城郭探訪

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和邇城(和迩城) 近江国(大津・志賀)

2016年04月22日 | 平山城

お城のデータ

所在地:大津市(旧滋賀郡志賀町高城)和邇高城   map:http://yahoo.jp/xUnObU

現 状:山林

区 分:平山城

築城期:室町期(1500年頃)

築城者:和邇越中守信方

遺 構:曲廓・土塁・基壇。

標 高:185m   比高差:30m (公園より)

目標地:和邇高城のニュータウンの「虹ヶ丘給水タンク・ガスタンクと隣りに公園」

駐車場:公園に駐車

訪城日:2016.4.20

お城の概要

 JR和邇駅から、西丘陵にニュータウンがある、中央の道を頂部まで行くと南側に「森林」と「和邇高城の虹ヶ丘給水タンク・ガスタンクと隣りに公園」がある。

 この平山の森林が城址で、住宅地の中心に山林が残り、城道が造られているが、城跡は自然の地形利用した非常に古い作事で、詰め城・砦・物見廓?の様相で整備されていないが。

 滋賀県志賀(現・大津市)にあたる。大和の豪族和邇氏の部民が設定されていたことによる地名とされ,隣接する小野の和邇大塚山古墳の被葬者は和邇氏系の有力者と推定されている。

 

曲廓は東中腹20m×20m程の平削地と思われ、土塁・切岸で防御(現在はニュータウン化で防御性は感じないが)

お城とへは公園の角から、登城路がある。

あるいは、南山麓の大津赤十字志賀病院(和邇中)の隣の稲荷社への参道から、稲荷社~左への登城路がある。

お城の歴史

 和邇氏代々の居城で 築城期は不明だが、城があった旧高城村は足利尊氏により園城寺に寄進された後、1500年代に和邇越中守信方らによる統治が始まったとされる。

『佐々木南北諸氏帳』には、「志賀郡 和邇城主 佐々木隋兵氏族 和邇丹波守秀俊・和邇兵内左衛門貞季・和邇兵吉・和邇豊五郎実勝・和邇金蔵成覚・和邇越中守秀正」の名を記す。

『多聞院日記』には、和邇城(志賀町) 元亀元年7月6日の条「一、去廿日信長ワニ、カタタニ被陣取了」と記す。

『細川両家記』には、和邇城(志賀町) 永禄12年9月23日条「信長は帰国せんとて坂本迄下給へば、越前衆わに・片田迄上候て陣取」と記す。

『和邇町誌稿』では、「中世末期に和邇金城坊なるものがこの地に陣屋を築いた」とされている。

信長公記 巻三 元亀元年 能戦  観世大夫、金春大夫立合に御能の事

ーーーー京での予定を終えた4月20日、信長公は軍兵を率いて京を進発し、まっすぐに越前をめざした。その日は坂本を越えて和邇で宿陣し、翌日は高島郡の田中城に宿泊した。22日になって若狭に入り、熊川の松宮玄蕃領を経て23日佐柿の粟屋越中守勝久の館に着陣した。

巻五 元亀三年

 この年3月5日、信長公は江北に出兵して赤坂に陣を取り、翌日横山まで進んだ。そして7日に小谷と山本山の間五十町の地に進出し、ここに陣を据えて与呉・木本方面を放火した。江北の諸侍はかねがね、「与呉・木本へは、途中節所を通らねばたどり着けぬ。もし織田勢かの地を攻むることあらば、われらはその場所にて一戦に及ぶべし」と広言していたが、結局足軽の一兵さえ出すことはなかった。信長公は何ら妨害を受けることなく作戦を遂行し、9日無事横山に軍勢を収めた。翌10日は常楽寺に宿泊し、11日になって志賀郡へ出陣した。信長公は和邇に陣を構えて木戸・田中(比良城=田中左衛門尉定光の城=現福田寺)の両城を囲ませ、付城を築いて明智光秀・中川重政・丹羽長秀の三名を置いた。

和邇氏は、

 大和国添上郡和邇より起こり、孝昭天皇の皇子である天足彦国押人命から出たと称する皇別氏族とされます。その本宗家は、和珥臣ですが、継体朝頃に途絶えたため、添上郡春日に遷った支族の春日臣の方が本宗家に取って代わりました。春日臣から、和邇や和邇部を名乗るものが出たので、春日から和邇に改姓したというような記述になったと思いますが、本宗家は別にありました。

 和邇氏の実際の始祖は和邇日子押人命だと思われ(孝昭天皇後裔は後世の仮冒)、元々の姓は「鰐積」(安曇、穂積、出雲積などと同じ)だったと思われます。だからこそ、春日臣から和邇を名乗る者が出たのだと思います。「鰐」をシンボルとする海神系の氏族集団でしたので、本来は安曇同族で、綿津見豊玉彦が遠祖であったはずです。


背後の林城址頂部

ブルーシートの所から山にはいる。この公園内の空きスペースに駐車

三角点

更に進むと、南山腹に稲荷社が祀られている。

山腹の稲荷社、曲廓跡か?

参道は南山麓の大津赤十字志賀病院の方面へ

 

戻ります

ツツジが2種咲いてました。

大手城道だったか?

城底道が、稲荷社まで

稲荷社も曲廓跡か?

稲荷社の右へ登り、頂部へ

コイワカガミ頂部の基壇横矢か?武者隠し土塁(頂部北東部)

曲廓部か?公園の南側斜面(造成用で削土跡)

参考資料:遺跡ウォーカー、滋賀県中世城郭分布調査1・9「旧滋賀郡の城」、『日本城郭大系』11、『信長公記』、『多聞院日記』、『細川両家記』

  本日の訪問ありがとうございす!!


疋壇城(疋田城)    越前国(敦賀)

2016年03月25日 | 平山城

 

お城のデータ

所在地:敦賀市疋田  map:http://yahoo.jp/cBE5G0

別 名:疋田城
築城期:室町期・・・文明年間(1469~1487)

改築期:織豊期
築城者:疋壇対馬守久保

改築者:柴田勝家?織田信長?

区 分:平山城
遺 構:空掘・土塁・石垣・天守台(櫓台)
城 域:130m×300m
標 高:90m    比高差:20m
 福井県県指定史跡

目標地:西徳寺・疋壇城の案内ポール

駐車場:疋壇城の案内ポール横

訪城日:2016.3.23

お城の概要

国道8号線から疋田の集落に旧道に疋壇城の案内ポール建っている(ここに駐車)、集落とJRの線路の間一帯が疋壇城の城域。
 車で本丸下の登ることが出来るが。この空地は小学校の跡地で、小学校が建設されたことで疋壇城の約1/3に遺構が失われているが、小学校跡地から北側一帯には良好に遺構が残されている。

 この地は柳ヶ瀬越,塩津越,海津越の主要江州路が集まる交通軍事上の要衝であるので、朝倉越前の最南端防衛拠点として築城されたものであり、本城の東・南・西の三方には、それぞれ出城も設けられていたものと思われる。

元小学校跡の空地から比高差5~6mの高台が本丸櫓台で、広さは10m四方。中央部に疋壇城址の石碑が建てられている。櫓台から北側に曲輪が広がるが、大部分は畑地として利用されている。
 この曲輪の西側に空掘が残り、空掘は北側では曲輪とも見える大堀切と繋がっている。堀切の北側には更に曲輪が続き、北麓の日吉神社まで遺構は広がっている。

 

お城の歴史

 疋田は、西近江路と東近江路が合流する交通・軍事上の要地であり、恵美押勝の乱でも有名な古代三関の一つ愛発(あらち)関の有力此定地でもある。
 疋壇城は文明年間(室町時代1469~1487)に朝倉氏の将・疋壇対馬守久保に築かせた城であり柳ケ瀬越え,塩津越え,海津越えの主要近江路が集まる要衝の地に、越前最南端の要衝を守る重要な拠点であった。 疋壇久保は西福寺宛て安堵状が残るので実在が確認されている。
現在も畑地の中のあちこちに石垣が残る。(福井県指定史跡)

 歴史的には、天正元年(1573)の織田信長により越前攻めの後、疋壇城は破却されたとされるが、疋壇城のあちこちに残る石垣や堀の土止めの石積み等は朝倉氏の城では見ることは出来ず、朝倉氏のものでない。

 「弘治元年(1555)の師走の12月26日には、塩津の熊谷平治郎は三千騎を率いて、疋田城を攻撃した」・・・とあるように、熊谷氏が或る時期に隣国で隣接の越前の疋田氏と敵対関係にあった事。その事が塩津街道の沓掛周辺に構築された諸砦の存在。

 

 朝倉氏を滅ぼした後の織田方による改修も考えられるが、朝倉始末記によれば、「元亀元年、信長によって平定された越前は、天正3年には“一揆持ちの国”となり、信長は天正3年8月に約5万の軍勢を仕立て、徳川軍1万3千、柴田勝家軍1万2千の他、合わせて約10万の軍勢で越前攻めを行う」とある。
 当時これだけの大軍を仕立てることの出来た信長が、わざわざ一向一揆衆を相手に疋壇城を改修するとは考え難く、残る可能性としては賤ヶ岳の戦いにおいて柴田勝家によって改修されたことが考えられる。

