城郭探訪

yamaziro

今西城 近江国(湖北)

2016年09月16日 | 平城

お城のデータ

所在地:長浜市(旧東浅井郡)湖北町今西  map:https://map.goo.ne.jp/place/25003051921/

区 分:平城

現 状:神社・宅地・集落

築城期:室町期

築城者:今西野弥次郎直光

目標地:比伎多利神社

駐車場:比伎多利神社の横に駐車

訪城日:2016.9.9

お城の概要

今西城の場所は詳らかではないが、今西集落の東端にある比伎多利神社の境内には東辺から南辺に掛けて土塁と堀が残されている。西側には小字「政所」、「熊谷屋敷」、「弓削屋敷」などが残る。

 

お城の歴史

京極氏の家臣今西氏代々の居館で、今西野弥次郎直光、その子今西忠兵衛などが知られる。

『江州佐々木南北諸氏帳』には、「浅井郡 今西 住 佐々木浅井隋兵 熊谷小市郎・熊谷弥次郎」の名を記す。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、『日本城郭大系』11、遺跡ウォーカー、『江州佐々木南北諸氏帳』

本日の訪問ありがとうございす!!


延勝寺館(飯開(いびらき)神社遺構) 近江国(湖北)

2016年09月15日 | 平城

お城のデータ

所在地:長浜市(旧東浅井郡)湖北町延勝寺 map:

別 称:延勝寺館

区 分:平城

現 状:神社

築城期:室町期

築城者:

遺 構:堀・土塁・曲廓・

目標地:飯開神社

駐車場:飯開神社に路上駐車

訪城日:2016.9.9

お城の概要

「滋賀県中世城館調査報告」によれば、飯開神社一帯に三つの曲輪らしき遺構を持つ。神社境内・東側・そして北東隅に

境内の南側に水路(堀・池)があり、北東部と境内の東隣の竹藪には土塁の土盛がある。周囲より若干高い地形ではある。

お城の歴史

『江州佐々木南北諸氏帳』には、「浅井郡 延勝寺 住 日下善介・関谷宇平次・佐々木京極隋兵大塚末 川上長門守・佐々木浅井隋兵安芸守ト云 大橋善次郎」の名が見える。  

飯開神社 御由緒
当社の地域は都宇郷に属し、この郷の総社として信仰の中心であった。往古湖中に在るオコノ州に鎮座されていて境内には多くの大木が生い茂っていた。正暦3年の大洪水でオコノ州は湖底に沈み神社は流出して御神体は当地の野田浜に流れつかれたといわれている。この神迎へに神輿が担がれ途中今西のお旅所で御休息になり、夢の告げで現在の地に奉斎することになった。 社殿の造営は大治5年といゝ伝えている。
 鎌倉時代源頼朝の下知により荘園内の虫供養が行われ、当社に五十石が下附されそれ以来6月6日を虫供養の日と定め現にこの祭儀は存続している。小谷城主浅井家三代の崇敬篤く元亀元年長政は祈願を捧げ大刀並に躑躅胴鼓を寄進している。小谷城落城の際兵火に遭ったが、宝永3年代官西郷市正社殿再建の大施主となって再建した。

飯開神社には応永11年(1405年)の朱書銘のある神輿が伝えられている。

境内東側の池(堀か?)

東側の土塁

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、『江州佐々木南北諸氏帳』飯開神社由緒

 本日の訪問ありがとうございす!!


西阿閉城  近江国(高月)

2016年09月10日 | 平城

遺跡ウォーカーの比定地(竹蓮寺の北の個人宅)

 

お城のデータ

所在地:長浜市(旧東浅井郡)高月町西阿閉 map:http://yahoo.jp/pLmSVC

区 分:平城

現 状:宅地

築城期:室町期

築城者:阿閉新兵衛

目標地:竹蓮寺

駐車場:竹蓮寺前に路上駐車

訪城日:2016.9.9

 

お城の概要

西阿閉集落の竹連寺の北側に、門構えの個人宅が、遺跡ウォーカーの比定地となっている。

 西阿閉城は山本山城の東麓に築かれていたという。現在の西阿閉集落で「新兵衛屋敷」「蟻屋敷頭」などの地名が残されているものの遺構はない。

西阿閉集落の西 山本山城の山腹(210m)に阿閉城http://www.isekiwalker.com/iseki/102149/(高月町西阿閉阿閉山)に遺構あるようだ

お城の歴史

山本山城主阿閉貞征(長之)の家臣阿閉新兵衛の居城

『江州佐々木南北諸氏帳』には、「伊香郡 西阿閉城主 佐々木末隋兵 阿閉五郎・同 阿閉三河守・佐々木浅井旗頭 阿閉淡路守」の名を記す。


\\\信長公記 巻六 元亀四年 11、決壊  阿閉謀叛の事\\\

 8月8日になり、江北の土豪阿閉淡路守貞征信長公へ内通してきた。すると信長公は夜中にもかかわらず岐阜を出陣し、そのまま敵城月ヶ瀬城(現滋賀県虎姫町月ヶ瀬)へ攻め寄せ、翌晩までに開城させてしまった。そして10日には旗下の諸勢を大嶽北方の山田山(現浅井町・湖北町間)に集結させ、越前への主通路を遮断した。このため越前から出陣してきた朝倉義景の二万の援軍は小谷に近付くことができず、余呉・木之本・田部山(現余呉町~木之本町)方面に布陣しなければならなかった。

 また近年になって浅井久政は大嶽山麓の焼尾という地に砦を築いて浅見対馬に守らせていたが、この浅見も阿閉貞征にならって信長公へ通じた。

\\\信長公記 巻六 元亀四年 12、追撃  大筒・丁野攻破らるるの事\\\\

 信長公に通じた浅見対馬は、8月12日みずからが守る大嶽下の焼尾へ信長公の人数を引き入れた。その夜はことのほか風雨が激しかったが、信長公は虎御前山の本陣に嫡男信忠殿を残し、みずから馬廻を率いて大雨の中をずぶ濡れになりながら大嶽へ攻め上がった。大嶽には斎藤・小林・西方院らの越前衆五百ばかりが番手として籠っていたが、信長公直々の攻撃の前にたまらず降伏した。

 降伏した越前兵は、すべて討ち果たされて当然のところであった。しかし夜の闇に加えて折からの風雨が敵方の視界をさえぎり、当の朝倉義景がこの大嶽陥落を気付いていないおそれがあった。そこで信長公は降兵たちの命を助けて朝倉本陣へ向かわせ、彼らに大嶽が落去してもはや戦勢を支えがたくなった事実を知らせさせた。このとき信長公は、このまま一挙に朝倉義景の陣所を抜く考えを固めていた。

 信長公は大嶽に塚本小大膳・不破光治・同直光・丸毛長照・同兼利らを置くと、すぐさま丁野山の攻撃にかかった。ここには越前平泉寺の玉泉坊が籠っていたが、これもまたたく間に降伏して退散した。

 大嶽・丁野の要害が落ちた今、信長公は朝倉勢が今夜のうちにも越前へ退却を始めると読んだ。そして先手の諸将へその旨を伝え、敵勢退却のときを逃さぬよう覚悟せよと再三にわたって命じた。しかしそれでも信長公は焦りと苛立ちを抑えきれず、13日夜ついにみずから先駈けをして越前衆陣所へ攻め入った。

