期:織豊期

築城者:朝倉氏

改築期:天正11年(1583)

改築者:羽柴氏(羽柴秀長)

遺  構:虎口・竪堀・馬出城

 城 域:380m×130m

標 高:323m  比高差200m

目標地:田上山

駐車場:田神観音寺・意冨布良神社参拝者用駐車場

訪城日:2017.10.15(雨)

画像に含まれている可能性があるもの:屋外

お城の概要

築城年代は定かではない。元亀4年(1573年)浅井・朝倉氏と織田氏が争った元亀争乱で、朝倉氏の軍勢が田上山に布陣していたという。 

お城の歴史

信長公記―――――巻六 元亀四年 13、刀根山合戦  刀根山の戦並に一乗谷攻破るの

 この戦で落城した朝倉方の城塞は、大嶽・焼尾・月ヶ瀬・丁野山・田部山をはじめ、義景本陣の田上山や疋田・敦賀・賎ヶ岳の各城など数多にのぼった。また若狭で織田勢に味方していた粟屋越中の城に対して築かれた十ヶ所の付城にいた兵たちも退散した。

天正11年(1583年)賎ヶ岳合戦では羽柴秀吉方の砦として秀吉の弟羽柴秀長が布陣し、秀吉方の本陣的な役目を果たした。

田上山砦は、田上山(標高323m)の山頂付近に築かれ、比高200mほどの山頂からは北国街道を眼下に押さえ、秀吉軍の諸将が布陣する中でも最も南方に位置し、後方に布陣する秀吉の本陣・木之本地蔵(浄信寺)をも守備する役目も担っている。

 


 北国街道木之本宿から30分ほど山道を登ると山頂の主曲輪に着く。

 砦は主曲輪を中心として、Y字型の尾根に曲輪が配置されている。登ってきた南側斜面には防御施設はないが、柴田軍と対峙している東側尾根の曲輪と本丸跡の間には竪堀を穿ち、曲輪の東には虎口を備え、虎口前面には角馬出が設けられている。
また、西側尾根の曲輪の先には、土塁による虎口と竪堀の見られる。

 現在でも木々の間から、賤ヶ岳、堂木山、明神山、行市山などが一望でき、賤ヶ岳の戦いの特徴として、山岳戦でありながらほとんどの砦から敵味方の状況が把握できる。

 

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然ここから田上山城(砦)画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、草、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:屋外画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、草、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、草、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、草、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、草、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、草、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、草、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:屋外画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、草、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、草、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、草、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、草、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、草、屋外、自然自動代替テキストはありません。画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然自動代替テキストはありません。画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:立ってる(複数の人)、植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、草、屋外、自然自動代替テキストはありません。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、信長公記、現地説明板

本日の訪問ありがとうございす!!


官山寺城 近江国(余呉)

2017年10月19日 | 山城

写真の説明はありません。官山寺城の位置画像に含まれている可能性があるもの:空、山、雲、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、歩いてる(複数の人)、立ってる(複数の人)、屋外

お城のデータ

所在地:長浜市余呉町坂口  map:https://yahoo.jp/cRxsiQT

区 分:山城

現 状:山林(尾根ハイキングコース)

築城期:室町期

築城者:京極氏(高詮の時?)

遺 構:竪堀・堀切・土橋・陣営・低土塁

標 高:410m  比高差200m(ウッディパルより) 比高差280m(国道8号線より)

目標地:ウッディパル(赤子山スキー場)

駐車場:山上駐車場

訪城日:2017.10.15(雨)

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、屋外、自然

お城の概要

官山寺山上駐車場から、南に進むハイキングコースと官山寺参道に『官山寺周辺案内図』の大看板ある。

官山寺城の案内図は無い。

が、参道に沿って大竪堀がある。山岳寺院官山寺の寺院坊を守備する見張り砦や、戦乱時の寺院勢力は不可欠であった。古文書を元現地踏査の結果長谷川博美氏は官山寺城の発見された。大堀切・堀切・土橋・竪堀・陣営跡(平削地)など城郭遺構が残る。 