 天正10年、清須会議後、湖北三郡と長浜城を手に入れた柴田勝家は、江越国境に玄蕃尾城を築き、玄蕃尾城と北庄城のほぼ中間地点にあり、交通の要衝の地にある疋壇城を対秀吉戦に向けて改修か?。

 (現在疋壇城の中核部東西に残る横堀も、玄蕃尾城に残る空掘と規模的にも同程度で、櫓台を主曲輪の隅の置く思想も玄蕃尾城と同じで、そんなところにも柴田勝家による改修か?。)

 信長軍の撤収後にいったんは修復されたらしく朝倉の臣・栂野三郎右衛門尉景仍等が布陣した記録もあるが、天正元年(1573)8月、信長再度の越前進撃により城主・疋壇六郎は討ち死にし、城は完全に破却された。

 

信長公記 巻三 元亀元年(1570) 金ヶ崎  越前手筒山攻落されの事

 信長公は越前の地へ足を踏み入れた。敦賀まで進んだ信長公は馬を懸け回して付近の地勢を検分し、手筒山城①を標的に定めるとすぐさま旗下の将士に攻撃を命じた。手筒山は金ヶ崎南東に屏風のごとくそびえ立つ高山であったが、将士たちは信長公の命が下るや一命を顧みずに坂を駆けのぼり、千三百あまりの首を挙げて一気に城を陥れた。
 手筒山に近接する金ヶ崎城には朝倉中務大輔景恒が籠っていた。手筒山を落とした翌日、信長公はこの城にも攻撃の手を向けた。刃向かう敵は殲滅する勢いで攻め寄せた織田勢の前に城衆は戦意を失い、まもなくして降伏した。
 つづいて疋田城も開城した。信長公は滝川彦右衛門・山田左衛門尉の両人を疋田に遣わし、塀を倒し櫓を降ろさせ、城を破却した。ここまではまさに破竹の勢いであった。

ところが四月二六日、突然浅井長政が離反したため、信長は敦賀を脱出し京都を経て岐阜に帰還した。
 この後、朝倉氏は当城を修築し、栂野三郎右衛門尉景仇・藤田八郎左衛門尉の諸将も置き防備を固めた。-----

巻六 元亀四年(1574)刀根山合戦  刀根山の戦並に一乗谷攻破るの事

-----この戦で落城した朝倉方の城塞は、大嶽・焼尾・月ヶ瀬・丁野山・田部山をはじめ、義景本陣の田上山や疋田・敦賀・賎ヶ岳の各城など数多にのぼった。また若狭で織田勢に味方していた粟屋越中の城に対して築かれた十ヶ所の付城にいた兵たちも退散した。----敵勢は、中野河内口と刀根山口の二手に分かれて退却していた。織田勢はいずれを追ったものかとしばらく詮議していたが、「名のある者は、疋田・敦賀の味方城を頼りに退いていよう。されば刀根山を越え、疋田に向かうべし」との信長公の命に従い、刀根山口へ向かった。
----討ち取られた者のうち、名のある者は朝倉治部少輔・朝倉掃部助・三段崎六郎・朝倉権守・朝倉土佐守・河合安芸守・青木隼人佐・鳥居与七・窪田将監・託美越後・山崎新左衛門・土佐掃部助・山崎七郎左衛門・山崎肥前守・山崎自林坊・細呂木治部少輔・伊藤九郎兵衛・中村五郎右衛門・中村三郎兵衛・兼松又四郎の討ち取った中村新兵衛・長嶋大乗坊・和田九郎右衛門・和田清左衛門・疋田六郎二郎・小泉四郎右衛門、そして美濃の斎藤龍興や印牧弥六左衛門など多数に及んだ。

 この戦で落城した朝倉方の城塞は、大嶽・焼尾・月ヶ瀬・丁野山・田部山をはじめ、義景本陣の田上山や疋田・敦賀・賎ヶ岳の各城など数多にのぼった。また若狭で織田勢に味方していた粟屋越中の城に対して築かれた十ヶ所の付城にいた兵たちも退散した。----

  その後姉川の戦いを挟んで、天正元年八月十三日朝倉義景は刀禰坂戦いで大敗し兵力の大半を失う。朝倉軍は、織田軍の追撃にあいながら一旦この疋田城に篭るも、一四日早朝よりの猛攻に支えきれず落城し、朝倉氏の滅亡を招いた。この時 疋壇氏の将兵五百余人を始め朝倉軍三千余人が討死したとされる。---

 甫庵太閤記巻第六丹羽五郎左衛門尉長秀志津嶽之城へ籠入事長秀其比は若州并江州之内志賀高嶋両郡を領し、坂本を居城とし有しにより、北国勢を押へん為、勢を分敦賀表(愛発・疋田)に三千、塩津海津に七千賦り置、江北を静めける処に ・・・云々

ここに駐車。

天守台へ

南側の空堀

広場かた天守台

北側の空堀

大手道か?桝形虎口か?

 

虎口から天守台

北側の空堀

大手道?を集落へ 

旧道街道沿い

菩提寺へ 宗昌寺:福井県敦賀市奥野23-11

正面の林の中に疋田氏の墓

参考資料:越前若狭歴史回廊、信長公記、甫庵太閤記

   本日の訪問ありがとうございす!!


吉御子(よしみこ)神社遺構 近江国(石部)

2016年03月19日 | 平山城

お城のデータ

所在地:滋賀県湖南市(旧甲賀郡石部)石部西一丁目  map:http://yahoo.jp/HliH-l

目 標:吉御子神社

区 分:山城

現 状:山林

標高:167m  比高差:37m

遺 構:土塁・土壇・堀

築城期:室町期

築城者:青木氏の詰め城か?

目標地:吉御子神社、石部茶屋、(旧東街道沿い)JR石部駅

駐車場:吉御子神社駐車場

訪城日:2016.1.31

お城の概要

吉御子神社遺構は、吉御子神社の背後の山上にある青木氏の詰め城と推測する。青木氏館から僅か300mの位置し、比高差:37mながら西背後は自然河川で要害。

石部三郷を支配していた青木四家の共有し、東海道の東側の物見や詰め城に活用していた。

お城の歴史

 吉御子神社は奈良時代後期、崇徳天皇の頃に開山された古社。茂った木々に囲まれた本殿は、1865年京都上賀茂神社から移築された江戸時代の建築物で、大正10年に国の重要文化財に指定されています。社宝の吉彦命坐像は藤原時代に作られたもので、厄除け、安産、交通安全の守護神とされています。

 真明寺は、当地の有力武士青木氏を外護者として、慶長二年(1597)に建立された。山号を青木山という。

 当寺の住職俊応が貞享二年(1685)に記した『古過去帳』には「一、真明寺者青木岩崎殿子息青木検校殿之持院也、干時慶長二丁酉年、開基沙門嶺誉蓮幸大徳、一、境内者青木岩崎殿之城跡也、東西二十六間、南北三十二間、歩数合二反七畝二十二歩」と出ている。『甲賀郡志』によれば、『西福寺記録』に慶長二丁酉年建立、大旦那青木検校、青木山真明寺」と出ているという。

 青木岩崎は石部三郷を支配していた青木四家のひとつである。永禄三年(1560)九月一日付の算用状には「青木岩崎左衛門尉」の名が見えている。青木検校の検校とは、彼の場合盲人の官職を指す称ではなく、寺務を監督する職掌としてのそれであり、蓮幸を開基として創設した持庵を旦那として管理していたので青木検校といわれたのであろう。ではその名をなんといったのであろうか

石部三郷 

五重三家の一家である青木氏が支配した石部三郷とは、石部・西寺・東寺の三郷をさす。この三郷については、石部三郷名主中と檜物下荘名主百姓中との用水相論があり、その解決のために、先述した甲賀郡中惣の調停がうかがえるのである。なお用水相論の詳細については、第三節に譲るが、ここでは郡中惣と石部三郷のかかわりについて、述べておきたい。

 郡中惣による裁定は、惣の性格を知る上でも重要な事柄である。なかでも石部三郷の仲裁裁定は、当地域の支配者である青木氏の手にようるものではなく、先述の柏木三家と呼ばれる山中・伴・美濃部の三氏によってなされている。一連の経緯は、『山中文書』に詳述されているが、要約すると次のようなことがうかがえる。