 このとき先手として越前勢に近く布陣していたのは、佐久間信盛・柴田勝家・滝川一益・蜂屋頼隆・羽柴秀吉・丹羽長秀・氏家直通・安藤守就・稲葉一鉄・稲葉貞通・稲葉典通・蒲生賢秀・蒲生氏郷・永原筑前・進藤山城守・永田刑部少輔・多賀新左衛門・弓徳左近・阿閉貞征・阿閉孫五郎・山岡景隆・山岡景宗・山岡景猶ら歴々の諸将であったが、信長公よりの度々の下命にもかかわらず油断しきっていた。そこへ信長公先駈けの報が伝わってきたため、彼らはあわててその後を追った。そして地蔵山(現滋賀県木之本町内)でようやく信長公に追いつき、神妙な顔で御前に並んだ。信長公は「数度も申し含めたにもかかわらず懈怠するとは、なんたる曲事か。この比興者どもめが」と彼らを激しく叱責した。

参考資料:遺跡ウォーカー、信長公記、滋賀県中世城郭分布調査1、『日本城郭大系』11

本日の訪問ありがとうございす!!

 


西物部城 近江国(高月)

2016年09月10日 | 平城

 

お城のデータ

所在地:長浜市(旧:伊香郡)高月町西物部  map:http://yahoo.jp/1wSBFp
区 分:平城

現 状:個人宅
築城期;― 
築城者:―

遺 構:郭・土塁・堀
目標地:雙林寺(そうりんじ)

駐車場:雙林寺前に駐車

訪城日:2016.9.9

お城の概要

西物部集落の北側に雑木林が見える、ここが西物部城で、雙林寺の東側の宅地(現・布施家屋敷)一帯が居館跡。

現・布施家(個人宅)の裏手の雑木林に二重の土塁が巡っていまるが、草木が多くてわかりにくい、個人宅の表門側にも低い土塁と堀跡なのか水路がある。個人宅なので、城館の回りから覗くことしか出来ない。

お城の歴史

詳細不明。


雙林寺 西物部城館の門=現・個人宅

門前の堀と駐車スペース 現・屋形(門から覗く)

土塁


南東部に、屋敷への通用道(低土塁も残るのようだが)


北側・東側から覗くと「二重土塁」=写真では、わかりにくいが!

叟林寺

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査(伊香郡・東浅井郡の城)、

本日の訪問ありがとうございす!!


木津森西城/森安城 近江国(日野)

2016年09月08日 | 平城

木津森西城

お城のデータ

在地:蒲生郡日野町木津  map:http://yahoo.jp/yoML5V
区 分:平城
現 状:水田
築城期:室町期
築城者:岡氏?
遺 構:圃場整備で消失
標 高:175m   比高差:―m
目標地:国道307号木津大橋・・下、野洲川右岸沿い150m西
駐車場:農道に路上駐車
訪城日:2016.5.24
お城の概要

 木津森安城は、日野川左岸の「御代参街道添い」に位置する。御代参街道の警護・守備を担ってきたか?

圃場整備で遺構は消失したが、圃場の「御代参街道」は残る?

お城の歴史 

木津岡山城主岡宗左衛門の一族か?

 

 

森西城

所在地:蒲生郡日野町木津  map:http://yahoo.jp/OALQ7I

区 分:平城

現 状:水田

築城期:室町期

築城者:岡氏?

遺 構:圃場整備で消失

 お城の概要

 木津森安城は、日野川左岸の「御代参街道添い」に位置する。御代参街道の警護・守備を担ってきたか?

圃場整備で遺構は消失したが、圃場の「御代参街道」は残る?

お城の歴史 

木津岡山城主岡宗左衛門の一族か?

岡定俊 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 

岡 定俊(さだとし)は、戦国時代から江戸時代にかけての武将。左内(さない)の通称で知られ、蒲生氏、上杉氏それぞれに重臣として仕えた。

生涯

父は若狭太良庄城(福井県小浜市)の城主、岡和泉守盛俊という。岡越後守と称し、諱は定俊。岡野左内、岡野定政、岡野定俊と書かれることもある。後に編纂された『上杉将士書上』など、上杉氏の関連文書では岡野左内となっていることから、岡野の表記も多く定まっていない。ただし現存する史料では、慶長2年(1597年)に蒲生氏が村の境界争いに出した裁定書に、奉行人の一人として岡左内の名で署名がある。

元亀4年(1573)に織田信長が若狭を制圧した後、領主となった丹羽長秀に仕えずに若狭を離れ、蒲生氏に仕官したものと考えられる。『武則編年集成』によれば天正12年(1584)秋から半年の間、蒲生氏郷は木造具政の篭城する戸木城を包囲した。この戦いで18歳の岡源八なる者が、敵将の畑作兵衛重正を討ち取ったという。この源八が左内であるとされる。

合戦で多くの功績を挙げ、氏郷が会津92万石を領してからは1万石の知行を与えられた。氏郷没後の慶長3年(1598)、蒲生騒動で宇都宮18万石に減封となったが、ここで蒲生氏に替わり会津を領地とした上杉氏に仕え直した。上杉氏宰相の直江兼次から4200石を与えられている。上杉氏と伊達氏が争った慶長6年(1601)の松川合戦では、伊達政宗を散々に打ち破る戦功を挙げたという。『武辺咄聞書』によれば、南蛮の伴天連より贈られた「角栄螺の甲」と「鳩胸鴟口の具足」を身につけていたとされ、これは西洋甲冑(南蛮胴)ではないかといわれている。上杉氏が120万石から米沢30万石に転封されると、再び会津60万石の領主となった蒲生秀行に仕え、1万石の猪苗代城城代に任ぜられた。熱心なキリシタンでもあり、私財で教会や神学校を建て、神父を招いて布教に励んだという。

子孫は後に蒲生氏が改易されてからは、黒田氏や津軽氏に仕官した。

いくつかの逸話が知られているが、利殖に巧みであり、部屋中に金銭を敷き詰めて、その上で裸になって昼寝するのを楽しみとしたという。この話はよく知られ、『雨月物語』中の一片「貧福論」にも採用されている。

単なる守銭奴ではなく、慶長5年(1600)の会津征伐では上杉家諸将が急な戦費調達に苦しむ中、こういう時にこそ惜しみなく使わねばならないと、財貨を主君の景勝に献上し、同僚に貸し与えた。上杉氏の転封に当たっては、借財の証文を全て焼き払って退散し、直江兼続からもその人物を惜しまれたという。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査4、遺跡ウォーカー、Wikipedia、蒲生家 家臣団

本日の訪問ありがとうございす!!


川辺城  近江国(栗東)

2016年09月07日 | 平城

川辺城 

 

お城のデータ

所在地:栗東市川辺町450  map: http://yahoo.jp/W5kgup
区 分:平城
現 状:寺地・宅地
築城期:江戸期
築城者:芝原右京進重兼
遺 構:現地説明板
目標地:善性寺
駐車場:路上駐車
訪城日:2016.5.19
お城の概要
室町期は、青木氏の所領であったが、旧東海道の沿いの善性寺が川辺城と伝わる。江戸期は膳所藩領で街道の監視・警護を担ってきたか?