尾根筋はハイキングコースとなり、城郭遺構に興味がない人には単なる自然林のハイキングコースであろう。

遺構は全長100m、標高410mで近江天満宮が330mがら比高差80m

お城の歴史

・京極導誉を余呉荘の文献 近江国余呉荘(旧伊香郡余呉町)文和元年(1352)将軍足利義詮は、余呉荘が要害の地の為に、袖判下文で佐々木導誉に地頭職に補任した『佐々木文書』

・余呉荘内丹生・菅並を山城地蔵院に安堵 応永二十四年(1417)室町幕府は、余呉荘内丹生・菅並を山城地蔵院に安堵する。京極氏と領家の対立が推定される。高詮の孫京極持高(吉童子丸)の時代に、山城地蔵院が衰退し、京極氏被官が地蔵院領を横領じた。画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然、水画像に含まれている可能性があるもの:木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、草、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然、水画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、草、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:屋外画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:屋外画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、屋外、自然



画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、草、屋外、自然

官山寺超え遺構の竪堀・・・(作図・城郭研究家 長谷川博美氏)

南の大堀切・竪堀(官山寺への山上駐車場からの参道脇)

官山寺超え遺構図・・作図:長谷川博美氏

山寺城出曲廓で踏査図(作図:長谷川博美氏)

第一の堀切画像に含まれている可能性があるもの:植物、草、木、靴、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然

第二の堀

第三堀切画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、木、植物、屋外、自然

 

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、草、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然


画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然此処から田上山城画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、草、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:屋外画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、草、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、草、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、草、屋外、自然

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/922940374535205

 https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/924547241041185

参考資料:官山寺フォレスト資料

本日の訪問ありがとうございす!!


籠城山城 近江国(多賀)

2017年10月10日 | 山城

写真の説明はありません。

お城のデータ

所在地:犬上郡多賀町敏満寺 map:https://yahoo.jp/G-ao1N

現 状:山頂

区 分:山城

遺 構:虎口・土塁・櫓台・曲輪・

築城期:織豊期か?

築城者:宗門衆か?

改築者:今井氏か?

標 高:224m  比高差:100m

目標地:金屋橋バス停

駐車場:金屋橋バス停の犬上川右岸の空地

訪城日:2017.9.7

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、木、屋外、自然

お城の概要

 犬上川の扇状地が多賀町大字楢崎・敏満寺で、南北から張り出した尾根で狭くなり、湖東平野への西の出口を形成している。南の尾根上に勝楽寺城が、北の尾根上に南籠城山城(どんじょ山、道場山)が築かれていた。

南籠城山城は二郭で虎口・土塁・櫓台跡。北側の尾根上に位置する南籠城山城は、土塁の廻る主郭とその南東方向に延びる削平地とからなっている。

主郭は東西42m、南北18mで中央南側に櫓台、北西に土塁・明瞭な虎口、土塁には横矢折れ、さらに内部は土塁や段築が三つに仕切られている。

南東に延びる削平地は35m×10mで先端部に大きな自然岩が点在している。周囲には犬走が廻る。

お城の歴史

 伝承では宗門衆の城とされるが、

遺構は織豊期の武家のもの城郭遺構で、織田信長に抵抗する浅井氏や六角氏の残党と連携した宗門一揆衆が立て籠もったという伝承がある。

『嶋記録』には、

○敏満寺城 今井左衛門尉没落の事

秀俊妻女ハ番場土肥か息女なりしか、秀俊か息8歳尺夜叉をかゝへ、・・・・敏満寺に十余年の春秋を送り程見に」 今井一門連書乃写シ

「今井敏満寺ニ有し比」と記す。

六角方への内通を疑った浅井亮政により、天文2年(1533)長浜の神照寺にて誘殺された。

秀俊の遺児・尺夜叉丸と一門・家来は、六角氏の支援を得て敏満寺に10余年の間牢籠しており、その際の東方を守備する砦ではないかと推測するとのことであるが、詳細は不明である。画像に含まれている可能性があるもの:立ってる(複数の人)、植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、草、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、屋外、自然

写真の説明はありません。籠城山城俯瞰図{城郭研究家 長谷川博美氏作図}

画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:立ってる(複数の人)、植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:屋外

写真集:https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/919642364865006

    ttps://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/919644231531486

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』、『嶋記録』・遺跡ウォーカー

本日の訪問ありがとうございます!!