  郡中惣の山中・伴・美濃部三氏が檜物下荘名主百姓に宛てた文書などによると、永禄の初めごろから用水相論がなされていたが、同八年(1565)には、終結を迎えたようで、和解の成立が知られる。具体的には、裁定の結果として、条件や裁定が示されており、それが相当厳しいことから、一連の相論がいかに激しいものであったかを物語っている。例えば制裁の一方法に放火があげられており、名主は二階門もしくは、内門百姓は本人から年齢順に家三十軒と決定されている。家屋放火の制裁は当事者にとって、大きな財産を失うことに等しく、極めて厳しいものであったと思われる。さらにこの相論中に、岩根衆が討死したことが知られており、なおさら和解に向けて、石部三郷と檜物下荘の両者があゆみ寄らねばならなかったことがうかがえる。また、山中・伴・美濃部三氏の仲裁を認めたうえで、「八郷高野惣」も、この裁定に参与しているのである(『甲賀郡志』所収、山本文書永禄八年七月二日)。八郷高野惣の連名には、「身寄中・柑子袋衆・夏見衆・岩根衆」の名前がみられ、先に述べた岩根衆の討死の一件と合わせて、かなりの数の郡中惣の仲裁が必要であったことが知られるのである。

  ともあれ、以上みてきた用水相論は、当事者同士で解決できなかった難題に、郡中惣が仲裁した点において、いかに惣の自治が確立していたかを物語っている。また一方で、彼ら各惣が石部三郷・檜物下荘の在地に発言力を有する足がかりを作ったことも考えられる。なお石部三郷に限っては、当地を支配していた青木氏との関係については、残念ながら今ひとつよくわからないが、同氏にかかわる問題点については、次節に譲りたい。

伊勢路と城館 

伊勢路として利用された古代の東海道は、近江・伊賀・伊勢・大和を結ぶ重要な交通路であった。このため、たびたび戦乱の中に登場することになる。また、軍事上の拠点として多くの城館も築かれた。

 現在知られる甲賀郡の中世城館の位置をみると、野洲川と伊勢路を見おろす丘陵上に多くの城館が築かれている。特に杣川上流部に集中してみられ、(『滋賀県中世城郭分布調査1』)、奈良との結びつきが強かったものと思われる。

 石部平野の北の入り口にあたる甲賀郡と野洲郡の境界付近は野洲川が通る狭隘部をなしている。このためそこを通過する伊勢路を容易に封鎖することができるので、軍事上重要な位置にあった。応仁の乱の際、六角勢掃討の先鋒を務めた浦上則宗が東寺の長寿寺に在陣しているが、これも伊勢路や金勝寺に至る道、ひいては甲賀郡、栗太郡東部を容易に扼することのできる重要地点であったからである。

 また、石部の中世城館である、石部城、青木城および服部氏館すべては、中位段丘面に立地し、伊勢路を見おろす位置をしめている。

 これら中世城館の形態を推察させるものとして、永禄元年(1558)以降に石部三郷と檜物下庄が水論に及んだ際の「今度石部三郷と井水之儀付異見申條々」(『山中文書』)がある。この文書には二階門(外門)・内門などをもった砦や在家への放火に関する文言がみられる。当時この地方には二階門・内門などに囲まれた城館が点在していたとことが知られる。石部三城は、このような形態のものであったと思われる。


 吉川代官と家康の本陣

 戦乱の続いた中世であったが、ようやく豊臣秀吉の天下統一によって国内も安定してきた。石部宿の成立については、「吉御子神社由緒書」に元亀二年(1571)に町として成立したことが述べられているが、詳細は不明である。

 豊臣政権化では、天正十一年(1583)に石部は浅野長政領となった。天正十八年には徳川氏の支配となり、吉川半兵衛が代官として石部に屋敷を構えた。翌十九年に徳川家康は吉川邸の改造を命じ本陣とした。このことは、石部が重要な宿駅としての機能と甲賀郡の徳川支配の中心的役割の両者の性格をもっていたことを示していよう。

 徳川家康はたびたび石部に宿泊している。文禄元年(1592)二月十五日、同年七月二十三日、慶長五年(1600)六月十八日などが記録に残る。しかし、先の本陣は徳川氏専用のものであり、後世における参勤交代にみられる本陣とは性格を異にしていた。

 また、豊臣秀吉は、文禄三年正月、京より清州までの間に駅制を施行した。さらに慶長二年(1597)五月には、長野善光寺の仏がんを京都大仏に遷す時、石部・坂田・栗太の四郡に領地をもつ土豪であった。また、この時の役夫・伝馬は、近江では土山・石部・草津に課せられている。

 慶長六年(1601)家康は大久保長安、彦坂元正らに東海道を巡視させ、伝馬制度を定めた。この時、各宿に「伝馬定」が出され、ここに本格的な完成するに至った。この年石部では、一里塚の設置・同路の拡張・徳川氏専用の宿泊施設である「石部御殿」などが設けられたようである。徳川氏の甲賀郡における領地支配の拠点として、代官吉川半兵衛が屋敷を構えた石部は、徳川氏の庇護を受け、徐々に宿駅の機能をととのえ、1500年代後半には近世の石部宿の骨格をもつに至った。

遠景

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、中世の石部

 本日の訪問ありがとうございす!!


池之脇城   近江国(永源寺)

2016年01月30日 | 平山城

お城のデータ

所在地 : 東近江市(旧神崎郡)永源寺町池之脇 map:http://yahoo.jp/AYKQ0o

区 分:山城

標 高:280m 比高差:60m  

築城期:戦国期

築城者:

遺 構:堀切、横堀、土橋、土塁、竪堀

訪城日:2016.1.5・2016.1.9

お城の概要

現長寿寺の南およそ150mの山頂部を山城が占め、東側の山腹に元亀年間の兵火により消失したとされる東大寺末の荘厳寺支院「長寿寺」跡が残っている。
山頂の山城は、主郭が変形した長方形で、背後を大きく堀切った単郭式である。比高差およそ2.5mの切岸の裾には巾およそ1.5m、深さ0.5~0.6mの形式だけの横堀が断続的に巡っている。比高も小さく、外周には土塁もなく、見張り台的な機能を担ったと思われる。

遺構A

主郭部

南側の低土塁

堀切

歴 史

寺院付属の城郭である。横堀の存在から永禄11年(1568)の織田信長の近江侵攻に応じて築かれたと考えられている。

 

遺構B

現長寿寺(池乃脇集落)の、南およそ400mの山頂部を山城が占め、東側の山腹に元亀年間の兵火により消失したとされる東大寺末の荘厳寺支院「長寿寺」跡が残っている。

 城址は、ハイキングコースコース・山麓を大型重機で削られ尾根筋は、大きく破壊されしまった。その他は、何とか遺構が残存している。

 山頂の主郭が変形した長方形で、背後を大きく堀切った単郭式である。比高差およそ2.5mの切岸の裾には巾およそ1.5m、深さ0.5~0.6mの形式だけの横堀が断続的に巡っている。比高も小さく、外周には土塁もなく、見張り台的な機能を担ったと思われる。

池乃脇集落の南に向かって70m程の所に「ひつじ公園」がある。さらに道なり進むろ営農倉庫があり、その左手の東側280mの尾根上のピークが城跡。

 

ここに駐車

長寿寺: 滋賀県東近江市池之脇420

 応仁の乱が治まった文明9年(1477)には佐々木高頼による寺領の安堵書が残されている。

 その後戦国期に信長の兵火により寺坊ことごとく灰燼に帰したが、江戸時代に入り、現在地に残された萬寶院を秀圓法印により、万治2年(1659)に再建された。現在の本堂は明和4年(1767)に改築され、内陣に円柱を建て須弥檀を構えた中古の形式を持ち、祀られている仏像の多くが羅災のあとを残す、本尊観世音菩薩は、平安中期の作で、県文化財に指定されている。 内

また、赤穂神宮寺の僧俊惠が在住したことから、赤穂四十七士にまつわる「大石内蔵助」の書翰や関係文書が残されている
平安時代悲劇の主人公文徳天皇の皇子惟喬親王にまつわることや、僧俊惠と近江商人松居久治郎の逸話を残す寺である。

 長寿寺は東近江市池之脇町にある天台宗寺院です。その謂れにつきましては、『永源寺町史 通史編』に「長寿寺の開基は聖徳太子とされ、慈覚大師円仁が中興し、現在の寺地より五〇〇メートルほど離れた本堂谷付近に伽藍を築いたが、元亀・天正年間(1570~92)の兵火で焼失後衰退したと伝えられている。」とあります。

 また、明治42年(1909)に田中長八が記した「高木風土記」(田中滋家所蔵)には、長寿寺は天平九年(737)に高木に建立された荘厳院の末寺であり、16世紀末の戦乱で荘厳院が焼失した際に残った僧坊の1つが長寿寺であると記載されています。

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』、淡海の城、

      本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


彦根城の外堀探検隊  近江国(彦根)

2015年12月18日 | 平山城

彦根城の外堀探検会に参加しました。

彦根城外堀探検会 2012.12.21

彦根市民会館集合

出発式・・・参加社約100名

  江戸時代、徳川譜代大名筆頭格として知られる彦根藩主井伊家歴代の居城として営まれた近世城跡。一六〇四年に築城が始まり、約二十年かけて完成した。今回、城跡の南東部に位置する外堀の一角、土塁が良好に遺存する地点が追加指定されるもの。
 市教育委員会によると、彦根城の外堀は一六一五~二二年の第二期工事後半に完成したと考えられ、総延長は三・八キロ。
 このうち今回、追加指定されるのは、土塁が良好に保存された同市錦町、中央町一帯の約千三百平方メートル。
 明治維新後、埋め立てが進む中、土塁と堀が認識できる唯一の遺構だった。
 市教委の今年三月末から七月にかけての発掘調査で、高さ五・五メートル、上端幅四メートル、下端幅十七メートルの台形状の土塁が二十三メートルにわたって存在していることが判明し、市教委は文化庁に報告書を申請していた。
 彦根城跡は昭和三十一年(一九五六年)に特別史跡に指定後、初の追加指定で、外堀の指定も初めてである。

外堀切通口御門

商工会議所前の植え込みの中の油懸口御門

 

市営駐車場の北側に外堀の土塁が残っていた!