目川の歴史
 江戸幕府の道中奉行が管轄した五街道の一つで、江戸と京都を結ぶ大動脈であった。栗東市の区間は、草津宿と石部宿の間にあった。東海道は草津側から小柿(新屋敷)、岡、目川、坊袋、上鈎、手原、小野、六地蔵、林、伊勢落の11カ村を通過した。草津・石部の宿駅間距離は二里三五町(約11.7km)余。駅間には二つの立場が置かれていた。岡地先に置かれた目川立場と六地蔵地先に置かれた梅の木立場で、旅人へ旅行の利便を提供する施設として、幕府の道中奉行所が指定した施設である。目川立場は食事の菜飯田楽を、梅の木立場は道中薬の和中散を商った。目川と六地蔵に一里塚があり、共に椋が植えられていた。
 東海道は古代から存在したが、幾度かの変遷を経て江戸時代から現道に整備された。

『伊勢参宮名所図会』の目川の様子
寛政九年刊

地区の概要
 東は下戸山、南は岡、西は小柿、北は 坊袋、川辺にあり、地名は目川(めがわ)と読む。
中心部に金勝川が流れ、これに添って東海道が通る。東海道の街村で「宿村大概帳」によれば往環の長さは五町一二間(約五六九メートル)、家居三町二二間(約三六七メートル)残り片側一町五〇間(約一九九メートル)堤添いとある。江戸時代の天保郷帳によると、東目川村と西目川村という別々の村になっている。明治四年(一八七一)に二村が合併して目川村となった。
 「目川」は田上庄 芝原村の武士芝原右京進重兼が、恩賞により目川、坊袋、川辺の三村を与えられて城を目川に移した貞治元年(一三六二)九月が初見である。(郡志)
小槻大社の氏子村。県選択無形民俗文化財小杖祭り保存会五カ村の一つ。
 村高 六七六石余
  東目川村 四三三石余
  西目川村 一六五石余
  寛永(一六二四~)    慶安(一六四八~)  天明(一七八一~)
  大坂定番稲垣領一六五 越後三条藩領一六三 三上藩領五九八  以後幕末に至る。
  旗本沼野領   五一一 同左
目川村
 川辺村の西、金勝川(草津川支流)流域平地に立地。東海道に沿う街村で、草津宿と石部宿(現湖南市)の中継の立場茶屋が設置され、一里塚もあった。下戸山の小槻大社蔵の永徳二年(一三八二)の板札には、土豪青地氏の侍衆によって構成された同社の祭礼にかかわる「榊本之衆中」として当村に居住していた芝原左馬尉昌維の名がみえる。近世初期には豊臣秀吉の直轄領(前田文書)。慶長検地では高六七六石余(正徳三年「郷村高付帳」中村文書)。寛永石高帳では大坂定番稲垣重綱領一六五石余・旗本沼野領五一一石余。慶安高辻帳では越後三条藩領田一五〇石余・畑五石余・永荒八石余、沼野領田二四九石余・畑一三石余・永荒二四八石余。その後東・西の目川村に分村、元禄郷帳・天保郷帳では東目川村高四三三石余、西目川村高一六五石余。しかし天明村高帳では目川村として高五九八石余で三上藩(のちに和泉吉見藩)領。幕末まで同藩領。ケンペル「江戸参府旅行日記」に「村を流れている川からその名をとった目川村は400戸ばかりで、草津から四分の一里離れた次の村である」とみえる。元禄七年(一六九四)草津宿に目川村として助郷高五九八石余で出没(深尾文書)。亨保一〇年(一七二五)の改編でも同高で継承。慶応三年(一八六七)助郷高二三九石に減じられた(黒羽文書)。なお立場茶屋では目川田楽(菜飯田楽)が名物として売られてた(東海道名所図会)。
 用水は金勝川と同川から導水する目川池を利用。天保八年(一八三七)二保川、野洲川・草津川筋の新田開発に対し、用水の問題を理由に他村とともに反対している(川辺文書)。天保四年の調べでは仁兵衛・仁兵次が酒屋株をもっていたが、同七年には二軒ともこの株を譲渡している(小森文書)。浄土宗地蔵院には天文一三年(一五四四)教貞の開基と伝える。真宗大谷派専光寺は応仁元年(一四六七)光念が当地に道場を開いたのに始まるという。
東海道
 東海道は、草津宿で中山道と分岐し、栗東市域を約八キロメートルにわたって通り、石部宿にいたる。草津川を越えてはじめての集落は新屋敷で、新屋敷を出て南進し、草津川・金勝川合流地点の手前で大きく東にまがって、岡の集落に入る。岡は名物「目川田楽」をもって知られた。「目川田楽」は豆腐の味噌田楽と菜飯を食べさせる名物茶屋の称で、東海道目川立場を中心に諸国に展開した。『東海道名所図会』(寛政九年刊)に記される。江戸浅草や葦屋町をはじめ、「目川」を称する田楽茶屋が諸国に存在したのである。そのはじまりが近江国栗太郡岡村の三軒(目川村には目川田楽茶屋はなかった)、すなわち「京伊勢屋」、「小島屋」、「元伊勢屋」であり、いずれも東海道に南面して所在した。享保十九(一七三四)年成立の『近江興地志略』など、多くの他誌、道中記、名所図会類に紹介されて名高い。
 最も東に位置し、京に近いことから『京伊勢屋』の号で呼ばれたのが、西岡家である。『東海道名所図会』に挿図入りで紹介するのはこの店であり、画中の暖簾には「京いせや」と染め付けられている。同図を引いた歌川広重の保永堂版「東海道五十三次之内石部」に描かれたのも、京伊勢屋だということになる。西岡家は大正期まで「目川田楽」屋を続け、最後の店であった。戦前までは豆腐をあぶるひばちなど道具類も多く伝えていたという。現在も講招牌(文政七年から明治十六年のもの)が存在する。

『東海道名所図会』の目川田楽
上記図中文(目川とは村の名なれど、
今は名物の菜飯に田楽の豆腐
の名に襲ひて、何国にも目川の店多し)
お城の歴史

シーボルトと善性寺
 善性寺第五世僧恵教のとき、文政九年四月二十五日オランダの医師で博物学者シーボルトが江戸からの帰途善性寺を訪ねている。そのときの見聞が「シーボルト江戸参府紀行」に次のように記されてある。
 「かねてより植物学者として知っていた善性寺第五世僧恵教のとき、文政九年四月二十五日オランダの医師で博物学者シーボルトが江戸からの川辺村善性寺の僧恵教のもとを訪ね、スイレン、ウド、モクタチバナ、カエデ等の珍らしい植物を見物せり」云々とある。』

真宗 大谷派 養煙山善性寺 慶安二年(1362) 玄竜開基

100m進むとT字路の突き当たりで、街道はここを右折。道標があり、正面には「東海道 やせうま坂」、右側に「中仙道でみせ」、左側に「金勝(こんぜ)寺 こんぜ」と書いる。

善性寺から80mほど所に、堤防(土塁)が出現、旧東海道は金勝(こんぜ)川の堤防に つきあたり、右(西)に曲がる。 堤防の向こうに目川池がある。

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、目川の歴史

本日の訪問ありがとうございす!!