中郷城/中之郷城  近江国(日野)

2017年04月03日 | 山城
お城のデータ
所在地:滋賀県蒲生郡日野町中之郷 map:http://yahoo.jp/8phy8m
区 分:山城
現 状:山林
立 地:山地(山頂部・山腹)
築城期:室町期
築城者:蒲生氏
標 高:250m  比高差40m 標 高:242m
目標地:中之郷灌漑ダム湖
駐車場:中之郷灌漑ダム湖の登り口鉄扉前
訪城日:2017.4.2
お城の概要
蒲生郡日野町中之郷灌漑ダム湖の西の山上平削地と東下10m曲輪に曲輪・尾根道を土塁に南側に曲輪が認められる。さらに、東への尾根道あるが、
北へに尾根道には、平削地は五段あり、不明瞭な堀切も確認できる。

土師器片
お城の歴史
『近江興地志略』では、蒲生飛騨守氏郷の居城とある。
『大洞弁天当国古城名札』には、飛騨守の家来とあり寺倉氏の城とも考えられる。
『江州佐々木南北諸氏帳』には、「蒲生郡 中ノ郷 住 佐々木蒲生隋兵 寺倉三衛門」と記す。
中之郷灌漑ダム湖の登り口鉄扉前遠景登城口
参考資料:『近江興地志略』『大洞弁天当国古城名札』『江州佐々木南北諸氏帳』『滋賀県中世城郭分布調査1』『日本城郭大系11』、遺跡ウォーカー 

本日の訪問ありがとうございす!!

長福寺城  近江国(近江八幡)

2017年03月28日 | 山城


お城のデータ

所在地:近江八幡市長光寺町・馬淵町/東近江市上羽田町 map:http://yahoo.jp/MmVb99

立 地:山頂/山腹

現 状:山林

築城期:室町期

築城者:

遺 構:曲輪・竪堀・低土塁・堀切・石垣

標 高:220m  比高差130m(長福寺町公民館より)

目標地:長福寺町公民館

駐車場:近江八幡市水道タンク管理道の鉄扉前

訪城日:2017.3.28

滋賀県中世城郭分布調査より

お城の概要

岩倉山の西山麓は、近江八幡市馬淵町大字落合

 長福寺町公民館より、近江八幡市水道タンク管理道を東南に、水道タンク手前50mを右手の竪堀を頂上120m登ると頂上に至る。

舗装された管理道路から登るすぐ、平削地が頂上まで大小無数にある。

岩倉山は、石切山でもあった。石切の為に平削地の可能性がある。

(八幡山城の石垣は『岩倉石工文章』によると、南方約4kmの地にある岩倉山より石材を運んだという記載がある。)、

お城の歴史

 遺跡ウォーカーのコメントに【魯忠 2011年2月16日 17時35分】

長福寺城は佐々木六角氏の庶流落合氏の居城である。落合氏は六角氏に仕え、先陣を司る家柄であり江州七手組として名を馳せた。長福寺城には落合因幡守、同相模守定為、同出雲守家裕、同内蔵介らが在城し、観音寺城にも伝落屋敷跡がある。

しかし

『滋賀県中世城郭分布調査』その他城郭一覧には、「291落合城 蒲生郡日野町落合」

 『日野町志』には、「落合因幡守城跡在長福寺」とあるが、詳細不明」と記す。

が、現在、蒲生郡日野町に落合集落が存在しない?が、

遺跡ウォーカーには、「滋賀県蒲生郡日野町落合 落合城」城郭分布調査1、城。不明。不明

 

 日野町志』には、蒲生郡日野町落合「落合因幡守城跡在長福寺」とあるが、詳細不明」と記す。

日野町の長福寺は(滋賀県蒲生郡日野町松尾2区1340)に存在する。


ここから山へ                           石垣                  低土塁(山頂)                                 

参考資料:遺跡ウォーカー、『浅井三代記』『滋賀県中世城郭分布調査』『日野町志』 、Wikipedia

本日の訪問ありがとうございす!!