今回の「城跡南東部の外堀の土塁が良好に遺存する」一角(山の湯の浦庭)を見学

外堀の外側石垣の一部

隣の私有地に外堀遺構が残っていた!

山の湯(銭湯)

高宮口御門

 アーバン銀行(元びわこ銀行)

本町口の碑(正しくは池洲口)碑の裏(彦根史談会)

当日の資料

~~探検会はここまで

 

彦根城を通って戻る

佐和山城からの移築門

彦根城大手門~

京橋口の砕石ノミ跡

京橋口の説明板

石塁(石垣)の上から城内・中堀・横矢

家老長野伊豆屋敷彦根東高校

内堀大手口

内堀で、食事中!

佐和口御門中堀の向こうに佐和山城が

いろは松井伊直弼公の句碑

外堀

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彦根城、全体の保護へ前進 外堀跡一部、特別史跡指定へ

特別史跡に追加指定された外堀土塁の一部=4月、彦根市内で(市提供)

 文化審議会が二十日、史跡や天然記念物に指定するよう馳浩文部科学相に答申した中に、特別史跡の追加指定として彦根城外堀跡(彦根市)の一部が盛り込まれた。天守や石垣など中堀より内側の遺構はすでに特別史跡に指定されており、関係者は「本来の城としての価値が見いだせる」と喜んでいる。

 彦根城は一六〇四年に築城が始まり、約二十年かけて完成した近世城郭。一九五一(昭和二十六)年に金亀(こんき)町など約四十八万八千平方メートルが史跡となり、五六年に特別史跡にランクアップした。

 市によると、今回の追加指定の対象は錦町と中央町にまたがる外堀最南端の約千三百平方メートル。明治維新後、埋め立てが進む中、土塁と堀が認識できる唯一の遺構だった。

 今年三月末から七月にかけての発掘調査で、高さ五・五メートル、上端幅四メートル、下端幅十七メートルの台形状の土塁が二十三メートルにわたって存在していることが判明し、文化庁に報告書を申請した。

 市教委文化財課の担当者は「城というと一般的に天守周辺が注目されがちだが、本来の城構えは外堀から内側全体で意味をなす。今回、外堀の一部でも指定されたことで城の全体像を把握することにつながる」と話す。

 追加指定を前に、市は今月、外堀跡全体を「埋蔵文化財包蔵地」と決めた。今後は開発の際に届け出が必要となり、外堀遺構の確認が進むことも期待される。十二月十九日には外堀跡を巡る「彦根城外堀探検隊」も催し、市民の理解を図っていきたい考えだ。

 大久保貴市長は「三重の堀に囲まれた広大な彦根城全体の保護に向けて大きく前進した。市民の皆さんとともに、文化財の保護と活用を図り、まちづくりに生かしたい」とのコメントを発表した。

 

史跡追加指定へ=

今回の追加指定対象地(外堀に伴う土塁断面を発掘調査する状況、今年4月)

◇彦根   滋賀報知新聞4■平成27年12月6日(日) 第17365号
 国の文化審議会はこのほど、特別史跡彦根城跡(彦根市)に、城跡南東部の外堀の土塁が良好に遺存する一角を追加指定するよう馳浩文部科学相に答申した。今回の追加指定により、県内の史跡は四十七件となる。
 江戸時代、徳川譜代大名筆頭格として知られる彦根藩主井伊家歴代の居城として営まれた近世城跡。一六〇四年に築城が始まり、約二十年かけて完成した。今回、城跡の南東部に位置する外堀の一角、土塁が良好に遺存する地点が追加指定されるもの。
 市教育委員会によると、彦根城の外堀は一六一五~二二年の第二期工事後半に完成したと考えられ、総延長は三・八キロ。
 このうち今回、追加指定されるのは、土塁が良好に保存された同市錦町、中央町一帯の約千三百平方メートル。
 明治維新後、埋め立てが進む中、土塁と堀が認識できる唯一の遺構だった。
 市教委の今年三月末から七月にかけての発掘調査で、高さ五・五メートル、上端幅四メートル、下端幅十七メートルの台形状の土塁が二十三メートルにわたって存在していることが判明し、市教委は文化庁に報告書を申請していた。
 彦根城跡は昭和三十一年(一九五六年)に特別史跡に指定後、初の追加指定で、外堀の指定も初めてである。


塩津城山城(塩津城)  近江国(西浅井)

2015年12月07日 | 平山城

北からの塩津城山城(遠景)

お城のデータ

所在地:長浜市西浅井町塩津浜(旧・伊香郡) map:http://yahoo.jp/Pswb_U

別 名:塩津城

区 分:平山城

標 高:108.5m   比交差30m

築城年:鎌倉期

築城者:熊谷兵庫直高 

城 主: 熊谷兵庫直高が居城きた

遺  構 : 土塁、堀、二重堀切、曲郭、櫓台

目標地:「道の駅 塩津海道 あぢかまの里」の東、小丘陵

訪城日:2015.6.27・2015.12.6

 

 

お城のデータ

琵琶湖では古代から湖上交通が盛んに利用 され、湖北三湊といわれた塩津・大浦・海津の湊が発達していた。

このうち塩津と敦賀を 結ぶ深坂越えの塩津道が最も古い陸路であったと考えられており、塩津浜は水陸交通の要所の地であった。

塩津城山城は、塩津浜の集落と北隣の集落の祝山(ほおりやま)との間にあり、東から西へ突き出した尾根の先端部を掘り切って独立した山塊とし、その山上に築かれたのが塩津城山城である。

東側は堀切、大きく掘り下げられて塩津浜と祝山を結ぶ、旧塩津街道(城坂道)が通されている。

 その堀切は外堀切と箱堀(内堀)の二重堀切。この間が東郭で郭内は二段に築成されている。

箱堀の西側が主郭で、箱堀沿いには多聞櫓が構えられるような幅の広い土塁が築かれている。主郭の西側に急な切岸の二段の段郭が続いている。主郭と箱堀の南側と北側に跨って帯郭が設けられている。城の周囲は、急斜面の高低差の大きい切岸となっている。

 登城口が旧塩津街道から、堀切の南端から獣除けフェンスを越えて城跡に入ったが、城正面(西側)に作業小屋があり、登り口がある。が当時は、湿地・湿田であったようである

登城口が旧塩津街道から、堀切の南端から獣除けフェンスを越えて城跡に入ったが

副曲郭の石垣カ?

箱堀へ

箱掘りから、主郭へ

櫓台

北側の腰曲郭(周囲には腰郭が配されている。

歴 史

琵琶湖では古代から湖上交通が盛んに利用 され、湖北三湊といわれた塩津・大浦・海津の湊が発達していた。このうち塩津と敦賀を 結ぶ深坂越えの塩津道が最も古い陸路であったと考えられており、塩津浜は水陸交通の要所の地であった。

塩津街道と塩津港の警護の役割を担っていたのか!