横山城 近江国(高月)

2016年09月06日 | 平城

横山城

お城のデータ 

所在地:長浜市(旧伊香郡)高月町横山  map:http://yahoo.jp/0dtxLa
区 分:平城
現 状:竹藪・畑地・宅地
築城期:南北朝期
築城者:横山掃部介家盛・横山和泉守家政・横山孫次郎
遺 構:土塁・堀・曲廓・墓碑
標高:106m 比高差:0m
目標地:横山集会所
駐車場:横山集会所に駐車
訪城日:2016.9.5
お城の概要
 唐川城の南の集落の横山集会所の隣竹藪が残存する。竹藪の中は確認出来ないが、周辺は堀と土塁で、中は曲廓と考えられる。また、西側の石積の土壇の上に墓碑が確認できるが、文字は刻まれているが、植栽で読み取れない。浅井の家臣横山氏の居城。

お城の歴史
『江州佐々木南北諸氏帳』には、「伊香郡 横山 住 佐佐木浅井隋兵高島末 横山掃部介家盛・横山和泉守・横山宮内少輔・横山佐渡守高長」の名を記す。 
『滋賀県中世城郭分布調査』には、「横山和泉守家政の居城で、浅井長政が織田信長との交戦した。」と記す。

浅井三代記 第十七

信長卿小谷面へ発向 附浅見大学之助心替の事

略)・・・・長政、此由を見るよりも猛勢の中へ切込、跡をしきられてはいかゞと思ひ、追払ひ引取べしとて備前守旗本を崩しかゝれ/\と下知すれば、浅井が兵無二無三に切てかゝれば、雲雀山の人数なんなく追払ひ、長政引取むとせし處を柴田、木下、敵にかまはずしてはとへ廻、横鑓にかゝらんとせしを、備前守是を見て馬煙を立て引給ふ。谷口の切通迄敵したひ来、難義に及べば長政は爰ぞよき打死處なりと宣へば、浅井が手廻の者共、我も/\と三百計取てかへし、命を捨て戦ひける。故寄手猛勢なりとは申せ共、切通より内へ一人もいれざりける。此時西野五座右衛門尉、布施小左衛門尉、箕浦五兵衛、尾山彦三、雨森弥九郎、長沢権助、東野與一、横山和泉守、同孫次郎、千田新四郎、踏留り手柄あく迄して打死をとぐれば、長政其ひまに城中へ乗込給ひける。其時、日根野弥次右衛門、長政に向ひ大に怒て申けるは、日比軍の道能御存の上にて今日の武者出しおそらくは御誤成べしとて再三にいましめける。

近世まで、屋形跡か?石垣にコンクリートの土壇上に墓石が二基横山和泉守、同孫次郎か?


参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、『江州佐々木南北諸氏帳』、『浅井三代記』『伊香郡誌』

本日の訪問ありがとうございす!!


東柳野城 近江国(高月)

2016年09月06日 | 平城

東柳野城 

磯野山城(遠望) 
お城のデータ
所在地:長浜市(旧伊香郡)高月町東柳野  map:http://yahoo.jp/6PYDOd
区 分:平城
現 状:竹藪、宅地
築城期:南北朝期
築城者:大村新左衛門
遺 構:竹藪に土塁・曲廓・堀
標高:102m  比高差:0m
目標地:集落の墓地
駐車場:集落の墓地の駐車場
訪城日:2016.9.5
お城の概要
高月町磯野の「磯野館」・「安沢城」の南の集落に位置する。
東柳野集落の墓地の背後に、竹藪が残存する。竹藪中には、土塁・曲廓・堀痕が今も残存する。
お城の歴史
『日本城郭大系』11には、大村新左衛門の居城と記す。
『江州佐々木南北諸氏帳』には、「伊香郡 東柳野中村 住 大村新左衛門」の名が見える
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、『日本城郭大系』11、 『江州佐々木南北諸士帳』
本日の訪問ありがとうございす!!

鯰江森村城   近江国(愛東)

2016年09月03日 | 平城

森村城

お城のデータ

所在地:滋賀県東近江市鯰江町1349   map:http://yahoo.jp/-R-Tkq
区 分:城館
現 状:ぶどう畑+宅地
区 分:平城
築城期:南北朝期
築城者:森備前守・森又太郎・森豊後守
遺 構:?
目標地:鯰江農業集落排水所領施設
駐 車:鯰江農業集落排水所領施設に駐車
訪城日:2016.8.31
お城の概要

 『淡海国木間攫』に「愛知郡 鯰江妹村(鯰江氏)・鯰江中戸村(鯰江氏)・鯰江森村(森氏)」とあり、地続きの3村であったは、中戸村と森村(鯰江村)は、名神高速道路で寸断された。

愛知川右岸の段丘城郭で、一時八風街道は愛知川宿より愛知川右岸を通り柿御園・高野・小椋谷を伊勢へと・・重要な間道であった。

お城の歴史
『淡海国木間攫』には、「愛知郡 鯰江森村 往古此里ニ森備前守・森又太郎在城之由、古城跡等残リアリ、領主タリシト云。」と記す。
『佐々木南北諸氏帳』には、「愛知郡 森村住 佐々木隋兵 森豊後守」の名が見える。


鯰江森村城は、織豊期には「鯰江城」に改築された

室町時代、鯰江氏は六角氏に属して勢力を伸ばしていたが、永禄11年(1568)に観音寺城の戦いで六角氏の居城である観音寺城が落城したため、城主の鯰江貞景は甲賀郡に逃げていた六角義賢・義治父子を迎え入れ、主家復興のため織田信長に反抗を企てた。

貞景は鯰江城に空濠の増設・土塁の増強を含む改修を施し、百済寺の僧や一向宗と結び籠城したが、天正元年(1573)9月、柴田勝家らの軍勢によって落城した。鯰江城落城後、鯰江氏は全国へ散り各大名に仕えたが、貞景の子・定春は豊臣秀吉に従い、大阪に鯰江の地名を残している。

鯰江町自治会館内の地割図 『近江愛智郡志』巻貮(滋賀県愛智郡教育会 1929年刊 1982年復刊)所収 「鯰江城阯」

 『近江愛知郡志』の鯰江城阯の項 鯰江城阯は西小椋村大字中戸に在り、高臺に阯を在す、永禄十一年佐々木義賢其子が観音寺落城居後鯰江満介貞景等佐々木氏の奮臣と謀り堀を深くし堤を高くし大土工を起こして修築せし城阯にして天正元年まで近江の守護家佐々木六角氏の城砦なり、實にや今遺阯を見るに規模の大と設備の完なる郡内他に比類少き所とす。

昭和60年の鯰江城土塁。(愛東の歴史ダイジエストより)

鯰江城復元イラスト。(愛東の歴史ダイジエストより)鯰江郷の青山・曽根・井元・鯰江・園の5集落。(愛東の歴史ダイジエストより)

鯰江郷の青山・曽根・井元・鯰江・園の5集落。(愛東の歴史ダイジエストより)

現・鯰江バス停にの鯰江城石碑・説明板・志士「丹羽雅夫の顕著碑」

  

鯰江城発掘調査
    
が、永禄9年(1566)頃、鯰江城は改修されている(中川平三朗家文書)。(参考:愛東町誌2巻より)
鯰江氏の菩提寺「小松山専修院」 
鯰江氏の墓石
森氏の墓石か?
参考資料:遺跡ウォーカー、 城郭分布調査1、『淡海国木間攫』、『佐々木南北諸氏帳』、Wikipedia
本日の訪問ありがとうございす!!

