三大寺公民館前に、駐車の十数台可
三大寺竹中城は、飯道山をピークとする山塊の東麓に所在する三大寺集落の南方、途中開墾等により分断されてはいるが、山塊から続く舌状尾根の先端に築かれている。周辺は街道や集落が迫っており、改変が著しい。
頂部の平坦地は現在畑地として利用されているが、東西約25m×南北約13m、土塁はなく絶壁のような切岸で遮断されている。
東西には堀切abが確認できるが、特にaは切岸が新しく、明らかに後世の開墾または改良である。また南東は神社境内となり破壊されている。
三大寺の中世城郭
竹石城祉
竹中城祉
鵜飼屋敷祉
小山城址
奥谷城址
倉穂根城址
若林城址
福本屋敷址
奥出屋敷祉
三大寺の城址は、古地図、史料並びに伝承等により上記にあげました。詳細は、ふる里三大寺に掲載されています。
甲賀市には、滋賀県の城址の3分の1が集中しているとされています。今回その中で飯道寺城についての史料を紹介したいと思います。
年代順に先山中文書(山中道俊・同頼俊軍忠状案)に「飯道寺城」が出てきます。又,柏木源蔵人が拠っていたとも。建武四年(1337)四月二十五日、また「大乗院寺社雑事記」延徳四年五月十一日(1492)には「赤松・武田・武衛三頭、六角甲賀郡之番頭寺篭居山伏寺也」に関岡文書 永正七年(1510)般童寺(飯道寺)の衆徒に至るまで云々(ウンヌン)。以上の史料等により寺自体が、武装化を図っていたものと考えられる。
織田信長の朱印状が国立公文書館にあります。
知行を安堵する書状ですが、寺役を勤める条件が添えられています。信長・秀吉は、宗教武装勢力を弾圧しました。それは、比叡山・高野山などです。しかしまた復興に関与したのも元飯道寺僧知行を安堵する書状ですが、寺役を勤める条件。
三大寺竹中城(遠景)~山裾を30m入城口
住所 :甲賀市水口町三大寺字初明 map:http://yahoo.jp/PwBiuT
現在の状態 :山林・畑地
遺構 :曲輪・堀切
形式 :平山城
築城期:室町期
訪城日:2014.3.14
入城口
奥に土塁が見えるが・・・進めず
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)
本日も訪問、ありがとうございました