平安時代末期(12世紀)の塩津港

関東・武蔵の熊谷から地頭として永仁の頃(鎌倉期)に補任してきた熊谷氏の居城と云われるが、城歴の詳細は不明である。

この熊谷氏は、熊谷直実の兄直正系の支流で、直正より五代目の直朝の時に「江州塩津熊谷衆、此筋也」と『熊谷系図』に注記されているようである。

追記

「淡海温故」に「此コト所記ニ出ヅ其後京極ノ屋形道清撛愍アリテ召抱ラレ本領ヲ安堵シ代々京極家ニアリ後ハ浅井に属ス明徳ノ比ハ備中守直鎮ト云天下ニ三熊谷ト云ハ安芸ノ熊谷若狭ノ熊谷当国塩津ノ熊谷也其中塩津ヲ嫡トス又当国ニテ三熊谷ト云ハ今西ノ熊谷南濱ノ熊谷塩津ノ熊谷是也塩津ノ兵庫介直昌息主殿介今西ノ弥次郎直光(後改内蔵介)息忠兵衛南濱の連大坊息新次郎信直(後改志摩守)此三家の内何カレ熊谷大膳ト云モノは秀吉公ニ出テ立身シ関白秀次公ニ附けラレ切腹ス塩津外記三代ハ同名ニシテ続ケリコレモ熊谷氏ナルヤ或人曰代々塩津ニ住スル故ニ塩津トモ云ト也天正ノ始メ此塩津外記信長公ヘ出テ安土ニテ病死スルカ桑実寺正覚院に墓誌石塔アリ此流京極丹後守高国ノ家老ナリシガ郎人ノ後知レス」とある。

マムシ草の実

 

 

参考資料: 滋賀県中世城郭分布調査・ウィキペディア(Wikipedia)、淡海の城

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追記

 

  参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、見学会の資料

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石山城 近江国(大津)

2015年11月20日 | 平山城

お城のデータ

所在地:大津市石山寺2丁目周辺 map:http://yahoo.jp/Wh2t1Cこの地図のURL

区 分:平山城(山麓)

現 状:宅地・森林

遺 構:築城途中の土塁

築城期:織豊期

築城者:山岡景友(山岡光浄院)

城 主:須佐美氏の城。

標 高:140m  石段下より比高差20m

目標地:

駐車場:路上駐車

訪城日:2015.11.19

お城の概要

旧NEC寮周辺が城址とされ、NEC寮・遺構もないが(しかし、北側の山林に作事中と思われる土塁・平削地・基壇が残る)、昔から通称「ふるしろ」とされ「古城」が転訛したものと伝わる。

現在地元で城跡と伝えられている場所は、石山寺二丁目の関西日本電気石山寮の建つ地である。 
石山寺の山門の左手から南へのびる細い旧道を進むと、右手に西蓮寺がみえる。そこを右に折れると、京都の醍醐へ抜ける道があり、曲がり角には、天明五年(1875)建立の、岩間道・宇治道を示す道標もたっている。
城跡とされる石山寮は、その角にある西蓮寺の背後の台地上に建っている。関西日本電気石山寮も 取り壊され、新しい宅地に変貌している。

石山の地には山岡氏・須佐美氏・財川氏の三つの城(砦)があったと伝えられるが、石山寮の地は、地元では須佐美氏の城と伝えられているようだ。

「石山寺霊迹集」には、須佐美氏の城跡の位置は明記されていない。現在、石山寮の地付近には、かつての城跡を思わせる痕跡は残されていない。

しかし、そこから少しのぼって墓地の高みに立つと、南東方向に瀬田川と対岸に大日山が見え、真南には平津城跡とされる滋賀大学教育学部のある台地が一望できる。

 

また

踏査:作図:長谷川博美氏(城郭研究家)羅漢山の中腹に石山砦 近江国(大津)未完成の砦が残る。大津市石山寺1丁目 map:http://yahoo.jp/hxqx-9

 

石山の伽羅山の中腹(標高190m)の山城、作事中で中断・・・完成せず

 

石山城についてあまり資料も少なく、石碑などの有りません。石山寺の一部を利用した城と考えられます。

 

歴 史

『日本城郭体系 11』によりますと、所在地は「大津市石山寺一丁目」、創建者は「山岡資広」、形式は「山城」です。

城の歴史は「石山城は、瀬田城主山岡氏が営んだものと伝えられている。その創建は、「山岡系図」(『寛政重修諸家譜』『近江栗太郡志』)によれば、

 瀬田城主山岡資広(すけひろ)(1442年没)が、隠居して瀬田城を嫡男景長にゆずり、石山の古城を修築して移り住んだことに始まるという。

 なお、この資広は剃髪して光浄院と号したといい、三井寺の光浄院は彼の再興によるものだということである。以後、瀬田城主山岡氏の砦の一つとして、天正年間(1572~92)まで続いたようだ。

「山岡系図」では、最後の城主は山岡景猶(かげなお)(玉林斎)で、天正十年七月、本能寺の変の際、兄の瀬田城主山岡景隆と共に明智光秀に抗し、瀬田落城と共に石山城も焼失したと伝えられる。

『信長公記』に石山築城のことがみえる。天正元年二月、「山岡光浄院」(景猶の弟景友、法号暹慶(せんけい))が、将軍足利義昭の誘いで反織田信長の兵を挙げ、石山に城を築いて、伊賀・甲賀衆を率いて籠もった。しかし、普請半ばにして、信長の重臣丹羽長秀・明智光秀らに攻め落とされ、城は破却されている。この後者の城の位置について、

『近江輿地志略』は、瀬田川の西岸の伽藍山(がらんやま)の東麓にある石山寺(石山寺一丁目)にあったと記している。

一方、『近江国滋賀郡誌』ではこれを寺辺村(石山寺一-二丁目、大平一-二丁目)南部の山上の財川(たからがわ)佐渡守(石山寺の公文所)の砦跡を修繕したものであるとしているから、この説では多羅(たら)川(旧、財川)上流の大平山(大平一-二丁目、石山団地付近)となる。なお、

『近江国滋賀郡誌』によれば、同地には空堀が方二町ばかりにわたって残っていたという。」とあります。

 

瀬田川の対岸から(遠望)

  石山寺の創立は、747年(天平19年)東大寺大仏造立のための黄金の不足を愁えた聖武天皇が、ここに伽藍を建てて如意輪法を修すようにとの夢告を受け、良弁僧正を開基として開かれた寺院です。また、本尊の秘仏如意輪観音像は、安産、厄除け、縁結び、福徳などに霊験あらたかな仏さまとして信仰を集めています。

 石山寺は奈良時代から観音の霊地とされ、平安時代になって観音信仰が盛んになると、朝廷や摂関貴族と結びついて高い地位を占めるとともに、多くの庶民の崇敬をも集めました。その後も、源頼朝、足利尊氏、淀殿などの後援を受けるとともに、西国三十三所観音霊場として著名となり現在まで栄華を保っています。
この寺は珍しく戦火に遭わなかっため多数の建設物・書物などの文化財が現存しています。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、信長公記、大津の城跡、大津のかんきょう宝箱、ウィキペディア

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西山城(城山城) 近江国(山東)

2015年10月13日 | 平山城

山上『城山城址』碑

西山城(城山城) 西山 

お城のデータ

別 称:城山城、源氏山遺構

所在地:米原市(旧:坂田郡山東町)西山 maphttp://yahoo.jp/4ZDciX

区 分:平山城 

標 高:221m 比高差:70m 

現 状:山林・宅地・山頂(城山城) 

築城期:室町期

築城者:大原氏

遺 構:土塁・廓、城址碑 、堀(現用水路)

目標地:源氏山・長恩寺・八幡神社、西山会館

駐車場:西山会館の駐車場に

訪城日:2015.10.12

 米原市(旧山東町)西山八幡神社。

小さな神社ですが石段の両脇に杉の大木が17本並んで、樹齢400年超、幹回り5m超。豊臣秀吉が長浜城主の頃から武神であったこの八幡神社を崇敬していて、後大阪城に­移り安産祈願して居たところ無事秀頼が誕生したお礼にと薩摩より杉の苗木を取り寄せて­植えたと伝えられています。

八幡神社より登山道が整備

頂部の『城山城址』・・公園化され『城石碑』のみ・・・物見櫓址か、

10m×10m平削地に「源氏山ふれあいの里」の吾妻家が立つ。

山頂(城山城址)からは北国脇往還道・東山道共に江濃境目を見張ることが出来る。

お城の概要

西山集落は、城山城(西山城)の城下町か、

源氏山の山麓にある八幡神社に秀吉が植えさせたという杉並木は見事である。

西山城は別称源氏山と呼ばれ、佐々木信綱により息子重綱に分与された大原荘の最南端に位置する

山頂(城山城址)からは北国脇往還道・東山道共に江濃境目を見張ることが出来、南東中腹には20m×10mの舌状郭(源氏山公園)が付加されている。舌状郭の南面には竪堀状の遺構が見られる。

登山道の整備工事を行っている最中で、山肌の殆どが切削・加工工事されてしまい往時の遺構は殆ど残っていない。

宇多源氏の一派近江源氏佐々木氏流。源氏山と呼ばれる由来は、佐々木源氏(佐々木信綱により息子重綱大原)

 

集落内は、

 

 

 

歴 史

 大原氏は、宇多源氏の一派近江源氏佐々木氏流。

佐々木信綱の庶長子大原重綱を祖とする。近江国坂田郡大原庄より発祥。 

  鎌倉時代には佐々木宗家を継承した弟の佐々木(六角)泰綱と領地争いをした記録が残る

佐々木氏の長男系という血筋の良さから格式は高く、室町時代には足利将軍の奉公衆になっている。 

 戦国時代の大原政重を最後に血統が絶え、同じ佐々木一族の近江守護六角氏から迎えた養子高保が将軍足利義晴・義輝父子に仕えた。さらに六角氏から養子が入った賢永(高賢)が慶長6年(1601年)に死ぬと大原氏は断絶した