池田館 近江国(近江八幡)

2016年08月23日 | 平城

お城のデータ

所在地:近江八幡市池田本町651  map:http://yahoo.jp/nzJ0JV
現 状:寺院
区 分:居館
築城期:南北朝期
築城者:池田源右衛門
遺 構:堀痕・土塁痕・曲廓痕(平削地)・宝篋印塔
目標地:池福寺
駐車場:池福寺に駐車
訪城日:2016.8.22

お城の概要

旧蒲生郡桐原村にあったとされる城館。桐原村(きりはらむら)は、現在の近江八幡市の南西部、日野川の右岸。で小森城の近くにあたる。

桐原小学校の西側、池福寺一帯が城域、寺地の周囲に堀跡と思われる地形と竹藪内に平坦地が確認でき、寺地内には土塁と思われる土盛りが残る。

お城の歴史

旧蒲生郡池田村にあったとされる城館。
詳細は不明だが、池田村を領した人物に蒲生氏の家臣「池田源右衛門」の名が見られる。

土塁?宝篋印塔池福寺

池福寺

 伝教大師最澄上人が、東国巡錫されていた弘仁6年(815)に当地で霊木をもって一刀三礼し薬師如来を御親作され、この地に堂宇を建立された。皇室御安泰と国家隆昌、万民の幸福祈願の道場とされ、現在に至る。
 本尊御自作の折に、傍らの松木より光明が輝いて、後年に五穀豊饒したことから霊松山地福寺と称するようになったと伝えられている。
 また後年、当山の本尊を信仰していた里人が、母乳に恵まれたことから、本尊を乳薬師として親しまれるようになったとも伝えられている。

堀痕

菊紋丸に二引両・・・戦国時代は(足利義昭・足利義輝・最上義光)

参考資料:遺跡ウォーカー、滋賀県中世城郭分布調査1

本日の訪問ありがとうございす!!


野村城 近江国(近江八幡)

2016年08月21日 | 平城

野村城

お城のデータ

所在地:近江八幡市野村町  map:http://yahoo.jp/fh38Iq
現 状:宅地・集落
区 分:居館
築城期:南北朝期
築城者:野村氏(蒲生氏の一族、堀内教氏か?)
遺 構:
目標地:野村神社
駐車場:路上駐車
訪城日:2016.7.25/2016.8.18
データベース「遺跡ウォーカー」の比定地
お城の概要

旧野洲郡北里村の野村集落にあったとされる平城で、詳細不明。

城郭関連地名「木戸」の地名も残る。

遺跡ウォーカーの比定地、野村集落内の野村神社の北側


足跡
・文明六年(1485)蒲生氏の一族、堀内教氏が不動明王を寄進
・文政七年(1824)西郷領主が石灯篭一基寄進


お城の歴史

『江源武鑑現代語訳』には

九月大

二日 右衛門督が勢州から夜毎加勢を呼び寄せて箕作城へ入れていると吉田出雲守が観音寺城へ注進する。屋形は浅井下野守祐政に、承禎父子の軍勢は八千程である、いくらでも勢州から加勢を呼び寄せてから攻めよ、そうすれば勢州退治が容易になるであろうと仰せになる。浅井は、この計画は必ずうまくいくと思われると申して、わざと箕作への加勢をゆっくりと入れさせる。

十九日 京極、朽木、浅井が観音寺城に出仕して屋形に申し上げるには、箕作の軍勢が一万二千になり、その上和田山の建部源八兵衛、吉田出雲守等も寝返り義弼に味方した、さらに勢州国司が鈴鹿越えで近日当国に入ると伝え聞いており、これ以上戦を引き延ばせば却って逆襲を招くことになり難しい状況となるであろうとのことである。屋形は、今こそ合戦の時である、それぞれの攻口を定めると仰せになる。

一 箕作表へは京極長門守高吉五千騎、浅井下野守祐政、備前守長政父子四千五百騎の合わせて九千五百騎である。箕作東口へは平井加賀守、進藤山城守、後藤喜三郎の三人で八千騎である。

一 和田山南坂へは澤田武蔵守、楢崎太郎左衛門尉、伊達出羽守、朽木宮内大夫、青地伊予守の五人で六千騎である。西坂口へは京極兵部大夫、蒲生右兵衛大夫両名で七千騎である。

一 勢州国司の軍勢への抑えとして君ヶ畠口へ山崎源太左衛門秀家、永田刑部少輔、山岡美作守の三人で五千騎である。

一 同様に国司の抑えとして鈴鹿口へ多賀新左衛門尉、和田和泉守、目加多摂津守の三人で四千三百騎である。

二十日 卯の下刻からそれぞれの軍が合図を定めてまず和田山に攻め懸ける。城中からは六千騎の軍勢が防戦する。卯の下刻から午の刻までの戦いで敵八百七十騎を討ち取り、味方は三百二十騎が討死する。午の下刻になって吉田道覚が城を出て、命を助けてもらえるならば城を明渡すと屋形へ申し入れる。屋形は、諸卒には罪はない、建部、吉田が切腹すれば兵卒は助けようと仰せになる。これを受けて建部、吉田は出家し味方の陣に降伏して再び屋形に申し上げる。屋形は、既に出家をしたのであれば助命しようと仰せになり和田山の城を受け取られる。建部、吉田の二人は屋形の菩提所である東光寺に入寺する。同日、箕作城に二方面から攻め懸ける。承禎父子は大手、搦手へ打って出て自ら采配を取り下知をする。下方三夢という者が堀で討死しそうなのを見て右衛門督が一騎で駆け下りてこれを助けたところ、味方の軍から右衛門督を討ち取ろうと浅井の家人で坂田十内という者が駆け寄り横槍を入れる。義弼は引き返して十内を馬上から掴み、箕作城の二の丸から数町の堀へ投げ入れる。このようにして敵味方が大手、搦手で同時に入り乱れて戦い、承禎軍は二千三百、味方は八百二十騎が討死する。武将は一人も討たれず午の刻から酉の刻まで戦う。承禎から軍使が立てられ開城する旨を申し入れるが、屋形は承諾されず承禎父子を討ち取るように諸将へ仰せ付けられる。これに対して京極高吉、朽木宮内少輔の両名が屋形に諫言し、一家を滅ぼしてしまうことはよくない、その上開城すると申し入れているのを承認せずその者を誅殺しようとするのは良将が強く嫌うところであると申し上げる。屋形は、どのようにでも其の方等の思うように任せると仰せになり、京極、朽木両名は箕作城を受け取って承禎父子を日野谷かいかけという所へ移す。この時の落書には次のように詠まれる。

をしかりしそのみつくりを後藤にかへて今はかうびんかいかけの城

元来承禎父子はこのような目にあう筈はなかったのであるが、六年前に後藤但馬守を殺害してからは屋形との仲が悪くなりついにはすべてを失うこととなった。実に屋形が幼少の頃から近江国の政務を預かり管領職まで手に入れたが、息子右衛門督が欲心を抱き屋形を滅ぼして国を奪おうと数年間企んだところついに天命に背きこのようなことになった。屋形も承禎父子には数年に亘り不義等が多くあったが、亡父が後見につけてからは偏に承禎公に慈父の如く礼を尽くされたので国人も尊敬し後見の義賢と申したものである。義賢は去る永禄六年に後藤を謀殺したため家を失ったのである。