石塔後谷城 近江国(蒲生)

2017年03月01日 | 山城

未訪問者の新発見か?!
県道45号より(遠景)、屋根上が土塁!

石塔後谷城へ行って来ました!

お城のデータ


所在地 滋賀県東近江市(旧:蒲生郡蒲生町)石塔町 map:http://yahoo.jp/xnG3i8

遺構概要 城郭分布調査4、

築城期:中世細分不明

築城者:金井丹波守の居城
区 分:山城
立 地:山地
現 況:山林

遺 構:土塁・曲輪・櫓台・竪堀・切岸・箱掘・堀切・

訪城日:2017.3.1

お城の概要

『滋賀県中世城郭分布調査4(旧蒲生郡・神崎郡)』には、石塔後谷(うしろたに)城の解説に、「城前城(じょうのまえじょう)」を改称、小字「城ノ前」には遺構は認められず、その背後の山が小字「後谷」で、小分け地名に「千馬垣」「御城谷」「姫ヶ沢」「田根丹波」などある。地元では金井丹波守の城跡とも言っている。

蒲生石塔地区を通る県道45号線が大きく西に迂回する丘上にあったとされる。

蒲生石塔地区にあったとされる城。
『越前城』の別名があるが、この地域の旧地名「城前」が変形したものと思われる。

石塔集落の西側に林道があり、林道に入るとすぐ地蔵堂ある。反対側に空堀と大きな彫り上げ土塁が100m位、山上曲輪郡、山上北側のぼり虎口か?土塁か?

お城の歴

蒲生石塔地区にあったとされる丘城。
金井丹波守の居城とされるが、それ以外のことは一切不明。

 

素晴らしい、彫り上げ土塁に圧倒されました!

林道を挟んで山上曲輪へ

箱掘

三角点三角点

北側の土塁堀切か西側堀

参考資料:『滋賀県城郭分布調査 4』、 『日本城郭大系11』『滋賀県遺跡目録』、遺跡ウォーカー

本日の訪問ありがとうございす!! 


小脇城 近江国(八日市)

2017年02月28日 | 山城

【小脇館】と【小脇山城】の中間に標高:150mの山中に【小脇城】

「小脇城」

お城のデータ 

所在地:東近江市小脇町  (旧八日市市小脇町)  map:http://yahoo.jp/WjfocE

区 分:山城

現 状:山林

遺 構:土塁、竪堀、削平地(曲輪)、井戸

標 高:150m 比高差:30m

築城期:鎌倉期

築城者:三井氏

初城主:三井新三郎・三井石見守時

目標地:緑ヶ丘自治会館・山麓道路に石段(登り口)http://yahoo.jp/o_7a63

訪城日:2017.2.28・2013.5.1

小脇城・・・2017.2.28

お城の歴史

『佐々木南北諸氏帳』にか、「蒲生郡 小脇城主 佐々木旗頭 三井新三郎・三井石見守時高」と記す。

『大洞弁天当国古城主名札』にも「三井新三郎」の名がみえるとある。

  1. 新発見か?
    小脇城 近江国{八日市}
    区分:山城
    現状:山林
    遺構:土塁、竪堀、削平地曲輪、井戸.

    【小脇城・遺跡ウォーカー】で検索!

    mapコードは、間違いのようです!が?

    滋賀県城郭分布調査10にも記載あり。

    小脇山城の山麓館か?