 西山会館の駐車場に

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

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水口岡山城 三の丸に虎口跡

2015年04月17日 | 平山城

甲賀市教育委員会が下記のとおり水口岡山城跡の現地説明会を実施します。

●水口岡山城跡第3次発掘調査現地説明会〜伝本丸南側斜面と伝三の丸虎口の調査〜
日時 平成27年4月19日(日)
   13時30分〜15時
    ※時間中は随時、説明を行います。 
現地説明会開催情報のURL http://www.city.koka.lg.jp/item/14213.htm#ContentPane

発掘現場は山中ですので、見学の際には服装や履物にご注意ください。
  当日は、水口小学校グランドを臨時駐車場とします。
  ※場所についてはこちらの地図を参照してください。 ⇒ 地図

問い合わせ先
 甲賀市教育委員会事務局
   歴史文化財課 埋蔵文化財係
  TEL 0748-86-8026 FAX 0748-86-8216

所在地/〒520-3393甲賀市甲南町野田810番地

三の丸に虎口跡確認 滋賀・水口岡山城跡「居住空間か」

見つかった「虎口」跡。職員の立つ位置は城門の柱を支える礎石で、間口が約4・5メートルある(甲賀市水口町・水口岡山城跡)

 滋賀県甲賀市教委は16日、同市水口町の古城山(標高282メートル)山頂の水口岡山城跡で、三の丸の出入り口にあたる「虎口(こぐち)」跡や、虎口内に城門の存在を示す柱の土台の礎石を見つけたと発表した。虎口は軍事的性格が弱い構造で「三の丸が居住空間だった可能性がある」としている。

 水口岡山城は、豊臣秀吉の重臣中村一氏が1585年に築城したが、3代目城主の長束正家が関ケ原の戦い(1600年)で西軍に属して敗れ、廃城となった。徳川勢によって徹底的に壊され、史料も少なく、城の全容はわかっていない。

 今回、江戸期の絵図に三の丸と示された山頂東側を調べて虎口跡を発見した。踊り場状の平地を挟んで上下を石階段にしており、高低差が約4メートル、幅が約6メートル。階段は上下とも石が2~3個残り、下は5段あることが確認できた。平地には、城門の扉の柱を支える礎石が見つかり、二つの礎石の間口は約4・5メートルあった。

 市教委によると、虎口跡は入り口から三の丸へ向かって直進できる「平入り」の構造だったと推定される。「平入り虎口は防御性に劣り、軍事的性格は弱い。一方で礎石の間口から城門は立派なつくりとみられ、儀礼的な意味合いで構えられた可能性がある」と説明している。

 現地説明会は4月19日午後1時半から開かれる。

        京都新聞記事

 

水口岡山城、戦乱の世から華麗によみがえる 滋賀・甲賀

 

巨大バルーンで山頂に再現された水口岡山城(甲賀市水口町)
巨大バルーンで山頂に再現された水口岡山城(甲賀市水口町)

 

 滋賀県甲賀市水口町の古城山(282メートル)に築かれ、関ケ原の戦いの後に廃城となった水口岡山城を再現するイベント「よみがえれ水口岡山城」が17日始まり、山頂に天守を再現した巨大バルーンが姿を見せた。

 

 イベントは昨年に続き2回目。巨大バルーンは高さ11メートル、幅と奥行きがそれぞれ8メートルの3層構造で、市民有志の「水口岡山城の会」が作った。高さ3メートルの足場を組んで設営し、南西の麓の市街地から望める。20日まで午前10時~午後9時に設営され、日没後はライトアップされる。

 

 今年は期間中にバルーンを撮影する写真コンテストも行い、市教委が現地で実施している発掘調査区域の公開もある。問い合わせは同会TEL070(5509)4646。

 


佐和山城の石垣、彦根城に再利用 井伊家、豊臣との戦いに備え

2015年03月16日 | 平山城

佐和山城の石垣、彦根城に再利用 井伊家、豊臣との戦いに備え

佐和山城の石垣を再利用したことが分かった鐘の丸西面の石垣(彦根市金亀町・彦根城)

 滋賀県彦根市教育委員会は12日、徳川家重臣だった井伊家の居城で特別史跡・彦根城(同市金亀町)から、石田三成の居城で関ケ原合戦で落城した佐和山城(同市佐和山町)で使われていた石垣と瓦片を確認した、と発表した。佐和山城の石垣を利用したことは江戸中期に書かれた井伊家文書「井伊年譜」に記述があるが、実際に発見されたのは初めて。市教委は、豊臣家との戦いに備え、築城を急ぐため再利用したのではないか、としている。

 佐和山城は、彦根城の東約2キロにあり、三成が1600(慶長5)年に西軍を率いて関ケ原合戦で敗れたあと、徳川家康の重鎮井伊直政(なおまさ)が城主となり、04(慶長9)年の彦根城築城開始に伴い廃城となった。

 城が築かれた佐和山(232メートル)の地盤には青みがかったチャート(堆積岩の一種)が含まれている。本丸跡にわずかに残る石垣にもチャートが確認された。こうした石垣は彦根城でこれまで確認されず、佐和山城の石垣はどこにいったのか謎とされていた。

 今回見つかった石垣は、彦根城大手門跡に近い「鐘の丸」西面で確認された鐘の丸は城内で最初に完成した曲輪(くるわ)で初代城主の直継が最初に住んだ建物があったと伝わる。石垣も築城当初に造られ、一度も修理されていない。

 確認された石垣には、チャートと湖東流紋岩という2種類の石が混在しているが、県内の城でチャートの石垣は佐和山城だけで、石材を移して再利用したと断定した。高さ約7メートル、長さ約30メートルにわたり組まれ、大きい石では縦約60センチ、横約120センチあった。

 瓦片は、「太鼓丸」東側の石垣内側から出土。手のひら大の丸瓦や平瓦などがあり、栗石の代わりに詰められていたとみられる。このうち軒平瓦片に、佐和山城跡から出土したものと同じ文様「一巻き均整唐草文」があった。同文様は県内では佐和山城跡でしか見つかっておらず、佐和山城で使われていたと推定できる「二重の均整唐草文」も出土した。「二重の均整唐草文」は伏見城から金箔(きんぱく)瓦として出土しているという。

 中井均滋賀県立大教授(城郭史)は「佐和山城から彦根城へ移築したとの文献は江戸中期の記述なので内容に疑問もあったが、考古学的に移築が立証できたことは価値がある」と話す。

 13日から彦根城の開国記念館で出土した瓦片の展示を行う。

~京都新聞記事~

「平成26年度彦根城石垣探検隊」当日配布資料


布施山城 近江国(八日市)

2014年10月27日 | 平山城

布施山城 現地見学会
日 時   20141026日(日)受付9:30 見学10:0013:00
内 容   「布施三河守居城遺構見学会」                                                                         講 師   長谷川博美氏 (米原文化協会教養部会部長) 
集合場所 滋賀県東近江市布施町 布施公園 観知溜館(みちるかん)
参加費  1000円 資料・図面付き
定 員   約20名(要申込)
主 催   城歩会

 参加者受付

布施山城・新しく確認された「山麓屋敷」の登城前に、大型踏査概要図で説明

お城のデータ 

所在地:東近江市布施      map:http://yahoo.jp/moidND

現 状:森林

区 分:平山城

築城期:南北朝期

築城者:布施氏

城 主:布施三河守

標高241m 比高差130mの里山は、城郭調査委員の再踏査で堅牢な城郭であった!

遺 構:土塁・竪堀・畝状竪堀・埋め門の石、

   新確認:西曲郭、山麓館(30間×7間・石垣 高さ1.5間×幅3間・庭石)

戦 い: 三雲氏(六角氏) VS 布施氏・大塚氏・(京極氏)

     〇 柴田氏(織田軍) VS ● 布施氏

目標地:布施山・布施ため池・布施公園・布施公園観知瑠館

駐車場:布施公園観知瑠館駐車場

訪城日:2014.10.26

お城の概要

布施山城は、¬字状の小さな独立山系の布施山山頂に築かれた城です。城のある峰は見事な円錐形をしており、よく目立ちます。城跡へは、布施溜池西岸付近から登ることができます。登山口を入ってまもなく、立派な石祠のある大きな塚山に出くわします。城へは塚山南側を登るのですが、その道は、塚山と布施山の山裾に挟まれた堀底道のようになっています。ここに城戸などを設け、塚山に番所や櫓などを構えれば、城の第一の防衛ラインとなるように思われます。また、塚山の下を回るように堀底道が延びており、北側の布施池から流れ出る小沢へと続いています。この沢を渡って直進すると、布施氏の平時の居館があったとされる布施集落に行きつくため、こちらが大手道だったのではないかと推測されます。

塚山(古墳)を越えてからは、2014年市辺コミティセンターの里山整備で城道の解り易くなり、主城域直下の二の曲郭まで大手道主城域は、大きく主郭と副郭の2つの曲輪から成っていました。いずれも、周りを囲む土塁が残っています。主郭虎口はくぐり門の大石材が散乱しています。