二十一日 将軍並に織田上総介信長が総勢二万八千で本日卯の上刻に濃州立正寺を発ったと池田庄三郎が早飛脚を仕立てて屋形に申し上げる。午の下刻に観音寺城へ早飛脚が到着する。屋形は池田に対して、その旧功を思う所ひととおりでないと仰せになる。同日、将軍が江州柏原上菩提院に着陣されたと報告がある。信長は田中城に参陣したということである。

二十二日 将軍が桑実寺へ着陣されたと報告がある。信長は馬場に参陣したということである。酉の刻に屋形は観音寺城を発ち将軍の御迎のために桑実寺へ移られる。将軍は対面し、まず承禎父子のことを仰せになる。承禎父子が国の害となるのを知り一族といえども天下草創のためを思い追い払ったと聞き大いに心を動かされたということである。

二十三日 卯の刻に屋形が桑実寺を発ち観音寺城へ帰城される。未の刻に将軍が観音寺城に到着される。信長は武佐に着陣する。屋形は信長と評議をされ、一両日まずは人馬を休息させることになる。

二十七日 本日は吉日であるので将軍家が観音寺城から上洛される。天下草創の上洛であるため行列等を決められたところ先陣は信長、二陣は屋形、三番目に将軍家が出立することに決まる。そこで屋形が仰せになるには、吾は信長より若年でありさらに信長に対して既に慈父の礼を取っている、それだけでなく当家が代々天下草創に際して功を顕していることは世間で語られるところである、このため先陣を仕りたいとのことである。信長は、吾を慈父の如く思い礼を正されるのは非常に恥ずかしいことである、特に古例を引かれたように確かに佐々木家が天下草創に功を顕す例は古今に多い、と申す。そこで前陣屋形、二陣信長と定め本日酉の刻に観音寺城を出発される。

一 先陣屋形の軍勢五万六千騎  この備は十三備(実は江州の軍勢は三万五千騎であるという。軍勢を多く見せる計略である。)

  • 先手七手組(これは江州で代々先手を司る家である。)  目賀田摂津守、馬渕伊予守、伊庭河内守、三井出羽守、三上伊予守、落合出雲守、池田大和守   以上七人の軍勢五千騎
  • 二番備  浅井下野守、同備前守、高嶋越中守、朽木宮内大輔  この軍勢四千三百騎
  • 三番備  永原大炊頭、同筑前守、平井加賀守、楢崎内蔵介、鯰江又八  この軍勢三千四百騎
  • 四番備  京極長門守、同治部太夫、黒田日向守、坂田兵庫頭、水原河内守  この軍勢四千三百騎
  • 五番備  蒲生右兵衛太夫、後藤喜三郎、和田和泉守、種村三河守 この軍勢二千八百騎
  • 六番備  澤田武蔵守、種村大蔵大輔、永田刑部少輔、山崎源太左衛門尉、青地駿河守、朽木宮内大夫 この軍勢三千七百騎
  • 七番備  小川孫一郎、久徳左近兵衛尉、野村越中守、鏡兵部少輔 この軍勢二千五百騎
  • 八番備  平井丹後守、倉橋部右京進、赤田信濃守、宮川三河守、田中石見守、大野木土佐守、三田村左衛門佐、加藤佐渡守  この軍勢三千二百騎
  • 九番備  山岡美作守、礒野丹波守、箕浦二郎左衛門尉、多賀新左衛門尉  この軍勢二千三百騎
  • 十番備  今村掃部頭、堅田刑部少輔、大宇大和守、高橋越前守、尼子出雲守、森川長門守、狗丹後守、隠岐右近大夫 この軍勢三千百騎
  • 十一番備 屋形御本陣  旗本の軍勢八千騎
  • 十二番備 進藤山城守、同伊勢守、同尾張守、宮木右兵衛尉 この軍勢四千二百騎
  • 十三番備 松下若狭守、間宮佐渡守、阿閉淡路守、高野瀬十兵衛尉、堀伊豆守、水原采女正、吉田出雲守、建部伝八兵衛尉、

    河端左近大輔、大原大学助、木村筑後守、山内讃岐守   この軍勢三千八百騎     

一 二陣織田家の軍勢六万六千騎  以上十七備(実は四万二千騎である。江州と同じ計略である。)

  • 一番備 佐久間右衛門尉、同大学助、同刑部少輔、同左京進 この軍勢五千七百騎
  • 二番備 飯尾近江守、同隠岐守、織田玄蕃允 この軍勢三千二百騎
  • 三番備 水野帯刀左衛門尉、同大膳亮、簗田出羽守、佐々隼人正 この軍勢二千五百騎
  • 四番備 林佐渡守、池田庄三郎、毛利新介、梶川平左衛門尉、織田源兵衛尉 この軍勢三千騎
  • 五番備 柴田権六郎、前田又左衛門尉、徳川三河守 この軍勢四千二百騎
  • 六番備 木下藤吉郎、同雅楽頭、毛利河内守、織田造酒丞  この軍勢三千五百騎
  • 七番備 不破河内守、同彦三、織田上野介、坂井右近将監、中嶋豊後守  この軍勢二千八百騎
  • 八番備 明知十兵衛尉、山田三左衛門尉、蜂屋兵庫頭  この軍勢四千五百騎
  • 九番備 山口飛騨守、遠山河内守、岩室長門守、織田左馬允 この軍勢三千二百騎
  • 十番備 丹羽五郎左衛門尉、津田掃部頭、福冨平左衛門尉 この軍勢三千四百騎
  • 十一番備 佐々内蔵助、河尻與兵衛尉、野々村三十郎、澤田越後守、津田源八郎 この軍勢二千三百騎
  • 十二番備 織田家  旗本の軍勢一万騎
  • 十三番備 織田十郎左衛門尉、同美作守、同市令助、同左助、同孫五郎 この軍勢二千騎
  • 十四番備 森三左衛門尉、稲葉又左衛門尉、村井民部少輔 この軍勢二千百騎
  • 十五番備 氏家常陸守、稲葉伊予守、伊賀伊賀守(名字を後に改めて安藤という)この軍勢二千四百騎
  • 十六番備 村井民部少輔、同丹後守、嶋田所之助、奥平十内、加藤三右衛門尉、甲斐越前守、犬山越中守、名塚采女正、乾加賀守 この軍勢四千二百騎
  • 十七番備 織田孫兵衛尉、同主水正、丸毛伊豆守、山口半左衛門尉、岡部又右衛門尉、堀池主膳正、前田一学、小畠左馬允、丹羽想内兵衛尉、瀧野源八、寺田善右衛門尉、篠川兵庫頭、団平八、永井新太郎、森兵部左衛門尉  この軍勢三千四百騎