    小脇山城は、佐々木六角の重臣三井氏の城。

    所在地:東近江市小脇町もっと見る


山頂部(小脇山城)

下屋敷跡か?(2013.5.1)

 

森が「小脇城」推定地

 歴 史

 湖東平野の農業生産力という基盤にくわえ、近江から鈴鹿山脈をこえて伊勢国にいたる中世近江商人にさかんに利用された八風街道という交通の要衝に位置している。

  そのため、すでに鎌倉時代の『源平盛哀記』に「蒲生郡小脇の八日市」とみられるように、定期市場の中心となっていた。現在、「御所」「鳥門」「東風門」などの小字名がつたわる。(後略)(満田良順)」とあります。

なお、八日市小脇町は現在東近江市小脇町になっています。

集落の左の森が「小脇城」推定地、山上に詰城【小脇山城】

お城の歴史

三井氏

三井家の家伝によると、藤原道長の六男長家の五代孫藤原右馬之介信生が近江国に土着し、武士になったのが三井家の始まりとされるが、史料の裏付けはない。12代三井出羽守乗定が近江半国守護六角氏から養子高久を迎え、以降六角氏に仕えるようになり、「高」を通字とした。しかし高久の五代孫越後守高安の代、織田信長の上洛によって六角氏とともに三井氏は逃亡し、伊勢国松坂近くの松ヶ島に居住するようになったとされる。

慶長年間には高安の子高俊が武士を廃業して松阪に質屋兼酒屋を開き、商人としての三井家が創業された。

屋号の「越後屋」は高安の受領名に基づく。高俊の後は嫡男俊次が継いだが、実際の商売は高俊の妻殊宝が取り仕切り、越後屋を発展させた。寛永年間始め頃江戸本町四丁目に小間物店「越後屋」を開き、後に呉服屋となった。この家は釘抜三井家と呼ばれる。高俊の次男弘重と三男重俊も江戸や松坂で自らの店を開いている。

小脇郷の歴史

  戦国時代となる紀元前4世紀から朝鮮半島を含む中国大陸より、戦乱から逃れる亡命者集団が歴史上主として4つの時期にわたり日本各地に相当人数が漂着して来ています。

   その一事例として、古事記・日本書紀には5世紀前半ころ秦一族等が近江の国に移住したことや、西暦668年の唐と新羅の連合軍により滅ぼされた高句麗の国滅亡の混乱時には、百済や高句麗からの多くの亡命者が日本各地に渡来し、時の政権はこれを受け入れ対応していることが記されているのです。 こうした渡来人は、全国各地で医術、製鉄の技術、鉄製の農具、灌漑(かんがい) 技術、須恵器づくり等の当時の先進技術をもたらしています。               

  その亡命渡来人について、669年に男女700余人を近江蒲生郡に配したとし、滋賀県蒲生郡日 野町から東近江市にかけて渡来人が配されている記録があり、蒲生野と呼ばれていた地域の中にある小脇郷にも高麗人たちが移住しているのです。

又、それ以前の時代の証として小脇町青蓮寺付近の土中3メートルから5世紀末の瓦泉(はそう)が出土しています。又、金柱宮跡付近から太い柱
の一部が発見されており、この直近の小脇山山腹には後期の古墳2基があり、5世紀には人々が住んでいて付近を開拓したと考えられるのです。 此処、東近江市の小脇郷は今も同じように、若干の表土の下には丸い河原の石と砂が混合した砂礫地層となっており、元来、農耕不適の土地だったのが渡来人達の開拓によって稲作が出来るようになったと言い伝えられています。          

このことは現代まで、小脇郷の 「狛(こま)(狛=高麗人)の長者伝説 」 として残されているのです。
  伝説というのは、これまで生きつづけてきた人々の口から 代々語り伝えられるものです。そして、この伝説を物語るようにしてその遺蹟や跡地が残されており、小脇郷に残っている           
                   

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査10、遺跡ウォーカー、ウィキペディア

  本日も訪問、ありがとうございました。感謝!! 