 かつては帆立貝式古墳で石囲いの埋門だった。虎口下に転がっている最も大きな平たい石は、その埋門の天板に使われていたもの。主郭の副郭側以外の斜面には多数の竪堀が残存。全体として、規模は大きくはないが、堅牢構造をもつ城。淡路守家の布施公雄の子公保の妻は蒲生賢秀の娘といわれ、観音寺騒動の発端となった後藤氏の居館は布施山城の西2㎞弱のところにあります。布施氏も、六角家中においてはこの両家に勝るとも劣らない勢力をもっていた。





歴 史

 六角家臣布施氏の居城とされる。布施氏の出自は詳らかでないが、戦国期には三河守家と淡路守家の2家に分かれ、前者は布施山城を、後者は大森城を居城としていたとされる。布施の地を領していた三河守家が本家で、布施氏の勢力拡大とともに淡路守家が分かれたものと推測されている。

 永禄六年(1563)、後藤賢豊・壱岐守父子が観音寺城内で主君六角義治に殺害されると、家臣の間で六角氏に対する不満が噴出し、六角義賢・義治父子は観音寺城を追われた。

布施淡路守公雄も浅井氏と通じ、布施山城に籠城した。布施山城主である布施三河守も同調した。布施山城は三雲賢持らに攻められたが、      六角父子は蒲生定秀・賢秀父子の調停により観音寺城へ復帰することができたが、代償として六角氏の権限を大きく制限する「六角氏式目」が制定された。

永禄十一年(1568)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛の軍を興すと、三河守は布施山城に籠城したとされる。観音寺城や長光寺城が落城と、く布施山城も攻め落とされた。

三河守は、『信長公記』に六角家の「真鳥羽根付き節無しの矢軸」という名宝を探し出して信長に献上したとする記述があることから、落城後は織田家に仕えた。布施山城は、落城によって廃城となった。

 永禄6年(1563年)、六角氏の筆頭家臣であった後藤賢豊が暗殺された。

世にいう観音寺騒動である。この騒動で六角を離れ浅井に仕官した者も多く、六角氏の改革失敗が決定的になった。同年、長政の美濃遠征中にその留守を狙い六角氏が軍を動かしたため、長政は軍を反転させて六角軍を撃破した。殿(しんがり)を守らせた赤尾清綱は、わずか500の兵で見事な働きを見せた。

新しく確認された「山麓館」へ

 

今回は布施山城の、新しく確認された「石垣」&「山麓館」を先に見学。
登山道を入り、すぐに左に道を進むと、苔の覆われた石垣があり、幅3間×高さ1.5間。その上は平内屋敷。石垣は、自然石を積み重ねたようで、布施山城が作事当時のもの。石垣の下には、水吐け溝もあり。

新規に、宮本女史(城郭探訪家)に発見された石垣(踏査補助)新発見の石垣前一枚!

そこから更に左へ行くと、石が幾つも転がった平坦なところがあります。長谷川講師の話では、「山麓居館」では!

そして、その石は庭石でと推測されてます。

「信長、秀吉、光秀」とも交流のあった連歌師:里村紹巴の文献資料『紹巴富士見道記』に永禄10年2月19日「布施山の城の麓にて」と書かれていると。
その場所が「山麓館」の可能性あり、450年もの
昔、布施出羽守が有名な歌人と布施の池を眺めながら、楽しんだ山麓館。

石垣と布施の池が、布施出羽守の栄華を知っている!

 ルート図:「近江ノ国_米ちゃん」の拝借

http://84630803.at.webry.info/201410/article_12.html

 

【近江にをかしき歌枕 老曾 轟 蒲生野布施の池・・・新羅が建てたり持仏堂の金柱宮】map:http://yahoo.jp/llZyIf

     小脇山城の直下の山麓の「金柱宮跡説明板」map:http://yahoo.jp/llZyIf

 

 

 

山麓館へ

城守も山麓館をしっかり監視!

山麓館の庭石

安井平内屋敷(最初の削平地)

近世の西山麓の砂防石垣近世の砂防石垣二ノ曲郭大手虎口主郭へ主郭の西側土塁主郭で「曲郭の基壇」をしゃがんで確認

主郭南側土塁と南虎口

南虎口には、蔀池(敵が城へ入ってきたの落とし穴)がある。

二等三角点から、講師の再踏査確認された「西曲郭」へ講師の再踏査で、確認された「西曲郭尾根(土橋状)の左右に大きな竪堀、東側の竪堀は厳しく。

 

主郭の搦め手下の畝状竪堀へ

二の曲郭へ戻り、虎口から下山していきました。

下城途中には、道からはずれて竪堀を確認。又、幾つもの曲郭あり、多くの家臣(城守)たちの屋敷跡カ?

ノミ跡の残る、大手道の最初大石。に下城!

登城口の城守様のお邪魔・下山の拝礼して・・・

観知瑠館で記念撮影

右端が踏査補助・城郭探訪家宮本女史。

その後、昼食・・・午後の講座へ

布施山城見学会と講座風景。

本日の感想

講師長谷川氏の城郭見学は、自ら踏査をしているから、城郭内を登ったり、下ったり!

参加者:20を越える見学会に参加しての変化。参加者は資料と現地の確認・撮影に夢中、見て学ぶ!

本日の歩行距離 4.0km  歩数 5338歩  実歩行時間 1:08

    消費カロリー  17.7kcal     脂肪燃焼量 2.5g

             本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝


海津(海津西内・海津東)城   近江国(高島・マキノ)

2014年06月29日 | 平山城

 

  校門前の舟溜り

お城のデータ

別名 海津西内城・海津東内城 

所在地:高島市(旧高島郡)マキノ海津町 map:http://yahoo.jp/nFUjfz

目標地:マキノ東小学校

区 分:平城  

標 高:97m 比高差:0m

現 状:小学校・宅地・田畑

遺構等:堀、石垣

築城期:戦国期

築城者:海津氏

訪城日:2014.6.28

お城の概要

 現在の大字海津のほぼ中央に位置する、小字西内にあるマキノ東小学校付近が海津城であった。明治期頃までは小学校の東側には大きな中島があり、内湖と琵琶湖を結ぶ2つの水路の合流点が、現在の校門前の舟溜りとして残っている。

 戦国期は海津城、江戸時代には代官所があり、海津地区の中心であったこの地に、現在では城遺構は見られない。ただ町並みの随所に、枡形のような巧みな地形が見うけられる。

 海津城は西内城と東内城と二つの城域がありますが、海津城というと西内城の事になる。西内城は現在は小学校敷地となっていて遺構は残っていませんが、堀跡は、舟入のクランク状の水路と石垣(江戸期の)、校門の前に土塁痕の様に土壇があり、往時の雰囲気があります。

 東内城は宅地・田畑に。集落の裏手の田畑(集落と国道の間)にポツンと祠があります。

湧水池

歴 史

 海津城は、『浅井三代記』には海津政元の居城であったと伝える。この政元の出自は田屋氏で、のちに浅井氏に入った浅井明政を指す。
(西内城):田屋氏一族の海津政元の居城。

古文書『菅浦文書』に、                                                                                                 年未詳11月2日 浅井直房書状「海津滞留」。天文15年7月1日 蓮花会入目日記「大和守(浅井政信)殿かい津らつきやう(落居)。天文15年7且3日 蓮花会入目日記「かい津らつきやう(落居)いし面」。年未詳5月19日 清水吉清書状「海津」。年月未詳21日 浅井井伴書状「かいづへ米を甘石遣度候」。とあり。

海津氏は田屋氏と同様に浅井氏に従い、元亀元年(1570年)から天正元年(1573年)の間に織田氏に攻められて落城したと考えられます。

江戸初期(慶長期)には幕府代官の白崎氏の居館、天明六年(1786年)以後は大津にあった大和郡山藩(柳沢氏)の代官所がここに移転しています。

マキノ町海津は、琵琶湖の西側の最北部、平安時代から湖上交通の北辺の要路にあたり、平安後期には海津湊として発展していた。

 室町時代には北陸の諸荷物や年貢米が、敦賀から海津・塩津を経て、船で大津方面へ輸送されていたので、大津・坂本・今津とともに商取り引きの重要な港であった。北国・東国から京都・大坂への交易は敦賀まで船で、敦賀から陸路七里半越えなどで海津・大浦・塩津まで運び再び船で大津までと、小浜から陸路九里半越えで今津まで、後大津まで船の方法があった。

 江戸時代、海津三町(海津東町、海津中村町、海津中小路町)は初期より幕府領であったが、寛文8年(1668)から中村の多くが加賀藩領になった以外は、享保9年(1724)までは幕府領であって、その後は加賀藩領を除いて以後大和郡山藩領となっていた。
西廻り航路が開通するまでは、北陸地方と海津を結ぶ七里半越えと、海津から京都・大津への湖上の交通とを結ぶ重要な港として栄えた。延宝~享保(1673~1736)頃には、100石積以上の大型丸子船を60~75艘も保有し、200人前後の加子(舟乗り)がおり、6、7軒の回船問屋が軒を並べていた。