第三陣に将軍家近習の軍勢二千騎が続き、細川兵部大輔藤孝、上野中務大輔清信が五百騎にて二列に並び将軍を先導する。

本日未の下刻に将軍が三井寺観音院に着陣される。屋形の軍勢は大津、松本、馬場、茨川に陣を置き、先陣は山科の里々に陣取る。信長の軍勢は多野、勢多、石山、草津、坪井、目川に陣を置き、明日二十八日に京都に入るということである。戌の刻に江州七手組が粟田口へ押し寄せて陣を取ったところ三好笑岩の軍勢は攻めかかってくることもなく、それどころか味方の軍勢が強大であると聞いて三好一族等は近国の城へ引き篭もったと粟田口に陣取る七手組が申し上げる。三好一族の立て篭もる城を一々書状にて申し上げる。・・・・云々 

近江八幡の城について

 近江の国を舞台にした戦いが数多くあることを示すものとして「近江を制するものは天下を制する」という言葉も残されています。
戦に欠かす事の出来ない「城」は、滋賀県内に1300を越える数に及びます。この数は、都道府県別では全国で4番目の多さで、分布密度で見れば全国で最も高くなります。
 近江八幡市が属する東近江地域は鎌倉時代より活躍した近江守護の佐々木氏やその家臣が築いた城が多く、その築城技術の高さは一見の価値があります。今回はその中から代表的なお城を紹介いたします。

織田 信長   豊臣 秀次
▲織田 信長 ▲豊臣 秀次


近江八幡の城マップ


近江八幡市内の主な城跡
1八幡山城宮内町 12久郷屋敷西宿町 23馬渕城 馬渕町
2浅小井城浅小井町 13橋部城 倉橋部町 24牧村城牧町
3宇津呂館 中村町 14小森城中小森町 25円山城円山町
4岡山城(水茎館)牧町 15金剛寺城(金田館)金剛寺町 26安土城 下豊浦
5沖島尾山城沖島町 16田中江城 田中江町 27観音寺城(佐々木城)石寺、宮津
6沖島頭山城沖島町 17谷氏館(友定城) 友定町 28香庄館香庄
7沖島坊谷城沖島町 18長光寺城(待瓶割城)長光寺町 29金剛寺城 慈恩寺
8長田城長田町 19西宿城 西宿町 30常楽寺城(木村城)常楽寺
9小田城(高畠氏館)小田町 20野村城野村町 31平井館下豊浦
10北津田城北津田町 21船木城 船木町  
11北之庄城北之庄 22本郷城(久里城) 金剛寺町  

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1、遺跡ウォーカー、『江源武鑑現代語訳」、近江八幡の城、蒲生郡志、『琵琶湖湖岸・湖底遺跡分布調査概要』I

本日の訪問ありがとうございす!!


津田城 近江国(近江八幡市)

2016年08月13日 | 平城

津田城


遺跡ウォーカーの比定地 

お城のデータ

 

近江八幡市北津田町 map: http://yahoo.jp/9NOp1C

現 状:集落

区 分:平城

築城期:

築城者:

遺 構:石垣

目標地:前出のむべ家

駐車場:路上駐車

訪城日:2016.7.25

     

お城の概要

近江八幡市北津田町にあったされる、津田城だが詳細不明。

旧野洲郡岡山村の北津田集落にあったとされる平城。

北津田集落内の微高地に位置する。集落にある北津田城の平治の居館跡か?

津田氏(織田氏)発祥の地(南津田)

近江八幡市南津田町に津田親眞を顕彰する石碑が建立されている。ここが織田信長のルーツであるとか。
 信長は、織田家の嫡流以外の家には出身地の津田姓を名乗らせたという。

例えば津田信澄である。若き日、信長は家督争いで弟信行を殺害している。信澄は、この信行の息子である。

 近江国大溝城主であった津田信澄は、本能寺の変のあと、明智光秀の娘を娶っていたために信長の子信孝に殺害される。

信長の一族で、津田姓を名乗るのは、この信澄以外にも多くいる。

お城の歴史

詳細不明。


  

集落のグランドに「むべ」

  

不老長寿伝説
 
~天智天皇のむべなるかな~
 
蒲生野に狩りに出かけた天智天皇がこの地で、8人の子供を持つ大変元気で健康的な老夫婦に出会いました。
天智天皇がこの老夫婦に、「汝ら如何に斯く長寿ぞ」と長寿の秘訣を尋ねたところ、老夫婦は、「この地で取れる無病長寿の霊果を毎年秋に食します」と言いながら、ひとつの果実を差し出しました。それならば食べてみようと天智天皇もその果物を一口食べました。すると、「むべなるかな(もっともであるな)」と一言天皇は言ったのです。
 
この時に発した「むべ」という言葉がそのまま果物の名前の由来となりました。
そして、これより朝廷に毎年献上することになったのです。
 
 
10世紀の法典集「延喜式」31巻には、諸国からの供え物を紹介した「宮内省諸国例貢御贄(れいくみにえ)」の段に、近江の国からムベがフナ、マスなど、琵琶湖の魚と一緒に朝廷へ献上されていたという記録が残っています。
以後、北津田町は朝廷や幕府からの賦役の免除、献上の道中に帯刀するなどの恩典を受けました。献上は1982年まで続きました。天智天皇を祭神とする大津市の近江神宮へも1940年の創祀(そうし)以来、毎年献納を続けています。

参考資料:遺跡ウォーカー、城郭分布調査1、

 本日の訪問ありがとうございす!!


野一色城 近江国(山東)

2016年08月13日 | 平城

お城のデータ

所在地:米原市(旧坂田郡山東町)野一色町  map:http://yahoo.jp/2vAfA7

区 分:平城

現 状:八幡神社一帯

標 高:ーm   比交差:-m

築城年:織豊期

築城者: 野一色氏

遺 構:土塁・空堀

目標地:八幡神社

駐車場:八幡神社駐車場

訪城日:2016.5.12

         

滋賀県中世城郭分布調査『旧坂田郡』に野一色城の説明ある。

お城の概要

大原氏始祖重綱よりいでし、野一色氏の居館。近世に入り徳川氏に仕え功績により2000石を与えられ幕末に至る。

居館は三方土塁・空堀を巡らし、その外側にも土塁の残欠が認められる。

明治初期の大絵図に、その規模を知ることができる。また北東の鬼門の方に八幡神社存在する。

 

           

お城の歴史

『佐々木南北諸氏帳』には、「坂田郡 野一色 住 佐々木隋兵 野一色刑部・野一色 住 佐々木大原末 野一色男 介七」の名が見える。

『淡海国木間攫』には、「坂田郡 野一色村 野一色氏ハ大原源太郎重綱ヲ以テ祖トス、世々京極家・浅井家に属ス、頼母

之介ト云シ人ハ江北横山ノ城ニ於テ一番槍ヲ合テ高名ヲ躇ス、慶長ノ逆乱ニ働キアリ、記ニ載ス、孫流相続セリ」と記す。

野一色助義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

野一色 助義(のいっしき すけよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。中村一氏の家臣。通称は頼母

近江国坂田郡廼一色出身。中村一氏に家老として仕える。石高は8,000石。豪傑として知られる。

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの前夜に起こった杭瀬川の戦いでは、一氏の弟・一栄(一氏が合戦前7月に死去したため陣代)に従い 島清興軍と衝突。敵を追撃しようと橋を渡ったところで伏兵に遭い、これに猛撃される。