天筒(てづつ)山城 越前国(敦賀)

2016年12月19日 | 山城

 

お城のデータ
所在地:敦賀市天筒町 map:http://yahoo.jp/i47ot2
築城期:南北朝期
築城者:
主な城主:朝倉氏
遺 構:曲輪・堀切・
標 高:171m  比高差:165m
目標地:金ケ崎城跡・金ヶ崎宮
駐車場:金ケ崎城跡・金ヶ崎宮駐車場
訪城日:2016.12.17

お城の概要
 天筒山城は、金ヶ崎城の枝城で標高約171mの天筒山に構築された山城で、金ヶ崎城とは稜線伝いに繋がっている。
 敦賀湾に面し、金ヶ崎城とは尾根続きになっている。織田信長は金ヶ崎城攻略の南からこの城を落とす。
 現在は公園として整備されて、頂上までの道は舗装されている。主郭は展望塔や休憩室が置かれている。
 また、主郭部は(頂上)の、展望塔からは金ヶ崎や敦賀市内が見渡せる。山
頂で【見張り台】であった
・信長は気比の松原の西のはずれにある花城山を本陣とし、諸将を集めて軍議を開いた。
  丘のように小高い山だが、あたりの様子をひと目で見渡すことができた。

・湾の奥まった所に、天然の防波堤のように東から西に突き出し岬がある。ここに金ケ崎城あり朝倉景恒が三千の兵と共に立て籠もっていた。

・金ケ崎城から東につづく尾根の先端の手筒山城があり、気比神宮の社家を中心とした国人衆千五百兵と共に立て籠もっていた。

現在は公園化されており、曲輪、櫓台跡などが残る。

主郭部のから南曲輪へ

南曲輪の案内状(織田軍は、南から攻めあがった)

お城の歴史

信長公記 巻三 元亀元年4、金ヶ崎  越前手筒山攻落されの事

 25日、信長公は越前の地へ足を踏み入れた。敦賀まで進んだ信長公は馬を懸け回して付近の地勢を検分し、手筒山城を標的に定めるとすぐさま旗下の将士に攻撃を命じた。手筒山は金ヶ崎南東に屏風のごとくそびえ立つ高山であったが、将士たちは信長公の命が下るや一命を顧みずに坂を駆けのぼり、千三百あまりの首を挙げて一気に城を陥れた。
 手筒山に近接する金ヶ崎城には朝倉中務大輔景恒が籠っていた。手筒山を落とした翌日、信長公はこの城にも攻撃の手を向けた。刃向かう敵は殲滅する勢いで攻め寄せた織田勢の前に城衆は戦意を失い、まもなくして降伏した。
 つづいて疋田城も開城した。信長公は滝川彦右衛門・山田左衛門尉の両人を疋田に遣わし、塀を倒し櫓を降ろさせ、城を破却した。ここまではまさに破竹の勢いであった。

 しかしそこから木芽峠を越え、あすには越前国内へなだれ込もうというとき、軍中に最悪の飛報が届いた。江北の浅井備前守長政が掌を返し、敵方についたという報であった。
 信長公ははじめこの情報を信じなかった。浅井は歴とした織田家の縁者であり、さらには江北一円を申し付けてもいる。不足のあろうはずがなく、虚説に違いなし、というのである。しかし信長公のもとへはその後も諸方から続々と同様の注進が届き、もはや浅井離反が事実であることは疑いようがなくなった。
 運命は、突如として変転した。信長公はただ一言、
「是非に及ばず」と、つぶやいた。
 4月28日、信長公は撤退を開始した。木下藤吉郎を殿軍として金ヶ崎の城に残し、みずからは駆けに駆けて30日には近江に出、地元の豪族朽木信濃守元綱の先導で朽木越えをして京都への撤退に成功した。

 越前撤退後、信長公は明智光秀と丹羽長秀を若狭に遣わし、武藤上野守友益に人質供出を要求させた⑤。交渉の末、武藤の母親が信長公のもとへ人質として差し出され、武藤の城は破却された。両名は5月6日針畑越えの道をとって京へ戻り、信長公へ復命した。
 このとき稲葉一鉄親子と斎藤内蔵助利三は江州守山に駐屯し、近江路の警固にあたっていた。そこへ一揆がむらがり起こってへそ村⑥に火の手をあげ、守山にも焼き討ちをしかけてきた。しかし稲葉は町の諸口を支えて逆に敵を追い崩し、数多の敵を討ち取った。比類なき働きであった。