 江戸時代の寛永の初め(1624)ころには、海津宿を経由して大津方面へ運ばれる北国諸大名の御城米は、年間三十万石(75万俵)もあったが、西廻り航路が寛文12年(1672)に開通し、裏日本から直接大坂へ送られるようになると、海津への御城米は年々減少し、延宝期(1673~81)には、御城米は平均年六万石(15万俵)と急激に減り、貞享期(1684~88)のころになると、年間わずかに一万石(2.5万俵)になり、最盛期の約30分の1になってしまった。

 最盛期の寛文年間(1661~73)、敦賀から海津への上り荷物で、最も多いものは米で、全体の70~80%を占めていた。他には、大豆などの穀物類・魚等の水産物、加賀の木地類、輪島の漆器、菅笠、高岡の銅器・鉄瓶、富山の売薬などであった。
下り荷としては美濃・尾張・近江の陶磁器、三河の生綿、京都・大坂・名古屋の呉服・大物類、美濃・近江の煙草・茶・ミカンなどであった。西廻り航路が発達し、敦賀・小浜への廻米は減少または停止されたが、海津への諸荷物の減少が落ち着いてきた宝永(1707~11)以降の海津は、近江や美濃両国の外港として、貨物の集散地、近江の産物の北国への移送の基地としての役割を果たすこととなった。

 マキノの町の湖岸海津浜の石垣は、元禄14年(1701)に西浜の属する高島郡甲府領の代官となった西与一左衛門が、元禄16年(1703)に幕府領の海津東浜の代官 金丸又左衛門重政と協議し、幕府の許可を得て、湖岸波除石垣を西浜に495.5m、東浜に668m築いたもの。
これによって海津西浜は水害から守られた。この石垣は嵐のたびに何度も改修され今日に至っている。
海津の古い伝統的な町並みは石垣より少し内側に、石垣と平行に通る街道の両側に展開する。その中に地酒の醸造元や、400年以上の伝統をもつ醤油醸造の家などがある。
 海津西浜の街道の中程に海津天神社への参道がある。その参道より南側の街道の両側では切り妻造りで、街道に妻側を向けた妻入りの民家が多いのに、その北側では棟を街道と並行にした平入りの商家が多い。敷地の関係でそうなったと思われるが面白い現象である。妻入り、平入りに関係なく中二階の民家が多い。中二階は真壁造りでなかには出格子をはめた民家もあり、屋根は桟瓦葺である。

琵琶湖と内湖を堀に。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城 

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


森城  近江国(田上)

2014年06月24日 | 平山城

 

お城のデータ

所在地:大津市森3丁目   map:http://yahoo.jp/ly3ara

区 分:山城

現状:下屋敷は竹林、詰め城は雑木林

遺 構:曲郭・石垣・石橋・土塁・虎口・土壇

目標地:善正寺・八幡神社・森バス停

築城期:

築城者;

標 高:212m   比高差:100m

訪城日:2014.6.23

 

お城の概要

下屋敷(善正寺と八幡神社の間の竹林一帯)

地割、石垣、石橋(ノミ跡付)等残存する、また、獣害柵で仕切られてはいるが、竹林も含めて整備されている。

詰め城は、獣害柵内に入り約100m尾根道を登ると、頂部は黄色のテープ10m×10mの方形削平地、東側は3m下に犬走り、北側に枡形虎口を設ける。虎口手前に巨石(川石=門丸み・・自然石や削岩石でなく)に圧倒される。尾根道からは、左右に横矢土塁を散見する。

 

下屋敷

                    

歴 史

詳細不明

「近江與地志略」には森村の古城跡として「森村の山に在り。此の地を城が腰といふ」と記されている。

現在、地元で知る人はいません。「堀ノ内」「北木戸」と言った城に関係するかとも考えられる地名が残る。

          定雄池  

詰め城へ

墓地への参道墓地手前の獣害柵沿い獣害柵の開閉口

詰め城へ登城開始  尾根道は綺麗。進む    

頂部削平地    3m下の犬走り 虎口下の巨石  

石仏円柱の「夕照山 善正寺」 善正寺前の空き地城道「墓地参道」・・林が城祉

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、大津の城郭

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!

 


中野城 近江国(田上)

2014年06月24日 | 平山城

お城のデータ

所在地:大津市中野3丁目2-2  map:http://yahoo.jp/S4M_fu

目標地:荒戸橋(田上川)、荒戸神社

現 状:神社境内・鎮守の森

遺 構:削平地、砕石材、神社土塁

築城期:

築城者:田上氏(土豪)

標 高:160m   比高差;10m

訪城日:2014.6.23

 鳥居と神社参道の中間点東側に削平地あり、背後に5m超の土塁あり。

          崩れた石垣カ?砕石材の集積カ?  

歴 史

詳細不明

田上の土豪中野氏の居城と伝えられています。

位置は標高160mの荒戸山の北麓、荒戸神社(中野3丁目2-2)の境内の一角を占める台地と言われています。

 佐々木氏流青地としては、基綱の子忠綱がはじめて青地城を築き、近江源氏七頭の一人として湖南を支配するようになったと伝えられる。
基綱が青地氏を相続してのちの弘安四年(1281)、その子基氏は一族とともに小槻大社に神櫃を寄進している。この櫃の銘文から青地一族が惣領基氏を中心とする武士団を結合していたことが知られる。その後、惣領は基氏から弟忠綱の子である冬綱に継承されたようだ。冬綱は近江守護代を務め、その権勢は同地の豪族田上・沢氏らを押えて、ひときわぬきんでていた。

 

中野城・・・遠景(荒戸橋より) 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、大津の城郭

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


佐治城三の丸 近江国(甲賀)

2014年06月19日 | 平山城

県道127号線、小佐治公民館の路地を北に入る。右手に常楽寺を見て十字路も北進すると標識が見える。

 
 

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町小佐治城殿  map:http://yahoo.jp/GlQ5FF

現 状:森林・竹林・

遺 構:曲輪・土塁・水堀・空堀・説明板

区 分:山城

築城者:平業国

築城期:南北朝期(泰平5年(1062))

城 主:佐治氏

標 高:250m   比高差:30m

目標地:常楽院・第二鹿深の家

    市指定史跡

訪城日:2014.6.17

 中腹の常楽寺を奥に進む

主郭跡の大半は牧場の放牧場となっている。  桝形池(水堀)に『佐治城跡』の説明板を奥に進む 

牧場の中央、道路沿いに、更に進み、池の手前をV字に左折

・・・三の丸は、この上 

お城の概要

城は愛宕山の山頂にあり、道路沿いに「桝形池」と呼ばれる堀跡が残り、山頂には祠が奉られている。

 日本城郭体系では本丸付近は畑として開墾され、余り遺構が残っていないような記述がなされている。

確かに本丸付近は「桝形池」および愛宕山付近に堀跡が残されている程度で、その西側は牧場となっている。

西側には土塁や堀切があり、二の丸、、に相当するような遺構が明確に残る。

一番西側の堀切には土橋が架かっている。

愛宕山の南側は、竹林で削平地・土塁が残る、城の遺構

歴 史

康平5年(1063年)平業国によって築かれたと云われる。 康平5年(1063年)平業国が伊豆国より佐治郷に移り佐治城を築いて佐治氏を名乗った。南北朝には某氏・国氏が武功を上げ、長亨の乱(1487年)では河内守が活躍しました。

建武4年・延元2年(1337年)足利尊氏の命によって、小佐治右衛門三郎は守親親王を攻めるために出兵して感状を受けた。

永禄11年(1568年)六角氏が滅亡後、佐治為次は織田信長より安堵され、元亀2年(1571年)に一万四千石を領した。

  天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いにおいて羽柴秀吉は甲賀武士を七番備えに配したが、徳川家康からの内応を求める書状に秀吉が怒り、翌年根来寺攻めに置いて紀伊川治水の命を受ける。更に領地没収の命が下されると一族は佐治城に籠城して滅亡した。 <現地案内板より>

 佐治氏は甲賀郡・佐治郷から発祥し、佐治城を本拠として中世の近江を生きた豪族である。

甲賀は近江国甲賀郡の地をいい、伊賀と並んで忍者のことが思われる。戦国時代の甲賀には、甲賀五十三家と称される大小の武士団が割拠していた。そのなかでも佐治氏は、伴一族と並んで古い歴史をもつ武士であった。

 佐治氏の出自を探ると、平安時代末期の康平五年(1062)、平維時の子業国が佐治郷に住して小佐治を名乗ったことに始まるという。その伝を信じれば、平氏の分かれということになる。

業国は小佐治、神保、隠岐、伊佐野、平野の佐治郷五ケ村を領して佐治城を築いたと伝えられる。以後、佐治氏は佐治郷にあって激動の中世を生きたのである。

廃車置き場の向かい入口 いきなり井戸?武者隠し           車駐車スペース(ここからも、入城出来ます)    

佐治城遠望(三の丸・二の丸・主郭)・・・佐山小学校より 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!