乱戦の中、金の三幣の指物をつけて、騎馬で手強く奮戦するも深田に足をとられ宇喜多氏の家臣の浅賀左衛門(左馬助)に討ち取られた。後から追いついた家臣の奮戦により、首は奪われずにすみ、兜塚(大垣市赤坂西町)に着用の鎧兜と共に葬られたと伝わる。

助義の首と鎧兜が埋められたと伝わる鎧塚(岐阜県大垣市赤坂西町)

家督は三男の義重が継いだ。次男・助重は大阪の陣で東軍に属するも戦死、四男・助忠は池田忠雄の家臣となった。

野一色頼母

近江出身の侍。1548-1600(天文17-慶長5)。佐々木支族というから南近江の六角氏に仕えていた。
六角氏の滅亡後は織田系の将校の家臣に、秀吉子飼の古参の中村一氏に仕え。中村一氏は四国征伐や小田原征伐とかの軍功により近江水口城主から駿府城主17万石になった。
 本来東海道の駿河といえば関東の家康抑えの重要拠点で中老職となった、一氏は浜松の堀尾吉晴同様に家康牽制の重要な役割を担っていました。
 一氏を困らせたのが東海道の付け根、尾張清州の福島正則と三河吉田(豊橋市)の池田輝政が家康への急接近。結果的に遠江掛川の山内一豊が家康に全面的にくらがえったことから若手大名がこぞって家康についてしまったのです。
 中村一氏は本来は前田利家を頼って親豊臣にいる人物でした。しかし関ケ原の2ヶ月前に他界、あとは中村家の家督を実弟の一栄に託す。
 野一色頼母はその侍大将として従っていましたが、中村家は当主が幼君の一忠だったこともあって常に戦陣の後方を拝す立場にあってなかなか軍功の先陣にありつけず、東軍が大垣城を囲んだ際に、到着した家康の御前の前で活躍しようと大垣西方の杭瀬川で西軍の島左近・明石掃部に対して有馬隊とともに戦いを挑み、西軍は“青田刈り”といって付近の兵糧となる稲を刈って東軍を挑発しておびき寄せました。 この挑発に乗った野一色頼母は中村隊を率いて深手にハマり敵の挟撃にあって敢え無く命を落とした。不幸にも東軍の戦勝前に討ち死になってしまいました。
 
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、ウィキペディア(Wikipedia)、佐々木南北諸氏帳、淡海国木間攫
本日の訪問ありがとうございす!!

淀古城2つ 【淀小畠城と淀藤岡城】 

2016年08月01日 | 平城

京都「淀古城」2カ所あった? 古文書から大学専任講師推論

                                                          【京都新聞 2016.8.1】

岡本雅男家文書から見つかった土地売券。1536年2月1日の文書で淀周辺の土地売買の様子が記されている(長岡京市提供)

 戦国時代の京都市伏見区の淀や納所の状況を表す古文書が、京都府長岡京市所蔵の「岡本雅男家文書」から、このほど見つかった。調査した大阪大谷大専任講師の馬部隆弘さん(40)は文書の土地売買の状況から、通説では納所にあったとされる中世の「淀古城」が実際は、「納所」と淀川の中州にあたる「島之内」の2カ所にあったとの推論を導き出し、専門誌「古文書研究」で発表した。現在の淀城跡がある島之内の開発が従来の見解よりも早い15世紀末までには進んでいたと想定し、地域史の見直しを問いかけている。

■納所「淀小畠城」と島之内「淀藤岡城」

 見つかった15通の文書は淀周辺の土地売券だった。特に多かった納所郷の売券からは文中に出てくる「小畠氏」が納所郷にあったとみられる荘園の下司(荘園の役人)を務め、納所を拠点としていたことが分かった。

 小畠氏が拠点とした納所の城は、後に管領細川氏が入った際にも「淀小畠城」と呼ばれ、その跡地には豊臣秀吉が城を造営している。通説では、島之内の開発に伴い、江戸時代に入って納所から島之内に城が移転したとされてきた。

 小畠氏以前には、石清水八幡宮の神人(じにん)(下級神職や住民)勢力とされる「藤岡氏」が「淀古城」に入城したとされている。馬部さんは当時の内乱(薬師寺の乱)で、参戦者が納所から淀小橋を渡って「淀藤岡城」に退却したとの記録が従来からあったため、藤岡氏の城は納所でなく、島之内と考えていた。

 馬部さんは、有力な神人だった藤岡氏が、その財力で当時からいち早く中州の開発を進め、島之内に「淀藤岡城」を築いていたと推察。小畠氏らの武家勢力は神人勢力圏の島之内に入れず納所にとどまらざるをえなかったと解釈し、納所の「淀小畠城」と島之内の「淀藤岡城」の二つの拠点が存在したと結論づけた。

 馬部さんは「戦国時代の淀でやりとりされた古文書は初めて出てきた。当時の淀は神人勢力中心の集落と武家勢力が治める地域と、城を核とする二つの世界が交錯する複雑な地域構造を呈していた。江戸時代初頭の淀築城、それを一元化するものだったと評価したい。文書の発見で淀の地域史の研究がさらに進む」と期待する。


唐川城 近江国(高月)

2016年07月08日 | 平城

お城のデータ

所在地:長浜市(旧伊香郡)高月町唐川 map:http://yahoo.jp/2x_TpS
現 状:竹藪・畑地・宅地分:平城 
築城期:織豊期
築城者:磯野右衛門大夫
標 高:106m 比高差:--m 
遺 構:土塁・曲廓・堀

目標地:唐川集落の赤後寺、綾の木の一本杉
駐車場:路上駐車

訪城日:2016.6.26

お城の概要

御神木「綾の一本杉」の先の川の橋の手前で路地に,この先の竹薮に二重の土塁が残存する。

涌出山には城郭遺構はないようで、独立した平山で標高195m/比高差80m、戦国期では独立峰は持て余す城地には大き過ぎたか?

お城の歴史

   永正15年(1518年)磯野右衛門大夫の居館。 (右衛門大夫は員詮(貞詮)の事と思われますが、嫡子の為員に磯野山城を譲り、隠居した場所なのか?

天文元年(1532年)に為員が浅井亮政に破れて討死し、磯野山城も落城していますが、この時に磯野氏は唐川に蟄居しています。その時の磯野氏の居館は決して粗末なものではなかったとされますので、この時の居館か?

綾の木の一本杉 

                      

『滋賀県百科事典』によりますと、概要は「伊香郡高月町唐川(からかわ)、伊香平野の中央に独立する湧出(ゆるぎ)山の南麓に、長照寺、日吉神社とならび建立。本尊は千手観音立像と菩薩立像で、両像とも平安期の作で重要文化財指定。 

通称コロリ観音とも称され、伊香郡三十三所観音第十五番札所である。近畿、北陸地方など広く信仰されている。 

 片桐且元の賤ヶ岳合戦勝利奉献状、彦根藩家老木俣土佐守永代詞納状と位牌、膳所藩医林家奉納水鉢と道標、江戸官医田沢氏の紺紙金泥法華経、その他絵馬多数をのこしている。(後略)(今井清右エ門)」とあります。

 

  

 馬かけ場跡か?

参考資料:滋賀県中世城郭分布、遺跡ウォーカー、近江の城

本日の訪問ありがとうございす!!