 その後信長公は京表の諸大名から人質を取りかためて公方様へ進上し、大事出来の際には時日を移さず必ず入洛することを誓い、5月9日京を離れて岐阜へ下っていった。途中志賀⑦・宇佐山⑧の城に森可成を残し、12日⑨に永原まで出てこの地に佐久間信盛を置き、長光寺⑩には柴田勝家を入れた。安土にも中川八郎右衛門が残された。かくのごとく城塞ごとに兵が入り、近江回廊は厳戒態勢がしかれた。

  ④現滋賀県朽木村から京都北郊に出る道 ⑤武藤友益は若狭の将で、織田勢の若狭侵入に対抗していた。⑥現栗東市 ⑦⑧現大津市内 ⑨正しくは13日 ⑩現近江八幡市長光寺町                                                             元亀元年4月25日、織田軍(10万人)に攻め込まれ、双方数千の戦死者が出る戦いとなったが陥落し、朝倉景恒は金ヶ崎城に陣を引くことになった。 

 

お城の歴史

建武3年・延元元年(1336年)に金ケ崎城に籠った新田勢に対する足利勢の陣所となっていた。

元亀元年(1570年)越前に侵攻した織田信長によって金ケ崎城とともに落城した。

戦国時代

 朝倉氏が越前を掌握した後は朝倉氏一族の敦賀郡司がここを守護していた。1570年(元亀元年4月26日)、援軍が遅れたため、郡司朝倉景恒は織田信長に対し開城する。しかし、浅井長政が離反して近江海津に進出し挟撃戦になったため、信長は木下藤吉郎らに殿(しんがり)を任せ、近江朽木越えで京に撤退する。

金ヶ崎の戦い

元亀元年(1570年)4月20日、織田信長・徳川家康連合軍は3万の軍(『言継卿記』)をもって京都を出陣諸将を集めて10万余の大軍となって西近江路を北上。九里半越えから若狭国に入り、熊川宿に一泊し、23日には朝倉氏の勢力と接する若狭三方郡の国吉城に入城した。24日も越前攻めに備え、、25日、織田徳川連合軍は、天筒山城を攻めむと、越前国敦賀に侵攻した。本陣を妙顕寺(敦賀市元町)とした。対して、朝倉側は朝倉景恒を総大将のもと金ヶ崎城に籠った。天筒山城には気比社の社家、嶋、宇野各氏や上田、中村、吉川、萩原入道など1500騎など立て篭もっていた。

天筒山城攻略10万余の信長軍は、信長自身が先頭に立って、天筒山城攻略を開始した。信長軍の編成は、先頭の信長に続いてその一族、そして柴田勝家、丹羽長秀などの重臣達、その後に松永久秀、池田経興、徳川家康などの諸大名が後詰した。足軽大将であった木下秀吉(後の豊臣秀吉)は遊軍となって天筒山、金ヶ崎城周辺の在所など放火して回った。天筒山の東側は急峻で、その下は池見の湿地帯であった。籠城軍はその方面への防御を比較的手薄にしていた。本来、天筒山城の弱点は、海岸に沿って東に延びる山地からの攻撃に対してであった。また、圧倒的な信長軍の包囲に対して、主力を西側からの攻撃に対陣せざるを得なかった。東南を天然の防禦線としてと頼んでいた。そこに、信長に攻撃の糸口を与えた織田信長が越前(福井県)の朝倉義景を攻撃したところ、同盟関係にあった妹婿の小谷城の浅井家の裏切りにあい、挟撃の危機に瀕したため、木下藤吉郎と信長の同盟軍の徳川家康が後衛(家康の後衛に疑問をもつ向きもある)となって、信長本隊が信長勢力地まで帰還するのを援護した戦い。 

南曲輪へ

天筒山城遠望

信長はここ妙顕寺に本陣

20150523b0225日、敦賀に入った信長はここ妙顕寺に本陣を構え(国吉籠城記)、自ら敵情視察した上で手筒山砦攻撃を決めます。

20150523b03妙顕寺本堂

20150523b04妙顕寺からの手筒山

参考資料:Wikipedia・敦賀観光案内サイト 漫遊敦賀/金ヶ崎城跡】敦賀戦国浪漫パンフレット金ヶ崎の退き口 - 敦賀の歴史